槍玉その22(更新版) 『古墳とヤマト政権』 白石太一郎 著 文春新書 1999年4月刊 批評文責 棟上寅七

(この更新版は、2007年9月に発表したものに、前方後円墳について の部分を書き改めたものです)

はじめに
当研究会は、所謂歴史本を、文献史料に照らして、その間違いを指摘する、ということで進めてきました。
槍玉に上がっていただいた書物も20冊以上になり、高校の歴史ではどう教えているのか、大学受験予備校講師の石川先生の日本史B』を使って、今まで取り上げた槍玉の項目検証を試みました。
(これにつきましては、次の槍玉その23でお目にかける予定です。)

その結果、今まで取り上げていなかった項目が、古代の年号””古墳の伝播の二つであることがわかりました。その上で高校教育の基になる、文部科学省の中学校の学習指導要綱を調べてみました。その結果、”古墳の伝播がこのクニの成り立ちの説明に非常に大きいウエイトを占めていることがわかりました。
そこで、古代の年号は、石川先生の方に残し、古墳の伝播を単独で取り上げることにしようということになりました。

著者白石太一郎さんは、本の奥書によりますと以下のようで、考古学者として輝かしいご経歴です。1938年大阪生まれ。橿原考古学研究所・国立歴史民族博物館・奈良大学教授。現在、大阪府立近つ飛鳥博物館長、国立歴史民族博物館名誉教授、とあります。

この本は、『古墳とヤマト政権』というタイトルで、副題として 古代国家はいかに形成されたかとされています。

文部科学省の中学校歴史教科書学習指導要綱を見てみますと、古代について次のように非常に簡単に書かれています。
【『古事記』・『日本書紀』などの評価でもなく、銅鐸・銅鏡・銅矛などの出土品の評価でもなく、古墳の広まりから歴史を見よ】、というように書かれています。全く、この白石先生の副題に書かれている通りなのです。(巻末に指導要綱を参考資料として載せています)

この文部科学省の指導要綱のことを知っていたら、もっと早く槍玉に上げて検討すべきであったかと思います。しかし、文献の検討でなく、考古学的な検討ということになりますと、いわば素人には大変です。

古田武彦さんのここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学や、古田史学の会関係論文、とくに伊東義彰さん、高柴昭さんたちの論文は参考になりました。

白石先生という、現代で古墳についての第一人者と目されている方の著書を、いわば反面教師としてのテキストとしながら、その内容が、一般常識で納得できるものなのか、という面からアプローチして行きたいと思います。

以下、白石先生の主張を青字で、それと反対的な説を赤字でご紹介していきます。

この本の内容

この槍玉その22で、初めて白石先生の著書を知られる読者も多いことでしょう。文庫本で200ページ位なのですが、専門用語が多く、その解説が無いのは不親切だなあ、とこぼしながら自分の勉強のため、その梗概を作成してみました。折角作ったのだから、この巻末に参考として掲載しようと思いましたが、著作権の問題が生じる危険性がありますので、取りあえずは、割愛しておくことにしました。

簡単に、白石太一郎先生の「古墳とヤマト政権」についての論の進め方をまとめてみます。

まず、古墳は単なる墓ではなくそのときの政治権力と密接に結びついている。古墳は単なる墓ではなく、政治的な性格をも併せ持つ構築物であった。 

古墳は、3世紀後半に出現した。前方後円墳がその象徴的なもので、日本独自に発展した墓制である。

西日本各地に古墳は造営されるが、出現期古墳の最大のものは箸墓古墳である。次いで、吉備の茶臼山古墳、北部九州の石塚山古墳である。副葬品などから見ても、ヤマト政権から吉備~九州の流れになっている。

東日本は、西日本と異なり、前方後方墳が主体であり、古墳期初期は政治体制はヤマトと別であった。魏志倭人伝にいう、「狗奴国」であろう。古墳期後期になり、墓制も西日本と同じ前方後円墳が出てくる。邪馬台国と同一の政治権力構造になったと思われる。

