槍玉その2 『福岡県の歴史』 (更新版) 川添昭二他 山川出版社 1997年 文責 棟上寅七
●はじめに
槍玉その2 として、歴史教科書的なもの、からと思い、まず、地方史を見てみようと思いました。その中でも、日本古代史の主人公たちの活躍の場所になった、筑紫の国の歴史本、福岡県の歴史を取り上げてみることにしました。
この槍玉その2は、2006年4月に発表したのですが、それ以後3年間が経ちました。この間に検討した他の槍玉論評を通じて得た知識によって、再度「福岡県の歴史」見直したものです。
この本は、地方史研究協議会というところの企画で各県史をまとめることになり、そのうちの1冊として「福岡県の歴史」が出版されたそうです。
ついでに「地方史協議会」というところの団体を調べてみました。ホームページの「会の沿革」で次のように書かれていました。
【本会は、1950年秋、歴史関係諸学会の援功(ママ)のもとに、全国の地方史研究者および地方史研究団体の連絡機関としての役割を果たす学会として発足しました。翌1951年3月、会誌『地方史研究』第1号を発行し、2002年12月号で300号を迎えました。着実に刊行を続けています(年6冊、隔月刊)】
文部科学省のお墨付きを得ているレッキとした学会のようです。その事業の一環として、この県史たちの出版が企画された、ということです。右の写真は書店での、その「県史」たちです。(下段中央に福岡県の歴史があります)
この「福岡県の歴史」は、以前山川出版社から出された『福岡県の歴史』(旧版)を、殆どそのまま地方史協議会の企画シリーズの本の1冊、新版『福岡県の歴史』として出されたもの、ということでした。本の帯には「ロマンに満ちた郷土の歴史」” 現代に立って、過去の歴史をふりかえり、21世紀への指針をさぐろう”とあります。
福岡県は古代から他に先駆けて発展したと思われる数々の遺跡や考古学遺品があり、確かにロマンに満ちた郷土と誇ることができましょう。
アトランダムに思い浮かぶキーワードは、と言いますと、金印・太宰府・沖ノ島・卑弥呼・三種の神器の出土・最大の鏡の出土・神話の舞台・魏志倭人伝の舞台・装飾古墳・磐井の反乱などです。
古代史に少しはかじったことのある方には、それに神護石や水城・圧倒的な漢式鏡や鉄鏃の出土・絹の出土・白鳳、朱雀などの(九州)年号なども興味あるキーワードでありましょう。
ところが、この本の古代史部分を読んで見て、一向に「ロマンに満ちた郷土」を感じさせてくれません。以上の沢山のキーワードの中で金印・太宰府・沖ノ島・磐井の反乱が中学校教科書程度には取り上げられていますが、その他はまともに取り上げられていません。少なくとも、福岡の人が興味を持っていることについての、編集者の解釈を示すことが必要ではないでしょうか。
この本は、版を重ねて2006年の出版は第4版となっています。初版以来の10年間にはかなりの考古学的発見や論争もあっているのですが、内容を変えることもなく出し続けられています。
この本の古代史部分は、1960年代の学会の常識、というか定説に基づいて書かれているようです。1970年代以降の重大な発掘や発見、ならびに論文、たとえば、縄文時代の装飾土器文化や巨木文化、放射性炭素法による北部九州の弥生時代の始まりの500年繰り上げ、三角神獣鏡は中国製に非ずという北京考古学研究院副所長王仲殊氏の論文などの重要な出来事も全く考慮されていません。
当研究会の立場からすると、古田武彦さんの九州王朝説が最もインパクトがある出来事と思いますが、勿論一顧だにされていません。
●執筆陣
企画・執筆者は次のような方々です。(肩書きは1997年第1版出版当時) いずれも地元九州大学卒業の方々です。執筆者についての感想は巻末に述べます。
監修 児玉幸多 学習院大名誉教授(1909生 東京帝大国史科)
企画委員 熱田公 神戸大名誉教授(1931生 京都大文学部)
川添昭二(後出)ほか
編集・執筆 川添昭二 九州大名誉教授(1927生 九州大文学部)
武末純一 福岡大教授(1950生 九州大院文学研究科)
岡藤良敬 福岡大教授(1935生 九州大院文学研究科)
西谷正浩 福岡大教授(1962生 九州大院文学研究科)
ほか、梶原福岡大助教授、折田九州大助教授
●寅七の福岡県の歴史を語る試み
私、棟上は、福岡県人ではありませんが、何度か福岡に住み準福岡県人といえるかと思います。(2018年に戸籍を福岡県に移しました)その一般人としての私が、福岡の歴史上、特に古代について、この「福岡県の歴史」という本で、あまりにも県民の存在を無視されていることは、福岡県民に対しての侮辱以外のなにものでもない、と思われます。
しかし、寅七の憤慨に対して、「他人の本を批判するなら、同じように福岡県の歴史を語ってみろ」というご意見を読者からいただきました。
