槍玉その49 『邪馬台国五文字の謎』 角田彰男著  移動教室出版事業局 2010年6月刊  批評文責 棟上寅七


はじめに

この『邪馬台国五文字の謎』は、昨年(2012年)秋、古田先生の八王子セミナーのおり購入しました。その折、著者の角田氏から「ヤマト」の起源論の概要が報告されました。


これについて、ちょっと論理的におかしいなと感じ、「棟上寅七の古代史本批評」で次のような感想を述べています。

角田彰男さんのヤマト論に違和感”  24.11.20

【病院の待ち時間に角田彰男氏の『邪馬台国五文字の謎』を改めて読みました。邪馬壱国の発祥の島、壱岐と、邪馬壱国の都、伊都というところを推理小説の謎解き的な読み物に仕上げています。

当方の『鏡王女物語』同様、小説なのですから、細部のことではいろいろ異見はありますが、大きい目で見てあげねば、と思います。壱岐の方々には邪馬台国論のご当地物として受け入れられることでしょう。

ただ、この本の中にある「壱岐=海の壱国の都」に対して「奴国=山の壱国、山の壱国の都=伊都」と立論されて、「ヤマト」の語源とされるのです。これには少なからず違和感がありました。

先日の八王子セミナーで角田氏の、それに基づいての発表がありましたが、そうなると物を申さなければならない、と思うのは寅七ばかりではない、と思います。

古田先生は、その発表の場にはおられず、話のタイトルから「ヤマトは筑紫発祥説」と取られたようです。筑紫には今でも下山門など、ヤマトの地名が残っている、などと一寸的外れの講評となっていました】


その後2013年1月、Tokyo古田会News 148号に「ヤマト・倭・やまと・大和」の起源を解くという、角田彰男氏の論文が掲載されました。

やはりこれは「論理的に納得出来ない」と一文を草し投稿しましたところ、会報149号(2013年3月) に掲載されました。

会報150号(2013年5月)に、「疑問に答える」形で、”壱岐の「海都」を視点にすると「ヤマト」名の起源は九州”という論文を角田氏の論文が掲載されました。しかし、小生が指摘した「海都」という概念は著者の観念的な産物ではないか、ということ外、当方の問題提起には全く答えていず、ズレが大きいと思われたので、「再びの疑問」という形で意見を述べ、会報151号(2013年7月)に掲載されました。

以上の二論文は棟上寅七のペンネームでなく、会員登録名N・Mでなされました。


以上の経緯を記録に残し、読者諸兄姉の判断を仰ごうとホームページに掲載する次第です。



①角田彰男氏の最初の論文

「ヤマト・倭・やまと・大和」の起源を解く 久喜市 角田彰男 Tokyo古田会news No.148

はじめに

最近マスコミの邪馬台国近畿説の影響もあり、ヤマト王権・倭王権・大和朝廷などの「ヤマト」(以下主にヤマトと記す)について、その発祥地は九州以外の地とする風潮が広まっている。

例えば「ヤマト」名称の起源は、
・山の麓や山に囲まれた地域説
・山の神を祭る自然信仰由来説
・奈良の三輪山自然地形起源説
・縄文来のアイヌ語で、ヤは接頭語、マトは讃称で高貴の意味
・イスラエル方面のヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」説
・近畿の邪馬台国の「やまたい」が「ヤマト・大和」に変化したとする説などである。

これらの説では、「ヤマト」は何も九州起源でなくともよい事になってしまう。これは科学的歴史観の古田史学にとって軽視できない問題である。古田武彦氏が論じられた様に「倭・ヤマト」は、古代対馬海峡上の倭人勢力が博多湾岸に「天孫降臨」し、倭国を建てたことに起源を持つといえる。更に古田氏は、邪馬壱国の「邪馬(ヤマ)」とは福岡の博多湾岸近くに立つ高祖山をもって「山(ヤマ)」と読んでいたとされる。
*古田武彦著『俾弥呼』ミネルヴァ書房、第四章2参照

