槍玉その35 『日本史の誕生』  岡田英弘 ちくま文庫 2008年刊  批評文責 棟上寅七

著者はウイキペデイアや、本の裏表紙の紹介によると次のような方です。

岡田 英弘(おかだ ひでひろ)1931年生まれ 東京大学文学部卒。学術上の専攻は中国史、満洲史、モンゴル史。1957年「満文老」の研究で日本学士院賞受賞。さらに中国史、古代日本史、韓国史など幅広い分野についても精力的に研究、発言し、多くの著作を著している。東京外国語大学名誉教授。東洋文庫専任研究員。他に著書は・・・と、Amazonで見てみましたら、モンゴル・旧満州・中国史関係など30冊以上の著作が出ていました。


この本は?

岡田英弘 日本史の誕生
この「日本史の誕生」は、2008年に出ましたが、書き下ろしではなく、いろいろな雑誌などに出された文章を一冊にまとめられています。中身は、1970年代に出されたものを見直して1冊の文庫本にまとめられたそうです。初出は随分前のものが多いようですが、すべて見直し書きなおした、とおっしゃっています。

せめて目次を紹介して、読者のみなさんへ岡田先生の主張をお伝えしようと思いました。しかし、寄せ集め本という欠陥でしょう、何度も同じような話が繰り返えされます

目次の紹介だけでは、なかなか理解できないだろうと思いますので、簡単に先生の基本的な考え方(と思われるものを)をご紹介して、あとは、本の中でこれは問題があるのではないかという部分を取り上げて、具体的な話を進めた方が分かりやすいかと思います。(目次は参考として巻末に記載します)

この本で、岡田英弘さんが主張している特長的な部分は、次のところのようです。

序章(世界史の一部としての日本史・考古学民俗学は歴史学の代用にならない)

および、第5章(倭から日本へ・建国以前のアジア情勢・信用できない『日本書紀』・中国史の一部分だった日本列島・中国商人の貿易の仕方・中国の戦乱と倭国) 

と、第8章(奴国から卑弥呼まで・河内/播磨/越前王朝・七世紀後半日本誕生す)でしょう。

又、中国自体の文明文化史的な発展についての見解について多くのページを費やされていますし、日本人論・日本語成立論などについても、かなり特異な説を展開されています。


岡田史観

当研究会が捉える事が出来た(と思う)岡田先生の底に流れている考え方は次のようなことのようです。

歴史というものは記録されていて初めて歴史といえる。考古学・民俗学は歴史学の代用にはならない。

日本国という国が成立して初めて日本の歴史がある。

歴史書は全てその時の政権者のために編集される。

中国の史書も誤りが多い。『魏志』倭人伝もいい加減である。(したがって邪馬台国論議はあまり意味ないものとされます

古代の日本列島は中国世界の一部であった。

中国は南船北馬の国であり、倭国は南船の文明圏であった。

中国商人は内水路を使って各地に(日本列島も含め)橋頭保を築いた。

という感じで纏められています。


岡田さんの「歴史」の定義

岡田さんは、【歴史は書かれて始めて歴史といえる】 と、まず言われます。 まあ、著者の主張は自由ですから批判はしませんが、考古学者、民俗学者の側からは反発がある主張だと思われます。また、普通人にとっても、なかなかすんなりとは受け入れられない主張ではないかなあ、と思います。

この「日本史の誕生」という書名が、岡田さんの意図を示していると言っても良いのかもしれません。「日本という国の歴史が出来たいきさつ」を語ろうとされたいようです。

十三章 歴史の見方、という章の結びで次の様に仰います。【どこの国の歴史でも、うそでぬり固めた自己弁護に決まっている。(中略)668年以前の歴史は、日本史でも古代史でもない。『日本書紀』の枠組みを、それ以前の日本列島の歴史に適用するのは時代錯誤である】 つまり、『日本書紀』が語る688年(日本誕生の年)以前の話は、全て天武天皇に都合のよいように語られている、と主張されています。

しかし、天武期には、すでに『隋書』は手元にあったのは確実ですし、『宋書』その他の中国史書も当然編集者の手元にあったのです。(『晋書』の「倭の女王の朝貢」記事が『日本書紀』にあります。)ところが、『宋書』にある「倭の五王の華麗なる綬号記事」が何故『日本書紀』にないのか、『隋書』にある煬帝を怒らせた多利思北孤の記事が『日本書紀』に何故ないのか。

