槍玉その8 『抹殺された倭王たち』-日本古代史へのこころみー 武蔵義弘著 批評文責 棟上寅七
●著者について
著者はこの本の奥書きには、1944年旧満州生まれ、都立高校勤務(日本史) とあります。
ご著作は、この『抹殺された倭王たち』以外に、『知られざる東京の史跡を探る』という本があるようです。
●この本を取り上げた理由について
本屋で、槍玉に上げる玉、を探していて、現役「高校教師」という経歴と、「抹殺された倭王の謎」という題名に引かれて、大枚1890円を支払い購入しました。
この本の特徴は、と云いますと、 古代史に疎い読者には分かり難い文章といえましょう。著者には、教師暦30年の積み重ねがおありで、『記・紀』の細部についての知識は豊富なようです。古代史の知識が豊富な専門家なら話の筋を追うこともできましょうが、一般の読者にとっては、話があっち飛び、こっち飛びで、理解するのが大変のようです。
槍玉として俎上に上げるために、この本を読みながら、内容を理解するために、ノートを作らざるを得ませんでした。まあ、当方の不勉強さを、著者にやつ当りしても申し訳ないのですが、分かり難い文章を、ノートを取りながら、読み進み、何とか、日本の国号・倭王は誰か・神武東征の3点を論じていることを理解することができました。
話は、まず、「日本の国号」を主題に7~8世紀の話し、次に、「倭の五王」の話で5~6世紀、最後に、「神武伝説」の話で2~BC2世紀と、話が遡って行き、流れに乗るのが難しい本でした。今までの槍玉に上げた、小説家の方々の本の読み易さが、つくづく有難く思われました。
●内容紹介
この本は、著者が古代史について、理解できないところを問題点として取り上げ、それに対する回答という形で述べられています。
先述の、ノートに著者が問題とした点とそれに対する著者の回答、に当研究会の意見をまとめました。
しかし、このノートを先に掲出しますと、この批判文全体としてまとまりにくい感じです。それで、著者に敬意を示すためにも、せめて抄論に纏めて紹介しようと思い、棟上ノートとして巻末に掲出しました。
本の内容をまとめますと、武蔵先生が説かれるところは、大きく分けて、「日本という国号は壬申の乱で大友皇子側の国号」説と、「日出る国の天子は彦人皇子」説、および、「神武東征はなく、応神東征から創作された」説 の三つだということです。(詳しくは巻末の「棟上ノート」を参照ください。
●本論にはいります。
まず、「日本の国号」についての武蔵先生の意見を検討したいと思います。なぜ「日本国号」かといいますと、武蔵先生の「問題提起と、その回答」は、前述のように、日本の国号・タリシヒコ彦人皇子説・神武東征架空説の三つです。
神武東征架空説は、槍玉その7 宮脇俊三 古代史の旅で詳述しましたので、そちらを参照いただくことにします。そこで、日本の国号はどのように使われ始めたのか、特に、『旧唐書』と『新唐書』の食い違いの謎、と言われるところを検討してみたいと思います。
武蔵先生は、日本という国号は、壬申の乱の敗者大友皇子側が使い始めた、としています。そういう生い立ちのために、『日本書紀』に”日本の国号成立の由来”が示されていない、としています。
日本という国号の由来につきましては、中国の史書『旧唐書』に”倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす”と記してあります。
又、日本と倭国の関係も書いてあるのですが、その記事が、『旧唐書』と『新唐書』では、微妙に食い違っています。
この食い違いを、検討しますと、日本の国号の由来や、「倭国」と「日本」の関係も浮かび上がってきます。
●『旧唐書』と『新唐書』における日本という国号の取り扱われ方について
(本稿につきましては、古田武彦著『失われた九州王朝』1979年刊角川文庫および、『失われた日本』1998年原書房刊 を参考にしました)
”日本”が『日本書紀』に現れているのは当然、と思われるかも知れませんが、雄略紀21年の項に、『日本旧記』に云う、と言う形で、”日本”が現れています。この『日本旧記』という書名は、『日本書紀』の成立以前に”日本”という国があり、その歴史書と理解せざるを得ないと思います。
又、『百済本記』に云う、と言う形で、『日本書紀』の継体紀25年に、【日本の天皇及び太子、皇子倶に崩ず】 と、外国史料に”日本”が使われていたことを記しています。
中国の史書に”日本”がはっきりと出てくるのは、『唐書』です。
『旧唐書』は945年の成立、『新唐書』は1060年の成立。唐帝国は618~907年の王朝。今問題にしている時期は、7世紀の終わりです。
なぜ、改めて『新唐書』が作られたか、『新唐書』の跋文にその説明があります。【『旧唐書』は唐王朝の滅亡(唐の後裔王朝後晋936~946年)と同時に作られたから、唐の前半期については詳しいのですが、後半期については簡略になっている。しかし、現代(10世紀)に近い時期こそ重要。なので、改めてこの一書を撰した】 と。
●二つの『唐書』の関係記事
