槍玉その28 『邪馬台国筑紫広域説』 いき一郎/黒田善光(のうち、いき一郎さん担当部分) 1993年 葦書房刊   批評文責 棟上寅七

この本はいき一郎さんの「邪馬台国筑紫広域説」と黒田善光さんの「古事記は倭人伝を読んでいる」の2編から成り立っています。その内の「いき一郎さんの部分」を検討してみたいと思います。


なお、この本は、1989年に出版された、いき一郎さんの『新説日中古代交流史』の内の、所謂、魏志倭人伝部分を、改めて詳述されたものといえます。

従いまして、倭人伝以外の史書などについてのいきさんの見解は、『新説日中古代交流史』を参考にしながら検討を進めていきます。

いき一郎さんの経歴

いき一郎さんの経歴つきましては、1984年に出版された、『邪馬壱(台)国発見記』が、いわば、邪馬台国研究に入った事情等を自叙伝風にまとめていらっしゃいますので、それを読みますとよく判ります。放送局のデイレクターがなぜ古代史研究家になったか、興味深く読める本に仕上がっています。

それによりますと次のような経歴です。1931年東京生まれ、旧制四高~東北大法学部卒。九州朝日放送入社、国会記者、ニュースキャスター、テレビ番組プロデューサー、1986年退社。

今までの古代史本の批評に、それぞれの著書をいろいろ引用させていただいた、兼川晋さんと今度のいき一郎さんは、旧制高校最後のころの年代でほぼ同年代の方々です。それぞれマスコミ出身ということで共通しているようです。(いきさんKBC放送、兼川さんTNC放送)

古田武彦さんをそれなりに評価しながらも、自分の個性を出されているところも共通しているようです。


これらの本を取り上げる理由

いき一郎さんは倭人伝の古田武彦さんの解読を殆ど認めていらっしゃるようです。

しかし、古田さんが、文献の解釈はされても、判らないところは判らない、とされるのに飽き足らず、古代史の闇の部分をなんとか照らしだして、正しい古代史を構築したい、倭国通史をまとめたい、と試みられているようです。

なぜ古田説に満足できないのでしょうか。過去に本研究会は、邪馬台国宇佐説・久留米説・豊前赤村説などを検討し批判してきました。今回の北部九州広域説は、その中国史書の解釈が正当なのかどうか、検討してみたい、と思います。


いきさんの説の特色

いきさんの邪馬台国筑紫広域説の特色を上げてみます。

A
・奴国は今の博多であり、反邪馬台国である
B
・伊都国が女王国を統属していた
C
・狗奴国は今の熊本県領域で、投馬国は鹿児島県領域
D
・邪馬台国は北部九州に広域に拡がった国

これらの3世紀当時の各国の領域を、いき一郎さん独特の、碁盤面を用いて図示されます。右下に示しているのがその図で、その発想の経緯は『邪馬台国発見記』に書いてありますが、魏の時代の囲碁盤は17道だったそうで、それを九州島に当て嵌めているのです。当時の三国鼎立の時代、魏対呉+蜀漢であり、九州島の倭人世界にもこの政治対立が影響した。碁石の白石が親呉勢力、黒石が親魏勢力とされます。


A)
 「奴国は今の博多であり、反邪馬台国である」について

問題は、まず、何故奴国が博多になるのか、という説明が「定説にあるように」ということでいわば逃げられているように感じられます。、この問題は一応「ではそうした場合、つまり、倭人伝の行路記事を読む限り、「奴国は伊都国の東南100里」であり、伊都を現在の二丈町あたりにするか、前原市あたりにするかによって異なりますが、いずれも博多湾岸とは東北ないし東の方位です。

しかし、いきさんの「邪馬台国北部九州広域説」は、奴国を博多湾岸に比定することによって成り立っている説とも云えるようです。古田説のように奴国を前原あたりにすると、現在の人口から見て、3世紀に2万戸の国であったとは思えない、ということがその根拠のようです。

