槍玉その17 『日本の誕生』 著者 吉田 孝 岩波新書 2006年刊  批評文責 棟上寅七

著者の紹介 

この本の奥書によりますと、1933年愛知県生まれ・東京大文学部卒・同大院国史学専攻修士課程終了・山梨大学教授、青山学院大教授を経て、同大名誉教授、という立派なご経歴の先生です。

ご著書は、『律令国家と古代の社会』岩波書店)、「古代国家の歩み(大系日本の歴史3)」(小学館)、「日本の誕生」(岩波新書)、「飛鳥・奈良時代(日本の歴史2)」(岩波ジュニア新書)、歴史の中の天皇」(岩波新書)など沢山あるそうです。

この本を取り上げた理由


寅七の、ホームページの槍玉予定リストを見てみましたら、リストに上げた残りが少なくなっているのに気付きました。その内の、吉田孝先生の『日本の誕生』を読んでみました。

流石、岩波新書で、インテリ向きかも知れませんが、寅七には丸で教科書ふうな感じで、面白味に欠けるように思われました。

しかし、今までの槍玉に上げた中で、まだ取り上げていない、”聖徳太子の遣隋使問題”を取り上げるには、よい題材の本かも、と思い直したところです

もう一つは、この本で、吉田先生は倭王武=雄略天皇と断定されています。
槍玉その3で、安本美典さんの『倭の五王の謎』を槍玉に上げましたが、倭王武=雄略に的を絞っての検討ではなかったので、ここで改めて論じる価値はあろうかと寅七は思います。

それに加え、 この”日本の誕生”という本は、日本を見て行く、つまり、日本の歴史概観とでもいうものです。
日本国号問題につきましては、槍玉その8武蔵義弘先生の『抹殺された倭王の謎』でとりあげましたが、『日本の誕生』を説明するのが吉田先生の主眼でしょうから、この点も検討の俎上に上げたいと思います。

内容の紹介

ともあれ、この本をお読みになっていらっしゃらない、読者に内容を簡単に紹介したいと思います。

この本は、著者が本書の終わりで、”人類史のなかで、日本を相対化するための一つの作業”といっておられるように、日本・日本国・日本人・やまとごころ、などの誕生を俯瞰し、日本の成り立ちを見ていく、ということにあったようです。

その試みがどうであったか、当研究会の検討結果を見て、判断していただきたいと思います。

この本は、岩波新書の所謂企画本と思われます。かなりレベルの高い読者を想定して書かれたと思われます。

先ほど述べました、日本を相対化して云々、とか、『万葉集』や『古今和歌集』の和歌などを14首ちりばめる、とか、岩波新書の読者層に合うような本に仕上げていらっしゃるのは流石と言えるでしょう。

以下 内容の簡単なご紹介です

序章、「それでは憶良がかわいそうだ」
山上憶良の歌”いざ子ども、早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ”を巻頭に掲げ、憶良がなぜ日本とここで使ったのか、後世の人がこの”日本”に”やまと”と訓じることは、憶良の本意ではないのでは、いうことから話はスタートします。

第一章、東アジア世界と「倭」の出現 
倭国の中国史書における出現と当時の東アジアの情勢を概観されます。

第二章、倭の女王と交易 この章では主に、『魏志』倭人伝が伝える卑弥呼について、著者の見方を伝えています。
著者の興味は、例えば”都市牛利”の都市は姓なのか官名であるのか、などの考察にページを費やされるが、肝心の邪馬壱国はどこにあったか、ということには全く言及していらっしゃいません。

第三章、大王(天皇)にも姓があった 
この章では、4世紀~5世紀の倭をめぐる史料やそれから解釈される情勢を述べられています。
史料として、高句麗の「広開土王碑」と『宋書』のいわゆる倭の五王関係の記事が使われています。この中で、倭王武は雄略天皇に間違いなし、という著者の、説明抜きの、論断があります。

