槍玉その44 『古代史謎解き紀行シリーズ』   『封印された日本(ヤマト)創世の真実』  関 裕二  批評文責 棟上寅七

はじめに

著者について。ウィキペディアや本の奥書などで、関裕二さんの事を次のように紹介しています。
関裕二(せきゆうじ)、歴史作家。千葉県柏市1959年生まれ。仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究、 1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー、以後古代をテーマに意欲的な執筆活動を続けている。

ネットで関裕二さんのことを調べていたら、関裕二さんの若い時分のことが書かれている、高校時代の友人のブログにヒットしました。 その友人によると、関裕二さんは高校在学時代から、休みといえば、奈良に行っていたそうです。「飛鳥はいいぞぉ~ 斑鳩は日本人の故郷だぞぉ~」だったそうです。父親が国鉄関係だったそうで切符の安い買い方などに詳しかったそうです。

ほとんどのクラスメイトが大学に進学する中でアルバイトでちょっと旅行費用ができると奈良方面に行っていたそうです。 今でいうフリーターのように定職を持たず金が出来るとすぐどこかへ旅に出てしまう、そんな友人だったそうです。若いころの奈良フリークでの感じたことの積み重ねが、今の関裕二史観に至ったのでしょう


対象にする本

関裕二さんは、1991年から2010年に67冊もの著書を出しています。書名を上げてみます。タイトルだけ眺めていても著者の史観が解るように思われます。

聖徳太子は蘇我入鹿である/ヒミコは二人いた/謎の出雲・伽耶王朝 /天皇家朝鮮渡来の妄説を撃つ /オニの系譜から解く古代史 ./鬼の王権・聖徳太子の謎/「かごめ歌」に秘められた裏卑弥呼/「神と鬼」の知られざる異形の日本古代史を探る/ 封印された日本創世の真実/「浦島太郎は誰なのか」/封印された邪馬台国 いま大分・日田に蘇る卑弥呼の悲劇/闇の修験道/呪いと祟りの日本古代史/神武東征の謎/ 「出雲神話」の裏に隠された真相/おとぎ話に隠された日本のはじまり/海峡を往還する神々 解き明かされた天皇家のルーツ/物部氏の正体/大豪族消滅に秘められた古代史最大のトリック/神社仏閣に隠された古代史の謎/なぜ『日本書紀』は古代史を偽装したのか/などなどです。

今回対象にする本について説明しておく必要があるでしょう。関裕二さんの古代史謎解き紀行シリーズは、最初のシリーズとその後の新古代史謎を解くシリーズの二通りがあります。

最初のシリーズは、1ヤマト編 2出雲編 3九州邪馬台国編 4瀬戸内編 5関東・東京編。新シリーズは継体天皇の謎信越東海編、消えた蝦夷達の謎東北編が出ているようです。この紀行シリーズでは、著者の史観がはっきりと系統だって説明されている訳ではありません。どうやら、『封印された日本(ヤマト)創世の真実 古代ヤマト朝廷建国秘史』という本が関さんの考えが出ているようなので、それと合わせ読みながら関裕二史観の理解に努めました。

関裕二さんの著書のうち、今回、『古代史謎解き紀行I ヤマト編、II出雲編、IIIと九州邪馬台国編』の三冊(ポプラ社)を先ほどの『日本創世の真実』(KKベストセラー社)で読む、つまり4冊を批評の対象にすることにしました。

古代史謎解き紀行ヤマト編の「はじめに」で著者は次のように書いています。

【(前略)歴史は時間を遡っただけでは見えてこない。歴史には、それぞれに「空間」が存在した。その隅々に精通していなければ、本当の歴史は見えてこない。そこで、「足で稼ぐ歴史?」を三回に分けてご披露しようと思う。(後略)】と述べています。なんとなく尤もに聞こえますが、著作を読んでみますと、どうもご自分の史観に沿った形で「紀行」されるように思えるのです。

