槍玉その32 朝日新聞記事 邪馬台国ってどこにあるの? 2009年6月13日 ジュニア版ワイド記事 批評文責 棟上寅七
新聞記事が読みにくければ巻末に全文を載せていますのでそちらをご覧下さい。
●はじめに
この朝日新聞の子供向けの「箸墓卑弥呼の墓?」という記事は、2009年5月に国立民俗博物館が箸墓を炭素14年代測定法で測定した結果、築造年代は3世紀後半で、卑弥呼の没年と一致する、という春成教授の発表を受けたものです。
このジュニア向け記事は、「邪馬台国は纏向遺跡であり卑弥呼の墓は箸墓である」、という春成教授の説に合う形で作られています。
この春成教授の説に基づくかのような朝日新聞の記事に対しては、文芸春秋2009年8月号で上田正昭・大塚初重・高島忠平のご三方による座談会で、そのあいまいさを批判されています。しかし、全体としては上田先生のヤマト政権近畿説に靡かされています。
なぜ4世紀に邪馬台国が消えたのか、ということにどなたも反論していませんし、絹の出土、鏡・剣・玉の3点セットの出土など、文献に合った出土があるのは北部九州で近畿には全く見られないことなど、九州論者とされる高島先生も主張されていません。
ともかく、考古学者さんたちの多くがこのような態度であれば、この朝日のジュニア版の「邪馬台国ってどこにあるの?」と、孫娘に問われてもすんなりと理路整然と簡明に答えることは、かなり古代史に詳しい方でも難しいのではないでしょうか。
古田武彦さんは、週刊朝日が昨年4回に亘って足立倫行さんの記事(姿を見せてきた邪馬台国)を、東京古田会の会報で2回に亘って反論され、改めて詳しく邪馬壱国博多湾岸国説を述べられています。しかし、子供に説明するには専門的過ぎるし、自分が孫に説明できるかどうか自問自答してみました。
子供にも分かるように理路整然と簡明に答えるためには、一度文章にしてみよう、自分の勉強も兼ねて、「邪馬台国は纏向遺跡ではないよ、ここですよ」という小記事に、まとめることにトライしてみることにしました。
●中学生の皆さんへ
わたしは上に載せている朝日新聞の記事を読んで、これはおかしいなと思いました。なぜ?という説明を皆さんにしてみたいと思います。
昔の国の姿
縄文時代から弥生時代へと人々の生活はつながっています。それぞれの時代に人々は、住みやすい、外敵から身を守りやすい場所に集まります。それは日本全国どこでも共通です。
出雲(島根県)であれ、吉備(岡山県)であれ、関東平野でもそうであったでしょうし、讃岐(香川県)でも筑紫(福岡県)でもそれぞれ集団で生活をしていたことには間違いありません。
今、奈良県で纏向遺跡の発掘が行われています。建物の基礎が出たり、木のお面が出たり、多くの土器などが出土しています。最近の科学的調査法、炭素14年代測定法という方法で調べたら、その遺跡の中でも最大の、箸墓古墳はしはかこふんが造られたのが3世紀後半という結果が、国立民俗博物館から発表されました。
中国の史書l魏志倭人伝という本に、卑弥呼の死んだ年と、その墓を造ったことが書いてあります。それでこの箸墓が卑弥呼の墓ではないか、と一部の学者が主張しています。 しかし、倭人伝には、朝日新聞の記事にもあるように、『気候温暖で、一年中生の野菜がたべられたこと』、からいっても、近畿地方ではなくて日本の西南部であろう、ということは容易に察せられます。
箸墓は卑弥呼の墓ではありえません
倭人伝にはいろいろ書いてあります。卑弥呼に錦を贈ったことや卑弥呼からも日本製の錦を贈ったことも書かれています。
錦とは絹織物です。この絹が遺跡から出ているのは福岡県北部地方が主で、近畿地方には全く出ていません。
このこと一つからでも卑弥呼の国が纏向遺跡ではありえない、福岡県北部地方の可能性が非常に高いといえます。
