槍玉その13  『歴史から消された邪馬台国の謎』 豊田有恒 著 青春出版社 2005年7月刊 批評文責 棟上寅七

著者について

ネット情報ですが、1938年5月群馬県生まれ。慶応大医学部中退、武蔵大経済学部卒とあります。

1962年『火星で最後の・・・』でSF作家としてデビューされています。

多才の方で、虫プロでアニメの脚本をてがけ、エイトマン、宇宙戦艦ヤマトの原案・設定にも携わっていらっしゃいます。その後、初期のSFから、歴史物へと対象が移行していらっしゃるようです。

評論にも健筆を振るわれ、騎馬民族の思想・騎馬民族の源流などもあるそうです。ファンの方も多いようです。詳しくは、インターネットで「豊田有恒」を検索してみてください。


この本の内容

この本のはじめにに、この本の目的が述べられています。

【邪馬台国を研究するためには、北東アジア的な視点に立たなければならない。「魏志東夷伝」は、もちろんのこと、「山海経(せんがいきょう)や朝鮮の『三国史記』など多くの文献に頼って、倭人の正体を見きわめなければならない】と。

この本の出版は2005年であり、邪馬台国論のいわば最新説です。邦光史郎氏をして「古田説を乗り越えるのは至難の業」とまで言わしめた、古田武彦さんの邪馬壹国博多湾岸国家説を乗り越えた成果が得られたのでしょうか。

普通、『魏志』東夷伝の中の倭人の条だけが、倭人伝として紹介されていますが、この本は、夫余・高句麗・東沃沮・韓・・・・・と、東夷伝の各国の記事を現代語訳されています。その意味では、この本は、古代史の参考書としても役に立つ本と云えましょう。

目次をご紹介すればおおよその内容が推し計れるかと思いますのでご紹介します。その中での問題と思われる諸点を拾い上げ、各項目毎に、当研究会の検討結果を述べていきたいと思います。

第一章 三国志に遺された古代日本の姿 について

目次:「魏・呉・蜀」の時代を編む『三国志』の内容  古代東北アジアの姿が見える「魏」の史実  魏東夷伝の知られざる前章「烏丸伝」「鮮卑伝」  「魏志烏丸伝」-秦漢の脅威であった匈奴の末裔  文献が伝える烏丸族の習慣  「魏志鮮卑伝」-匈奴の衰退後に台頭した民族  鮮卑族の失われた歴史と習俗  旧満州に倭人のコロニーがあった  「魏志東夷伝」-倭人を含む七つの民族  各民族を紹介した忠実なる歴史 

この本の殆どの部分、220頁の内120頁は、第一章の『三国志』の東夷伝、の紹介に費やされています。

しかし、よく読んでみますと、『魏志』東夷伝の記事の和訳の中に、『魏略』は言う、『後漢書』では云々と、などと巧妙に別の史書の記事が、『魏志』に紛れ込ませてあります。

その意味するところ、といいましょうか、著書の思惑といいましょうか、ご自分の信奉なさる騎馬民族説に適合するような暗示を与える、そのような方向に、巧みに誘導しているように思えてなりません。

この本を通して、気になる点は、中国人が現地の地名・人名・官名などに表音文字として使った漢字の読み仮名が無原則的だ、ということです。この点については、振り仮名の無原則性で後述します。

第二章 玄海灘に消えた倭国の謎 について

目次:釜山から北九州へー実験航海「野性号プロジェクト」  弥生時代の造船技術で渡れたのか  対馬~壱岐~東松浦半島で見えた風景  朝鮮半島と北九州が容易に往来できる理由  倭人はいつどこから来たのか  カルタゴとイギリスの例が暗示するもの  ソウル近郊から釜山への倭人の南下  日本列島へ本拠を移す

特に、日本列島に本拠を移す、の項で「後漢書」の極南界也の記事がその理由付けとして登場されられています。

倭人は元々朝鮮半島にいて、徐々に九州島に移動してきた、と推論を断定的に述べられます。
豊田説による後漢時代の倭の領域
つまり、漢の時代は、朝鮮半島と九州北部が倭人の国であった。倭奴国はその極南界である、という記述になった、と云われるのです。魏の時代になると、日本列島にまで倭人の国となったので、魏志倭人伝の記述する30カ国になった、というのです。