そこで、著者の史観がよく表れている『日本創世の真実』を併せ読みながら、この古代史紀行を読んでいきたいと思いました。しかし、どうもしっくりしません。古代史に関しての紀行文であれば、一般的な古代史の関係地など、例えば九州なら、糸島付近や太宰府なども当然「紀行」されても当然なのですが、関さんの場合は違います。あくまでもご自分の史観に合う地を探す旅、というか、ご自分の史観の正当さを主張するための意見開陳の場なのです。

それで、やはり関裕二さんの史観がよく出ていると思われる、左の『封印された日本創世の真実 古代ヤマト朝廷建国秘話』から説明しないと、読者の皆様には寅七の論評が理解しにくいと思われます。従いまして、この『封印された日本創世の真実』のあらましを、まず説明しておきたいと思います。


『封印された日本(ヤマト)創世の真実 古代ヤマト朝廷建国秘話』

 関裕二さんの古代史史観を、この本からまとめてみると次のようなことのようです。

【ヤマトは纏向の地で発展した。それは地の利に負うところが大きい。 ただ南の三輪地域とは対立していた。これが後の蘇我氏でヤマトと対立を続ける。その蘇我は出雲との関係が強い。

ところで、 北部九州の卑弥呼は高良山を根城にしていたが、出雲から来た神功皇后にやられる。 実はこれが、魏志・晋書にでてくる「壹與」である。「壹與」は「臺與」の誤記であり「トヨ」である。つまり神功皇后=トヨが卑弥呼を殺し、親魏倭王「臺與」(トヨ)となった】

この破天荒とも思える説を関さんは次のように説明します。

【邪馬台国の卑弥呼は狗奴国と戦った、と『魏志』に記載されている。その戦った相手「狗奴国」それは本当の「邪馬台国=ヤマト」だったのだ。卑弥呼は魏朝に対し「ヤマトの女王」を偽僣していた。それで、「ヤマトが攻めてきた」と魏に報告できなかったのだ。だから、魏の使者に本当の邪馬台国の場所を教えなかった。だから邪馬台国の場所は魏志倭人伝から読み取れないのだ。(九州邪馬台国編p91~93)

ツヌガアラシトは日本書紀の武内宿彌である。倭人武内宿彌が新羅に入って、ツヌガアラシトとして再び渡来した。彼と神功つまり「臺與」との間にできたのが応神天皇だ。応神 天皇は武内宿彌の助けを借りてヤマト入りするが、結局は物部にはじかれる。「臺與トヨ」の血族が南部九州に落ちのびる。

しかし、その後神功皇后=「臺與トヨ」の祟りでヤマトは混乱する。ヤマトの為政者は困惑し、南部九州から「臺與トヨ」の血につながる神武を招き入れる。このあたりの伝承が、記紀の神武東征神話と、応神天皇の東征と二つに分割されて記紀に記録された。

8世紀の藤原氏は百済系の渡来人で、このヤマトの建国にあたっての、蘇我系ツヌガアラシトにまつわる話を一生懸命隠した。 つまり、ヤマト朝廷の建国は出雲系・蘇我系・新羅系の神功皇后の実体を隠すためのものだった】、という仮説に基づくお話しのように読めます。


しかし、「卑弥呼がトヨに殺された」という関さんの説は、かなり無理筋と思わざるを得ません。『魏志』倭人伝の記述からみると、魏の官吏が二十年ほどの間に何度も往復しているようです。「卑弥呼が死んで男王を立てたが治まらず、宗女壹與を立ててやっと治まった」、という記述と真っ向から対立します。

しかし、そのあたりについて、関裕二さんはヤマトの女王を偽僭していたため、とか、『魏志』にいう「男王を立てた」は武内宿禰のこと、などといいますが、魏の官吏をデクノボウ扱いしていることに他なりません。読者の困惑には全く目もくれない態度には呆れる他はありません。

また、武内宿彌と応神天皇が東征した伝承が、二つに分割されて「神武東征」と「応神東征」の『日本書紀』の記事になった、とされます。しかし、『日本書紀』のみならず、『古事記』にも同様の「神武東征」と「応神東征」の記事があります。関裕二さんは、自説の正当性を言いたいのであれば、『日本書紀』と『古事記』に同一の伝承が記されていることについて、両史書の関係がどうであるのか、この疑問に答えなければならないと思いますが、まったく頭の隅にも無いようです。

