槍玉その24 『銅鐸が描く弥生時代』    金関恕・佐原真  学生社 2002年刊  批評文責 棟上寅七

はじめに

銅鐸は今の技術でも複製品を作るのも難しいといわれる、日本で独特に発展した青銅器ですが、その歴史は謎に包まれています。教科書でもお義理のように、弥生時代に祭祀品として使われていた、と述べるだけです。

「銅鐸」という不思議な青銅器を見られた方はみなさん、誰がいつ頃何の目的で作ったのか、どうして記録がないのかなど疑問に思うことでしょう。教科書には簡単に述べてあるだけですが、日本の考古学者の先生方はきっとその疑問に答えてくれる、とこれまた皆さん思うことでしょう。

弥生時代日本列島は二つの青銅器文化、(一つは九州・西日本の銅矛銅剣、もう一つは銅鐸文化)の流れがあったことはどの教科書にも書いてあります。その一つの銅鐸がある時期に突然消滅します。この疑問に考古学会はどこまで解明できたのか、しようとしているのか、その代表例として、近年刊行された銅鐸本の内、銅鐸関係の最も定説的と思われる、本書を俎上に上げて検討したいと思います。本書は日本の考古学者の中で銅鐸についての権威者とされ、最新の銅鐸本でもある、金関・佐原両先生の編になるものです。

著者及び内容の紹介

金関 恕(かなせき ひろし)
1927
年京都市出身。1953年、京都大学文学部考古学専攻を卒業。同大学院をへて、195659年、奈良国立文化財研究所臨時筆生。その間、山口県土井ヶ浜遺跡・梶栗浜遺跡など弥生時代の遺跡や奈良県飛鳥寺、大阪市四天王寺の発掘調査に参加。195996年、天理大学に勤務。同大学文学部教授。現在、天理大学名誉教授。1991年から大阪府立弥生文化博物館館長。

佐原 真(さはら まこと)
1932
- 2002710日)大阪府出身。大阪外国語大学ドイツ語学科を経て、京都大学大学院博士課程修了(考古学専攻)。弥生時代を中心とした考古学研究に携わり、日本人の起源から衣食住にまでわたるその研究範囲は非常に幅広い。分かりやすく面白い考古学を提唱し、考古学の普及啓発を積極的に推し進め、特に博物館の充実・設立に取り組んだ。この『銅鐸から描く弥生時代】が最後の出版本となった。


この本は、紀伊国屋書店BOOK紹介で次のように述べられています。

銅鐸から描く弥生時代 銅鐸はなぜ埋められたか?銅鐸の紋様や絵は何を語るか?銅鐸に秘められた弥生人達の信仰や祭り、生活と社会の謎を解く。 基調講演(日本文化の源流;銅鐸の絵・大昔の絵) 報告・各論(八王子銅鐸発掘記;八王子銅鐸の位置づけ;出雲の大量埋納青銅器;近畿式銅鐸と三遠式銅鐸;銅鐸研究における多角的視点とその成果;マツリの変貌銅鐸から特殊器台へ) 討論・銅鐸から描く弥生時代 】

この本は、愛知県の八王子遺跡という弥生遺跡の住居跡の近くで銅鐸が見つかりました。今までは所謂里山の山腹などで見つかることが多く、住居近くでの出土は滅多にない例であり、この八王子銅鐸をめぐってシンポジウムが企画されたわけです。そのシンポジウムの内容をまとめたのが本書です。

著者(発表者)とテーマはつぎの通りです。

金関・佐原の両大御所の銅鐸についての基礎的なお話の後、若い考古学者6名の方々が、それぞれ分担して発表されています。

樋上 昇(1964年生 関西大)愛知県埋蔵文化財センター調査研究員  *八王子銅鐸発掘記
難波 洋三(1955年生 京都大)京都国立博物館学芸課考古室長 *八王子銅鐸の位置づけ
進藤 武(1962年生 花園大)野洲町教育委員会文化財保護課主査 *近畿式銅鐸と三遠式銅鐸
井上洋一(1956年生 国学院大)東京国立博物館企画展示室長 *銅鐸は吊り下げられていた
勝部 昭(1943年生 島根大) 島根県県立博物館館長 *出雲の大量埋納青銅器
寺沢薫(1950年生 同志社大)奈良県教育委員会文化財保護課主幹 *マツリの変貌 銅鐸から特殊器台へ 