岡田さんが主張するように、天武天皇に都合が良いように『日本書紀』を創作編集したのであれば、これらの中国史書の、はれやかな授号記事を何故利用しなかったの、という疑問が当然起きるはずです。これについては岡田先生は沈黙されています。
ここのところ一つをとっても、岡田先生が数万言を使って主張されても、常識ある人々の共感は得られないのではないか、と思います。

また、こうもいわれます。【歴史というものは、文字で記録されて初めて歴史と言える。中国の歴史は、『史記』に始まり、その歴史書は時々の支配者の考えに合うように作られる。日本の歴史も『日本書紀』が編集されて初めて「日本の歴史」が始まった】という岡田先生の立場からすると、当然『古事記』は存在してはならないのでしょう。『古事記』は偽書である、とされます。(「古事記偽書説」については後述)

具体的にわが国のことが、始めて記事となって出てくる『三国志』の『魏志』倭人伝について、次のようにいわれます。

【卑弥呼の国、邪馬台国も『魏志』倭人伝に幻のように書かれて、その後、中国の史書にも『日本書紀』にも現れないから、存在したかどうかも危うい】、というように仰います。『魏志』倭人伝に描かれた邪馬壹国を、このような低レベルの評価をされる歴史家はあまり見かけないように思います。後に裵松之が詳細に調べて補注を付けている史書です。陳寿も裵松之もあきれかえることでしょう。

岡田先生は委奴国王の金印について、【中国系の商人が貿易拠点を日本各地に作り、そこの土着の酋長に金印などを与えて、権威を授けた】、と仰います。自虐史観というか、アメリカ開拓史的な発想というか、表現方法がいやしい、と感じてしまうのは、感じる方が悪いのでしょうか?

そして、【その一つが、大阪湾の難波津に河内王朝として力を付けてきた、『宋書』にある倭王の国】、という日本史観ということのようです。『宋書』の倭の五王を無条件に河内王朝なるものと結びつける、これが岡田英弘さんの日本古代史観のようです。

「歴史は書かれて始めて歴史である」、というご自身の説と、矛盾していることに気付かれていないのでしょうか。日本の史書にはどこにも、倭王讃・珍・済・興・武の一人として出てきていないではありませんか。

岡田さんは主張する、【歴史は「文字になった文献」があって初めて歴史と言える】などは、「九州王朝が存在したのならその文献を出してみろ」、と古田武彦さんに噛みついた、安本美典さんを思い出します。また、【夷蛮の国々は中国商人によって政治的に国と言えるようになった】というのは、槍玉その31田中史生さんの「越境の古代史」の底に流れる考えと同じで、縄文時代の日本列島の「歴史」を踏みにじるものではないでしょうか。


岡田先生の歴史文献の整合性の取り方

岡田英弘さんは、【仁徳天皇から始まる河内王朝は、『宋書』に倭の五王の記事と合うから実在。推古天皇~聖徳太子は、『隋書』のタリシヒコの記事と合わないから創作】と主張されます。

この岡田先生の判定基準がもし正しければ、倭の五王の記事が『日本書紀』と合わなければ、全て『日本書紀』は創作された、ということになります。そして、このことの論理的帰結は、中国の史書にある「倭国」は近畿王朝のことを言っているのではない、ということになるのですが、それでよろしいのですか岡田先生?

倭の五王についての『宋書』の記事自体は、『明史』日本伝のでたらめさ、を引用されていませんから、認めていらっしゃるようです。しかし、何度も言いますように、『日本書紀』の中に「倭の五王」は全く姿を見せないのです。岡田さんが主張する「倭人伝の中の邪馬台国はまぼろしのような国」という以上に、影も形もないのです。

『宋書』の倭の五王が、仁徳以下の日本書紀の天皇系図と合わない、ということになれば、岡田先生の説は雲霧消散する、ということを、ご本人は分かっていらっしゃるのか心配です。槍玉その3「倭の五王の謎」安本美典 で詳しく述べていますので、そちらを参照していただければと思います。

倭王武は雄略天皇に間違いないと仰います。しかしこれは、船田山古墳出土の鉄剣銘や、稲荷山出土の鉄剣銘を「ワカタケル」と無理やり読んで、「雄略天皇の幼名」と結びつけているに過ぎません。そして「ワカタケル」が「倭王武」だと、古来から近畿王朝が全日本列島を一元的に支配してきたと主張される方々の説に、岡田さんは無条件に従っているだけです。