なにしろ、福岡県というか北部九州の古代史は、弥生時代のあけぼのですし、福岡県の古代の歴史を語ることは、日本の古代の歴史を語ることに他なりません。これは大変な作業です。
それに対する答えの一部として、神武天皇の東征の話を中心に、「もうひとつの福岡の古代」という題でまとめました。これは棟上寅七がある会で喋った話ですが、ご参考までに「道草その16」としてこのホームページに載せています。「道草その16」をクリックしてみてください。
●検討の手順
さて、この本をお読みになっていらっしゃらない方も多いことでしょう。当研究会が言いたいことを言い立てても、ひとりよがりと取られかねません。この本では、福岡県の歴史を現代まで記述しています。古代史部分、8世紀くらいまでの部分は全体の10%くらいを占めるだけです。それほどの量ではありませんし、内容をダイジェスト版的に縮めて、各小節毎にその問題点を取り上げていってみたいと思いました。
しかし、やってみましたら、教科書的で面白みもなく、読者の皆さんに飽きられる恐れもありますので諦めました。しかし、折角作ったダイジェスト版ですので、巻末に掲示いたしました。
そこで、そのダイジェスト版のダイジェストとなるのですが、この本のなかでの問題と思われる点を取り出し、それと当研究会の見解を色違いで示し、努めて対比が出来るようにやってみました。
「地方史協議会企画 県史40 福岡県の歴史」 批判
問題と思われる点、と当研究会の見解
第1章 国家への道
I。1 夜明けの福岡県人 ●採集生活のなかで~●最初の農民たち
● 縄文時代は階層分化していなかった、と福岡県の歴史の執筆者は主張したいようです。たとえば【最古の農村は江辻遺跡(粕屋町)で、竪穴住居跡が円形に配置されている。全員のための環濠を掘って、よそのムラと区別し、ムラの財産は全員で管理し、マツリや会議を大型の建物で行う、という形で日本の農村は始まった】というように書かれています。
しかし、縄文時代から階層化は進んでいた、と仮定すると、その江辻遺跡の解釈も【中央に首長が大型の建物に居住し、一般人は周囲の竪穴式住居に住んでいた】というように変わってきます。縄文時代の大型木造建築や精巧な火炎土器製作、石包丁製作工房などが、階層分化以前の牧歌的共同作業で行われていた、と理解するのは難しいと思います。
この本の執筆者の歴史に対する考え方が観念的ではないか、と思われるところが露出しています。次のようなところです。
①縄文時代は牧歌的な共同社会であったが、弥生時代になって階級社会になった。
②弥生時代になって工具などの進歩により、自然破壊環境破壊が進んだ。
③弥生時代と縄文時代を区別するのは、単に水田耕作と鉄器使用ではなく、社会的な階層分化が始まっていたかどうかを基準にすべき。
などです。
社会的な階層分化は縄文時代には進まなかった、などと言ったら、水田耕作も鉄器使用がなくても、強力な国家を作り上げた、大陸の北方民族という例があるではありませんか、という反論が中学生からでもありそうです。そうでなくても、5000年以上前の縄文時代の、青森の三内丸山巨木遺跡を、牧歌的共同作業によって皆さんで仕上げた、と執筆者は主張できるのでしょうか、お聞きしたいものです。(最近では、水田耕作も縄文時代から行われていた、という証拠が出てきていますが、それを置いても)
この縄文時代の認識は、1950年代の、唯物史観による日本史の見直しが盛んであった時期の、縄文時代の認識のようです。火炎土器文化、巨木建築文化などの階級社会ではなければ成り立たない文化の認識が、すっぽりと抜け落ちているようです。
●青銅開花
この項で、【細形剣の分布や、今山の石斧、立岩の石包丁の分布から、地域の初期の国の範囲を超えて初期筑紫政権的なものが生まれていた。そして、初期の国々のなかで、特に奴国と伊都国が強力だった】とされます。
初期筑紫政権的なものが生まれた、と、これはまともな推論かと思われますが、奴国・伊都国が特に強力だった、という結論はおかしいのです。『魏志』倭人伝には、これらの2国は邪馬壹国に統属すると書かれています。つまり、初期筑紫政権=邪馬壹国という答えが導き出されるのが論理に適うのではないでしょうか。
執筆者は、邪馬台国在所不明、としていますが、それでは歴史を語る基本が定まらないと思います。(本の実体は邪馬台国近畿論で書かれていると思われます) 近畿とするのなら、そのような方向で書かれるべきと思います。
【邪馬台国の所在はどこであろうとも、BC1世紀末の奴国王の墓が春日市の須玖岡本遺跡であり、伊都国王の墓が前原市の三雲南小路の甕棺墓である】と、いうように断定しています。
邪馬台国の所在不明、としていながらこの断定はいかがなものでしょうか。もし、邪馬台国=福岡平野説が正しければ、須玖岡本は卑弥呼の墓となる可能性もあるわけです。福岡県民としては、そういう説があるのであれば紹介してもらいたい、と思うのではないでしょうか?