『旧唐書』の倭国に関する記事をみてみましょう。
そこには、「倭国伝」と「日本伝」の両国伝が併置されています。「倭国」は金印を漢時代に授与された委奴国の後裔であり、領域は九州島を主領域としていると明瞭に説明しています。
「日本国」は、唐王朝の則天武后に公認され、「西と東は大海に至り、東と北は大山を限りとす」、とあり、日本の本州西半分の地形を示しているのは疑いようはありません。
ところが、この「日本国」が、本家の「倭国」を滅ぼし、併呑した、と言っているのです。
「倭国」が百済を支援し、白村江で唐と新羅の連合国に完敗しました。百済は即時滅亡しましたが(663年)、海を隔てた筑紫に本拠の有る「倭国」は、38年後(701年)に大波に呑み込まれ滅亡したわけです。
百済支援軍として筑紫の朝倉に来ていた、中大兄皇子の近畿王朝の部隊は、斉明天皇の死を奇貨として、喪に服する、と兵を引き上げ、結果、唐・新羅連合と戦わずに済ませることが出来たわけです。(『備中風土記』)
武蔵先生が、主張するような、「日本の国号の移動は、壬申の乱」という、いわば、王朝内のクーデター的な、ちっこい話ではない、ということです。
尚、『旧唐書』の編纂時点に近いところに、唐王朝の上級官吏になった、朝衡 という名まで貰った、阿倍仲麻呂(西安に仲麻呂記念碑があります・右写真)が唐に帰化人として存在していました。
彼が、筑紫王朝・近畿王朝の関係について、唐書編纂者に助言をしたことは想像に難くありません。
逆に、『新唐書』は、既に日本が倭国を併合し、『日本書紀』を正史として編纂し終わったあとの編纂です。『日本書紀』編さん以後、唐に派遣された遣唐使の面々も、『日本書紀』が正しい、と思い込んでいますから、いろいろとトラブル(実を以って答えず)が生じていることが、唐書に記されているわけです。
987年北宋に派遣された僧奝然(ちょうねん)が、『日本書紀』に基づいて、天皇系譜を記して、宋朝に提出した、ということが、『新唐書』に影響を与えたことも充分ありえたことでしょう。
武蔵先生は、同書24~29ページで、『旧唐書』と『新唐書』は全く反対のことを記している、としています。
【『旧唐書』では、「日本はもと小国だったが、倭国の地を併せて大きくなった」と記し、『新唐書』では「日本は小国だったのを、倭国に併合され、倭国が日本の名を称するようになった」と記している。 これは旧唐書のほうが常識的であり、新唐書は理解しがたい】 と言っておられます。
それでは、『旧唐書』の記事【日本旧小国、併倭国之地】 と『新唐書』の記事【日本乃小国、為倭所併、故冒其号】 をそのまま読んでみましょう。
『旧唐書』の記事は 【日本(併合後の国号の国)は元は小国であったが、倭国(筑紫)を併合した】 であり、
『新唐書』の記事は、【日本(筑紫)は小国で倭(近畿)に併合され その後の国は、日本を名乗った】 と言っているのです。
つまり、筑紫と近畿、どちらが大きかったか、という認識が、115年後に変わったようですが、【筑紫の王国が、日本を名乗っていて、(近畿)分流倭種王朝に滅ぼされ、日本国号も(本流倭種)として(近畿)王朝が引き継いだ】、ということになります。
【倭国(筑紫)王朝があった】、という補助線一本で、見事に解決するのです。このことは重大で、『日本書紀』と『古事記』が根本的に違うところです。
筑紫(本流)王朝の事跡も、唐王朝に公認された701年以降は、(分流近畿)日本王朝が引き継ぐのも当然、という立場に、『日本書紀』は立っているのです。
これは、現代でも、伝統のある会社に、お家騒動が生じたとしましょう。その結果、例え分家が勝利しても、ノレンは、旧ノレンそのままに維持するのが当たり前、ということに思い至れば、理解し易いでしょう。
『古事記』が、その新時代の権力者の立場に100%立つことが出来なかっことが、正史として日の目を見なかった、最大の理由でしょう。
武蔵先生の説く、『日本書紀』から『古事記』が作られた、というのは、木を見て森を見ず、の喩えそのものと言えましょう。
●彦人皇子=タリシヒコ説
武蔵先生の、タリシヒコ=彦人皇子説は、『隋書』のタリシヒコの記事の一部分だけを取り上げ、通説の聖徳太子説を斥け、彦人皇子がタリシヒコと主張されます。しかし、やれ、彦人皇子は、本当は天皇に即位していた・その在任は20年に及んだ・精神異常であった、などと単なる空想としか思われない論法の展開では、論評のしようがありません。
しかし、歴史教師歴30年の著者が世に問う3つの問題の内のひとつです、検討してあげないと失礼でしょう。阿毎多利思北(比)孤問題というのをざっとおさらいしてみましょう。
『隋書』俀(たい)国伝の記事に、昔から歴史家を悩ませる記事があります。
隋の煬帝に「日出づるところの天子、日没するところの天子に曰す、恙なきや」との国書を送り激怒させた「阿毎多利思北(比)孤」(アメのタリシホコ通説ではタリシヒコ)の記事です。教科書などにも出ている著名な古文献です。
この『隋書』俀国伝の記事には、たくさんの俀国についての記事が掲載されています。
まず問題点は?