第四章、東海の帝国の道
この章で、6~7世紀の倭と中国との関係を、主として『日本書紀』の記述を主な論拠として、聖徳太子の遣隋使、その後の遣唐使などを通じての東アジアとの交流の歴史が述べられます。
中国の史書『隋書』には”俀(たい)国伝”とあるのですが、説明もなく”倭国伝”とされます。『隋書』には、”倭種””倭人”など”倭”と”俀”の表記はきっちりと書き分けられていて、アメノタリシホコ王朝が自ら俀国王(日出ずるところの天子)と名のったのは当然と思われるのですが、これらの疑問点には全く触れようとされていません。

第五章、クーデターと「革命」
壬申の乱及び、701年の大宝律令以降の大和政権の発展について記述されます。壬申の乱は、単なる大和朝廷内の叔父甥の跡目争いでなく、革命であった、と述べられます。このことが、次章の日本の国号成立に深い関係があるとされます。

第六章、「日本」の国号の成立
この章の小見出しから内容が推測出来るでしょう。アマテラス=天照大神の登場、「日本」の国号はいつ成立したか、日の出と「日本」、天皇号の成立、等々です。

第七章、大仏開眼と金 金が古来日本国内に産出せず、朝鮮半島に頼っていたが、8世紀後半にはいり、国内煮の金の産出をみるようになり、新羅との緊張がその頃高まって来たのは、金の産出がないという対新羅コンプレックスからの解放も関係あるかもしれない、と説かれます。

第八章、ヤマトの古典的国制の成立
8世紀以降の政治制度の進展について『続日本紀』などの史料を基に述べられます。

終章 ヤマトと「日本」大和ヤマト
日本の語源などについて、いわば著者の薀蓄を傾けていらっしゃいます。


問題点は?

この『日本の誕生』という本は、日本の成り立ちを見て行く、つまり、日本の歴史概観とでもいうものです。

各章に問題点は沢山ありますが、この本を取り上げた理由で述べましたように、この本で取り上げる主な問題点は以下の3点です。

I 倭王武=雄略問題
II
遣隋使は誰が送り出したのか(タリシホコ=近畿王朝の天皇説)

III 日本の国号の始まり、

の3点です。

この本の問題点として特記したいことは、外国史書の記述を正しく伝えない、又は、一部を読者の目から隠す、などの点が多く見受けられることです。
特に、我々の研究会にとって”何故?”と思われますのは、参考図書に古田武彦さんの『失われた九州王朝』を上げられているのにも拘わらず、本文の中では、全く顔が出ていないことです。

”古田さんの説は読んでみたけど、ここに取り上げるほどのこともなかった”と仰りたいようです。
ホームページで、前回の槍玉その16で取り上げました、『邪馬台国論争』の中に、「京大教授内藤湖南が、反対論文に対しては、無視することが一番の反論だ」 というような意見だった、と言うようなことを、佐伯有清さんが書いていますが、全くそれを踏襲していると思われます。

だからといって、寅七はあまり熱くならず、今回のホームページでは、なるだけ良識的に判断し、読者の皆さんのご判断を仰ぎたいと思っています。


I 倭王武=雄略問題青色字の文章は『日本の誕生』から抜粋した文章)

小説家の歴史本はそれぞれ個性がありますが、まあ、この『日本の誕生』は全く教科書的本のように寅七には思われました。

吉田孝先生は、『日本の誕生』のp60以降に 倭王の武 として項目を立てて次のように述べられます。

さて倭の五王のうち、最初の讃・珍が、『古事記』『日本書紀』の応神・仁徳・履中・反正の誰にあたるかは明確でないが、あとの済・興・武が、允恭・安康・雄略に当ることは、ほぼ間違いがない。
なかでも武は、記紀の雄略、すなわちワカタケルにあたることは確実である。
ワカタケルの「タケル」を中国風に「武」と表記したのである。

武が宋の皇帝に奉じた上表文は、次の文章で始まる。
封国は偏遠にして藩を外になす。昔自(よ)り祖禰(そでい)躬(みずか)ら甲冑を?(つら)ぬき、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海の北を平らぐること九十五国】

そして、【高句麗は無道にも百済を併合しようとし、国さかいの人びとを略奪し、殺害することをやめません。そのために陛下への朝貢がとどこおりました。わたしの亡き父〔済〕と兄〔興〕があい次いで没したため、頓挫してしまいました。どうか私を高い武官に任命して、はげまして下さい”とつづくのである。
武は、中国皇帝の徳をひろめ、領域を拡大するために、自分の祖先は、東方、西方を征服し、海北の朝鮮半島で戦ってきたと訴えている。それはまさに、「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の職責であった


