槍玉その64(更新版) 「現代語 古事記」 竹田恒泰 学研パブリッシング 2011年刊 批評文責 棟上寅七
◆はじめに
・更新版について:この槍玉64を上げましたところ、読者の方からコメントをいただきました。このやりだまの批評文に「天武天皇の削偽定実」について触れていないことについてのご指摘が中心でした。棟上寅七の「深さ」の足らないところを補ってくださるご意見と思いますので、文末に「読者からのご意見」として付記いたしました。
・TVのコメンテーターとしてもご活躍の明治天皇の5世孫の竹田恒泰さんの『現代語訳古事記』について、ある小学校の教諭をしている人が、古事記のこのような本が推薦図書として小学校に届いている、と教えてくれて目を通してみたのがきっかけです。
わりに読みやすく、これなら小学校4,5年生でも十分読みこなせるかと思われました。ただ、気になるのは訳文ではなく、竹田さんの解説です。たくさんの解説、本文の訳文以上に多い量の文章なのです。
多くは常識的な解釈ではあるのですが、かなり復古調の解釈が目につきました。
また、古事記の本居宣長以来のいろいろな研究者が提出している疑問点について「解説」されていないことが多いのです。そのような問題があると思われる本なのですが、学校推薦図書のせいもあるのでしょうか、古典文学関係図書としてはベストセラーを長く続けているようです。
やはりこのような本が無批判に青少年に刷り込まれることの危険性について、一言物申しておかなければ、と取り上げることにしました。
◆著者略歴
2012年9月第1刷の本の奥書によりますと次のようなご経歴です。
作家、慶應義塾大学講師。昭和50年(1975)、旧皇族竹田家に生まれる。明治天皇の玄孫にあたる。慶應義塾大学法学部卒業。慶應義塾大学では「憲法特殊講義(天皇と憲法)」を担当。
平成18年(2006)、「語られなかった皇族たちの真実」(小学館)で大15回山本七平賞を受賞。平成20年(2008)、論文「天皇は本当に主権者から象徴に転落したのか?」で第2回「真の近現代史観」検証論文・最優秀藤誠志賞を受賞。
平成23年(2011)刊『日本はなぜ世界で一番人気があるのか』(PHP新書)は30万突破のベストセラーに。最新刊の『原発はなぜ日本にふさわしくないのか』(小学館)では、反原発脱原発の持論を展開している。
その他の著書に『怨霊になった天皇』(小学館)、『エコ・マインド 環境の教科書』(ベストブック)、『旧皇族が語る天皇の日本史』(PHP新書)、『皇室へのソボクなギモン』(辛酸なめ子さんとの共著、扶桑社)、『皇統保守』(八木秀次氏との共著、PHP研究所)などがある。
現在、全国各地で日本神話や国史・憲法などをテーマとした講演を行っており、また皇統保守の新鋭論客として、テレビ・雑誌・ネットなど、各種メディアで積極的に発言している。
◆この本の内容
この本は、タイトルのように「『古事記』を現代語訳したもの」というのが内容だけではないのです。『古事記』の内容を竹田さん流に解釈されて「解説」を長々と述べられている内容に問題があるように思われました。
一応、解説されているタイトルをご紹介しておきます。ただタイトルを見ただけでは内容まではわからないと思いますので、寅七が問題が多い解説と思った項目を「朱書」してあとでそれらについて取り上げることにします。
・天之御中主神とは ・天地はいかにつくられたか ・なぜ女から声を掛けたのが良くなかったのか ・島の名前の由来 ・中断された国作り ・忌み嫌われる「一つ火」 ・人間の寿命の起源 ・黄泉国とは ・禊とは ・根之堅州国とは
・始祖伝承 ・氏族解説 ・誓約〈うけい〉の目的とその結果 ・神様にも他人の心はわからない? ・氏族に関する注釈 ・葦原中国は高天原の一部 ・須佐之男命ー櫛名田比売― ・八俣大蛇は斐伊川か ・須佐之男命は卑怯者か ・国作りの前提条件 ・古事記で多用される「八」
・「和邇」は鮫か鰐か ・須佐之男命と大穴牟遅神 ・大穴牟遅神から大国主神 ・やはり根之堅州国は黄泉国とは別の国 ・歌を中心に進められる物語 ・葦原中国の統治権の所在 ・果たして大国主神は御諸山の神を祭ったのか ・天皇の統治権の根拠 ・天皇不親政の原則のルーツ ・神様はすべてをお見通し?
・建御雷神の活躍 ・「しらす」と「うしはく」の違い ・船を青柴垣に変えた八重言代主神の覚悟 ・実在した出雲国家 ・国譲りが事実だった可能性 ・特遇される出雲国 ・宗教弾圧せずに形成された統一国家 ・三種の神器 ・なぜ天孫降臨の地は高千穂なのか ・天皇に寿命が与えられた事件
・整えられる統治者の血統 ・後手で渡す呪い ・繰り返される兄弟喧嘩の因縁 ・山神と海神の霊力を受け継いだ天つ神の御子 ・天つ神の加護を受けて進められる大和平定
・反抗勢力を滅ぼす八咫烏の力 ・歌によって綴られる大和平定の終盤戦 ・日本建国を示す神武天皇即位 ・邇芸速日命とは何者か ・神武天皇と伊須気余理比売の結婚が意味するもの
・神武天皇は実在したか ・欠史八代 ・考古学の成果により実在が確認された孝元天皇 ・三輪山伝説とは何か ・崇神天皇と神武天皇の称号が同じ理由 ・大国主神と本牟智和気 ・大和を追放された小碓命 ・悪知恵をも備えた倭建命 ・二度目の追放と倭建命の涙 ・倭建命と倭比売命
・なぜ草薙剣が伊勢にあるのか ・倭建命はなぜ剣を置いていったのか ・天皇の葬礼の歌 ・天皇に準じて扱われる倭建命 ・倭建命と須佐之男命 ・景行天皇の事跡は? ・皇位の傍系継承 ・戦う皇后の新羅遠征 ・神と名前を交換する意味 ・分治に見る天下の在り方 ・具体化する事跡の記述
・応神朝の朝鮮半島からの渡来人 ・神功皇后は新羅の皇子の子孫 ・中つ巻は神と人の代の物語 ・天が君を立てたのは民のため ・皇后石之比売の嫉妬 ・君臣の秩序 ・二つの吉祥 ・中国の正史にみえる天皇の記述 ・兄から弟への皇位継承 ・皇位継承に関与する臣下 ・暗殺された天皇
・親族を次々と殺害した気性の荒い少年 ・雄略天皇はなぜ許したか ・静動・善悪の両面を兼ね備えた雄略天皇 ・飯豊王は女帝か ・なぜ父の仇の娘を皇后としたか ・継体王朝説 ・なぜ古事記は推古朝で終わっているのか ・古事記成立の経緯 ・雲散霧消となった「古事記」偽書説
◆この本で知りたい著者の考え
『古事記』に関係する多くの疑問に竹田恒泰氏がどのように思っておられるのか、解説の中から拾い出していった方が分かりやすいかと思います。皆さんそれぞれお考えはある事でしょうが、当研究会としては、『古事記』のいろいろな問題と、竹田恒泰氏の「解説」などを読み比べて、次の事柄を上げて検討しました。
( I )『古事記』が日の目を見なかった理由
A)大国主命とスサノヲ命との関係
B)景行天皇の事跡について
(I I)ニニギノミコトの降臨の場所
C)筑紫の日向とは
(III)神武東征は史実か
D)出立の場所はどこか
E)日に向かったから負けたのか
(IV)中国史書と古事記
F)倭王珍は反正天皇なのか
G)倭の五王と皇統譜