邪馬台国を引き継ぐヤマト政権は、古墳の分布などから見ると、首長連合的に「王」を共立し、又、男子直系の継承であった、とは言いがたい。

古墳の年代については、出土する土器からの判定だけでなく、三角縁神獣鏡の研究から4期に分けられることがわかってきた。

年輪年代法の研究も進み、今までの年代よりも遡る傾向にある。つまり、出現期古墳の始まりを3世紀初頭にまで繰り上げるべきと思われる。

箸墓は卑弥呼の墓の可能性が高いと思う。

巨大古墳はなぜ消えていったか、を検討し、大和政権の確立、
で締めくくられています。

この白石先生の説明が、行ったり来たり、の叙述になっていますので、本の内容の順に検討するのは大変だし、理解しようとする読者も混乱されることでしょうから、この本から見えてくる、白石太一郎説を、下記の諸点から問題があるかどうか検討して行きたいと思います。

古墳の築造年代の決定方法について  弥生期の古墳について  前方後円墳について  副葬品などについて(鏡・勾玉・剣・鋳型・製鉄・黄金・その他)  装飾古墳について  文献史料との照合について  古墳の伝播径路について

古墳の築造年代の決定方法について

白石先生は次のように云われます。
考古資料に関してもっとも重要なことは、考古資料の年代を決定することである。従来、形式学的方法と層位学的方法で相対的な年代、つまり「A古墳はB古墳よりも新しい」によってきた。これでは、A古墳が西暦何年に築造されたか、はわからない。たとえば、大型前方後円墳の出現年代についても、これを3世紀中葉過ぎとする研究者から、4世紀にまで下げて考える研究者まで、大きな開きがある。筆者は、以前は3世紀後半としていたが、最近では若干引き上げて3世紀中葉過ぎと考えるようになった。最近では、年代年輪法による研究によって、弥生時代中期末葉の暦年代が約1世紀ほど遡上したことからも、筆者の年代観の蓋然性は高いと思う】

しかし、弥生時代の暦年決定について、年代年輪法による研究だけでなく、放射性同位炭素法による測定で、従来の弥生時代の始まりが500年遡ることが、2003年に国立歴史民族博物館から発表されました。しかし、古墳などの築造年代に利用する動きには、何故か、なっていません。(勘繰りたくはありませんが、白石太一郎先生は現在その「歴博」の名誉教授であられるそうです) 

この放射性同位炭素法による測定結果については、遥か以前から明らかにされています。例えば、1979年に朝日新聞社から出版された、古田武彦著ここに古代王朝ありき』で九州大学冶金学科の坂田武彦氏の、放射性同位元素による太宰府の古代製銅遺跡の調査結果から、従来の説よりも大きく年代を遡る(BC190年±50年)ことなどを報告されています。

科学的な考古学者であれば、直ちに利用すべき技術でしょう。白石先生は、少なくとも今までの相対編年による各古墳の築造年代の推定を改め、年代年輪法・放射性同位炭素法などの科学的手法によって、出来うる限りの絶対暦年を定める努力をなされるべきでありましょう。その上で、各古墳間の関係、特に力を入れていらっしゃる、畿内の古墳の被葬者と、『記・紀』の天皇ほか有力者との比定の研究に進まれるべきであろうと思います。


弥生期の古墳について

白石太一郎先生は、次のように云われます。

近畿地方などでは、弥生時代前期から方形周溝墓とよばれる墓が営まれており、中期になると、西日本からさらに東日本にまで方形周溝墓や方形台状墓など広範囲に造営されている。最近朝鮮半島南部でも同様の小型墳丘墓の存在が明らかになり、方形小型墳丘墓造営の風習は弥生時代はじめに、水稲耕作などとともに、文化複合の一要素として朝鮮半島南部から伝わったものと考えられる。弥生後期2世紀後半頃になると、もう古墳と呼んでいいような大規模な墳丘墓が各地に営まれるようになる。それらのなかで最大級のものが、岡山の楯築墳丘墓・径45m高さ5mである】

北部九州の、三雲・須玖・など副葬品からみて重要と思われる弥生遺跡などが多数発掘されていますが、これらについてまったく触れられていないのは解せません。年代決定の方法でも、北部九州と近畿地方との暦年が違っているのではないか、という考古学会で問題視されている件についても全く触れられていません。

