槍玉その63 岩波文庫『新訂魏志倭人伝他三篇』石原道博編訳の批評   文責 棟上寅七


 この岩波文庫『新訂 魏志倭人伝他三篇』は、1951年11月に第一刷が発行され、1985年に「新訂版」として第43刷が発行されています。手持ちの文庫本には、2006年5月第76刷発行とあり、まさにロングランの岩波文庫の見本みたいな本です。この本は、『隋書』を日本語の読み下し文に翻訳し、ところどころ注釈を加えている本なのです。

 問題点というか、その注釈が当を得ているかどうか、というところを見ていきたいと思います。なぜなら、この岩波文庫の読み下しをそのまま使って歴史叙述をする歴史家が多いので、正しければよいのですが、間違っているところとか、不確かと思われる解釈が転用されることによって、それが「岩波」ブランドの解釈となり、その解釈が拡大流通していく危険性があるわけです。

 そこで
定説派の牙城ともなっている、岩波文庫『新訂 魏志倭人伝他三篇』(一九八五年版)を取り上げます。この本には、「新訂」とありまして、その旧版(1951年11月初版)は、和田清・石原道博の共著となっています。

 この「新訂」の本と旧版との違いについて、石原道博は次のように述べています。 1、常用漢字の使用。 2、原書の影印を載せた。 3、現代語訳をつけた。 4、倭中関係史年表を付けた。 5、参考文献に1951年以降の文献もできるだけ上げた。
岩波文庫『魏志倭人伝他三篇』
 つまり、読み下し文の文注など、本の骨格は変わっていないのです。1969年に『邪馬壹国』論を、「史学雑誌」に発表した古田武彦氏の論文は参考文献としては上げられていますが、その他の『「邪馬台国」はなかった』や『失われた九州王朝』は挙げられていません。同じ著者がこの岩波文庫ほんより以前に出した、『訳註中国正史日本伝』1975年国書刊行会』では、参考図書に上げられていたのですが・・。(かといって古田説を何も取り上げてはいないのはどちらも同じですが)

 ところで、旧版は共著者和田清(石原氏の東大学生時代の師)となっていますが、『隋書』俀国伝に関しては、石原の前著『訳註中国正史日本伝』を読むと内容はほぼ同じです。この文庫本の『隋書』については石原が主執筆者と思われます。

 この文庫本の前書きに、『岩波・魏志倭人伝他三篇』は、1951年の発売以来、1983年には、42刷まで25万5千部に達した、とあります。おそらく、現在でもニーズはそう変わっていないものとすると、2017年の現在では、50万部に達しているのではないでしょうか。それだけ、古代の状況を知らせる情報を詰めた、この岩波文庫本で『隋書』の内容が、間違いなく届けられるような訳文や注釈になっているのか、間違っていたら大問題なので、注意深く検討していきたいと思います。


◆石原道博氏の経歴


 明治43年(1910年)生まれで、平成22年(2010年)に亡くなられています。東京大学東洋史学科を卒業後、茨城大学で助教授~教授と勤められ、昭和51年に定年退職されています。


◆石原道博の解説に見える問題点

石原道博氏は、まず、『隋書』の読み下し文を紹介する前に『隋書』に記述されている倭国についての『隋書』の記述の問題点や、それが生じた原因などの推測を、「解説」として31頁から36頁にわたって述べています。

その中で特に重要と思われる箇所を5カ所、(A)~(E)に項目を分けて記します。


(A)俀を倭、北を比に変更していること

石原道博氏は次のようにまず解説で述べています。

【唐初にできたのが『晋書』『梁書』と『隋書』で、『隋書』は『魏略』『魏志』『後漢書』と『宋書』『梁書』とを参考にしながら、多少の新資料を加え、総合的に記述されている。これは『宋書』や『南斉書』が、その一時代のことを述べているのと趣をことにしている点であり、ことに『隋書』には日中の交渉が密接になった関係もあって、新しい事実がすこぶる多く記されている。古い事実については、多く『後漢書』にもとづいている。