無理にまぼろしを具象化するのではなく、『古事記』や『日本書紀』などに書かれてかれていない事は、近畿王朝の出来事ではなかったのだ、と素直に解釈すれば済むことです。

ではどこの出来事か、ということになるのですが、これは中国の史書に出てくる倭奴国以来の国々と思わざるをえないでしょう。


岡田先生は、『隋書』のタリシヒコの記事に言及されます。タリシヒコは明らかに男王であり、『日本書紀』によれば、そのときの天皇は推古天皇という女帝です。この『隋書』と『日本書紀』、この二書の記載記事の矛盾を解くための解決法として、岡田先生は、『日本書紀』はいい加減な書である、とされます。推古天皇・聖徳太子も創作されたとされます。

筑紫にも近畿にも出雲にも関東にも東北にも、それぞれの王国があった、とする多元史観に立てば、こんな無理な矛盾解決策を捻りださなくても良いのになあ、と思いました。


岡田先生の古事記偽書説


岡田先生は、『日本書紀』の記事は、中国の史書で説明可能なところはみとめるが、それ以外は創作、というお考えのようです。そのためには、『古事記』は歴史書として存在してはお困りになるようです。

以前寅七も古事記偽書説(槍玉その8 武蔵義弘『抹殺された倭王たち』)、古事記序文偽書説(槍玉その20三浦佑之『古事記講義』を取り上げています。

今回、岡田先生は、『古事記』が偽書であることについて、『倭国の時代』(ちくま文庫)に詳しく書いている、と書かれています。ということで、『倭国の時代』を読んでみる羽目になりました。
倭国の時代

隣国の『三国史記』が、後年の編集であることへの共通点を取り上げられていることぐらいが目新しいくらいで、偽書説を批判するいろいろな根拠についての、ご自身の論駁は避けていらっしゃるようです。つまり古事記偽書説の人々の論拠にそのまま乗っていて、ご自身独自の見解は見当たりませんでした。


岡田先生の邪馬台国論議

第三章「邪馬台国の位置」で述べられている邪馬台国論について

ご本人があまり気の乗らない風な書きっぷりで、瀬戸内海の関門寄りだろうとされます。

そこにした理由は、倭人伝の国の記述の順序  隋書にある竹斯国の次に出てくる秦国が邪馬台国の後裔の国であろう

岡田先生は、『後漢書』の邪馬台国は倭国の極南界にある、という記事からして、はるか南洋上にあるとされる、中国の史書の記述は信用ならない、とされます。

岡田先生は、日本国の成立のあたりのアジア情勢についてはいろいろ気になるようですが、3世紀のことはどうもどうでもよいような、と取れる記述が多いのが気になります。(まだ日本国でない時代の歴史は歴史ではない、と思われているのでしょう)

岡田先生が関門海峡近傍とされる論拠は上記くらいですので、論評も出来ません。

『魏志』倭人伝の21ヶ国の配列から邪馬台国の位置を推定するのは、宮崎康平さんの『まぼろしの邪馬台国』と同様な視点です。時系列的に見て、岡田英弘さんとどちらが先でであったかどうかの詮索は、あまり意味のないことでしょう。

ところでこの本に『魏志』倭人伝」全文が出ています。(p36~37)そこには「邪馬台国」ではなくて「邪馬壹国」とあります。所在地は「会稽東治之東」とあり、「会稽東冶之東」ではありません。卑弥呼の遣使も「景初二年六月」とあります。

しかし、この『日本史の誕生』で紹介されるのは、「邪馬壹国」ではなく「邪馬台国」であり、「会稽東治之東」でなく「会稽東冶之東」となっています。

これらの原文改定についてなんらの説明もありません。勝手に原文を改定されて、それによって説明されるのは如何なものでしょうか?