①姓は阿毎、名は阿毎多利思北(比)孤という男王であること。(妻の名は雞弥)、
②兄弟執政であること。兄が夜明けまで結跏趺坐(仏教者の正座)で政務を行い、日中は弟に任せる、と記してあること。
③太子がいること(名は利歌弥多弗利)が上げられています。時期は推古天皇の時代と丁度重なります。ところが、『日本書紀』などの日本の史書にこれらの人物に該当する人物がいないのです。
④隋の使者(裴世清)はその阿毎多利思北(比)孤王に会って話しをした、と『隋書』は書き記しています。ご存知のように推古天皇は女帝です。男と女を間違えて報告するはずがありません。そこで、女性天皇を会わせると、なめられたらいけないから、代理の者が会った。その代理者が聖徳太子だ、というのが定説になっているようです。
武蔵先生は、それはおかしい、兄弟執政の問題がクリアー出来ていないと異議を唱えられます。たしかにその通りおかしいのです。
これらをクリアするために、武蔵先生が編み出した手法がこの彦人皇子=タリシヒコ説なのです。
押坂彦人大兄皇子=タリシヒコ説は、上記の3つの問題点をクリアーできる、と主張されます。
まず、①に対しては、当時は推古天皇ではなく、彦人皇子が天皇であったとされます。『日本書紀』などには全くそのような記録のかけらも見えませんが、それでこの①をクリアー出来る、とされます。確かに日本書紀などには、神武天皇の息子タギシミミ、天智天皇の息子大友皇子など、天皇の正当な後継者であり、天皇というか大王というかそれなりの地位を継承した、と思われるのに記紀にはそのように書かれていない例もあります。一応この仮説の第一の関門は突破できるかもしれません。
おまけにこの継体天皇から天武天皇にいたる皇統の系譜が極めてややこしいのです。継体天皇は20人以上?の子沢山ですし、欽明天皇も同様です。おまけに異母兄弟姉妹間の婚姻はOKだったりで、全体を図示するのは大変な作業です。一応別図のように「彦人皇子」と「聖徳太子」の関係がわかる程度の系図を『日本書紀』から拾い出してまとめました。
次の②の兄弟執政についてはどうでしょうか?
武蔵先生は、【彦人皇子と聖徳太子は系図をみても従兄弟である。また、聖徳太子の妃の中の一人の名前が、彦人皇子の妹の名にもある。つまり、彦人と聖徳は従兄弟であり且つ彦人の妹婿(義弟)であり、彦人皇子と聖徳太子コンビでマツリゴトを行っていた。その政治形態を勿体ぶって隋朝に”わが国では俀王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き結跏趺坐して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う、我が弟に委ねん”と説明したのだ】 とされます。
そうすると③の問題は、彦人皇子の子、田村皇子(後の舒明天皇)となり問題は解決する、とされます。
しかし、『日本書紀』に記載のない彦人皇子=天皇説を証明することは、勿論出来ていないわけです。また、厩戸皇子の種々の業績が日本の記録にありますが、彦人皇子と一緒に作業したような形跡は全く見当らないようです。『隋書』の記述に合わせるためには、このような歴史の書き換えをしなければ出来ない、ということの証明にはなるでしょうけれど。
武蔵先生がこのように、一応①②③の問題をクリアーした、といっても形だけのことで終わっています。
肝心の名前の不一致はどう解決できたのでしょうか。
彦人皇子はオシサカノヒコヒトノオホエワウジであり、アメノタリシホコと何故名乗ったのか、という問題は残されたままです。田村皇子は、『隋書』が記すリカミタフリ(利歌弥多弗利)とは似ても似つかない名前です。
先の、『隋書』の記事から窺えるのは、兄王の方が、仏法に励み、弟王が俗事を処理するように読み取れます。ご承知のように、聖徳太子がその弟王だとすると、ちょっとおかしい、逆ならまだ判るけれど、ということでしょう。本書にも、【聖徳太子は皇族での仏教に対しての最初の帰依者であり仏家の保護者であった】と述べてあります。(同書p139)
根本の、『日本書紀』などから、何故彦人天皇が抹殺されたのか、ということについて、武蔵先生は次のように説かれます。
【それは、不名誉な死に方をしたからだ、それも安康天皇や崇峻天皇など殺された天皇たちよりも暴虐度が高かったのではないか、精神異常であったのではないか。日本書紀に見られる武烈天皇の非道ぶりも、彦人皇子の事跡を転嫁したのではないか、とされます。そして、見かねて彦人皇子を殺害したのは、息子の田村皇子ではないか、そのような不名誉のために正史から抹殺された、と説かれます。このあたりの推古紀の記事にいろいろ不審な点がある】、とされます。
これは全く推測X推測の小説の世界の解法であり、歴史学的な検討には程遠いものです。
●「二人の聖徳太子」という本があります。
小林久三さんという推理作家の作品に、この時代の同様な問題を取り扱った【二人の聖徳太子』という本があります。同様な問題を、小林さんは推理小説の背景として使っています。武蔵先生も、歴史研究書ではなく、古代推理仮説本としてまとめられた方が良かったのではないか、と思われます。