 高祖文帝の開皇二十年(六〇〇)に「倭王あり、姓は阿毎〈あめ〉、字は多利思比孤〈たりしひこ〉、阿輩雞弥と号す。使いを遣わして闕に詣る」という日本側に伝聞のない記事も、『隋書』巻二・高祖紀の同年正月の条に「突厥・高麗・契丹並びに使を遣わして方物を貢ず」とあるから、隋が国内を統一して海東諸国を綏撫〈すいぶ〉しようとする その機会をつかみ、日本もまた大陸の情勢をうかがうため使をつかわしたのであろうか。

 たまたまこの年は 日本と新羅との関係がもっとも悪化し、境部臣が新羅征討におもむいており、二年のちには来目皇子、ついでその兄当麻皇子が、それぞれ征新羅将軍として画策するところがあったことも、あわせ考えるべきであろう。】


 この文章の中で二カ所、「俀」と「北」に、原文と違う文字が使われているのですが。なぜなのでしょうか。

 第一は「俀〈たい〉」が「倭」に書き変えられている問題です。この文庫本には影印の「原文」が付けられている。そこにはすべて「倭」ではなく「俀」とあるのです。もう一つは「比」という字も影印を見ると「北」なのです。

 なぜ「俀〈たい〉」を「倭」に書き変えたのか、という説明に次のような注書がされています。


『隋書』は倭を俀につくる。以下すべて倭に訂正した。付録、原文参照。】(六五頁)

 この論理は、当時我が国は「倭国」という名前であった、というのが前提となっています。その論証は、中国の史書たとえば『宋書』では「倭国」となっているからそれでよいのだ、ということだと取れるようです。

 しかし、『隋書』の二十三年後に編さんされた『北史』をみますと、「倭国」でなく『隋書』と同じように「俀国」とあるのです。23年というのは殆ど人の一世代に当たります。少なくとも子供が親になる一世代という時間の間は、「倭国」ではなく「俀〈たい〉国」とされていた証拠ではないでしょうか。

 しかも、『隋書』自体に「俀国」への行路が書かれています。そこには「倭国」という国の名は出ていないのです。竹斯国や秦王国の名は出ていますが、「倭国」や「大和国」などは全く見えないのです。

『隋書』には、俀国の都の名としては「邪靡臺」で、『魏志』にいう「邪馬臺」だ、と言っています。言い換えますと、『隋書』は、俀国は3世紀の邪馬臺と同じ王朝だと言っているのではないでしょうか。


『後漢書』にも「その大倭王は邪馬臺に居す」とあります。『後漢書』が言っているように、大倭王というのは「大倭国」の王に他ならないでしょう。大倭国をどう読むのか、というのには諸説あるようです。「だいゐ」と読むのか「だいわ」と読むのか、という論争もあるようですが、『隋書』が「俀国」と表記しているのであれば、この七世紀初頭の時期でも、中国と通交していた国の名前は『後漢書』の描く時代と同じく「だいゐ国」であったという論理になる。石原道博氏にはそのような論理思考は浮かばなかったのでしょうか。


 もう一つの原典の漢字の書き換え「北」→「比」について。


下に掲げる影印のコピーは石原道博編訳岩波文庫本に掲げられています。その影印から関係個所を切り取りコピーしたものです。

影印:多利思「北」孤が中央にあります。


影印:阿「軰」臺 北カンムリに注意ください。

 石原道博氏は、「北と比は書き誤り」説がすでに定説となっているので説明不要としたのでしょか、理由を記さず、多利思比孤とかってに原文を書き変えているのです。
 しかし、『隋書』原典の影印をよくみると、書き誤りが生じたのではない、という証拠が影印に存在するのです。これに今まで誰も(古田武彦氏も含めて)気付いていないことには驚きますが。

