槍玉その36 週刊朝日連載「覆されるか日本書紀」 2009.11.13~12.04    足立倫行   批評文責  棟上寅七

はじめに

足立倫行さんとは?

Wikipedeia辞書で「足立倫行」さんを検索すると詳しくでています。

簡単な略歴は次のようです。1948年生まれ。早稲田政経学部中退。平凡パンチ記者から現在はフリーで、環境や庶民の問題をテーマに書くノンフィクション作家。月刊誌「望星」で「団塊世代の転進と再生」という連載対談を掲載中。
週刊朝日11月13日~12月4日号の表紙

この連載記事の内容

この週刊朝日の連載記事を読んでいらっしゃらない読者のために、まず、内容をかいつまんでお伝えします。

最初にこの連載の意味というか方向を示すような前書きで始まります。

【歴史は勝者によって書かれる。だが日本の正史『日本書紀』が最近の研究成果に揺れている。神武東征は真実なのか?聖徳太子は一万円札の人物なのか?大化改新の真相は?ノンフィクション作家の足立倫行氏が4回にわたって考察する。

1。神武天皇はどのように創られたのか 2009年11月13日号

週刊朝日平成21年11月13日号第一部では、まず、三輪山参拝の感想から入られます。その麓の檜原神社の祭神が天照大神であり元伊勢と呼ばれ、今の伊勢に移った経緯が説明されます。

その近くに箸墓古墳があり、初期ヤマト政権のシンボルで卑弥呼の墓説も根強いと書かれます。桜井市埋蔵物文化財センター 橋本輝彦さんに、「卑弥呼の住居かどうか不明だが、邪馬台国この地にあった可能性がさらに増した」と言わせています。

考古資料を見る限り、奈良盆地に誕生した邪馬台国が初期ヤマト王権に発展したという畿内説はますます優勢なようだと書きます。

ついで、何故3世紀中ごろに突如奈良盆地で生まれ、短期間のうちに東北の南部から北九州に広がったのかという設問をされます。

岡山大学 准教授 松本公彦さん(『日本の歴史 第1巻 列島創世記』 で前方後円墳の起源を論じている)の文字を使う前の社会で社会の格差を人と物の知覚を通じて合理化する必要があるという、エジプトやマヤのピラミッドと同じ美的モニュメント説が紹介されます。

そこから、これらの墓の被葬者は誰か、ということに入ります。これらの墓の被葬者として比定されている諸天皇が紹介され、それから、それらの比定の元になった『古事記』・『日本書紀』の記述の真偽に話が移ります。

『古事記』は偽書説も根強いが 古事記研究家 三浦佑之さんの、太安万侶家に伝承された物語であるという説がまず紹介されます。日本書紀創作説として森博通さんの音韻の研究から、3つに分類され、20代安康天皇以前はのちに創作された可能性が高い、ということと、津田左右吉の古代天皇創作説が紹介されます。

まず、『古事記』は「民間人太安万侶家の伝承」という位置に落とされてしまいます。そして森さん、津田博士の説に続いて、中部大学教授 大山誠一さんの【『日本書紀』は史料的信憑性に疑問あり】とする説が紹介されます。

雄略天皇は『宋書』に記述があるからそれ以後は実在天皇ではないか、という説もあるが、最近の大山誠一さんの説、継体天皇以前は創作という説が出た、と紹介されます。そして、大山説によると、継体天皇以前は前期ヤマト王権で、継体以後は後期ヤマト王権で、神武天皇は継体と天武の事跡をモデルとして創作された、と説明されます。

虚実とりまぜた『日本書紀』の奥は深いという語で締めくくられます。


問題点:

タイトルは【神武天皇はどのように創られたのか】 という刺激的なものですが、全くその内容が記事の中にありません。【古代天皇は8世紀の史官の創作】 という半世紀前の津田左右吉説の焼き直みたいなことを述べているに過ぎません。

箸墓古墳については、前回槍玉に上げた昨年の週刊朝日の同じ足立さんの連載記事批判(槍玉その27)で述べていますのでそちらを参照下さい。


足立さんの記事は、『日本書紀』のどの部分が創作なのか?部分的におかしいからすべて創作、というような論述です。神武東征が創作である、というのであればその根拠を少しは説明しないと、羊頭狗肉のレポートだと、大学では合格点はもらえない論文でしょう。