その部分を引用しますと、【また「後漢書」はこうも言う。「建武中元二年(57年)、倭の()国が、貢物を献上するため、朝廷にやって来た。使いの者は自ら大夫と称した。倭国の極南界也である。光武帝は、(しるし)(ひも)を賜った」】

『魏志』と『魏略』、『後漢書』についての基礎知識が無く、このように、『魏志』倭人伝と同等のレベルの史料として説明が続けられると、「なるほどそんなものか」と思ってしまうかも知れません。

邪馬台国を「倭国の極南界」に持って行きたい事情が豊田さんにはあるようです。

この極南界也の問題と、野性号の実験プロジェクトの失敗と魏使の行路の誤り、という問題は後ほど項を改めて記します。
この豊田さんの考え方では、「倭国はもと百余国、今使訳を通じるところ三十国」という倭人伝の文章を解釈するのが難しいのではないでしょうか。

第三章 「古事記」と「韓国文献」との意外な符合 について

目次:韓国「三国史記」に登場する倭人のリアリティ  新羅と倭の抗争の歴史  新羅本紀に描かれた生々しい卑弥呼像  「倭」の勢力に悩まされる歴代の新羅王  「古事記」「日本書紀」に隠されたある記述

記紀には朝鮮半島の任那・加羅の記事があるが、これまで努めてこれに触れないで来た「帰化人史観」を批判されます。そして、「元々、任那・加羅に居た倭人が北九州に橋頭堡を築いて勢力をのばして行った」とご自分の考えを述べられます。

しかし「後漢書」のしょっぱなに「倭は東南海中の山島に居す」「その大倭王は邪馬台国に居す」という記事を全く引用されていません。この記事からは、倭国の領域は九州島を示している、とるのが常識的な判断と思います。


第四章 消えた邪馬台国への道程を辿る   について

目次:細かく描写された伊都国の謎  九州か畿内かの争点  「出雲=投馬説」を裏付ける新たな発見  文化的に描かれた邪馬台国  ファッション、占い・・・当時の習俗が伝わる描写  狗奴国の脅威と魏の交流  「卑弥呼の死」の消せない謎

ここでは、邪馬台国が九州であり投馬国は出雲という豊田さんの推論が述べられます。
邪馬台国への行程(後述)や、倭国が魏王朝から破格の厚遇をえた理由などの豊田さんの推論が述べられています。

この章で目を引くのは、「卑弥呼以って死す(後述)の解釈です。これについても別項で述べます。


第五章 卑弥呼で途絶えた空白の歴史 について

目次:北東アジアに眠る弥生時代の真相  日本史を東アジア史の中で見る新視点  卑弥呼の時代の北東アジア情勢  魏と呉を巻き込んだ大動乱  高句麗への波及  魏が重んじた「邪馬台国の存在」

この章で、北東アジアの3世紀の状況が説明され、魏を脅かしていた公孫氏との関係で邪馬台国の存在が重んじられた、という推測を述べられます。

終章 失われた邪馬台国を解く鍵 について

目次:「九州」でなくてはならない理由  歴史の彼方へ消えた卑弥呼の国 について

第二~第五章で述べられたことが、終章で著者の意見として纏められています。

歴史の彼方へと消えた卑弥呼の国と題して、
【邪馬台国がその後どうなったかについて、文献も考古学資料も、なにも語ってくれない。卑弥呼の一族の女である壱与を、あらためて女王に立て、魏に遣使したところで、「倭人伝」の記述は、しり切れトンボで終わっている。(中略)

邪馬台国と大和王家との関係について、哲学者の和辻哲郎氏は初めて「邪馬台国東遷説」を提唱した。その後「東遷説」は、多くの研究者によって継承発展された。

なかでも畏友安本美典氏は、九州甘木地方と大和吉野地方における偶然とは思えない数十の地名の類似に着目し、多きな研究成果を生み出した。邪馬台国は、歴史の彼方へ消えた。だが、それが北東アジアに位置づけられることから、真相が近づいたといえるであろう。

具体的に九州のどこか、あるいは、どういう経緯で東遷したのかなど、今後の研究を待たねばならない謎が、なお残ることは確かである】

つまり卑弥呼の次の壱与までは歴史に残っているが、その後どうなったか不明。5世紀に『宋書』に倭の五王の記事が出るまでの間は空白。つまり謎の4世紀であり、その間に邪馬台国は東遷して大和王朝を建てた、とする方向を示していらっしゃいます。

