槍玉その5 異議あり日本史 永井路子著  1985年刊      文責 棟上寅七
異議あり日本史
        
槍玉その5に永井路子さんの
異議あり日本史を上げることになりました。これは、永井路子さんのフアンの方から、この研究会で永井さんがどのように取り上げられるのか興味がある、とのメッセージが寄せられたので、急遽ご要望にお応えすることにいたしました。

永井路子さんは、Wikipedia百科事典によりますと1925年のお生まれです。各時代の主人公、特に女性を、丹念に資料に当たられて、通説に反する人間味豊かな人物像の描写に優れ、人気作家であられることは皆さんご承知の通りです。

永井さんの執筆態度からしますと、じっくり史資料を集められ吟味され、その中で主人公たちに女性の繊細な感情からの視点で捉えられ、読者の感性というか琴線を揺り動かされる手法に長けておられ、熱狂的な永井ファンも多い、と言ってよいでしょう。

手持ちの古代史に関係する、永井路子さんのご本は標記の異議あり日本史だけでしたので、この本を、と検討を始めました。

この本は、永井路子さんが月刊誌その他で、日本史に活躍する各時代の人物、春日の局・千姫他を取り上げ、通説と異なる切り口から異議あり!と発表された、エッセー13篇を纏めて単行本にして刊行されたものです。

その中で次の2編が研究対象になります。

 
「古代ーそのうさんくささの魅力」初出 月刊自動車労連1974年2月号

 
「万葉の女王と壬申の乱」初出 月刊自動車労連1974年3月号

この本の中身をまずダイジェスト風にまとめてみます。(以下文責棟上寅七)


古代-そのうさんくささの魅力

永井さんは、記・紀を改めて読んで見て、読み進めているうちにその分からなさの魅力というものに取憑かれた、と述べられ、以下のようにコメントされています。

『記紀に書かれたことのうち、現在でいえば、第十代崇神天皇あたりは、実在していた、とみる学者が多い。崇神天皇が別名ハツクニシラススメラミコト、すなわち、一番初めに国をおさめた天皇、ということも暗示的だ。

素人の自分なりに、古代王朝の姿が一つの推論として纏まってきた。それは、大和王朝といっても一つの線のものでなく、三輪山あたり、河内あたり、京大阪あたり、というように、諸天皇系列が、「時間」を共有して少しずつずれながら並列したのではないか。それを後になって。無理やり統一して、一本の線にしようとしたのが、『記紀』ではないか・・・・

自分では、「蘇我王朝」というものが存在したのではないか、と思うようになった。ところが、この考えは既に大阪市立大学の原田先生が発表されていることを知った。しかし古代史の楽しみは、このように素人推理も外れていない、というところにもある。

平安時代はいわば「藤原王朝」である。藤原一族が競って娘たちを天皇のもとに嫁がせている。同様に、「蘇我王朝」では、蘇我稲目も二人の娘を天皇家に嫁がせている。

当時は妻の家に婿が通う、妻訪い婚であったから、子供は皇子であり、その皇子たちが我が家にいるわけだから、蘇我家はいわば皇居といってもおかしくない。蘇我稲目から、蝦夷・入鹿と同様に続くのだから「蘇我王朝」といってもおかしくない。

日本書紀は何故か外国事情に熱心である。何故熱心なのか判らないが、その上、書いてあることがさっぱり要領がえないのだ。

石上神宮(奈良県天理市)の七枝刀の銘文の読み方にも諸説があり、まだ謎が多い。

例えば、実在性の薄いニニギノミコトの陵が九州にあるそうだが、天皇ご一家の陵墓の故に、それすらも発掘できないそうである。

こういうことが残っている間は、古代の姿を正確に掴むことは不可能であろう。そのうさんくささをへの魅力にひかれて、その周辺を堂々巡りするより他はないのであろうか。』


万葉の女王と壬申の乱

永井さんの戦前の学生時代は、教科書に壬申の乱の話は載っていなかった、天皇家の跡継ぎの武力の争いを国民に知らせたくなかったからであろう、と述べておられます。。

それだけに壬申の乱について知ったときはちょっとぞくぞくとした。タブーはないに越したことはないが、秘密をさぐる興味もなくなるということは、人生をたまらなくつまらなくする、とも述べておられます。

