槍玉その29 大和朝廷の前身『豊前王朝』 大芝英雄 2004年4月 同時代社  批評文責 棟上寅七(
(博多湾に流入する三河川の表現が不正確であり訂正しました。2021・11・15)

この本の内容

本の目次に従って説明しますと以下のようです。

第1章『記・紀』難波津の意義  古事記や日本書紀で難波津が持つ意義について説明されます。

第2章隠された豊前王朝  その難波は近畿の難波ではなく豊前の瀬戸内海に面した海である、と論考を進められます。姫島や大阪山などの地名が豊前にあり、仲哀天皇の説話などは豊前に王朝があったとすれば辻褄が合う、とされます。

第3章『古事記』七世紀前半成立説の論理  古事記は元来豊前王朝の史書であり、天武天皇が近畿に移って舞台を近畿にして古事記という史書に作った、とされます。

第4章九州倭国兄弟王朝説  隋書倭国伝に兄弟王朝のことが書いてあるが、これは太宰府の兄王朝と豊前の弟王朝のこととされます。

第5章豊前説(小稿集)1、「唐制」筑紫都督府の考証 2、神武東征譚、豊前説 3、「伊勢大神の東遷」 4、『魏志』、邪馬壱国「位置論」


以上のような内容です。分り難いと思いますので、簡単に説明しますと次のようなお話です。

a) 古事記は元来九州豊前の王朝史であった。

b) 白江村の敗戦で、豊前王朝は唐の追及を逃れるために、天武をはじめ一部の王族が飛鳥に逃れた。

c) 飛鳥の王朝は九州の倭国と関係ないことを示すために飛鳥王朝史を作る必要があった。

d) そこで天武が豊前王朝史を大和王朝史に書き換えた。

e) 今回、その古事記のほころびを見破った。それは難波津の表記が豊前であることが分ったからである。

f) 詳しく検討すると、古事記の各天皇の説話が。「地勢・地形・径路・地名」が豊前に適合することが判明した。

以上のような大芝さんの豊前王朝説を検討して行こうというわけです。


著者について

この方は本の奥書によりますと、1925年生まれ大阪府出身。化学技術者(薬品会社勤務)1985年頃より古代史を研究し、1990年頃より古代史に関する論文発表。

「九州の難波津発見」(1990年、市民の古代第12集にて)。この豊前王朝史の出版時には79歳で、いまご存命なら84歳におなりになっているという方です。



槍玉に上げる理由

この本は、いわば日本古代史の、九州王朝説の一亜種です。読者もそのような目で読むと思います。読者が普通の歴史小説を読むような読者は手にとっても買う事はないのでは、例えば、棟上寅七のような限られた読者層だとは思います。

九州王朝説の提唱者ともいうべき古田武彦さんは、あくまでも、文献や出土品など考証できることは立証し、出来ないことは仮説として結論を保留するという態度です。しかし、それに飽き足らない方々が、いろいろな仮説を立てられます。検証も出来ない説が多いのですから、普通の常識人には「やはり九州王朝説はいい加減なものだ、古田武彦も同じだろう」と思われることでしょう。つまり、これらと古田説とが、十羽一からげに怪しげな説、と取られてしまう恐れがあります。マイナーな本ですが、きちっと評価をしなければならない、という思いが槍玉に上げる理由です。

大芝さんの豊前王朝説という本を槍玉に上げる、その視点も説明する必要があるようです。

ある仮説を立てて、それを論証していこうとする場合、どうしても我田引水的になってしまいます。これは当研究会自身の場合も同じことですが、できるだけ常識人の理性での判断基準を保とうと努めているつもりです。

通説と極端に異なる豊前王朝説ですが、やはりかなり強引な論証が目立につきます。大和王朝を否定したいばかりに、「荒涼たる大和には歴史がない」(p16)と切り捨てています。が、それでは万人は納得できないでしょう。