【弥生中期から後期にかけて、西日本各地の政権は、銅鐸や平形銅剣などそれぞれ異なる青銅祭器を持っていた。矛・戈・剣という祭器の序列があったものと思われる】と書かれています。
・しかし、天皇家に伝わる三種の神器との関連については一言も述べていません。『記・紀』を読めば、筑紫が天皇家の淵源ということははっきりしています。なぜ執筆者たちは、これらのことに触れることを敬遠するのでしょうか?
●奴国王と伊都国王
この項で、【これまで弥生時代には文字がなかったと考えられてきた。しかし、半島南岸のタホリ遺跡では筆の出土があり、前原の番上遺跡では楽浪郡の土器がでているし、弥生中期後半以降初期筑紫政権が文字を使っていたと考えられる】と書きます。
しかし、楽浪郡の漢人がいたのであろう、という推測を付け加えています。そもそも、金印を下賜した、ということは、当時の倭国は文字を解する状態である、という認識が中国王朝当局にあったからではないか、という観点が欠けているように思われます。
また【二世紀末の倭国大乱を経て、邪馬台国の連合体制が成立すると、邪馬台国がどこにあるにせよ、伊都国は倭人伝によると邪馬台国に統属、初期筑紫政権の諸国を検察した一大率も伊都国に置かれるなどしていて、初期筑紫政権は邪馬台国体制のもとで大幅に後退していった】と書きます。
これは論理的におかしい文章です。もし、邪馬台国が九州以外にあった、とすれば、筆者のいう通りでしょうが、もし邪馬台国が九州内部にあったたとすれば、初期筑紫政権は邪馬台国に発展した、という推測になります。つまり、「邪馬台国どこにあったにせよ・・・」と一見ヤマタイコク論に中立的立場に立つと見せかけていますが、実質的には邪馬台国近畿説に執筆者たちは立っていることを露呈しています。
近年、AMS(放射性炭素法)による古墳など築造年代の研究が進み、国立歴史民族博物館が2003年に「北部九州の弥生時代の500年繰り上げ」、という重大発表がなされています。この視点で、この「福岡県の歴史」も再度見直していただきたいものです。
II。2 磐井の乱と大和政権
●東からの風~●筑紫政権の再興
この項目は、【福岡県の古墳時代は前方後円墳の登場によってはじまる】という書き出しで始まっています。そして、【大和で創出された前方後円墳は、日本列島の主要地域にわたって出来た政治的連合の証であった。そこに副葬された三角縁神獣鏡の同范鏡の同心円的分布から大和政権が連合体の上に立っていたことがわかる】と、教科書学習指導要綱に副った内容のものです。
「大和で創出された」ということについては大いに疑問があるところなのですが、そこは完全に無視されています。銅鐸でも鏡でもまず小さいものから大きなものへと時代を追って変化します。前方後円墳の場合もこの「小から大」へと変化した、と考えるのが理性的と思うのですが・・・。この『福岡県の歴史』には、古墳時代の文化も「北部九州から近畿へ」ではなかったのか、という視点が全く無いようです。
大和の同范鏡の同心円的分布、という表現をつかっていますが、舶載とされている三角縁神獣鏡についての考察はありません。舶載鏡とされている三角縁神獣鏡も実は国内産である、中国国内に三角縁神獣鏡の出土はない、という国内古代史関係者に大きな衝撃を与えた、1981年の中国北京考古学研究院副所長 王仲殊氏の論文があります。
このような重大な問題に頬被りで、旧態依然とした「同范鏡の同心円的分布」に依拠するのは如何なものでしょうか?