(V)考古学的発見と古事記記事
H)稲荷山鉄剣銘
I)江田船山鉄剣銘
(VI)古代天皇の長寿
J)古代天皇年暦と建国記念日
(VII)いわゆる磐井の乱について
K)「竺紫君」とは
これらの疑問に竹田恒泰氏がどのように解説されているのか、出来ていないのか、を見ていきたいと思います。
◆( I )『古事記』が日の目を見なかった理由
竹田恒泰氏は、『古事記』が日の目を見なかった理由については、実は、全く述べていないのです。『古事記』序文で太安万侶が述べているように、天武天皇の勅命で取りかかり元明天皇の御世に完成させた、と次のように「解説」しているだけなのです。
【古事記成立の経緯(333頁)】
「序」という名称になっていますが、これは著者の太安万侶が元明天皇に奉った上表文の形式になっています。本来は『古事記』の冒頭にこの序文がありますが、比較的難解な表現が用いられているため、巻末に収録することにしました。
この「序」の部分からのみ『古事記』の成立について知ることができます。第四十代天武天皇の命によって編纂が始まった『古事記』は、天皇の崩御によって一時中断されるも、第四十三代元明天皇によって再開され、太安万侶が稗田阿礼の口述を筆記して編纂し、元明天皇に献上され、上・中・下の三巻からなるわが国最古の歴史書がここに成立しました。
竹田恒泰さんはこのように、最古の歴史書が成立しました、と言いますが、もし、写本が1370年代に岐阜羽島の真福寺僧により、寺に秘蔵されていた『古事記』三巻が筆写され世に出るまでは、『日本書紀』にも『続日本紀』にも『古事記』編纂についての記事は全く見えず、闇に消えていた歴史書なのです。これはなぜなのか、という大疑問に全く答えていません。
ただ、『古事記』を読むと、『日本書紀』と違うところがいくつかあります。例えば(A)スサノヲと大国主の関係、(B)景行天皇の事跡です。
この食い違いから、「正史」『日本書紀』が「正史」と採用された時点で、『古事記』は廃棄されたのではないか、と推測されるのです。そこで、この二点について、竹田恒泰さんがどのように「解説」しているのか見て見ます。
(A)大国主命とスサノヲ命との関係
『古事記』の記述では、出雲神話の主人公「大国主命」と「スサノヲ命」との関係が複雑なのです。竹田恒泰氏は古事記の記述をそのままに現代語に訳されています。
【須佐之男命と櫛名田比売が寝床で交わってお生みになった神の名は、八島士奴美神といいます。
さらに、須佐之男命が大山津見神の娘で名は神大市比売を娶ってお生みになった子は、大年神と宇迦之御魂神の二柱です。
ここで『古事記』は八島士奴美神の子孫の血筋を次のように書いています。八島士奴美神が大山津見人の娘で木花知流比売を娶って生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神。この神が、・・・(と次々に大国主命が生まれるまでの系譜を述べています)
このように生まれた大国主命は須佐之男命の六世孫にあたります。「国を支配する神」という意味を持つこの神には、大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神の四つの別名があります。そして、これから先は、大国主命を中心とする物語が展開されます。(p58~59)】
(右の系図[A]は古田武彦『盗まれた神話』角川文庫より借用掲載)
ここまでの竹田さんの説明は『古事記』の原文を説明しているのですから、問題ないのかもしれません。しかし、次の「大国主神」の系譜での『古事記』の説明は次のようになっているのです。
【葦原中国 大国主神は須勢理毘売の嫉妬に悩まされながらも、その後、領土を広げながら三人の妻をお迎えになり、子孫を繁栄させました。地方の権力者の娘と結婚することは、その土地の神の霊力を手に入れることになると考えられていました。
『古事記』には大国主神の妻と子ども、そしてその子孫の名前の数々が次のように記されています。
大国主神が胸形の奥津宮に鎮座している神、多紀理毘売命(誓約によってなった神 46頁)を娶ってお生みになった子は阿遅耜高日子根神。次に妹の高比売命、又の名は下光比売命。この阿遅耜高日子根神は、今は迦毛大御命と言われています。(以下大国主神が神屋楯比売命や鳥耳神を娶って設けた子孫を述べているが略)】
問題は多紀理毘売命と大国主の関係です。言葉だけだと理解しにくいでしょうから、系図を示しておきましょう。
(古田武彦『盗まれた神話』朝日文庫より)
多紀理毘売命は竹田恒泰氏も言っているように、アマテラスとスサノヲの誓約(うけい)によって生まれたとされています。スサノヲは多紀理毘売命の伯父または叔父にあたるのです。そして大国主神は須佐之男の娘、須勢理毘売を妻としています。
つまり、多紀理毘売命・須勢理毘売・大国主神は同世代なのです。『古事記』が、須佐之男が出雲に行った時の説明での大国主神との関係は「六世の孫」なのに、ここでは、「二世の婿」になるのです。
この問題は、『古事記』研究家を悩ましていたのです。しかし、竹田さんは何んの興味も示しませんし、そのような問題がある事も示していません。
最近世上を賑わせたことの一つに、宗像の沖ノ島をはじめとする関連施設の世界遺産に登録があります。しかし、沖ノ島の沢山の宝物が誰によって寄進されたのか、祭祀は誰が行ったのか、まだいろいろ謎が多い「胸形」なのです。筑紫の一角「胸形」に出雲の勢力が居た、ということになりますし、「国譲り」のお話の辻褄も合わなくなります。
『古事記』がもし世に出なかったら、「因幡の白兎」のお話がある事を知らなかった、ということはともかく、このように、出雲と筑紫にはややこしい問題をはらむ記事がある『古事記』なのです。だから『古事記』は「日本」の正史にはふさわしくない、と元明天皇によって没にされたのだ、といえる可能性は大きいでしょう。
古田武彦氏は、六世の孫というような記述になったのは、本来の出雲王朝の神統譜を無理にはめ込んだのではないか、本来の伝承はスサノヲの娘と大国主神は同世代である(『盗まれた神話』角川文庫 第14章最古王朝の政治地図より)とされます。(同書には古田武彦氏の詳しい論証がありますので、同書を参照ください)
なお、多紀理毘売命と大国主神の間に生まれた子は、「胸形」ではなく、大和の地で「農業の神」とし高鴨神社に祭られているとか。そして、鴨氏の氏神とされているそうです。
(B)景行天皇の事跡の記事
竹田恒泰氏は、『古事記』には景行天皇の事跡が殆どないのに、『日本書紀』には南部九州の熊襲征伐など沢山の記事がある事について、現代語訳した本文に続いて、「景行天皇の事跡は」という「解説」を次のようにされます。(p214)
【これで景行天皇の条は終わりです。「?」と思った人もいるでしょう・この条は倭建命の条に終始していて、景行天皇の御事績については殆んど語られていません。わずか数行、田部〈たべ〉を定め、淡水門〈あわのみなと〉を開き、大伴部を定め、倭屯倉を定め、坂手池を作ったと記述されているだけです。
