槍玉その27 週刊朝日連載「姿を見せてきた邪馬台国」 2008・10.31~11・21 足立倫行 批評文責 棟上寅七
はじめに
足立倫行さんとは?
Wikipedeia辞書で「足立倫行」さんを検索すると詳しくでています。
簡単な略歴は次のようです。1948年生まれ。早稲田政経学部中退。平凡パンチ記者から現在はフリーで、環境や庶民の問題をテーマに書くノンフィクション作家。月刊誌「望星」で「団塊世代の転進と再生」という連載対談を掲載中。
この連載記事の内容
この週刊朝日の連載記事を読んでいらっしゃらない読者のために、まず、内容をかいつまんでお伝えします。
最初にこの連載の意味というか方向を示すような前書きで始まります。
【映画「まぼろしの邪馬台国」の公開も迫り、邪馬台国への関心が高まっている。古代史最大のミステリー。畿内か九州かの論争は江戸時代から続く。ところが最近、奈良県の箸墓古墳で卑弥呼の墓を思わせる発掘や研究の成果が相次いでいる。もしそうなら軍配は畿内説に。4週にわたり、邪馬台国への旅をお届けする】
第1回(10月31日号) 箸墓は卑弥呼の墓なのか
纏向遺跡の中の箸墓古墳の説明。被葬者は第8代孝元天皇の姉ヤマトトトヒモモソ姫であること。彼女が巫女だったこと。倭人伝の云う卑弥呼は彼女ではないか、という説が根強くある。但し、出土する土器の年代があわないので今までは重要視されていなかった。
纏向遺跡は、縄文時代の遺跡が無く扇状地に突然現れた。強い政治的な意図で作られた都市である。倭人伝がいう、宮室や宮殿はまだ発掘されていないが、いずれ出てくるだろう。当時の超貴重品のベニバナの花粉が大量に発見され、中国との密接なつながりを示す。
倭人伝の説明が入る。倭王卑弥呼と邪馬台国について書かれている、古代の日本を知る殆ど唯一の手がかりである、が、不正確な箇所が少なくない。そこで、不正確の例、として「南至邪馬台国水行十日陸行一月」が上げられる。記述通りに読むと太平洋上に行ってしまう。
畿内説九州説の百家争鳴状況を打破したのが、小林行雄の三角縁神獣鏡の同笵鏡(同じ鋳型で作られた鏡)理論で畿内説とした。以後畿内説が有力となり、吉野ヶ里遺跡の発掘や、中国の学者が三角縁神獣鏡は中国には出土せず、魏朝から卑弥呼が貰った鏡ではありえない、などということもあったが、現在でも畿内説が考古学者の間では有力である。つまり3世紀半ばに西日本を統一するような王権が存在し、それが現在の皇室となる。
最近のビッグニュースとして、炭素14年代測定法での箸墓の築造年代が3世紀半ばとなり、卑弥呼の死亡年代と一致した。この測定方法について、研究室と現場では受け入れるのに違いがあるようだが。
◆第1回の問題点
箸墓=卑弥呼の墓説の問題点を取り上げていない。(『魏志』倭人伝の記述によれば、卑弥呼の墓は、径=円墳、100余歩=約30m である。箸墓は長辺280m円部径150mであり合わない)
モモソヒメ=卑弥呼説の問題点も取り上げていない。(『日本書紀』によれば、モモソヒメは天皇の娘であり、女王でもない。卑弥呼は王の娘でなく周りから推戴されて女王になった)
紅花の花粉の出土を中国との密接な関係があった証拠とされる。(倭人伝に出てくる絹織物の出土が北部九州では多いのに近畿では皆無ということへの言及なし)
倭人伝の「南至邪馬壹国水行10日陸行1月」の記事で、この通りなら太平洋に行ってしまう、としていること。(この記事は、帯方郡から邪馬壹国までの総距離であり、邪馬壹国=北部九州とすれば実際と合っている)
小林行雄さんの三角縁獣神鏡の同笵鏡理論が破綻していることを述べている。(それにも関わらず、三角縁獣神鏡の同笵鏡理論に拠っての近畿説が依然力があることへの疑問がない)
第2回(11月7日号)
卑弥呼から始まるヤマト政権
箸墓の被葬者は宮内庁によって「ヤマトトオヒモモソ姫」とされているが、日本最初の巨大前方後円墳であり、卑弥呼の墓とも伝えられている。『日本書紀』が伝える箸墓伝説を紹介している(略)。
次に、大阪府和泉市の池上曽根遺跡の紹介がされる。そこでの卑弥呼の館の模型が精巧にできていることなどが紹介される。
箸墓=卑弥呼墓説(モモソ姫=卑弥呼説)の考古学者白石太一郎さんの説、大和の国々が卑弥呼を立ててヤマト政権を立てた、をかなり詳しく紹介されている。(狗奴国=尾張説など、この白石説は、ホームページ新しい歴史教科書(古代史)研究会で紹介し批判しているのでそちらに譲り省略)
白石説とは若干ニュアンスの違う寺沢薫さんのヤマト王権発達史が紹介される。寺沢説は西日本の国々(吉備・出雲・北部九州)が纏向の卑弥呼を立て、纏向に新しい都を立てた、しかし箸墓は年代的に卑弥呼の墓ではありえない、という説。
◆第2回の問題点
箸墓は宮内庁によってモモソヒメが被葬者としている。(しかし宮内庁が箸墓の地下の調査を拒んでいる問題について触れていない。)