最後に、銅鐸から描く弥生時代というシンポジウムの内容が載せられています。

詳しくこの本の内容をご紹介しようとしますと膨大な内容になります。問題点は何か、というところから話を進めて、その各問題点の説明時に、この本の当該部分を説明していきたいと思います。

問題点とその検証の進めかた

まず、歴史教科書ではどのように銅鐸の紹介されているのかを紹介します。

標準的な山川出版社の銅鐸記事
山川出版社 日本史 (高等学校用)

弥生人の生活(前略)
【集落では、豊かな収穫を祈願し、また収穫を感謝する神祭りがとりおこなわれた。これらの祭りには銅鐸や銅剣・銅矛・銅戈などの青銅製祭器が用いられた。このうち、銅鐸は近畿地方、平形銅剣は瀬戸内海中部、銅矛・銅戈は九州北部を中心にそれぞれ分布するなど、共通の祭器を祭る祭祀圏が幾通りか出現していたことを示している。これらの青銅製祭祀器は個人の墓に埋められることは殆どなく、集落の人々の共同の祭りに用いられる祭器であった。それらは日常は土の中に埋納し、祭りの時だけ掘り出して使用したものと考える説もある。


注:銅鐸は朝鮮式小銅鐸とよばれる朝鮮半島の鈴に起源をもち、銅剣・銅矛などと同じようにもともとは実用の武器であったが、いずれも日本列島で祭祀器用として大型化したもの。(写真なし)】

このように簡単なのですが、他の教科書類には銅鐸を全く記さない本(例えば家永三郎検定不合格日本史)もありますし、山川出版の教科書は銅鐸を取り上げている方です。

右に上げた『銅鐸民族の謎』という本を見つけました。臼田篤伸さんという方が銅鐸の謎に挑んだ本です。素人にも分かりやすく「銅鐸」を平易に勝論理的に説明されています。基本的に古代の日本は多元的であり、銅鐸を用いた人々と、矛や鏡を用いた人々とは異なった文化をもった種族であった、という多元史観に立たれる方の様です。

この臼田篤伸さんの考えと、古田武彦さんの銅鐸民族滅亡の話(『失われた九州王朝』『日本列島の大王たち』『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』の考えを参考に、検討を進めていこうと思います。

問題点とは?銅鐸にまつわる謎とは

銅鐸の定説を槍玉に上げる、といっても今までの槍玉に上げた書物と異なり、中国文献などに出ているわけではありません。銅鐸という古代の遺物をめぐって、いろんな本を読んでみましたが、なかなか常識的な判断は出来ないものだと思います。

一例を「鈕〈ちゅう〉」という取っ手?抓み?の部分の形状についてとりあげます。銅鐸研究の権威者の佐原真さんは、鈕に紐で吊るして鳴らした、とされます。臼田篤伸さんは、その「鈕」の部分の断面が皆、いわばレンズ状になっていることへの解答として、これは棒(たとえば竹)を挿して担いで鳴らしたとされます。

確かに紐で吊るしたとすれば、紐が擦り切れ易い「鈕」の断面形状の理由が分りません。棒で固定したら叩き易くはなります。しかし、多くの銅鐸の鈕の外側には、紐で擦れたような痕跡が残っているのも事実です。あるときは棒で固定し、あるときは紐でぶら下げて鳴らした、ということで良いのではないか、と思うのですが。考古学は難しい、ということで頭を抱えていました。