足立さんが考えているように、ヤマト王権が3世紀から日本列島を支配しており、継体天皇以降は実在で、かつ王朝の創始者ということであれば、継体紀以降の『日本書紀』の記述には矛盾点が多いのをどう説明されるのでしょうか。

一つの例を上げてみますと、『日本書紀』の継体天皇の磐井の乱における物部アラカヒにマサカリを授ける場面でも、「長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ」など西日本は支配が及んでいないような記述をなぜわざわざ創作しなければならなかったのでしょうか。

又、継体天皇は、その前の武烈天皇に子がなく、遠縁の(5代前の)者とされていますが、もっときらびやかな経歴系図を創作することは容易ではなかったのではないでしょうか。

大山誠一さんの「継体天皇以降の天皇は実在、それ以前は創作」とされる根拠は非常に薄弱なのです。このことは、大山さんの「聖徳太子と日本人」という本の批評に書こうと思っていることですが、大山さんの話の進め方について感じたことを述べておきます。大山さんは、まず日本書紀などは、中国史書からの借用は多いし、創作されたところが多い、と決め付けておいて、そして自分の説に都合のよいところだけを、史書の記述から取り上げる、我田引水・手前味噌説に過ぎないように思えます。

この記事で足立さんは、森博通さんの『日本書紀の謎を解く』を偽書説の一つの傍証的な本として使われています。しかし、仮に森さんの考えが正しかったとしても、森さんの考えに従うと、大山さんの日本書紀偽書説は成り立たないことになる、ということに足立さんは気付かれていないようです。

森さんは、『日本書紀の謎を解く』で何を謎とされたのか。それは音韻を分析した結果、『日本書紀』全体が通して同一の編集者によって叙述されたのではない、ということです。内容が創作されたものかどうか、というこについては、「漢籍によっての潤色」ということだけを仰っています。同書p228結語には、次のように纏めていらっしゃいます。

【持統朝に続守言と薩弘恪が書紀の撰述を始めた。続守言が巻十四から執筆し、巻二十一の終了間近に倒れた。薩弘恪が巻二十四から二十七を述作した。文武朝に山田史御方が巻十三以前を述作し始めた。元明朝に紀朝臣清人が巻三十を撰述し、三宅臣藤麻呂が全体にわたって漢籍による潤色を加えた】と。

つまり、内容自体の評価についての真贋には言及されていないのです。

足立さんは、【『日本書紀』の記事には誤りが多い】という一般論を、【全ての『日本書紀』の記事は誤りであろう、従って、神武天皇の東征記事も誤りだろう】、という杜撰すぎる推論がこの第一部の内容ということでしょう。

確かに『日本書紀』には数多くの問題点がいろんな方面から提起されています。この問題点ついては、この連載記事を纏めて、最後に上げたいとおもいます。


2。「聖徳太子はいなかった」説はホントなのか? 2009年11月20号

第二部のタイトルは「聖徳太子はいなかった」説はホントなのか?です。
週刊朝日平成21年11月20日号
まず一万円札の肖像画が本当のものかどうか、と評価が揺れている、というような話で始まります。帝国書院の高校教科書では、聖徳太子像が時代とともに変わっていることを取り上げているが、太子の業績自体の記述は従来通りで、大山誠一さんの「聖徳太子はいなかった」説はまだ影響をしていない、ことを若干残念だというような調子で足立さんは記します。

聖徳太子が教科書の言うように17条の憲法を作ったり遣隋使を派遣し進んだ政治の仕組みや文化を取り入れる、などこの通りなら誠に偉大である、と書く。『日本書紀』には、生まれてすぐに物を言い、成人してからは一度に十人の訴えを聞きわけ、未来を予知など超能力もある、まさに聖人である。と記す。

このようにイタリック体で表してみたのは、この論調が ”いかにもこのように教科書や『日本書紀』の記事はおかしいでしょう!” という感じの、冷やかすような口調が気になったからです。

そして大山誠一さんの、これらの聖徳太子像は全て虚構、という説を紹介されます。大山さんの説を批判する歴史学本流の立場からとして、熊谷公男さんの、「聖徳太子の虚飾部分は太子信仰の問題」として大山説を否定する内容を概略説明します。