 原文影印の多利思北孤の「北」は、見方によっては「比」に見えないこともない。しかし、左の影印の「阿軰臺」の「軰」を見ると、カンムリの「北」の部分が、「多利思北孤」の「北」と同じ字体で書かれていることは、素人でも見れば明らかです。

 付言しますと、『北史』では、「俀」は『隋書』と同じく「俀」ですが、「多利思北孤」は「多利思比孤」と「北」が「比」に替えられていますし、「阿軰臺」は「阿輩臺」と変えられています。『隋書』の原文に「阿軰臺」と「軰」という輩と同じ発音の字を筆写者が選んでくれたおかげで、「書き間違い説」を寅七様が封じることが出来るのです。『隋書』原典の書写者に感謝する次第です。


(B)「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時云々・・・の解釈」


 石原氏は次のように解釈されます。

【倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政〈まつりごと〉を聴き跏趺〈かふ〉して坐し、日出づれば、すなわち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」とある記事は、文帝も「これ大いに義理なし」といっているが、これは中国の「天子」の思想にたいし、倭王は「天弟」ないし「日兄」という対抗意識からあらわれたものではあるまいか。


 いわゆる「日出処天子」や「東天皇」という呼称の伏線が、ここにかくされているように思われるのである。なお、この記事は「群卿百寮、早く朝〈まい〉り晏〈おそ〉く退〈い〉でよ、・・・」(十七条憲法第八条)のことも多少反映しているかもしれない。】
 

 この石原解説では、俀王の対抗意識のあらわれと言っています。しかし、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す」の国書からみれば確かにそうとも言えましょう。
 ですが、この場合は、俀王の執務状況を説明しているのではないでしょうか。「夜明け前に俀王は執務し、夜が明けたら弟に委ねる」、とあるのを、対抗意識ととらえるのは、おかしいと思います。宗教上の政治と俗事上の政治という兄弟執政システムの説明だと、『隋書』の表現を、そのまま捉えたらよいのではないかと思います。


 また、“いわゆる「日出処天子」や「東天皇」という呼称”と『隋書』に出てこない「東天皇」という語を並列的に出してくるのも読者を混乱させる叙述のように思われます。その上で、聖徳太子の憲法十七条憲法の、官吏は朝早くから執務せよ、というのに関連させるのはこじつけ過ぎでしょう。聖徳太子架空説にかなり根拠があるとされる現在、安易に「聖徳太子」に結び付けるのは如何なものでしょうか。


(C)煬帝が裴世清らを答使として日本によこした理由

石原道博氏は次のように説明します。

煬帝が「蛮夷の書、礼〈あや〉なし」として、はなはだ悦ばなかったにかかわらず、裴世清らを答使として日本によこしたのは、どういうわけであったか、を考えてみよう。

『隋書』倭国伝には、これを直接説明するような記事はみあたらないが、同書巻八二・南蛮伝・赤土の条をみると、「煬帝即位するや、能く絶域に通ずる者を募る」とあり常駿〈じょうしゅん〉・王君政〈おう・くんせい〉等が赤土国に使いしたことを記している。同書巻八一・東夷伝・流求の条をみると、同年に「羽騎尉〈うきい〉朱寛をして海に入り異俗を求訪せしめ」た名高い記事があり、ほかにも西域にも使者を送った記事がある。

 これは歴代中国帝王の世界国家思想のあらわれとして、外蕃を撫慰〈ぶい〉するという伝統的なやり方であり、ことに虚栄心の強かった煬帝の心を動かしたものと思う。日本遣使のことも、彼のこうした対外政策の一環として理解さるべきであろう。

 この石原氏の解説の中で、『隋書』東夷伝流求の条について、「名高い記事」があるとしていますが、その名高い記事の概略の説明を省いているのはなぜなのでしょうか。

 この『隋書』東夷伝流求の条の「流求」とは台湾のことだとする定説があるのです。この「流求の条」を読みますと、その国には王がいて城があり、地名の遺存もあり、常識的に琉球列島を指すと思われるのですが、その論争に入るのが面倒なのか、現在の日本国の一部である沖縄県を、当時の中国との通交から外すという判断は理解に苦しむところです。


