槍玉その39 『邪馬台国は甦る!』木谷恭介 ぶんか社文庫 2010年2月刊  批評文責 棟上寅七

著者について

失礼ながら「木谷恭介」さんという作家を知りませんでした。ネットで調べてかなりの苦労人だ、ということを知りました。


この本のカバーに書いてある著者紹介によりますと、
【1927年大阪府生まれ。推理作家。週刊誌のルポライター、放送作家のかたわら、若者向け旅行ガイドなどを執筆。1977年『俺が拾った吉野太夫』で小説クラブ新人賞受賞。1983年の『赤い霧の殺人行』から旅情ミステリーに専念する。宮之原警部シリーズをはじめ、多くの作品を出し読者を獲得し続けている。】とあります。


この本を槍玉に上げる理由

連れ合いのショッピングの待ち時間に、書店で暇つぶししている時、木谷さんのこの本に出会いました。邪馬台国という字が目に飛び込んできて、それが「邪馬台国は甦る」という本で、つい買ってしまいました。

ぱらぱらっとみますと、その本の内容は、槍玉その35で取り上げた岡田さんの「日本古代史」をベースにして、素人の方が、古代史通史を書かれているようです。
古代史本の棚にあればともかく、一般の読者が手にする「文庫本」ですから、これはひとこと物申さなければならないかな、と思って取り上げました。

この本を読み始めて、まあ、昭和ひと桁後半の生まれの方だろうとは思っていました。三分の一位読み進んで、日本書紀編集者の気持ちのことを、表現されるところで「小説家の私として締め切りに追われて云々」とあり、始めて小説家であったことを知りました。インターネットで見てみましたら、ミステリー作家で150作位出されているようです。宮之原警部シリーズで、多くのファンを掴んだ、とありました。

お生まれも1927年ですから、もう80歳を過ぎていらっしゃるようです。このホームページで取り上げた、高木彬光1920年生まれ、邦光史郎1922生まれ、黒岩重吾1924年生まれ、に続く、作家の古代史論ということになります。

古田武彦さんも1926年生まれですから、同時代のご両人の古代史論を眺めてみるのも意味があるかも、と思います。


槍玉に上げようと思って気付いたのが、この方の小説を読んだことがないことです。ネットで検索してみますと随分沢山の推理小説などを出されています。主なものは「宮之原警部」物のようです。せめて1~2冊は読んでみないと、木谷恭介批評にならないかな、と思いました。ネットで探しましたら、古本で¥1というのが何冊かありましたので、amazonから取り寄せ読んでみました。
「宮之原警部シリーズ 吉野十津川殺人事件」という本で、早速読んでみましら、読みやすいのですが、肝心の謎ときがまあ平凡でした。

この宮之原警部シリーズはテレビで映像化されていて、警部役を、中代達矢、鹿賀丈史、村上弘明などそうそうたる役者さんが演じているようです。

広域特別広域捜査官という勝手に全国を飛び回れる警察官を設定し、全国の有名地をバックに、何時も美人のヒロインがからんで事件解決に当たる、というテレビの脚本的な本で、150冊も出せば、トリックなどが薄くなるのは止むを得ないでしょう。コナンドイルやアガサクリステイのレベルを期待するのは無理なのでしょう。

そのように手練れのブックメーカ、木谷恭介さんの「邪馬台国は甦る」という本は、なかなか読みやすい本です。さすが売れっ子になるだけのことはある、と認めざるを得ないようです。

一応通して読んで、そのような感想を持つのはなぜか、と考えてみました。歴史本なのに、柔らかい感じがするのは、「歌」を沢山取り入れていることがあるのではないかという気がします。昔の唱歌や俗謡も四つほど入っていますが、万葉秀歌が数えてみましたら、二十三首も取り入れていました。「なかなかお主やるな!」という感じもします。


 はじめに

木谷恭介さんの「邪馬台国は甦る」という本は、いわば木谷流古代通史です。この本を批評しようとすると、古代史全般に亘って、批判の目を通さなければなりません。まあ、古代通史の勉強と思うことにしましょう。

ただ、ホームページの槍玉に上げるかどうか迷っています。木谷さんは、「ボクは邪馬台国は大和であり、ヒミコは纏向に住んでいたと信じる」と仰います。信仰ということになりますと、それはそれで勝手に、ということでしょう。

しかし、その理由として、奈良盆地の優位性を上げられるのです。木谷さんの、邪馬台国大和説信仰に基づく、ということでなく、「棚田」・「水路」など具体的証拠を上げられるのです。

読みやすい形で書かれている本ですから、無垢な読者に、害毒をまき散らす恐れも大いにあるか、と思います。古代通史全般に亘ってみていくので、このホームページの読者の皆さんには、なんども出てきたテーマの話が繰り返され、退屈なところもあるかもしれませんが、我慢の程よろしくお願いします。


