槍玉その65「錯誤と漢籍」冨谷至 読後感想文 棟上寅七
◆この論文をこのHPに上げるに至った経緯
著者は、京都大学人文科学研究所教授で、詳しくは、付属情報科学研究所付属漢字情報研究センター教授で中国科学史専門の方です。
この冨谷先生の論考を槍玉に上げるに至った経緯について、ブログ「棟上寅七の古代史本批評」2月8日で書いていますように、九州古代史の会で例会が終わって、会員の方から呼び止められました。
そして、論文のコピーを渡され、この論考をご存知ですか、できたら寅七さんのブログでもホームページにでも、批評してみてくださいませんか、ということでした。
草書体が「臺」と「壹」の誤記の原因、という説を唱えた方がいる、ということはどこかで聞いたことはありますが、文章になったものを目にするのは初めてでした。
読ませていただきます、と言うことからこの「読後感想文」ということになった次第です。
京都大学の中国科学史の先生というと思い出しますのが、薮内清先生です。講談社学術文庫の『中国古代の科学』という本は随分勉強になりました。
今回の冨谷先生の説は如何なものか、と期待をもって読んでみました。結論から言いますと、科学的な判断と言うよりもご自分の「思い」をご自分の専門分野での知識の中から恣意的ではと思える方向でのご自分の仮説呈示という文章、という感じでした。
尚、この「読後感想文」は、冨谷先生の論述部分をハッキリさせるために「有澤楷書体」で記し、寅七の文章を通常の「ゴシック体」で書き分けしていることをお断りしておきます。
◆この論文の説明
今回取り上げる冨谷先生の論考は『京大人文漢籍セミナー(1)「漢籍は面白い」』という京都大学のセミナーでの発表原稿をまとめて出版された本の中の三つの論文の一つです。冨谷先生の論文はその冒頭を飾っています。
この『漢籍は面白い』という書籍は、次の様な構成になっています。
総説 漢籍の時空と魅力(武田時昌 京都大学人文科学研究所教授 中国科学史専門)
錯誤と漢籍(冨谷至 京都大学人文科学研究所教授 中国法制史・簡牘学専門)
漢語仏典(船山徹 京都大学人文科学研究所教授 仏教学専門)
使えない字―諱と漢籍(井波陵一 京都大学人文科学研究所教授 中国文学専門)
というそうそうたる中国古代人文科学関係のトップ学者の構成で、研文出版から2008年3月に出版され、価格は税込み1890円だそうです。
◆論文の内容
今回この冨谷さんの「漢籍と錯誤」の感想文を表すにあたって、本HPの読者諸兄姉には、ひょっとしたら既にお読みの方もいらっしゃるかもしれませんが、大方にはほとんど知られていないかも、と思い、まず簡単に冨谷先生の「漢籍と錯誤」なる論文の概要を説明しておかなければなるまい、と思います。
冨谷先生の論文の内容、A5版で33ページに及ぶ論文、を勝手に1ページ弱程度にまとめて申し訳ありませんが、寅七が理解した内容で紹介させていただきます。
【中国で古代から現代に、典籍が伝わってくるまでに、二つのアクシデントに会うと、まず前置きされます。
一つは「錯簡」。まず、古代の文書は木簡や竹簡に書かれていた。それは紐で繋がれていた。時には、その紐が切れていて、竹簡の一片が別の冊に紛れ込んだりする、錯簡が生じると、その例として、論語季子篇の錯簡の例を上げ、宋代の程頤の研究成果の説明をされます。
もう一つのアクシデントは「伝書の誤り」つまり、何回も筆写されて伝えられる間に生じるいわゆる「写し違い」です。それを防ぐために中国で置かれた「秘書省」という組織、その陣容などを説明されます。
それにも関わらず、三国志の場合、邪馬臺から邪馬壹、景初三年から景初二年、という誤りが生じている。古田武彦氏は書き間違いは生じていない、誤謬率はゼロという。しかし、もしそうであれば、日本の古代史は根本から見直さなければならなくなる。
「伝書の誤写」によってこのような状態に陥っているのであるが、その原因は唐代に生じたと思われる。唐代では、第二代太宗が王義之に私淑し、自身も能書家であった。秘書省で典籍の筆写を司る役所では、草書体が「模範にすべき書体」とされたのではないか。そこで、「臺」が「壹」などに誤写されたのではないか。