(D)『日本書紀』にみえる、「皇帝、倭皇に問う云々」の書中の「皇」は、もと「王」とあったのを改めた、と石原道博氏は次のように言います。

裴世清がもたらした答書は、『日本書紀』にみえる。「皇帝、倭皇に問う、使人長吏大礼蘇因高等至り、懐〈おも〉いを具〈つぶさ〉にす」に始まる名高いものであるが、書中に皇とあるのは、もと王とあったのを改めたのであろう。】

 この『日本書紀』が紹介する隋の国書にある「倭皇」は、もともとは「倭王」だった、と推測を述べられています。我が国の「天皇」称号の起源が定かではないのでこのように述べたのでしょうが、その推測の根拠をなんら示していないのです。

 なぜこのことが問題なのか、といいますと、当時大和朝廷は「天皇」という称号を使っていた、という証拠にこの『隋書』の記事がなりうるのですから、軽々しく、倭王であったはず、と断言するのは如何なものでしょうか。


(E)『北史』『南史』の倭国伝の評価について。

 石原道博氏は次のように言います。

『北史』『南史』の倭国伝について一言しておく。結論的にいえば、『北史』は『梁書』・『隋書』に、『南史』は『宋書』・『梁書』によっており、その文字の校定以外にはなんら史料価値を認めることができない。いわば正史中もっとも史料価値の低いものである。ことに『北史』のごときは『隋書』の裴清の記事を誤写し、一二一字を脱落しているほどである。】

 この『北史』の石原道博の評価は一見非常に低いように見える発言です。しかし、この文庫本では、『北史』の記述に従って以下のように、『隋書』の文字の校定に用いているのです。史料価値が少ないと評した『北史』なのに、その理由も示さずに、次のように【隋書】の語句を遣わずに、『北史』が使っている語句に変えて使っているのは理解に苦しみます。

 『隋書』            『北史』
 堆             邪
 多利思孤           多利思             
「身+冉」羅国          羅国
 阿軰臺             何輩

 石原道博氏は、自身が評価する“信用のおけない『北史』”から、『隋書』の、「多利思北孤」「阿軰臺」などを、『北史』の方の記述を正とされるのはなぜなのでしょうか?

 和語に近い発音の国名・職名・人名などを探し出し、それに合わせるために、あまり信用はおけない『北史』なのですが、『隋書』より『北史』の方が、利用価値があるから借用しておこう、との考えが底にあるようにみえるのですが。


 例えば、『隋書』にある阿軰臺は、そのまま読めばアハタィで、阿波田とか粟田などの和名が浮かびます。粟田真人など同時代の有名人もいるのです。それなのに、無理に何輩台と『北史』の語句に変えて、「オホシカウチノアタイヌカテ」の音の一部をあらわしたものか、などという説を紹介するのは、文献学者として鼎の軽重を問われかねません。

 次に、『隋書』本文の読み下し文に付けられた「注釈」について、納得がいかないところを拾い出してみましたので披露します。

◆石原道博の『隋書』の注釈に見える問題点
 
 その注釈の主なものは、いわゆる定説に近いものを石原道博は「私見によれば」と紹介しているのですが、その多くが理性的に判断するとおかしいところが多いのです。そのうちの重要と思われます
三つの「注釈」を上げます。