これから「ヤマト」は北部九州が起源と言える。私は古田氏のこの2つの見地から示唆を得て、倭人伝解析から「ヤマト」の発祥地が必然的に北部九州であることを、より具体的に深く論じてみたい。


一、「ヤマト」の起源は古代の一大事件に由来する。

『古事記』に記された大事件「天孫降」を古田氏は、弥生の同時代正史の魏志倭人伝と弥生遺跡を分析する事で明らかにされた。つまり、倭人伝の「一大国」と「一大率」の記述に注目し、「一大率」は「一大国の率」=壱岐の古代軍団の長と分析されている。*古田武彦著『「『邪馬台国』はなかった』朝日文庫 巻末補章参照

ここから壱岐の自国の軍隊「一大率」の武力で山国九州の博多湾岸に上陸し、一帯を制圧し邪馬壱国・倭国を建てたと結論できる。邪馬壱国は壱岐の一大国から発祥したといえる。これは倭人伝解読の当然の帰結であろう。

これを詳しく論じてみる。紀元前の古代、倭人は対馬海峡辺りに点在する島々に暮らしていた。そこには奇しくも大陸・朝鮮からの先進文明導入の確かな交易ルートであった。航海術を持つ倭人は、その運び手であり、同時に、その文明を身につけた最初の弥生人集団であった。すなわち当時の対馬・壱岐人は日本列島随一の先進文明人であったといえる。やがて彼らは住み良い平野と港湾に恵まれた壱岐を拠点に勢力を拡大し財力・武力を蓄え、先進的な鉄製武器を身につけ、武装船団を組み、北部九州へ進攻し邪馬壱国を建て邪馬台国、倭国へと発展していった。

ここで壱岐の一大国について考えてみる。一大国からその飾り文字「大」を省くと一国=壱国となる。また、壱岐は海上国であることから、一大国は海の壱国と言える。海の壱国であるなら、そこから北部九州に進攻・発展した邪馬壱国は、山の壱国の意味を持つと考えられる。なぜなら北部九州は山国九州であり、山国九州の壱国=山の壱国=邪馬壱国といえるからである。こうして海の壱国である一大国の一大率は、その武力で北部九州に版図を広げ邪馬壱国を建て邪馬壱国の軍隊ともなった。そのため一大率は邪馬壱国・倭国の軍隊として女王国以北におかれ、強力な検察権を行使していた。その任務は壱岐・対馬ルートを行き来する使者・文書・賜遣の物(含む交易品)の検察、特に大陸からの交易鉄に厳しい眼を光らせたのだろう。鉄の交易確保は旁国に対し優位を保つ倭王権の基盤であるから。

ここで倭国と邪馬壱国の関係を考えてみる。倭国とは、対馬・壱岐など多数の島々と北部九州本土の邪馬壱国を合わせた広大な範囲と見なせる。よって北部九州本土側の邪馬壱国は、倭国(島部+北部九州本土)の範囲内にあるといえる。もちろん、卑弥呼女王の都は北部九州本土に置かれた。

これを裏付ける様に壱岐・対馬や博多湾岸(伊都国・不弥国・奴国など)には弥生の遺跡・遺物が多数出土している。例えば鉄鍛冶跡・鉄刀・漢鏡・金印・宝玉類・朱・ガラスの璧などで、その量は近畿を圧倒し全国壱である。よって文献的考古学的に「ヤマト」は、北部九州の邪馬壱国・倭国に起源を持つといえる。

邪馬壱国と邪馬台国について古田氏は前掲書巻末「あとがき」で、邪馬台国名は三世紀にはなかったが、五世紀の中国史書「後漢書」で初めて文献に出現する。さらに同書「結び」で邪馬壱国は三世紀以降どのような運命をたどったのか、と述べられているが、これは晋によって魏が滅びたため、倭国が魏への忠誠を顕わす「壱」を含んだ「邪馬壱国」の名称を邪馬台国に変えた結果の反映と考えるのがわたしは最も合理的と考える。その後は周知のように、倭国から九州王朝と発展するも朝鮮出兵を繰り返し、ついに七世紀の白村江の戦いで大敗を喫し、やがて滅亡となるわけである。(国名・都名の由来やそれらの変遷の詳細は、拙著「邪馬台国五文字の謎」をどうぞ)