沖ノ島についてこの本は次のように説明します。【対外交渉のマツリとして対馬にかわって沖ノ島が登場する。4世紀後半に始まり9世紀まで営まれた。沖の島の祭祀は在地豪族宗形君の信仰を基盤としながらも、それを超えて日本列島全体にかかわる祭祀であった】と。
しかし、これは史料に忠実でありません。『古事記』にも『日本書紀』にも沖ノ島のことは全く出てきません。
祭祀品や土器などの出土品には、近畿地方のものは殆ど無いそうです。それでも大和朝廷の祭祀の場であったと主張されるのはおかしいのではないでしょうか?
宗像神社の伝承記録も8世紀以前のものはありません。福岡の歴史学者であるならば、なぜ沖ノ島の伝承が8世紀で中断されてしまっているのか、宗像神社の祭主の系図がなぜ残っていないのか、是非こういう福岡県人の疑問に答えていただきたいものです。
私たちが理性的に判断すれば、沖ノ島は9世紀以前のこの地方を支配する勢力の祭祀の場であった、8世紀ごろ支配者が変わったということではないか、ということです。その際、宗像神社の関係者は存在が許されなかった、そこで沖ノ島の伝承も祭祀方法も引き継がれず近年まで見捨てられたままになっていた(1954年に初めて発掘調査)、という見方も、そう見当はずれではないと思われます。この立場に立ってはじめて、沖ノ島の海の正倉院と呼ばれる遺跡の評価も、正しく出来るのではないでしょうか?
「倭の五王」について、この本は次のように述べます。【五世紀は”倭の五王”の時代ともよばれ、中国の南朝との通交が強調される。雄略天皇の時に南朝からもらった二羽の鵞鳥を、水沼君の犬がかみ殺したと史書にあるが、その記事は有明海からの航路も重要になったことを示している。しかし、南朝からはもっぱら目に見えない権威や制度がもたらされた。そして実際の文物や技術は朝鮮半島からやってきており、福岡県域のそれは質量ともに近畿地方におとらない。これは、四世紀後半ー五世紀にかけての半島への倭政権の軍事的介入にあたって、先兵として深くかかわったことが大きく作用しているといえよう】
この文章も矛盾に満ちています。南朝からもらったガチョウの記事は『日本書紀』にあっても、南朝から倭の五王たちが授かった「都督」など数々の位については全く記されていないのです。戦いに明け暮れた倭の五王たちの活躍を記す『宋書』の記事は、全く『記・紀』には姿を見せないのです。これは雄略天皇が倭王武ではなかった証拠ともいえるのではないでしょうか。倭の五王たちは福岡県に本拠を置く王達であった可能性が極めて高い、と言えるでしょう。
●磐井の乱
磐井の乱について、【大和政権は、乱の平定後に各地に屯倉を設置し支配体制を強化し、外交権の一元化も果たした。磐井の乱は、古代国家形成のための国土統一戦争だったのである】と書きます。
この磐井の乱の評価について、『日本書紀』の記述を鵜呑みにしています。この『日本書紀』の記述の矛盾点の解析から、磐井の乱でなく継体のクーデターではなかったか、などについて、槍玉その12で田村圓澄『古代最大の内乱 磐井の乱』で詳しく書いていますのでそちらを参照下さい。
第2章 大宰府の成立・展開のなかで 1 奈良時代の内政
●大宰府成立前史
【「大宰府成立前史」として、「筑紫大宰」という職名は史料にあるが、その職掌については史料が少ない】と述べるにとどまります。
太宰府の成立そのものの記事が全く史料にないのです。筑紫都督府という言葉は『日本書紀』にも見えるのですが、それについては触れられていません。都督、つまり倭の五王たちが宋朝から任命された官名なのです。都府楼という地名も太宰府市に現存しています。都督府=太宰府と理解するのが理性的結論と思います。そうなることを恐れてなのでしょうか、この本では、倭王たちが都督であった、という中国の史書の記事をあたかも無かったもののように無視を決め込んでいます。
太宰府の都府楼の奥に、字名として、紫宸殿・大(内)裏などが残り、朱雀門もあった、ミヤコがあった証拠のひとつ、と古田武彦さんは指摘しています。(『ここに古代王朝ありき』 1979年朝日新聞社刊)・
III。当研究会の結論的な感想
基本的には、近畿地方と北部九州地方の考古学的出土品の時間差、縄文時代では数百年、弥生時代では1~200年の時間差がある、という説から見れば、弥生文化が近畿から九州に及んで来た、という説で描かれているこの本には沢山のほころびが見られます。