奈良地方の弥生期の古墳群や、技術的にも素晴らしい銅鐸など、これらが政治権力の存在なくしてありえたとは思えません。しかし大芝さんは無視されます。否定するのならば、その理由を述べなければならないでしょう、無視はいけない、古代の近畿人に失礼だと思います。

アマチュアの古代史家という親近感もあり、読んでいて、もう少しこう書けばよいのに、など批評という立場を見失っていることに気付いたりします。

しかし、

歴史本として出されているが、論拠が果たして理性的受け入れられるものなのか

仮説の展開に、論理的な矛盾はないか、極端にジャンプしていないか、我田引水に流れすぎているところはないか

意図的に隠していると思われるところはないか、

という視点から読んでみて、どうもこれらの問題点が多い本のようです。



問題点の検討

(一)難波は豊前だ という主張について

大芝さんは、豊前が古事記の舞台ということを論証しようと試みていらっしゃいます。

そのキーワードは「難波」です。古事記に記載された難波は大阪湾でなく、豊前の周防灘とされて、論を進められています。

しかし、「難波」という地名が残っているわけではないのです。豊前には姫島がります。日本書紀に『難波の姫島に牛を放つ』という記事から、姫島が近くにある豊前湾が『難波』である、と推定されて、大芝さんの豊前王朝論は始まるのです。

そして、「難波は攝津にしかないと思っている」と批判されますが、大芝さんは逆に豊前が絶対という思い込みが強すぎるように思われます。日本で他に難波の地名はないのか。あるとすればコレコレだけれど、古事記が言う難波は豊前だ、という論証が抜けているのです。

全国の姫島の地名がどれくらいあるかは知りませんが、この海浜ー姫島というセットの土地が他にもあることについて、全く無視されています。例えば唐津湾と博多湾の近くにも姫島があるのです。

又、『難波』という地名も摂津だけにあるのでもないのです。例えば、福岡市にも難波池があります。新庄智恵子さんと仰る方は、その著書「謡曲からみた九州王朝」新泉社2004年刊で、謡曲に描かれている難波は博多湾、とされます。

豊前王朝論関係図地図大芝さんは、豊前に「難波」という地名が残っているわけではないのですが、安閑天皇紀に「難波の姫島と大隅島に牛を放つ」の記事から、大隅島を現在の北九州市門司区の海岸にその島にかなり強引に比定し、その2島がある豊前の海岸が、そこが難波に違いない、と大芝さんは論考されるのです。

一時、古田武彦さんも、古事記に言う、天の一根=女島(ひめじま)は、博多湾外の姫島とされた時期もあったそうですが、やはり黒曜石の産地の豊後の姫島ではないか、と現在では思っていらっしゃるそうです。

そのほかの九州王朝説の方々の多くは、福岡の城南区に難波池という名の池が残っているのを、難波=博多湾の一つの根拠とされているようです。しかし、この「難波池」という地名の淵源について考察されているのかちょっと判りません。近くに「堤」とか「潟江」とか海岸を思わせる地名も残っているから、ということが唯一の論拠のようですが、ちょっとそれだけでは、難波=博多説も弱いのではないか、と思われます。

その意味では、大芝さんの豊前浜=難波説は、難波=博多説と同程度の根拠を持っている、と云っていいのでは、と思われます。

ともあれ、古田史学にも造詣の深い大芝さんとしては、【記紀のいう「難波」は博多ではありえない】、ということも論証される必要があるのではないでしょうか。

所謂九州王朝論者の多くは難波=博多であり、難波=豊前という説は大芝さんを以って嚆矢とする、と云えるということはわかりました。古田説を乗り越えるためにも、難波=博多説も否定する論考が必要で、もしそれが成功すれば大芝さんの難波=豊前説も多くの賛同者を得ることができるのになあ、と思われます。