また、その原因には、当時の中国の我が国についての認識が極めてあいまいであったことにある。それは『旧唐書』で我が国を、「倭」と「日本」と書き分けている、ことなどに見られる】
このように論議される冨谷先生の文章を読んでいますと、「邪馬臺〈ヤマタイ〉」が正しく、どこかで「壹」に間違えられたのだ、ということを一生懸命理屈付けしようとする、気持ちはよく伝わってきますが、さて?というところです。
◆まず錯簡とは何か、について説明されます。
【古代の文献が現代に伝わるまでにいくつかのアクシデントが起こる。そのうち良く起こる二つのアクシデントを取り上げて、それを「資料」として史的考証を進たい】と冒頭で述べています。
次いで、アクシデントの大きなものとして「錯簡」について説明されます。その例として、
【『論語』の文章で、意味が通らない文章があることについて、簡牘から文章をおこす時に綴じ紐が切れていて、その簡牘の順番が錯綜してしまい、結果文章の意味が通らなくなる。このことについては古代から研究がなされていること、宋程頤によって指摘されている錯簡は正されていること】を詳しく述べられます。
冨谷先生は、【その『論語』顔淵篇と季氏篇の錯簡は後漢末だった、と結論づけることができた】と言われます。
余談ですが、この「宋程頤」がいつのころの人物か、この論文には書いてありません。いろいろ調べてみたら、宋の時代の朱子学学者「程頤」の事ではないか、と思われました。この論文は専門家に対してのものなので、程頤と言えばわかってもらえる、丁寧に「宋」と迄つけている、とお叱りを受けると思いますが。
ともかく、冨谷先生は、【簡牘から紙に書写するときに生じるアクシデントが錯簡の原因の一つ】と言われるのです。これについては、特に異見はなく「なるほど」と思われます。
次いで古代の歴史書の注釈が、本文の半分の大きさの字体で二行に分けて書かれていることについての考察をされています。
これについては、特に意見を述べるだけの素養を持ち合わせていませんので「なるほど、なるほど」とお聞きするだけです。以上の説明までで、本論文の約50%を費やされています。
◆伝書の誤り
引き続き、もう一つのアクシデント、「伝書の誤り」について概略次の様に述べられます。
【印刷物として我々が目に出来るまでに、何回も書き写されてきたことは、いうまでもない。またそこに書き間違いがおこること、これまたいうまでもない。
これを防ぐために歴代、国家の機関として秘書省を置き、、唐代では秘書監・秘書丞・秘書郎といった官があり、秘書郎の続巻として、校書郎8人・正字4人・楷書手80人が配置されていた。
特に楷書手は筆写を職務としていた。姚名達によれば、漢代には七度、魏晋には六度、南北朝には十数回、唐代には四度、書物の校定が行われたという。しかしそれでも書き間違い、写し間違いを防ぐことはできなかった】と。
このような典籍の筆写校正についての知識は当方には皆無でしたので、ありがたく読ませていただきました。
そこから、話が『三国志』の場合、と具体的になり、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』の話になります。冨谷さんはいわゆるヤマタイコク問題について、概略次のように述べられます。
◆『三国志』の場合の伝書の誤り
【今日の『三国志』魏志倭人伝の版本では、「邪馬臺国」という国は記されていず、「邪馬壹国」に造っていることは間違いない。
しかし、他の史料、『後漢書』・『梁書』『北史」『隋書』『資治通鑑』『通典』『太平御覧』など全て「臺」としており所謂魏志倭人伝の「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤りと考えられてきたのである。
『隋書』東夷伝に、「倭国は邪靡堆に都す、則ち魏志の所謂、邪馬臺それ也」と記していることも、魏志倭人伝の錯誤をいう傍証となっていたかもしれぬ】と冨谷先生は述べます。
これはおかしいと思います。『隋書』俀国伝には、「倭国」ではなく「俀国」とあり、「俀国の都は邪靡堆」と記しているのです。