しかし、足立さんは、【結局、和を以て貴しと為す、が本当に厩戸の皇子の訓戒かどうか、いまだに決着をみていないのが歴史学の現状なのだ】、とされます。

次いで、天寿国繍帳に話が移ります。その銘文が推古朝(593~628年)に作られた、という従来の説に対し大山さんが後世(720年以後)作製されたという大山説を説明されます。また、銘文中の日付・干支の研究から、やはり後世の作製とする札幌大学准教授 金沢英之氏の説を紹介されます。そして、中宮寺に展示されているレプリカの天寿国繍帳がこれらの説を聞いた後では、にわかに色褪せて見えた。と書かれます。

次いで、法隆寺が全焼した後に釈迦三尊像が作られた、という大山説についての意見を、公平を期すためということでしょうか、斑鳩町教育委員会の平田政彦氏に聞いています。平田さんは釈迦三尊像は正真正銘の飛鳥仏といい、聖徳太子は全部虚像とする大山説はいかがなものか、と言うことも紹介しています。

ところで、釈迦三尊の光背銘という金石文を、法隆寺の全焼後に作られたもの、と銘文の内容に踏み込まないまま、一顧だにされません。これはおかしなことです。この銘文のいう上宮法王なる人物の没年月日と日本書紀の記す厩戸皇子の没年とが食い違っているのは何故だ、というのが歴史家の間で問題とされているのですから。

もし、大山さんが主張するように釈迦三尊の光背銘が、法隆寺再建後の後世に創作されたのであれば、何故銘文は日本書紀の内容に合うように創作されなければならなかったのか、という疑問が生じます。もし、創作が『日本書紀』完成以前であったとしたら、『日本書紀』の記事を合わせることは出来たでしょう。没年だけでなく王后という特殊用語や、名前などもことごとく違っているのですから、大山さんとすれば、後でいい加減に創作された、としたほうが面倒がないから、と思われても仕方ないことでしょう。

いままで、この銘文にいう「上宮法王」は聖徳太子のことであり、没年が食い違うのは、日本書紀が間違えた、というのがいわゆる定説でした。


いやこの「上宮法王」はいわゆる聖徳太子という人物でなく、筑紫の大倭国の人物、おそらく多利思孤と呼ばれた人物であろう、とされたのが九州王朝説の古田武彦さんです。

家永三郎さんと古田武彦さんの、法隆寺をめぐる論争は『聖徳太子論争 家永三郎/古田武彦』 新泉社 1989年 に詳しく述べられています。上宮太子を無理やり聖徳太子に比定するといろいろとひずみが出てきますが、古田説によれば、すっきりと解決します。釈迦三尊の光背銘にとどまらず、薬師如来光背銘、天寿国繍帳、法隆寺再建論争についても興味深い内容が書かれています。

なぜ、光背銘が理解できない文面なのか、ということについて、古田武彦さんは次のように説明されます。【もともとこの釈迦三尊像は上宮法王を偲んで彫られた仏像に付けられていた光背銘である。法隆寺が全焼し、その再建のために、筑紫の寺院が解体され斑鳩に運ばれ、法隆寺が再建された。納められた仏像も同時に移設された。釈迦三尊像に歪みはあっても、火災に遇った徴候は何一つない。光背銘の没年月日が聖徳太子のそれと合わないのは当然のこと】と。

足立さんは、法隆寺について、この棟上寅七程度の知識をお持ちでないのでしょうか?


話は、石舞台古墳に移り、被葬者は蘇我馬子で、その馬子が大王(天皇)だった、とする大山説を紹介します。

なぜ大山さんがそのような結論に至ったかというと、隋書にあるように斐世清が倭王に会った、という記事がある。『日本書紀』では斐世清が朝廷に召されて国書を大伴連が受け取りみかどの前の机の上に置くところで終わり、推古天皇位も厩戸皇子も登場しない。大山さんはこの倭王は蘇我馬子以外の該当者は見当たらない、と言うのです。