仲哀天皇自体、筑紫の香椎に居た、と古事記に書いてあります。古事記の仲哀天皇やその子忍熊王のところを読みますと、常識的に舞台は近畿ではなく筑紫界隈と思われます。その豊前王朝説のキーワードは、「難波(姫島)」ともう一つは「大阪山」という地名のようです。大坂山も確かに豊前と筑紫の間にあり、大坂は現存する地名です。仲哀天皇の説話などに出てくる「逢坂山」を豊と筑紫の間にある大坂山とすれば、すんなり納まる、と大芝さんは仰います。

確かに古事記でも、唐突的に仲哀天皇が豊浦宮(山口県)で天の下しろしめした、とされるのです。この仲哀天皇の説話は、豊(長門)と筑紫の戦い、という理解をすれば、すんなりと落ち着くとは思います。近畿王朝論者としても、この長門の地が一時的にであれ日本列島の政治の中心であった、とは主張しにくいのでしょう、仲哀天皇架空説、後代の史官の造作説など、と逃げているようです。

筑紫・豊・吉備・出雲・越・尾張・関東など各地にそれぞれの政治権力が鎬を削っていて、最終的に白村江の敗戦後近畿王朝による統一がされたのでしょう。それぞれの王国が、日本書紀に見られる国生み神話に、「一書に曰く」として沢山の異説が書かれています。そのように、それぞれの王国がそれぞれの歴史伝承を持っていたことでしょう。豊前地方の権力者もその一つかもしれません。今それを復元することは甚だ困難と思われますが、努力されていらっしゃる方々の、その努力には敬意を表します。

大芝さんは豊前王朝説の根拠として、豊前浜=難波を唱えられ、その主な理由の一つとして、古くからの記録に【難波三津浦】という記述が出ているということも上げられます。これは、豊前だ、何故なら、長峡川、今川、祓川の3河川の河口港を持つ浦の意味だ、摂津ではありえない、淀川一つだから、と仰いいます。

しかしこれは暴論でしょう。大阪湾には淀川だけでなく、安治川、大和川が流入していることは周知のことです。また、博多湾にも多くの河川が流入しています。儺の県については多々良川、御笠川、那珂川の三河川です。豊前だけを「三津浦」の条件に合うというのは如何なものかなあ、と思います。(旧表現:博多湾には多々良・御笠・室見の三河川)

もう一つの豊前王朝実在の証拠として上げられているのが、「倭国の東朝」というキーワードです。

日本書紀に引用されている、高句麗僧の日本世記に、【倭国の「東朝」】なる語があることで、これが豊前王朝のこととされます。そう即断してよいのか、「東朝」とみた視点はどこだったのか、韓半島から見ての視点なのか、倭国九州王朝から見ての視点なのか、近畿の政権は対象ではありえないのか、などというところの考証がされてあれば、多くの読者も納得出来るのになあ、と思われました。

【古田武彦の九州王朝説は卓見だが、本論は九州王朝説に賛同しながら更にその歴史的矛盾を考究して、独自の境地を発見するに至ったので、これを論述、論評するのが本書の目的】(p69)とされます。しかし、本を読む限り、古田説の矛盾点の考究は全くなく、ご自身の「豊前王朝ありき」が前提での論述となっているように思われるのは残念です。



(ニ)崇神東征説 について

神武=崇神説を説かれます。なぜ崇神と神武に分割して古事記に記録しなければならなかったのか、大芝さんの論理を読者に示して欲しいところです。

大芝英雄さんの「大和朝廷の前身~豊前王朝」での神武東征をどう取り扱っているか、といいますと、津田左右吉の「8世紀の史官の創作説」に全面的に寄り掛かっていらっしゃいます。神武の瀬戸内東上作戦は創作といわれます。

豊前王朝の始祖はニギハヤヒで9代続いていた。筑紫王朝の崇神が、そのニギハヤヒ豊前王朝を攻めた。これが崇神東征の内容とされます。

古田武彦さんはじめ、多くに方々が神武~8代実在説です。古田さんは、【神武記が伝える、古代の大阪湾奥の河内湖を舞台とした戦闘物語を、既に湖が姿を消して陸地化している8世紀の史官が、そう簡単に創作できるとは思えない】、と主張されています。

