槍玉その60 『倭人とはなにか』張莉・出野正 に見える倭人伝解釈について   文責 棟上寅七

 はじめに

 今回取り上げるこの本は、張莉氏とその夫君 出野正氏の共著という形になっています。張莉さんは中国から日本に留学されて来て、現在大坂教育大学の准教授をされています(本名:出野文莉)。同支社大学准教授の時、2013年に「立命館白川静記念東洋文字文化賞を受賞されています。「同応用文字文化研究所紀要」に『「倭」「倭人」について、という論文に古田武彦師の諸著作を参照されその基本的な研究を評価されています。

倭人とはなにか 出野正さんは、高知大学文理学部卒で筆記具の㈱呉竹勤務~書道文化研究所~漢字学研究に勤しむ(古田史学の会会員)、というご経歴です。

 この『倭人とはなにか』には、倭人の源流かと思われる雲南省の「ビルマ族自治区」の西双版納〈シーサンパンナ〉調査旅行報告、倭人南アジア源流説、日本人や日本語の源流研究や、近年の日本語の形成の流れが報告されています。

しかし、この本の中心的な問題提起は「倭」と「倭人」はその概念が違う、「倭」は朝鮮半島の倭であり、「倭人」は日本列島の倭人国、というところにあると思われます。それによって析出される『魏志』東夷伝倭人条の解釈を呈示している本と言えるでしょう。

 結果として、古田武彦説とは全く違う倭人伝の行路記事解釈を呈示されているのです。今回、行路記事に絞って著者の呈示するところを検討した結果を報告します。また、この問題について、著者出野正さんから数度メールをいただきました。できる範囲でご披露したいと思っています。



(I)著者の大前提「倭」と「倭人」の書き分けについて

著者は中国及び朝鮮の史書の「倭」に関する記述を渉猟し、『魏志』にある「倭」と「倭人」は書き分けられている、「倭」は朝鮮半島に存在した倭であり、「倭人」は日本列島に存在した倭人国である、と主張しています。

 まとめとして『魏志』の倭と倭人の書き分けを次のよう言っています。【魏志』倭人伝には複合名詞として「倭国」「倭地」「倭水人」「倭女王」「倭王」「倭大夫」という語が出てくるが、例えば、この中の「倭国」は「倭」は漢字から見て同じだということにはならない。これらの中の熟語の「倭」は朝鮮半島における単独名称の「倭」とは意味を異にする。漢文は実に難解だが、緻密性があるともいえる。倭人伝に「倭人在帯方郡東南大海之中・・・」とあるが、この「倭人」は国名を表している。一つの漢字は基本義と拡張義があるので、そのことには十分注意を払うべきだ。熟語そのままの形で『魏志』の中でどのような概念として使われているかを問うのが正確な把握なのだ】と。

ここで著者は、倭人=倭人の国としていますが、倭人伝全体を通して見える「倭人」とは、広義には、今、使訳が通じるところは三十国だが漢の時には百余国といっている「倭種の国々の人」だと思います。そのように「倭人=倭人の国」と規定しないと、著者たちの主張がはっきりしないから、とは思うのですが、ちょっと狭義に絞りすぎのように思われます。

著者の根拠に、中国の史書に見える「倭」「倭人」「倭国」の記事や、『三国史記』の「倭兵」・「倭人」の書き分けで、「倭兵」は半島の倭、「倭人」は「列島の倭」とします。しかし、『三国史記』には、単独語の「倭」が見えないことについては、まさか知らないことはないと思いますが、ひょっとしたら気付かなかったのかも知れませんが、この肝心のことについて著者は説明していないのは何故でしょうか。

著者は、【『三国史記』『三国遺事』は、韓国では比較的正確な史料として位置付けられ、若干問題がある点もあると思うが、全体としては朝鮮半島の「倭」「倭国」と日本列島の「倭人」が矛盾なく使い分けられていることが大事なのだ。そして金石文「好太王碑文」にも同様使い分られていることを本論で実証した】と言う。