続いて、p61以降に、ワカタケル大王という項目で、【埼玉県の稲荷山古墳から出土した、鉄剣の銘文に「辛亥の年(471年)ワカタケル大王」とあり、雄略天皇の治世である証拠】、と述べられています。

そして、【この倭王武=ワカタケル(雄略)は間違いない、と吉田孝先生は断言されています。

しかし、断言されるにはかなり高いハードルを越えなければなりません。

第1点は、武と雄略の治世の時期の違い(中国史書の年代記述が間違っている、と主張されるのなら、その根拠を示されるべきです)

その点をハッキリさせようと、「倭王武と雄略天皇関係年表」を、中国史書と日本書紀から作成して見ました。(下表 倭王武と雄略天皇関係年表参照)

まず、即位時期が4年違っています。

それに、雄略天皇が亡くなった後、なんと28年後に宋の皇帝から朝鮮半島の国々を含む大将軍に任命されているのです。

このこと一つだけをとっても、別人だろうと思うのが常識的判断ではないでしょうか?

第2は、倭王武の上奏文にある、共に父兄を失い・・・の記事と『日本書紀』の各天皇紀の記述の不一致です(済と興が一緒に死んだと上奏文にはあるのです)。

允恭天皇と雄略天皇の兄弟(安康天皇若しくは軽皇子)の両名が一緒になくなった、というような記述は全くありません。

これをどう説明されるのかと思いましたら、次のように”誤訳”で処理されています。

つまり、”奄(とも)に父兄を失い”、とあるところを、”相次いで、と意識的に誤訳をされています。

相次いで、としても『日本書紀』に拠れば、允恭・安康・軽皇子の没年は、奄(とも)にの表現には程遠いのです。

このあたりを、どう説明されるのでしょうか?(説明できないから、意識的誤訳をされたとは思いたくありませんが)

くどいかもしれませんが、このところを少し詳しく検討しておきたいと思います。

奄の意味  ”ともに”、以外に、”たちまち”、とか、”にわかに”とかあるようですが、”あいついで”という意味はないようです。

寅七が調べてみたことを、寅七の古代史本批評ブログで次のようにボヤイています。

倭王武の上奏文のところで、大学の先生なのにずるいなあ、と思いますのは、上奏文の中で、倭王武が「・・・奄に父兄を亡くし云々・・」と言うところがあるのです。
そこを、吉田孝先生は「・・・相次いで父兄を亡くし云々・・」とされます。

古田武彦さんは、『失われた九州王朝】の中で、「・・ともに父兄を亡くし・・」と読まれています。
古田先生は、そのご著書『失われた九州王朝】の中で、奄、同なり(集韻)、又、尽なり(蔡伝)で、「おなじ、ともに、ことごとく」である、とされます。

私の漢和辞典には載っていません。GOO辞典にもありません。

古語ですが、一応中国の辞書、上海辞書出版社の”辞海”を引いてみました。

 ① 覆蓋。忽。遽。古都邑。 ② 気息微弱貌。淹。閹。吉田先生の、”相次いで”という訳は、どうも無理筋の訳と思われます。
武王を雄略天皇としますと、その父兄(允恭・安康・軽皇子など)の死亡の状況は、同時にとか、あわただしくとか、というようには亡くなっていません。(安康天皇は、横恋慕で取り上げた奥さんの連れ子に寝首をかかれますが)

吉田先生、気付かれないかと思って、”相次いで”と自説にあわせての意訳はずるいなあ、と思います】


倭王武と雄略天皇の在任や中国史書の関係記事を年表にしてみました

これを見れば、倭王武=雄略天皇説は明らかにおかしい、と言うことが一目瞭然と寅七には思われます。

ところが、日本の歴史学会、古代史先生方の中でも論客として知られる、吉田孝先生は、倭王武=雄略は間違いないと断言されるのです。

倭の五王は、近畿のヤマト王朝の歴代の天皇でない筈がない、という信念に凝り固まって、赤い真実は赤いフィルター越しには見えないのと同様、真実が見えなくなっているのではないかと思われます。
未だに、麻原某を生き仏と信じる方も存在しているのと同様かなあ、とは寅七の慨嘆です。