このように 謎の4世紀(後述)、とは云われるけれど、4世紀にも倭国が連続して存在していた史資料はあり、倭国に大変動があった、という資料はないのです。このことについては、槍玉その6 高木彬光さんの古代天皇の秘密で検討しました。

騎馬民族征服王朝説に対する反証とも言えますので、この巻末に再録しておきます。

なお、第一~終章まで、中国史書の表音文字的に使われた、人名・国名・官職名などの漢字の読みカナを振ってあります。しかしこれが全く無原則的な読み仮名が付けてあることが気になりました。




それでは、問題点を各項目毎に見ていきましょう。

極南界也について

豊田さんが倭人伝の解説記事のなかに、『後漢書』の記事を潜り込ませて、自説に都合の良いところだけを引用している、と先述しました。

ここで、『魏志』倭人伝と『後漢書』倭伝の記事を比べて見る必要があります。

『魏志』は、3世紀に書かれた史書で、『後漢書』は5世紀に書かれた本です。『後漢書』倭伝の内容は、『魏志』倭人伝のダイジェスト版的な記述で、殆ど倭人伝を下敷きにかかれたものといえます。しかし、『後漢書』の倭国記事は、魏志を参考にして、書かれたことは後世の研究者の皆認めるところです。(例えば岩波文庫 『魏志倭人伝他三篇』 石原道博 編訳)

なぜ、『魏志』倭人伝の倭国の行路記事から、『後漢書』の倭奴国は倭国の極南界也ということになったのか、というところが問題なのです。倭人伝では、邪馬台国の南には投馬国があり、女王国領域の東端の南に敵対する狗奴国がある、と書かれていて、前掲の地図のようには極南界也とはいえないのです。

豊田さんずるいじゃないの、といいたいのは、後漢書の倭伝のしょっぱなに、倭国は東南海中の山島に拠っている、大倭王は邪馬台国に居す、と書いてあることを全く紹介されないのです。この点では、魏志倭人伝と後漢書の表現はさほど変りはないのです。

しかし、豊田さんは、後漢書にある「極南界也」のところだけを取り出して、ご自身の推論を展開されます。

【倭人は朝鮮半島南部から壱岐対馬・北九州にいた。邪馬台国は北九州つまり倭人テリトリーの極南界。その倭人が、朝鮮半島から日本列島に軸足を移したのだ】 というのが豊田さんの言いたいことのようです。『後漢書』がいう、「倭は東南海中の山島によって居をなしている」 は全く無視されています。

豊田さんが主張されるのが正しいのか、「極南界也」問題について検討する必要があります。『後漢書』の倭奴国の記事に次のように「極南界也」とあります。

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬

この解釈は、一般的には次のようです。【建武中元二年倭の奴国が貢を奉じて朝賀した。使人みずから大夫と称した。倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜うた】(岩波文庫 石原道博)

このいわば定説となっている読み方に対して、いやそうではないと仰るのが、古田武彦さんです。

その説は次のようです。『建武中元二年倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の南界を極むるや光武賜うに印綬を以ってす。』(古田武彦説)

確かに従来の読み方ですと、倭奴国は朝貢したので印綬を下賜した。倭奴国は倭の極南界である、ということです。それですと、
金印を渡した理由が薄弱。(そんなに簡単に金印を夷蛮の王に下賜したのだろうか)
南の端っこに倭奴国があるという不自然さ、
という疑問が残ります。

古田先生の説だと、倭人国の南界を極めたので、褒美として印綬を下賜する、ということですから、前者の①②の理由が消え去ることになります。この南界を極める、というのが、裸国・黒歯国などの魏志倭人伝の記事を指すのでしょうか?それとも九州島を南の果てまで征服統一した、ということを指すのでしょうか?この記事からだけではどちらとも判断しかねますが、古田さんは「極むる」という云い方から前者とされます。詳しくは
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen2.htmlをクリックしていただくと、古田さんの極南界也の解説をお読みいただけます。(2019年1月時点でチェックしましたら、古田史学のホームページから削除されているようでヒットできませんでした。今後も調査を続けてみて、分かり次第報告します。棟上)

ところで問題になるのは、「」という字の意味です。われわれ日本人が「也」を使うのは、断定的にいう場合が多いと思います。一金000円也、というように、従来説もそのような取り方です。

」の古代中国での使い方については、古田先生も用例その他は出されていません。漢文の知識のある方々には、当然の読み方なのでしょうか? 寅七みたいな戦後の教育を受けた者には、古田先生の読み方がいまひとつピシッと来ませんでした。