まあなんとか、問題を整理して、
銅鐸にまつわる謎を以下の9個にまとめて、金関・佐原両氏の『銅鐸から描く弥生時代』での説明と、古田武彦・臼田篤伸両氏の多元古代史観の立場からの説明とを併置してどちらがより理性的に見て正しい方向を向いた説明か、読者の皆さんに判断していただこうと思います。

銅鐸の謎

『銅鐸から描く弥生時代』での説明

多元史観の立場からの説明

銅鐸は何の目的で作ったのか

(金関)弥生時代の始まりの頃、新しい習俗が中国から馬韓・辰韓の国々に伝わってきて、それが日本列島に伝わりましたが、その要素の中に稲作を祈る祭り場があります。東夷伝によれば、鎮守の森の大木に鈴を吊り下げて鬼神におつかえする、という祭りの習俗が書かれている。この鈴というものこそが銅鐸の先祖であろう。

(臼田)同族の証として。銅鐸を鳴らしながら征服して行った。軍事的性格を持つ。鈴が祖型というのは無理。

(古田)銅剣・銅矛が最初は実用武器として作られ、のち祭祀用にデフォルメされた、と同様に、最初は木鐸・金鐸のように「知らせる」役目の軍事的器具ではなかったか。

(「周礼 地官 鼓人」木鐸は木舌なり。文事には木鐸を奮い、武事には金鐸を奮う、とある)のち巨大化し権威の象徴として用いたのであろう。

どこから伝わってきたのか。中国からだとすると、文字がないのは何故か。

(金関)・渡来系(中国江南地方・朝鮮半島)の人たちが縄文系の人たちと混わって急激に人口が増え、金属精錬など新しい文化ももってきた。招き入れたのか、政治的な変動で逃げてきたのか、であろう。

(臼田)中国 三星堆文明という文字なき銅鐸文明からの渡来ではないか。渡来半島経由一元説はおかしい。

(古田) 中国、銅矛にも銘文がないように、銅鐸には刻文しない、という約束事があったのではないか。

どこで造られたのか、材料はどこから?

(進藤) 弥生時代後半になり、石製鋳型から土製に変り、生産地も限られた地域から、各地へと分散していく。
畿内で一元的に製作に携わっていた工人集団が各地に分散していっている。

(井上)材料について・工学的分析法(鉛同位体比法)により愛知の八王子遺跡出土銅鐸は朝鮮半島産の材料が使われていることが判明。製作場所・鋳型と銅鐸の分布は一致しない。極めて限定的な地域で生産された。夥しい量の銅が朝鮮半島から輸入されたのか、国内産ではないのか不明。

(臼田)鉛同位体比だけでは産地は突き止められない。
弥生遺跡で国産鉛も見つかっているし、国内の自然銅が使われたと見るべき。 

(古田)夥しい量の銅であり、国内産の銅であろう。

どのように発展したのか

(佐原)鈕(ちゅう)の部分の変化により製作の新旧・変遷を位置づけ。(形式学研究法)。小型銅鐸から大型へ、聞く銅鐸から見る銅鐸へと発展した。

(古田)銅鐸は「小から大」へ、と常識的な検証をされているが、所謂前方後円墳は、いきなりヤマトで「大」であり、地方へは「小」で波及という非常識な発展を、考古学会は主張している。

描かれた紋様・絵画の意味は

(佐原)銅鐸の絵の解釈の紹介。イメージ画である。イメージ画から漢字は出来た。

(寺沢)銅鐸に描かれた絵画、特に「鹿」の生命力から、古代中国の思想も取り込んだ豊穣の呪器。 絵は神霊の世界を図示している。銅鐸の表と裏で絵が違うのでこの2面性(二元性)を示す。

(臼田)祭りごとの祭具と決めるから絵の解釈もおかしくなる。祭りの根拠を明示せよ。
豊作を祈って、というのに稲作関係の絵がないのはおかしい。
基本紋様は同族性を示すサインであろう。線画は文字発達の初期段階ではないか。