どうして前方後円墳という特異な形をした墳墓が現われたのか、ということを論じる為には、その前夜の状況を十分検討しなければならないと思います。しかし、その面については、簡単に触れられるのみです。北部九州がその地理的条件から、古代文明の先駆け的な地位を占めていたことは、まず間違いないことと思われます。

その大陸の玄関口、福岡県二丈町の前方後円墳「一貴山銚子塚古墳」について、単にそのサイズが小さい、ということで白石先生は無視されています。その黄金鏡を含む副葬品などから、内容的には画期的な墳墓として捉えるべきではないかと思われます。(この巻末、前方後円墳こぼれ話を参照ください)

前項で述べたように、各地の墳墓遺跡の築造年代の絶対暦年をはっきりさせる努力をする責任が考古学会にはあるのではないでしょうか。


前方後円墳について

白石先生は、その特異な形状の墳墓の形式が出来上がったことを、概略次のように述べられます。

【前方後円墳の部の、突出部は、本来は周溝を持つ方形ないし円形の墳丘部と外部をつなぐ通路上の部分が次第に発達したものに他ならない。主たる墳丘にいたる通路がなぜ発達し、それが墳丘と一体化していったか明らかではないが、死者の世界と生者の世界を結ぶこの部分が、次第に儀式の場として重視されるようになったのであろう】

これについて、前方後円墳は、その名が実体を現わしていない、と批判されるのが藤田友治さんです。藤田さんは、古代に真実を求めて 第3集』 2000年11月 刊 で、”「前方後円墳」の起源とその意味”と題して30ページ弱の長い論文を発表されています。

藤田さんの論文をかいつまんで述べますと、次のように言えると思います。
所謂「前方後円墳」の「前方部」なる表現は、形態を直視すると方形ではなく、撥形に曲線が開いており、正しくとらえられていない。古墳時代の中期に柄鏡式の長方形を示すものがあるが、厳密に方形といえず、まして古墳時代前期においては撥形に開いている。箸墓古墳や西殿塚古墳の「前方部」を診れば明白であろう。

それでは何の呼ぶべきか】と自問され、藤田さんは【「壺形古墳」と呼ぶべきであろう】、とされます。例えば、【神戸の五色塚古墳は、地元では「千壺古墳」と呼ばれているように、「壺」という呼称は、「前方後円墳」を器物に模倣する際、最もその特徴をとらえている。

所謂、「銚子塚」という呼称が多くの「前方後円墳」に名付けられているが、古墳時代には未だ「銚子」の考古学的出土がないので、後年のネーミングであり、「壺」の方がより本質的なネーミングであろう】
、とされます。

白石・藤田説を比較しますと、後者の方が説得力があるように思います。

白石先生は、この形式の巨大墳墓が突如現われたことについて、大和を中心に政治連合が形成されたからだ、と概略次のように云われます。

西日本の出現期古墳の分布状況を見てみると、北部九州の玄界灘沿岸から、瀬戸内海沿岸各地をへて、近畿中央部に広く拡がっている。その規模は箸墓古墳の墳丘の長さが200mを超えるものが奈良盆地の東南部に数多く見られる。それに次いで大規模な出現期古墳が見られるのは吉備地方である(茶臼山古墳は墳丘長138m)。それに続くのは北部九州である(石塚山古墳は墳丘長120m)。このように出現期古墳の古墳の規模からいうと、大和以外には箸墓の二分の一以上の規模の古墳は見られない。こうした分布のあり方は、広域の政治連合が、大和を中心に形成されていたことを物語る】

しかし、墳墓の規模というのは、まず大王の権勢を示すように大規模なものが出来て、首長連中にはそのサイズを制限していく、という考えは合理性を欠くように思われます。
今までの、標準であった、円墳や方墳の時代に、画期的な甕状の墳墓が築造された。それを見て、より権勢を誇示しようと、サイズの大きなものが作られていく。ある程度競うように大きくなって、その労力の浪費などに自制が働くようになる、と考える方が合理的に思われます。