幸い30年前少し中国語を勉強したこともあり、辞典類も書棚の奥に残っていましたので調べてみました。(以下『中日大辭辞典』による)

」は中国語でもいろんな使い方がある語のようです。次のように7つの使われ方が示されていました。

も、もまた であると同時にまた それでもなお、でもやはり さえも(否定的に) でも、まあ(軽く) 文語の語気詞 句中の停頓を表わす

の文語の語気詞には次の5つの使われ方がある、としてあります。

a。決断を示す (此城可克也 此の城は克服できる)、(行不得也 できません)
b。注意を促す (不可不慎也 慎まざるべからざるなり)
c。感慨を示す (是可言也 言うことができる)
d。疑問を表わす (此為誰也 これは誰であるのか)
e。語気の停頓を表わす(大道之行也天下為公 大道の行われるや天下を公となす)、(斯人也誠篤好学 この人物は誠篤にして好学)

この最後の文語の語気詞のe。の「也」の意味が、例文を読みますと、古田さんの解釈と一致します。


仮説を立て、推論することは自由です。しかし、他の史資料に基づいた批判に耐えることが出来るかが問題なのです。この点、豊田さんの「極南界也」の読み方では全く不自然なのです。部分をご自分の都合の良いように解釈し、その上に咲かせた仇花がこの本である、と言えるでしょう。


野性号実験の失敗と行路記事解釈の間違い

豊田さんは、魏使が帯方郡から朝鮮半島の南端部の狗邪韓国まで、全行路水路をとった、とみておられます。 野生号の実験プロジェクトもこの説に従って行われました。

郡から狗邪韓国間(現在のソウル~プサン間)を、朝鮮半島の西岸沿いに、全て船で行ったとされています。常識的に考えれば、古代の中国人は船旅より陸路の方を選んだと思うのですが。

また、倭人伝の記事には、「韓国を経るに、たちまちし、たちまちす」、とあるのです。

朝鮮半島の地図をよく見てみますと、西海岸を南に下っていく場合、南~西、南~西と下ってきて南端部に至って始めて東に行くことになります。西海岸を東南という行路は、海岸に行き当たるので、とれないのです。たちまちし、たちまちす、は陸路でなければそのような表現に合わないのです。

船舶技術が発達した後世の常識で考えられた、全行路水行説と思われます。
なぜこのような非常識な水行行路説が通説になったのでしょうか。
古代朝鮮半島の地図
この通説に従って1975年に野性号という古代船を復元して、倭人伝のルートを手漕ぎ船で渡ろうという実験が行われました。

その実験に豊田さんは実験船に同乗の機会があったそうです。そのときの感想がこの本にも述べられています。

釜山から対馬への行路の結果は、失敗に終わったそうです。
その出発点、釜山が間違っていた、もっと西から出発して、絡東江の水流に乗るべきであったと反省されています。

古代の人は海路は極力避け、陸をどうしても行けない場合は、潮流を利用した、最も苦労の少ない行路を取ったでことでしょう。朝鮮半島南岸から対馬に向かうには、釜山でなく、もっと西の麗水あたりの海岸から出発したと思います。

そのような常識的判断が欠けていたのが失敗の原因ではないでしょうか。(実験船は、ソウルから朝鮮半島西海岸沿いに釜山まで来ました)


行路記事について

次いで、倭人伝の豊田さんの理解による、倭国への行路記事が載せられています。

豊田さんは、一つの説、として、行路図を載せています。(p185)それによりますと、不弥国から南、水行20日で投馬国に着き、そこから南、水行10日陸行1月で邪馬台国に着く、としています。伊都国の近くの不弥国から、南へ南へ船で30日陸を1ヶ月かかって邪馬台国に着く、としています。つまり、邪馬台国探しは難しい、と言っているわけです。(これは、槍玉その4で取り上げた邦光史郎さんの「邪馬台国の旅」と全く同じです)

古田武彦さんが「道行き文」という読み方で、不弥国に接する邪馬壱国という読解方法もある、ことについては全く触れられていません。

古田武彦さんの、『「邪馬台国」はなかった』という本のことについて勝手に写本の記述を変更すべきではない、という研究態度は評価する、と述べていらっしゃるので、この古田説を知らないはずはありません。