  俀王 阿毎多利思比孤について:  天皇の諱に足彦というのが多いから、阿毎・多利思比孤は天足彦で一般天皇の称号であろう。

  号 阿輩雞彌について:  オホキミ、あるいはアメキミであろうか。松下見林は推古天皇の諱の訛伝とするが、どうであろうか。

  太子、利歌彌多弗利について:  不詳。事実は聖徳太子をさすわけである。和歌弥多弗利(ワカミタヒラ稚足と)でも解すべきか。

 このように、俀王と太子の名前について石原道博氏個人の意見を述べています。

 ①について

 この石原道博氏の判断からみますと、まず、俀王の名前を隋朝側が何から得たのか、その考察ができていないように思われます。
 

 当然、開皇二十年の遣使も、次の大業三年の遣使も、当然文書外交が並行して行われたことは、当のこの岩波文庫本の『魏志倭人伝』の石原道博編訳の読み下し文を読めば明らかなのです。そこには次のようにあるのです。

女王が使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使いするや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺〈しけん〉の物を伝送して女王に詣らしめ云々】

 このように石原道博自身が、三世紀のころより中国と日本列島との間にはすでに、文書による通交がなされている、と伝えているのです。残念ながら、石原道博氏には、中国史書の訳文はできても、その史書が描く文化的歴史状況を把握できていなかったようです。

 少なくとも、大業三年の俀国からの使節がもたらした、「日出づる処云々」の国書には俀国王の「御名御璽」があった筈です。それに加えて、使者との問答で、詳しく国王の姓・国王の字・国王の号を知ったのでしょう。このような、いわば基本的な事柄について、石原道博氏が認識していなかったのが、「タリシヒコの謎」以上の謎と思われます。


 ② の号について

 阿輩雞彌をそのまま「アハケミ、アハキミ」という和語でまず探すべきではないでしょうか。仮に、粟君とすれば、粗食に甘んじる天子、ということにもなるし、阿波君、安房君などもあり得るでしょう。

「大王」というような尊称で使者が伝えたという推論も、全く当たらないのです。「大王」という漢語由来の語が日本列島にはすでに定着していた筈です。江田船山や稲荷山の両古墳出土の鉄剣銘に「大王」とあり、「大王」という漢語がすでにわが国には定着していたというれっきとした証拠があるではありませんか。


③ の太子の名については、石原氏の先輩竹内理三(一九〇七~一九九七年 東京帝大国史科卒 九州大学教授を経て東京大学史料編纂所所長)が『翰苑』の注釈本を1962年に吉川弘文館より出されています。

 そこには「和哥弥多弗利」という竹内理三氏の注釈が出ています。古写本の写真も出ています。下にその部分の影印のコピーを紹介します。確かにそこには、「長子号哥弥多弗利、華言太子」いう古写本の「号」と「哥」の間の右横に、朱字で、「和」と記入されている。


 長子号哥弥多弗利の影印と朱字の記入部分

 朱字で書かれた部分の拡大写真

 石原道博氏は、1985年の岩波文庫の新訂版のときにこの竹内理三氏の和歌彌多弗利説を書き加えています。しかし、「竹内本」の結論を鵜呑みにするのではなく『翰苑』の原典の写真版を注意深く見ていれば、その和歌彌多弗利説の根拠に問題があることが分かったはずなのです。

 この影印をみれば、『翰苑』の原典は「長子哥弥多弗利」とあることがはっきりしているのです。「長子はカミタフリ」と言っているのです。この写本を手に入れた人はおそらく『隋書】と俀国伝を読んでいたのでしょう、「利歌弥多弗利」の「利」が抜けていることに気付いたと思われます。古来和人の名前が「ラ行」で始まる例は見られないことから、これは「利」ではなく「和」ではないのか、その「和」が抜けているのではないか、ということで「号」と「哥」の間に朱書で「和」を書き込んだ、というのが筋が通る唯一の推論と思われます。

 この問題については、古田武彦氏が「太子名付けて利、カミタフの利」と読んでいます。(『失なわれた九州王朝』1973年朝日新聞社、『九州王朝の論理』2000年明石書店) この『翰苑』の記事によれば、太子の名前は「カミタフリ」ということであって、ワカミタフリではないことははっきりしているのです。