この、古墳の大きさが権力の大きさを示し、主ー従 関係を示す、ということについて、古田武彦さんは著書で次のように述べられます。(失われた日本 1998年 原書房)

5章 分流の天皇陵 九州からの継承  簡明な定理とされる「より大きな墓の方が中心の統一者、より小さな墓は従属者の証拠である」が果たして成立するか。答えは否である。なぜなら、日本列島中、近畿以外の地に、近畿の所謂天皇陵よりより大である古墳が存在するからである。

古墳時代中期とされる岡山の造山・作山古墳の方が、允恭陵・継体陵よりも大きい。一方、仁徳陵・応神陵・履中陵の三つは、造山・作山古墳よりおおきい。とすれば、この3天皇だけは中心の王者であり、他の全ての「天皇陵」の主は、従属者ということになる。宮崎のオサホ古墳・群馬の天神古墳、これより小さい天皇陵も少なくない。要するに、「大きさの比較論からは、とても「近畿中心」の一元論にはなりえない。


当研究会は、古田さんの仰ることが、理性的判断として受け入れられる、と思います。


白石先生は、【弥生時代にこの鉄の輸入ルートを抑えていたのは北部九州であったであろうことは、弥生時代中期の墳墓で大量の中国鏡の副葬がみられることから疑いない】と仰りながら、その北部九州の墓制についての考察が全くないのは不思議です。

いずれにせよ、白石先生が説かれる、サイズの大小でその墳墓の価値を判断するのではなく、まずその築造年代を科学的に再検討し、副葬品などの検討から、この「銚子塚」スタイルの起源と伝播を論じるべきだと思います。


副葬品などについて(鏡・勾玉・剣・鋳型・製鉄・黄金・その他)

白石先生は、出土品として、土器については述べられますが、例えば、古代の祭祀の共通性を知る、格好の出土品、現代の天皇家でも尊ばれている、三種の神器といわれる、鏡・玉・剣の三点セットの出土例などについては全く触れられていません。

「鏡」については後述しますように、三角縁神獣鏡の検討に当って、その鋳型の出土があることも触れられずに、魏朝から来た鏡でなければ、その前の公孫氏による製作ではないか、などと安易に自説を披瀝されています。3世紀の状況を記す倭人伝にも倭人が鉄を取っている、とあります。

「製鉄遺跡」について、白石先生は、【日本列島は弥生時代になると鉄器の使用が始まるが、各地で発見されている製鉄遺跡はいずれも6世紀以降のものである。魏志弁辰伝に倭国もその国の鉄を入手していたことが記されている。4世紀後半から5世紀の古墳から鉄鋌(てつてい)と呼ばれる鉄の延べ板が出土する】旨、述べられています。

これは不思議な叙述です。製鉄遺跡については、例えばインターネットで検索しますと、広島県庄原市・戸の丸山遺跡は弥生中期後半、岡山県・津寺遺跡は、200340年、広島県三原市・小丸遺跡は、西暦200年などの製鉄遺跡があるようです。

古田武彦さんの『ここに古代王朝ありき』で紹介されている、大宰府市都府楼ちいさこべの製鉄精銅遺跡は、放射性同位炭素法で、出土した木炭はBC190±50年なども報告されています。白石先生も、常に新しく発見データで、ご自分の所説を常に検証されなければ、世に遅れをとるのではないかと心配です。

「鉄の出土」については、弥生時代の鉄器のうち、剣、太刀、矛等の考古学的鉄製の武器の出土品数は、九州で663、畿内で79、関東で23で、(奥野正男氏『邪馬台国はやっぱりここだった』1989年毎日新聞社)、九州が圧倒的に多いのですが、そのようなことには全く触れられていません。

「埴輪」「横穴式石室」について、白石先生は、円筒埴輪は吉備地方から始まり、横穴式石室は北部九州から始まった、と概略次のように云われるのです。【有明海沿岸の首長層の墓の特徴、横穴式石室やその内部施設は、吉備や畿内、あるいは山陰地方に大きな影響を及ぼしている。またこの地方で作られた舟形石棺が各地にもたらされている】