古事記偽書説に組するわけでもなく、自説に都合の良い時には古事記の記事も利用しています。


臺がトと読めなければ関裕二史観は成り立たない

また、もう一つ、というより根本的な関さんが越えなければならないハードルがあります。壹與は臺與の書き間違い、という通説を取っています。「臺」が「ト」と読めるのか、という問題には次のように述べます。【台与はイヨかトヨか 『隋書』で邪馬壹は邪靡堆(やまと)、邪馬臺(台)と書かれ、ヤマトと読まれていたとすれば、であり壱与台与(とよ)であった筈】(九州邪馬台国編p161)。この論理は何の証明にはなっていないことに読者は気づかれることでしょう。

「堆」と「臺」が「ト」と当時の中国で読まれていたのか、という説明はまったくないのです。【邪靡堆も邪馬臺もヤマトと読まれていたとすれば、「臺はト」である】、という理屈は理屈になっていません。その理屈にならない理屈の上で、「臺與」が「豊」であれば云々と、話の花を咲かせていきます。関裕二さんのワールドも案外と根は浅いものです。

「臺」が「ト」と読めるのか、という問題については、この研究会では何回か述べました。特に詳しく述べたのは安本美典さんの『虚妄の九州王朝』批判槍玉その19です。肝心の所だけ再掲しておきます。

槍玉その19安本美典『虚妄の九州王朝』批判の(2)邪馬台国の読み方「ヤマト国」はなりたつかという項で次のように論じています。もし、「臺」が「ト」と読めなければ、関裕二ワールドは崩壊する、ということだけは読者のみなさん頭に置いておいて、次の論証の当否を判じて欲しいと思います。

(槍玉その19 安本美典 『虚妄の九州王朝』批判より抜粋)

邪馬台国の読み方「ヤマト」国は成り立つか?

この問題につきましては、・版本の問題、・「臺」が3世紀にどのような意味使われているか、など安本氏はいろいろ述べていますが、読者にとっては煩雑なだけでしょうから、基本的なことに絞って述べていきます。この問題について詳しくお知りになりたいかたは、古田武彦さんの第1書『「邪馬台国}はなかった』を是非お読み下さい。

安本美典氏は「邪馬壹(臺)国」を「ヤマト国」と読みたいようです。そして「倭国」の読みも「ヤマト国」と、もって行きたいわけです。
そのためにまず、『魏志』の邪馬壹国の、壹は臺の誤字誤刻説をとられます。なぜなら、「邪馬国」でしたら、どうやっても「ヤマト国」と読めないからです。
(中略)

トを表す漢字表安本氏が次に超えなければならないハードルは「臺」が「ト」と読めるか、ということです。

邪馬臺国=ヤマト国論者が、「臺」という繁字体(旧字体)を使いたがらず、略字体の「台」を使いたがります。

しかし、この二つの字は、元は別々の文字なのです。近代に臺の略字として台が用いられるようになったのです。卑弥呼の国は、「邪馬壹国」か「邪馬臺国」という論争は成り立っても、「邪馬壹国」か「邪馬台国」かという論争は、もともと成り立たないのです。

「台」を使いたがる、それはなぜか。略字の「台」には「ト」という読みができるから、ということのようです。

『魏志』で邪馬臺国という国名表記はありえない、ということは先述のように、古田武彦さんがその第1書『「邪馬台国」はなかった』で詳述されています。それに対して、いや臺はトと読める、と藤堂明保さんの古代の音韻表(右図)などを使って力説されています。

ところが、この表について、古田さんが、藤堂明保さんに直接お聞きした、と概略次のように『邪馬壹国の論理』で述べておられます。

奈良時代以前に「臺」を「ト」と表音文字として使われた例はないのに、どこから、この読みを、との問いに、藤堂先生は次のように答えます。日本の歴史学者の皆さんが、「邪馬臺国」は「やまとこく」と読まれるので、と】 これでは、「臺」の読みが「ト」である証明にならないのは、中学生でもわかる話です。