次の問題は箸墓が卑弥呼の墓の大きさと形の問題です。倭人伝には「径100余歩」と書かれています。箸墓は前方後円墳といわれるもので円部の径は150m、長さは280mあります。 この魏の時代の1歩の長さは25cm程度という数学者の説によりますと、墓の大きさは30mの円墳かもしくは方墳となり、大きさからいって箸墓ではありえないことになります。そのサイズの墓でしたらおおきさが合う古墳は沢山あります。
別の説では、漢の時代の長さの基準書から、1歩は6尺で1.8mという説もあります。卑弥呼の墓の大きさが、1歩1.8mであれば倭人伝に書かれている100余歩は180m以上とということなり、箸墓のサイズに近い、ということになります。これが箸墓が卑弥呼の墓説の人たちの主張です。
このような数学的な問題と思えることも、古代史の学問の世界ではなかなか決着が付かないのは不思議ですね。
もう一つの問題は「径」と倭人伝には書いてあることです。もし箸墓のように前方後円墳という、丸と台形の組み合わせの中国では見られない特徴のある形でしたら、径100余歩という表現にはならなかったことでしょう。このことだけでも箸墓が卑弥呼の墓ではない
証拠といえるでしょう。
邪馬台国はどこにあるのかなぜ分からないのでしょうか
邪馬台国への行路が分からないのは、読み方を間違えているからです。なぜ読み間違えたのでしょうか。
その原因の大きなものに地名比定<ということが上げられます。ひとつには、邪馬台国をヤマト国と読みたい、ということがあげられます。
8世紀以降、大和王朝が日本を代表する政権となったことは、中国の史書からも明らかです。しかし、それ以前が不明なのです。
中国の史書によると、朝日新聞の記事にもありますが、3世紀ごろは西日本の国々が集まって邪馬台国を造ったように書かれています。それが何故8世紀には近畿地方が中心になるのか、そこがなかなか理解できないことなのです。
8世紀に出来た大和政権の史書、『日本書紀』の記述には、邪馬台国の流れの政権の歴史はカットされているからです。
しかも、歴史書として残っているヤマト政権が造った『日本書紀』が書いているように、3世紀の卑弥呼の時代以前から、大和政権が日本全国を支配していた、と無意識のうちに思い込んでいるからなのです。
邪馬台国とは
邪馬台国と普通いわれていますが、魏志には邪馬壹国とあります。
ところが、魏志の2世紀後に書かれた後漢書には邪馬臺国とあるのです。臺の略字は台です。つまり邪馬壹国ではヤマト国と読めませんが、邪馬台国ならヤマト国と読めるということもあって邪馬台国と書かれるわけです。 倭人伝の行路記事では、不弥国というところまでは学者の皆さんの読み方は、ほぼ一致しているのですが、不弥国の次の邪馬台国が分からない、ということなのです。
なぜかといいますと、伊都国の斜め隣の国として「奴国」というわりと大きな国があるとされているのを、「ナ国」だ、昔から那の津とよばれている博多だ、と決めつけてしまっているので、邪馬壹国が分からなくなってしまっているのです。自然に読めば不弥国の隣の国は邪馬壹国=福岡平野の国となるのです。
今年、平城京遷都1300年ということで、奈良地方では活発に遺跡調査などが進められています。いままで述べたように、古代から人々は集団生活を送ってきたのであり、この地方の古代の中心の一つが纏向であったことは否定できないと思います。
しかし、卑弥呼の墓を箸墓であるということを証明するためではなく、本当に卑弥呼の国と墓のことを知りたいのであれば、今度の箸墓の年代測定に使われたのと同じ方法で、全国の古代の遺跡を調べ直すことが必要でしょう。
特に、絢爛とした出土品がある福岡の、須玖岡本遺跡・那珂八幡遺跡・立岩遺跡・吉武高木遺跡・一貴山古墳などが造られた年代を調べ直す必要がある、ということが分かった今回の国立民俗博物館の調査結果であった、と理解するべきと思われます。
ともあれ、朝日新聞社という日本一の新聞社の記事としては、ちょっとおそまつだったと言われても仕方がないようです。
(この項終わり)
【朝日新聞の記事全文】ニュースがわからん!ジュニア版ワイド
邪馬台国(やまたいこく)ってどこにあるの?
卑弥呼のいた国って?