ところが『日本書紀』には、天皇が九州や東国に遠征なさった記述もあり、『古事記』とはだいぶ異なります。ただし、『古事記』はそれじたいで完結した一つの物語ですから、『日本書紀』を読んで頭の中で一つの物語に無理に融合させてしまうと、本来の趣旨が崩れてしまいます。
『日本書紀』は別の資料であることを念頭に、参考にするとよいと思います。ただ記紀が共通して示しているのは、この時代に大和朝廷の勢力範囲が、南九州から関東まで拡大し、その勢力が東北の一部にまで及んだことです。】
この竹田恒泰氏の解説では、「『古事記』の話はそれ自体完結している物語なので、無理に『日本書紀』の話と結び付けて考える必要はない」と言っているようです。
しかし、『日本書紀』は日本国の正史である、ということを考えると、『日本書紀』の話を「正」として、それに『古事記』を結び付けてみなければならない、という考えが「日本国民」としては正しい見方になるともいえましょう。
『日本書紀』で述べられる景行天皇の数々の事跡が、『古事記』には全く姿を見せないということは、『古事記』にはそのような大きな欠陥がある、ということになります。そのような間違った書物があれば、正史『日本書紀』の沽券に係わる、ということで、元明天皇に撰上された『古事記』は廃棄処分されたのでしょう。
景行天皇の事跡の記録は『日本書紀』と『古事記』のどちらが正しいのでしょうか。もし、『古事記』がひょこりと何百年の後に姿を現さなかったら、このような大きな問題がある事自体後代の人々、我々、にはわからなかったのです。
このような大きな問題が存在する、『記・紀』の景行天皇の事跡の食い違い、これこそが、『古事記』が日の目を見なかった一番の理由ではないかと思われます。
このような問題について、目をつぶり、“この時代に大和朝廷の勢力範囲が、南九州から関東まで拡大し、その勢力が東北の一部にまで及んだことです。”などと、『古事記』での景行天皇の息子の小碓命の武勇譚を拡大解釈しているようです。
竹田恒泰さんは、『古事記』がなぜ日の目をみなかったのか、ということに、もっと真剣に向き合う必要があると思います。
◆(I I)ニニギノミコトの降臨の場所
(C)竺紫の日向とは
天孫降臨、いわゆるニニギのミコトが天下った「竺紫の日向の高千穂」の場所について、竹田恒泰氏は次のように解説します。
【なぜ天孫降臨の地は高千穂なのか(106頁)
邇邇芸命の降臨によって、神武天皇につながる日向三代が始まります。日向三代は神の世から人の世へと移行する過渡期だと考えられます。
高天原〈たかまのはら〉は現実の世界との重なりは不明ですが、葦原中国は現実の世界そのものであり、邇邇芸命が降臨あそばされた高千穂を始め、『古事記』が記す数々の地名、そして神社や遺跡が今も残ります。
しかし、高千穂の場所をめぐっては、古くから九州南部の霧島連峰の「高千穂峰」と宮崎県高千穂町の二つの説が対立しています。
私は霧島に行くと降臨の地は霧島だと思い、また高千穂町に行くと降臨の地は高千穂町だと思ってしまうのですが、天孫降臨神話に所縁のある場所が二ヶ所あることは、二度楽しめるのですから、私はこの論争は決着しなくてもよいと思っています。そもそも、神話が記す地名を、必ずしも現実の世界に比定する必要はないのです。
では、なぜ邇邇芸命は高千穂に降臨なさったのでしょう。出雲の国譲りを経た直後ですから、出雲に降臨なさる方法もありました。また『古事記』編纂にあたり、大和朝廷の権威を最大限に高める意図を発揮して、降臨の地を三輪山とする方法もあったはずです。
これについては二つの視点から考えます。まず『古事記』そのものから答えを導きだそうとするなら、天照大御神生誕の地だからという理由になるでしょう。『古事記』が記す降臨の地は「竺紫〈つくし〉の日向〈ひむか〉の高千穂のくじふる嶺〈たけ〉」ですが、竺紫の日向はかって伊耶那岐神〈いざなぎのかみ〉が禊をなさって天照大御神がお生まれになった場所でした。天孫である邇邇芸命が最も所縁のある竺紫の日向の地に降臨あそばされたことは、とても自然なことだと思います。
次に、考古学の視点から考えます。『古事記』は後に神武天皇が本拠を日向から大和にお移しになる東征を伝えていますが、邇邇芸命の降臨が日向であることと関係があると考えられています。
古墳時代、鉄器の鋳造は国家規模の事業でした。弥生時代に九州地方で見られた鉄器が後に大和でも見られるようになったのは、王権を象徴するものが九州から大和に移動した結果と思われます。
また、二世紀後半には、瀬戸内海を中心に防衛を意図したと思われる高地性集落遺跡が集中していることは、神武天皇の東征伝説と符合します。中国の史料である『後漢書』「東夷伝」にも、この時期に「倭国大乱」があったと記します。
降臨の地が竺紫の日向であるのは、王朝成立のきっかけとなった軍事的な勢力が、南九州から畿内に移動してきたことが史実であるからではないでしょうか。】
以上の竹田さんの解説によると、【南九州から畿内に移動したことが史実であるから】という結論が示されています。
この件については、次の項「神武東征は史実か?」であらためて検討します。
ニニギの降臨地が南九州の高千穂であるのは間違いないとされ、邇邇芸命の天孫降臨神話の「高千穂」が宮崎県の高千穂か鹿児島県の高千穂か、という「高千穂」の本家争いがあって、まあどっちでもよいではないか、というのが竹田恒泰氏の「解説」です。
ところで、『古事記』の神代の世界は「筑紫」と「出雲」が主体だ、ということは衆目の一致するところのようです。「出雲」については「大国主神」の名前に象徴されるように、「出雲大社」祭神である「大国主命」で、島根県ということで一致しているようです。
ところが、「竺紫」が示す現在の地域名を明確に示すことは難しいようです。竺紫が九州島全体を示すのか、現在の福岡県の筑紫平野一帯を示すのか、各論があります。
一般的には、「竺紫の日向」が「九州の日向(ひゅうが)」つまり今の宮崎県なのか、「竺紫の日向(ひなた)」つまり福岡県なのか、という判断にも大きくかかわる問題です。
しかし、『古事記』には「日向国」の記事は神武記に「日向国」から妃を迎えた、という記事はありますが、他にはないのです。神話の国作りのところで、筑紫島は四つの国からなっていて、竺紫・豊・火・熊曾とあるのです。日向(ひむか)は出てきていないのです。「竺紫の日向」は当然「筑紫国の日向」の意味であって、現在の宮崎県の日向地方ではありえないのです。
『日本書紀』の景行天皇の熊襲征伐のところに「日向国」の名付け記事があります。つまり、天孫降臨の時期には「竺紫の日向」は「福岡地方の日向」の地であったのです。福岡に「日向」の地があったのか、と驚かれる方も多いでしょう。
福岡県の糸島市と福岡市との境にある日向峠、そこから日向川が流れだして室見川に合流し博多湾にそそいでいます。室見川との合流地点の近くに、最古の弥生遺跡ともいわれる「吉武高木遺跡」が存在します。