この件についての詳細は、『邪馬一国への道標』講談社のp252~253に詳しく述べておられます。

この『邪馬一国への道標』という本は、1978年に出版されています。安本氏は、古田武彦さんを、「良き論敵」と目されているようですから、当然、この「藤堂さんの音韻表の中の、について問題がある」、と古田さんが主張されていることはご存知と思われます。

今回の虚妄の九州王朝』で、「臺=ト」の確証がないことを知りながら、あえて15年後、再度主張することは、お金を払ってこの『虚妄・・・』なる本を買った読者に対して、失礼ではないかと思います。

折角苦心されて、安本氏が論を進められたのですが、論理の示すところは、「邪馬臺」国は「ヤマタイ若しくはヤマダイ」国としか読めないという結果になります。
奈良時代以前の国内文献は全て、古田武彦さんが指摘されていますように、「臺」は訓じて「うてな」で音は「ダイ・タイ」なのです。

寅七が疑問に思いますのは、仮に臺がトと読めたとしましょうか。そして魏の使者、張政なりが、日本列島に来て、国の名前をヤマトと聞いた場合どう表記するでしょうか。「ト」の音の字に、「台」にしようか「臺」にしようか、邪馬台国とするか邪馬臺国とするか、と考えたとしましょう。この場合、東夷のいわゆる夷蛮国に対して、邪馬国と書き表すのではないでしょうか。

この臺=トについて、この本の中におかしなことがあります。虚妄の九州王朝』p133で、邪馬台は大和と読める、という項を立てていらっしゃいます。【「邪馬台(臺)」は、万葉仮名の読み方では、「やまと」と読める。「大和」とも一致する。奈良時代、「大和」は、「夜麻登」「夜摩苔」などと書かれていた。「邪馬台」も「夜麻登」も、奈良時代の人が読めば、ともに「やまと」であった】 と仰っています。

ここでも、ジワッと、臺から台とすり替えがなされています。奈良時代の人は、「邪馬臺」とあれば、「やまたい」若しくは「やまのうてな」と読んだと思うのが自然じゃないでしょうか。

同書p208で、『隋書』の俀国伝の記事を紹介されています。「其の地勢、東は高く、西は低く、邪靡堆(やまと)に都す」という文章です。この邪靡に「やまと」と無造作に振り仮名を振っていらっしゃいます。先ほどの藤堂明保先生の表にも、がトと読まれるとは全く出てきていません。これは、「やひたい」もしくは「やまたい」でしょう。

この虚妄の九州王朝』という本が、論理の一貫性に乏しい、と寅七に言われても仕方ないことだと思われます。

尚、付記しておきたいことがあります。この、『虚妄の九州王朝』の大きな部分を割いて、安本氏は古田さんの臺は至高の貴字に反論されています。又、【古田氏は『三国志』の中の「臺」の数を58個としているが、自分が数えたら60個あった、古田の統計もいい加減だ】 とも述べています。

しかし、この問題について、古田さんは、1980年の邪馬壹国の論理』でこれらの諸点について、詳しくご自分の考えを改めて述べられ、「臺」2個の見落としの件も、指摘してくれた方々に感謝の念も述べられています。

論争の片方の態度の立派さに比べ、あまりにも極端で感情的な反応示されると、この安本グループの崩壊も近いのでは、などとあらぬ方向に寅七の思考が向かってしまいます。 (以上 槍玉その19より抜粋 )  


関さんは超人がお好き

この本の特異な点の一つに「超人」の存在が上げられると思います。古代の伝承や記録にある人物について、武内宿彌の分身的に描写します。それは先述のツヌガアラシトであり、天日槍であり、浦島太郎であり、景行天皇であり、弥五郎ドンであるということになります。

しかし、このような荒唐無稽な物語が「歴史読み物」として世の中に一定の受け入れがなされているのはどういうことなのだろうか、と考えさせられます。

そういうかなりむりのある関裕二ワールドということを補強するためにも「謎解き紀行3部作」は必要だったのでしょう。そのような関裕二さんの古代史観の予備知識を持って『古代史謎解き紀行シリーズ』を読まないと、なかなか理解できないのではないかと思われました。