これに対する反論を京都教育大学の和田名誉教授の見解を紹介しています。つまり、使者が天皇と直接会うわけがなく臣下の者を通しての話を記録した。タリシヒコも当時の倭王の一般名だと思う。倭国の事情をよく知らない編者が断片的情報から記事を書いたのでは、と、つまり中国側の誤解によるとする通説を紹介されます。

大山誠一さんが、「用明・崇峻・推古は大王でなかった」と公言しているので、蘇我氏のことを洗い直す必要がある、と思った、と結ばれています。


問題点

しかし、この『隋書』では「倭」王に会った、とは書かれていないのです。「?(タイ)」王の多利思北孤なる人物なのです。この隋書が描く「?(タイ)国」と、次の中国の史書「旧唐書」が描く「倭国」と良く似ていることについて、何らかの足立さんのコメントが欲しいところです。そして、その旧唐書が描く「日本国」が近畿の王国に良く似た国として描かれていることについても。

隋使は?(タイ)王と会ったとして詳しく状況を描いていますが、大山さんはいとも簡単に倭王と近畿で会ったものと決めつけ、タリシヒコは推古女帝ではないし、聖徳太子でもあり得ない、蘇我馬子ではなかったか、馬子は実は天皇であった、というような論理で進まれているようです。

大もとのところで、?タイ)国と隋書が描くのはなぜか、旧唐書で倭国と日本と二つの国をかき分けているのはなぜか、というところの検討がなされていないところから、日本書紀の中に隋書の記載事項を探そうという、迷路に入ってしまうことになります。そして実際は天皇であったはずの蘇我氏のことを調べなければ飛鳥時代の歴史の解明が出来ない、と言う方へ導こうとされるのです。

この連載は、大山誠一さんの歴史観の影響を強く受けているようです。大山さんの著作については改めて「槍玉」の俎上に上がって貰おうと思っていますので、ここではこれ以上踏み込みません。


3。大化改新の「真相」は? 2009年11月27日号

この号は、大化改新の「真相」は?というキャプションがついているように、大化改新の『日本書紀』の記事と違い、実際の当時の天皇位をめぐる争いは複雑なものではなかったのか、という話から始まります。
週刊朝日平成21年11月27日号
先号での蘇我馬子が天皇であった、ということから必然的に『日本書紀』の大化改新の記事がおかしいということになります。

足立さんの話は蘇我の入鹿が逆臣でなく外敵から天皇を守ろうとした、という仮説を、NHKスペシャルが2007年22日に放映された内容についての批判から始まります。

斯界の重鎮、故門脇禎二氏の「先進的な入鹿が中大兄らに殺されたのは、反動的保守的クーデター」には疑問がある、とされます。(門脇さんはこのNHKの番組の監修者の立場)

馬子邸が天皇の宮殿近くにあったとされるのは見張っていたのでは?、入鹿殺害時中大兄は19歳、自分の政策を持てたのか?改新の詔は孝徳天皇なのに中大兄ばかり出てくるのはなぜか?など番組批判が続きます。

そして乙巳の変の各説を紹介されます。そして中大兄皇子が何故即位しなかったのか、という各氏の説が披露されます。

しかし、みんな国内の豪族との駆け引き的な見方ばかりです。倭国+百済連合が、唐+新羅連合軍に敗れ、劉仁願の部下たちの来日を『日本書紀』が記していることには一顧だにされません。勿論、古田武彦さんはじめとする、多元国家説の方々の意見は述べられていません。

在位中に施策が何もない用明・崇峻・推古は大王(天皇)でなかった、と大山さんは見る、と結んでいます。

「結局外国方針の食い違いが乙巳の変の原因」という大山誠一さん説の紹介があります。「韓半島3国からそれぞれの事情から支援の訴えがあり態度を決めかねていた蘇我大王家に積極的介入派の中大兄が暴力に訴えた」というところでこの章は終わります。


問題点は

この「中大兄皇子=半島介入積極派」の大山説と根本的に対立するのが、『備前風土記』逸文です。この、中大兄皇子が母の斉明天皇の死で、喪に服すとして、兵を返した、という『備前風土記』などは史料には値しないと思われるのでしょうか、足立さんは全く無視されています。