この関連地名は、国土地理院の二万五千分の一の地図「福岡}でも現在にも「日向」が現実に存在していることを証明してくれています。(下図参照)
竹田恒泰氏は、ニニギノミコトが高千穂のくじふる嶺に降臨して、次のように言ったと『古事記』の記事を紹介しています。
【日の御子の降臨 さて、邇邇芸命〈ににぎのみこと〉は天之石位〈あめのいわくら〉をお離れになり、天の八重にたなびく雲を押し分けて、道をかき分けかき分けて、天の浮橋にうきじまり、そり立たせて(この部分は難解とされる)、竺紫〈つくし〉の日向〈ひむか〉の高千穂のくじふる嶺に天降りあそばされました。(中略)
そこで邇邇芸命は「ここは韓国に向かい、笠沙之岬(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)に道が通じていて、朝日がまっすぐに射す国、夕日の日が照る国である。だから、この地はとても良い地だ」と仰せになって、地の底にある岩盤に届くほど深く穴を掘って、太い宮の柱を立て、高天原に届くほど高く千木〈ちぎ〉を立てて、そこにお住みになりました。
このようにして、天照大御神の孫が、葦原中国〈あしはらのなかつくに〉を治めるために、高天原から降っていらっしゃいました。これが「天孫降臨」です。】(104~105頁)
しかし、現在でも宮崎県の高千穂から、辺りを見回して、韓国に向かっているとか鹿児島のはるか南端の岬に道が通じている良い国、という言葉が言えるわけもありません。神様だからできたのだ、神話なのだからこれでいいんだ、ということでしょうか。
これが、筑紫の日向の高祖山でしたらどうでしょうか。古田武彦氏は次のように言います。
【この文は四至文だ、東西南北を眺めて感想を述べたのだ、と次のように解説されています。
『古事記』原文は「此地者、向韓国、真来通笠沙之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国也。故、此地甚吉地。」である。この原文はキッチリと「漢字六字ずつ四行の対句形」になっている。あまりうまいとは言えないが日本式対句漢文なのである。
此地者 ①向韓国真来通 ②笠沙之御前而 ③朝日之直刺国 ④夕日之日照国 也。
①この地は、韓国に向かって真っすぐ通っている、②は、「笠」の地、である。御笠川の流域の前の地の意味であろう。(御前の出現例を多数上げている)③,④はその物ずばりで、この文は「四至」文である。
「この地(糸島郡高祖山付近から望むと)①北なる、韓国にむかって大道が通り抜け、南なる笠沙の地(御笠川流域)の前面にあたっている。そして、③東から朝日の直に射しつける国、④西から夕陽の照る国だ。」ここで注目されるのは、「四至の文」の形で構成されていることだ。それも抽象的でなく、臨地性に立つ的確な表現であることだ。】(古田武彦『盗まれた神話』角川文庫第七章天孫降臨地の解明より)
また、『古事記』にはニニギが木花之佐久夜毘売に笠沙之岬で会う話があります。宮崎の高千穂に降臨して鹿児島の最南端の岬で出会う、というのは全く神話の荒唐無稽さ、といえるでしょう。しかし、福岡の日向に降臨して、御笠に出かけた時に遭った、ということになるとグッと現実味を帯びてくるのです。
もともと「天孫族の天下り」伝承とはどういう出来事の伝承なのでしょうか。神話が語る出来事が歴史上の出来事の伝承とみれば、宮崎県や鹿児島県の高千穂峰のような高地・高山に天降りということではありえないことです
別の世界から来てそこに根拠を置いた場所の象徴としての「高千穂」でしょう。弥生時代早期のころに九州島のどこかに侵入してきた一族の成功譚ととると、神話も理解でき易くなります。
このように、「日向」を福岡の日向、という認識に立てば、宮崎の高千穂に降臨地を置いた場合の問題がすべて解消するのです。博学の竹田恒泰氏ですから、この古田説を知らないはずはないと思います。堂々と「福岡の日向説などあり得ない」と論破されたら如何でしょうか、できないから黙っているのでしょうか?
一般には、「竺紫の日向=南九州の日向国」という通説が出来上がっているようです。しかし、いままで述べてきたように、筑紫という地名や神社名が現存しているのは福岡であり、考古学的出土物も北部九州が九州の中でも、(日本全体でも)圧倒しているのです。『古事記』が記す「竺紫」はすべて福岡県の筑紫平野一帯とするのが理性的判断と思われます。
竹田恒泰氏は、考古学的に九州地方が鉄器の使用などの先進地帯であったので、王権がまず存在したのは九州である。神武天皇東征の出発地が日向であるので、ここも九州の一角であり先進地帯であった、というように詭弁的に結論を持っていっています。
考古学的遺物が示す文化の流れから、九州地方から先進的軍団が、東方に向かった、とする「神武東征説話」は、神話でなく歴史的史実を含んでいる、とされる竹田恒泰氏の見方は間違っていないと思います。しかし、その「解説」には多くの問題があると思われます。
次に紹介する、神武東征は史実か、という竹田氏の「解説」の中で、竹田氏が、「神武東征」を史実と強調することの説明に、そのあまりのアナクロニズムともいうべき「解説」には、反って「だから神武東征は作り話なのだ」という、「神武東征創作説」の人々からの嘲りの声が聞こえてくるようです。
◆(III)神武東征は史実か
この神武天皇実在か、東征は史実か? という問題について竹田恒泰氏の解説は、「日向出立」と項目を立てて、高千穂の宮での相談から橿原神宮での建国までを現代語に訳されています。
戦後の史学が、崇神天皇以前の『記・紀』の記述は6世紀ごろ大和朝廷の史官が創作したもの、という津田左右吉氏の説が主流となりましたが、それに対して、竹田恒泰氏は、「神武東征」は史実に基づいた伝承という立場から述べられています。その点については文句はないのですが、『古事記』の竹田恒泰氏の解釈には気になる点が多いのです。
それは「神武東征」についての竹田恒泰氏の、D)出立の場所はどこか、及び、 E)日に向かったから負けたのか、というところです。
D)出立の場所はどこか
まず、出立にあたっての竹田恒泰氏『古事記』の解釈が果たして『古事記』が書いている通りなのか、と気になったところの「解説」をまず紹介しておきます。
【神倭伊波礼毘古命と、同じく玉依毘売命を母とする兄の五瀬命の二柱の神は、高千穂宮で相談あそばされました。弟の神倭伊波礼毘古命が「一体どこに住めば、平和に天下を治めることができるのでしょうか。東へ行ってみませんか」と申し上げると、日向(ひむか・九州南部)をお発ちになり、筑紫(つくし・九州北部)へ出立なさいました。
そして、豊国〈とよのくに〉宇沙(大分県宇佐市)にお着きになった時、そこに住む土着の人で、宇沙都比古、宇沙都比売の二人が、足一騰宮を作り、服属の徴として大御餐〈おおみあえ〉を献上して、神倭伊波礼毘古命と五瀬命をもてなしました。