木谷さんの日本書紀への疑問

第一章で「日本書紀についての疑問」を自問自答されます。

正史がなぜ邪馬台国に触れなかったのか。邪馬台国だけでなく帥升も、宋へ遣使した倭の五王も。編集者は知っているのに書かなかった。神功皇后のところで”魏志にいう倭の女王”と書いてあるのに。

その理由として、木谷さんが上げるのは、

属国であったことを公表したくない

そのために国の始まりを神話にした。

差し迫った事情があった。過去のことを一切なかったことにしなければならない。倭と唐の戦い(18年前の)大敗。追撃される恐れ。半島から手を引くか(天武)、時期を待って改めて乗り出すか。国力を増大させねば。国家の実体の確立。そのコンセプトのもとに編纂された。

うかつに卑弥呼などの中国との関係を書くと、かっては属国であったことを追認するようなものだ。丸呑みにされてしまう。これらの理由によって、邪馬台国や卑弥呼を無視した。

これも、邪馬台国が筑紫に在った国である、ということで全て氷解します。つまり、邪馬台国大和説が間違いの根源なのです。
大和王朝と卑弥呼、倭の五王も全く無関係だった。大和王朝は、古い時代に九州から大和に侵攻して発展した国であった。「大和政権は8世紀以降統一日本の代表国家となった」、纏向遺跡もそのような歴史認識で見直すべきでしょう。


木谷さんの日本人の起源

第二章日本人はどこから来たか、で、日本人の起源についての自説を述べられます。

日本人は先祖伝来稲作をし、米を食べてきていた。日本人の祖先は稲作地帯から来た。長江の南から来た。しかし、縄文人は別。
しかし長江地帯の稲はジャポニカでなくインド種の米である、という問題がある。これは稲が地域に合わせて変異したものであろう。
北部九州で稲作が始まったのはBC400年、などと述べられます。

木谷さんの言う、縄文人と日本人を区別することが理解できないのです。木谷さんの頭には、渡来人が縄文人を駆逐した、というように取れるのですが。
この日本人の起源(全て渡来人)ということを終章の方でも述べられています。

稲作は、木谷さんが主張するようにBC400年ごろではなく、BC7~900年ごろであり、3~500年も違います。渡来人が縄文人と文化融合して、縄文人も米食生活になっていった、と理解した方が納得できると思うのですが。

稲作の発展ということについて、現在の遺跡などからでは、北部九州高知、青森へという経路のようです。奈良盆地では何世紀も遅れて始まっているようですが、木谷さんには、これについての説明は出来ないからでしょうか何も仰いません。


奈良盆地の国が邪馬台国として勝ち残れた理由

木谷さんは、奈良盆地がなぜ勝ち残れたのか、と次のように説明します。

・初期の水田は棚田だった。 
・「もみ」を持って中国南部より到来。一つの例が「徐福伝説」。

・中国南部で同じ言葉を話し、同じように稲作をしていた人たちが、朝鮮半島南部と日本列島に漂着した。
・人口はBC1世紀でも3~40万人だから、列島は無人の荒野。

・全国に漂着した弥生人が国を造り、やがて大乱を生じさせるまでになる。
なぜ邪馬台国が大乱を勝ち抜けたのかは、立地条件の良い奈良盆地とリーダーの指導力。

・大和川の支流ごとに豪族が小王国を作り、連携出来た。
・つまり奈良盆地という平野並みの広い生産地があり、多くの人口を持つことが出来、交通(水路)の便も良い。覇権を握る条件を備えていた。

・それに引き換え、北部九州の伊都国は、海洋貿易国家として栄えたが、対岸の伽耶には戦乱が多く商売上がったりで、倭国大乱を勝ち抜くことが出来ず、ヤマトの勢力を補完する国になってしまった。

木谷恭介さんの「邪馬台国纏向説」の根拠、というか、信念の基というのは、水路と棚田のようです。

古代は水路が大事である、ということは、恐らく万人が認めるところでしょう。しそして、棚田はともかく、稲作が国の繁栄の基であったであろうことも、どなたも大きな異議は唱えないでしょう。
しかし、「だから奈良盆地だ」というところが、理解できないのです。木谷さんは、【大和川を遡ると桜井市あたりまで来れた。そこの海石榴市があった、と日本書紀にある。】ということと、【奈良盆地という平野並みの広い生産地があり、多くの人口を持つことが出来、交通の便も良い】だから、覇権を握る条件を備えていた。

これでは、日本のほとんどの有力遺跡のある地帯に当てはまる条件です。つまり、根拠と言えないのです。木谷さんの思いこみ、というか大和説への信念は怖いなあ、と思います。

木谷さんの説明は説得力がない、とご自分も思っている、いわば弱気が、「ぼくは大和と信じる」という発言になっているように思われます。

「棚田」についても皆さんはなかなか納得できにくいでしょう。第一に、初期の水田は棚田だった、というのは独断でしょう。推理作家として、奈良が他の地域に比して有利な点を探し、それが「棚田」であり、棚田が多い「盆地」というキーワードでしょう。棚田を強調して何度も繰り返されます。