豊田さんは、通説を示しながら、ご本人は北部九州のどこかだと思う、といわば検討を逃げていらっしゃいます。

従いまして、この問題は今回取り上げません。邪馬壹国への行路問題で詳しく検討しましたので(
槍玉その4)をご参照(クリック)ください。


卑弥呼以って死す、とは

もう一つの、豊田さんの特異な倭人伝の読み方は、卑弥呼、以って死す、の部分の読み方です。

第一章の東夷伝倭人、および第四章での説明の中、卑弥呼の死の解釈が特異なのです。
豊田さんのこの部分の文章を読んでみてください。

『狗奴国と仲が悪く、中国に助勢を要請し、辺境監督官張政などを派遣し、中国が介入することを檄を飛ばして知らせたのである。卑弥呼は以って死んでいた。大きな墓を造らせ??云々』と。 

この日本語の文章は、わざと文章にならないように豊田さんが、日本語訳にしています。その後で、「直訳すれば、そのために、不調に終わったために、死んだということである」とも解釈できる、とも仰っています。

この以って死すにつきましては、
棟上寅七の古代史本批評のブログ20069.29に書いたのですが、再録しておきます。


HPのために、豊田有恒さんの本を読んでいます。魏志倭人伝の中の、“卑弥呼以って死す”というところの解釈で、豊田さんは、「理解できない、謎」とされています。

中国語の「以」を、“辞海“という4500ページもある辞書を引いて見ました。12ほどの意味がありました。その中で、一番この文章を理解できるのは、“以って瞑すべし”で使われる場合と同じと思います。つまり、それで安んじて死ねた、ということで、何ら謎ではない、と思いました。』

この卑弥呼以って死す、を同様に、殺されたかのような解釈をされるのは、槍玉その9の松本清張さんも同様です。もっとひどいのは、槍玉その15で俎上に上げた井沢元彦さんです。卑弥呼は皆既日食の責任を取らされて殺された、とされます。

ここは、卑弥呼は魏の応援も得て、安らかに死んだ、ということでよいのではないかと思います。


振り仮名の無原則性

倭人伝を現代語訳されている方の殆どが、国名・官職名・人名などに漢字を音標文字として用いたところの、読み仮名をいわば適当になされています。豊田さんがこの本で、現代語訳をされています魏志東夷伝でも同様で、その振り仮名の無原則性が気になりました。

当時、中国の人が夷蛮の人の名を表現するのに、卑字といわれる字を使っています。それについて批判しても仕方ないことです。

しかし、卑字を使う側の思想的問題ではなく、卑字が表音記号として使われたの問題について、豊田さんは全く注意を払われていません。

同じ書物の中で、表音文字として使われた文字は、全て同じ発音として書き表された、と見るのが常識的判断と思います。

著者が、表音文字としてと書き表したものは、ある場合は、コウ、ある場合は、、さらにはイヌなどと読ませたいと思ったら、そのように注書することでしょう。豊田さんは、表音文字について、失礼ながら、全くこの原則を無視されています。

例えば、をあるときはジャ狗邪韓国(くじゃかんこく)、あるときは”馬韓の安邪(あや)国、人名の掖邪狗(えきやく)、みな”の振り仮名を振っていらっしゃいます。倭人伝の伊邪(いさ)国にいたっては”の振り仮名を何の説明もなく振っていらっしゃいます。

をあるときはあるときはと読ませます。匈奴(きょうど)と”と読み、高句麗の部族名涓奴(けんな)部、絶奴(ぜつな)部・・・みな”と振り仮名を付けています。卑奴母離(ひなもり)弥奴(みな)国・蘇奴(そな)国・鬼奴(きな)国・烏奴(うな)国・() 国等など、みなの振り仮名。しかし、あるときは官名の奴佳(ぬかて)の場合、”とこれまた何の注釈もなく読ませていらっしゃいます。

読みたいように読む、これでは、奴国=国=那の津=博多、と持って行くにも、原則が立たず、ということになりはしませんか、と云いたくなります。

謎の四世紀について

歴史の彼方へと消えた卑弥呼の国と題して『邪馬台国がその後どうなったかについて、文献も考古学資料も、なにも語ってくれない。と述べられます。つまり謎の4世紀ということにして、このときに邪馬台国が東遷したという江上波夫さんの騎馬民族征服王朝説に持っていきたい、という気持ちがよく現われています。