しかし、著者も書いていますが「好太王碑文」には「倭人」「倭兵」以外にも「安羅人戍兵」という語が刻まれているのです。
 著者は、【朝鮮半島の倭の一部の「安羅」の兵であろう】、とするがその論拠については何も述べない。何か「先に結論ありき」の論述に感じられる。その傾向は、『後漢書』における「倭国」についての検討でも見える。『後漢書』には「半島の倭」についての「倭」はなく、すべて「倭国」となっている。著者は【『後漢書』の「倭国」だが、明らかに朝鮮の「倭」と日本列島の主たる勢力である「倭」を区別せずに書いているわけだから、通常の歴史文献の中では常軌を逸したものと言える】と書きます。

『後漢書』の成立は432年です。『魏志』とは若干発表年次は遅れますが、同じ時期の東夷の状況を記しているのです。そこには「倭」と「倭人」とが書き分けられていないことを「常軌を逸している」と一蹴してよいのでしょうか。

『魏志』の当時の洛陽の読者は、東夷伝を読み進み、馬韓あたりで「倭」が出て来て、そのあとに「倭人」の条が述べられるのです。「半島の倭」と「列島の倭人」という認識が、陳寿や後世の注釈者裴松之に果たしてあったのでしょうか?彼らは何ら注釈をつけていないのです。洛陽あたりの読者は当然「倭」と「倭人」は同種の民もしくは国という認識で読み進むのではないでしょうか。


(II) 漢文の読み方・漢字の解釈の主張と問題点

(ア)【古田流の帯方郡より邪馬壹国に至るまでを一つの構文とするのは漢文の読み方ではない。一つの動詞で三百数十字もの述語があるような文章は中国文にはない。】

(イ)「従郡至倭・・・其北雁狗邪韓国七千余里」で、まず文章は切るべきだ。また、その中の「循海岸水行歴韓国乍南乍東・・」の文章には、「水行」という動詞しかない。陸に上がったという記事がない。韓国を歴るに、はすべて水行によるとしか読めない。

(ウ)乍南乍東して其の北岸狗邪翰国に着くとある。半島の倭の北岸に到着したのである。列島の倭人国の北岸ではありえない。

(エ)南至邪馬壹国水行十日陸行一月と南至投馬国水行二十日は「対句」であり、どちらも帯方郡からの行路を示した記事である。

(オ)「歴」の解釈について

歴」は『説文解字』二上に「過也(過〈よぎ〉るなり)とあるので、「過」に置き換えることが出来る。そうすると「韓国を歴〈へ〉て」は船で韓国の地を過ぎて行ったと解釈することが可能だ。辞典には、「歴」に「空間を経る。ゆく。めぐる」の意味があり、「めぐる」が現実的と考えられる。すなわち、「歴」はいくつかの港を経由して目的地に行くことを意味する。

 古田氏は「歴」を閲〈けみ〉するととり「歴観」としたが、「歴観」は「歴」の派生義で、本義は「歴〈へ〉る」だ。派生義の一つを取り上げて、それを本義に置き換えるのは正しくない。漢字を解釈する上で原義と本義と派生義は明確に区別すべきである
】と。

しかし、この文章は、「可能である」・「現実的である」と、我田引水しているともとれる主張のように思えます。

(カ)「乍南乍東」の解釈について

乍南乍東」の「乍~乍~」の読みは、辞書によれば「二つの状態が交互に現れることを表現」と著者は言います。しかも、それならL字型の行路を最初は南に行き、然る後に東にいく水行の行路としてもなんの不思議もない】と続けます。

 四千里四方の韓の一辺(三百粁以上)を南へ行って、そこで東に向きを変える、という表現には「乍~乍~」は合わないと思うのですが。著者も気になるのでしょうか、一回の回頭ではなく、沿岸を何回かは港に入って南下したとも次のように言います。

【(歴韓国について)「韓国」は通常陸地だからといって、陸行したとは限らない。なぜなら、船で狗邪韓国に行き、いくつかの陸地に停泊したと解釈すれば、「歴韓国」の意味が通じるからだ】と言います。

 しかし、これは「倭人伝」の「乍南乍東」の記述を無視しているのではありませんか。半島の西岸を南に航海し、何カ所かで港に入れば、出港時には「乍西乍南」が必要になるのです。朝鮮半島の地図を見ればわかると思いますが、西海岸は多島海と言われる海域です。「乍南乍東」のみでは港伝いの航海はできないことは歴然としています。