小林さんの『二人の聖徳太子』につきましては、棟上寅七の古代史本批評のブログで取り上げました。その一部を転載します。
【武蔵先生の彦人皇子=タリシヒコ説のことを調べるためにネットサーフをしていて、二人の聖徳太子という小林久三さんの推理小説にブッツカリAmazonから取り寄せました。と言っても本代\1で、345円の送料だけでしたが。早速読んで見ましたが、推理小説としての出来映えはともかく、飛鳥時代の始まりの頃の古代史の常識を整理させてくれる本ではありました。
小林久三さんなりの古代史観を登場人物・主人公の父親で、サラリーマンながら趣味で古代史を研究している、という設定で、飛鳥時代の歴史を講釈されます。問題の彦人皇子=タリシヒコ説ではなく、蘇我馬子=タリシヒコ説でした。武蔵先生と同様に日本書紀の記述はいろいろと創作が入っている、ということでかなり自由に意見を述べられています。
アレキサンダー大王伝説が神武東征伝説になった、とか、正当な皇統継承者彦人皇子を蘇我馬子(タリシヒコ王)が暗殺したために、正史に載せることが出来なくなり、隋書との矛盾が判りながら推古天皇(女帝)とせざるを得なかった、などとされます。しかし、小林久三さんは推理小説の背景として使っているだけですし、武蔵先生のような歴史研究書としての発表とは違います。
武蔵先生も”小説”として発表されるべき性質の著作ではなかったのかなあ、と寅七には思われます。
ところで、小林久三さんの小説の題名「二人の聖徳太子」とは、聖徳太子とその子、山背皇子とは同一人物ではなかったか、と作中人物に推定させるところからのようです。推理小説としての謎解きが終わったあと、主人公に今後聖徳太子の勉強をしたい、と言わせていますので、今後の小林さんの聖徳太子像の新展開が期待されました。
なぜなら、小林さんは、この本の参考図書として上げられた13冊の本の中に、古田武彦さんの『法隆寺のなかの九州王朝』がありました。釈迦三尊像・法隆寺・聖徳太子の17条の憲法も九州王朝から、という古田史学に触れて、小林さんの新しい聖徳太子像、古代史像が期待されたのに、残念ながら一昨年、寅七と同い年なのにお亡くなりになっています。合掌。】
武蔵先生のタリシヒコ=彦人皇子説もこのようなフィクションの作品に仕上げるべきであったのではないでしょうか。インターネットで検索しますと、タリシヒコ=彦人皇子説をとる「和の空間」というホームページの主宰もいらっしゃいましたので、ついでに紹介し、それに対する当方の意見も付記しておきます。
【タリシヒコが聖徳太子でなくて押坂彦人大兄皇子だと考える積極的な理由の一つは、太 子 彦人 皇子(用明紀2年4月条)という名前にある。この名前のうち太子彦人のヒトが聞こえずに、タイシヒコがタリシヒコに聞こえた可能性がある】
これは、重箱読みでありおかしい。名前の読みは、タイシゲンジン的かヒツギノミコヒコヒト的のいずれかでの紹介であっただろうし、その場合タリシヒコに訛化する可能性は、常識的判断としてはあり得ないと思う。リカミタフリという皇子の名と田村皇子との名前の不一致は置き去りにされています。
尚、このタリシホコについて多元史観の立場から古田武彦さんは次のように説かれます。(詳しくは、『失われた九州王朝』・『法隆寺の中の九州王朝』をごらんください)
【阿毎多利思北孤(アメタリシホコ)は九州にあった王朝の王、アメのタリシホコ、「天の足りし矛」であろう。日本書紀などにも同様な「天日槍」(アメノヒボコ)などと同系列の名前であろう。利歌弥多弗利という太子の名は、中国風の一字名であろう、つまり「利」という名で、利、カミタフの利と読むのではないか】、と説かれます。【カミタフとは、福岡市東区の上塔という地名であろう】、とも。確かにこの古田武彦さんの説明は、理が通った解釈と思われます。
●”感想” 難しい命題も補助線一本で解決できる
率直に申し上げて、この本は感想を述べるには、著者のご努力に対して申し訳ないくらい、のマイナスの感想きり出て来ません。
当方の知識レベルが低いのでしょうか、非常に分かり難い、流れが飲み込み難い、何を云いたいのか分かり難い、読んでて楽しくない、この本読んだら、歴史が嫌いになるのではないかなと心配になりました。企業のレポートならば、申し訳ないが失格でしょう。
こちらのコンプレックスかも知れませんが、『日本書紀』の細部に詳しいことを、暗に言い立てている感じがしました。左下のイラストのように、一生懸命熱心に教えたてても、基本的に不条理なことを無理な解釈を押し付けても身には付きません。
自説に都合の悪いところは、資料をぼかす、通説で逃げる、資料の誤記説とする。推古天皇以前の日本の記録年代は全ていい加減として、外国資料との辻褄をあわせる。その外国資料も自説に合わせて都合よく解釈し、あわないところは無視されます。一つの命題に、仮定を設定し、その結果がうまくいかないと、更に仮定を重ね、謎が謎を増幅させ、小説の世界に入っている、と云ってよいでしょう。