そして二柱はその地からお移りになり、次は竺紫の岡田宮(福岡県遠賀川河口付近か)に一年間お留まりになりました。その後、阿岐国の多祁理宮に七年、また吉備の高島宮に八年お留まりになりました。
その地をお立ちになって・・・・(大阪湾への侵攻となる 後略)124頁より】
この竹田恒泰氏の解説で問題と思いますのは、まず、筑紫などの地名の読みです。「筑紫」は原文は「竺紫」です。竹田氏は竺紫を「つくし」と読みます。しかし「竺」は「つく」ではなく、天竺など「てんぢく」と読むように「ちく」でしょう。現地福岡では今も「筑紫」は「ちくし」と発音します。(この件については、後で再度詳しく論じます)
「東へ行ってみませんか。と、日向〈ひむか〉を出発し筑紫へ出立され・・・」と現代語訳をされています。しかし東へ行くのに、宮崎の日向から福岡方面に行くのは北西であり東ではありません。そしてそのあと豊国の宇佐を目指すのです。これは東です。
、先述のように「日向」は「福岡県糸島の「日向(ひなた)」の地なのです。このルートを地図に落としてみますと、竹田恒泰氏のいう宮崎からのルートは「東に行く」という『古事記』の記事にどちらが適合しているか一目瞭然です。
(なお、『日本書紀』編集者もこの「日向から東に向かって筑紫に行く」という矛盾を、「筑紫の日向」という表現にして、修正を試みていますが、成功したとは言えないようです。)
竹田恒泰氏は、おそらく古田武彦氏の『盗まれた神話』を読んでいないということはないと思いますが、「日向=ひなた」の地名が現在もちゃんと福岡の地に残っている、ということを竹田氏は知らないふりで話を進めているように思われます。
E)日に向かったから負けたのか
竹田恒泰氏は「日に向かって戦ったから負けた」と神武東征時の最初の戦について次のように述べます。しかし、その「解説」があまりにも浅薄なものなのです。ご紹介します。
【天つ神の加護を受けて進められる大和平定
登美毘古との戦いは、神倭伊波礼毘古命〈かむやまといわれびこのみこと〉にとって最初の戦いとなりました。しかし、兄の五瀬命は登美毘古の矢に当たり、「我々は日の御子なのに、日に向かって戦ったことが良くなかった」という言葉を遺してこの世を去ります。
その夜、神倭伊波礼毘古命は紀伊半島を廻って南から攻め、日を背後に負うように戦ってから、負け戦はなくなります。大熊の毒気に当たってしまった時、葦原中国の平定に用いた霊剣を届けてくださったのは天照大御神と高御産巣日神〈たかみむすびのかみ〉でした。日を背後にしたことで、高天原の援助を受けられるようになったと考えられます。(中略)
このように、『古事記』東征伝説の前半は、神倭伊波礼毘古命による大和平定が、天つ神の援助を受けて為されることを明確に記しています。天皇による地上世界の統治が、天つ人の秩序によって行われることの伏線になっているのです。
また、『古事記』からは、神倭伊波礼毘古命が日の神の御子であることを強く意識していらっしゃることが読み取れます。そもそも、東征の目的は平和に天下を治めることが出来る場所を探すことでした。
そして、二柱の兄弟は、その地は東にあるとお考えになったのです。東に向かうということは、つまり日が昇る方向に向かって旅をすることを意味します。そして、この旅の出発点が「日向〈ひむか〉」だったのです。日向は皇室の発祥の地として、ふさわしい地名ではないでしょうか。
ところで、大東亜戦争も日に向かって戦ったから負けたと言ったら笑われるでしょうか。日本が主に戦った米国は、東に位置します。日華事変の後、南方戦線を拡大させたことが、日本が米英と戦う切っ掛けとなりますが、南に向かって攻めたことも、日に向かって攻めたことになるでしょう。
神武天皇も、紀伊半島の南側にまわりこんで北に向かって軍を進めるようになってから、負け戦はなくなりました。『古事記』には、日に向かって戦うと「天つ神御子」は天つ神の御加護を受けられなくなった教訓が記されているのです。
しかし、大東亜戦争で南進論に反発した人がいました。「戦争の神」と言われた石原莞爾です。彼は米英と組んでソ連を叩けという北進論を唱えた人物です。
私は北進論をとっていたら日本は戦勝国となっていたと考えています。仏印に進駐する前に、誰か『古事記』を持ち出していさめる人はいなかったのでしょうか。(128頁より)】
この竹田恒泰氏の「解説」については、まともに論評するのも、なにか馬鹿げていると思われるほど、「気楽度」が高い「解説」です。まあ、竹田恒泰氏は、気楽に感想を述べられているのでしょうが、この書物が青少年に文部省推薦書籍ということで各学校の図書館におさめられているのが問題なのです。
「東に向かって攻めたから負けたのだ、『古事記』の教訓を学ばなかったから負けたのだ」、など床屋談義的な意見はともかく、日本の敗戦は「八紘一宇」という誤った選民思想に基づいた思想からだった、という反省のかけらも見られないことに、この明治天皇五世孫氏が、マスコミにもてはやされてオピニオンリーダーの片隅に居ることについて、空恐ろしいことと思います。
◆(IV)中国史書と古事記について
F)倭王珍は反正天皇なのか
中国史書と古事記との関係について
竹田恒泰氏は、第十八代反正天皇のところで、『宋書』の「倭の五王」関連の記事があることについて、次のように中国史書と『古事記』の記述との関連性について「解説」されています。、
【『日本書紀』によると反正天皇の御在位は五年という短い間だったと言います。また、中国の宋の正史である『宋書』に記された「倭の五王」の一人の「珍」は反正天皇のことだと考えられています。『古事記』にはこの天皇の御即位前の活躍は記せられているものの、御即位後の功績は何も記されていません。
しかし、宋の記録によると、倭王珍は宋の文帝に朝貢し、倭国が朝鮮半島の百済・新羅・任那などを支配することを認めるように申し出たといいます。この時、大半は退けられましたが、「倭国王」を名乗ることが認められたといいます。
天皇の御事跡が『古事記』『日本書紀』に記録されていなくても、このように外国の史料に記録されていることがあります。ただし、中国の正史といえども、必ずしも史実が忠実に書かれているとは限らず、自国の都合のよいように書かれている場合もありますので、参考程度にとどめておくとよいでしょう。(274~275頁)】
『宋書』の記事にある「倭国王珍」の朝貢したことや「倭国王」称号を受けた記事を、反正天皇の業績とは竹田恒泰氏は言っていませんが、中国の正史でも史実かどうかはわからないので、参考程度にとどめておくように、と言っているのは歴史研究家として如何なものでしょうか。
第一、『三国志』に記述のある「邪馬壹国」いわゆる「邪馬台国」の卑弥呼女王も全く『古事記』には姿を見せていないのです。『宋書』が記す、五世紀あたりの「倭国」は、魏朝の「親魏倭王」の称号を受けた「卑弥呼」の国の後裔王朝であるといことは、当然のことでしょう。