『古代史謎解き紀行I ヤマト編』

第一章で、神々の故郷 奈良の魅力 を述べられます。柿の葉寿司から葛城の神々の話となり、ヤマト天皇家との関係などを述べられます。
しかし、【3世紀後半のヤマト政権誕生は、実態はゆるやかな連合体であり、多くの地方の首長層がヤマトに集まり王を共立した。したがって当初は「葛城」の勢力に頭が上がらなかった。(p20)】と断定的に述べられます。

なぜ、そのように言えるのでしょうか。「ゆるやかな連合体」が「共立」した、というのは、どうやら『魏志』倭人伝の卑弥呼~壱与の記述からの類推だと思われます。『日本書紀』・『古事記』ともども、天皇は絶対的な君主であり原則的に父系継承がされた、と記しています。

『日本書紀』は8世紀の編集者が創作したとおっしゃりたいようです。関さんは、ヤマト纏向に、3世紀に王権が奈良に樹立された理由として、【日本の中央 かつ 高地性集落の時代であった】 ことを上げられます。(『日本創世の真実』p181)そして、『魏志』倭人伝に本州の国々が書かれていないのは、書くことを抹殺されたからだとされます。(日本創世の真実p112)

第二章では、元興寺界隈の夕闇 と題されて、奈良の名物旅館「日吉館」の思い出話から始まります。

元興寺の鬼退治にまつわる話から、「鬼と神」について、もとは同一だった、という説明があります。元興寺は蘇我馬子によって建立された蘇我氏の寺であった。鬼=蘇我氏と時の政権藤原氏からみなされた。飛鳥から藤原政権の平城京への遷都の際も移ることに元興寺は抵抗した。

蘇我氏は『日本書紀』では「悪」とされている。なぜか。『日本書紀』に出てくる天日槍は、ツヌガアラシトと同一人物であり、また、武内宿禰でもある。彼は本来倭人だが新羅に入って再び渡来した人物である。彼と神功皇后、彼女は関裕二の研究によれば、『魏志』倭人伝にいう「壱与」(台与トヨであり、出雲系であり、葛城氏とのつながりが深い。武内宿禰と彼女との間にできたのが応神天皇だ。だから、そのような歴史を抹殺するために『日本書紀』は書かれた、というのが関さんの主張のようです。

『日本創世の真実』p213~214に関さんは次のように書きます。【天皇家が卑弥呼の末裔であれば、卑弥呼が出雲のトヨに殺されたとすると、8世紀のヤマト朝廷はこの事実を後世に残したくはなかったであろう。そのためのアリバイを机上でデッチ上げることくらいなんの抵抗もなく、むしろ積極的に行っていたに違いないのである】と。

第三章以降

天皇家と対立した葛城家は後年の蘇我氏である。物部は百済からの渡来で藤原氏とつながる。藤原政権から追い出された葛城一派の怨念のために、桓武天皇は平安京へ遷都した。蘇我対物部が蘇我対藤原という流れになった、と説き、『日本書紀』編纂もこの流れの中でなされた、とされます。

関裕二さんは、古代の紙の二面性についてかなりの紙面を費やされます。神は恩恵をもたらす面と、祟りをもたらす面を持つ。どちらかというと、神は祟りを恐れる気持ちから祀られる、という考えを力説されます。

「鬼」もまた、神の一面を現している、ともされます。【聖徳太子も鬼であり、菅原道真や蘇我入鹿も祟り神である。藤原氏の独り勝ちにより二上山・葛城は敗者のシンボルとなった。「聖者であった筈の聖徳太子が何故鬼呼ばわりされねばならなかったのか」 つまり祟りを畏れていたということである】