倭王武と雄略天皇関係年表

 西暦  中国史書の記事   日本書紀の記事       備考

413  倭国王朝貢                 梁書(諸夷伝)
430  倭国王貢献                 宋書(帝紀)
438  倭王珍授号                 宋書(帝紀)
433  倭国貢献                  宋書(帝紀)
443  倭国貢献                  宋書(帝紀)
451  倭王済進号                 宋書(帝紀)
456              雄略天皇即位    日本書紀     
460  倭国貢献                  宋書(帝紀)
462  倭王興授号                 宋書(帝紀)
471    (辛亥年            稲荷山鉄剣銘文
477  倭国朝貢                   宋書(帝紀)
478  倭王武授号(即位か)             宋書(倭国伝
479              雄略天皇歿     日本書紀
479  倭王武進号                 南斉書(倭国伝)
480              清寧天皇即位     日本書紀
485              顕宗天皇即位     日本書紀
488              仁賢天皇即位     日本書紀
498              武烈天皇即位     日本書紀
502  倭王武進号                  梁書(帝紀)
507              継体天皇即位     日本書紀

この表から見れます様に、倭王武の即位の時期ははっきりしません。
『宋書』帝紀の477年の朝貢記事に倭国王の名前がありません。ですから、これは常識的には倭王興の遣使ととってよいと思います。

①大まかに言って次の二つの年代が問題なのです。上の表を見ていただきますと分かりますように、雄略の治世は23年ですが、武は40年前後程度在位と中国の記録にあります。

479年の進号の記事に見えますように、宋の皇帝から朝鮮半島の任那を含む六国諸軍事・安東大将軍の称号を受けています。『日本書紀』の死亡時の干支表記によりますと、雄略天皇は476年に亡くなっています。なくなった人に授号したのでしょうか。

③何といっても稲荷山鉄剣が作られた「辛亥年」には倭王武は即位していないのです。まだ倭王興の時代なのです。『梁書』には、引き続き502年にも同様の授号の記事があります。 やはり、倭王武と雄略天皇は別人と見るのが、理性的的判断ではないでしょうか?

それにつけても、「何故、『記・紀』に倭王の記事がないのか」、ということに疑問を全く持てない専門家の頭は、天動説が理解できなかったカトリック司教達と同じ頭のように、寅七には思われます。

古田武彦さんが、高校生にも理解できるように噛んで含めて、倭王武は雄略天皇ではありえない、と『失われた九州王朝』で論証されていることを、無視されるのは、理解に苦しみます。

このように、倭の五王と近畿王朝とは無関係、ということになりました。それは近畿のヤマト王朝の責任ではありません、無理に後世の古代史研究家が、「日本には大和王朝以外には王朝などあるわけがない」という思い込みで、勝手に倭王武はヤマトタケル=雄略天皇と押しつけてきたのですから。


Ⅱ遣隋使は誰が送り出したのか(タリシホコ=近畿王朝の天皇説)

今年は、その聖徳太子の遣隋使派遣1400年にあたるそうです。
教科書にもそう書いてかいてあります。この点では、扶桑社の新しい歴史教科書も同様です。

従いまして、吉田先生が、教科書通りに記載されることがどうして槍玉に上げられなければならないのか、と読者の方々はお思いになることでしょう。
後ほど述べていきますが、古代史の専門家として、史資料に対してあまりにも、その取り扱い方が、非科学的と思われるからです。

史料でも、自分の主張に合わない史資料は、無視し、読者に紹介しない、つまり岩波新書という所謂インテリ層?に対して誠に失礼と思います。

吉田孝先生は次のように述べられています。(p86~)