 しかしながら、それらが用いられた前方後円墳は、畿内から始まり、吉備・九州・東北に広まった、と白石先生がいわれるのは矛盾だと思います。この点についての白石先生の弁明は全くありません。

横穴式石室について、インターネットで白石さんが現在館長をされている、大阪府立近つ飛鳥博物館のホームページにアクセスしましたら、次のように特別展示の案内が出ていました。

展示構成

第一部 日本列島における横穴式石室の出現 ・九州の初期横穴式石室 ・列島各地へひろがる石室
第二部 畿内型横穴式石室の成立 ・新たな石室の出現 ・前方後円墳への採用
第三部 横穴式石室の世界 ・黄泉の国の成立

これを拝見しますと、前方後円墳の伝播径路についても、今後変わってくるのかなあ、それとも、横穴式は前方後円墳の重要要件ではない、とそのままにされるのかなあ、後者でなければよいのですが。

白石先生は次のようにも述べられます。
卑弥呼が死んだのは247年の直後であろう。箸墓クラスの大規模古墳には10年くらいかかるであろうから、箸墓が卑弥呼の墓である蓋然性は決して少なくない】  

この点については、白石先生の邪馬台国畿内説に立脚した見解ですから、それについて述べるとなると、この研究会の主題そのものになる、ということで、ここでは言及しません。ただ、副葬品に黄金鏡が福岡の前方後円墳から出土している、これは考古学者として見のがしてはならないことでしょう。

しかも、魏志倭人伝では、魏朝から卑弥呼は金8両を下賜されています。これは、当時の倭人国に金を利用できる、金細工技術・金メッキ技術があったことを示していると、思います。白石先生が卑弥呼に興味を持たれるのなら、この「金」の行き先についても関心を払うべきでしょうし、黄金鏡について一言の発言がないことも解せません。

「鏡の鋳型」が弥生期に出土することも、白石先生が認めたがらないことの一つのようです。もっとも、弥生時代2~4世紀の鏡の鋳型が出土するのは、須玖永田遺跡・飯倉D遺跡・寺徳遺跡など福岡県が殆どで、近畿で鏡の鋳型の出土で有名になった飛鳥池遺跡は、7~8世紀とされ、その遅れは決定的で、邪馬台国近畿説には不利な証拠ですから深入りしたくないのでは、と云われても仕方ないでしょう。


装飾古墳について

白石先生は、【古墳は単なる墓ではなく、政治的な性格をも併せ持つ構築物であった】と述べていらっしゃるにしては、 特色のある装飾古墳について、全く考慮を払わないのは何故かなあ、とこれも不思議です。

この装飾古墳について、古代史研究家伊東義彰氏は、次のように云っています。

(古田史学会報No.67 2006 12 8日号 九州古墳文化の展開」より )

装飾古墳はまさに九州古墳文化の華でしょう。不知火海沿岸地域で、石棺に線刻や浮き彫りを施すことから始まった装飾は、石障から石屋形、石室壁へと施され、彩色画へと発展しながら、熊本県、福岡県、佐賀県、大分県など中・北部九州へと広がっていきました。遠く関東や東北地方にも彩色壁画が伝わっています。言うまでもありませんが、畿内古墳文化の影響を全く受けていません。

奈良盆地で発見された、高松塚とキトラ古墳の壁画からは、九州の装飾古墳と違って、そこに生活する人々の息吹を殆ど感じることが出来ません。おそらく大陸文化の模倣の作品と、生活の中から生まれ育ってきたものとの違いなのでしょう。

6世紀後半の九州の壁画系装飾古墳の中には、『隋書俀国伝』(開皇二十年の遣使)に、「死者はおさむるに棺槨をもってし、・・・貴人は三年外に殯(もがり)し、庶人は日を卜(ぼく)してうずむ。葬に及んで屍を船上に置き、陸地にこれを引くに、或いは小轝(しょうよ・ちいさなくるま)を以ってす。」とある、俀国の葬送風景に合致するのではないかと思われる、船を描いたものがたくさんあります。中には、棺らしき四角の箱状のものを乗せた船もあります。「隋書俀国伝」のこの記事は、九州の壁画系装飾古墳に描かれているような葬送風景を記したものではないでしょうか