池上曽根遺跡卑弥呼の館の模型が精巧に出来ていることをのべるが、卑弥呼とこの曽根遺跡との関連については何ら述べないのは何故か。(全く卑弥呼と関係がないのに卑弥呼の館の模型がある、ということへの疑問が湧かなかったのか)
寺沢さんが「箸墓は卑弥呼の墓ではない、年代的に合わない」という発言を紹介している。(しかし、どうしてそう云えるのか、C14法を信じないのか、という突込みがない)
第3回 邪馬台国のルーツ、吉備と出雲
倉敷市の楯築弥生墳丘墓の説明がある。奈良の箸墓古墳などの前方後円墳の原型とみなされていること。岡山大学の松木武彦さんは、岡山のもっと大きい川があるのにどうしてこの足守川流域が吉備の中心になったか、ということについて「大河の氾濫は当時の人の手に負えなかったから」という説明も載せている。
その出土品の圧巻は、32kgもの水銀朱、と記す。この古墳で首長霊継承の祭祀が行われ、そのとき使われた特殊器台や特殊壷が、約100年後、いくつもの要素が卑弥呼の時代の前方後円墳に受け継がれた、とする。
松木さんが、石から鉄へと基幹資源が交替し、鉄資源の争奪が弥生時代を終わらせた、という説を紹介している。ただ、松木説は、白石説のように近畿連合対北部九州連合の戦争説はとらず、各地域で特定の首長に権力集中がおきた、とか、倭国王帥升が、この楯築墳丘墓の被葬者ではないかとする、説も紹介している。卑弥呼が3世紀に倭国王であれば、その前の「倭国大乱」の前の倭国王は年代的に帥升となる。箸墓に吉備色が多いのはその証拠とする。
次に、出雲の西谷墳丘墓、いわゆる四隅突出型墳丘墓の紹介に移る。時期が楯築と同時期で、特殊器台・水銀朱など吉備との文化的共通点のあることが説明される。加茂岩倉や荒神谷の銅鐸・銅剣の大量埋納の後に、このような四隅突出型墳丘墓が作られたことは、異なった文化を持つ集団間の争乱があったのではないか、という島根大学の渡辺貞幸教授の説を紹介する。
権力集中のシステムは、出雲の方が畿内よりも早く完成した。その後、ヤマト政権の弾圧があったが、6世紀中ごろ、出雲独自の前方後方墳が作られていく。出雲がヤマト政権から特別扱いにされていたのは確か、という渡辺説の紹介がある。
◆第3回の問題点
吉備・出雲共に弥生初期の考古学的出土品の内、九州の銅矛、近畿の銅鐸、その間で双方の文化が混在していた地域、という全体的な認識が示されない。墓の外面的な形状からのみの考察に留まっている。
第4回 九州説、三つの視点
三つの視点として、吉野ヶ里・伊都国・志賀島の金印を取り上げている。
吉野ヶ里、建物が立派すぎ生活観がない、とする。七田さん佐賀県教育庁の調査主任に、特色の説明をさせる。中国と同様の城郭都市、北の方位重視、市と倉の配置、しかし鏡の出土は少ないが、周辺地域に大刀や鏡の出土が多いことなど。しかし、邪馬台国は久留米方面ではないか、後裔と思われる磐井が、北部九州を支配下に置き、外交権も握っていた(七田説)。
次の伊都国の三雲遺跡・井原遺跡・平原遺跡などの伊都国王の代々の遺跡の説明がある。また、その出土品の豪華なことも述べられる。しかし、実際の遺跡跡はみすぼらしいく、墓も小さな方形墓に過ぎない、と述べる。國學院大學教授柳田康雄さんの「伊都国中心の倭国が2世紀末に纏向に移動し邪馬台国になった」という東遷説の説明がある。
また、現在で九州説を唱えている人は少ないが、その一人佐賀女子短期大学学長の高島忠平さんの九州説を紹介する。北部九州のエリアの30国(後の郡程度の国)をまとめたのが邪馬台国の卑弥呼である、という説。近畿はまだ銅鐸を祭具とする縄文的社会であり、鉄の遺物の出土が極めてすくなく、纏向が邪馬台国ではありえない、という説。
又、先の柳田説では、倭国王帥升は伊都国の王であり、1世紀ごろからたびたび東方進出を企てた。その痕跡が、瀬戸内や近畿内陸に残る防御的な高地性集落である、ということや、伊都国の王から、纏向の邪馬台国の卑弥呼に引き継がれた、と柳田説紹介。この柳田説は、寺沢説とも共通していて魅力的だが、目の前の貧弱な方形墓から壮大な歴史の流れを紡ぎだすことはできなかった。
志賀島の金印についての真贋論争について触れ、そして、邪馬台国論争は、現在も発掘調査が続けられていて、現在進行形である、とされます。文献解釈の際限ない迷路に踏み込まないよう、今回は発掘結果に基づく考古学者の意見のみを追てきた。それでもうっすらと見えてきた道筋が見えてきた。キーポイントの一つ、倭国大乱の原因が今後の考古学調査で補強されれば、邪馬台国の所在地も見えてくるのではないか、というように結んでいる。
◆第4回の問題点
邪馬台国東遷について取り上げている。(しかし、『古事記』・『日本書紀』が語る、神武天皇東征説話について取り上げていない)
邪馬台国久留米説を紹介している。(しかしこの場合だと両筑川(今の筑後川)という大河をどう治水できたのか、吉備の場合と全くことなる。この矛盾は?)