大昔の日本に、女王・卑弥呼がおさめていた「邪馬台国」という国があったといわれています。でも、邪馬台国がどこにあったのかは、今も謎。有力な候補地として奈良県の纏向遺跡と、「卑弥呼の墓」ともいわれる箸墓古墳が話題になっています。
近畿?九州北部?二つの説< 大昔の日本のことを考えたことがあるだろうか。女王・卑弥呼と邪馬台国のことは、「魏志倭人伝」という中国の歴史の本に書かれている。約1700年前の3世紀に書かれた本で、「魏」というのは中国にあった国の名前で、「倭」が日本のことだ。
その本によると、2世紀後半の日本では、西日本を中心に小さなな国が対立して戦っていた。やがて邪馬台国を中心に、30あまりの国がまとまっていった。 そうした国々から推薦されて、2世紀末から3世紀初めごろに邪馬台国の女王になったのが卑弥呼だ。卑弥呼は朝鮮半島を通ってて魏に使者を送ったり、魏の皇帝からは金印や青銅の鏡などをプレゼントされたりして仲良くしていた。
本には、卑弥呼は3世紀の西暦248年ごろ亡くなったともあり、邪馬台国への行き方も書いてあった。書かれている通りなら、かなり南の太平洋上にあったとも考えられるけれど、どうも距離や方位に誤りがあたちょうだ。
いったい邪馬台国はどこにあったのか。江戸時代以来、似た地名なども参考にして、100ヵ所以上にのぼる候補地が考えられてきた。なかでも、有力なのが近畿地方か、九州北部のどちらかにあったとする説だ。どちらの地方でも、3世紀ごろの進んだ技術を証明するような遺跡がたくさん見つかっているからだ。
今年になって奈良盆地東南部にある桜井市の纏向遺跡とその近くにあって、「卑弥呼の墓」ともいわれてきた箸墓古墳で新しいことが次々にわかってきた。
多い謎 遺跡の発掘続
纏向遺跡は2世紀末から4世紀初めごろの遺跡で、1971年から続く発掘調査で東西約2㌔、南北約1.5㌔の範囲内に大きな集落があったことがわかっている。
この遺跡で3月、大きな発見があった。3世紀の初めの三つの建物が同じ方向を向き、きちんと並んで立てられていることがわかった。建物の周りでは約40㍍の長さの柵の列の跡も見つかり、宮殿や祭殿のような特別)な建物だったのではないかと考えられている。
兵庫県立考古学博物館長の石野博信さんは「三つの建物がきちんと同じ方向に並んでいるのは当時としては珍しい。かなり大規模だったと予想され、邪馬台国の都だった可能性が強まった」と言う。 纏向遺跡は、突然あらわれ、4世紀中ごろに急に衰えた都市の遺跡といわれている。これまで150ヶ所以上が発掘されたが、まだ遺跡全体の数パーセントしか調べられていない。
それでも見つかった土器の15パーセントは関東から九州の広い範囲で作られていて、広い地域と交流していたらしい。大きな建物や溝を造る進んだ土木技術もあり、強大な力を持っていたようだ。 纏向遺跡の範囲内には、どれも有力者の墓とみられている古い前方後円墳が六つある。なかでも、大きさなどから、研究者が注目してきたのが箸墓古墳(全長280㍍)だ。
この古墳を調べていた国立歴史民族博物館は5月に、古墳が作られたのは240年から260年ごろで、卑弥呼が死んだとされる時期と同じころとする研究の成果を発表し、大きな反響があった。邪馬台国があったのは、近畿地方では纏向遺跡と見る研究者が多い。九州北部だと、福岡県南部の久留米市付近や佐賀県東部の吉野ヶ里あたりが有力とされるけれど、九州では鹿児島や大分、長崎にも候補地がある。
各地での調査に注目してみよう。古代への夢がふくらんでくる。(天野幸弘)
学んでみよう
①魏志倭人伝
②纏向遺跡
③前方後円墳
① 魏志倭人伝には、卑弥呼のころの政治や戦乱のほか、当時の役所のしくみや人々のくらしのことも書かれている。たとえば、気候は温暖で、一年中生の野菜がたべられたこと。人々は長生きして、目上の人を尊敬していたこと。女性は、頭から貫頭衣という服を着ていたことなどだ。邪馬台国以外の国の名前も書かれていて、それらの国がどこにあったのかの研究も行われている。
② 纏向遺跡からは木の仮面やニワトリ形の埴輪などが出土している。木の仮面は日本でもっとも古いとされ、同じ場所からは木の盾の破片なども見つかった。盾を手に、面をつけておどったのかもしれない。ニワトリの形の埴輪は、儀式に使われていたらしい。ほかに布地を染める染料や化粧に使われるベニバナの花粉や、水洗トイレとみられる跡も見つかっている。
③ 前方後円墳は、古墳時代(3世紀中ごろ~7世紀末)を代表するお墓の形だ。土をもりあげてつくった山のような墳丘と四角い前方部からできている。時期や地域でいろいろな形の古墳があり、お墓の大きさが指導者の力を示した。箸墓古墳などのある纏向遺跡は、「前方後円墳発祥の地」とされている。
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