この主張にどう反論するのか、大芝さんも古田武彦さんの著作はよく読まれているようですから、この神武東征についても逃げずに、古田説への反論が出来るのか見てみたいものです。もしその論考が納得できるものであれば、大芝説も説得力をぐっと増すことと思います。

仲哀記の逢坂山、履中記の逢坂山の記事を、豊前に置き換えられる可能性はあるでしょう。しかし、全体の何百分の一に満たない地名の一致で、全てを、その微小部分が正だから全体も微小部分と同じ流れだ、とするのはどうかなあ、と思われます。まあ、そうしなければとても豊前王朝説が出てくることはないのでしょうけれど。

一昨年か昨年か忘れましたが、久留米大学での古代史市民講座で、神武東征は福岡県南部を舞台にしている、という説や、神武は筑豊に東征した、と説かれる講師の方々がいらっしゃいました。地名の類似からストーリーを組み立てる、という手法では、日本全国に何箇所にも展開できる、のではないでしょうか。お話しとしてはそれなりに面白く思いましたが、説得力という面では疑問符が付きそうです、それをまとめてみる方々の努力は大変なものでしょうけれど。



(三)狗奴国親呉王朝説 について

親魏の邪馬台国と親呉の狗奴国が戦い後者が勝利した、と大芝さんは主張されます。これは前回の槍玉その28で取り上げた、いき一郎さんと同じです。ただ今回大芝さんは、晋書に邪馬壹国の記事がないことを、その証拠に加えられているのが、いき一郎さんにはなかった主張のようです。

狗奴国が親呉倭国であった、とすると何故三国志呉志に出ていないのか。陳寿が魏寄りの記述をしているとしても、狗奴国という得体もしれぬ倭人の国が、敵国呉の同盟国であった、というのであればビッグニュースだと思うのですが。

狗奴国が九州島にあって邪馬台国と対等以上に戦えたのは、呉国の後ろ盾があったから、とされます。この二つの国力の違いがあまりなかった、ということは言えるかと思います。邪馬壱国一派は30国です。戸数の計は戸数記載8カ国分で15万戸、記載のない21国を合わせると20万戸以上になることでしょう。北部九州中心の鉄文化の先端地方ということも考えると、これに対抗できる国力を持っていた狗奴国が、九州中央に存在し得たのだろうか、と思うのですが、その辺の論考はないようです。

いき一郎さんは、邪馬台国北部九州広域説で、邪馬台国連合と狗奴国側との勢力を均衡させるためにか、「奴国=親呉国」という仮説を立てられました。大芝さんとしては、彼我の勢力均衡出来た理由を、仮説としてでも提示し、狗奴国が中部九州にあり、九州外ではありえない、という論考が必要なのではないでしょうか。

大芝英雄さんの豊前王朝論を読んでいて、隔靴掻痒的な思いをするところもあります。7世紀のタリシホコ王朝が何故反隋なのか、大芝さんは親呉王朝~南朝宋という流れから、と仰りたいようです。

倭の五王の王朝が、何故宋王朝に忠誠を誓ったのか。南方での王朝、呉の後継としての宋、ということを考えれば自ずから理解できる、鮮卑族の後裔王朝と云っても良い隋に対して、タリシホコが対等という立場にたったのも、呉王朝からの流れから当然である。などという方向で大芝さんが話しを展開されると、寅七もなるほどな、と思ってしまうかもしれません。

漢委奴国王~親魏倭王と、北方系の中国王朝に忠誠を誓ってきた倭国が、5世紀の倭の五王王朝では、宋という南朝系の王朝に何故忠誠を尽くすようになったのか、ここらあたりの闇の部分のもう少し深い解析が欲しいところです。