水稲栽培が平野湿地部より棚田の方が向いている、ということの是非について論じることは置きますが、常識的ではない気がします。

板付(福岡県福岡市 沖積平野)や菜畑(佐賀県唐津市 海抜10m谷底平野)などの初期の稲作は平地部なのです。それよりも、縄文人は栽培をしなかったのか? 湿地帯での稲作であれば争いは生じないが、山に近い棚田だとトラブルが生じる。決して無人の荒野ではない。先住者は権利を実力で主張するはず、と思います。ともあれ、纏向に邪馬台国を持ってくるためには「棚田」有利論が不可欠のようです。

次に、中国南部から韓国や日本に渡来したと主張され、言葉は同じ系統といわれますが、中国南部とは文法が違います。そして、全国に漂着した弥生人が国を作った、とされますが、言葉のことを考えたら、縄文人の中に飲み込まれ、融合した、取る方が常識的な解釈でしょう。

奈良盆地のことも調べてみました。確かに木谷さんが主張するように、かなり大きな盆地です、広さは450平方キロあります。が、最大ではありません。関西以西だと最大ですが、北上盆地1500平方キロ、米沢盆地900平方キロ、会津盆地440平方キロなどがありました。少なくとも奈良が勝ち残った絶対的条件とはいえません。

木谷さんは ヤマトが邪馬台国と信じる もう一つの理由として、「船」「水路」を上げられます。つまり交通の要衝であり、「市」もあった。日本書紀に桜井市あたりに海石榴市があった、と書いてある、と散々日本書紀をけなしながら、自分の都合の良い時には引用されます。

この水路も「棚田」と同じく、奈良にあったとされる邪馬台国が勝ち残った絶対的条件ではないことは、自明のことでしょう。大和川の水運の便くらいのところは、数多くあることでしょうから。

それに、伊都国がヤマトの勢力を補完する国になった、という木谷さんの意見は、まず「邪馬台国=ヤマト」が前提なのです。その前提が成り立たなければ、このような意見は雲霧消散します。


卑弥呼は文字を知っていた、という発言について

木谷さんは卑弥呼は文字を知っていた と問題を投げかけられます。つまり、ヤマトと書いたのはヤマト側か魏側か、という問題です。卑弥呼側がヤマトと別の文字で書いたのに魏側が邪馬台国と書き表した、とされます。

たしかに、話の筋として前段部分はそうでしょう。しかし、ヤマトと書いたということは間違っています。邪馬壹国と『魏書』にあるので、これはヤマトとは読めません。邪馬台国をヤマトと読む、という前提自体に問題があるのです。

『魏志』倭人伝には「邪馬壹国」とあるわけです。『後漢書』には「邪馬臺国」とありますが、「邪馬台国」ではないのです。「臺」は「ト」と読めないのです。
これについては、いままで散々このホームページでも論じてきました。槍玉その19「安本美典 虚妄の九州王朝」批判で、「邪馬台国」の読み方、「ヤマト」国は成り立つかで論じました。

松本清張さん(槍玉その9)も魏志倭人伝の「邪馬壱国」は「邪馬台国」の誤り、とその理由も述べられませんし、言霊の力を云々される井沢元彦さん(槍玉15)も、邪馬台国と「臺」を使わず略字の「台」で通されます。
このように皆さん、邪馬台国をヤマトと読みたい、という願望をお持ちのようです。

(詳しくは槍玉その19 安本美典「虚妄の九州王朝」批判をクリックしてご参照下さい。)

ついでに、木谷さんに問いたいのですが、卑弥呼と書いたのはどちらが側か、という問題です。
三国志魏志の帝王紀正始四年 「冬十二月 倭国女王俾弥呼使いを遣わして奉献す」とあるようにニンベンつきの卑弥呼であったのです。つまり、卑弥呼は「俾弥呼」と自署し、魏志倭人伝には「卑字」を使って「卑弥呼」とした可能性が高いようです。

また、倭人の識字能力とは無関係に、三国志が作られていることは明らかなことです。夷蛮の国々に、その国が自身でどう名乗っていようと自国の史書には「卑字」を使って表記していた例は、高句麗を下句麗としたり、いくつもあります。


台と壱の問題の木谷さんの説明

木谷さんは『「邪馬台国」はなかった』、を読んでいると思えます。しかし、古田武彦説を極めて歪めて説明しています。

【邪馬台国の『台』は、当時は『臺』と書いたのですが、『壹』の書き間違いではないか。つまり邪馬台国ではなく、邪馬壹国のはずだと主張する学者もいます。当時の本はすべて写本でしたから、そういう書き間違いがあったかもしれません。しかし、倭人の識字能力がどの程度だったかという重要な問題には疑問を持たず、『臺』か『壹』か、重箱の隅をつつくようなことに精力をそそぐ。こういう学者は退場していただいたほうがよい。ぼくはそう考えます。】

これはひどいと思います。『臺』と『壹』の問題を提起したのは古田武彦さん、ということは世間に知られています。古田さんは、『三国志』原(版)本に『壹』とあったのを、後世の歴史書『後漢書』に邪馬臺国とあるのに引きずられて、『壹』を勝手に『臺』に改定して通説としている、という意見を出されたのです。

