◆槍玉に上げた著者・著作リスト(ナンバーは発表した順)
(A)小説家の方々(8人8冊)
01・黒岩重吾『古代史の真相』 古代の多元的な王国の存在、近畿・九州・吉備・出雲・越・尾張・毛野を認めながらも、日本書紀の記事を参照して、倭の五王は近畿の天皇家となりますが・・・
04・邦光史郎『邪馬台国の旅』 通説をうまく取り込み、古田武彦説にも理解を示しながら、「邪馬台国の旅」を売れる本に仕上げた、とも見えなくもないのです。邪馬台国久留米説。
05・永井路子『異議あり日本史』 神武天皇と崇神天皇の二人のハツクニシラスや七枝刀などについての考えを紹介しています。
06・高木彬光『古代天皇の秘密』 名探偵神津恭介が挑んだ「邪馬台国宇佐説」「欠史八代」「謎の四世紀」「倭の五王」。その結果は如何であったでしょうか
09・松本清張『古代史疑』 『魏志』倭人伝の内容はいい加減なもので、陳寿の創作に負うところが多い、と中央公論誌で連載。その結果、多元史観の古田武彦の誕生となったのです。
10・金達寿『朝鮮』 古代における朝鮮と日本とのかかわりについて、意識的かわかりませんが、狗耶韓国および任那問題・白村江の戦・姓氏や族譜などについて述べていないのは残念。
13・豊田有恒『歴史から消された邪馬台国の謎』 SF作家であり、また、アニメの脚本、エイトマン、宇宙戦艦ヤマトにも携わっています。騎馬民族史観による「邪馬台国」の謎解きです。
39・木谷恭介『邪馬台国は甦る』 ミステリー小説「宮之原警部シリーズ」で有名。邪馬台国があった奈良盆地が、なぜ勝ち残れたのか、を奈良盆地の特徴から説明されますが・・・
(B)プロ歴史家の方々(28人30冊)
(B1)古事記や倭人伝についての論述
20・三浦佑之『古事記講義』 古事記の中から、翳のあるヒーロー物語を拾い上げ、それに焦点をあてて古事記を解説されます。古代天皇が長寿なのはなぜか、も解説されていますが、さて・・・
64・竹田恒泰『現代語 古事記』 古典文学関係図書としてはベストセラーを長く続けてます。小学生にも読める書きっぷりですが、ちょっと復古調の長い解説が気になる本でもあります。
16・佐伯有清『邪馬台国論争』 1980年第半ばごろから、古田武彦評価が変わります。それまでの古田説評価から、一転古田説無視に変わられた、「邪馬台国論争」論述です。なぜ変わったのでしょうか?
45・森浩一 『倭人伝を読み直す』 「乾隆欽定本」を底本として採用され、邪馬壹国の「壹」は「臺」の減筆の結果とされ、原文にあるは紵の減筆文字とみられる、とされますが・・・
53・榊原英夫『邪馬台国への径』 『魏志倭人伝』から「邪馬台国」を読み解こう、という副題で、帯に「邪馬台国の所在地論争に終止符を打つ」とあります、伊都国歴史博物館長さんの著作。
55・大塚初重『邪馬台国をとらえなおす』 考古学のオーソリティの先生は、鉄器の出土数=邪馬台国の論理には納得がいかないことがいくつかある、とおっしゃいますが、さて・・・。
(B2)弥生~古墳時代の論述
11・小和田哲夫『マンガ日本の歴史がわかる本』 三世紀当時、吉備、出雲など邪馬台国と同規模の国々が存在しており、奈良盆地にも強大な国ができつつあった。原大和国家三輪王朝である。
22・白石太一郎『古墳とヤマト政権』 玄界灘沿岸諸国のはるか南とされる邪馬台国が近畿の大和にほかならないとすると、この南は東と読み替えることが可能となる。狗奴国濃尾平野説です。
24・佐原真ほか『銅鐸から描く弥生時代』・従来の埋納説では説明できない・銅鐸消失は「マツリ」が変わったから・近畿地域の大型銅鐸に限って破砕行為がなされた、など興味ある意見が見える。
25・江上波夫『騎馬民族国家』 東京大学教授という立場で「騎馬民族国家説」を唱え、
黒岩重吾・松本清張・高木彬光・安本美典・豊田有恒など多くの亜流説が相次ぎました。文化勲章受賞者。
41・安本美典『大和朝廷の起源』 栗山周一氏という方の、年代論による卑弥呼=天照大神説という先行論文があるのですが、この本では、まるで自分が生み出したのかのような書き方・・・
48・小田富士雄『古代九州と東アジア』 この本は、著者が長年携わってきた九州や東アジアの、主として弥生期の遺跡についての論文などをまとめたものです。文献との照合に問題はないかな。
50・松木武彦『列島創世記(学士会会報)』 「科学としての歴史の再構築をめざしている」と言う著者が述べない問題が沢山あるのですが?「倭人伝」には銅鐸がないし気候も合わないのですが?