いきさんは右下の地図ように伊都国・奴国・邪馬壱国を図示しています。そこでは奴国は、伊都国の東北に明らかに位置されています。これを、「面関係の幾何学法、測量法」と呼ぶ、とされます。しかし、何故、『三国志』の著者陳寿が東南としたものを東北となるのか、いきさんは説明していらっしゃいません。素人にもいきさんの論理についていけるような説明がほしいところで
す。

何故説明がないのか、無いものねだりしても仕方ありませんから、そうしないと、いき一郎説が成り立たないのでしょうから、一応その問題は置いておいて次に進みます。

次の問題は、何故、奴国が親呉勢力なのか、というところです。

いき一郎さんの3冊の本から得られたことから説明してみます。

いき一郎さんの碁盤面を使った国の位置説明図① 奴国は1世紀に漢委奴国王印を貰った国である。
 蜀王朝は漢王朝の正当性を受けついだ。
 従って、奴国は親蜀である。
 蜀は呉と組んで魏に対抗している。
 従って、奴国は呉王朝に親近感を持っている(筈?)。

この筋立てはちょっと強引あなと思うのですがどうでしょう。狗奴国と邪馬台国だけの対立だと、邪馬台国は7万戸、南の投馬国は5万戸と巨大国家に挟まれていては、とても互角に戦えるという説明はできず、戸数2万の大国、奴国を反邪馬台国に組み込まないと勢力が拮抗しない、と思われたのではないでしょうか。

いき一郎さんの意見では、奴国は倭奴国以来、漢王朝の冊封を受けた立場なので、蜀漢や呉と親密であった、という解釈のようです。吉川英治さんの『三国志』などを読みますと、蜀の劉備がヒーローで魏の曹操がヒールのように描かれているので、いき一郎さんの判断がそれに引っ張られていなければよいのですが。

今、文芸春秋で連載中の宮城谷さんの『三国志』では、漢の後裔としての正当性を魏・蜀・呉国の三国で争ったように描いていますが、その方が常識的で受け入れやすいと思います。

吉川英治と宮城谷昌光の三国志史観のいずれが当っているかはともかく、呉国が狗奴国や奴国を取り込み、反魏勢力として、親魏勢力の邪馬壱国連合として戦った、というのは、ちょっと想像の部分が過ぎるのではないかと思われますが?


B
)「伊都国が女王国を統属していた」、について

倭人伝の「東南陸行五百里到伊都国(中略)世有王皆統属女王国郡使往来常所駐」という文章の中の、「世有王皆統属女王国」というところの解釈問題です。

普通は「伊都国には代々王がいて女王国に統属している」と読まれているのですが、いき一郎さんは、「伊都国には代々王がいて女王国を統属している」とされます。この解釈はいき一郎さんだけでなく、松本清張さんも同様に解釈されています。中国文は句読点もありませんし、いかようにも解釈できるようです。

これについては古田武彦さんも沢山論文を書いておられ、伊都国は女王国に統属している、と読むのが正しいとされます。中国文の読み方については古田武彦さんの以下の本を参照していただければ、と思います。(『邪馬一国への道標』1978年講談社p161~192 真実の道標ー伊都国統属論争から-、及び、『まぼろしの祝詞誕生』1988年新泉社0伊都国統属についてp169~173を参照ください)