当時の本は写本だった、といわれますが、古田さんは、写本でなく「木版による刊行本」について問題を提起されているのです。

前述のように、倭人の識字能力とは無関係に、『三国志』が作られていることは明らかなことです。それなのに、このように、他者の論点を意識的に間違えて取り上げて、論難する、そのような物書きこそ退場して貰わなければならないと、ボクはそう考えます。


木谷さんの邪馬台国への道の説明

第三章邪馬台国への道で、木谷さんの考えが述べられます。

道順については、いわゆる直線経路で木谷さんは記述します。

そして、行路論争は学者に任せて、として、木谷さんは箸墓が卑弥呼の墓であり、だから邪馬台国は纏向だ、とされます。箸墓=卑弥呼の墓は年代が合わない、とされてきた。年輪年代法や放射性炭素法で年代が合うようになった。土器が遠い地方のものも含まれている。纏向遺跡は大きい。7万戸に合うのではないか。

結局そのためには、倭人伝の「南」という方向が間違っている。倭人伝の記述はおかしい。著者の陳寿はいい加減な人物。というように話を進められます。

倭人伝がちょっと違うと思われる点として、入墨 会稽東冶の東の地理感覚、を上げています。
これは台湾あたりになる。つまり、陳寿は見当外れの土地勘の持ち主。トンデモ本の山海経からの連想。陳寿はデタラメ。人格論争をした方が良い、とまで言われます。

又、安本さんが、中国史書に誤りが多い例として上げられたと同じことを、述べられます。【明史の日本伝の木下藤吉郎の記事を見てみるがいい、とてもいい加減なものだ、だからそれより千年以上前の魏志倭人伝などはいい加減なものだ】、と。

魏志倭人伝の評価については、槍玉その35の岡田英弘さんも、同じことを述べられています。(木谷さんが受け売りしている)

その槍玉35での反論を再掲しておきます。
魏志倭人伝はそのままで現在に伝えられているのではありません、魏が滅びてず~っと下って宋の時代に斐松之の詳しい注釈が付いてそれで歴史上有数の歴史書という評価を得ているのです。吉川忠夫さんという方が、ちくま学芸文庫の正史三国志の解説で次の様に述べていますが正論だと思います。

【斐松之は「三国志注を奉る表」のなかで、陳寿の本文が簡略にすぎるため、自分は旧聞、遺逸の博捜につとめたと述べたうえ、注釈の基本的態度を次のように整理している。(一)陳寿の遺漏を補うこと、(二)ひとつのことがらについて複数の記録が存在する場合は、それらをすべて列挙して異聞をそなえること、(三)誤りを正すこと、(四)いささかの論評を加えること】、と述べていて、それに対して基本的な間違いを指摘した学者は今まで皆無のようです。』

三国志そのもの中身を批判するのでなく、遥か後世の歴史書がいい加減であったからといって、いい加減な歴史書扱いされたのでは、著者の陳寿も注釈者の斐松之も浮かばれないでしょう。


纏向が卑弥呼の都かどうか、昨年文芸春秋が特集鼎談記事を掲載しました。

詳しくは
槍玉その34「卑弥呼の国はどこだ」をクリックしてご参照ください。

その中での考古学遺物から「纏向は卑弥呼の都でない証拠」といわれるところを紹介します。

大塚先生が「考古学から見ると九州説の最大の強みは鉄。北部九州から弥生時代の鉄器は二千点以上出ているのに、畿内説の中心なら県からは殆ど出てこない。」と言われ、高島先生が引き続いて「鉄器がどれくらい出るのかは、当時の生産力・政治力・文化レベルを計る重要な要素。山陰や中部九州、長野・群馬からも相当の鉄器が出ているが、纏向遺跡からは殆どでていない。」と出土品からは邪馬台国は北部九州を示している、と指摘されます。


中国人の地理認識についての木谷さんの意見

中国人は中国を基点として地理認識をする。日本列島を南北に連なるものと認識していた、と木谷さんは言われます。

最古のアジア地図15世紀龍谷図は、日本列島が北から南へと垂直に配置されています。したがって邪馬台国は九州から南に向かう、というのが古代中国人の地理感覚であった。

しかし、木谷さんの地理感覚はおかしいのです。
第一に、この本の冒頭に東アジアの地図が載せられています。その地図は、普通見られるメルカトール図法によるものでなく、モルワイデ図法か舟型多円錐図法による地図なのです。

それらの地図は距離や面積はメルカトール図法より正確に示すのですが、方位は不正確になります。したがって、これらの図を使うときには緯度経度の線が記入されるのが常識です。これは中学校くらいで教わることと思います。

その地図によって、魏志倭人伝で陳寿が「倭国は会稽東治の東」と述べていることを、地理認識が誤っている、と木谷さんは決めつけます。木谷さんの地図に同じ緯度ライン、上海~鹿児島を入れてみましたのでご覧下さい。(左下図)

木谷さんの地図ですと上海の東は琉球列島北部海上になります。鹿児島から300km近く離れてしまいます。実際は鹿児島市あたりなのです。木谷さんは、そんな雑な頭で邪馬台国大和説を展開されるのでしょうか?それとも、読者の頭が騙しやすい雑な頭と思っているのでしょうか?