57・藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』 AMS炭素14年代測定法に基づいて弥生時代の開始を五百年遡らせた、国立歴史民俗博物館の研究において、主導的な役割を担なった方の弥生時代の歴史とは。
65・冨谷 至 「錯誤と漢籍」「臺」が「壹」と誤写されたのは、原典が「草書体」でかかれていたから、という現役京都大学人文科学研究所教授の論考は正しいのか?
(B3)奈良時代前後の論述
03・安本美典『倭の五王の謎』 「古代天皇在位平均年数」という新ファクターを持ち込み一見新鮮に見えましたが、倭王武=雄略に持って行くための小道具ではないか、と疑ってみた結果は?
12・田村圓澄ほか『磐井の乱』 磐井は開明的な大王だった、と田村さんは論じ、考古学は小田富士雄さん、文献学は山尾幸久さんが担当した、磐井の乱の解説の定本的なものでしょう。問題はどこに?
17・吉田孝『日本の誕生』 「旧唐書の倭と日本の国号の変更についての記事は、唐側の誤解であろう」と大胆に言い切っていますが、古代史専門家として通用するのかなあなど思ってしますが。
18・亀田隆之『壬申の乱』 日本書紀にある有名な「虎に翼を付けて放てり」について著者がどのような説明ができるのか、興味を持って読んでみました。が、説得力があるとは思えませんでした。
31・田中史生『越境の古代史』 本の副題は「倭と日本をめぐるアジアンネットワーク」と今風ですが、白村江の戦のあと、唐から2000人の人々が来国したことについてなぜ無言なのかな?
35・岡田英弘『日本史の誕生』 古代の日本列島は中国世界の一部で、中国は南船北馬の国であり、倭国は南船の文明圏であった。中国商人によって列島は文明化された。という岡田史観です。
37・大山誠一『聖徳太子と日本人』 古代のスター聖徳太子は実在しなかった。タリシヒコは推古女帝ではなく、聖徳太子でもあり得ない。実は蘇我馬子で天皇であったのでは、と論じられます。
51・都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』 神話や古代史の主要な舞台とされる島根、三重、奈良、宮崎の4県(福岡県を除外して)で設けた古代歴史文化賞の第1回大賞を受賞した本です。
63・石原道博『中国正史日本伝の内「隋書」編訳』 白文の読み下しは難しいけれど、右下の「ちんせん」の読みはひどいものです。間違いを岩波文庫に知らせたのですが、梨のつぶてです。
(B4)古代史全般にわたる論述
02・川添昭二『福岡県の歴史』 この本の古代史部分を読んで見て、一向に著者が言う「ロマンに満ちた郷土」を感じさせてくれません。古代の出土品のPR不足が目立ちます。
19・安本美典『虚妄の九州王朝』 この本は古田武彦氏に対する「悪罵・嘲笑・中傷」に満ちていて、古田さんの主張の何を批判しているか、の実体が見えてこないのです。
23・石川晶康『日本史B講義録』 河合塾日本史科講師。理性的に教科書を説明しています。 例:「600年に倭王が隋に使いを送ってきた。この時の倭王、倭の支配者は推古天皇ですけれどね。日本側の記録がないので詳しくはわかりません。」
42・小島毅『父が子に語る日本史』 小島パパは一生懸命に小島ジュニアに、日本人としての歴史観を伝えようと努力されています。仁徳天皇は自愛溢れる天皇であったとか。小島ジュニアは良きパパを持って幸せ???