当方としては、仮に、いき一郎説が正しいとした時、『魏志』倭人伝全体と大きな矛盾が生じることを、以下のように指摘しておきたいと思います。

伊都国王が女王卑弥呼より上位であれば、なぜ魏王朝は親魏倭王の印を卑弥呼に贈ったのか。

卑弥呼が死んで何故倭国が乱れたのか、伊都国王が治め得たのではないか。

卑弥呼の後釜に壱与を立てる必要も無かったのではないか。

卑弥呼や部下の名前は上がっているのに、最上級の伊都国王の名前がなぜ書かれていないのか。

魏使は卑弥呼に会った、と『魏書』は書くが、それより上位の伊都国王に拝謁の有無を書いていないのは解せない。

もし、著者にお会いする機会があれば、のこれらの矛盾点についてお聞きしてみたい、と思っています。


C)
「 狗奴国がでは何故親呉勢力なのか」、について

この点についての説明ですが、これもいき一郎さんの3冊の本から読み取れますのは次のようなことです。

狗奴国は定説のように熊本県であろう。 呉は水軍を兵士集めに夷州に派遣したが、4万の水軍の半数が戻らなかった、と史書にある。 これらは、今の八代市付近に上陸しそこに留まり狗奴国を作った。 八代付近の伝承に中国の河童の祭りがある。

ただ、「狗奴国は熊本県領域に存在したことは定説」、と云われるだけで、倭人伝での説明と矛盾する点についての説明はありません。

倭人伝には、21国の旁国の国名がズラーッと記され、最後に「奴国」とあり、そこが女王国の境界の尽きるところ、と記されます。そして、その南に「狗奴国」があると、その南つまり境界のつきるところの南、とわざわざ書かれています。

邪馬壱国に属すると思われる投馬国は、邪馬壱国の近くから南へ水行20日の位置と書かれています。南の方角で、女王国の境界が尽きるところは論理的には投馬国となると思います。倭人伝の記述をそのまま解釈すれば、投馬国の南に狗奴国が位置することになります。

いきさんは、狗奴国=熊本県域、投馬国=鹿児島県域とされますが、投馬国が狗奴国の南だったら陳寿もそのように記述したのではないかなあ、という疑問が浮かびます。狗奴国を九州島の中央部に持ってくるのは倭人伝の記述と矛盾するのではないか、と思われますが?


D)
その他の問題点など

これらの問題点に加え、表音的に用いられた漢字のフリガナの非統一性や、銅鐸は道教の影響が強い・徐福伝説の史実性など、についても論じたいのですが、下記のように、今まで槍玉に上げてきたところと重複しますので、問題点の指摘は以下簡単に記しておきます。

書中の”『魏志』倭人伝いき一郎訳”を読んでいて気になりますのは、表音文字として用いられた漢字の読み方です。「奴」をあるときは「ナ」あるときは「ヌ」や「ド」、同様に「都」を、あるときは「ト」あるときは「ツ」と読まれます。「支」も何故かあるときは「シ」であるときは「キ」です。そう振り仮名を付けることに合理的説明などあればまだしも、全く説明はありません。

先人の昔からの読み方に倣う、ということであろうか、と想像しますが・・・。それにしても奴国を最初はナ国と読ませ、最後に出てくる奴国はヌ国と読ませます。何故なんだろうかと考え込まされてしまいます。「奴の読み方」について、今度の古田史学論集に論文を書き上げたばかりの寅七としては、ここも、いきさんのご意見をお聞きしたいところでもあります。

それに、徐福が稲の栽培技術を持って渡来した、という話は、槍玉その11 『マンガ日本の歴史がわかる本』小和田哲男 で、検討したことがあります。稲作が始まった時期が徐福渡来より少なくとも400年は古いこと。徐福が大船団で渡来したのであれば、文字文化も当然持ち込んでいるだろうがその痕跡は見えない、などと批判しましたが、いきさんの説に対しても同様なことはいえるのではないでしょうか。

徐福以外、何度もの中国大陸からの集団的な渡来はあった、と思われます。しかし篠田謙一さんの『DNAから解明する日本人の祖先たち』などの近年の研究から、朝鮮半島南部と北部九州とでは、殆ど同一のDNAという結果について、つまり、中国系より朝鮮半島系となるわけですが、いき一郎さんの最近の見解を知りたいものです。