なお、古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』の中で、同様な地図を掲載していますが、ちゃんと緯度経度線が入っています。(右下図参照)

龍谷図は混一疆理歴代国都之図というのが正式名称で、邪馬台国畿内説の方々が、古代の中国人の我が国の地理的認識を示す、として、大和説に都合のよい根拠とされて、重宝がられているようです。

古田武彦さんの、この15世紀の地図の評価は、後漢書の著者ハンヨウの「会稽東冶の東」と、「倭国之極南界也」の誤認識に基づいたものである。それによって、疆理歴代国都之図は、陳寿の認識する「会稽東治」の東、という倭国の位置より、ずっと南になってしまった、とされます。

なぜ、日本列島が、混一疆理歴代国都之図で方位が間違って描かれたのか、ということは、弘中芳男氏の「古地図と邪馬台国」で次のように検証結果を述べています。
【15世紀の初頭に、朝鮮の権近が、西を上方にして描かれている日本の行基図を不用意に挿入してしまった爲に日本列島が転倒した形に描かれることになった】と。行基図とは、743年奈良時代に、僧行基が各地を行脚して、海道図(行基図)を編集した日本最古の地図です。
木谷さんの地図に緯度経度を入れると

木谷さんの会稽東冶について

もうひとつ問題なのは、会稽東冶問題です。木谷さんは勝手に原文を読みかえた振り仮名をつけて、自説に合わせます。

倭人伝にあまり詳しくない読者にとっては興味ない事柄かもしれませんが、地理感覚から言うと大違いのことなのです。くどいかもしれませんが我慢ください。
倭人伝には、邪馬台国は会稽郡(現在の上海)や東治(とうや)県の東にある、と説明されます。

まず、倭人伝には東治とあって東冶ではないのです。それじゃ木谷さんも同じじゃないか、と仰るかも知れません。
しかし、東治は「とうや」とは読めないのです。また、東治県というのも存在しないのです。つまり、東冶県という地名に合わせて「東治」を「とうや」と読ませる錯覚を起こさせている、推理作家のテクニックを使っています。

このことは些細と読者は思われるかもしれませんが、邪馬台国が九州になるか琉球・台湾あたりになるか、中国人の地理感覚がいい加減かどうか、という大問題なのです。

この点についても、今まで何度か、古田武彦さんの「邪馬台国」はなかったのなかでの、意見をご紹介し、その方が道理に合う、としています。
しかし、この古田武彦さんの「会稽東治の東」、をそのまま採用しても、邪馬台国近畿論者にとっても、範囲内にちゃんと入るのですから、問題に何故するのか、とも思います。やはり、倭人伝がおかしい、陳寿の地理認識がおかしい本だ、と言いたいからなのでしょうか?

木谷さんの本当の気持ちは、陳寿の倭人伝に「会稽東治」とあるのは、『後漢書』でハンヨウが書いているように、「会稽東冶」であろう。「東治」も「東冶」も同じようなものだ。「東治」と書いてあるけれど、ここは「東冶」の書写ミスであろう。「東治」と書いてあっても「とうや」と読むべきであろう、ということかな、と思います。

しかし、その説明の過程を省略しているのは、狡猾な姑息な手段だ、と思います。前提をこっそり変えられていたら議論の仕様がありません。
会稽東治の東の図
木谷さんは、邪馬台国の論争について、学者に任せると言いながら、個々のことについて意見を言われるので、却って全体がおかしくなります


★『
日本書紀』についての木谷さんの意見

木谷さんは、『日本書紀』は天武の意によって編集された、と、まあ、一般的なことを述べられます。
『日本書紀』がいい加減な本だ、ということを再三書かれています。『日本書紀』のいい加減さの例、「王仁と千字本」を上げられます。王仁の時代にはまだ「千字文」は出来ていなかった、ということです。

木谷さんには、「『記・紀』以前の資料によって書かれた」と称する『古代日本正史』(原田常治著 もと講談倶楽部編集長 1977年歿)の方が、『日本書紀』よりも信頼できる、様です。

木谷さんが問題にする、【「千字文」は、王仁よりあとに出来た『日本書紀』のいい加減さ】は、確かにその面はあります。「千字文」というのは1000の違った文字で4字組の250文で造った文章です。6世紀南朝梁の時代に、周興嗣が皇帝の命で一晩で書き上げ、朝、髪が白髪になった、というエピソードが伝えられています。

応神天皇16年(285年)に百済から王仁が千字文をもたらした、と『日本書紀』にある、6世紀に作られた千字文が応神天皇の時期(4世紀)に渡来出来た筈がない、というのが、木谷さんの主張なのです。