47・大津透『天皇の歴史01』 天皇の歴史に関係ないと思われたのか、「狗邪韓国」「銅鐸文化」「多利思北孤とは誰か」「流求国伝」「二千人の唐軍の渡来」「筑紫君薩夜麻」「元号問題」『旧唐書』の「倭国と日本国」等については述べられていません。
52・北岡伸一&歩平『日中歴史共同研究報告書』 (中国委員発言)「正史」にある記述は正しい、という基本。同じ事柄に対する記述の齟齬は、後代のものの方が、先人の研究の成果が表れているのでそれに従う、という考えでした。
66・冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』 京都学派世話人として、日本国成立までの教科書の記述について確かめ、「正学」の立場から意見をのべているが、果たして正しいののでしょうか?
(C)ジャーナリストなどの方々の論述 9本
07・宮脇俊三『古代史紀行』 鉄道マニアの中央公論編集局長の古代史紀行文です。通説に従えないとおっしゃるところは、松本清張説や江上波夫説に傾いているように見受けられますが・・・
14・長部日出雄『天皇はどこからきたか』 宮崎の高千穂か、それとも鹿児島か、などの論議よりも、述べられる日本教的護憲論、こういう護憲説もあることを知る、ということだけでも価値はあるのでは。
28・いき一郎『邪馬台国筑紫広域説』 邪馬台国筑紫広域説の特色。・奴国は今の博多で、反邪馬台国・伊都国が女王国を統属・狗奴国は熊本県領域、投馬国は鹿児島県領域・邪馬台国は北部九州広域。
27・足立倫行『姿が見えてきた邪馬台国』 最近、箸墓古墳で卑弥呼の墓を思わせる研究の成果が相次いでいる。もしそうなら軍配は畿内説に。4週にわたり、邪馬台国への旅を週刊朝日が届ける。箸墓は卑弥呼の墓なのか。
32・朝日新聞(記事)『邪馬台国ってどこにあるの』 このジュニア向け記事は、「邪馬台国は纏向遺跡であり卑弥呼の墓は箸墓である」という歴博の春成教授の説で作られています。そこで、中学生の皆さんへ私の疑問をお伝えします。
34・文芸春秋『(記事)卑弥呼の墓はどこだ』 文芸春秋社は三人の著名な考古学者さんの座談会を催して、平成21年8月号に載せました。問題が多いのは、「邪馬台国論争」に関しての上田正明教授の解説でした。
36・足立倫行『覆されるか日本書紀(週刊朝日)』 正史「日本書紀」が最近の研究成果に揺れている。足立倫行氏が4回にわたって考察する。「神武天皇」「聖徳太子」「大化の改新」「伊勢神宮」。
40・室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』 我が国は半島の影響を受けて発展できたという「常識」に異議を唱え、半島に統一国家を築く「新羅」の基礎造りをしたのは、倭種であり、新羅も百済も倭国を文化大国として敬仰していた、と述べます。
43・齊藤光政『偽書東日流外三郡誌事件』 東奥日報記者の「偽書派」べったりの本でした。話が面白ければよい、というスタンスも見受けられ、当事者の反論は聞こえなかったのか、馬耳東風というところが目につく本でした。
(D)アマ歴史研究家の方々の論述(15人16冊)
(D1)セミプロの方々
15・井沢元彦『逆説の日本史』 逆説とは「一見真理に背いているように見えて、実は、一面の真理を表している表現」。この本からは、「一面の真理」をも窺い知れるところは全くないように思われますが??
26・宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』 1965年に発表された邪馬台国島原半島説。「古代、御笠川と宝満川とは水路で繋がり博多湾と有明海は船で往来できた」とされる。紀元前40世紀ではともかく、3世紀あたりでは無理だったようですが?