『隋書』倭国伝には、次のような記事がある。
開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞彌と号す。使を遣わして闕(けつ・みやこ)に詣らしむ。(中略)ここで注目されるのは、遣使した倭王(記紀の推古天皇)のことを、「姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩?彌(あめきみ、もしくはおほきみ)と号す」と記していて、同じ隋書の高句麗・百済・新羅の王の記事と著しく異なっていることである。
三国では、かって中国王朝への朝貢を契機に用い始めた「高」(高句麗王)、「餘」(百済王)、「金」(新羅王)という姓をそのまま用いており、滅亡するときまで、国の内外を問わず、用い続ける。(中略)
倭の五王もかっては「倭」姓と「讃・珍・済・興・武」という中国風の個人名を用いたが、武を最後に中国との通交を絶って冊封体制から離脱すると、中国の「姓」の制度から離脱したのである。
それではここに「姓は阿毎」とあるのは、ふたたび倭王が姓を称したのであろうか。おそらくそうではないだろう。
遣使は当然、倭王の姓・名を尋ねられたであろうが、当時の大王の通称であったと推定される「アメタラシヒコ」とか「オホキミ」(または「アメキミ」)と答えた可能性が強い。
中国の役人は、倭王にも当然、姓はあるはずと考えていたので、「アメタラシヒコ」の「アメ」を姓と解したのかも知れないし、あるいは問い詰められた倭の使者が、苦しまぎれに「姓はアメ」と答えたのかもしれない


俀(たい)国王の阿毎多利思北孤は、607年には国書を隋の皇帝に出しているのです。これに基づいて、『隋書』は記録しているのです。(『隋書』の完成は656年唐の高宗の時です。)
国書に出書者の自署名がない国書があるわけがない、と、古田先生に教えていただきましたが、寅七もそう思います。

だから、姓は「阿毎」、名は「多利思北孤」と中国の正式の歴史書に記載されたのだ、と思う方が常識だろうと思います。
大学の先生ともあろう方が、「使者が苦しまぎれに云々」など、こんな言い分は寅七の小学生の孫でも使わない言い訳に等しいと思います。

また、「姓は阿毎」は、後代の史書『旧唐書』にも出てきます。
その『旧唐書』倭国伝に 「・・・その王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて、諸国を検察し、皆之に畏附す、官を設くる、十二等あり」 とあります。
隋書』俀国伝に、姓は阿毎氏とはっきり書いてあるのを、意識的にか、吉田先生は触れられていません。

この遣隋使についての基になっている、『隋書』俀(たい)国伝の607年の記事は次のようなものです。俀国王アメノタリシホコからの、日出づる処の天子云々の国書が、隋の煬帝を激怒させたとあります。

この記事を、『日本書紀』では、あたかも、聖徳太子が出した国書のように掏り変えているとしか思われないのです。

大体、タリシホコは男王ですし、当時のヤマト朝廷は推古天皇(女帝)なのです。
『日本書紀』では、聖徳太子の遣隋使が持参したのは608年で、1年食い違いますし、国書の内容も、東の天皇恭しみて、西の天皇の申すという国書となっています。

ここらあたりの出来事を史料に従って年表にしてみました。

遣隋使関係年表

西暦

中国史書の記事

日本史書の記事

備考

593年

推古天皇即位

女帝

600年

多利思北孤の遣使

'

妻の名は

607年

多利思北孤の遣使
国書・僧侶多数

小野妹子の派遣
鞍作福利通事

日出づるところの天子・・・の国書

608年

俀国へ使者裴清派遣この後、遂に絶つ(国交が絶えた)

隋 琉求国へ侵攻

4月 裴世清筑紫到着
8月 裴 京に入る
9月 裴 帰国

妹子再派遣(国書)

東の天皇、敬みて西の皇帝・・・の国書

609年

'

妹子帰国

'

614年

'

犬上御田鋤派遣

'

615年

'

犬上御田鋤帰国

'

619年

隋滅亡 唐王朝成立

'

'

629年

'

推古天皇没

舒明天皇即位

'

630年

'

犬上三田鋤派遣

'

631年

倭国朝貢、高表仁派遣

'

'