◆訳文の中の「文注」の注釈について

 次に訳文の中の「文注」の注釈について重要と思われる語句について拾い上げてみます。すでに問題点として意見を述べた語句は除外します。石原道博氏は、大体において定説とされていて、自分も受け入れられる説を「文注」として説明しているようです。多くの古代史本に引用されることも多いこれらの語句を挙げ、一言その問題点を指摘しておくことにします。

 ㋑ 邪靡堆:『北史』には邪摩堆とある。靡は摩の誤りであろう。

 ㋺ 内官に十二等あり:聖徳太子の制定された冠位十二階であろう。『日本書紀』には云云。

 ㋩ 軍尼:クニ 軍尼は国で、国造のことであろう。

 ㋥ 伊尼翼:イナギ(稲置)か。伊尼翼は伊尼冀の誤りであろう。

 ㋭ 大徳:この読み方は、末卑騰吉寐〈マヒトギミ真人公〉であった。


 ㋑ 邪靡堆について

『呂氏春秋』という秦時代のいわば百科事典(呂覧ともいう)に、靡は、麻に通ずる、 靡は亦、麻に作る、とあります。漢和大辞典によれば、「靡」には「マ」のほかに「ビ・ミ・バ・メ・ヒ」などの音があるとあります。ヤマタイ以外の読み方の可能性もあるのです。つまり、靡の読みにはマもあるのですから、「靡は摩の間違い」説は間違いと言えるでしょう。


 ㋺ 内官十二階について

 石原道博氏は、この『隋書』の冠位の記事の記載を、わが国の『日本書紀』が記す冠位十二階を述べたものとしています。しかし、『日本書紀』の記述によれば、推古11年(604年)12月に制定し、翌年正月初めて諸臣に授けた、とあるのです。

『隋書』の記述によれば、俀国の最初の使者がいろいろと俀国の事情を述べた中に、この冠位についての情報もあったと思われます。つまりそれは開元20年(600年)以前に俀国には冠位が制定されていた、ということになるのです。600年のころ推古朝では、『日本書紀』記述によれば、まだ冠位十二階は制定されていなかったのです。また、それに、『隋書』が伝える俀国の十二階の冠位と、『日本書紀』が伝える推古朝の冠位とは、位の順位も違っているのです。

『日本書紀』の冠位制定の時期が記述が正しければ、中国との直接通交するためには冠位制定が必要と思った大和朝廷が、俀国に真似て冠位制定をしたということになります。


 ㋩ および㋥ 軍尼と伊尼翼

『隋書』には俀国の統治組織として、「軍尼」や「伊尼翼」がある、と書いてあります。それを石原道博氏は、大和朝廷の統治組織の役職名に無理に当てはめて解釈しようとしているようです。

 ですから、「尼」を「ニ」と読んだり(軍尼)、「ナ」と読んで(伊尼翼)なおかつ、翼を冀の誤記として、「キ」と読める似た字を当てはめ、無理に大和朝廷の役職に似合う読みに合わせようと努力されているようです。ところで、尼が「ナ」と読まれた例は他にあるのでしょうか。石原道博氏は無言です。




余談① 俀国と魏志の戸数


『隋書』俀国伝の「80戸に1伊尼翼、10伊尼翼は1軍尼に属し、120軍尼がいる」を計算しますと、総戸数は9万6千戸になります。これは3世紀の倭国を記している『魏志』の記事の北部九州の国々の戸数と比べてみますと、『魏志』に戸数を記されているのは、「対海国千余戸」「末盧国四千戸」「伊都国千余戸」「奴国二万余戸」「邪馬壹国七万余戸」で合計九万六千余戸とぴったり合うのです。偶然なのでしょうか?