『日本書紀』が言う千字文は他のものが作った千字文ではなかったか、という説もあるそうです。仮にそうであっても、だから『日本書紀』はでたらめ、とはいえないと思います。又、この話は『古事記』にも出ています。何らかの事情で時期が間違ったか、周興嗣とは別の千字文
があった、と考えておいて特に問題がないと思います。

それにしても、木谷さんはなぜか『古事記』について全くといってよいほど言及されません。『古事記』については無視されているようです。全体の中で本の話のついでに、3回「古事記」という言葉は出てきていますが、全くその内容はありません。

木谷恭介さんにとって『古事記』は歴史書ではないのでしょうか?『万葉集』などから沢山の古歌を引用されますが、『古事記』からの引用は皆無です。作家であるのにどうしてだろうか、歴史書としても説話物語としても、取り上げる価値がない、と言いたいのでしょうか?『古事記』を史書として取り扱うと、木谷さんの説に不都合が出るからでしょうか?


『日本書紀』より『古代日本正史』?と仰るのも驚きです。『古代日本正史』の著者原田常治(1903~1977)は、講談社講談倶楽部編集長をなさっていた方です。しかも、原田さん自体が、「神社などの創立時の記録を調べてみたが、8世紀以前の神社の創立時の記録はない」と云っているにも関らず、です。


★『隋書』のタリシヒコについての木谷さんの意見

【『隋書』に俀国伝という記述がある。多利思比孤という王名も出ている。しかも非礼な国書を送って煬帝を怒らせたとある。それで、日本書紀の編集者は「聖徳太子」というヒーローを作りだした】
【俀〈たい〉王というのは、多利思比孤の国書に自署したものであろう。多利思比孤は聖徳太子であろう、とされるが木谷さんにはそうとは思ええない。俀〈たい〉国は九州にあった王朝と極端な説を立てる学者もいる】

『隋書』の記事について、木谷さんの混乱ぶりを示しているのですが、それも止むを得ないことでしょう。大和一元史観、古代から大和朝廷が日本列島を支配していたとする史観、の方々にとって、『隋書』の「タリシヒコ」問題と、『旧唐書』の「倭国伝・日本伝併記」問題が頭痛の種なのですから。

俀国は九州に在った王朝、という学者の説を「極端」ととらえず「真実」ととらえたら、聖徳太子創作説の方向に進まなくてもよかった、ということになると思います。

聖徳太子創作説については、
槍玉その37 大山誠一中部大学教授の「聖徳太子と日本人」で詳説しましたのでそちらをクリックしてご覧ください。


称制についての木谷さんの意見

木谷さんは、天智天皇が天皇に即位せず7年間「称制」を取ったことについて、次の様に述べられます。悰
【間人(はしひと)皇女との仲は、実妹との関係であり、古来忌むべきものとされていたからで、彼女が亡くなって即位した】

これについて、そういうこともあるかも知れない、と思わせるような書きっぷりです。が、待てよ、もし間人皇女が死ななかったら永久に即位しなかったのかな、とネットで調べてみました。皇女が亡くなったのは665年です。天智天皇の即位は668年と3年の間があります。直木孝次郎さんなども不倫関係があった説だそうですが、称制を続けた原因とまでは言っていらっしゃらないようです。

この木谷推理作家の見方に対して、当研究会の推理は次のようなものです。

これは、即位ということを、海外の情勢との関係で見る必要があるのではないかと思います。

特に唐と新羅との戦争で倭国が負け、その責任が及ぶのかどうかを見極めて、称制を止めた。

後述しますが、667年に百済の鎮将劉仁願の部下郭務悰や李守真などが来日などが『日本書紀』に記されています。そこで戦後処理の方向が決まったので、即位したという推理の方が、妥当性について勝るのではないか、と思うのですが、如何でしょうか?


壬申の乱について木谷さんの意見

壬申の乱に唐の関与はないとされます。
【劉仁願がきた。その後の天智の業績をみるとそれほど大きなトラブルがあったとは思えない】
そして、壬申の乱は、【天武天皇は百済系、天智天皇は高句麗系で、この主導権争いであった】と。

この壬申の乱についての情報源は『日本書紀』が唯一と言ってよいほどだと思います。『日本書紀』の記事は嘘が多く信用できない、と言われる木谷さんが、「唐の関与はなかった」と何故言い切れるのか、そこの説明はありません。自説の天武は百済系、天智は高句麗系の争い、という風に持っていくための布石と思われます。確かに、郭務悰が帰国してから壬申の乱が始まった、と『日本書紀』は記しますので、その意味では、唐軍の直接的関与がなかった、といえるでしょう。

『日本書紀』には、664年劉仁願が部下を派遣し、その部下郭務悰がその後何度も往復します。665年に唐から劉徳高が254人の使節団、667年に劉仁願の代理や李守真が来日、などが『日本書紀』に記されています。
『日本書紀』が、中国に向けて日本国の正史として編集した、と木谷さんはいわれるのですから、ここの部分の記事は実際にあったことと木谷さんも認めなければいけないでしょう。