藤原氏の台頭については次のように解説されます。

【旧態依然とした政治体制の中で没落しかけていた6世紀のヤマト朝廷。これを復活させ、過去の因習を捨て、外交方針も「百済一極外交」の弊害を取り除き、隋に大規模な使いを贈ることまで漕ぎつけられたのは蘇我氏の尽力があってのことだろう。だが、同時に百済は衰弱し、滅亡の危機を迎えていた。中略・・一度は主導権を握った「藤原」も、「親蘇我派」で「改革派」の天武天皇の登場によって、再び野にくだった。だが、天武天皇の崩御後、天智の娘ジ盧ヘンに鳥ツクリギ?野皇女と鎌足の子・不比等は、「天智王家の復活」を目論み、大津皇子を抹殺した。藤原不比等の死後、聖武天皇を即位させ、天下を牛耳った「藤原」は、邪魔になった最後の「親蘇我派」の皇族・長屋王一族を滅亡させた。(p224)】

平安京への遷都についても「鬼」と絡めて次のように説明しています。

【平安遷都の理由 桓武天皇が即位できたのは、光仁の皇后位の井上内親王と他戸おさべ王(皇太子)を幽閉し抹殺したからであり、桓武天皇の母は百済系であり、「天智と百済」の組み合わせこそ、古き良きヤマトの次代を破壊した図式であり、ヤマトの鬼が桓武天皇に味方するはずもなかった。桓武天皇にすれば祟る鬼のバンキョするヤマトの地から一日でも遠ざかりたいというおもいであったろう。(p228)】

ただ、前方後円墳と纏向とを結びつける説明にはちょっと舌足らずな説明が見られます。 マキムクで生まれた前方後円墳文化と227ページで言いながら、次のページでは前方後円墳は吉備で始まったと平然と書かれています。吉備から纏向への政権移動があったのだろうとかなんとか、屁理屈の一つでもつければまだしもですが。

このように『謎解き紀行』と銘打ちながら、実際はご自分の史観を東大寺や法隆寺などの名刹に事寄せて説明している、ということです。


『古代史謎解き紀行II 出雲編』

出雲大社にまつわる話で、出雲がヤマトより古く、スサノヲが半島を往来していたと伝承が残っているように、一番早く開けた。ヤマトに祀られているのは九州系はなく、多くは出雲系と述べられます。
神功皇后も出雲系である、というようなことが縷々述べられています。


『古代史謎解き紀行III 九州邪馬台国編』

「紀行」先は、第一章で高良山。そして久留米の謎と邪馬台国論争について述べられます。古代史で重要な地、高良山がなぜ『日本書紀』に書かれていないのか、というのは、【『日本書紀』編集者が隠したからだ】」とされます。関さんは、この論理をよく使われます、便利なツールのようです。

第二章での紀行先は対馬、吉野ヶ里、日田小迫辻原遺跡などで、大和の台与と山門の卑弥呼について述べられます。この章が関史観による邪馬台国論の白眉でしょう。内容は先述の、『封印された日本創世の真実』の説明のように、トヨが武内宿禰と共に卑弥呼をやっつけた、というストーリーです。

第三章の紀行先は、沖ノ島 宗像大社 香椎宮で、宗像三神と北部九州の秘密について述べられます。この章では「住吉大社」も出てきますが、不思議なことに大阪の住吉さんで、博多の「住吉神社」は出てきません。

第四章の紀行先は、日田と宇佐で、宇佐八幡と応神天皇の秘密について述べています。宇佐神宮の四拍手についても解説されますが、当研究会が槍玉その15井沢元彦『逆説の日本史古代黎明編』批判で発表しているものに比べて極めて簡単なものに過ぎません。

そして、日本書紀が邪馬台国を隠した理由として次のように述べます。【応神の九州からヤマトへの東征と、初代神武天皇の東征は同じ事件が二つに分解されてしまったのではないかと疑っている。(p132) 筑紫の日向の小戸の橘でイザナギが祓除をした時に生まれたのが住吉大神と少童命。(p133) 武内宿彌や住吉大神が渡来人アメノヒボコだったから正体が抹殺された。(p142)】と。

卑弥呼亡き後男王が立ち争乱が起きたという『魏志』の記事との整合性のために、次のように説明されます。

【邪馬台国の男王はアメノヒボコ(武内宿禰)か。だがひとつ大問題があった。それはアメノヒボコが新羅からやってきた「よそ者」だった。当然吉備や纏向はアメノヒボコのひとり勝ちを黙認出来なかった。この「問題を抱えたアメノヒボコ」が男王に立ってしまったがために、倭国は大混乱に陥ったと考えられる】(p143)