基本的に、この執筆者(古代史担当)の認識にあるベース知識が古く、誤った認識の上に推論を(確定的に)延べています。縄文巨木文化、三角縁神獣鏡は中国製に非ず、弥生500年繰り上がり、などこの「福岡県の歴史」の古代史部分は書き直されるべきだと思います。
また、この本は、中国文献の引用を極力避けている節があるように感じられます。『魏志』倭人伝についての言及は全くないし、雄略天皇の時代に呉国からガチョウを貰った、という『日本書紀』の記事は引用しながらも、同じ時代に倭王武が「都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に任ず、という『宋書』の記事については全く触れていません。
都督府についても触れていないことは言いましたが、ヤマタイコク九州説が九州では当然人気があると思います。ですが、ヤマタイコク論議にも全く触れていないのは何故だろうか、と思ってしまいます。
その他、白村江の敗戦の後、2000人の唐人が2度九州に来たことについても、唐軍の捕虜になった筑紫君薩夜馬にも全く触れないのも解せません。同じく『日本書紀』が記す筑紫大地震についても全く触れていません。3年前のこの稿の執筆者に対する寅七の感想は、ちょっとキツイかな、と今では思いますが、原則的には間違っていないと思いますので、以下に再録しておきます。
●執筆陣に対する感想
この本の執筆陣の人脈から窺えるのは、児玉さんという白鳥庫吉さん以来の、東大の国史学の流れの御大をキャップに据えて、関西地区の、その方面のボスの熱田さん、(この方は、大阪書籍出版社の中学教科書などの編集責任者)と結んで、各地域の、自分たちの流れの中の執筆担当を選任して書かせた、という図式が見えてくるようです。
地域のロマンを描く、ということが出来ずに、近畿中心の従来の歴史観の流れから一歩も踏み出せないのも仕方が無いことかもしれません。
実作業メンバーは、九州大学史学関係者でつくる『九州史学』グループのように見受けられます。福岡県の古代史の、数多い論争点から逃げるような立場からの執筆態度では、九州大学の文学部の鼎の軽重を問われるのではないでしょうか。
九州大学文学部にはかって、高橋義孝さんがいらっしゃいました。高橋義孝さんといえば、ヘルマンヘッセです。私たちの若い時の感性を揺さぶった、『車輪の下』や『デーミアン』、もう一度読み返したい本です。
エッセイスト楠田枝里子さんが最近の週刊誌のコラムで次のようにおっしゃっています。”高橋先生とお話したとき、僕の人生なんか何でもなかった、ただ、一つ他の人と違っていたかも知れないと思うのは、ヘッセやケストナーといった素晴らしいひとたちに巡り会えたことだ。だから僕は、その人のことを伝えなくちゃいけない。伝える義務があるんです”と。(週刊ポスト2006年3月24日号)
このような立派な教授もおられたのに、その後輩たちの、アカデミズム内の徒弟制度による、迎合的な、全く自尊心のない、この県史編纂の態度は、限りなく悲しい限り、と言えるのではないでしょうか。
福岡市東区箱崎の九州大学正門の写真。同大学は現在、同市西区元岡に移転中。中身も変わるのでしょうか?
福岡市西区元岡の新校舎
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【付記】
福岡県の歴史 ダイジェスト版 (編集は当研究会による)
1章 国家への道
1 夜明けの福岡県人
採集生活のなかで●
福岡県人の祖先は旧石器人までさかのぼる。県内の旧石器時代の遺跡は殆どが三万年前より新しい後期に属し、ナイフ形石器が主体である。(福岡市諸岡遺跡)1万4千年前から細石器文化へ移行する。(北九州市椎木山遺跡)。辻田遺跡(北九州市八幡西区)は4万年以上のものとされる。
縄文時代に入り気候が温暖になり海面も上昇し、植物の植生も変化し、大型の動物から、小型動物が優勢になってくる。これに従って槍から弓矢へと変り、漁撈が進み貝塚が」つくられた。土器の出現は食材の範囲を広げた。縄文時代は1万2千年前~2千数百年前におよび、土器によって、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と分けられる。県内の草創期の爪形文土器、早期の押形文土器、前期~中期は轟式・曾畑式・阿高式などの縄文がない土器、後期には、磨消縄文土器などである。
後晩期には植物栽培もされたが、主体は狩猟・漁撈・採集であった。