その後、郭務悰が2000人の唐軍を率いて2回来日しています。天智天皇が亡くなり、そして郭務悰が仕事が終わった、と帰国した、そのあと2カ月も経たないうちに壬申の乱が勃発します。

このように、白村江の敗戦後の郭務悰などの動向を記す『日本書紀』の記事からみますと、天武は、唐や新羅の今後の動きも見通したうえで、天智天皇系の一派には任せられない、と始めた壬申の乱、との理解の方が、正しいのではないかと思います。日本書紀が隠している、筑紫君薩夜馬の帰国後の方に当研究会は興味をそそられます。


木谷さんの日本が百済に肩入れについての見方

【日本としては、親戚百済が滅びるのを見過ごすことが出来なかった。当時の朝廷では百済語が使われていた位親密であった。だから、苦戦を覚悟で出て行った】、とされます。

吉備国風土記逸文に、斉明天皇から2万人の兵士の徴発令があったが、天皇の死によって行かずに済んだ、というようなことが書いてあります。つまり斉明天皇軍は参戦していないのです。百済に対し、倭国は義理があってもヤマトにには親密さはなかった、と見るのが常識的判断でしょう。『日本書紀』にはそのように書いていませんが。


木谷さんの神功皇后は新羅から攻め上がった説

木谷さんは、「神功皇后」を次のように説明されます。【神功皇后は、『日本書紀』が言うように、日本から新羅に攻めて行ったのでなく、新羅から攻めてきた、と理解すべき。そうすれば理解しやすい。そして、宇佐に落ち着いて、それから大和・河内へと勢力をのばす。これが『宋書』にもある、倭の五王の河内王朝となった】

しかし、この話と纏向の箸墓に眠るとされる、卑弥呼との関係については何の説明もありません。話の筋から想像すると、卑弥呼の国邪馬台国は、神功皇后によって攻め滅ばされた、ということになります。

しかし、木谷さんは、無理にこじつけるとボロが出るということがわかっているからと思われますが、肝心のところで逃げている、と思われても仕方ないことでしょう。


木谷さんのちょっと驚く仮説

木谷さんの仮説の内、少し驚くのは【百済の豊が白村江の敗戦後、日本に亡命してきて藤原鎌足になった】 という仮説です。

木谷さんは、豊
は日本で鎌足になったと主張されます。根拠として、『旧唐書』では「豊璋は逃げた」とだけ書いているのに、『日本書紀』には「豊璋は高句麗に逃げた」と、高句麗へとしているところに作為を感じる、日本に逃げ帰ったのではない、とわざわざ断っているようだ、ということだそうです。そして、鎌足になりすました、とされます。

根拠として、『鎌足と天智天皇を結ぶのは「百済」だ。この過去の事実をを消すために、日本中の書類を集め、自分たちのコンセプトに合わないものは全て廃棄した』、とされます。

高木彬光さん(応神・仁徳の両天皇は同一人物=倭王讃)、小林恵子さん(雄略=百済王昆支)、斎藤忠さん(天武=筑紫君薩野馬の弟説)と同じように、SFの世界に遊ばれているようです。

この豊璋=鎌足仮説は、アリバイ崩しがお得意の推理作家の仮説とも思えません。

時代が合わないのに、その説明がないのです。 有名な鎌足の下賜妻事件は642年ですし、今問題の豊璋亡命事件は663年です。これ一つをとっても時代が合わないのです。

木谷さんがこの説を進めるのであれば、もっと沢山の仮説、豊璋二代目とか、かなりの追加仮説を立てて、説き起こさなければならないことでしょう。それは一冊の面白い歴史小説になるかもしれませんが、あくまでも歴史ではなく、小説でしかあり得ないでしょう。 時代が合わないことなど全く説明なしです。このようないい加減な仮説で「邪馬台国大和説」を説かれたら、本物の「大和説」信奉者の人たちからも見放されるのではないでしょうか。

映画アバターなどのSF作品でも、もう少し理屈を付けてリアルに仕上げようとしていますよ、と木谷さんに言いたいと思います。
(追記:木谷さんは 『旧唐書』には「逃げた」と書いてあるのに『日本書紀』には「高麗へ逃げた」としているのはおかしい、とします。しかし、『資治通鑑』には、龍朔3年9月のところに、「豊は身を脱し高麗へ逃げた」と書いてあります。2018.12)


木谷さんの力説、「『日本書紀』は信用できない。」

最初から嘘をついた。高天原から天降ったなどと。
【ぼくは、『日本書紀』に書かれていることは全く信用できない】 と断言されます

まあ、神話ということで、あり得ないことを描いているのは事実でしょう。神話・伝承の非現実的な中に真実のかけらを探す、ということを放棄されては歴史を語る資格がないのではないでしょうか?それにしても、この本の中に沢山の『日本書紀』からの引用があります。『日本書紀』がなかったら、この木谷さんの本は出来上がらないでしょう。

韓国で武寧王の墓碑が発見され、斯麻王とあり、『日本書紀』の記述と合致したことなども否定されるのでしょうか。

木谷さんが『古事記』を引用しない理由は、中国の属国とするのを嫌って神話を創作した、という立場では、『古事記』とほとんど同じ国生み神話がある『日本書紀』も、存在しない方が良い、ということなのでしょうか?