この時期はどの様な時期であったのでしょうか。朝鮮半島で唐+新羅軍に完敗し、劉仁願の部下たち、とくに、郭務悰の大集団と共の来日、など、当時の東アジアの出来事と全く無縁の出来ごとであったのでしょうか。ここに全く興味と言うか、考えを及ぼさない、足立さんをこのような歴史物の連載シリーズの書き手として登用した、朝日新聞出版局の首脳のかなえの軽重が問われましょう。

第一、大化改新での大きな疑問の一つは、「大化」という年号の制定ということだろうと思います。年号は一つの王朝が創始し連続されるものと思います。そうすると孝徳天皇の即位は大きな意味を持つことになり、「大化」年号制定の意味が大きくなると思います。

しかし、そのような気配は、特に 『日本書紀』からも、又、大山誠一さんの著作からも見当たりません。「大化」は「白雉」に改元されその後、元号そのものが消滅します。その32年経って又ポツンと「朱鳥」という年号が出てきます。この飛鳥時代の年号の謎について、足立さんは謎とも何とも思われないのは感性に問題あり、といわれても仕方がないのではないでしょうか。

年号は王朝と密接に結びついていることは、中国の正史をみればすぐわかることです。何故、飛鳥時代にこのようなことが起きたのか、せめて「謎」の一つとして取り上げていれば、足立さんに対する我々の評価はそれなりに上がったと思います。



4。伊勢神宮はいつ誕生したのか 2009年12月4日号

『日本書紀』の記す「11代垂仁天皇の時に、倭姫命が天照大神のふさわしい宮処を求めて巡行し、伊勢にて天照大神のお告げがあり指示通りに祠をを立て五十鈴川川上に斎宮を建て磯宮と呼んだ」、という記事が正しいのか、ということから足立さんの記事は始まっています。
週刊朝日平成21年12月4日号
そして足立さんが疑問に思うのは、斎宮から伊勢神宮までが離れていること 内宮と外宮と分かれていることの意味治歳の創立年と言うところから始まって、『日本書紀』における天照大神の位置が後退した。文武の没後天孫降臨のストーリーが書きなおされて「タカミムスヒ」が最高神となる。その2点の様です。

はともかく、は可笑しいと思います。なぜなら、『古事記』では高木神(高皇産霊尊)が出てきますが、『日本書紀』では出てこない。大山さんが意識的に間違えた?のでしょうか?

『古事記』と日本書紀の神武東征を改めて読み直してみますと次の様でした。

【熊野で神武軍が疲労困憊したときに、土地の高倉下に夢枕にたって刀を呉れるのが、古事記では天照大神と高木神(高皇産霊尊の別名)で、日本書紀ではこの場面は天照大神のみです。八十タケルとの戦いの前に天ッ神、国ッ神を祭る話に、高皇産霊尊が神武天皇に憑り移るというところ日本書紀には出てきます。(この記事は古事記にはなし)】

ここのところは論評することが出来ないくらい、足立さんの記事はいい加減なのです。いずれ、この槍玉36は週刊朝日に、質問の意味も込めて、届けたいと思っています。

そして足立さんは、何故天子降臨でなく天孫降臨なのか、なぜ『日本書紀』の高祖神は高皇産霊尊なのか、という方向に向かいます。大山誠一説によると、「高皇産霊尊は藤原不比等、ニニギが聖武天皇というように『日本書紀』が書きなおされた」、という不比等の大プロジェクトということで納得できた、と足立さんは言います。

足立さんは伊勢神宮の創祀に最近の歴史学者の間では各説があるが、と神宮の広報室長に質問し「神宮は史料批判の論争に加わるつもりはない」との答え記しています。

次いで、皇学館大学の岡田教授の「伊勢神宮の創祀は『日本書紀』通り」と岡田さんの『日本書紀』への信頼は少々の新説では揺るがない、と書きます。足立さんにとって国立歴博の新谷教授の「伊勢神宮と出雲大社」が刺激的であったとその内容を概説されます。