しかし、栽培植物の導入は、一方では、限度を越すと農業の道へ踏み込む危険性を常に持っていた。特に福岡県域は大陸から朝鮮半島を経て何度も訪れた農業文化の波をうけ、縄文社会の変質ももっともはやく進行した。遠賀河岸の貝塚の人骨は、呪術的装身具を身につけ、縄文後期では、階層分化が進展していたことを示す。
最初の農民達●
人びとは狩猟からはなれ、水田でイネをつくるようになる。この変動は福岡県の北部を中心にまず引き起こされた。「イネと鉄」の文化はその後足早に日本列島を北上する。縄文的な社会を解体して階級社会への道を準備する。そして日本列島の人びとを、中国を中心とする国際社会に押し出していく。その過程で日本列島内の政治的な連合と統一が実現された。
弥生時代はこれまで、前・中・後期に分けられるとされてきたが、縄文晩期の板付遺跡が既に高度な水田農業を営んでいたことが判明し、弥生時代の定義付けに疑問が提示された。板付だけでなく、曲がり田遺跡、菜畑遺跡でも収穫具・工具・武器・農具・金属器など弥生時代の特色づけてきた要素が、既に縄文晩期後半に出現していたことになる。城門晩期後半を弥生早期とすべき、という意見も出た。しかし、弥生文化の始まりとは、水田を作る技術や新しい文物の登場だけでなく、目に見えない農民の考え方や社会組織など、社会全体にわたる新しいモノやコトの出現であり、革新であった。縄文人は溝を掘らず、弥生人は盛んに溝を掘って自然と人間を区分し、人と人も区分し格差をつけていく。ここに弥生社会の本質がある。最古の環濠集落がつまり、弥生時代の始まりである。
最古の農村は江辻遺跡(粕屋町)で、朝鮮南部に起源を持つ竪穴住居跡が円形に配置されている。全員のための環濠を掘って、よそのムラと区別し、ムラの財産は全員で管理し、マツリや会議を大型の建物で行う、という形で日本の農村は始まったのである。
これらの新来の要素は朝鮮半島南部の弥生前期末~中期の無文土器文化にその直接の源流が求められる。弥生の始まりには文化的要素が伝来しただけでなく、人も渡って来たことが考えられる。縄文人は丸顔で目鼻の凹凸が目立ち身長は低い。弥生人は面長でのっぺりとした顔に切れ長の目を持ち身長も高い。
弥生渡来人が縄文人を駆逐したのか、というとそうでもなく、新町遺跡(志摩町)の支石墓からでた人骨は極めて縄文人的であった。つまり、弥生時代は渡来人と縄文人が一緒になってつくりあげたのである。
青銅開花●
弥生前期初めの夜須町の墳丘墓の調査から、既に一般の上に立つ首長層の存在を示している。早良平野の吉武遺跡では青銅製武器や鏡などの分析から、高木地区がトップで次が大石地区次がその他の地区というように、ムラの中に階層序列が生じていることを示している。
吉武内部だけでなく、早良平野で吉武をトップに、例えば早良区の有田遺跡は吉武に従属していた、つまり早良国の成立が認められる。
この時期には、唐津平野では、宇木汲田、福岡平野の板付田端、壱岐の原の辻と各地域に一つずつ朝鮮系の青銅器を集中して持つ集団があり、それらに優劣は認められない。これは国という組織が一斉にでき、漢書にある『楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす』状態はこの時期までさかのぼるのである。
弥生時代の青銅の武器は朝鮮系の細形から中細形→中広形→広形とだんだん幅と長さを増して祭器となっていく。細形剣は輸入品ではないか、という意見もあったが鋳型が相次いで出土し国産がかなりあることがわかってきた。
これら細形剣の鋳型とその製品の分布をみると、国の範囲を超えて分布している。これは、弥生中期初頭~前半(BC150~100)に国を越えて、政治的な器物の流通つまり国々のまとまり、初期筑紫政権が既に出来はじめていたことを示している。
福岡市西区の今山の石斧や飯塚立岩の石包丁が有名だが、これも細形剣同様の分布を示している。甕棺墓の地帯つまり北部九州の国々に主に分布しこれは国々のまとまりを示している。
立岩の石包丁は甕棺地帯だけでなく、東の豊前や宇佐平野にも分布している。このことは、玄界灘の国々が瀬戸内海までの内陸の道を確保したということである。
奴国王と伊都国王●
弥生時代に王がいた証拠は漢の光武帝からAD57年に下賜された「漢委奴国王」金印である。