岡田先生の「中国の里単位」


岡田先生の経歴を見てみますと、東京大学文学部卒とあり立派な方のようです。中国東北地方の歴史を得意分野とされていて、学士院賞も受賞されている東京外国語大学名誉教授です。この方の『三国志』の解釈が独特なのです。なぜ、このような立派な学者が、と思われる点が多いのです。例えば、『三国志』の里は定説通りに、約450mとされます。だから、帯方郡から一万二千里のところに邪馬台国があるとすれば、はるか南洋に存在することになる、つまりいい加減だ、とされます。

倭人伝の中の韓伝で方4000里としてあるのを、邪馬台国を1万2千里のかなたに持っていくためにわざと間違えた、とされます。

【中国の一里はどの時代も300歩約450メートルときまっている】(p58)とされます。

これも中国史専門家らしからぬ乱暴な意見でしょう。周の時代の短里の議論には入りたくなかったので、避けていらっしゃるのでしょうが、唐の時代でも360歩が1里、現代では約500メートルが1公里と、時代によって長さは変っているのではありませんか。

しかし、邪馬台国論議の中に、「周の里」という1里が76メートル程度の「短い里」が使われていたのではないか、ということを古田武彦さんはじめ数学者の中からも研究成果が発表されています。

岡田先生もそれをご存じない筈はありません。もし、まっとうな学者であられたら、この本の中に、【周朝の里など幻影にすぎぬ云々】などと、言及すべきではないと思います。


岡田先生の陳寿の三国志はいい加減説


岡田先生は、『三国志・魏志』倭人伝の記述は正確でない、と例を上げながら力説されます。しかし、一度でも古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』、を読まれた読者には全く通じない論理なのです。

倭人伝の「里」がいかにおかしいか、という例として、明帝紀の公孫淵討伐作戦の記事を上げられます。明帝が「4000里」の討伐、と言っているのは、洛陽から遼陽までの距離で現在の鉄道のマイルでみても正確、と言われます。そして、唐代の編集の『晋書』にある、北京から馬韓までの距離4000余里も正確であり、また、『後漢書』に楽浪郡は洛陽の東北5000里とあり、これも正確な距離である、とされます。

そして、陳寿が韓半島を4000里四方と約4倍に誇張しているのは、政治的な作為で倭人伝はいい加減とされます。古田武彦さんが、まず、明帝が「4000里」の討伐、と言っているのは、公孫淵討伐作戦の討伐範囲と主張されています。この中国文の読み方の当否について云々は寅七には出来ません。

しかし、魏・晋朝は周の古制に復し、いわゆる漢の長里の六分の一の短里を使っていた、と古田さんは主張され、その根拠も述べられ、理性ある人は納得できるものです。岡田先生は、古田さんの主張を巧妙にすり抜け得る、と思われる例を集めて、例示されています。

古代の歴史書には詳しい岡田先生だそうですから、古田説を論駁していただきたいものです。たとえば、周時代に出来たとされる『周髀算経』という書物についてのお考えを示していただき、中国の里の長さはおっしゃるような長さなのかどうか、改めてのご意見を伺いたいものです。

『魏志』倭人伝の評価については、次のように述べられています。【明史の日本伝の木下藤吉郎の記事を見てみるがいい、とてもいい加減なものだ、だからそれより千年以上前の『魏志』倭人伝などはいい加減なものだ】、と決めつけられます。

『魏志』倭人伝はそのままで現在に伝えられているのではありません、魏が滅びてず~っと下って宋の時代に斐松之の詳しい注釈が付いてそれで歴史上有数の歴史書という評価を得ているのです。

吉川忠夫さんという方が、ちくま学芸文庫の『正史三国志』の解説で次の様に述べていますが正論だと思います。

【斐松之は「三国志注を奉る表」のなかで、陳寿の本文が簡略にすぎるため、自分は旧聞、遺逸の博捜につとめたと述べたうえ、注釈の基本的態度を次のように整理している。(一)陳寿の遺漏を補うこと、(二)ひとつのことがらについて複数の記録が存在する場合は、それらをすべて列挙して異聞をそなえること、(三)誤りを正すこと、(四)いささかの論評を加えること】、と述べていて、それに対して基本的な間違いを指摘した学者は今まで皆無のようです。

岡田先生の様に、『三国志』そのものの中身を批判するのでなく、遥か後世の歴史書がいい加減であったからといって、中国の歴史書は全ていい加減な歴史書、という扱いをされたのでは、著者の陳寿も注釈者の斐松之も浮かばれないでしょう。


岡田先生の倭国=華僑国家論

岡田先生は、中国の古代国家は、黄河の渡河点の都市国家から発展したと説かれます。(p39)18世紀以降の華僑の進出をみても、古代においてと同様であったろうとされます。しかし18世紀以降の華僑の進出は、政治的に治まった地域への進出であり、華僑の進出によって政治地図が塗り替えられたことはないのではないかと思います。これは華僑だけでなく印僑の場合も同じだと思います。吉野ヶ里遺跡の首なし甕棺遺体の例からわかりますように、弥生初期でも平和な世界でなかったことを示していると思います。