古代のわれわれの祖先、倭人を、無知蒙昧的に見下している著述箇所が多いようです。確かに『隋書』にも百済から文字が伝わるまでは、「無文字、唯刻木結繩」という状態であったようです。しかし、この刻木結縄がいかなる技術なのか知るすべはありませんが、伝承を口誦する努力はなされたことでしょう。『日本書紀』神代紀の”一書に曰く”の数多い一書も、それぞれの伝承を口誦が続けられたことによるものでしょう。
武蔵先生は歴史研究者でありながら、この『隋書』の基本的なところ、「俀国伝」を、倭国伝と無造作に読み替えられていて、その理由を示されていません。同様に、邪馬台国畿内説に立つ、と仰りながら、その論拠は全くといってよいほど示されません。
『隋書』に「その国に阿蘇山あり」とされるところの解釈に、船で石棺を輸送中のところを隋の使者が見て、あの石はどこから来たのか、と問い、阿蘇山からと答えたためであろう、九州王朝説なる珍説を唱えるものがいるようだが、九州王朝の根拠なし、とされます。使者が阿蘇山に行き、その風景を実際見た感想も入っているのに、「九州王朝=珍説」で生徒は納得するでしょうか?
正直言って、もしこの先生が教鞭をとる高校で、この本が日本史の副読本的な取り扱いをされていたら、そこの高校生は可哀相だと思います。
右の、イラストのように、生徒には教わる興味が失せ、日本史嫌いを生産して行くだけではないでしょうか。
高校時代習った幾何学で、難しい命題も補助線一本で解決する場合がありました。この本に、”倭国は筑紫の王国”という補助線一本で、この本の問題は殆ど解決するのに、と思いました。
抹殺された倭王たち 棟上ノート
目 次 |
武蔵先生が古代史で疑問に思っていることなど |
武藤先生の、自分の疑問に対する自身の回答 |
棟上寅七の意見 |
第一章 |
わが国は昔倭国と呼ばれていて、後に日本という国号が成立した。しかし『日本書紀』には大昔から大日本大秋津島というように日本が使われている。(p11) |
矛盾している。国号の成立由来の謎への挑戦(p12) |
『古事記』が対象とした推古天皇迄の時点では、まだ”日本”でなかった、という証明と思われる。 |
『古事記』には日本は出てこない(p12) |
『古事記』の成立は和銅5年(712年)ではなく、もっと新しい。『日本書紀』から造られた。(後出)(P12) |
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『三国史記』新羅本紀の倭国の記事を紹介「倭国更めて日本と号す・・・・」及び『旧唐書』の倭国日本伝の国の記事の紹介「日本国は倭国の別種なり・・・・」(p16)『続日本紀』の粟田真人の報告書紹介(p17) |
唐→周の国号変更を日本が知らなかったのはおかしい(p17) |
『旧唐書』・『新唐書』の倭国と日本の記事は、どちらも正。 |
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『新唐書』の「日本乃ち小国倭の併せるところとなる。(p25) |
旧と新では正反対、どちらが正か(p25) |
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『旧唐書』のほうが常識的だが倭国と日本との説明がおかしい(p28) |
しかしそのような格式を持った国が日本列島に存した形跡なし。唐書の誤伝による誤記(p28) |
『唐書』に、明らかに倭と日本と書き分けているではないか |
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『新唐書』の小国日本が倭国を併合した、という史実は何があるか?{実を以ってこたえず}とは?(p29) |
壬申の乱がその変動の史実。大友方が日本国と名乗った(p34,43)。 |
大友皇子が日本と名乗った史実は無いと思うが、根拠の証拠は示していない。単なる推測。 |
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何故『日本書紀』は日本の国号の成立について口を閉ざしているのか(p29) |
有史以来存在してい、中国とは一貫して独自性を持つ、というためのフィクション |
宗家を乗っ取ったのだから、宗家の”名”を名乗るのは当たり前、という立場でしょう。 |
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いつ国号が日本になったのか。天智説天武説の紹介(p30) |
天武説だと『三国史記』と合わない。 |
推測x推測。 |
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倭と日本の国号変更がすっきりしないのは天武が日本を嫌い倭に戻した(p46,48) |
天武紀には「日本」の二文字なし。対馬の銀も倭国としている。(p49) 12年の」詔勅に明神御大八州倭根子の表記がある。(p51) |
よく『日本書紀』を調べてはいる。 |
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天皇の名称はいつから使われたか?(p53) |