なぜ、「俀国」を「倭国」とその理由を示さずに書き変えているのでしょうか。冨谷先生の話を聞いてくれる世界ではそれが通用する、いびつな中国史研究グループであることを、いみじくもこの「俀国」の無視が顕わしているように思われます。
その前提で、次のように古田氏の説を紹介されるのです。
【この学会の「常識」に対して、四半世紀前、敢然と異論『「邪馬台国」はなかった』で古田武彦氏が発表しベストセラーとなった。古田氏は『三国志』全文の「臺」と「壹」を調査し、字体の歴史からも混同される可能性はなく「臺」と書くべきところを「壹」と誤記した例はない。誤謬率0という結論であった】と。
◆景初三年も誤記
しかし、見過ごす事のできないもう一つの誤記を疑われる例があると、「景初二年か三年か」の問題について、卑弥呼が魏からもらった鏡とことと併せて、「景初三年と卑弥呼の鏡」という小見出しを付けて概略次のように述べられます。この項で冨谷先生の「邪馬台国論」が垣間見ることができます。
【『三国志』魏志倭人伝には「景初二年」としている。従来この「景初二年」について、『梁書』から引く『日本書紀』には「景初三年」となっている。景初二年八月に魏が公孫淵を征討しているので、その後の景初三年と考える方が理解しやすいことから「二年」は「三年」の誤りと考えられてきたのである。
これらの違いによって三世紀の日本史の解釈が大きく変わる。邪馬台国が九州にあったのか近畿にあったのか。大和ならにあったとすれば、それはその後の大和朝廷に繋がっていく。
しかし、九州にあったとすれば、大和朝廷と九州王朝との関係、大和朝廷のルーツを改めて考えねばならない。その邪馬台国の位置を特定する重要な要素は、ヤマトとyamataiとの音通であった。いま、yamaichi,yamaiということになれば、奈良大和、大和朝廷は根本的に考え直さなければならないのではないか。
また、景初二年か三年か、一年の差であるが、卑弥呼が魏と外交関係を持とうとした、その派遣の意味が全く異なってくるのである。遼東半島での戦争が終わっていない戦中の派遣か、戦後の派遣か、その辺の微妙な政治情勢をどうして卑弥呼は知りえたのか】と述べ、古田説だと日本の古代史が書き変えられる、とばかりに危機感をあらわにしています。
このように述べる冨谷先生には、邪馬台国=大和の音通がこびりついているように感じられます。俀<タイ>という国名を避けていることと音通についての議論は後に書きます。
◆三角縁神獣鏡と邪馬台国
ここで話は銅鏡に移ります。
【知られているように、大阪や島根の古墳から景初三年の銘をもつ「三角縁神獣鏡」が出土している。それは魏から卑弥呼がもらった鏡の一部と言われている。しかし、景初二年とすれば、卑弥呼がもらった鏡とは言えなくなる。鏡の出土がこれまた邪馬台国がどこにあったのかを示唆する重要な手がかりであったのだ。
景初二年に卑弥呼が遣使した、とすると、三角縁神獣鏡は、卑弥呼がもらった鏡とは一応切り離して考えねばならない。鏡の出土によって、邪馬台国がどこにあったのかを示唆する重要な手掛かりであったのだ】と述べます。
冨谷先生にすれば、鏡銘に「景初三年」とある鏡が出土していることが、遣使の証拠である、と言わんばかりです。冨谷先生は、景初二年か三年かそれを決める確実な根拠をここでは準備できない。と述べ、
【ただ、しかし、やはり古田武彦氏の論証は、その論証にいささか問題があると言わざるをえないだろう】、と方向を古田武彦説批判に変えます。
◆「臺」が「壹」へと「伝写」された
古田武彦氏は『後漢書』が邪馬臺にしているのも『三国志』が「壹」にしているのもどちらもその通りととるべき、と述べています。その理由として、『後漢書』が「邪馬臺」としたのはその時代では「臺」が貴字でなくなっていたことと、倭国の都の名として「邪馬臺」という地名を上げていること、を述べています。
しかし、これらについて冨谷先生の言及はありません。ただ、【『後漢書』か『三国志』どちらかに誤りが生じていることは否定できない】と述べるのです。誤りが生じたのは「伝写」によるものと、冨谷先生の考察が述べられます。
【『後漢書』『三国志』とも編纂されて版本に至るまで6,7百年間の写本の時代があり、その間幾度となく伝写されていて、その間に誤りが起きなかったと何故言えるのか?