【大和政権にとって、<内なる伊勢>と同様に重要なのが<外なる出雲>であり、両社は王権の祭祀世界で「対照性の宇宙論を形成する】、といい、858年幼帝の清和が即位し藤原良房が摂政に就任し摂関政治が始まる。異様な霊威力で朝廷を支えた<外なる出雲>の消滅であり、今日まで続く祭祀王に純化した天皇の誕生の瞬間だった】という、この新谷説を読み、伊勢神宮の内部の輪郭が、若い時に比べ、多少は明瞭に感じ取られるような気がしていた、ということでこの連載は結ばれています。

しかしこの回を読んで、なぜそれほど『日本書紀』の伊勢創始記事にこだわるのか、足立さんが何を目しているのか最初は分かりませんでした。

結局は、大山誠一さんの、天皇祭祀王説へ引っ張るためのものだったのかなあ、と思われました。


結論として

この紀行文スタイルの連載は何を読者に知らせ、考えさせ、興味を持たせる目的があったのか、と考えさせられました。前回の纏向遺跡と卑弥呼の都の連載が、読者の反響が良かったので、二番煎じでもやってみよう、と編集部が思ったのでしょうか。古代史をテーマにすればともかくそれなりの読者が付く、と思ったのでしょうか。

それにしては、大山誠一さんの説がどれほど影響を与えているのか、大山説の当否を確かめる、といったような筋書き見えるような連載でした。

あまりにも薄い、思い付き的な聖徳太子創作説に寄りかかった足立さんの紀行文と思います。朝日新聞たるものが、なぜこのような、失礼ですがいわば素人を、あたかも古代史の道案内人の様に記事を書かせるのか、見識を疑います。

「日本書紀の謎」というタイトルを付けるのであれば、もっと重要な沢山のことがあるだろうに、という疑問が改めて湧きます。

それこそ、神武東征は、史実に基づく伝承だったのか、日本書紀は、万世一系を示すためというのであれば、あまりにも多彩な親族間の血で洗う争いの数々、突如出て突如消える年号、沢山の一書群や日本旧紀、などと書かれている『日本書紀』に先行する歴史書の存在、外国の史書に出ている卑弥呼や倭の五王などが『日本書紀』に見当たらない不思議、『古事記』にはなくて『日本書紀』のみに記される天皇の事跡、継体天皇の没年に国内伝承および百済史料による没年を記す不自然さなどなどが直ちに上げられます。

朝日新聞社として、足立倫行さんの古代史を見る方向が好ましいから、という理由がこの連載でしょうが、これでは、日本を代表するジャーナリズムとしての資格を欠く、という評価になっても仕方ないでしょう。

このことは、昨年に続く今回の足立さんの起用だけでなく、アエラの平成21年12月14日号の纏向遺跡の記事でも言えることです。九州説(吉野ヶ里)が徹底抗戦などと書いてありますが、基本は、10月31日号から11月21日にかけて週刊朝日に連載された足立倫行さんの記事をなぞったようなものです。

アエラよおまえもか!の感です。1970~80年代の朝日新聞社の古田武彦さんの数多くの著作の出版や(下記の参考図書に
朝日新聞関係の図書が多いことからも分かります)、古田さんを入れての古代史シンポジウムをたびたび主催したことなど、朝日新聞社が古田説に当時は非常に肩入れをしていたことは明らかでしょう。

ところが、現在では手のひらを返したように無視を決め込んでいます。これはどういうことなのでしょうか、朝日新聞自身ではどのような評価がなされているのでしょうか。

朝日新聞が間違っていました、というならばそのように言わなければ、と思うのですが。大東亜戦争についての反省と同じで、あまり触れたくない、とでも仰るのでしょうか?

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参考図書

古事記 岩波文庫 倉野憲治校注 1963年
日本古代史の謎 ゼミナール 朝日新聞社 古田武彦・梅原猛ほか 1975年
風土記にいた卑弥呼 古代は輝いていたII 古田武彦 朝日文庫 1988年
法隆寺の中の九州王朝 古代は輝いていたIII 古田武彦 朝日文庫 1988年
聖徳太子論争 家永三郎/古田武彦 新泉社 1989年
続日本紀 講談社学術文庫 宇治谷 孟 訳 1992年
よみがえる卑弥呼  古田武彦 朝日文庫 1992年
失われた九州王朝 古田武彦 朝日文庫 1994年
盗まれた神話    古田武彦 朝日文庫 1994年
日本書紀 岩波文庫 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 1994年