二、倭国・日本の王都としての「やまと・大和」の意味と起源

次に絞り込んでヤマトの意味とその起源を詳しく解明してみる。これは壱岐~唐津航路を辿って糸島・福岡の現地を訪れてみればよくわかる。すなわち壱岐の「原の辻」遺跡は船着場遺構を出土し、一大国の海上の都=海都と言える。ところが一大国が進攻し、博多湾岸に建てた邪馬壹国・邪馬台国・倭国の都は高祖山近辺に造られたので、この都は壱岐の海都にたいして山国九州の都=山の都の性格を持つ=山都と言える。

こうして邪馬壱国名が廃された後、倭国・邪馬台国の王都としてやがて「ヤマト(邪馬都=山都)」が成立・定着した。これは壱岐と山国九州の地理的地形的対比関係を意識した征服者、壱岐勢力による命名であろう。従って「ヤマト」は「天孫降臨」の起きた北部九州固有の地名起源を持つと言える。
(下段参照 天孫降臨図)

三、「ヤマト」名称の重要な意義

なぜ、この名が重視され以後二千年近く都や日本の象徴として尊重されたか。それは「ヤマト」は、倭人にとって歴史的な大事業「天孫降臨=北部九州本土に倭国建国」を記念した名称だからである。

対馬海峡の数ある離島に分散して生活していた倭人は、大陸・朝鮮からの先進鉄器文明を身につけて進攻し、韓半島に匹敵する九州の大地を手に入れ、邪馬壱国・邪馬台国・倭国を建国するという大発展をする事が出来た。その結果、離島に置かれていた海の都(原の辻)は北部九州の大地に移り「山の都」の性格から「ヤマト(邪馬都)」と呼ばれるようになった。

「ヤマト」は離島の倭人勢力が北部九州本土に版図を広げ大発展した事を喜び、これを記念する象徴的な呼び名(通称)なのである。

「ヤマト」には、倭(後の日本)の大王の都地の呼び名であり、その起源に派北部九州の都に相応しい由来があったのである。決して日本の至る所に存在したとする縄文由来名でも三輪山信仰起源でもなく、壱岐の海都が山国九州に山国九州に発展・移動して成立した山都に由来する北部九州特有の発祥起源を持つ名称である。ましてイスラエルなど外国から持ち込まれた銘生でもない、九州王朝に歴史的起源を持つ名称である。

結論としてまとめると「ヤマト」の起源は、壱岐から発祥して山国九州に興った邪馬台国の都=邪馬都=山都にある。

終わりに

「ヤマト」ははじめ九州の倭国・邪馬台国の都の呼び名だったが、やがて倭国の都のある地方名ともなり、幾多の変遷を経て「大和」の漢字を当てられ奈良地方の名称となり、倭国や日本を象徴する名称にもなった。しかし、奈良・近畿の大和朝廷に、その由来が伝わってないのは九州から遠ざかり、王統に何度か工房や断絶が有ったためだろう。「ヤマト」は、紀元前の対馬海峡の離島に住む倭人(漁師・海上交易民)が歴史の必然性により強大化し、北部九州の大地に進攻・発展して日本列島の主人公になったという海人の偉業を伝える意義深い名称なのである。
(「邪馬台国五文字の謎」の著者)


② 当方の最初の疑問点についての論

角田氏のヤマト論について
    会報149号  福岡市 N・M

会報148号掲載の角田彰雄氏の「ヤマト・倭・やまと・大和」の起源を解く」について読みましたら、自分の中に違和感が生じました。

小生は自分のホームページで古代史本の批評をしています。自分自身にそれ程古田史学の素養があるとは思いませんが、古代史本の問題点を古田先生の著作を頼りに批評しています

