槍玉その6 『古代天皇の秘密』 高木彬光 角川文庫 批評文責 棟上寅七
高木彬光さんは、戦後の推理小説家の巨匠とも言われ、棟上寅七もなにを隠そう、大ファンの一人であります。
今話題のホリエモンによく似た、光クラブ事件をモデルに、”白昼の死角”など、高木さんの筆力で、戦後の日本の状況を、よく浮き彫りにされている名作といえましょう。
残念ながら、1995年に75歳を目前にして、お亡くなりになりました。
経歴などにつきましては、ウイキペデイア百科事典をご参照(クリック)下さい。
出身地の青森で、没後10年を祈念しまして、”ミステリーの魔術師 高木彬光 没後10年特別展”が2005年7月15日から8月28日までの期間、青森県立図書館で開催されたそうです。(高木さんの在りし日のお写真などをご覧になりたい方は、上記特別展をクリックして下さい)
その折には、この文庫本の解説をなさっておられる、山前譲さんが故人を偲んでお話をされ好評だった旨、地方紙は報じています。
その推理小説研究家の山前譲さんが書いていらっしゃいます解説に、 【前著の『邪馬台国の秘密』では邪馬台国はどこかという犯人探しという謎があったが、本書では、「これが謎です」といえる謎は、テーマが大きい為に代表的な謎はない。
しかし、推理を重ねて犯行を再現していく警察小説のような趣を持っていて、地味ではあるが、読み終えたあとには日本の謎を探っていったという満足感が得られる作品である】と。
確かに、この本の中には沢山の古代史の謎の数々が挙げられ、病院に入院中の、名探偵神津恭介がその謎を、小説家の松下研三と若い女性歴史学者の二人を助手にするような格好で、一緒になって解いていく、という設定になっています。
この入院中の謎解きを高木彬光さんは、ベッド・デテクティブなる和製英語を前々作『ジンギスカンの秘密』以来使っていらっしゃるようです。
推理小説の世界では、今回のように、探偵は自ら動かず、もたらされた資料に基づいて謎をを解いていく、というジャンルがあります。一般に安楽椅子探偵ものと言われているようです。
有名なのは、オルツイ男爵夫人の創造した『隅の老人』(The oldman in the corner、1906)でしょう。また、ベッドに骨折で入院しているスコットランドヤードの警部を主人公にした、ジョセフィン・テイの『時の娘』(The doaughter of Time、1951)があります。
私は、英語には弱いのでどなたかに教えてもらいたいのですが、ベッド・デテクティブは、ベッド調査員と受け取られそうな気がしますが、私が間違っているのでしょうか。
閑話休題
先述のようにこの本の中には盛り沢山の”謎”が上げられています。
☆邪馬台国はどこにあったか 宇佐説
☆九州勢力が東進したのか 応神天皇東遷説(神武天皇東征はなかった)
☆高天原はどこか 第一次高天原は朝鮮半島 第二次は福岡県甘木地方
☆出雲の国譲りとは 仁徳天皇・応神天皇同一人物説。
☆神功皇后の三韓征伐は史実か
☆アメノヒボコやツヌガアラシトなどの朝鮮半島からの渡来人と大和朝廷との関係
☆宇佐八幡と大和朝廷との関係 宇佐は大和朝廷の母国的なもの、との説
☆謎の四世紀、邪馬台国は消滅したか 中国の史料には4世紀の倭国の記事がない。この時期に邪馬台国が消滅し大和に移ったとする。
☆一年二倍年暦と倭の五王 応神・仁徳の両天皇は同一人物で、倭王讃とする。倭王武は雄略天皇。
☆日向と天孫降臨 高天原甘木説で日田に移動。日田から宇佐に移動した、とする。
☆渡来人の王はいたか 否定説
☆東日流三郡誌は史実か 長髄彦(忍熊彦)の兄安日彦(香坂彦)は東北へ、との説
全体において、邪馬台国宇佐説をとり、邪馬台国が応神天皇の時代に東遷説 に話を発展させ、安本美典さんの「高天原甘木説・一年二倍年暦・地名の移動」と合体させることで、謎解きとされているようです。
近畿地方中心に花開いた、ドウタク文化と、先住王朝についての考察は全くなさっていないのは、どうかなあ、と思います。(例えば荒神谷遺跡からの出土品について、多量の銅剣の出土と共に、銅鐸も多数出土しています。銅剣については述べられていますが、銅鐸は全く無視されています)