『隋書』俀国伝と『日本書紀』の食い違いのある諸点

 沢山ありますが、寅七が見るところ、主なところは次のようなところでしょう。

①600年の遣隋使の記事が『日本書紀』に見えないこと。

②俀王タリシホコ(妻は雞彌)などの名前が『日本書紀』などに見えないこと。

③同時期の近畿王朝の天皇は推古天皇であり女性であること。

王の太子の名が、利歌弥多弗利という名で、これも当時の近畿王朝にこの名が見えないこと。

⑤俀王の姓が”阿毎”とあり、近畿王朝にその姓の記録がないこと。

⑥国書の、内容及び遣使時期の違い

⑦中国側の記録、”俀国とその後ついに絶つ”、と国交が途絶えた、という記録は日本側にはないこと。

国の風物の最たるものは、阿蘇山が上げられ、瀬戸内海や琵琶湖、富士山などが上げられていないこと。


8個の問題点の検討

これらの問題点をどのように吉田先生はクリヤーされたのでしょうか。

①、②について 吉田先生は、”『日本書紀』は意図的に載せなかったのではないか”(同書p87)とされますが、どういう意図なのかの説明は全くありません。

③、④については全く言及がありません。この辺の『隋書』俀国伝の記事を全く紹介していません。p90に”隋の皇帝に対するに推古朝の倭王”という表現でいわば逃げています。
都合の悪いことについては、史料を読者の目から隠す、というところが非常に多い本です。タリシヒコは男王であり、推古天皇女王との矛盾について、吉田先生が古代史の専門家であれば、何らかの見解、分からないなら分からないでもよいのですから、率直に示すべき、と寅七には思われます。

について 吉田孝先生は『日本の誕生』の中で、【7世紀はじめ、中国に朝貢したタリシホコは姓を問われ”アメ”と使者が答えたようだが、それ以降、わが国は中国の冊封から離れ自立したので、現在の天皇に姓がない】、というように話を持って行っています。
常識で判断すれば、タリシホコは”アメ”という姓を持っていて、今の天皇家に姓がないのであれば、タリシホコさんは今の天皇家の祖先ではない、ということになると思うのですが、寅七の考えはおかしいでしょうか?

について 
p90に【小野妹子が607年に持参した国書が「隋書倭国伝」に記されている。”その国書に曰く、日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す、恙無きや云々と書かれています。

まず、
(イ)史書の名を俀国(たいこく)伝を勝手に倭国(わこく)伝と説明もなく書き換えていること。
(ロ)小野妹子が持参した国書は608年の派遣の時(『日本書紀』に記録あり)
(ハ)日出づる処の天子云々の国書は607年に俀国の使者が持参している(『隋書』俀国伝に記事あり)

つまり、隋書の記録にある俀国の派遣使者は小野妹子である、という結論に持って行くために、史書の記録を捻じ曲げて、この『日本の誕生』の読者に伝えています。

については、『隋書』俀国伝に、”大業四年(608年)この後、遂に絶つ”という記事があることには、吉田先生は、全く触れられていません。
これに触れますと、吉田先生の、俀国(たいこく)=倭国=近畿王朝説では、”608年で、隋と近畿王朝の関係は絶たれた”、という結論になるわけです。

ところが、日本書紀によりますと、推古紀22年(614年)に大唐に犬上君御田鋤を派遣し、などあり、その後も交流は続いています。
つまり、吉田先生説は矛盾というか、自家撞着に陥るわけです。
このように、自説に合わない(説明不可能な)ところは、読者の目に触れさせない、ということに腐心されているように寅七には思われてなりません。

について、吉田先生は、全く触れられていません。
このような多利思比孤=近畿王朝の天皇に相容れない記事、不利な記事は読者に見せないように、いわば情報管理を吉田孝先生はされています。

追記しておきたいと思いますのは、『隋書』には、”アメノタリシホコには息子(太子)がいる、名は利歌弥多弗利”とあることを、吉田先生はこの本に一言も書いていません。

タリシホコを推古天皇とするには、推古天皇は女性だし、じゃあ息子の聖徳太子をタリシホコに当てると、利歌弥多弗利などという息子がいたのだろうか、ということになります。(山背大兄、山尻王、山代兄王などと名乗られた王子がいたことは、『日本書紀』などにありますが) 都合の悪いことは隠す吉田先生の態度は、この本の読者(岩波新書という高級インテリ層?)に対して失礼ではないかなあ、と寅七には思われます。