木谷さんの、天武の意図は曲げられた、という説

木谷さんは、「日本の歴史をつくる」という天武の意図は曲げられて、日本の天皇は「神の子孫であり永遠に天皇であり続ける」つまり万世一系のコンセプトに変更したのは、持統天皇の要請。これは、不比等の思惑と一致した。

そのあと、藤原不比等の話から、天平文化~藤原氏の栄耀栄華の話が続き、日本書紀論の結論として【『日本書紀』から読み取ることが出来るのは、持統天皇や藤原不比等が自分たちの願望を達成する為、こうあって欲しいと願っていた、その願望だけだとぼくは思います】 と締めくくります。

この時代のことを語るのに万葉秀歌を沢山入れて、話を軟らかくされるテクニックは流石です。


これも、どこかで聞いたセリフと思います。槍玉37に上げます大山さんの『聖徳太子と日本人』でほぼ同様なことを書かれています。木谷さんは、一生懸命説明していますが説得力はあまりないようです。

そのなかで、興味深かったのは柿本人麻呂の「大君は神にしいませば天雲の雷(いかづち)の上に庵(いおり)せるかも」の解説です。雷の丘とされる甘橿丘は20mもない高さで、よくも「天雲の雷の上」とよく言えたものだ、人麻呂のヨイショが過ぎた歌、と言われます。

この歌を古田武彦さんはどのように解説されているでしょうか、ご紹介したいと思います。

まず、『万葉集』で和歌に付けられた前書きや後書きは編集者が付加したものである。作歌場所や作者などにも疑いを持たなければなるまい、と考証されます。

最初に「大君は」でなく、原歌では「皇者」である。「すめろぎは」、であり、個々の天皇でなく、皇統をさす。「神にいませば」は、「死んで神になった」という、日本古来の「神」という理解をしなければならない。

作歌場所は、福岡県伊都の王墓群の近くの、雷山の雷神社であろう。雷山は標高は955mであり、天雲の上で歌の表現と合う。
作歌時期は、白村江の敗戦の後であろう。「スメロギは神にしませば天雲の上にいほらせるかも」である。

歌の意は、ニニギノミコト以来代々の王者は今は神様となって、雲の上の社(やしろ)に収まっていらっしゃるけれど、(民のいほりは荒れ果てています)、という余韻が込められた歌であり、決してヨイショの歌ではない、と解説されています。(『古代史の十字路 万葉批判』 東洋書林 2001年刊 より)


木谷さんの日本人の起源の再説

第二章で日本人はどこから来たのか、で述べられたことを再説します。その内容は、よりはっきりと明確になります。

【『日本書紀』という日本の正史に、日本は中国の属国でない、中国からの渡来者でない、と言いたくて、卑弥呼を消し、邪馬台国を消した。しかし、日本列島に住む人間は全て一人の例外もなく、中国からの渡来者である】

これは、前述しましたように、極端過ぎと思います。このことを言いたくて、第二章では、もう少し穏やかな日本人の起源の話をされていました。もう少し噛み砕いて説明して貰わないと、折角の宮之原警部が生み出した木谷恭介ファンにそっぽを向かれるのではないでしょうか?


全体として感じたこと

木谷さんは、考古学的成果を全くと言ってよいほど無視しています。
三種の神器は北部九州から陸続と出土していること、纏向周辺からは皆無など、大和説に不利な事物には目をつぶらざるをえないのでしょう。
 
弥生中期には、奈良周辺には奈良を除いて銅鐸文化が咲き誇ったようです。これも無視です。倭人伝には矛や弓、鏡は書かれていても銅鐸は書かれていません。この辺のことも触れるのを避けています。
邪馬台国大和説に不利な、倭人伝を貶める、陳寿を貶める、斐松之を無視する、ということを通しているようです。

このホームページで槍玉に上げた、いくつかの本を混ぜ合わせて、木谷流のミステリー小説風スパイスを利かせて仕上げた本といえるでしょう。

いくつかの本というのは、この研究会が取り上げた本でいいますと、<原ヤマト国家説 槍玉その11 小和田哲男 日本の歴史がわかる本>、<騎馬民族国家説 槍玉その25 江上波夫 騎馬民族国家>、<宇佐から崇神天皇東征説 槍玉その6 高木彬光 古代天皇の秘密>、<古代日本は中国の属国であった 槍玉その35 岡田英弘 日本史の誕生>、<聖徳太子実在せず 槍玉その37大山誠一 聖徳太子と日本人>これらを組み合わせた物語、チャンポンならぬ木谷流チャランポラン日本古代史ということでしょうか。

よくも「邪馬台国は甦る」という大層なタイトルを付けたもの、と改めての憤慨です。

(この項終わり) 
トップページに戻る  

          著作者リストに戻る