しかし、ご自分でも自信なかったのでしょう、次のように結論付けされています。
17章長髄彦の正体 のところで、ワトソン役の松下研三の口を借りて”古代日本史の復元図”として以下のように纏めていらっしゃいます。(『古代天皇の秘密』 角川文庫308頁)
★朝鮮半島から、天つ神を奉ずる人たちが倭人集団の統率者として北九州へ乗り込んでくる。
★そして、物部氏を中心とする集団が大和に連合王国をつくる。
★北九州では狗奴国を称する熊襲の圧迫を受け、甘木付近にいた天っ神の一団は日田を経て豊の国に移る。
★三世紀の頃、邪馬台国として魏使の到来を受ける。
★一方、朝鮮から渡来した天の日矛の一族は、関門海峡の西に伊都国を建てる。
★以後、東進し、但馬の出石に王国をつくり、近畿地方北部に勢力を広げる。
★邪馬台国では、狗奴国との緊張を避けようとする一派が、卑弥呼の死を契機に脱出し、大和王朝に合流する。
★これが崇神天皇と熊襲と同族の大伴氏だ。
★この崇神王朝は、ヒボコ系の吉備国の力で独立王国の出雲を支配下に置く。
★四世紀の初め、景行天皇は狗奴国の残存勢力を討つため、九州を巡回し、耳納の地で朝鮮系の美女の八坂入姫との間に五百木入日子をもうける。
★その二代後、仲哀天皇と神功皇后は筑紫に出陣し、天皇は現地で亡くなるが、神功皇后は朝鮮へ渡る。
★帰国後、九州で応神天皇を産むが、大和への帰還をためらっているとき、五百木入日子の子の誉田真若が後盾になってくれる。
★真若は宇佐女王との間に生まれた三人の娘を応神天皇の后妃とし外戚的な立場から河内王朝をもり立てていく―――
そして、最後の締めくくりに、松下研三にこう言わせている。
「これから、古事記などお目にかかったこともない、中学生くらいの新人類といわれている人たちが読んでも判る、日本古代史を纏めて、という注文なのですから大仕事です。」
とありますが、この”古代天皇の謎”が上梓されたのが1986年で、高木さんの66歳の時です。1995年9月にお亡くなりになられるまでに、お時間がなかったのか、はたまたご自分でも、無理な筋書きと思われたのか、高木彬光著日本古代史が世に出ることはありませんでした。
当研究会として、この本が中途半端な推理小説であっても、その中に常識的にみておかしい、純朴な若い読者に誤った知識を植えつけるのではないか、と思われる諸点をあげ、研究会の研究対象としました。
(A) 邪馬台国宇佐説。
(B) 欠史八代(神武~開化の各天皇後世造作説)
(C) 謎の四世紀
(D) 一年二倍年暦と倭の五王
このうち、(B)につきましては、槍玉その5の”二人のハツクニシラス”で、崇神天皇と神武天皇の名前は同じではないことを論じ、このことで神武天皇を後代の創作とする証拠にはならない、と考証しました、ので改めて述べることはやめます。
又、(D)につきましては、槍玉その3で、安本美典さんの倭の五王の謎を検討し、「倭の五王」たちを近畿の天皇に比定することの誤りを論じました。
安本説と高木説では、倭王讃の比定が崇神天皇と応神+仁徳天皇との違いがあります。この点につきましては、別の槍玉で、高木さんと同様の考えを述べていらっしゃる先生を、俎上に上げる予定ですので、今回は割愛することにします。
従いまして、(A)邪馬台国宇佐説と、(C)謎の四世紀について検討を進めることに致します。
(A)の邪馬台国宇佐説は、高木彬光さんの神津恭介物の 『邪馬台国の謎』 1973年で発表されています。従って、邪馬台国が宇佐であるという為の、小さなところの論証は今回なされておらず、概略が述べられているに過ぎません。
しかし、その中で、宇佐に邪馬台国をもってくる為に、常識的ではない『魏志』倭人伝の解釈をなさっています。
その第1は、壱岐からの上陸地点の問題です。倭人伝に、壱岐から次の上陸地点が1000余里とあるから、松浦半島では近すぎる。朝鮮半島~対馬間と同じ1000余里の距離を探し、夏に卓越する、対馬海流に乗って、福岡県宗像市の神湊に魏使は上陸した、と推理されています。