30・小林恵子『興亡古代史』 三国史記は半島ナショナリズムで書かれていて、史書は政治的な変動を、天変地異や動植物の異常の記述で暗示している。この二つの視点で見る必要がある。だから、広開土王の太子時代の名が談徳であり、談は讃(倭王讃)に通じ、仁徳にも通じる。つまり、広開土王が倭王讃であり、仁徳天皇である証拠、となるのです???
33・斎藤忠『倭国と日本古代史の謎』 雄略と継体天皇が同時期の人物であるという斉藤説の根幹は、陪塚の埴輪の製造年代測定結果に依っているようです。磐井の乱の当事者も雄略であり、後にその事跡を継体が奪った、と謎解きをされます。
44・関裕二『古代史謎解き紀行』 卑弥呼は高良山を根城にしていたが、出雲から来た神功皇后にやられる。 実はこれが、壹與である。「壹與」は「臺與」の誤記であり「トヨ」である。つまり神功皇后=トヨが卑弥呼を殺し、親魏倭王「臺與」(トヨ)となった。
(D2)アマチュア研究者の方々
08・武蔵義弘『抹殺された倭の五王』 都立高校勤務(日本史)。倭王讃は応神天皇説。タリシヒコは兄弟執政であり、系図からみると、彦人皇子であろう、とされます。九州王朝説は珍説とすげなく扱われています。
21・宮本禎夫『卑弥呼の国はマイナーだった』 魏使の壱岐からの行路が「南へ」という方向指定がない、宗像に上陸したとして、豊前赤村が卑弥呼の都説。伊都=怡土を否定するために、山田宗睦氏の洛陽口語を引用し、坂田隆氏の魏使岡垣上陸説を利用しています。
29・大芝英雄『豊前王朝』 古事記は元来九州豊前の王朝史であった。白江村の敗戦で、豊前王朝は天武や一部の王族が飛鳥に逃れた。日本書紀に引用ある、高句麗の日本世記の「倭国の東朝」が豊前王朝のことだ。
38・兼川晋『百済の王統と日本の古代』 半島と列島との古文献の断片情報を集積して越境的古代を描きだす。百済は「旧い多羅」がつづまってクダラ。多利思比孤はカバネ。倭王武は筑紫君磐井。タラシヒコは多羅から来た彦などなど満載。
46・生野真好『倭人伝を読むI.II』 孫栄健氏の「春秋の筆法」による『邪馬台国の全解決』という本からから影響を受けた、かなり融通の利く「生野流筆法」によって倭人伝を読み解く「邪馬台国糸島説」です。
49・角田彰男『邪馬台国五文字の謎』 邪馬壱国の発祥の地、壱岐と、邪馬壱国の都、伊都を推理小説的読み物に仕上げている。「壱岐=海の壱国の都」と「山の壱国の都=伊都」から、ヤマトの語源を探っているのですが・・
60・張莉&出野正『倭人とはなにか』 中国及び朝鮮の史書の「倭」に関する記述を渉猟し、魏志にある「倭」と「倭人」は書き分けられている、「倭」は朝鮮半島に存在した倭であり、「倭人」は日本列島に存在した倭人国である、と主張しています。邪馬壹国の所在については無言の本です。
61・高柴昭『邪馬台国は福岡平野にあった』 読んでの疑問点。・陳寿は邪馬壹国と書いたのではない。・陳寿は短里を知らなかった。對海国の北端への行路 ・会稽東治と会稽東冶問題に触れないこと。
62・伊藤雅文『邪馬台国は熊本にあった!』 寅七の故郷が邪馬台国である、というので読んでみた本。魏使達は二日市水道を越して南へ有明海へ出る。陸に上がって山鹿市の都(方保田東原遺跡)に着いたとされます。
68・木佐敬久『かくも明快な魏志倭人伝』 生前古田武彦さんは、木佐氏の「倭人伝は軍事報告書」という意見を木佐提言と高く評価されていたのですが、後年のこの邪馬壹国久留米説をどう受けとめるのでしょうか。
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