白石先生自ら仰っていますように、【まず、古墳は単なる墓ではなくそのときの政治権力と密接に結びついている。古墳は単なる墓ではなく、政治的な性格をも併せ持つ構築物であった】のですから、当然、この特異な葬祭形式の地域は、政治的にそれなりの独立した地域であった、ということになります。だから、白石先生は、装飾古墳を取り上げたくないのでしょう。

   
文献史料との照合について

白石先生は、文献の援用について、次のように云われます。【本書は、あくまでも考古学の立場から、この古墳を主たる資料として古代国家の形成過程をあと付けてみようとするものである。ただ物言わぬ考古資料に歴史を語らせるのは簡単なことではない。考古学的な基礎的操作を終えた後に、考古資料の解釈に文献史料や文献史学の成果を援用することは不可欠の方法であろう】

そして、3世紀の文献史料として魏志倭人伝を、5世紀の史料として宋書を挙げられ、次のように援用されています。【倭人伝の卑弥呼の死は247年あたりだから箸墓の築造年代とほぼ合う』『魏から卑弥呼が貰った100面の鏡は三角縁神獣鏡ではないか、という説がある』『稲荷山鉄剣の銘に辛亥年471年とあり、国内資料としてのワカタケル大王の日本書紀・海外資料宋書の倭王武の記事・考古学資料の三者の見事な一致からも雄略天皇とすることに問題はない】 などと史料を援用されています。

箸墓が卑弥呼の墓となりえないのは、『魏志』倭人伝の記事をそのまま読めばわかることだと思います。箸墓は前方後円墳なのに、倭人伝では「塚の径は100歩」とあり円墳です。また、その径100歩という大きさからも違います。

径100歩というのは、3分の1里で、約25mという大きさの円墓ということになります。この点については、当研究会がどうこう言うよりも、1987年に朝日新聞社より刊行されたよみがえる卑弥呼』古田武彦著 に簡明にまとめてありましたのでご紹介します。

(1)三国志全体は1里=76~77mという里単位で記述されている。

(2)この里単位は、はやく周時代に使用された。周髀算経(しゅうひさんけい)によって算出しうる。

(3)秦の始皇帝は、「6尺をもって1歩」「1里=300歩」という新制度を施行し、漢も受け継いだ。これは、1里=435mのいわゆる「長里}である。

(4)漢の後の、魏は「周の古法」に復し、1里=約77mの「短里」を施行し、西晋もこれを受け継いだ。

(5)東晋は、「漢制への復古」を行い、長里に復帰した。ただ、のちに1里=360歩となり、今日では、1里=約500mである。

そして魏志における短里による記述の実例を沢山挙げられています。そのなかで一般の人の興味を引くものとして、三国志の中の「赤壁の戦い」の例をご紹介しましょう。

【『三国志・呉志』に、赤壁の戦いで、呉の黄蓋が長江の南岸を十隻の舟で離岸し、中江で、降服すると北岸の曹操を欺き、「北軍を去る二里余」の地点で、舟に積載していた枯れ柴に火をつけ、北軍の軍船の中に突入させ、曹操は大敗する。この赤壁の川幅は400~500m位であり、1里が76mとすれば現況に合致する。もし漢の長里だと全く合わない】

三国志演義を読まれた方も多いことでしょうが、この辺のことまで普通は気づきませんね。(吉川英治の『三国志』には距離の記載なし)

以上の様に、築造年代のことはさておいても、その形・その大きさから、箸墓が卑弥呼の墓でありえないということは明らかと思われます。それでも白石先生が、箸墓=卑弥呼の墓説を取り下げなければ、それはもはや科学的な考古学ではない、ということになると思います。

一番ひどい文献の援用は、『魏志』倭人伝の「狗奴国」ついて述べているところです。

白石先生は、【濃尾平野を中心とした前方後方墳型墳丘墓の世界については、邪馬台国のさらに南にあって、卑弥呼と戦った狗奴国との関係が想定される。玄界灘沿岸諸国のはるか南にあるとされる邪馬台国が近畿の大和にほかならないとすると、この南は東と読み替えることが可能となる。近畿のヤマトより東で対等に戦える勢力としては、濃尾平野の勢力を考えるのが自然である。邪馬台国と狗奴国の戦いは、その後の古墳の展開を見る限り前者の勝利に終わったのであろう】 と云われます。