謎の四世紀について、高木彬光さんは、「中国の史書に、266年の邪馬台国の台与の朝貢記事より、421年の宋書の倭王讃の記事の間、邪馬台国や倭国の記事が無い。邪馬台国はこの間に消滅したか、他の国に吸収されたかのだろう」、という前提で論を進めています。そして、「邪馬台国が狗奴国からの圧迫で、宇佐から近畿に東遷した」、という説を展開されています。

これは、高木彬光さんに限ったことではありません。この四世紀の謎、つまり この歴史に邪馬台国とか倭国が中国の正史に現れない、ということに乗じて、『騎馬民族説』・『応神東征説』など数多くの説が誕生しています。

本当に倭国の記事が、外国の史書などに出ていないのでしょうか。

4世紀前後の、倭国についての外国記事を中心に、年表にしてみました。

西暦

   記 事

 出典先

     記 事 内 容

266

壱与

晋朝起居注

朝貢記事

280

(呉滅亡)

三国志

晋による統一

316

(西晋の滅亡)

三国志

東晋・五胡十六国いわゆる南北朝時代に入る

318

(東晋成立)

三国志

367

卓淳国 通交始め

百済記

倭国使者 斯摩宿彌

372

百済王

銘文

嶋王から倭王旨へ七支刀献上

382

対新羅戦争

百済記

倭国 沙至比跪を派遣

391

高句麗ー倭 侵入 

高句麗王碑

以後 戦闘状態

400

倭百済 新羅侵攻

高句麗王碑

度々の倭の侵入

402

倭ー新羅 講和成立

三国遺事

王子未斯欣 倭の人質

414

高句麗戦勝記念

高句麗王碑

広開土王記念碑建立

419

(仁徳天皇即位)

日本書紀

(即位年は推定)

420

(宋成立)

宋書

東晋滅亡

421

倭王讃

宋書

詔勅 倭よりの朝貢

479

(宋倒れ斉成立)

南斉書

倭国伝 漢以来の倭国の存続を記す

4世紀の中国は南北朝時代で各王朝がめまぐるしく興亡しています。

しかし、百済記や高句麗の有名な広開土王の碑文などに”倭国”についての記事は、れっきとして存在しています。
邪馬一国の証明
古田武彦さんは、その著書邪馬一国の証明』の中で、「謎の四世紀」の史料批判 として 角川文庫版135~154頁 で詳細に考証を進めています。

それによりますと、上記の史資料の中で重要なのは、南斉書の倭国伝の証言とされています。

『南斉書』倭国伝 「倭国。帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已に前史に見ゆ。建元元年、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ」

つまり、倭国は、漢の時代の女王国の時代から、宋によって安東大将軍に叙せられた倭王武に至るまで、ひとつながりの王朝と認識されているのです。

倭国としては、戦乱の南北朝時代の終結、宋王朝の成立を見て、倭王讃が通交した、ということが上の表からみて、常識的に理解できます。

古田さんの著書は読んでいることは明らかなのに、アンフェアーな論の進め方だ、と思わざるを得ません。

問題点を無視し、というか、簡単にSF流にワープして、自分の目的地に読者を引っ張り込もうというのは、小説の世界でやっていただきたいものです。

宮崎康平さんのまぼろしの邪馬台国』の内容に興味をもち、著者にお会いし云々、とあります。邪馬台国論者として、邪馬台国博多湾岸説の『「邪馬台国」はなかった』の著者古田武彦さんに興味は持たれなかったのでしょうか。

本の中で畏友 安本美典氏云々とありますが、邪馬台国論議に古田武彦を無視しよう、という同盟を結んだ刎頚の友なのでしょうか?

むすび

この本は、最初に述べましたように、他の本が魏志倭人伝のみを取り上げるのに対し、東夷伝全体を紹介されています。その北東アジア全体の眺めから、倭国について考えたい、というところは買えると思います。

ところが、実際はといいますと、自説に合うようなところのみを取られています。最初にこの本の内容、というところで、古田武彦さんの邪馬壹国博多湾岸国家説を乗り越える成果が得られたのでしょうか、といいましたが、どうやら江上波夫氏の騎馬民族征服説と、安本美典氏の邪馬台国九州甘木説をミックスした方向ではないか、と推論を述べるにとどまっています。

今回の豊田有恒さんの歴史から消された邪馬台国の謎は羊頭狗肉もよいところで、後漢書の極南界也という矛盾の多い「部分」記事のみを取り上げて、それに依拠した騎馬民族説”であり、その邪馬台国論は全く空中楼閣の説だった、と言わざるを得ないと思います。

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