以上検討してみましたが、吉田孝先生は、都合が悪いことは読者の目から遠ざける、自説に都合が良いように史料の辻褄合わせを試みる、参考資料に反対意見(例えば古田武彦さん)の書名のみ上げ、実質は全く無視する、という態度が見えすぎるように思います。

結論的には、この多利思北孤と推古天皇は、別々の国の代表者としてみる、別人だ、とするのが最も妥当な判断だろうと思われます。

別の王朝があった、とまで思えずとも、九州地方の豪族が中国と直接やりとりをしていた、という可能性を入れたら、全ての矛盾点が氷解するといっても過言ではない、と寅七は思います。

もし、このルビコン川を吉田先生が渡ることが出来ましたら、先生の今後の学者としての発展の展望も、開けてくるのではないか思われます。


年表を作っていて思ったこと。

ところで、多利思北孤と推古天皇の関係ですが、年代も性別も合わない、こんな理屈に合わない話を、今の若い人たち、例えば高校生などは、日本史の教師の言うことを無条件に受け入れるのかなあ、少し賢い生徒は先生いじめのタネに質問するのではないかなあ、と気になりました。

河合塾の日本史担当の石川晶康先生の『石川の日本史B』語学春秋社 という本があります。
その石川先生の、そのところの講義をちょっと見てみました。

同書p94あたりにありました。(太文字は、寅七、赤文字は石川先生)

【600年に「倭王姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞弥と号す云々・・」 倭王が使いを送ってきた。
「阿毎」、「多利思比孤」は天皇(大王)と考えておくしかない
(中略) 文帝は役人に日本の様子を尋ねさせた。 日本側には記録がないので、詳しくはわかりません。 
この時の倭王、倭の支配者は推古天皇ですけどね。 
使者の名もよくわからないし、書いてあるのはただこれだけ

石川先生も、アメのタリシホコについての推古天皇王朝の誰に当てはめるか、ということの難しさを知っていらっしゃるのでしょう、 「天皇と考えておくしかない」とか、 「この時の支配者は推古天皇ですけどね」、 とか苦しい表現をされています。

しかし、吉田孝先生に比べれば、非常にまともな、戸惑いも露わな説明です。

なお、この本は、文章だけでなく、CD付きですので、石川講師の戸惑いを含む音声を聞くことが出来ます。
教壇に立つ教師に、このような苦しい表現をさせる原因は、故井上光貞さんを頂点とする古代史学会の、近畿王朝一元説の固執にある、と、寅七には思われてなりません。


日本の国号の始まりについて

第六章の日本の国号の成立、につきましては、槍玉その8取り上げました。
武蔵義弘先生の”抹殺された倭王の謎”で、日本の国号の由来などについて論じています。
基本的には、武蔵先生と吉田先生は同じ立場にお立ちのようですから、
槍玉その8を参照いただくこととし、改めて論じることは止めておこうと思っていました。

しかし、この本の表題『日本の誕生』の目玉の章を飛ばしてしまうのも如何なものか、と思われますので、次の意見だけは申し上げておきたいと思います。

倭王武=雄略問題、の項でも、遣隋使は誰が送ったのか の項でもボヤキながら書きましたが、吉田孝先生は、参照される内外史料でも自分の説に不利なことは隠して出されません。この日本の国号についても同様の態度を通されます。

この”日本の国号”に初出する外国史料・『百済本記』(『日本書紀』にも転載引用されている)”531年日本天皇・皇子倶に薨ず”の有名な記事ですが、全くこの本には姿を見せません。

この外国史料に初出の”日本”について全くこの本では触れられないのは何故なのでしょう、こんなことでよく古代史専門家として通用するなあ、と寅七には思われます。同様に吉田先生は、【『旧唐書』にある倭と日本の国号の変更についての記事は、唐側の誤解であろう】、(p6)とされます。

槍玉その8の武蔵先生も、”日本”についての『日本書紀』の記事に、まったく触れていませんでしたが、吉田孝先生のこの本でも同様です。
百済本紀』は『日本書紀』より150年前に出来た本です。