天皇が確定したのは奈良朝以降?(p53) |
『百済本紀』に「日本天皇皇子共に死す」の記事がある。(継体25年) |
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唐から2000人来た。壬申の乱の前1ヶ月、多量の物資を提供している(p55) |
唐の狙いは対新羅戦の協力を求めることにあったのは明らか(p55) |
壬申の乱前、というより 白村江の終戦処理に来たのではないか |
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持統天皇で日本が盛んに『日本書紀』に現れる(p59) |
しかし対外的に「日本」使ったことにはならない。670年に倭国が新羅に改名通知(『三国史記』)はあったが次に日本が現れるのは698年だから。(p63) |
著者が通説よりもっと後年に国号成立を持っていこうとするのはなぜか。壬申の乱まで遅らせたい為だと思われる。 |
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701年の遣唐使で唐にも正式に知らせた |
日本は確かにあったが小国で消滅し、名前が立派だったので名前をいただいた |
そんな馬鹿な!!『旧唐書』をそのまま読めば、理解できる。(本論で論じる) |
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『日本書紀』は持統天皇が文武天皇に譲位で終わっている |
持統天皇が孫の文武天皇を励ます意味で日本を復活させた(p68) |
全くの推測憶測 |
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大化という年号の採用、しかし孝徳一代で中断(p70) |
大化の改新の真の契機は蘇我討伐でなく白村江の敗戦(p69) |
まだ本家が年号を立てていたからではないか。 |
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孝徳朝。国司任命「今始めて万国を修めんとす」。畿内に限られていた。他地方は「附傭す」の関係であった。(p73)孝徳朝の国司任命で地方に抵抗が無かったのはなぜか(p78) |
従来の倭国の領域を越えて権限伸張が日本国への名称変更を促した。(p75) |
'つまり、これまで大和朝廷は近畿地方に領域が限られていたこと、を述べている。抵抗の有無は、唐軍という外圧の影響を考える必要があろう。 |
' |
日本国号制定の件が『日本書紀』にあるのでは(p78) |
天智9年山御井での儀式という記事があるがそれでないか(p80) |
もし、そうであれば、「国号制定」という行事の記載があってしかるべきであろう。推論の仮定が推論の結末となる。 |
第二章日出る国の天子とは誰か' |
仁徳以前の日本の記録は疑わしい(p84) |
倭の五王と『宋書』にあるから国王はいたのであろうが。しかし『宋書』や好太子碑文にある倭王について日本の史書は殆ど語っていない。検討の要あり。(p84) |
謎解きの仮定が又謎を次々と生む。呼ぶ、そして出口の無い迷路に入り込む |
' |
七枝刀の銘文の百済との関係が雄略天皇紀になにもない(p85) |
神功皇后紀に『百済記』を改変して挿入(p85) |
『日本書紀』にはいろいろな史書からの改変転載は多いのは事実でしょう。 |
' |
好太王碑の記す事件が我が国の史書にない(85~86) |
欽明時代はむしろ高麗と友好関係(p86) |
好太王碑文の”倭”が大和王朝と無関係な証拠。 |
' |
倭の五王の記事も我が国の史書にない(p87) |
わずか呉国の使者来国、身狭村主青呉に派遣(雄略紀)あるのみ(p87) |
『宋書』の倭の五王が大和王朝と無関係な証拠。 |
' |
倭王武と雄略は年代の上で対応していない(p89) |
雄略の即位は書紀の記事より20年後であった(p90) |
『日本書紀』の記事を勝手に改変しての辻褄あわせをしている。 |
' |
日本書紀に継体天皇は531年に亡くなったとあるが、本当はこの年に武烈天皇が亡くなったのではないか(p91) |
『百済本紀』に日本の天皇太子皇子共に死す、とあり、皇統断絶である。(p91) |
『日本書紀』をいくら読んでも回答は見つからないと思うが。 |
' |
『日本書紀』に武烈には子がない、とあるのは(p91) |
継体の登場を合理的に説明するため(p91) |
そういう見方も可能ではあろう。 |
' |
20年の繰り下がりはどこまで続くか(p92) |
各天皇の在位年数がいい加減なのだ(p92) |
自分の設定した謎で、無責任な結論に至っているようですが。 |
' |
仏教公伝欽明天皇13年552年だが、仏家系では538年欽明天皇7年が通説になっている(p93~) |
538年は宣化天皇3年に当たりおかしい。要するにはっきりしない。国内伝承の年代はこのようにいい加減だ。(p93) |