いずれも『古事記』が記す「大和朝廷」の歴史には無関係の『宋書』の「倭の五王」であり、『三国志』にみえる「卑弥呼」なのです。その証拠に、この「倭の五王」の治世に相当する期間の『古事記』には、外国との戦闘の記事や中国への朝貢の記事も全くないのです。
竹田恒泰が言うような、「中国の史書は参考程度に留めておく」というような研究態度では、真の日本の古代と『古事記』との関係の解明は難しいと思います。
G)倭の五王と皇統譜
「倭の五王」の内の「倭王武」について、竹田恒泰氏は雄略天皇のところで次のような「解説」をされています。
【『宋書』倭国伝は、倭王武が西暦四七八年に宋に使いを送ったと記しますが、倭王武が雄略天皇であることはほぼ確実とされています。(305頁)】
これも反正天皇=倭王珍の前項で述べたように、『古事記』の雄略天皇記には「外国への出兵」・「宋朝からの綬号」など全くないのです。やはり、『三国志』や『宋書』が言う倭国は大和朝廷のことではない、ということで全て合理的に説明でき、竹田恒泰氏が解説されていることは的外れと言えましょう。
特に倭王武=雄略天皇とすると、両者の生存期間が違うのです。『宋書』に次ぐ中国の史書『南斉書』と『梁書』に、斉朝が479年に倭王武を鎮東大将軍に、また梁朝が502年に倭王武を鎮東代将軍から征東将軍に進める、という記事があります。
雄略天皇は『日本書紀』によれば、479年に亡くなっていますから、梁朝の倭王武への綬号は雄略の死の23年後であり、死者に称号を与えたことになってしまいます。これも「中国の史書は参考程度に留めておく」という竹田さんの歴史研究家としての立場からのものでしょうが、全く合理性を欠くものです。
◆(V)考古学的発見と『古事記』記事
考古学の成果として竹田恒泰氏があげるのは、H)稲荷山の鉄剣銘の解読から、欠史八代の天皇とされる孝元天皇の実在が確認されたこと、および、I)江田船山古墳と稲荷山古墳出土の鉄剣銘の「ワカタケル」の解読から、雄略天皇の時代に大和朝廷の統治領域が、南は九州から東は関東にまで広がった、と次のように解説されます。
H)稲荷山鉄剣銘)
稲荷山の鉄剣銘の解読から、欠史八代の天皇とされる孝元天皇の実在が確認された、と次のように解説されています。
「解説(163頁)」より
【考古学の成果により実在が確認された孝元天皇
孝元天皇は「欠史八代」の一代として、長年実在が疑われていましたが、昭和43年(1968年)に発見された埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘に「意富比〈おおひこ〉」と書かれていたことから、孝元天皇の皇子である大毘古命〈おおびこのみこと〉(『日本書紀』では大彦命〈おおひこのみこと〉)の実在が確認されました。
したがって、その父である孝元天皇が実在したと考えられるようになったのです。大毘古命は、後の崇神天皇の条にみえるとおり、軍を率いて北陸道方面に遠征し、諸国を平定することになります。】
しかし、この「意富比垝」という名前を、『記・紀』に出てくる名前「大毘古命・大彦命」と語感が似た名前に、無理やりこじつける手法で作り出された説を得々と使っているようです。意富比垝=オオヒコ説について竹田恒泰氏は何も説明なく、これが定説だ、と言わんばかりでの解説です。
明治大学の吉村武彦教授がいくつかの著作で、この「大彦命」説を述べているようです。しかし、「意富」を「オオ」と読むなど、専門家も苦労されているようです。普通に読めば、「意富比垝」は「イフヒキ」ではないでしょうか。「大毘古命」に合わせての「オオヒコ」読みを成立させたのではないかと疑われます。
調べてみました。『市民の古代第四集』(1982年)に今井久順氏が調べた結果を述べられていました。
【意富はイフであり、熊のこと。諸橋『大漢和辞典』でも熊(ユウ・イフ)。比垝はヒキであり龍のこと。ヒキは古代朝鮮語で蛙のことだという。
古代朝鮮の神話に金蛙王の話がある。この蛙の意味は湖沼の神、水神だそうである。近くに埼玉県比企郡のヒキの地名もある。つまり、上祖イフヒキとは、熊+龍神という意味の名だった。】
余談になるかもしれませんが「熊本弁では蛙はビキ」というのも関係があるのかも知れないな、とか、「意富=イフ→倭武」という流れもあり得るかも、というのはちょっと行き過ぎかもしれませんが。
I)江田船山鉄剣銘
雄略天皇のところの竹田さんの「解説」に、次のように【江田船山古墳と稲荷山古墳出土の鉄剣銘の「ワカタケル」の解読から分かったこと】と説明がされています。
【熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘と、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘に雄略天皇の名(大長谷若建命〈おおはつせ わかたけるのみこと〉である「獲加多支鹵大王〈わかたけるおおきみ〉」という文字が記されています。これは雄略天皇の時代に、大和朝廷の統治領域が関東から九州にまで及んだことを想定させるものです。
また、『宋書』倭国伝は、倭王武が西暦四七八年に宋に使いを送ったと記しますが、倭王武が雄略天皇であることはほぼ確実とされています。(305頁より)】
これも『古事記』には雄略天皇の時代に竹田恒泰氏がいうような、大和朝廷のいわば全国展開があったようなことは何も書かれていません。この二つの鉄剣銘を二つとも同じ雄略天皇を記している、とされますが、実際は違っているのです。
大王の名前を刻み違った、それも一字でなく沢山の文字を間違った、などあり得ないことでしょう。
これについては古田武彦氏が『関東に大王あり』1979年創世記社 で詳しく論証されています。ので詳しく知りたい方はそちらを参照ください。
付け加えますと、雄略天皇は『日本書紀』で大悪天皇とまで評せられているのです。竹田恒泰氏も雄略天皇の残虐性について、「親族を次々と殺害した気性の荒い少年」 と次のように「解説」しています。(291頁)
【安康天皇が殺害されたことを知った大長谷王子(後の雄略天皇)は、兄たちに敵討ちの相談うぃおしますが、乗り気でない兄たちを殺してしまいます。当時大長谷王子は少年でした。激しい性格を持つ少年が兄を殺していく描写は、倭建命〈やまとたけるのみこと〉の印象と重なるものがあります。そして、大長谷王子は続けて皇位継承の競合者となる市辺之忍歯王を殺害し、即位を確実なものにしました。
殺された市辺之忍歯王の二柱の王子は、播磨の国に逃げ、馬飼いとなって身分を隠します。後の、仁賢天皇・顕宗〈けんぞう〉天皇です。】
このように書かれた気象の荒い「大悪」と言われるほどの天皇が、もし、宋の皇帝から、百済を除く朝鮮半島の軍事支配権を授与されるようなことがあれば、「大悪ではあったが、中国ではこのように評価されていた」というような記事が『古事記』に残らないはずはないでしょう。宋朝が相手にした「倭王武」は大和朝廷の王ではなかった、というのが正しい「解説」ではないでしょうか。