日本書紀』の編集者もこの『百済本紀』を参照して、ちゃんと継体紀に、この『百済本紀』の記事を、伝聞というような形ですが、載せています。
ところが吉田孝先生は、自説に都合が悪いことは、たとえ『日本書紀』の記事で、古代史に興味ある読者が知っているであろう事も、自分の意見は述べず、臆面もなく読者の目から隠す、この態度は古代史専門家として如何なものか、ということを寅七は指摘しておきたい、と思います。
1200年以上前の『日本書紀』の編集者の方が、吉田孝先生方より余程正直のようです。

又、日本の語源などについて、いわば著者の薀蓄を傾けていらっしゃいます。
しかし、肝心の”やまと”の語源、”山の入り口”というところから始った地名で、日本全国にはかなりヤマトなる地名はあること。古来九州の”山門”にあてる人も多いこと、などは語られません。
又、先述のように、”日本”国号の始まりでも、重要事項を隠したままの論の展開は、夜郎自大と寅七から評されても仕方ないのでは、と思います。


結論に代えて  この本で著者が言いたかったことは何でしょうか

”天皇制と日本について”であろうか、と推測されるのですが、この本は、槍玉その14長部日出雄さんの”天皇はどこから来たか”に比べ、後に何も残らない、といっても良いほど読者に対するインパクトの薄い本というように、寅七は感じます。

この『日本の誕生』もそうですが、いわゆる通説に乗っかっている方々は、本気でタリシホコ家は近畿の天皇家と思っているのかなあ、と寅七には信じられません。おかしいなあ、と思っておられるのならそれを正直に出されたら、と思います。

もし、中国のこの隋朝あたりの歴史の専門家に対して、【”日出づるところの天子云々”の『隋書』の記事はいい加減だ、当時の天皇は推古天皇といって女帝なのを、間違って男とし、おまけに妻までいる、と書いている】などと、日本人歴史専門家が仮に対談などの席で言ったら、どういう反応があるでしょうか。


それに加え、【いや、聖徳太子という皇太子が、推古天皇の代理で出したのを、名を間違えてタリシヒコなどいい加減な名前で中国側が記録している】などと言ったら、それこそ大きな歴史認識の相違という問題に発展するのではないでしょうか。

日本の古代史の歴史学会の方々は、そのような状況に陥いり、中国側に脂汗を流して弁明するご自分を考えてみたことがあるのでしょうか。
自分の周りの井戸の中だけが宇宙と考えている、カワズと同じではないか、とちょっと寅七のテンションも、上がります。

『日本書紀』がまとめられた八世紀以前の、日本列島と中国との関わりを記録した、中国の歴史書の記事を真正面から受け止めないことには、折角の吉田先生の試み”日本を相対化して捉える”ことは出来るはずもない、と寅七には思われます。

(追記)
新聞報道によれば、日中の歴史認識問題で共同研究が始まり、古代・中世史の分科会も設けられる、と伝えています。この件での棟上寅七の古代史本批評というブログhttp://ameblo.jp/torashichi/につぎのような記事を書きましたので転載しておきます。

日中歴史共同研究 19.1.29

一昨日、タリシホコ=推古天皇or聖徳太子論について、中国の専門家と日本の専門家が討論してみたら、などと書きました。今朝トイレで、週刊朝日22日号を眺めていましたら、舟橋洋一氏の”ワールドブリーフィング”で「日中共同歴史研究」が行われ、日中双方の歴史認識の溝を埋めるための努力が始められたことが書かれていました。

へーッと思い、改めて読み直しました。近代史だけのことかと思いましたら、今回の歴史研究は「古代・中近世史」及び「近現代史」の分科会を設ける、と古代史まで検討するとあります。恐らく新聞にも出ていたのでしょうが見落としていたようです。

早速、インターネットで検索してみました。産経新聞のSankeiwebも朝日新聞のAsahi.comも、1227日に、”日中共同歴史研究初会合終わる”と記事を載せています。産経は、日中戦争の双方の認識の違いをハッキリさせる機会と位置づけ、朝日は、日中戦争の解釈が今後の争点になるだろう、と書いていました。しかしこの分では、5年や10年では、古代にまでは到底論及されそうもない感じです。


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