引き続いて、次のように述べられています。

『壬申の乱が胸をときめかせることの一つは、壬申の乱の背後に万葉の女王、額田の王がちらちらしていることである。

彼女は、天智の弟、大海人皇子の恋人で娘までもうけていた。それを兄天智が、彼女の美貌にひかれて横取りをした。それから数年後、天智が死ぬと大海人は叛旗を翻し、天智の子の大友皇子を攻めて自殺に追い込み、天武天皇の即位となった。

この兄弟間に額田をめぐる感情のしこりがあったはず。

額田の
蒲生野での歌は秀歌として知られ、大海人の返歌も有名であるが、この二人が歌のやり取りをしたのは40歳に近く、ロマンチックな歌と取ってよいのか疑問に思うようになった。

割り切って考えると、二人の間での額田問題は、一種の政治取引であったかも、と思うようになった。

つまり、大海人を手なずけておくために、自分の娘二人を送り込み、大海人の(額田との間の)娘を自分の息子大友の嫁に貰い受ける。その時に娘の嫁の母親として額田が天智のところにくる。このようなセットの話であろう。

このように壬申の乱についての興味は少しずつ変わってきた。しかし関心が薄れたわけではない。最近では壬申の乱で大友皇子も一時的に天皇位に就いたのではないか、とか、この乱は計画的か偶発したのか、とかの論議も盛んで、戦後タブーがなくなった後、初めて日本史研究が歴史学らしくなったといえる。

壬申の乱は単なる皇位継承の争い、と見るのではなく、アジアの歴史の中で関連づけて見ようという動きが起こっている。

当時日本は百済を救おうとして、唐・新羅連合軍に白村江(はくすきのえ)で大敗している。壬申の乱は、大化の改新・白村江の敗戦・壬申の乱はワンセットとして東アジア古代史の波の上で解明されねばならないのではないか、という気がし始めた。

壬申の乱は、歴史の謎の深さを教えてくれる。ある学者がこれこそ間違いない、という学説を出して、一時は学会を風靡しても、別の学者がひっくりかえしてしまうこともある。「一プラス一、イコール二」というのとは、違った結論の出し方こそ、歴史の面白さと言える。 』


上記の内、壬申の乱は当研究会にとっても非常に興味の有るテーマです。

永井路子さんは、壬申の乱を額田王という女性という切り口で語られているので、対応も大変だなあ、というのが正直なところです。

壬申の乱につきましては、永井さんの鋭いもご指摘のように、当時の東アジアの情勢とも、関連させて見なければならないでしょう。細部の議論あるところは、他の槍玉氏の、壬申の乱論も今後、俎上に上げられて来ることでしょうから、それらと合わせて、稿を改めて後日、研究結果をご報告することにしたい、と思います。


異議あり!日本史」をこのように一応、俎上に上げ、心ならずも永井路子さんを対象にと、研究を始めました。しかし、なにせ1974年に初出の本です。このような古い著作に基づいて永井さんを批判することは、如何なものか、という意見が出まして、棟上ももっともなことと同調いたしました。

その史資料吟味はご自分の納得されるまで検討されるようで、なるだけ直接資料にあたられ、いわゆる孫引き資料はお使いになられないようです。

古田武彦さんの、1971年に始まる、
「邪馬台国」はなかった””失われた九州王朝盗まれた神話の各書をお読みになったかどうか、わかりませんが、もしお読みになったとしても、これらの著作は、永井さんにとりましては、いわゆる在野の一介の研究発表書、というように捉えられたことか、と想像します。その史資料吟味はご自分の納得されるまで検討されるようで、なるだけ直接資料にあたられ、いわゆる孫引き資料はお使いになられないようです。そうなりますと、古代中国の資料文献は、なかなか永井路子さんには、使い難いかと思われます。