今回の角田氏の『邪馬台国五文字の謎』は力作と思いますが、あくまでも「小説」としてであり、これが古代史の論文となるとそうはいかないと思います。古代史の碩学がお集まりの東京古田会でもきっといろいろと反論が出ることと思いますが、私のこの角田論に対する違和感を自身の勉強のためにも検討したいと思います。

「やまと」の語源論について述べられるのですが、高祖山が邪馬壹国の「ヤマ」とされます。だから、ヤマトは北部九州が起源と言われます。古田先生の『俾弥呼』では、邪馬壹国のヤマは高祖山であり、そこに祭られた神を「イチ」と書かれています。

なぜ、近畿で「ヤマト」という語が発生したのか、九州なのだ、けしからん、というような問題の捉え方から発しているように受け取れるのですが、当方の僻み根性から来ているのでしょうか。

邪馬壹国の語源について古田先生がおっしゃるように高祖山である可能性は高いと思いますが、「やまと」という言葉も北部九州独自のものだ、とは断言できないと思います。

ですが、高祖山が「ヤマ」だとして、それがどうして「ヤマト」になるのだろう。そのために角田氏は「邪馬壹国」の本拠壱岐の原の辻の港を「海都」とされ、それとの対比で高祖山麓の都を「山都」と呼ばれたとされます。これで高祖山麓の都が「山都=ヤマト」となったのであろう、とされます。

この立論の為の出だしの「海都」の読みやその地名についての考察はまったくなく、あくまでも角田氏の観念上の産物と思われます。この出だしの、いわば仮説の立脚点があいまいのように感じられます。

「海都」は日本語でしょうから「うみと」か「うみのと」ということなのでしょう。その時代から重箱・湯桶読みが存在したであろうことは、「都市牛利」の「といち」さんがいらっしゃいますから、それはよいとしても、そもそも天孫降臨当時、王の宮殿地域を「都・と」という語であらわしていたのだろうか、という疑問が涌きます。

宮処ミヤトコロからミヤコなったのではないかという感じがしますが、それはともかく、そのあたりの検証がなく、「海都」からの論の発展は、小説ならともかく、史論となるとキチンと論証というか詳しく述べないと世の中には通らない論のように思われます。

肝心なのは、「ヤマト・倭・やまと・大和」というように角田氏は挙げられていますが、「倭」の読みは「やまと」ではなく「ちくし」と古田先生はおっしゃっています。小さいころから「倭=やまと」で摺り込まれた我々の頭には、受け入れるに厳しいかと思いますが、「倭=チクシ」で今回のヤマト論も見直されたら別の展望が見えてくるのではないでしょうか。

なお「邪馬壹国」は、晋が滅亡したのち国名を「邪馬台国=ヤマト国」に変えた、とされるのも果たしてそう言えるのでしょうか。『後漢書』にある「その大倭王は邪馬臺国に居す」については、当時の国(三十許の国を統轄する)の名は「大倭」でありその大倭王の宮殿のあるところが「邪馬臺国」という理解が正しいと思うのですが。

ともかく小説としては面白く読めますし、壱岐の人たちにとってはわが国の源流は壱岐にあり、ということでご当地物として人気もあるであろうと推察します。しかし、「史論」として上げられるのであれば、“なかった”「邪馬台国」にこだわられず、観念上の現在の立論に具体的な根拠・考察を付けられる必要があると思います。  以上

なお昨年の11月20日にブログ「棟上寅七の古代史本批評」に簡単な感想を述べていることを付記します。 http://ameblo.jp/torashichi/day-20121120.html




③角田氏の反論

壱岐の「海都」を視点にすると「ヤマト」名の起源は九州 
 会報150号


はじめに

約二千年前、日本の先進地はどこだったのか。近畿・奈良か。否。答は大陸文明に最も近い対馬・壱岐である。今の常識に捕らわれて、あんな小さい離島が文明の先進地のはずがないと思う人も多い。だが、これは真実である。