それに、北部九州には、朝鮮語由来の地名が沢山残っていることはよく知られているところです。しかし、古代中国語の影響と思われる地名は見あたらないようです。それに、日本語への中国語の影響は殆どなく、文法的に朝鮮語と日本語は同祖の言語ということも又よく知られているところです。これらの、いわば常識化されている定説に、敢然といき一郎さんは立ち向かわれるのですが、読者を納得させるまでには至っていないように思われます。


この本の読後の感想など。

長年テレビ会社でお勤めの著者ですので、読みやすい構成、文章です。『まぼろしの邪馬台国』の宮崎康平さんのように、自説を強調されることもなく、穏やかに話を進められて行かれます。当方も見習う点が多い本です。

いき一郎さんは『邪馬壱(台)国発見記』を読んでいて、行動派だと感心します。40代の終わりには、大阪で「北部九州広域説」の有料講演会を開き125名の方が参加した、古田武彦さんの顔も見えた、と記しています。

いき一郎さんの本は出版されたのが昔なので、いきさんの意見が、当時の考古学の発見史と頭の中で照合しながら進めなければなりません。例えば、銅鐸は道教の影響が強い、と説かれますが、中国の特異な青銅器文化、三星堆文明、の発掘をご存知だったかどうか、などです。三星堆の発掘は1986年だそうで、いきさんの本の刊行は1989年です。この三星堆文明のことを知られても、道教の影響を説かれるのか知りたいところです。

『新説・日中古代交流を探る』を読んでいて、ズーッと前、いきさんが古田史学関係の会を立ち上げた1970年代終わりの頃の文章があったことを思い出しました。インターネットで検索し、「九州王朝論の古田さんと私」というタイトルの小文です。この文は、【そのうち、ツクシの地においても古田さんの会が生まれるものと信じている。(古田氏後輩47歳)】で結ばれています。興味がおありの方は次のURLをクリックしてみて下さい。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin01/ikiitiro.html

その後のいきさんの方向と古田さんの方向とが一致しなくなったのはどのあたりからかなあ、と検索を続けました。「季節」というエスエル出版会というところから出ている不定期雑誌の12号1988年8月15日発行に『古田古代史学の諸相』という本があるそうです。

それには、直木孝次郎さんと古田さんの対談や、佐々木高明さんなどの古田論と一緒に、いき一郎さんの「古田武彦批判」が出ているそうです。古本屋さんをネット検索してみましたが、ヒットしませんでした。もし、いき一郎さんにお会いすることがあったら、是非読んで見たい、とお願いしたいと思いました。

いき一郎さんの本ではじめて気付かされたことが沢山あります。その一つが前方後円墳が日本の史書に記載がない、ということです。確かに、『古事記』にも『日本書紀』にもこの特異な形状の墓の由来は書かれていません。何故なのか、次のような理由が考えられます。由来はわかっていた。皆が常識として知っていたので敢えて書かなかった。由来はわかっていた。それを書くわけにはいかなかった。由来はわかっていなかったので書けなかった。由来など大した意味が無いと書かなかった。さて??。

基本的に、邪馬壱(台)国が北部九州のかなりの範囲を領域にしていた、ということは倭人伝の記事からも窺えることと思います。不弥国が戸数でなく家数で記されているのも、海人族や港湾を根城にする国と仰る、いきさんの指摘も論に適っていると思います。つまり、古田説と変わりはないのです。

そのように、古田武彦さん説とは大きな流れでは同一方向だと思われます。中国史書が「倭国」と記録しているわが国の古代の政権は北部九州にあった、という点、又、7世紀の白村江の敗戦以降、近畿政権がそれを掌握した、という点でも共通しています。なぜにこれらの方々が大同団結して一つの大きな流れをつくる動きにならないのだろうかなあ、と思います。お一人ひとりの原理主義者的なところにあるのかなあ、民主党も自民党も原理主義的なところは極力薄めて、適当に(利害で?)結びついているから、大きな力となっているのが現実だとも思うのですが。

いろいろと参考とさせられることが多い本でした。

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