2世紀ころの古代の船は、高野槇の大木から削り出した刳り舟をベースにしたものであろう、と推定されています。(古代の船の復元・実験航海など、近年盛んに行われています。著作権の関係で、写真の掲載は遠慮しますが、興味ある方は、『古代の船』のキーワードでインターネット検索されますと多くの古代の船の情報を見ることが出来ます)
槍玉その4邦光史郎さんの『邪馬台国の旅』で指摘しましたように、海路は陸路に比し危険性が高いから、なるだけ短い航路を取った、と見るのが常識でしょう。
おまけに、おそらく海を見たこともなかった中国のお役人をお連れするわけです。
壱岐から松浦半島の最短距離は25kmくらいで、天候によっては肉眼で見える距離です。それを、倭人伝の距離表示に合わせて、遥かかなたの宗像に着陸地点を決めるのは、と常識的に見ておかしいと思われます。
その第2は、距離の問題です高木彬光さんは、魏志の1里を150mと推定されて、神湊以降の陸路の地名(国名)比定をされています。これは、そうしないと宇佐まで届かないからと思われます。これは古田説の1里の約2倍の長さです。
『魏志』に記載されている距離について古田武彦さんの、『「邪馬台国」はなかった』その他の著書で、詳細に検討され、魏志の1里は76~77mとされています。
この論証を記すことは煩雑ですが、『魏志』倭人伝の道程記事が ”宇佐には届かない” 証拠になることですから、野津先生の1里150m説の唐不当を検討しなければならないのですが、その野津先生という方の関係論文が見当たらないのです。
この件について「棟上寅七の古代史本批評」というブログでグッチっています。上記「宇佐には届かない」をクリックしてご参照ください。
また、唐津から糸島半島に海岸沿いに行ける道が無い、と断じていらっしゃいます。現在より10m海水面は高く、海岸沿いに道は無かった。だから、壱岐~唐津~糸島 というルートはあり得ない、とおっしゃるのです。どうもまやかしがあるような感じです。
縄文期の海象について、東大の松井孝典教授によりますと、20万年前頃は海退の時期で、対馬・壱岐と九州は地続きだったそうです。
しかし、6000年前ごろは海進の時期があり、縄文海進と名付けられているそうですが、現在の海岸線に近くなった、ことが述べられています。
どうも、高木彬光さんの”海水面10m高かった説”は眉に唾しなければ、とも思うのですが、しかし、高木彬光さんが主張されるように、仮に10m海水面が高くても、北陸の親知らず子知らずの海岸ならばいざ知らず、福岡県二丈町の海岸はそれほどの険しさは無く、海岸沿いに、たとえケモノミチ風な道でも、玄海灘の海を、丸木船に毛の生えたような船で、航海するより、歩行の方が、より安全であるでしょう、というのが当時としては、常識的な判断とみてよいでしょう。
ところで、邪馬台国宇佐説の何と言っても致命的なのは、大分県の宇佐市は、北が周防灘に開けていることです。
仮に、邪馬台国=宇佐に魏使が着いたとしましょう。魏使は、東には海がある、と報告しています。しかし、北が海に面しているということは書いてありません。魏使が玄界灘を渡ってきて、穏やかな周防灘を見て何らか書き残すのではないか、と思います。
高木彬光さんは、魏使がつい書き落とした、ということにしたかったのでしょうか。
高木彬光さんも、宇佐地方に考古学的な出土品が少ないのは気にされているようで、宇佐神宮の亀山古墳が径80mであり倭人伝の径100余歩に合うから、卑弥呼の墓であろう、発掘されて親魏倭王の印が出ればよいのだが、とおっしゃっています。
無理に、宇佐=邪馬台国と比定し、そこから東遷という無理を重ね、その結果、この本に”本当らしさ”が希薄になったことは否めないようです。
(C)の謎の四世紀について、高木彬光さんは、「中国の史書に、266年の邪馬台国の台与の朝貢記事より、421年の宋書の倭王讃の記事の間、邪馬台国や倭国の記事が無い。邪馬台国はこの間に消滅したか、他の国に吸収されたかのだろう」、という前提で論を進めています。そして、邪馬台国が狗奴国からの圧迫で、宇佐から近畿に東遷した、という説を展開されています。