(III) 倭人伝の読み方は古田武彦の解釈と大きく異なってくる

著者の倭人伝の読みは次のような特徴があります。

郡から倭に至る七千里の「倭」は朝鮮半島の倭

韓国を歴るには水行により乍南乍東でのL字型に行路(時には入港)

「其の北岸」は朝鮮半島にあった「倭」の北岸

投馬国への行路記事「南至水行二十日」は、邪馬壹国への行路記事と同様郡からの直行行路

邪馬壹国の所在については「書いていない」

(キ)L字型行路で南下して東に回頭すれば、そこは馬韓国ではなく狗邪韓国なのです。「歴韓国」の倭人伝の記事に合わないのです。著者はこの肝心なことを見落としているのか、この件について、著者は何も述べていません。
 確かに、東夷伝韓の条には「南倭と接す」とありますが、半島南岸部全てが「倭」の領域とは書いてありませんが、韓国は南は倭と接する、とあるのです。著者は『魏志』東夷伝の描く地理には全く目が向いていないようです。

(ク)郡から海路で、半島の「倭」の国の北岸に到る、とは。「従郡至倭」から「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」を一文とする見方もあるが、そうすると文章の文字数が322文字あり、一文としては長すぎる。

「従郡至倭で始まる文章は、到其の北岸狗邪韓国七千余里で完結する文」であり、「到其北岸狗邪韓国」の「北岸」とは、中国の学者は「其(の)」は「朝鮮半島の倭(の)」、
北岸は魏使の船から見た北岸と解釈する
】と。

 このように「
中国の学者」の意見が紹介されていますが、具体的な「証言内容」は紹介されていません。今世紀に入っての「日中歴史共同研究」の中国側の歴史学者の中には全くそのような論調は見受けられませんでしたが。それはともかく、次のように述べます。


「到其北岸狗邪韓国」の「其の」は朝鮮半島の「倭」であり、「其の(倭の)北岸の狗邪韓国という地域」に着いたという意味であると。

そう解釈するのも可能かもしれませんが、不思議に思えますのが著者の「到其北岸」と「陸行」との関係の説明です。

陸行の場合、内陸部から狗邪韓国に到達するのであり、そのまま岸に到達するのは船以外考えられないとあります。「陸地から海岸に到る」という表現は、中国人には理解できないことなのでしょうか。現在の日本人の表現では、「海岸に出る」という表現でしょうが、「海岸に至った」と表現しても何ら違和感はないと思うのですが。


狗邪韓国の南岸に着いたのに、なぜ「到其北岸」と書いてあるのか、については、その例として、南中国広東省の北海市という地名を挙げています。

中国大陸の南岸であるのに北海とされる。これはそこの地域の漁民からの目で見た表現である。なお、この「北岸」を日本列島の側から見た「北岸」と解釈する人もいるが、間に「大海」を挟んでいるので、朝鮮半島の岸を「北岸」とするのは中国語的な解釈からすればムリがあり、倭人の国の「北岸」は九州の地続きの「北岸」以外にはありえない。そうすると、魏使の船から見た「北岸」以外に説明のしようがない

「其の北岸」が朝鮮半島の通常の意味での南岸を指していることは間違いないでしょう。それがなぜ「北岸」と形容されるのでしょうか。本当に「魏使から見た北岸」、それ以外の説明はできないのでしょうか。

「倭人国」についてどのように倭人伝では表現しているのかを見てみましょう。「倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑」であり、また、「参問倭地絶在海中洲島上或絶或連周旋可五千余里」とあるのです。

 ともかく、倭人の国は、郡から韓国を経て七千里で倭種の国狗邪韓国に着き、それからぐる~っと廻って約五千里ほどの、島やその沿海の繋がりからなっている国だ、と記述しています。また、対海国や一大国は、食料を得るために「南北に市糴〈してき〉する」ともあります。

 倭人たちは、その島々とそれを囲む海を生活の場にし、海に生きる人々ではないでしょうか。そうすると、北海市の場合と同様に、領海を含んだ地域国家組織という目で見れば、その(海域も含む)地域の北岸、という表現になったのも自然であり、「倭人国」という領域の北岸となり解釈に何ら問題はないと思います。