また、これは、この本の中のこの異議あり!の春日の局の章でも、資料の解釈は、ご自分の加齢とともに捕らえ方も異なってくる、旨のことが書かれています。永井さんが、この本の出版以降の、古代史の諸論争の発展をどうご覧になり、ご著書にいかに反映されておられるか、も見てみたいと思います。例えば、
歴史を騒がせた女たち2003年刊””女帝の歴史を裏がえす2005年刊などを対象にしたほうが良いのか、と思われます。

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それはともかくとして、この異議あり日本史に、取り上げるべきその他の問題点は無いのか、と検討をしました。

壬申の乱以外でもニニギノミコトの実在性についての論議もしたいのですが、不毛の論議になりそうだし、今回は、崇神天皇の名前の読み方(ハツクニシラス)、石上神社の七枝刀について、永井路子さんの多くのファンの方々に、誤った認識を持たせる恐れがあると思われますので、当研究会の意見を述べておきたいと思います。


まず 
崇神天皇の名前の読み方について。

永井さんは、神武天皇以降の古代天皇の実在性について、疑っておられるようです。根拠は、古代史学会の定説がないということなのでしょう。これは仕方がないことでしょう。しかし、崇神天皇の名前の読み方が「ハツクニシラススメラミコト」で一番先に国を治めた天皇という名が付けられているから、それ以前の天皇の実在性を疑っておられるようです。

この問題は、津田左右吉博士が、戦前、先鞭をつけた「二人のハツクニシラス」問題です。戦後、皇室へのタブーが無くなり、諸史家、例えば井上光貞さん達が発展させたと言われます。

「二人のハツクニシラス」の一人は、第一代の神武天皇です。名前は、「始馭天下之天皇」と日本書紀にあります。もう一人の、第十代崇神天皇は、古事記には、「所知初国御真木天皇」、日本書紀には「御肇国天皇」とあります。

津田博士の主張は、『どちらも読み方によって、ハツクニシラスと読め、建国第一代の意味である。しかし、建国第一代が二人いる訳が無い。

だから、本当は第十代の崇神天皇が初代であり、神武は「後代造作」の第一代である。つまり、架空ではないか』、ということです。

古田武彦さんは、その著書
盗まれた神話第九章「皇系造作説」への疑いで「二人のハツクニシラス」で、以下のように論証されています。

)神武天皇の名は、古事記では神倭伊波禮毘古命カムイワレビコノミコトである。

)日本書紀の始馭天下之天皇の読み仮名、ハツクニシラススメラミコト、は奈良朝の古写本には全く見られない。平安後期に訓読みが見られるようになる。つまり、後世によみかなが振られた。

)古事記の崇神天皇の名、所知初国御真木天皇は、初国(ハツクニ)を知らしし御真木(ミマキ)の天皇(スメラミコト)ということであり、初国(ハツクニ)は本国(モトクニ)の相対語である。

)神武以来大和地方(本国)に勢力を根付かせていた王朝が、外部に(書紀の記述では東方に)出て征討を成功し、「初国統治」をした天皇という意味で名付けられた。

はじめて国を知らしし天皇 であれば、初所知国天皇 とならなければ漢語語順としてはおかしい。(ハツクニシラスとは読めるが)