弥生の日本では先進文明は、西の大陸・朝鮮から対馬・壱岐ルートで入ってきた。だから古代に真っ先に大陸文明を入手できたのは対馬・壱岐の海人達である。大陸からの鉄武器や鉄農具、鉄工具、銅鏡、機織具、ガラスなど当然のことに、まず対馬・壱岐人自身が身につけたといえる。そして次に九州に広まったのである。おそらく海人は豊富な海産物や塩、真珠、そして生口等と交換して鉄を入手したのであろう。その結果、鉄農具や鉄漁具のおかげで特に長崎県最大の平野のある壱岐の一大国は米国生産や漁獲が増え、強大化した。

弥生期に大陸交易ルートを安定的に往復できたのは対馬海峡の距離や島々の地形、港湾、泉や井戸の位置、潮流の速さや向きの変化、潮目、風向き、暗礁などを把握している壱岐・対馬の航海のプロだけである。何より彼らの航海技術がなければ海峡を挟んでの渡海・交易はきわめて困難である。これは、一九七五年、手漕ぎ船「野性号」の渡海実験の失敗が示している。

以上を前提に本論を述べたい。尚、文中、壱=壹、台=臺とする。


「ヤマト」王権の誕生は九州

壱岐は、やがて人口が増大して「田を耕せども、なお食するに足らず」状態となり、これを解決するため福岡平野のある山国九州に、壱岐の軍団、一大率を進攻させ版図を広げ、高祖山麓に王都を建てた。これが古田武彦先生の発見された天孫降臨神話の真実である。

従って文明化し鉄武器で優位に立ち、倭、ヤマト王権が誕生する客観的条件があるのは、鉄器出土の圧倒的な九州となる。弥生期の鉄器出土の全く貧弱な近畿・奈良に倭王権発生の条件はない。せいぜい地方の小豪族程度であろう。


「海の王都・海都」は発掘調査による客観的な結論

平成八年、辻の腹遺跡近くの低地から巨大な遺構「船着場跡」が発見された。これは弥生史研究上きわめて画期的・経学的な発見となった。なぜなら築造に敷粗朶工法というハイレベル技術を用いた日本最古、弥生時代中期前半の遺構発見だったからである。(原の辻遺跡調査指導委員会による)

この成果から原の辻遺跡は海を介して人・物・情報の集まる「港市国家」と呼ぶべき国際的な交流・交易拠点であったとされ、国特別史跡に指定された。これを受け、原の辻遺跡は大陸交易ルート上の「海の王都」「海都」として全国に紹介されたのである。従って「海の王都・海都」は、私が頭の中で観念的に思いついたものでなく考古学者達が発掘成果を検討し、原の辻遺跡の特徴について客観的に得た結論である。

海都を有する一大国が強大化し、山国九州に進攻して、そこに新都を建設した結果、壱岐の海人達は、海都との対比から新都を山の都=「山都」と呼びはじめ、「やまと」が長い間に次第に定着して行ったのは当然といえる。なぜなら邪馬壱国は「海の壱国」である壱岐が山国九州に版図を拡げ、山国九州側に拡大した壱岐の領地を「山の壱国」=「邪馬壱国」と海人達が呼び始めて通称化し、やがて定着化したと考えられるからである。

「やまと」名も、これと同様に考えられる。つまりこれは王が命名したのでなく海人達の間で自然発生し永い間に定着した通称であろう。だから古記録に記載がないのだと思う。それで「やまと」の起源は永い間解けない謎だった。しかし今、古田史学・多元史観に立脚し論理力を駆使してこの謎を解明できたといえるだろう。


邪馬壱国名は何故史書から消えたのか

倭人伝には倭国・女王国・倭など何度も出てくるが、邪馬壱国はたった一度しか出てこない。倭国名が有りながら、なぜ、倭人伝は山国九州側の壱国の版図を示す邪馬壱国名を一度だけ記したのか。そして邪馬壱国名は魏滅亡後、史書から消滅状態になるのはなぜか。