文献を読み替えて、考古学的遺物の評価をするのは本末転倒だ、と中学生からでも批判を受けるのではないでしょうか。濃尾平野に近畿と対立する別の政治勢力があった、ということだけは確かでしょうが、それを文献を無理に捻じ曲げて狗奴国に比定するのは間違っていると思います。

『宋書』の記事と合うとされる、稲荷山の鉄剣銘についても、銘文欠字の安易な推定をして、これを既定の定説として、論を展開されます。考古学者でしたら、この稲荷山鉄剣銘について、大王とは、雄略天皇ではなく、関東の大王だ、とされる、古田武彦さんが説く『関東に大王あり 稲荷山鉄剣の密室』 1979年創世社刊 について、まっとうに反論していただきたいものと思います。「しない」ということは「出来ないからしない」ということと、一般社会の常識では判断されますよ、と注意してあげたいと思います。。

なぜ7世紀末に巨大古墳が造られなくなったか、ということについて、白石先生は、何故、歴代中国王朝の薄葬令との関係を検討されないのか、自説の展開に邪魔だったのかなあ、と思いました。

三角縁神獣鏡についても、白石先生は、概略次のように述べられています。
三角縁神獣鏡は、中国大陸や朝鮮半島には1面も発見されていない。その文様や銘文から、中国の三国時代の魏の鏡とする説が有力であるが、中国に1面も出ていないのにおかしい、中国の鏡工人が倭国で作ったという説もある。私も前者は論理的に無理がある、とは思うが、謎の鏡である。私は、三角縁神獣鏡が、魏の鏡でもなく、渡来人の作でもなく、中国の東北部を含む第3の候補地、邪馬台国が魏と国交を結ぶ前に交渉のあった、公孫氏政権(燕)の本拠地遼東半島も考えるべきか、と思う】

どうもこの意見は論理的とは思えません。前者の説が論理的に無理があるのなら、後者の説はどうなのか。私共一般人素人にとっては、後者には論理的に事象に合う説だと思われるのですが。白石先生は、自説を論理的に説明することをなさらず、専門家の私が云うことなのだから信じなさい、的な話の進め方が多いようです。


古墳の伝播径路について

これが一番肝心の項目です。白石先生は、【畿内で大型墳丘墓から、ヤマトの邪馬台国連合が成立し、前方後円墳が出現し、各地にヤマト政権の大王の規範のなかで各地に同様だがサイズでは畿内に劣る前方後円墳が営まれる。それは、当時の政治権力のあり方と整合している】旨、説かれます。

冒頭で述べましたように、文部科学省の中学校歴史の学習指導要綱では、この白石先生の主張と同様となっています。

今まで、で述べて来ましたように、)古墳など多くの考古学的遺跡自体の築造暦年が、相対編年に拠っていること。新しい技法による絶対編年の試みがなされて初めて、古墳相互の関係が確定すること。 b)地理的に先進文明に触れやすい、北部九州の埋葬儀礼の変遷の検討を無視して、論を進めるのはどうか。 )【魏志』や『宋書』のうち、自説に合う部分の記事を切り取って援用するのは如何なものか。 )自説に反する説を見ない・聞かない・話さないという態度では科学的な考古学者たりえない。 )以上のように科学的根拠のない説に基づいたのが、”畿内から古墳は地方に伝播した”、という白石説にすぎない、ということが云えると思います。

結論として

古墳は単なる墓ではなく、政治的な性格をも併せ持つ構築物であった】、 白石先生は、そのようにまっとうなところから論を進められながら、途中では、推論を立てられて、その仮説を検証することなく、そのままそれを足がかりにして、論を構築されて行きます。これでは説得力が全くありません。

考古学者であれば、まず「物」の検討を行い、そのご文献との照合をすべきでしょう。「物」の検討に恣意的な方向付けが多すぎます。「古墳文化」の流の方向付けも同様に、恣意的過ぎると思われます。このような方々の論が基になって、中学校の学習指導要綱で、「前方後円墳の発展と大和政権の発展を」などと書かれているのかと思うとがっかりします。