ただ、関雄二さんは、アメノヒボコ=武内宿禰を渡来人ではなく半島と日本列島を往来していた人物、「よそ者」という捉え方です。

第五章の紀行先は、太宰府ー佐賀ー耶馬溪ー湯布院ー高千穂ー鹿児島神宮(奈毛木の社)、岩川八幡(弥五郎ドン) 野間岬で、天孫降臨神話と脱解王の謎について自説を説明されます。今まで、武内宿禰は、ツヌガアラシト、天日矛、住吉大神、猿田彦などと同一人物ではないか、とされますが、鹿児島で弥五郎ドンの像を見て、これも武内宿禰と同一人物であろう、とされます。

関裕二さんの古代史観によると、【何度もいうように、ヤマト朝廷は多くの首長層が纏向に寄り集まり、平和裡に誕生したのである。・・・・トヨはうち捨てられた】(p162)ということです。神武東征のナガスネヒコとの戦闘の記述は全て8世紀の『日本書紀』の編集者の創作ということになります。

これによると、神武東征はなく、「迎え入れた」ということのようです。しかし、『古事記』と『日本書紀』の両方の史書が大体同じような征服し橿原で王権を樹立した、という「神武東征」伝承を語っている、ことについて、何故なのか?という疑問は関裕二さんには生じないのでしょうか?


結論として

ご自分でも、奈良フリークとでもいうのでしょうか、「奈良人間」と自負されています。その立場からの古代史へのアプローチです。それはそれで文句を付けることはありません。まわり(東アジア)の大勢と矛盾がなければ良いのですが、と読んで行くと、「中臣鎌足=百済の豊璋と私は思っている」、などと出てきます。

おやおや、小林恵子さんの亜流なのかなあ、とインターネットで関裕二さんを調べてみました。その他にも「聖徳太子=蘇我入鹿」論もあるようです。もし、関裕二ファンがいらっしゃったら申し訳ないのですが、奈良フリークファンタジーとして読めば、目くじらも立つこともないのかなあ、と思ったりしています。

何故関裕二さんは、いろいろな伝説上の人物を同一人物にしたがるのかなあ、武内宿禰を猿田彦、天日槍、玉垂命、浦島太郎はては弥五郎ドンをすべて同一人物とするなど、これは一種のスーパーマンが日本を創世した、という願望をお持ちなのでしょうか?

この関裕二ワールドについて、どうしてこのような、奇想が出てきたのかということを考え込まされてしまいます。
古代の日本の歴史が、隣の文字大国で詳しく記述されているにもかかわらず、日本の史書に「ない」、「誤伝」、などといわば言いがかりを付けて中国の正史の記述をまともに受けない、ということに根本があると思います。

日本の史書、特に8世紀に編纂された『日本書紀』に「それに該当する記事がない」ことを理由に、【『日本書紀』の記述のかけらを、自分の仮説と強引に結びつける】、または、【中国の使者が間違って報告した】、【『日本書紀』の編集者が勝手に意味不明にした】、などと理屈をつけて、東アジア諸国の古代史の認識と大きく異なった「いびつ」なものになっています。

『宋書』の倭の五王の記事を、無理やり『日本書紀』の歴代天皇に当てはめるやりかた、『隋書』の多利思北孤の記事、明らかに男性なのに「女帝」や「聖徳太子」に当てる日本の歴史教科書。沢山問題点はありますが、この2点を挙げるだけでも日本の歴史教科書の記述のいびつさがわかります。せめてこのところを改めないと、ますます、「歴史学」は「科学」から遠のいていきます。

この「いびつ」な日本史を教えられた若人たちは、歴史好きであればあるほど、その「いびつ」さの不自然さを、科学的に正さずに、想像力で補おうとすると、ますます「いびつ」度が増してきます。その結果の自分なりの答えを得た、と思われた方のお一人が小林恵子さんであり、続いて登場の今回の関裕二さんになるのかな、と思います。

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