岡田先生は華僑が倭国の国を開いた、と言われます。倭国の国は商業都市であったそうです。第五章日本建国前のアジア情勢 紀元前二十年の倭人諸国 で次のように述べられます。「要するに、倭人の諸国とは、港や船着き場を中心に発達した、チャイナ・タウンの市場をとりまく集落で、そこに倭人の酋長がいるという性質のものだと思う。」

しかし、倭人伝に卑弥呼の宮殿の描写として、「宮室、楼観、城柵、厳かに設け、常に人有りて兵器を持ちて守衛す」とあります。佐賀県の吉野ヶ里でそれにそっくりの遺跡が出てきて、一時ここが邪馬台国と騒がれました。おまけに甕棺から首のない被葬者まで出てきて、厳しい当時の状況を彷彿とさせました。ちょっと古代史を興味を持たれた方には、岡田先生の話の展開にはついていけないのではないかと思います。

仮に商人の集団が倭国に来航しても、かなり戦闘能力を持った集団でなければならなかったでしょう。徐福でも3000人の大集団で渡航した、といわれています。それでも何故、このような説を大真面目に主張されるのか、そこを理解するのに苦労します。


岡田先生の中国商人の韓半島から倭国への行路論

「倭人とシルクロード」という章で、シルクロードの韓国内の経路が説明されます。(p124~125)【平壌から大阪までは、ほとんど舟だけですらすらといける】(原文通り)とあります。『三国志』には、韓国を歴るに乍東乍南して云々、とありますが、半島の西海岸は潮汐の干満の差が大きく、行路には適していないとされます。

ちょっと長いのですが、岡田さんの論理の進め方の例示として書き写してみます。

【平壌から大同江を下り、支流の載寧江を南へ上がって、さらに支流の瑞興江を東へ上がる。車嶺で滅悪山脈を越えると、礼成江に出る。礼成江を下り、江華湾に出て、すぐ江華湾を右に見て漢江口に入る。ソウルを左、広州の町を右に見て、南へ南へと漢江を上がっていくと、忠州の町につく。忠州から鳥嶺で小白山脈を越えて聞慶の町に出る。聞慶からは洛東江の流れを下って、釜山で海峡に出ると、対馬島が見える】

すら~っと読んでいくと、何となくふーんそうなんだ、と納得させられてしまいそうな筆致です。この経路の中に、朝鮮半島の背骨を貫通する山脈を二回、車嶺と鳥嶺で山越えをしなければならないのです。インクラインのような施設が作られたような伝説も伝わっていませんし、とても舟を担いで山越え出来る幹線道路とは思われません。

槍玉その26で宮崎康平さんの『まぼろしの邪馬台国』批判をしました。宮崎さんが邪馬台国から南への水路を捻出するために、御笠川の上流と宝満川の上流とが人工水路で繋がっていた、という仮説を提示されました。今回の岡田さんの筆法は「仮説の提示」でなく「事実」とされて進められますので、宮崎康平さんより悪質ではないかなあ、と思います。無理やりの山越えの水路よりも、干満の差を時間調整して沿岸航路を取った、か、陸路を取ったと考える方が合理的な推論ではないでしょうか。


岡田先生の日本語の成立論について

「日本語は人造語だ」 という項目を立てられて、(p311~327) 7世紀の日本国の成立と20世紀のマレーシア国の成立とを重ねて、日本語は人工的に造られた、と主張されます。

岡田先生の「日本語」という定義は、「日本国が出来て初めて日本語ができた」という意味での日本語ということのようです。「当時の倭人には全日本列島に等しく理解される倭語の方言もなかっただろう。そうした方言は商業活動に伴って普及するものだが、倭人は決して大商業種族ではなかったからである。」(p317)

この前提は、なかなか理性ある方々には受け入れられないのではないでしょうか。なぜなら、地域定着型の農業民族には適合出来るかも知れませんが、大規模に移動する狩猟民族にとって共通方言は成立しない、ということにもなるわけですから。

それよりも一般には征服被征服で言語が変化していく、という面の方が強いと思うのですが、岡田先生のいう商業活動には戦闘行為を含むような表現は全くありません。

岡田先生の論法には、日本建国と日本語の成立を無理して結び付けている感じもします。天武紀以降に日本語を人工的に造られた、という主張も、『日本書紀』以前に日本語(倭語?)で書かれた書物があったことをどう説明するのでしょうか。