BC1世紀末の奴国王の墓が春日市の須玖岡本遺跡であり、伊都国王の墓が前原市の三雲南小路の甕棺墓である。これらの墓を検討すると、墓域に他の王族の墓を寄せ付けないなど、王への権力の集中が見られる。しかし、立岩遺跡や筑紫野市の隈西小田遺跡では、墓域中心の王の墓域に他の王族の墓もあり、奴や伊都の王墓とは異なる。
この違いは初期筑紫政権が対等でなくなり、奴国や伊都国の王は中国や朝鮮の文物を独占的に手に入れ、権威を確保できた。この時期の日本列島には各地に同じような初期政権ができて競合し始める。
弥生中期から後期にかけて、西日本各地の政権は、銅鐸や平形銅剣などそれぞれ異なる青銅祭器を持っていた。矛・戈・剣という祭器の序列があったものと思われ、後に、剣が脱落し、矛・戈となり、矛が再興の祭器となった。弥生中期後半~後期に、春日市の須玖付近で集中大量に生産された。それらは、国や国々の祭りに使われ、土に穴を掘っておさめられている。対馬には須玖産の銅矛が集中していて、初期筑紫政権の全体にかかわる対外交渉の成功を祈ったことがわかる。
またこれまで弥生時代には文字がなかったと考えられてきた。しかし、半島南岸のタホリ遺跡では筆の出土があり、前原の番上遺跡では楽浪郡の土器がでているし、弥生中期後半以降初期筑紫政権が文字を使っていたと考えられる。
中期後半になると、初期の円形環濠から、二重環濠、円の中に方形環濠を掘ったり、重要施設などや首長層の居住区などと一般の居住区を分けるようになる。弥生後期の須玖遺跡では、ガラスや青銅器の工房が方形に配置され街区を形作るようになり都市的な様相を呈してくる。
しかし、弥生後期の福岡の土器はジワジワと浸透してくる瀬戸内系の土器の色にそめあげられていく。
AD107年に後漢に朝貢した倭国王帥升は伊都国王説が考古学的には有力である。二世紀末の倭国大乱を経て、邪馬台国の連合体制が成立すると、邪馬台国がどこにあるにせよ、伊都国は倭人伝によると邪馬台国に統属、初期筑紫政権の諸国を検察した一大率も伊都国に置かれるなど、していて初期筑紫政権は邪馬台国体制のもとで大幅に後退していった。
2 磐井の乱と大和政権
東からの風●
福岡県の古墳時代は前方後円墳の登場によってはじまる。
大和で創出された前方後円墳は、日本列島の主要地域にわたって出来た政治的連合の証であった。そこに副葬された三角縁神獣鏡の同范鏡の同心円的分布から大和政権が連合体の上に立っていたことがわかる。
前方後円墳は定型化していて、苅田町の石塚山古墳は3世紀の典型的な例である。この古墳からは、京都郡の椿井大塚山古墳と同様の副葬品が出ていて、九州の前方後円墳が近畿・瀬戸内地方からさほど遅れることなく出現していることがわかる。
4世紀後半の典型例は二丈町の銚子塚古墳である。これらの古墳時代初期の前方後円墳は、弥生時代と異なり、中心部ではなく周辺部に作られるようになっていく。
北部九州では、古墳の主の居館の遺跡も発見されていて、古墳時代には各地に豪族が居たことがわかる。福岡県下の豪族は二つの類型に分かれる。一つは大和政権の力が早くからおよんだ地域、と内陸の地域である。前者が、豊国直、崗県主、伊都県主、宗形君、水沼君であり、後者が筑紫君、肥君、阿蘇君などの豪族である。
古墳時代前期の集落や墓には、東の近畿からの流れが色濃く見られる。しかし、西新町遺跡では、半島南部系の土器が他の地域と比較できないくらい大量に出ている。カマドを持つ住居の普及も日本の他の地域に比べ早く、鉄の使用量も多い。弥生時代から古墳時代にはいり、対外交渉を担った人々にも交代や再編があった事がわかる。
対外交渉のマツリとして対馬にかわって沖ノ島が登場する。4世紀後半に始まり9世紀まで営まれた。沖の島の祭祀は在地豪族宗形君の信仰を基盤としながらも、それを超えて日本列島全体にかかわる祭祀であった。
宗形君は大和政権に全面的に服従したわけでもなく、一度は後退を余儀なくされた筑紫政権も五世紀には独自の文化をつくり出すまでに再び成長していく。
筑紫政権の再興●
前期の呪術的要素の高い古墳文化に替わって、五世紀には朝鮮系の中期古墳文化が花開く。遺体を上から入れる竪穴式から、横穴式に変り、追葬が出来るようになる。横穴系石室は中国で生まれ朝鮮を経由し四世紀後半から五世紀初頭に福岡・唐津に受け入れられ北部九州一円に広がった。列島内の他の地域に普及するのは五世紀後半以後であり、その時間差はきわめて大きい。