これを解くカギは古田先生の「壱」の研究にある。つまり倭人伝には「邪馬壱国」「壱与」「壱拝」とあるが、これを調査した先生は、この「壱」には魏への特別な思い入れがあると分析された。三国時代に魏が味方の寝返りで度々苦しめられ、魏では二心を抱くことが最も嫌われ『一心・誠』が尊ばれた。そのため魏では「一心」を想わす「壱」の字を喜ぶ風潮が生まれた。これを察知した倭王は皇帝を喜ばすため邪馬壱国名を魏への上奏に意識的に使ったというのである。

先生のこの研究から邪馬壱国名には、魏に忠誠を尽くすという意味が込められており、魏が滅亡してしまえば次の晋朝や宋朝に対して使えなくなることは儒教規範からして当然といえる。したがって邪馬壱国名は魏滅亡と共にその役割を終えたのである。もちろん魏以前の後漢にも使えない。それで後漢書や梁書などには邪馬台国と変えて記されたと考えられる。

まとめてみると、壱の字を含み「魏への忠誠の心」を込めた「邪馬壱国」名は、魏滅亡後にその役割を終え使われなくなったのである。これは邪馬壱国が滅びたわけでないことは言うまでもない。しかし、陳寿は、魏の天子に捧げた倭の女王の忠誠心を永く記念するため「邪馬壱国」名を一筆、倭人伝に挿入したといえる。


都(と・ト)の読みはあったか

「三世紀の倭人伝に「伊都国に至る。・・・世々王あるも・・・」とあり、王の居するところを・・・都としていたので、あったといえる。「やまと」の呼び方が次第に定着したのも三世紀末から四世紀頃とみられるのでそのころ有ったといえる。


九州の筑紫(ちくし)

この名称は、倭王が中国の冊封体制から脱し天子を名乗った六世紀以降に造られたのであろう。天下を九つの州に分け、天子の都の置かれた中央部につけた名称が筑紫であろう。その証拠に天子の色である紫が使われている。「ちくし」の最古の」記録は七世紀前半『隋書』倭国伝の「竹斯」である。


倭(ワ・ヰ・やまと)の音と訓

平凡社の大百科事典に拠れば、「やまと」は古代の我国の王都の地、奈良の地名とされてきた。さらに全国統一後はミズホノクニなどの美称がありながら「やまと」が日本を代表する名称となった。

中国が日本を漢字で倭と記すようになると「やまと」を倭と表記するようになったが、漢字表記は倭だけでなく、誤りなく日本語の音を顕すため夜麻登、也麻等、夜末等、夜万登などと万葉仮名でも記された。その後、漢字表記は「倭」から「大和」に改められたとある。

九州王朝説では倭(ヤマト)の起源は「九州・筑紫」なので倭は「つくし」も意味すると云えよう。


終わりに

日本の古代史学者、青木一雄氏は次のように書いている。

「古来、山路を踏み歩いた跡、クニノマホロバ、つまり国の中の盆地、どこからきても門のような峠を越えなければならぬから山門などさまざまに説明されたがいずれも従いがたい。賀茂真淵、本居宣長などが唱えて有名になった大和説も七・八世紀頃のヤマトの音が、門や戸の音と区別されて発音されていた事実が分かった今日では成立たない」(平凡社大百科より)

このようにヤマトの語源は定まっていない。最近では、中東、イスラエルなどからの外来語説も浮上し、更に混迷している。

ヤマトの元々の意味は、漢字の権威、白川静氏によれば、「山のあるところ」であるという。するとヤマトは全国至る所にあることになってしまう。それではありふれており、なぜ、古代日本の中心地、首都名が「やまと」となったのか説明が付かない。このように現代も「ヤマト・大和」の起源は、学会でも解けてない状況にある。

私が、この問題を解くヒントを感じはじめたのは、拙著「邪馬台国五文字の謎」執筆の前後に、のべ八日間にわたって壱岐を訪問した頃であった。しかし、邪馬台国九州説で倭(ヤマト)の起源は九州になるので特に論文化しないでいた。

ところが最近、私は、幾つかの邪馬台国九州説に眼を通すとヤマト王権のヤマト名の起源は奈良であるという論調の多さに驚き、九州説の危機を感じた。このままでは、九州説は、邪馬台国近畿奈良説に呑み込まれてしまうのではないかと。それで長年私の抱いていた壱岐の海都を視点とした「ヤマト」名起源説を論文化し、諸処で発表した所、以外にも九州の会員の方より疑問が出された。