 

 ㋭ 石原道博氏は、冠位第一等の大徳について『翰苑』にある『括地志』の記事を引用して、“真人公が第一等でそれは中国の大徳と同じ” と読んでいます。

 
『翰苑』は太宰府天満宮に「巻卅夷蕃伝倭国」のみが残っていて、貴重な史料として国宝に指定されています。その『翰苑』に引用されている『括地志』は唐代に編集されている大規模な地理書です。 このところの原文は次のようなものです。

【括地志曰〈かつちしにいわく〉 倭国 其官有十二等〈そのかんにじゅうにとうあり〉  一曰〈いちにいわく〉 麻卑兜吉寐 華言大徳〈かげんのだいとく〉 二曰〈ににいわく〉 小徳 三曰大仁 四曰小仁 五曰大義 六曰小義 七曰大礼 八曰小礼 九曰大智  十曰小智 十一曰大信 十二曰小信

 と、このように、倭国の冠位について述べています。  

 石原道博氏は、末卑騰吉寐はマヒトギミ=真人公で、大徳という最高位は真人である、と『翰苑』の記事を解釈しています。

 しかし、この『括地志』の文章を
そのまま読めば、 石原道博が言うように、“大徳をマヒトキミと読む”、のではなく、“真人公が第一等でそれは中国の大徳と同じ”と言っているのです。


「真人」が八色の姓で定められたのは天武期といわれます。この『括地志』が伝える冠位の記事は推古期よりもずっと新しいものではないか、と思われます。その辺の考察が石原道博氏には欠けていたのではないかと思われます。


◆石原道博氏の解説のまとめ

 この岩波文庫の『新訂 魏志倭人伝他三篇』に見られる『隋書』俀国伝の編訳は、次のような特徴を持つと言えましょう。

(a)『日本書紀』など日本の伝承に合うような解釈を探している。

(b)そのためには、日本の伝承に少しでもあうように、原文の字を適当に変更する。

(c)大和朝廷が一元的に日本列島を支配していた、という史観に基づいた判断をしている。

(d)『日本書紀』に記載がない中国の記録については、中国側の記録ミス誤伝誤記などという判断をするか、不詳としている。

(e)『隋書』俀国伝のいわば「定説」の集大成的なもので、若干編者の判断を「私見」として加えているが、当を得た「私見」とはいえない。

(f)「タリシヒコ」の国書に御名御璽があったはず、ということを無視している。

(g)一九八九年までの関係資料を新たに参考として「新訂」としているが、古田武彦の「多元的古代」に関する論文は無視されている。



 余談② 白文の読み下しの難しさ

 石原道博氏の『隋書』俀国伝の批評を始めるに当たり、その読み下し文が正しいのかどうか、自分の解釈ではどうなのだ、と読み下し文を試み、漢文学の素養の無さを自覚させられました。

 多利思北孤の遣使記事以前で行き詰まってしまったのです。当時の俀国の婦人の服装などについての記事のところで。それは次の文章です。

 婦人束髪於後亦衣裙襦裳皆有竹為梳編草為薦雑皮為表縁以文皮

 この中に、どうしてもわからなかった漢字があったのです。この文の中の、「」である。大したもので、岩波文庫の石原道博先生も、講談社学術文庫の藤堂明保先生も、それらの難解字を訓読されて、読み下し文にされておられます。

 ところが、この二人の解釈が違うのです。まず、石原先生の解釈は、この原文は「
」単独でなく、「
」という熟語で「ちんせん」と読み、意味は「ひだ飾り」である、とされています。(左下参照)

 他方、藤堂先生は、「
」と「
」の間で文章は切れている。「」の読みは「せん」で意味は「ふちどり」である。「」は、読みも「せん」で、意味は、細くする意で、次に続く文章の動詞とされています。(右下参照)


 さて、石原・藤堂の両説、どちらが正しいのか。ところで古田武彦師はどう読み下しておられるのかと、探してみました。『九州王朝の論理』明石書房2000年5月刊に次のようにありました。