)日本書紀の崇神天皇の名、御肇国天皇は、肇(ハツ)国に御する天皇である。初国(ハツクニ)の漢語的表現で肇国としたものであろう。

)神武天皇の、始馭天下之天皇をハツクニシラススメラミコトと訓ずるのはおかしい。文字通り、「始めて天下を馭した天皇」で建国第一代にふさわしい。

以上のように二人が同じ名前であった、というのは間違いである、と明快に解明されています。

このような、明快な解明結果を受けても、永井路子さんは、「二人のハツクニシラス」という問題が存在する、とおっしゃるのか知りたいところです。


次に 
石上神社の七枝刀について

永井さんは、この刀の銘文の読み方に諸説があり謎が多い。物部氏との関係もあるのではないか、ということを述べられています。


日本書紀の七枝刀の関係記事だけから見てみると謎だらけ、と言えます。

日本書紀では神功皇后紀52年の項に、「百済王の使いが来て、百済に領土を割譲してくれた礼を言って、七枝刀・七子鏡他を奉じた」旨記載されています。

七枝刀には下のような銘文があることが、明治初期発見されました。

[表]

泰 ((1) 四 年 ((2) 月 十 二 日 丙 午 正 陽 造 百 錬(((3))七 枝 刀 ((4) 辟 百 兵 宜 供 供 ? 王 ((5) ((6) ((7) ((8) 作

[裏]

先 世(((9))来 未 有 此 刀 百 済 ((10) 世 ((11) 奇 生 聖(((12))故 為 ? 王 旨 造(((13))不 ((14)) 世



左のように61文字の内、判読不能10文字に、判読不定( )4文字と計14文字の判読によって、解釈が学者先生方によって諸説があります。

その内、(1)によって年代が決まります。

(和)と入れて東晋朝の年号とするのが大勢のようですが、北朝鮮の学者には、百済の年号だと主張する方もいて、日本の学者の一部も同調される方もいるそうです。

次に意見が分かれるのは、(12)で「晋」と見るか、「音」と見るかです。それによって、東晋がこの銘文に関係しているかどうか、が分かれるようです。

現在のところ、百済王から倭王に贈られたもの、ということでは一致しています。

ところが、「旨」という字が、名前、つまり「倭王旨」なのか、「倭王の旨を戴して」と読むべきかも論争の的のようです。

百済王から倭王に献上されたのか、下賜されたのか、それとも対等の立場からの贈り物だったのか、晋との関係は?などというところが学者先生方の意見の別れるところのようです。


石上神宮所蔵詳しくは、古田武彦さんの失われた九州王朝第二章倭の五王の探求七枝刀をめぐって の項で、古田さんが詳しく述べられている考証を参照いただきたいと思います。

銘文の読み方について、古田武彦さんは、諸説を紹介されて、その上でご自分の解析結果を述べられています。当研究会が簡単に、纏めますと以下のようになろうかと思います。

『晋の泰和4月16日丙午正陽に百錬鉄の七枝刀を作る。百兵を辟く、候王に供供するに宜し。□□□□作。
先世以来未だ有らざりし此の刀は、百済王世子が生を聖晋に寄せたるが故に候王旨の為に造れり。伝不世。』

また、古田武彦さんは、いつ石上神宮に七枝刀がもたらされたか、ということについて、日本書紀に七枝刀の伝来の記事がありながら、それが今どこにあるか、という記事が無いことに注目されています。

「倭王旨」が誰なのか、まさか神功皇后にあたるという学者もさすがいないようです。日本書紀(古事記)の各天皇紀をあたっても、倭の五王同様見出すことは出来ないでしょう。倭国=筑紫という理解がこの謎を解く鍵なのです。

筑紫の王者に百済王から贈られ、日本書紀の成立以後、8世紀前半頃?筑紫から石上神宮に移ったものでしょう。磐井の乱で糟屋の屯倉が大和朝廷の物になりましたが、宝物は別だったようです。

その際、永井路子さんが言われるように、物部氏の活躍乃至暗躍はありえたことと思います。


以上、永井路子さんが異議あり日本史の中で、とされた「二人のハツクニシラス」と「七枝刀の銘文」について、古田武彦さんの著作を参照して、解説を試みました。後日、永井さんの最近のご著作を、改めて研究対象にしてみたい、と思っています。

今回は、槍玉に上げる、ということにはならず、永井路子さんがとされたことについての謎解き解説に終わり、羊頭狗肉になりました。

                                (この項終わり)



                        
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