つまり著者の誤りでなく、写字生の誤写ということ。誤りは機会が増えるごとに起る確率が高いということならば、むしろ何度か行われた伝写が原因だ、とみる方が自然なのではないだろうか】と。
しかし、前に述べられたように、中国の朝廷では、書写事業には、写字生の誤写が生じることが前提とされて、校正が数度にわたって行われるシステムの中で、特に見慣れない漢字が出てきた場合は特に校正担当者の目が光るのではないでしょうか。
しかも『三国志』が編纂されたのは、280年代であり、それに遅れることおよそ150年後に『後漢書』が編纂されています。その同じ時代に『三国志』について裴松之が詳細な注を付けています。しかし、そこに「邪馬壹国」「壹與」「景初二年」について注釈はつけていません。このことについては、冨谷先生は無言です。
冨谷先生は、今回の論文で、史書を列記するのに、『後漢書』『三国志』の順に列記されています。編輯された年代順に述べるのが、このような場合正当と思われるのですが・・・・。
余談ですが、中国の歴史研究家にとっても、史書によって同じ言葉が史書によって異なることについて研究がなされています。2012年に公表された日中歴史共同研究でもこの問題の一端とその解釈の収め方が見ることができました。
『日中歴史共同研究』の中国側委員王小北京大学教授の論文を読みますと、唐から倭国に派遣されながら、王子と礼を争って、派遣の目的を達成できなかったとされる人物を「高仁表」とします。同じように、『隋書』の俀国は、「倭国」とします。
これらにみられる中国側の歴史家は、「後の史書によって間違いが正された」とする原則があるようです。『旧唐書』の高表仁が『新唐書』の高仁表、『隋書』の俀国は、『北史』の倭国と言うように。まあこれなら異論が出ても申し開きができる、ということなのでしょうが。その例に倣ったのでは? まさかと思いますが、『三国志』の邪馬壹国を『隋書』の邪馬堆ということなのでしょうか。次いで『隋書』の「邪馬臺記事」の話となります。
◆「邪馬臺」が正しいのは『隋書』の記事で分かる
ともかく『三国志』には裴松之がほぼ本文の文字量に匹敵する「注」を430年ごろに加えているのです。ほぼ同時期に『裴松之注付き三国志』と范曄の『後漢書』は完成しています。
このことからすると、『三国志』の「邪馬壹国」も『後漢書』の「邪馬臺国」もどちらもその通りに書かれていた、とする古田説の方が、理が通っているととるのが自然ではないでしょうか。
冨谷先生は概略次の様に述べます。【『隋書』には「魏志の所謂邪馬臺なるもの」とあり、636年頃完成した『隋書』が参考にした『魏志』倭人伝には「邪馬臺」と記されていた傍証ではないか】と。しかし、『隋書』に「俀国伝」とあることについては無言で、「倭国伝」と勝手に変更して知らんぷりです。
◆誤写が起きる原因
冨谷先生は、誤写が生じる原因について概略次のように述べられます。
【誤写について二種類の誤りがある、判断・認識の錯誤(客体の錯誤)と不注意の誤り(緊張の弛緩)である。今問題にしている「臺と壹」、「三と二」は、私は前者「認識の錯誤」であったと考えている】と。
そして『三国志』の二つの誤写が生じたのはいつの頃かについて考察されます。
【唐代から宋の版本にいたる約300年のあいだに伝写の誤りがおこったという憶測ができるかもしれない】と「憶測」と断って述べられます。