 婦人は髪を後ろに束ね亦裙襦・裳を衣、皆〈せんせん〉有り。竹にて梳を為し、草を編みて薦〈しとね〉と為す。

 古田師の読みは藤堂説に同じで、複合語とするのは石原説に同じで、三者三様なのです。

『隋書』原文には句読点はありません。しかし、日本人が発明した句読点を、現代中国は活用しているようで、中国正史の簡体字訳を見てみました。そこには次のように、句読点が入って文章が区切られていました。 

 妇人束于后,亦衣裙襦,裳皆有竹聚以梳。荐,表,以文皮。これによれば、藤堂先生の文章の段切りが中国流に合っています。

 しかし、「」の読みについては石原先生の「ちん」なのか藤堂・古田両先生の「せん」なのかはわからない。古田先生は、よく「諸橋の大漢和辞典」を引いたらと生前よく言っておられました。

 しかし、福岡市総合図書館蔵書には在庫なしです。寅七がブログでぼやいたら古代史仲間が親切にも久留米の図書館で探してくれて。結果をメールで教えてくれましたた。
諸橋轍次大漢和辞典と渡部温標註康煕字典にでていた。前者では、読みは「セン、ゼン」又は「ケン、ゲン」、字義は「へり、ふち」又は「きぬをかさねる」とあり、後者では、 読みは「セン」、唐韻では「士-戀切」となっているので「sh」+「ian」で「シェン」それが日本の読みで「セン」となったのでしょうか。字義は類篇で「縁也」、釋名で「撰也。靑-絳為之縁也。」とあります】と。

 つまり藤堂先生が正鵠を射ていた。
私は、石原先生が「ちん」と読まれたのにも何らかの理由がある事と思った。ふとひらめいたのが、カタカナの「ケ」は「チ」に似ている。それが間違いのもとかもしれないと。

 石原先生には、岩波文庫以外にも『訳註中国正史日本伝』で『隋書』俀国伝の訳註書がある事を知り、調べてみたました。この本でも岩波文庫同様の訳文で、」という熟語で「ちんせん」とふり仮名がふってあります。

これからは推測です。石原先生は、『訳註中国正史日本伝』の訳註の仕事の時に、問題ヶ所のの読みに諸橋大漢和に当たられ、「けん・せん」の二通りの読みがある事を知られたのでしょう。

」のを複合語と解され、読みは「けんせん」か「せんせん」のどちらにするかについて、「けんせん」を採用されたのでしょう。原稿用紙にそのふり仮名を「ケンセン」と片仮名で書かれたのではないかと思われます。 この原稿が植字工のところで、「チンセン」と読み間違えられ、国書刊行会の校正者の目に留まらず、「ちんせん」という読みが世に出たのではないでしょうか。

 岩波文庫の場合も、石原先生から、前書出版以後の考古学的発見などによる改訂部分や参考図書部分の更新以外は『訳註中国正史日本伝』通りの原稿が(おそらくお弟子さんの手によって)作成され、岩波書店に送られ、岩波文庫の校正担当者も気づかず、出版されてしまったと思われます。

 
 なぜ「複合語」として解釈したのか、という問題は、『訳註中国正史日本伝』
の「はしがき」にその鍵がありました。

 そこには【
訳は書き下し風の現代文とした。はじめは、すくなくとも意訳した達意の現代文にしようと努力したが、じっさい訳してみると、わたくしの力不足もあって、すこぶる困難なことがわかった。そこで、むつかしい熟語などはそのままにして、ふりがなをつけたり、カッコ( )内にかんたんな訳を加えたりした】とありました。

 このように極めて正直に、中国語原文の読解に悩まされたことを述べられていました。石原大先生でもお手上げだった、ということを知って、読み下し文などとても寅七の手に負えるものではない、と自覚でき、やっと肩の荷が下りました。

(なお、この件について、岩波文庫編集部に伝えましたが何の応答もありません。すべて故石原道博先生の責任としているのですか、岩波書店殿!)


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