折角、国立歴史民族博物館が、放射性同位炭素法による、古代史の年代検証を取り上げていますから、そのOBかつ名誉教授として、一番肝心の古墳の築造絶対年代の確定に努めていただきたいものです。考古学者らしく、安易に中国の史料や『記・紀』などの史料から、自分の仮説に合う部分のみを、良いとこ取りをすることなく、考古学的出土品全体を十二分に検討して欲しいものです。

言わせていただければ、邪馬台国反近畿説の人々の疑問にも、まっとうに受けて立ってはじめて、代表的な日本の考古学者となりえるでしょう。今のままではヤマト政権中心主義者のワンノブゼムの位置に留まるのではないかと、失礼ながら、寅七には思われます。


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前方後円墳こぼれ話

なぜあんな馬鹿でかい古墳が築造されたのか
古田武彦 【巨大古墳のもつ、もう一つの側面、それは軍事要塞である。一旦緩急あったときの砦の機能をもっていた。という仮説】 「天皇陵の軍事的基礎」 古田史学会報
2000年12月12日 No.41

一貴山銚子塚古墳の黄金鏡について、ブログ棟上寅七の古代史本批評で書いています。
一貴山の黄金メッキ鏡は、発掘調査をした京都大学博物館に保管されています。町おこしに利用できないか、と「黄金鏡里帰り運動」を試みましたが、残念ながら実りませんでした。
上記の、「棟上寅七の古代史本批評」にアクセスして、記事検索窓に「一貴山 黄金鏡」を打ち込んで検索してみてください。10個以上の記事がヒットすると思います。



(参考資料)中学校学習指導要綱(文部科学省、平成10年12月告示、15年12月一部改正)(赤字は当研究会による)

歴史的分野
1 目標(略)
2 内容
(1)歴史の流れと地域の歴史(略)
(2)古代までの日本

ア 人類が出現し、やがて世界の古代文明が生まれたこと、また、日本列島で狩猟・採集を行っていた人々の生活が農耕の広まりとともに変化していったことを理解させる。

配慮すべき事項
アの「世界の古代文明については、〕中国の古代文明を霊として取り上げ、生活技術の発達、文字の使用などを気付かせるようにすること。また、稲作が大陸から日本列島に伝わったことについてきづかせえるようにすること。

イ 国家が形成されていく過程のあらましを、東アジアとのかかわり、古墳の広まり、ヤマト朝廷による統一を通して理解させる。その際、当時の人々の信仰、大陸から移住してきた人々のわが国の社会に果たした役割に気付かせる。

配慮すべき事項
イの「国家が形成されていくあらまし」については、氏姓制度などの細かな事象に深入りしないようにすること。また、「東アジアとのかかわり」については、わが国との交流を扱い、東アジアの王朝の変遷などの詳細は取り扱わないこと。

ウ 大陸の文物や制度を積極的に取り入れながら国家の仕組みが整えられ、その後、天皇・貴族の政治が展開されたことを、聖徳太子の政治と大化の改新、律令国家の確立、摂関政治を通して理解させる。

配慮すべき事項
ウについては、律令国家の形成以後、それを変質させながら奈良の都や平安京において天皇・貴族の政治が行われたことをとらえさせる観点から取り扱うようにすること。その際、律令制の変質や律令政治の実態などに深入りしないようにすること。

エ 国際的な要素を持った文化が栄え、後に文化の国風化が進んだことを理解させる。

配慮すべき事項
エについては、代表的な事例を取り上げて、仏教の影響、文化を担った人々などに着目して取り扱い、網羅的な取り扱いにならないようにすること。

オ 考古学などの成果を活用するとともに、神話・伝承などの学習を通して、当時の人々の信仰やものの見方などに気付かせるように留意すること


(3)中世の日本(略)
(4)近世の日本(略)
(5)近現代の日本(略)

3 内容の取り扱い
(1)内容の取り扱いについては、次の事項を配慮するものとする。(上記、各項目に記載済み)
(以下略)

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