次いでこの論文で冨谷先生が主張したい、本丸ともいうべき仮説の提示があります。ここは重要と思いますので冨谷先生の文章を省略を加えず紹介します。
【認識の誤りとは、原本を「壹」と釈読したからであるが、そういう事態が出来するのは、原本が草書体で書かれていたからではないだろうか。
次ページの図を見てほしい。草書体の「臺」と「壹」、これは「臺と壹の字形が似ていないといえるのか。少なくとも私には瞬時に二字を弁別することは、困難であり、「認識の錯誤」がそこに生じても宜なるかなであろう。
そしてことがらは、「三」と「二」、また「三」と「五」においても同じい。百衲本『北史』が「景初五年」に作っているのは、「三」を「五」と誤認したからにほかならず、両字が仮に正書体で書かれていたならば、誤認はありえず、草書体であって初めて起こりうることではないだろうか】と述べられています。
そのあと「正書体」について説明をされます。【「正書体」とは一般に呼ばれる「楷書体」という意味で用いる】と断り書きが付けられています。
そして【草書体が速成の為の書体で発生し、それが、芸術的な面が認められ経緯について蘊蓄を傾けられ、王義之によって完成された】と述べられます。続いて、【その王義之を敬慕してやまなかった唐の太宗が草書の完成者であり、晋祀銘、温泉銘はその頂点を示すものといってよかろう】と言われます。
次の発言が、冨谷先生がこの論文で述べられたかった核心部分と思われます。
◆誤写の原因は「草書」にある
【私は、草書は唐の初期には、楷摸の書体(手本とすべき書体)=楷書とっていた、と考える。従って、楷書手が書写した典籍が草書で書かれていた、特にそれは太宗期以後がそうであった蓋然性は極めて高いと考えられるのである】と。
ただこの文章からは、典籍を筆写する「楷書手」が、示された草書体と同様の書体で筆写したのか、もっと分かりやすい書体、例えば正書体で書写したのか、についての考察は見えません。恐らく草書体で書かれた史書が現存していないから、あいまいにされているのではないか、と勘繰りたくなります。
【いまひとつ、注記しておかなければならないのは、楷書手が書写した書体は、われわれが今日認識している「楷書」、つまりあの四角張った書体(square
style)ではない】とされ、その意味を概略次の様に説明をされます。
【唐代、もしくはそれ以前の時代には、square style の書体は「隷書」「八分」と呼ばれていた。八世紀『書断』に十種類の書体が述べられているが、楷書は見えない。『六典』には校書郎の仕事の内容が記されているが、そこに用いられる字体は五種類の書体「古文・大篆・小篆・八分・隷書を用い、典籍には隷書を用いる、とあり「楷書」という書体名が見えない】、と言われます。
◆唐代の「楷書」とは
唐代の官職の名に「楷書手」というように「楷書」という言葉があることについて、説明を付け加えます。前に唐代の官職名に述べられたように、唐代には秘書省には校書郎は8人、正字4人、楷書手80人など伝写、書写には注意が払われていました。そのよう「楷書手」という言葉があることについて次の様に説明を加えられます。