倭国への仏教伝来はもっと古いのではないか。九州年号の中に明らかに仏教関係と思われる「僧聴」という年号(536年)が存在する。 |
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602年来日の百済僧観勒が暦をもたらしたあとは正確(p95) |
彼女の治世が36年に及んだ、というのが怪しい。欽明からが正しいのか。(p96) |
またもや『日本書紀』の改変で辻褄をあわせようとする。 |
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雄略(武)は何故冊封体制にとどまらなかったのか(p95) |
雄略の時代に天下という概念が出来、亡命外来者に離脱をそそのかされた(p101~104) |
元々中国の冊封体制下に大和王朝はなかったからではないか。 |
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その結果、隋の煬帝を驚かせる国書となった(p104) |
北朝隋によって滅ぼされた梁から大量の亡命者(p104) |
亡命者=側近登用=蘇我一族 と、持って行きたいようだ |
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蘇我氏の出自がおかしい(p106)稲目は宣化朝突如桧舞台に登場(p107~108) |
蘇我氏は外来者であろう。 |
小説の世界に突入 |
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600年の『隋書』の倭国使者派遣がわが国の史書にない(p114) |
当時、推古天皇は聖徳太子を摂政に任じていたが、彦人皇子が倭王という仮説を提示する(p132) |
仮説にしても荒っぽい(本論で論じる) |
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隋使の会ったのは誰か、何故難波から飛鳥まで二ヶ月かかっているのか(p120) |
馬子主導の対隋強行外交の失敗を責める豪族の説得に時間がかかった。 |
隋使は倭国(筑紫)に到着した。その後、大和に出発したのだから2ヶ月かかったのは当然なのだ。 |
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小野妹子の国書盗難は嘘(p121) |
内容が屈辱的だったから、無いものとし、『日本書紀』に載せなかった。 |
これも彦人皇子が倭王という仮説のために、『日本書紀』の改変で済ませようとしている。 |
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『随書』倭国伝に阿蘇山が出てくる。倭王の都が九州にあったとする珍説もある(p124) |
難波で棺材の石が輸送を目撃し、産地を問い、阿蘇と聞いて、使者は倭国第一の珍物に上げた。(p124) |
『隋書』に倭国伝なし。俀国(たいこく)伝はある。その説明も無い! |
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使者が会った小墾田宮の謁見の状況から天皇はよく見えなかったので、女性を男性と見間違えた(p126) |
そんな馬鹿なことは無い。600年607年と2回会っている。推古女帝でもなく聖徳太子でもない、では誰か、彦人皇子だ。彼が倭王だ。その補佐役が聖徳太子だ。(p132) |
『日本書紀』に敏達天皇の子として系譜に上げられているだけの、彦人皇子に目をつけ、あとは創作し放題。(本論で論じる) |
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推古8年境部臣1万新羅に侵攻。これは、『隋書』倭国伝の記事と異なる。(p145) |
推古朝は曖昧な点が多い。推古即位は推古20年。それまでは彦人天皇。 |
『日本書紀』を改変して、彦人天皇治世20年間と辻褄合わせ。 |
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舒明天皇2年630年最初の遣唐使。この時点ではまだ倭王は大和地方のみ支配。高表仁来国し王子と争う(p152) |
高表仁が礼を争ったのは王子は古人皇子(p153) |
倭王は大和地方のみ支配、という理解であれば、高表仁が争ったのは”筑紫”国の王子、という発想が出てもよいのに。 |
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608年小野妹子の国書「東天皇西皇帝に敬白す」 は事実にあらず(p154) |
天皇号の使用は8世紀後半。阿輩鶏弥の号を使用したはず。(p154) |
天皇と皇帝、どちらが上位か、の検討が必要でしょう。皇帝が上。 |
第三章神武伝説を解く |
暦、干支の使用は欽明天皇以前にあったか(p168) |
暦は602年以降。墨田八幡画像鏡や稲荷山鉄剣に記された干支は単なる装飾に過ぎない(p170) |