大雑把に云って、倭国の中国への忠誠の流れは、魏~西晋~東晋~宋と思われます。東晋が北方民族に滅ぼされ、五胡十六国の時代を経て、東晋の流れを汲む宋でまとまり、その後、斉、梁、陳と王朝は変りましたが、忠誠の対象としての流れは変らなかったのではないか、と思われます。その後、陳が隋(実態は北方民族)に滅ぼされ、倭国は忠誠を誓う対象がなくなり、北方民族に対抗して自ら天子を名乗った、というのが寅七の読み取り方です。

そういう流れから考えますと、倭国の宋に対する忠誠心が、三国時代の呉国への忠誠心の流れから来たのではなく、魏への忠誠心からつながっている、という解釈の方がむしろ受け入れ易い論ではないか、と思われます。

文献的な面からの豊前王朝は、隋史に見える、「秦王国」や「タリシホコの兄弟摂政」(弟国が豊前とする)に見えている、とされます。前者はともかく、後者はそのような解釈が出来るのかなあ、とちょっと疑問符が付かざるを得ないようです。ここの部分は少し古代史をカジッた方は皆眉に唾を付けるのではないでしょうか。もう少し丁寧な自説の論考過程を、読者に提示なさるべきかと思います。

歴史の認証には、物的証拠も必要、ということで、大芝さんは『鏡』を上げられます。弥生時代の中国鏡の出土は魏鏡も多いが、呉鏡の出土もかなりある。古代の呉とわが国の結びつけを示す。つまり邪馬台国滅亡以降の親呉政権の存在を示す、というような話に持っていかれます。

しかし、呉鏡の出土状況は、日本列島のどちらかというと中央から東寄りに偏っている、という事実には目をつぶられます。親呉政権は関西以東というのであれば、それなりに筋が通ります。でも、九州の狗奴国が親呉政権の親玉という論の、証拠にするにはちょっと無理かなあ、と寅七には思われます。

おまけに、肝腎の「豊前王宮」の存在の痕跡の有無についての発言はありません。7世紀まで存在したと主張される王朝の大規模建築物の存在した痕跡が残っていない理由、今から出てくると仰りたいのでしょうか? すぐ近く、飯塚市に立岩遺跡その他、弥生中期の遺跡がありますが、それらと豊前王朝とがどう関係すると思われるのか、残念ながら発言はみられません。



(四)その他おかしいところ

大芝さんの豊前王朝説は、それなりに寅七には面白く読めています。しかし、ご自分の説を成り立たせるために、寅七にとってちょっといかがわしい説を援用されているのは如何なものか、と思います。

自分の説に合うところのいろんな説のツマミ食いです。ザッと読んで気付いたところは、歴代天皇平均寿命説、二人のハツクニシラス説、崇神東征説、地名の集団遷移説などなどです。まあ、小さなタネを基に「古事記の舞台は豊前」という説を組み立てるのですから、止むを得ないのでしょうが。

例えば、豊前東朝の年代表として、崇神天皇から推古天皇までの年代(歿年?)を、目安年表として掲示しています。その注釈に「統計法年代表」による、とされています。これは、おそらく安本美典さんの古代天皇平均在位年説に拠っているのかなあ、と思いましたが、念のためネットで検索してみました。この「統計法年代表」という言葉では全くヒットしませんでした。

大体各天皇の在位を10年程度ととっているようですから、安本説を取り入れていらっしゃるのではないかと推察されます。安本さんは、独自の数理統計文献学を用いて、古代の天皇の平均在位を約10年とされます。天皇の在位年数を、親子の代替わりの世代でなく、兄弟間夫婦間の代替わりもゴッチャにして平均在位を出すその問題点については、当研究会が槍玉その3安本美典「倭の五王の謎」で取り上げ、批判しました。

しかし、安本さんの著書を見ても、統計法年代表という言葉は見当たらないようです。やはりこのような一般的でない言葉を使う場合には、ご自分の案なら案で説明なさるべきでしょうし、他人の説ならば、その出自出典などを注で示すのが、読者に対するマナーだと思います。いくら目安の年表だといっても、その「目安」の信頼性にかかわるものですから。