【「楷書」という語は唐代に存在していたが、それは今日のsquare style ではなく、「手本となる(模楷となる)書体」、もしくは「手本とすべき美くしい書体」という意味に他ならないのである】と。
しかし、校書郎が楷書手に書写を命じたときに、誤認が生じやすい草書スタイル、それがいくら美麗であったとしても、草書体での原本を呈示したとは、常識的には受け入れ難い冨谷先生の仮説呈示です。
唐時代の三書家、彼らが手本にした王義之の書は多く残されています。彼らは草書、行書、にも優れた書跡を多数残していますが、現在の「楷書」的な書跡も多数残しています。冨谷先生は、「臺」と「壹」の両字の草書体は見分けがつかない、と現在の日本の書家の「臺」と「壹」の両字の草書体のコピーを示して読者を納得させようとしています。
唐代ということですから、当時の秘書省の校書郎が楷書手に示したであろう、「臺」と「壹」が草書体で書かれた典籍の断片などを示していただかないと、良識ある人々に冨谷仮説に賛同させるのは難しいと思います。
しかし、唐代、特に二代目の太宗は本人が書に優れていて王義之に心酔していた、とされます。その王義之の書は沢山現代にも残っています。書道関係の出版社天来書院のテキストシリーズ14に王義之の「楷之楷書」(細楷五種)にて存分にその王義之の細字楷書を見ることができます。40ページで1080円で王義之の楷書に接することができます。
仮に、唐代の秘書省ではその美麗なる書体で典籍の筆写が行われていた、としましょう。その後、12世紀、宋代にいたって木版の彫師に渡された原稿は、唐代の摸楷すべき書体とされた、美麗な草書体ではなく、今に残る「いわゆる楷書体」であったことは、冨谷先生でも否定できないでしょう。このあたりの考察、うまく飛ばした考察を、微妙な言い回しで逃れていらっしゃいます。
日本でも、瓦版や錦絵など木版の歴史があります。文字も当時の書体そのもので刷られています。唐代の摸楷とすべき草書体の典籍がそのまま印刷されていたのであれば、ともかく、宋代の秘書省での典籍の木版印刷時の「錯誤と漢籍」についての冨谷先生の考察が見えないのが残念です。
しかし、冨谷先生は、このような反論が出ることを予想されていらっしゃったようです。冨谷先生は、【錯誤の原因を当時の唐人の倭国に対する知識不足が原因ではないだろうか】、と自説の補強を図られています。「臺」と「壹」の錯誤が唐代、太宗以降に生じたという推測を支えるのは、邪馬臺・倭の知名度が低かったからではないかと、冨谷先生は推測を次のように述べられます。
◆もう一つの誤写の原因
【もう一つの誤写の原因には中国の我が国への関心・認識の薄さにある】と冨谷先生は主張されます。
【日本に関する記述が中国側の史料に登場するのは、『漢書』地理志「楽浪海中に倭人あり云々」を以て嚆矢とする。その後、後漢光武帝の「漢倭奴国王」、三世紀の邪馬台国に繋がっていき、やがて6世紀の聖徳太子の遣唐使を巡る煬帝との関係となっていく。
そのころは、日本の国名は未だ「倭」「倭奴」であったが、唐になって、則天武后以降、「倭」から「日本」へと国名が変わり、それが認められる。しかし一貫していえることは、中国の歴代王朝は、なべて日本・倭に関しては関心が薄く、他の周辺異民族国家のなかでも絶域の蛮国でしかなかった】と。
冨谷先生は『宋書』や『梁書』の倭の五王の記事をご覧になったことがないのでしょうか?