五世紀には登り窯をつくって青灰色の堅い須恵器が朝鮮半島から導入された。初期須恵器の始まりは多元的である。福岡県内では、朝倉郡夜須町、筑紫野市、京都郡豊津町などがそれぞれ特徴のある須恵器を焼いている。しかし、大坂の陶邑産の須恵器は九州の南端まで一円に及ぶが、朝倉産は筑前・筑後と肥前にかぎられ、大和政権と在地の政権の力量の差が現れている。
五世紀は「倭の五王」の時代ともよばれ、中国の南朝との通交が強調される。雄略天皇の時に南朝からもらった二羽の鵞鳥を水沼君の犬がかみ殺した記事は、有明海からの航路も重要になったことを示している。しかし、南朝からはもっぱら目に見えない権威や制度がもたらされた。そして実際の文物や技術は朝鮮半島からやってきており、福岡県域のそれは質量ともに近畿地方におとらない。これは、四世紀後半ー五世紀にかけての半島への倭政権の軍事的介入にあたって、先兵として深くかかわったことが大きく作用しているといえよう。
その新しい文化により、九州独特の中期古墳文化ができた。装飾古墳・家形石棺・石人石馬がそれで、石人山古墳が典型である。装飾古墳は石棺の内外面に彫刻・彩色する石棺系から、横穴系石室の周壁に沿って立てた板石に彫刻・彩色する石障系へ、そして壁面に絵を描く壁画系へと変遷するが、五世紀代の石棺系や石障系は筑後から肥前・肥後に見られる。
石人石馬は、筑紫・豊・火の地域にわたって分布する。形態は器財埴輪の写しだが、そのありかたには南朝の影響が考えられる。
このような、古墳文化に象徴されるように、筑紫連合政権を再興し、逆に玄界灘沿岸地域を押さえ始めたのが筑紫君であった。
磐井の乱●
朝鮮半島へ軍事介入をし、その失敗のなかで国内での一元支配的な体制つくりをする大和政権と、伸長する地域政権とのあいだに軋轢が生じる。吉備氏や宗形君などが大和政権に従わなかったことが日本書紀の記事に散見される。こうした軋轢の頂点に筑紫君磐井の乱がある。
継体天皇は、新羅と組んで大和政権に従わない磐井を、毛野臣を総大将とする軍を派遣し、一年の戦闘により破った。磐井の墓は八女古墳群中央にある岩戸山古墳で北部九州での最大の前方後円墳である。筑紫政権の雄である磐井が、大和政権の象徴である前方後円墳を生前につくった点は大和政権と一定の上下関係にあったことを示している。毛野臣と磐井が昔同輩であったという記事もあり、磐井が大和政権の中枢に出仕していたことを物語る。
六世紀はじめには、複式構造の横穴式石室もうみだされ、岩戸山古墳の別区には、裁判官。盗人・猪(盗物)の石像が配置され、その地域の行政・司法権を手中にしていたとみられ、その先には独立国家への道もないわけではなかった。
磐井の乱ののちには石人石馬は激減し、地下の石室の彩色壁画の題材となって沈潜していく。筑紫政権の二度目の挫折を見る思いである。
一方、大和政権は、乱の平定後に各地に屯倉を設置し支配体制を強化し、外交権の一元化も果たした。磐井の乱は、古代国家形成のための国土統一戦争だったのである。
2章 大宰府の成立・展開のなかで
1 奈良時代の内政
大宰府成立前史●
磐井の反乱ののち、磐井の子葛子は継体天皇に糟屋屯倉を進上したという。安閑天皇535年には、全国的な屯倉設置に際して、北部九州にも七箇所の屯倉を置きもとの筑紫国造磐井の勢力圏にクサビが打たれた。宣化天皇536年に那津官家が史料にあらわれる。比恵遺跡がそれに当たる。隋からの答礼使裴世清が来日した翌年609年に筑紫大宰が史料にみえる。」その職掌については史料が少ない。
白村江の敗戦ののち、北部九州から瀬戸内にかけて多くの朝鮮式山城が築かれる。天智天皇三年664年から四年に、水城、大野城・基肄城がつくられた。このころ大宰府(第I期遺構)の造営がはじまった可能性がある。文武天皇四年700年に筑紫総領の名が、吉備・周防・伊予総領とともに史料にみえる。しかし、その後大宝律令で筑紫総領(大宰)以外は廃され筑紫大宰のみが広域的行政府である大宰府に発展した。
飛鳥浄御原令で大宰府の記述はみえない。だが、持統天皇三(689)年、石上麻呂などを筑紫につかわし新城を監させた、とあるのは大宰府を新設させたという説がある。
大宰府政庁の建替え●
第I期遺構 掘っ立て柱 で 7世紀後半代
第II期遺構 礎石・瓦葺 で 8世紀初め~10世紀なかば(藤原純友の乱)
第III期遺構 礎石・瓦葺 で 10世紀後半代
(以下略)
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