日本の古代人の知識習得意欲に対する侮辱! |
古伝承はどこまで信じられるか |
応神以前の系譜や事跡記事は信憑性に乏しい、認める訳にはいかない(p174) |
暦の知識も文字無く記録を客観的に残せない(p175) |
古代の人も、一生懸命記録に残し、記憶に残したのではないのか? |
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奴国王、卑弥呼などの側近も漢文は出来なかった(p175) |
『隋書』倭国伝に倭人文字なし。百済に求めて仏教を得る。始めて文字あり。(p175) |
卑弥呼は”上表”している。文字で国書を送っているのに。 |
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系譜観念が導入されたのは倭の五王以降。世襲制も確立していず、王位の継承意識も薄かった。倭人社会は非歴史的であった。(p176) |
そして、倭の五王以後も通奏低音としてはこの傾向は続いている(p176) |
非歴史的、とか通奏低音、とか所謂”煙に巻く”手法 |
古事記への疑問 |
天武が削偽定実というのはおかしい(p177) |
天皇家の伝承を正とすればよい。『日本書紀』が『古事記』を一書に曰くの形で引用していない。古事記序文偽書疑惑あり、従って『古事記』の直接引用はしない。(p182)。 |
『古事記』の価値を全く認めない、と言うような、歴史研究者は珍しい。 |
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神武のモデルは応神天皇(p165) |
それぞれの東征に似た要素が多い。そっくりになっていないのは、作為の跡を消す必要から。 |
どうしても”神武は架空”にこだわっている |
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神功皇后は何者か。(p182) |
応神天皇の母、神功皇后オキナガタラシヒメ伝承はあった。新羅の高官の娘。三国史記の312年の倭王の息子に嫁いだ女性か。(p187~) |
これは、小説ネタにはなる話でしょうけれど。 |
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倭王讃は応神(p203) |
好太王碑391年倭侵攻の記事(p203) |
”倭王讃=応神=391年高句麗侵攻の倭”であれば、『記・紀』に全く関連記事ないのは何故か。 |
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神武以降の8代はでっち上げ(p204) |
神武の即位を辛酉革命説でBC660年とし、魏志で神功皇后の年代を特定し、あとは創作。(p204) |
辛酉革命説の証明を、武蔵先生にはしていただきたいもの。 |
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『記・紀』の天皇系譜が一致しているのは何故か。それなのに何故削偽定実なのか。(p206) |
天武以前に誰かが創作していた(206) |
伝承が、ほぼ同じだった、と素直に解釈したらよいと思う。 |
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『古事記』は『日本書紀』を基に作られた(p211) |
皇子の数、氏族の数が記の方が多い(オオビコの場合を除き)(p214) |
それなら、『古事記』が日の目を見なかった理由は何か? |
注 |
東遷説の根拠に銅鐸の消滅をあげるが(p218) |
単に原始通貨が消滅、流通形態の変更で説明がつく(p218) |
銅鐸通貨説は暴説ではないか。(注1) |
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九州と畿内の地名の一致は(p219) |
斉明天皇朝倉宮滞陣中、女帝を慰めるために地名を変更した(p219) |
地名説話は記紀には数多い。この斉明天皇の場合は、なぜ『日本書紀』に記されていないのか。 |
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邪馬台国は畿内にあった(p222) |
魏使は伊都にとどまり伝聞で記述したらしい(p222) |
”伝聞”それも”したらしい”と無責任に断定している。倭人伝については不勉強のように見受けられます。 |
注1 松本清張さんの著作をチェックしていましたら、『古代史私注』という本で、青銅器(銅剣・銅鐸)を、財物と捉えている見方がありました。
参考文献
『日本書紀』 岩波文庫
『古事記』 岩波文庫
『失われた九州王朝』 古田武彦 角川文庫
『法隆寺のなかの九州王朝』 古田武彦 朝日文庫
『古代史私注』 松本清張
『二人の聖徳太子』 小林久三
(この項終わり)
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