近年、中国の南シナ海での沿海各国との領土領海紛争が多発し、「九段線」なる中国の主張がマスコミ上でもよく紹介される。これもそういう見方が現在の中国でも生きているのであろう。

(ケ)著者の説によりますと、女王の都まで「水行十日陸行一月」という陸行一月に該当する行路が存在しない。このことについて著者は次のように言っています。

「水行十日陸行一月」は、郡使たちが日本列島の人から聞いた情報とすれば別に不思議でもなくなる。もっとも、それが本当かどうか知る由もありませんが。漢文は非常に厳密にできているから、その真意をまず読み取るべきだ。

 漢文の文意からみると、「南至投馬国水行二十日」及び「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東・・・・・其の北岸狗邪韓国」の意味するところは、明らかに帯方郡から狗邪韓国へは水行だったことに間違いないと思う。その上で「水行十日陸行一月」を考えてみたい。安易に「水行十日陸行一月」を正解として、それに合わない漢文を捻じ曲げて我田引水に読むのはよくない
(太字化は寅七による)

しかし、「その上で考え」た結果はどうだったのでしょうか。この本を読んだ限りでは「郡使達が日本列島の人から聞いた情報」以外の「陸行一月」についての説明とか解釈は見えません。”漢文は非常に緻密にできていますから、その真意をまずくみ取るべきです”という言葉がなにか空々〈そらぞら〉しく聞こえます。

(コ)倭人国への行路の説明が一文としては長すぎる、について。

漢文は非常に緻密にできていますから、その真意をまず読み取るべきで、漢文で一つの動詞で322字もの述語を持つ文章はない】と。このように、述語の文字数で漢文か非漢文かという決めつけることに不安を感じます。古田武彦氏は、『漢書』などに見える行路叙述の四至文などを例にあげ、長文の「道行き文」として読み解いたのですが。

著者は、【不彌国の記事の後に「南至投馬国水行二十日」とあり投馬国の官名・戸数を述べ、続いて「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」と官名・戸数を記し、双方が同じ構成で対句として解釈すべき】と言い、【この二つは対句であり、邪馬壹国への行路記事は郡からの総行程であるのだから、投馬国への行程記事も同じく郡から投馬国までの総行程だ】、と主張しています。

古来、投馬国への出発点は、不彌国や伊都国など諸説があります。郡からの直行説もあります。しかし、対句とした場合、なぜ投馬国が先に示されているのか、ということが理解しがたいのです。これが、邪馬壹国の項が先に記述され、郡から都までの行程説明があり、その後に投馬国の行路記事が対句の形で出てくれば、著者の理屈は理解可能だと思います。しかし現実には投馬国への行路は不彌国の後、邪馬壹国の前に挿入されているのです。形としては対句ですが、投馬国の記事は挿入句として読み取るべきと思います。

(サ)「倭」の複合語の問題

例えば「倭地」については倭人伝に、その説明が「温暖冬夏生菜」とありますので、半島の倭の地ではないことは明らかでしょう。ところで、「半島の倭の地」を説明する場合の複合語はどうなるのでしょうか、「倭地」が「半島の倭」ではないのですから、著者の説から逆に演繹することは難しいと思われます。「半島之倭地」位しか思いつきませんが、此の事も「倭」は半島の倭という仮説は合理的ではない、と言えるのではないでしょうか。

(シ)検討した結果

 行路記事は、①韓国を歴〈ふ〉るに、は「陸行」。②其の北岸は「倭人の国」の北岸。③投馬国への行路記事は挿入句、ということであり、古田武彦説に著者が疑問を投げかけた諸点はすべて誤りであることが分かりました。

しかも不思議なことに、邪馬壹国は不彌国と接していた、という古田武彦説の肝心ところについての著者の考察は述べられていないのです。

漢文は緻密だ。漢字は本義優先。行路記事は、長文でなく、切って読むべき】、と説く著者は、女王の都の所在地をどう解釈したのか。一言も言わないのです。木を見て森を見ず論の感しきりです。