何故埋められたのか

(勝部) 銅鐸埋納の理由には、土中保管・境界埋納・廃棄・隠匿・神への贈与などの諸説があるが、次の3つにまとめられる。
(1).集落の統合により寄せ集めて埋めた。
(2).神の恩恵を願って大地の神へ大量の贈与
(3).邪悪なものが境界から入ってこないように。

(臼田)「埋納」というからおかしくなる。埋められたのではなく埋まったのだ。大量に出土しているのは、元々、下賜または分配のための集積所が、戦争に負け、そのまま遺棄されたのであろう。

(古田)敵の襲撃により、銅鐸は隠された。埋められた。あるいは見つけられてこわされ、溶かされて銅の鏃に作りかえられた。

何故壊されたのか、何故消滅したのか

(進藤) 破片となった銅鐸出土は見る銅鐸。それも近畿式銅鐸に多い。破片出土の銅鐸が全て故意に裁断されたとはいえない。再利用された場合もある。近畿式銅鐸に限って破砕行為がなされたと考えられる。

・弥生終末期にはより急激な社会変動を来たしたようだ。集積・埋納され一部は破壊破棄され銅鐸祭祀は終焉する。これは、広域社会の崩壊を意味し、新たな地域社会の幕開けと理解できる。

(寺沢)銅鐸が消えたのは、「マツリが変わったのだ」とされ、吉備地方の古墳に見られるようになる特殊器台という(埴輪の元祖とされる)のに変わった(と寺沢さんは主張しているが、金関先生は寺沢説とされる)。

(古田)大和には初期銅鐸の出土はあっても所謂後期の「聞く銅鐸」の出土がない。 銅鐸学者は何故、神武東征伝承を避けてとおるのか。

『ヤマトにおいては弥生中期では、「銅鐸盛行の時代」として「銅鐸」そのものや鋳型が出土する。ところが「無金属期(銅鏃を除く)」に近い「弥生後期」(前半)を経て、「銅鏡盛行」の時代」が始まる。この「銅鐸~銅鏡}の変転について、これを同一地域の、同一種族による(自然なる)変転」とみなすことは、人間の理性、その常識において困難だ。
「銅鐸という自己の地伝来の『宝物』(神器)を捨て、他地域(北部九州)の『宝物』(神器)たる銅鏡を取る。」というには、単なる「流行の変移」などにあらざる、決然たる意志が不可欠である。』

(臼田)神武東征伝承として古事記などに残っているように天孫族により消滅させられた。

何故銅鐸にまつわる伝承説話が残っていないのか

(金関)弥生時代が終わるとともに銅鐸の存在は忘れられ、平安時代の識者は掘り出されたものを、前3世紀の仏教(インドの阿育王)の宝鐸とした。
(「石山寺縁起」に宝鐸の出土をもって、この地は忘れられた古代仏教の聖跡であろうと書いている。)

(古田)日本書紀の編者は知っていた、と思われる。「その音 律にかなう」などと云っている。
銅鐸そのものの記述はなくとも、銅鐸世界に侵入した銅剣銅鏡族が、銅鐸族を次第に駆逐していく姿を記紀に見ることが出来る。銅鐸の一大生産地東奈良の遺跡が銅鐸国の中心であったと思われる。

(臼田)中国においても、黄河上流の成都に近いところに栄えた、三星堆文明が殷王朝に滅ぼされたことについては、全く史書に残っていない。敗者は徹底的にやっつける、のが古代の戦い方。


以上のように、金関・佐原両先生をはじめとする、定説の方々の、疑問についての説明と、古田・臼田両氏の、同じ疑問についての説明を併記してみました。

読者の皆さんにはそれぞれの感想がおありと思います。

まとめ

当研究会の「銅鐸の謎」についての定説に対する感想を述べて、まとめとしたいと思います。

今度の槍玉に、「銅鐸」をとり上げようと思った時、前回の「古墳」よりも大変だろうな、とぼやいたら、ノリキオ画伯が「銅鐸の重みで潰される寅七」のイラストを書いてくれました。
銅鐸の重みに音を上げる寅七