又、古田説の矛盾点の考究をする、と大芝さんは大見得を切られます。古田武彦さんは、倭人伝の伝える帯方郡から邪馬壹国への旅程について、「12000里は総距離で、水行10日陸行1月、というのは総日数」、と論証されています。

これを、大芝さんはあえて無視されて、倭人伝の行路記事は、伊都から水行10日陸行1月のところに邪馬壱国がある、というのが定説で、その位置はどこかで各人各説となっている」、と書かれます。

古田説の矛盾を考究であれば、古田説の原点「邪馬壹国」を批判しなければならないと思います。しかし、大芝さんの豊前王朝説は、肝腎の倭人伝の旅程記事の解釈を、避けなければ成り立たない説、と云わざるを得ないかと思います。

しかしながら、古田さんの九州王朝論について自説に合うところは取り入れていらっしゃいます。でも、古田さんの説とご自分の説との、不都合なところ、例えば前述の「倭人伝の邪馬台国への行路問題」なども説明しなければ、読者は大芝説の当否を判断する術がありませんし、逃げていらっしゃる、としか捉えようがありません。

磐井の乱を大芝さんも取り上げています。蛇足ですが、「槍玉その12 田村圓澄 磐井の乱」で当研究会も一つの仮説を、お話しとして提示しました。九州の王朝の中での争い、という捉え方ではほぼ同じような仮説です。当研究会の説も大芝さんの説も、あくまでも仮説・お話しであって、検証を踏まえた「歴史」という段階までは固まっていないのと云えるでしょう。

記・紀の内、古事記の記述は豊前が舞台、ということなのですが、その論証に援用される記述は、日本書紀のものも多いようです。成立の年代からしても、逆の論証、日本書紀の記事を古事記で検証する、事は出来ても、その逆で論証しようというのは、論理が逆立ちしていると思いますが如何でしょう。

又、著者のように日本書紀・古事記の知識が暗記できるほど豊富な方はともかく、出来れば記・紀のどちらか、ということを書いておいて欲しかった。批評する立場からはその根拠の出典をチェックするだけでも大変です。

 結論としての感想

ついつい問題点の方にだけ考えが及んでしまいますが、アマチュアの古代史家大芝英雄さんという方なのですから、責めてばっかりでは駄目とは思います。古来より定説とされてきた、【古事記の人代以降の舞台は大和】、を【舞台は豊前と置くと全てうまく説明できる】、と論証されている、その大変な努力については褒めても褒めすぎではない、と思います。

ご本人は本当に自説を信じていらっしゃるのでしょうか、という疑問が残ります。豊前王朝が存在した可能性はありうる、と思いますが、その後の豊前東朝や太宰府との兄弟王朝は、無理し過ぎているのでは、というのが正直なところです。

又、推薦文を寄せていらっしゃる室伏志畔さんが、その独特の言い回しによる、幻想史学という面からの賛意を表されていますが、これは、むしろ著者大芝さんにとっては迷惑ではないのかなあ、と思ったりしました。

思うに、日本書紀の国生み神話に、多数の「一書」が参照として出ていますが、いろいろな日本列島各地域の政治権力の、創世記神話があったと思います。そういう古代には多数の各地に政権があった、という史観からこの豊前王朝説も見直されたほうがよいのではないかな、と思います。この本を読んでいて、万世一系思想に無意識に染まっているような感じがしました。

古事記の全てが豊前神話なのか、あまり短兵急に攻めることなく、じっくりと論証を進められたら良いのになあ、とも思われます。まあ冒頭に記した、著者の経歴を見ても分りますように、80歳近くなってからの初出版です。時間がない、と急がれたのでしょう、まだ棟上寅七は大芝さんより少しは若いですが、一生懸命に、自説を何とか一冊の本にまとめられた気持ちはよく分る気がします。


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