ところで、タギシミミ殺しを除いて、跡目相続での殺し合いや天皇の残虐性の逸話が数多く残されています。このことについては、流石に明治帝五世孫であられる竹田恒泰氏は、ご先祖の不名誉の記事についての「解説」はなされていません。
このホームページの道草のページに「記紀にみる皇位争奪」http://torashichi.sakura.ne.jp/mitikusa09.html
をご覧になってください。現在もなおも続く法の外の組織の抗争、それ以上のすさまじい抗争が記されています。
◆(VI)古代天皇の長寿
J)二倍年暦と建国記念日
この問題は、神武天皇の即位はいつなのか、それに関係して、古代の天皇の寿命はなぜ皆長いのか、ということが上げられます。また、即位を古く見せるために古代の天皇の寿命を長くしたり、神武天皇と崇神天皇の間に八代の天皇を創作してはめこんだのではないか、という疑いがある問題です。
神武天皇の即位について、竹田恒泰氏は次のように「解説」されます。
日本建国を示す神武天皇即位(140頁)
【大和平定と神武天皇御即位は、わが国の建国を意味します。現在二月十一日は「建国記念の日」という祝日になっていますが、これは『日本書紀』の神武天皇御即位の記述を根拠に、二月十一日と定められたものです。
ヤマト王権は、まもなく大和朝廷に発展し、その後一度の王朝交代も無く、現在の日本国につながります。そして、初代の神武天皇から、現在の第百二十五代の今上天皇(現在の天皇陛下)まで、連綿と皇統が継承されているのです。ですから、わが国の建国を祝う日は、神武天皇御即位以外に該当する日はあり得ないのです。
したがって、『古事記』が記す神武天皇御即位までの物語は、日本の建国の物語だったことになります。神武天皇が天下をお治めになった白檮原宮〈かしはらのみや〉は最初の皇居であり、わが国最初の都でもあります。これ以降は、天皇の統治がどのように行われてきたか、すなわち、天皇の統治の歴史が記されていきます。
ところで、『古事記』からは神武天皇御即位の年代を特定することはできませんが、『日本書紀』の記述によれば、紀元前六六〇年(西暦)となります。これには考古学の見地から反論がありますが、逆に考古学の成果では、三輪山周辺に前方後円墳が造られた三世紀初頭がヤマト王権成立の根拠となるため、どれだけ遅く見積もっても、ヤマト王権は三世紀初頭には成立していたことになります。
王権成立の兆しが表れたとたんに巨大古墳を造営することはほぼ不可能ですから、王権成立のきっかけは、三世紀初頭からだいぶ遡るべきだと考えるべきでしょう。】
竹田恒泰氏が言うように『古事記』には神武天皇の即位の年は書いてありません。後に述べますが、当時は「暦」がなかったので、「なになに天皇の何年目」というような伝承きりのこっていなかったと思われます。
『日本書紀』の方は、編纂時期には大陸から到来した暦が用いられていたので、その暦法を古代にも遡って適応させ、西暦紀元前660年としています。
この「解説」で竹田恒泰氏は、ここで突如「ヤマト王権」という言葉を持ち出します。「ヤマト朝廷」と言えるようになるのは『古事記』ではいつの頃からなのでしょうか。『古事記』の記事と「ヤマト王権」の意味するところについて何も説明がないのは、「ヤマト王権」が教科書などに用いられているということからか、と思いますが、やはり『現代語 古事記』として、何らかの「解説」が必要と思われます。
次に、竹田恒泰氏は、神武から崇神天皇の間の八代の天皇方は後に創作されたのではないか、という説に対して次のように「解説」されています。(152~153頁)
実在が疑われる理由に、天皇方が信じられないほどの長寿が上げられていることについて、意見を次のように述べています。
【「解説」欠史八代について(152~153頁)
『古事記』には、綏靖天皇から開化天皇までの八代の天皇について、崩御の年齢、宮廷の場所、御陵〈みはか〉の場所、妻と子どもの名前などを記しているだけで、具体的な御事跡などは明らかにされていません。そのため、この八代の天皇は「欠史八代」と呼ばれることがあります。
欠史八代は皇室の歴史を長く見せるために後世に創作されたという考え方があります。中でも孝安天皇と孝霊天皇は百歳以上まで生きたと書かれていることもあり、実在しなかったというのです。
しかし、欠史八代の天皇は実在したとの強い主張もあります。つまり、実在が確実な天皇でも『古事記』『日本書紀』に御事績が記されていない天皇も複数あるため、御事跡が記されていないからといって、すぐに実在しない天皇と結論することはできないという考え方です。
また「百歳以上生きた」というのが不合理なら、その部分の記述は無視するのが正しい史料の読み方です。その不合理とする記述を根拠に導き出した結論は不合理に違いなく「百歳以上生きたと書かれているから実在しなかった」との論は不合理な結論であるはずです。これは嘘吐きが、「私は嘘を吐いている」といった時の矛盾と同じです。
また、古代においては、半季ごとに年をとると考え、一年で二歳と数える方法もあり、それによれば百歳は五十年なので、不自然ではなくなります。
一方、神武天皇の日向〈ひむか〉出立から橿原での御即位に至るまでの大事業は、親子数代に亘るもので、欠史八代の歴代天皇の事績が、すべて神武天皇の条にまとめて記されているという説もあります。
いずれにせよ、実在しなかったという明確な根拠は無く、国家が編纂した歴史書である『古事記』『日本書紀』に記載があるのだから、実在したと推定するのが適当です。(以下、氏族の氏祖注について意見を述べていますが略します)】
竹田恒泰氏の「欠史八代」の実在論は、最後に国家が編纂した史書にあるのだから実在と推定、ということに、いわば強弁されているようです。ただ、この「欠史八代」の問題は、竹田氏も考古学的には問題があると述べているように、神武天皇即位の年が古すぎる、もっと新しいのではないか、と江戸時代から問題提起(藤貞幹『衝口発』)がなされているのです。
折角、古代は一年に二回歳をとる、というところに言及されているのですがら、もう一歩進めて、神武天皇即位の年とされるBC660年が不当なことを、『古事記』の各天皇方の年令から即位の年を推定するところまで行けばよかったのに、と思います。
これについて当方も一度検討したことがあります。このHPの道草の頁に出しています。「神武と卑弥呼と福岡」という題である所で話した時のものです。クリックするとご覧になれます。
結論だけを紹介しますと、『古事記』の古代の23人の天皇方の没年令を平均すると90.7歳であり、『魏志』のいう倭人寿考百~八、九十歳の記事によく合います。
そして同じく『魏志』の「魏略にいわく、その俗、正歳四節を知らず。但し、春耕秋収をもって年紀としている」という記事からしても、竹田恒泰氏がいわれる古代の二倍年歴も正しいと思われます。