乙巳の変で『国記』・『天皇記』が焼失したこと、『日本旧紀』によればとか一書に曰く、という引用があること、『万葉集』にも「古集に見ゆ」などの記述もあります。これらについての岡田先生の解釈は示されていないのは、自説に合わないので逃げていると思わざるを得ません。



結論として

いろいろなところで発表された文章をまとめられた本なのですが、なかなか読み難い本でした。岡田先生はこの本で何を言いたいのだろうか、と思いながら読んでいったわけです。まあ、自分の古代史の見解はこうなんだ、ということを言いたいのだろうと思います。つまり、日本の古代国家の成り立ちに、中国の商業民の影響が大きかった、ということを仰りたいようです。秦始皇帝時代に東に向かって船出した、徐福伝説の変形のようにも見えます。

鬼面で人を驚かす、ということわざがありますが、特異な説を立てて誇ってみたいというところから、常識はずれな論議の開陳となったのでしょう。古代史趣味のインテリさんの一部の人には受けるのかもしれませんが、まともに歴史を勉強をしようという人に対しては何も役に立たない本ではないかと思われます。

自分の仮説に合わない史料文献はすべていい加減とし、我田引水的な史料の取捨選択をされます。それで、補えないところは、例えば、「朝鮮半島横断内水路の仮説」などを立てられます。皮を剥いていけば幽霊の正体見たり枯れ尾花、ということのようです。

岡田英弘先生の『日本の誕生』にしろ『倭国の時代』にしろ、寅七のホームページの立場、「古田武彦勝手連応援団」として取り上げる価値があるのかなあ、と真剣に考えさせられました。それほど論拠がいい加減すぎると思われる本でした。


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(補遺)

岡田先生は、歴史の見方について、という一章で、中国と日本との国交について、次のように書かれています。(p341)【(前略)結局日本と、中国を支配する政権との間の国交の最初は、1871年の日清修好条規だったということになる。日本の建国から1200年もたっている。ただし、この日清修好条規の相手国は中国でなく、満州人の支配下の植民地の一つにすぎなかった。だから、日清戦争は、日本と中国の間の戦争でなく、日本と満州人の清との間の戦争であり、日清戦争の結果、日本が領有した台湾は、中国から割譲を受けたのではなく、満州人の清から割譲されたのである。】

どうもこの論理の展開には、ついていけないものを感じます。「だとすれば、何を仰りたいのですか?」ということに対しての答えは見えません。満州国建国の正当性に行きつくのかなあ、という一種の不安感が生じました。


(参考)
「日本古代史の謎」目次(とその概要)

序章   日本の歴史をどう見るか  (世界史の一部としての日本史・考古学民俗学は歴史学の代用にならない)
第一部 倭国は中国世界の一部だった
第1章 邪馬台国は中国の一部だった  (倭人伝の詠み方・特異な中国人の歴史観・中国史書のでたらめぶり・中略・日本の建国者は華僑)
第2章
第3章 邪馬台国の位置  (前略・邪馬台国は華僑の大聚落・邪馬台国は関門海峡の近く)
第4章 倭人とシルクロード  (中国の交通路・中国の成立・韓半島から日本列島にいたる貿易ルート・後略)
第5章 日本建国前のアジア情勢  (倭から日本へ・建国以前のアジア情勢・信用できない日本書紀・中国史の一部分だった日本列島・中国商人の貿易の仕方・中国の戦乱と倭国)
第6章 中国側から見た遣唐使
第7章 「魏志東夷伝」の世界 

第二部 日本は外圧のもとに成立した
第8章 日本誕生  (奴国から卑弥呼まで・河内/播磨/越前王朝・七世紀後半日本誕生す)
第9章 神託が作った大和朝廷  (伝説時代の天皇をたどる・実在でない天皇の正体・神武以来十六代は七世紀の投影
第10章 新しい神話騎馬民族説
第11・12章 日本語は人造語だ  (国語は人工的なのが歴史の法則・七世紀の共通語は中国語百済方言・万葉集に見る国語開発・後略)
第13章 歴史の見方について  (歴史はものの見方の体系・地中海型と中国型の歴史・日本型の歴史は反中国・国史から世界史へ)