『隋書』の多利思北孤王に関係する記事、裴世清の俀国訪問記事など、朝鮮半島諸国との関係も含めて、「絶域の野蛮国」という印象を持たれたとは、中国史専門家の意見として信じられない思いで、ただ呆れるのみです。
最後に次の様に唐人は我が国を「倭国」と日本国」に分けて記載するなど、まったく実態を知らなかった、と概略次の様に述べています。
【『旧唐書』に、倭国と日本とが別国として記され、『日本書紀』の第一回の遣唐使は倭国伝に、第七回の遣唐使は日本伝に記載されている。『旧唐書』の編纂者には倭と日本が同じ国という確たる認識がなかったのだ。
とりわけ、日本という国名が唐に受け入れられ、定着してから、倭、邪馬臺の名は急速に唐人の意識から消えていったに違いない。かりに邪馬臺、倭が「吐蕃」と同じく唐にとって知らないですまされない夷狄であったならば、伝写のあやまりは、起らなかったに違いない。
認識の錯誤は、無知から生じるからである。宋本『梁書』には「邪馬臺」でなく「祁馬臺」となっている。以上のことから、私は、邪馬臺、景初二年の誤謬は唐代になってから生じたと考えたいのである】と締めくくっています。
この最後のことばに、いみじくも冨谷先生の願望が見えています。「考えるのである」ではなく「考えたいのである」という願望が。
◆結語として
冨谷先生の日本の古代の認識に欠けているところが一番の問題ではないかと思われます。一応、冨谷先生の叙述に合わせて、その考え方の問題点とか、理に会わぬことなどを述べてきました。
一番の問題は、中国が古代の日本列島に存在した国の名前をどう認識してきたか、について基本的な考察が抜けているように思われました。中国側の倭人国の国名については、冨谷先生の認識には無意識に抑え込まれたのでしょうか、『隋書』の「俀国」はじめ、かなりの落ちがあります。
そもそも古代ではどのようにわが国は外から呼ばれていたのか。「邪馬臺国」でも「邪馬壹国」でもなかった。漢書にいう「倭奴国」、金印にある「委奴国」であり、『三国志』にある「倭人」であり、『隋書』にある「俀国」であり、『旧唐書』にある「倭国」とあったのではありませんか。
特に、『隋書』の「俀国」について、冨谷先生は「倭国」と誤読されて平然とされているのは、中国史専門家として如何なものか、と思われます。倭国=イコクですから、倭国=壹国という「音通」もあります。この大きな流れを無視して、ヤマタイコク=奈良大和という方向に無理やり論を進めているように思われます。
特に『隋書』の俀国については、朝鮮半島の諸国が「大国」として尊敬しているように書かれていますし、我が国の7世紀の頃の貴重な文献『法華義疏』に「大委国上宮」の記述があるのです。
また、冨谷先生が引用される『後漢書』の記事には、「大倭王は邪馬臺国に居す」と書いているのです。この文からは、当時の倭人国全体を示す国の名は「大倭」であり、その都が邪馬臺国ということではないですか。
またその文章には注釈がついています。(今案ずるに邪靡惟の訛なるか)というのです。つまり范曄は「ヤマイ」が訛って邪馬臺となった、と注釈していることについて、冨谷先生は隠していらっしゃいます。
もう一つ我が国の古代の名前として『日本書紀』(北野本)に残されている国名があります。「貴倭国」です。
(『日本書紀』神功紀六十六年に「倭の女王貢献」の記事があります。 岩波文庫では、「是年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ。」
北野本ではこれは「是の年、晋の武帝の泰初三年初の起居注に云う。武帝の泰初の始、二年十月、 貴倭の女王、重訳を遣して貢献せしむ」と)これは、自称では「大倭」、他称では「貴倭」という表現と取ることもできるのではないでしょうか。
つまり、冨谷先生は我が国の国の名前を探索するにあたり、「ヤマト」に合う国名を文献の中に探しているのです。第一、「臺」が「ト」と読めないのに邪馬臺ヤマダイと音通がある、とされます。当時「ヤマト」という国があって中国と通交したのであれば、もっとましな字、「ト」の音ならたちどころに20字くらいは中学生でも書き出せるのではないでしょうか。それなのに「臺」を「ト」の表音文字として陳寿は選ぶ筈がないのではないか、それが自然だと思われます。
遣唐使の記事に見える冨谷先生の記述、つまり『日本書紀』の記述と異なる書き分けをしている中国の史書が間違っている、という前提での論述という冨谷先生に内在する史観の本質が見えるのです。
しかし、京都大学“人文科学”研究所教授、という立場の人が、邪馬臺は奈良大和以外にはありえないという基本認識で事象を研究・考察していくのは「人文科学」とは縁遠いと思うのですが、その仲間内に入ってしまうと、「人文科学」と言っても恥ずかしくない精神構造になってしまっているのだなあ、と嘆息・嘆息です。
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