時代が下って安康天皇あたりになると『日本書紀』の暦の記事も正されてきたようです。安康天皇の没年あたりから計算してみると、『日本書紀』が「辛酉」という干支から神武天皇の即位を現代暦に直すとBC660年に当たる、とされたものは、BC50年±50くらいになるかと思われ、考古学的遺物との違和は無くなるのです。
このあたりまで竹田恒泰氏に踏み込んでもらうのは、期待するのが無理かもしれません。『古事記』には神武天皇の時代の暦年については何も述べていないのですから。
◆(VII)いわゆる磐井の乱について
K)「竺紫君」とは
竹田恒泰氏はいわゆる磐井の乱について次のように、『古事記』本文を現代語訳されています。特に『解説』もされていません。
【継体天皇の御世において、竺紫君石井〈つくしのきみいわい〉が天皇の命令に従わずに、無礼なことが多くありました。そのため、物部荒甲大連〈もののべのあらかいおおむらじ〉と大伴之金村連〈おおとものかねむらのむらじ〉の二人を遣わせて、石井〈いわい〉を殺させました。】
ここで不思議に思うのは、「竺紫君をなぜ「つくしきみ」と読むのか、「竺」は「ちく」で「つく」とは読めない」ということは前述しました。問題は「竺紫君」という言葉は『古事記』でここに初めて出てくる言葉なのです。(後にも先にもここだけです)
『古事記』には、神武天皇が東に向かった後の竺紫については全く記述がなく、継体天皇のところで突如として「竺紫君」石井が勅命にしたがわず殺した、と出てくるのです。竺紫君の由来も何も書いていないのです。竹田恒泰氏は全く気付いていないのか、「竺紫君」が突如登場することについて何も語られません。
通常「君」は「姓〈かばね〉」と言われます。地域の首長的なものとも言われます。『古事記』に初めて出てきた「竺紫君」について、法学者でもある竹田恒泰氏は何か一言「解説」は欲しかったところですが。
太安万侶は、当時の人たちには「竺紫君」は、由来もわかっているから説明の要は無いと思ったのかもしれれません。それとも太安万侶は、天武天皇に対して、”やはりここのところは「筑紫君」について何も書かない方が良いのでしょうね” と天武天皇の気持ちを忖度した結果なのでしょうか。
ともかく、竹田恒泰氏の『現代語 古事記』には掘り下げて研究しよう、とする態度は見えないようです。
◆おわりに
以上、竹田恒泰氏の『古事記』の「解説」に対して、と「解説」で言われていないことについて、当方の意見を述べてきました。
竹田恒泰氏の出自からいろいろと制約もあったことでしょうし、又、大衆の中に入ろうと努力もなさっていることと思われます。しかし、古代の天皇方はアマテラスの神勅に従って、自然の意志によって統治されている、その精神は明治憲法にも生きている、などとも解説されています。
最近の平成天皇の生前退位問題に絡んで女性宮家の創設なども論議されています。竹田恒泰氏の「天皇家」についての考えが良くわかると思われると思われる文章を紹介します。
竹田さんは産経新聞社が発行する『正論』誌に「君は日本を誇れるか」というコーナーで意見を連載しています。今年の8月号では、「女性宮家が皇室を滅ぼす」というタイトルで論を述べられています。
その論旨は出版社が右寄りなのをみこしてか、かなり思い切りよいというか乱暴というか、自由な発言をされているように思われました。
その発言の要旨は次のようなものでした。
【女性宮家が認められると、歴代天皇の男系の血筋を引かない天皇、女系天皇が出現することになる。歴史を見ても、皇室は外部の女性を受け入れたが、外部の男子を皇室に受け入れたことは無い。女性宮家の拒絶は女性を排除するのではなく、男性を排除する考えなのである。女性宮家の女性皇族が、もし外国人と恋に落ちたり、それが外国のスパイである可能性はないであろうか】
と、いうように話を発展させていきます。男性皇族でも女性外国人や隠れ外国人や女スパイと恋に落ちる可能性もあることについては問題にしていません。
【もし女系天皇が成立したら、ある人は認めるがある人は認めない天皇になってしまう。天皇の血統の原理を変更しようとするのが女性宮家創設の提案だ】というような論旨でした。
なぜ、男系でなければならないのでしょうか。正史『日本書紀』の記述によれば、天照大神という女性の子孫が天皇家を代々継いできています。
しかし、男系でしたら、弟のツキヨミノ命かスサノヲノ命の系統が継ぐべきと思われますが、竹田恒泰氏はこのあたりの件についてはうやむやですませているようです
現在、皇統を継ぐ候補者数が限られてきています。しかし、現在は男女同権の世ですし、現天皇家の存続を願うのであれば、女性宮家の創設、ひいては女性天皇の出現は当然だと思うのですが。
主権在民の世の中なのに、このようなアナクロ的な論調が受け入れられる土壌が根強く残っているようです。前述しましたが、このような立場からの『古事記』解釈の書物が、文部省推薦図書となって各学校の図書館に入っていることに、空恐ろしい感じがします。
◆読者のご意見
「槍玉その64」早速拝読させていただきました。
古事記は古田氏が東北大学へ入学するや、村岡典嗣氏の進めで古事記序文について発表され、その後宣長の解読の誤り、写本の問題、書紀に依拠した解読の誤りなど古田史学の始りから終わりまで、基本テーマとなった問題かと思います。
古田氏は津田史学の基本的誤りを指摘し、高天原を天上高く持ちあげる論拠が古事記にはなく、歴史事実を中核とした記述であることを明らかにされました。「日本の生きた歴史」では写本の限界や「矛」と「弟」の誤読など宣長解読の根本的見直しの必要性を提起され、古事記学のコペルニクス的転回を説かれたのですが、古事記学界は万葉学界同様、無視を決め込んでいるのが現状です。
今回槍玉に挙げられた竹田恒泰氏もこうした戦後古代史学の非学問性を背景に、それらしい解釈を合理化、我田引水するものであることを鋭く指摘いただき、種々裨益されました。
しかし、この程度のものが推薦図書として小学校に届いているのには驚きを禁じえません。おまけに、「憲法特殊講義(天皇と憲法)」を担当されるようでは平成の平泉澄といったところでしょうか。いったい、どのような論理で憲法を解釈しているのか大いに気になるところです。名古屋市の図書館をみると、かなりの分館に配備されており、やはり支持があるのかもしれません。そういった状況での適切な槍玉と感じました。
古事記が廃棄された背景を景行天皇の数々の事跡の欠如にするよりは、序文の「削偽定実(
さくぎていじつ) 」とは何かを明らかにすることが重要かとも考えましたが、九州王朝説をベースにする必要があり難しいところがあります。しかし、竹田恒泰氏の非論理性と限界を分かりやすく説かれた功は多とするものです。
雑駁な感想で恐縮ですが、益々の槍玉の冴えを期待致しております。まずは御礼まで。ご参考までに誤変換等気づいた点を添付させていただきます。誤解、誤読等は御容赦のほどお願い申し上げます。 名古屋市 服部和夫
以上
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