今回「張莉・出野正」著のうち、第七章「中国・朝鮮の古文献に見る「倭」と「倭人」の使い分けについて」出野正 のなかで「倭人伝の行路記事」に関する論述をとり上げました。

そこには、古田武彦説支持者にとっては耐えられない内容が山盛りでした。しかし、著書の「はじめに」には、次のように述べられています。

【個人個人がもっている歴史観には微妙な違いがあり、その考えに同調できない方もおられると思いますが、それらについて、この後の論議によって解決していけばよいと思っています。私たちの考えが間違っているとわかれば、ただちに改める所存です】と。

ということで、小生も遠慮なく、出野氏の倭人伝に関する論述にたいして遠慮なく批評させてもらったわけです。

 結果は残念ながら、出野氏の主張「魏志では朝鮮半島の倭と列島の倭人とは区別されていた」、という仮説に瑕疵があったと思わざるを得ない、ということになりました。

 また、「倭人伝」の検証方法が、例えば「陸行一月」という記述を無視して、自分の「漢字の解釈」を優先しているのは、明らかに著者の行った倭人伝の検証の方法が間違っていると言えるのではないでしょうか。今後、論議を深めるためには、著者の仮説を、著者自身が再検証する必要があると言えましょう。おこがましいかもしれませんが、著者の今後の精進を待つということで結びとしたい。

 

後記

2006年3月に「新しい歴史教科書(古代史)研究会」を古田武彦勝手連的応援団としてホームページを開設した小生にとって、今回の『倭人とはなにか』の中の、特に、倭人伝解説は、「古田武彦説批判」が主眼の本のように思われました。

小生なども、古田武彦説を無条件に判断基準にするところがあります。今回の『倭人とはなにか』を批評するために、久しぶりに倭人伝に取り組むことが出来ました。そこで見えたことを他山の石とし、論語読みの論語知らず、にならないようにと改めて自戒させられました。

今回は倭人伝についての解釈を取り上げました。しかし、『倭人とはなにか』は、たくさんの事柄を教えてくれる本でもあります。例えば、邪馬壹国が『後漢書』ではどうして邪馬臺国と表記されたのか、という張莉氏の解説など、ぜひ頁を繰って読んでいただきたいものです。

今回の本は張莉氏の論文『「倭」と「倭人」』(紀要第七集)を夫君出野正氏と共著という形で発展させたと言えるものでしょう。しかし、その結果は、古田武彦説とは大きく異なるものでした。張莉氏はその論文の「結語」で次のように述べています。

邪馬壹国の卑弥呼から俀国の多利思北孤を一系列とする「倭国」と、神武―推古―天武の近畿大和勢力の日本がどうしても同じ系統であると思われない】と。そして、「あとがき」では、【いくつかの点では古田武彦氏と違う見解を述べているが、本稿を書くにあたり氏の著書をずいぶん参考にさせてもらった】とも書かれています。

日本のアカデミズムから疎外され続けている古田先生にとっては、私学ながらアカデミズムの一角を占める、白川静氏の漢字学の牙城ともいえる「立命館白川静記念東洋文字文化研究所紀要」に同志社大学准教授の張莉氏が、このように述べられたのです。古田先生が絶賛ともいえる言葉を八王子セミナーなどで述べられたのもむべなるかな、と思われます。

ともかく、この本のおかげで、基本的に古田説が正しいことを、再認識する機会を与えてくださった著者に感謝すべきと思っています。

小生は「棟上寅七の古代史本批評」というブログも開いています。2016年末から2017年始にかけて『倭人とはなにか』について七回、感想などを述べています。今回それをまとめたものです。

 「多元的古代研究会」の会誌「多元」編集部のご厚意により2017年5月の「多元139号」に小論を掲載していただけました。そこに編集部の了解をいただき「著者の反論をお願い」しています。漢字学の学究者夫妻に無謀にも挑んでいるわけですが、実りある論議となれば、と願う次第です。


 追記:「棟上寅七の古代史本批評」で7回に亘って意見を述べています。著者出野正さんからその都度ご意見をいただきました。「はじめに」でそれらをご紹介したい、旨記しましたが、やはり、全体の小生の「批評」を読んでいただいてから、反論をいただけれますれば皆さんにご紹介することにしましょう。

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