吉野ヶ里の復元施設が大掛かり過ぎる、という印象を述べている。(縄文時代の三内丸山などの巨木文化を先人が持っていたことを忘れたのでしょうか)
伊都の墳墓がみすぼらしくて小さな方形墓で、卑弥呼の里とは思えないと書かれます。(これはおかしい。径100余歩という30m弱の墳墓であったのだから。神武以降の所謂欠史八代の天皇陵墓がみすぼらしいのと同様という考え方もできるでしょうに)
それ以外の問題点について
①宮崎康平さんは「まぼろしの邪馬台国」で、倭人伝に書かれた、邪馬台国など30国の、国名比定三条件を上げられます。「古代の伝承・地名・など残っているか、弥生時代の遺跡からそれ相応の出土品の有無、自然的条件に叶っているか、これら条件を満たすかどうか慎重に検討する必要がある」、とされます。しかし、宮崎さんの場合、倭人伝の地名を比定するのに、倭人伝の記述に矛盾しないか、という検討が欠けていたのではないか、と寅七は指摘しました(槍玉その26参照)。
今回の、足立さんの場合は、宮崎さんに見られるような、古代史への取り組み方の熱意が感じられません。文献についての迷路に入り込まない、という逃げの姿勢で、本当のところが見えてくるわけがないでしょう。
ジャーナリストとして、考古学会の学会らしくない非科学的なところを気付いてこそ、ジャーナリストの資格があるといえましょう。例えば、卑弥呼の時代の、魏晋朝の里単位について、科学的な論議をなぜ、考古学会は避けているのか、また、なぜ炭素放射性同位元素法を全面的に取り入れないのか。せめてこれくらいの論議を外部からしてあげないと、固陋な考古学会の殻は砕けないと思います。これでは、宮崎康平さんの『まぼろしの邪馬台国』のミニブームに足立さんが乗せられた、ということで、ジャーナリストとしての鼎の軽重が問われている、といえましょう。
② 足立倫行さんは、文献解釈の迷路には入らない、と仰りながらも、倭国大乱という『後漢書』の記事の字句だけには捉われているようです。
『筑後国風土記』にある「甕依姫が荒ぶる神を収めた」、という記事について足立さんがご存じないのかどうか知りませんが、今回はその話は出てきません。倭国大乱を卑弥呼が収めたと考えると、『筑後国風土記』の記事と、内容および時期が一致することへの注目はあっても良いのではないでしょうか。
卑弥呼の読みは「ヒミカ」つまり日甕(ひみか)で、甕依姫(ミカヨリヒメ)と名前も、又、占いをよくする巫女という倭人伝の記事と、依姫(よりひめ)という巫女を示す名にも共通点がある、という古田武彦さんの指摘には、古代史学会も真剣に検討をしてみる価値があると思います。尚、甕依姫は筑紫君の祖先と風土記は書いています。
③天皇家に今も伝わる三種の神器と、弥生期の出土品との関係や、この国の成り立ちについての関係について一言もないことにも、それでよいのかなあ、と思います。近畿の遺跡と北部九州の遺跡の保存状態が、あまりにも差があることを述べられます。しかし、近畿の遺跡保存と、九州のそれとの、投じられる費用の違いまで踏み込んでから仰って頂きたかったと思います。
④反学界の立場の、古田武彦説(所謂邪馬台国=博多湾岸国家説)を取り上げていない。
むすび
足立さんは、文献でなく、出土品からいわば感覚的に「邪馬台国」探しをされようとしていらっしゃいます。これでは、正しい方向は見えて来ないと思います。
しかし週刊朝日編集部がこの企画を取り上げたのは、講談社が出した宮崎康平さんの復刻版『まぼろしの邪馬台国』がヒットし、映画化も好評ということで、いわばあやかり商売戦法での今回の企画であった様な気がします。
足立倫行さんは言います。「発掘結果に基づく考古学者の意見のみを追てきた、それでもうっすらと見えてきた道筋が見えてきた」と。
全体的に見て、足立さんが道筋とされるのは、寺沢薫説に近いように思われますが、ご本人が「姿を見せてきた」という割には何も見えてきていなくて、羊頭狗肉的な今回の連載でした。文献研究もなさって再挑戦されたらいかがでしょうか。
(この項終わり)