これは、高木彬光さんに限ったことではありません。この四世紀の謎、つまり この歴史に邪馬台国とか倭国が中国の史書に現れない、ということに乗じて、『騎馬民族説』・『応神東征説』など数多くの説が誕生しています。
本当に倭国などの記事が、外国の史書などに出ていないのでしょうか。
4世紀前後の、”倭国”についての外国記事を中心に、年表にしてみました。
西暦 |
記 事 |
出典先 |
記 事 内 容 |
|
266 |
壱与 |
晋朝起居注 |
朝貢記事 |
|
280 |
(呉滅亡) |
三国志 |
晋による統一 |
|
316 |
(西晋の滅亡) |
三国志 |
東晋・五胡十六国いわゆる南北朝時代に入る |
|
318 |
(東晋成立) |
三国志 |
’ | |
367 |
卓淳国 通交始め |
百済記 |
倭国使者 斯摩宿彌 |
|
372 |
百済王 |
銘文 |
嶋王から倭王旨へ七支刀献上 |
|
382 |
対新羅戦争 |
百済記 |
倭国 沙至比跪を派遣 |
|
391 |
高句麗ー倭 侵入 |
高句麗王碑 |
以後 戦闘状態 |
|
400 |
倭百済 新羅侵攻 |
高句麗王碑 |
度々の倭の侵入 |
|
402 |
倭ー新羅 講和成立 |
三国遺事 |
王子未斯欣 倭の人質 |
|
414 |
高句麗戦勝記念 |
高句麗王碑 |
広開土王記念碑建立 |
|
419 |
(仁徳天皇即位) |
日本書紀 |
(即位年は推定) |
|
420 |
(宋成立) |
宋書 |
東晋滅亡 |
|
421 |
倭王讃 |
宋書 |
詔勅 倭よりの朝貢 |
|
479 |
(宋倒れ斉成立) |
南斉書 |
倭国伝 漢以来の倭国の存続を記す |
|
4世紀の中国は南北朝時代で各王朝がめまぐるしく興亡しています。
しかし、百済記や高句麗の有名な広開土王の碑文などに『倭国』についての記事は、れっきとして存在しています。
古田武彦さんは、その著書”邪馬一国の証明”の中で、「謎の四世紀」の史料批判 として 角川文庫版135~154頁 で詳細に考証を進めています。
それによりますと、上記の中で最も重要なのは、南斉書の倭国伝の証言とされています。
南斉書倭国伝「倭国。帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已に前史に見ゆ。建元元年、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ」
つまり、倭国は、漢の時代の女王国の時代から、宋によって安東大将軍に叙せられた倭王武に至るまで、ひとつながりの王朝と認識されているのです。
倭国としては、戦乱の南北朝時代の終結、宋王朝の成立を見て、倭王讃が通交した、ということが上の表からみて、常識的に理解できます。
高木彬光さんは、この『古代天皇の秘密』で結果的に何ら謎を解くことも出来ず終わっています。
古代には沢山の解かれていない謎がある、ということを、読者の皆さんに興味を持たせるような本の構成は流石だと思います。
しかし、もともと無理な邪馬台国宇佐説を、大本に据えての古代史を語ろう、というのは、いかな神津恭介の神業的な推理力でも及ばなかった、と思われます。
古事記・日本書紀・旧事記・風土記など国内の史料の解析を如何にひねくっても無理なものは無理なのでしょう。
この本の最後に参考文献が沢山書かれています。古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』も読まれているのだなあ、と感じるところが、何箇所もあります。
古田さんの著書は、”文献”に値しないと思われたのか、参考文献に記載されていません。これは、高木彬光ファンであると同じく古田武彦ファンであります、棟上寅七としましては、古田武彦さんに対して失礼なのではないか、と思いました。 (この項終わり)
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