閑話休題、「銅鐸の消滅」問題に教科書は勿論、定説の歴史学者の方々も触れたがらないのは、所謂、「神武東征」なり東遷に繋がる事を知っているからだと思われます。つまり、神話を信じる時代錯誤者と思われるのがコワいのでしょう。

銅鐸という立派な文化を残した我らが祖先に対して、もっと具体的に、わからないならわからないと、謎なら謎なりとして、民族の後輩としての出来る限りの評価をしてあげなければ失礼ではないかと思います。

この銅鐸から描く弥生時代はなかなかまじめに書かれている本ですが、この所謂ピラミッド型の報告書では、各論は、御大が示す大枠を外れることは出来ないだろうなあ、お弟子さん達も逆らえないだろうなあ、というのが一番目の感想です。

井上洋一さんという方が「銅鐸の埋納」について、従来の埋納説では説明できないことがある、と正直に述べていらっしゃいます。しかし、先輩先生方の「埋納」という言葉に束縛されて思考がそれ以上に展開されていないのは残念です。

同じくお弟子の寺沢薫さんという方は、銅鐸が消えたのは、「マツリが変わったのだ」とされ、吉備地方の古墳に見られるようになる特殊器台という(埴輪の元祖とされる)のに変わった、と説かれます。説得力に欠けるように思いました。「マツリの内容が何故変わったのか」、日本列島全体の動きの中で、その変化を見なければならないのではないか、と思うのですが。

進藤武さんは、注目されるべき見解を、要約次のように述べられています。【破片となった銅鐸出土は大型銅鐸かつ近畿式銅鐸に多い。破片出土の銅鐸が全て故意に裁断されたとは云えないし、再利用された場合もある。近畿地域の大型銅鐸に限って破砕行為がなされたように思われる】と
しかし、では何故?という方向の話は、両先生に遠慮してか深入りされていません。

結局のところ、銅鐸から描く弥生時代』という本は、金関・佐原両先輩の敷いたレールの上を、若い学者が走らされているようです。「埋納」と「『記・紀』伝承無視」という2本のレールに6人の若い考古学者は束縛されているようです。C型肝炎治療薬の問題で、厚生関係官僚の対応が今、大きな社会問題になっていますが、根は同じなのかなあ、日本社会の構造的なところから来ているのかなあ、と暗澹たる思いになります。

在野の臼田篤伸さんが、のびのびと銅鐸民族の謎』を出されて、銅鐸の謎に迫っていらっしゃるのを、彼らアカデミックの傘の下の銅鐸考古学者はどう見ているのでしょうか、お聞きしたいものです。この臼田さんの本は、金関・佐原さんという斯界の大先生が著わした『銅鐸から描く弥生時代』よりよっぽど面白いこと請け合いです。

まず最初に、古代遺跡見学の素晴らしさ楽しさを語られ、次いで、考古学の現状について次のように云われます。【わが国の考古学の現状は、銅鐸が「祭りごとの道具」の証拠もないし「埋めた」証拠もない。あるのは主に考古学専門家の主観の世界。「祭りのカネ」と「埋納」を前提とした古代史学から、弥生の謎が凝縮されている銅鐸への迫力ある考察がうまれるのだろうか】

当研究会もこの臼田さんのこう仰ることに同意出来ます

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参考図書

古田武彦 失われた九州王朝
古田武彦 日本列島の大王たち
古田武彦 古代に真実を求めて第4集 箸墓古墳発掘 
古田武彦 ここに古代王朝ありき 邪馬壱国の考古学
古田武彦 日本古代新史
臼田篤伸 銅鐸民族の謎
志村史夫 古代の超技術
内倉武久 太宰府は日本の首都だった
邦光史郎 消えた銅鐸族
朝日新聞 古代史を語る 朝日撰書