だが、拙稿に疑問の形にせよこのように注目頂いたのは大変有難いと考える。是非、多くの方がこの問題に関心を寄せ、拙論をたたき台に、議論が深まることを期待したい。尚、参考のため、できれば現地、長崎県壱岐市の「一支国博物館」を一度訪問されることをお勧めしたい。論議の結果、学会でも解けないこの問題で成果があがれば幸甚である。
(邪馬台国五文字の謎、著者  日本ペンクラブ会員)

④当方からの再質問

角田彰男氏の「やまとの起源」について再びの疑問
     会報151号 

小生が角田氏の“「ヤマト・倭・やまと・大和」の起源を解く”(会報148号)について問題にしたのは次のような点でした。

まず、「邪馬壹国」は山の壱国であること。壱岐の都が「海都」であって、福岡方面に進出して、「山都」になった、とされます。その立論の起点、「海都」の読みや地名についての考察も無く、角田氏の観念上の産物ではないか、ということでした。

第二点として「倭」の読みについて「ちくし」という読みについての意見がない、ということでした。

第三点は、晋が滅亡して、魏に二心ない国「壹国」と付けた意味がなくなり「邪馬台(ヤマト)国」に変えた、とされるが、『後漢書』の邪馬臺国の意味について疑義があることをのべました。

今回角田氏から会報150号に“壱岐の「海都」を視点にすると「ヤマト」名の起源は九州”と小生の疑問に答える、と云う形で意見を述べられています。有難く拝読しましたが、依然疑問は解けません。以下これらの疑問点について述べます。

まず、「海都」について、角田氏が観念的に思いついたものでない、発掘調査による客観的な結論 と概略次のように述べられます。

【平成八年、原の辻遺跡で巨大な船着場遺構が発見され、国際的な交流・交易拠点「都市国家」であったということで国特別史跡に指定された。これを受け、原の辻遺跡は大陸交易ルート上の「海の王都」「海都」として全国に紹介された。従って「海の王都・海都」は、私が頭の中で観念的に思いついたものではなく考古学者たちが発掘成果を検討し原の辻遺跡の特徴について客観的に得た結論である】

この論理の進め方は、文章にはなっていても文意は通らないのではないか、と失礼ながら思ってしまいます。二〇世紀末に考古学者などがこの遺跡の表現に使った「海の王都・海都」を紀元前と思われる天孫降臨時期以前に同様に用いられていた、とはとても思えないのです。

確かに、壱岐が邪馬壹国の原点であることは間違いないと思うし、海辺の都であったのも間違いないでしょう。しかし、「海辺の都」という認識があったとしても、「海都」という言葉があった、というのは飛躍に過ぎるでしょう。そこで止まるならまだしも、そこから「山の都」から「ヤマト」へと推論を重ねるのは無理があると思います。

第二点の筑紫の読みに関連しては次のように述べられます。

倭の音と訓については、平凡社大百科の説明を引かれて、「倭は大和」と説明されます。

そして付け加える形で、【九州王朝説では倭(ヤマト)の起源は「九州・筑紫」なので倭は「つくし」も意味すると言えよう】と。

角田氏は「九州の筑紫(ちくし)」の小見出しのところで、【6世紀以降に造られ、「ちくし」の最古の記録は隋書倭国伝の「竹斯」である】とも言われます。

「倭=大和」は従来の歴史家の考えの集約でしょうが、“倭(ヤマト)の起源は九州王朝説では「九州・筑紫」だ”、というところが分かりません。九州王朝説の理解が小生と角田氏とでは違っているように思われます。

「筑紫」という文字が残されているのは『古事記』や『日本書紀』などが編纂された後でありましょうが、今に伝わる祝詞の出だしの、「かけまくもかしこきイザナギの大神、筑紫の日向のタチバナの」云々の天照大神などを産む禊の場の「筑紫」という言葉が6世紀までなかった、というのは私の理性として受け入れられません。

古田先生が仰っていることを正否判断基準にするつもりはありませんが、倭の訓(よ)みとしては「ちくし」であったのではないか、という古田先生の説はどうなるのでしょうか。

前回小生はこの点についても提起していますが、漢字の「訓(よ)」みについて考えさせられる古田武彦説であることは間違いないと思います。『まぼろしの祝詞誕生』で「『倭』という文字が史料にあるとき、それが『チクシ』を指すか、『ヤマト』を指すか、それを前後の文脈から判定せねばならぬ」(同書p33~34)と、古田先生はまっとうな事を述べておられると思います。

第三点の「邪馬台(ヤマト)国」については、まず「臺」が「ト」と読めるか、という点をどうクリアーされたのか、藤堂明保『漢和大字典』に依ったという説明なのか根拠を示して頂きたいものです。『邪馬一国への道標』古田武彦のp252~253に、「臺はトと読めないのに乙類のトに分類されているのはなぜ」、という古田先生の問いに対しての藤堂さんの弁明が詳しく出ています。角田氏がお読みになっていらっしゃらないのでしたらご一読されることをお奨めします。

ところで、タイトルの“壱岐の「海都」を視点にすると「ヤマト」名の起源は九州”という言葉自体には、「なるほど」と思わせますが、基本的に“「海都」”を視点にヤマトを論ずることができない小生です。これ以上の討論は生産的にならないと思います。あとは読者諸氏の御判断にお任せします。

上げ足取りになってもと思いますが、『隋書』倭国伝と書かれていて“俀国伝”でないところも気になりました。    以上   2013年5月29日


その他の問題点

以上で論争は終わりにしています。最初のブログでの感想のように、「物語」ということであれば、眼をつぶるのはやぶさかではありませんが、この本を「論文」というように角田さんが言われるとなると、『邪馬台国五文字の謎』および会報の論文には、小生が思う古田史学の立場からは、数多くの問題点が見受けられます。

小生が疑問点で会報の角田氏へ反論に上げたこと以外で、一応メモ的に羅列しておきます。

01) 倭人伝の紹介で「通説に従う」と「奴」を「ナ」と読まれていること。

02) 日数・里数を使わずに推理する。

03) 魏使は当然魏船でやってきた、といわれること。

04) 「委」を「ヰ」でなく「イ」で話を始めるところ。

05) 「委」=「イ」から、イジン=壱岐の人 とされること

06) 九州福岡を壱岐との対比で「山国」とされる。しかし、壱岐との対比だったらむしろ「野の国」ではないか。壱岐の平野は長崎県最大の平野と強調しているが、壱岐三千許家の人口を食させるだけの収穫がなかった、と倭人伝に記し
てある。著者は、だから、福岡に進攻(天孫降臨)したと言うが、時系列的におかしい。

07) 天孫降臨を単に一回だけの海人族の進攻という理解のようだ。

08) 西嶋定生氏の『伊都国を掘る』を引用しているのに「参考文献」に上げていない。

09) 魏から晋に代わり「壱」が使えなくなった。壱与も台与になった、というように書いている。

10) 1里は約50㍍で、伊都まで12000里としていること。

11) 委の奴国 と読ませていること。

12) ヤマトの起源説に、山の入口・戸 説がないこと。

13) 倭=チクシ は単に意味だけでなく訓(よみ)、と古田先生はいわれているのだが。

14) 「ヤマト」は倭国や日本を象徴する名称となった、いうのは新旧『唐書』の「倭国・日本」についての記事をみてもおかしい。

15) 蛇足ですが、古田会の論稿に、著者が「日本ペンクラブ会員」などという肩書を付けるのは如何なものか。

基本的に、考古学者が「海都」という表現を使っているのだ、自分の観念上で造り上げたのではない、というところが彼我の意見の分かれるところでしょう。小生が理解している古田史学とは、随分と異なる論理展開の様に思われる、というのが当方の感想でした。  

(この項おわり)

トップページに戻る 

著作者リストに戻る