槍玉その43  偽書「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」事件  斎藤光政  新人物往来社 新人物文庫 2009.12.12  文責 棟上寅七


はじめに

斎藤光政この本は、東北地方にあった王国についての伝承をまとめた、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』をはじめとする、和田喜八郎氏所蔵の文書(和田家文書)は、全て和田喜八郎自身が書いた「偽書」である、ということが結論となっています。この件に新聞記者として係わった著者が、東日流外三郡誌に関連する著作権裁判と、「偽書ではない」と和田氏を擁護する派との論争などの顛末を纏めたものです。

「偽書かどうか」という論争は、1980代後半に始まっています。裁判の決着がついたのは、1995年の青森地裁、1997年1月の仙台高裁の判決を経て、原告側の上告によった1995年10月14日の最高裁判決でした。上告が棄却され、仙台高裁の判決が確定しました。

ところで棟上寅七は、まったくこの事件のことは知りませんでした。平成15年ごろからの古代史勉強で古田史学の会に入会し、会報その他の資料で東日流外三郡誌のことを知りました。古田史学の会がこの『東日流外三郡誌』で、いわゆる「偽書派」の安本美典氏、およびその拠点の『季刊邪馬台国』の論客と論議を戦わせたことを知りました。

今年夏、古田武彦さんが久留米大学の市民講座に講師でお見えになった際、食事をしながらの雑談時に、「もう『東日流外三郡誌』についての本はお書きにならないのですか?」とお聞きしました。「『寛政原本』を出版したので自分としては一区切りつけました。あと、竹田侑子さんが書いてくだされば良いが、と思っています」とおっしゃっていました。

それからしばらくして、『偽書「東日流外三郡誌」事件』という文庫本を本屋さんで見かけました。著者は青森の地元紙の新聞記者で、事件報道にもかかわっていたようなので、読んでみました。丁度、このホームページに載せるタネを探していた時でしたので、取り上げようかと思いました。

この斉藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』を俎上にあげるにあたって、反証として、古田武彦/竹田侑子共著の『東日流「内・外」三郡誌』(オンブック社)を読んでみられたら、その基本的な問題点は解消する、と言ってしまえば済むことかもしれないなあ、とまず思いました。

著者斉藤光政氏は、この文庫本へのあとがきで、古田武彦さんが『寛政原本』を出版されたということへの感想を述べています。偽書派の旗頭の古田武彦さんの大学教授時代の助手であった原田実氏に聞いた、として「あれも筆跡は同じで、偽書だ、古田さんの自爆ですよ」ということで済ませていました。

せめて、オンデマンド出版の『東日流「内・外」三郡誌』古田武彦/竹田侑子著 を、めくってみて、ご自身の感想の一言でも述べるのが、読者に対する礼儀ではないかと思ったので、やはり取り上げてみなければ、と奮いたちました。

しかし斉藤光政さんは、長年の社会部記者としての、「読者に興味をもって読ませる」ノウハウをお持ちです。斉藤さんの本を読むと「確かにおっしゃる通り、大変な偽書だ」という感想を持たれる本だ、と率直に感じる本に出来上がっています。事実、古田先生の九州王朝説はともかく、三郡誌については間違っている、という当研究会ホームページ読者からの意見も頂戴しています。

ですから、尚、この本の内容を検討していくことが、当研究会の姿勢の確認にも繋がるかなあ、と思い、偽書派真書派双方の膨大な資料の読み込み作業にかかったのですが、途中で大変なことに首を突っ込んだものだ、と弱音を上げたこともあります。いままで、このホームページの俎上に上げて検討したなかで一番手を焼いた本、と言えると思います。

前説はこれくらいにして、本論に入っていきます。

最初にお断りしておきますが、話を進める上で便宜上、和田家文書を偽書だと告発される方々を「偽書派」、いやそうではないとされる方々を「擁護派」と表現します。

そして、議論がわかりやすくなるように、と、斉藤光政さん及び「偽書派」 の意見を【青色】で表し、和田喜八郎氏および「擁護派」の意見を【赤色】で表しました。

内容が膨大なので、読者のみなさんに分かり易いように、当研究会がどのように検討を進めていったのか、目次的に流れをまず示しておきます。

はじめに
01・著者紹介と本の内容について
02・著者が偽書としていることについて
03・和田喜八郎氏という人物は?
04・著作権侵害裁判の顛末
05・偽書派と擁護派の争い
06・和田家文書史料批判
07・今後に残されていること
付記・喜八郎氏の反論
終わりに

という順番でまとめていくつもりです。

01 著者紹介と本の内容について

この本の著者略歴によりますと次のような方です。【1959年岩手県盛岡市生まれ、青森県八戸市育ち。成城大卒。1983年青森の東奥日報社という新聞社入社。政経部、社会部を経て社会部次長から編集委員。ご本人は「安全保障問題」が専門と仰っています。この『東日流外三郡誌』には1992年から取材に取り組み、各種記事を執筆。2006年に本書(単行本)を人物往来社より出版。2009年にこの文庫本版を出版。】



この本の内容のあらまし

まず、この和田家文書といわれる伝承が描く、東北地方の歴史とはなにか。これをまず、皆さんに知っていただく必要があると思います。

斎藤光政さんは、『偽書「東日流三郡誌」事件』で次のように、『外三郡誌』の内容を紹介しています。

『外三郡誌』が描く世界とはどんなものなのか、中身を簡単に紹介しよう。(p99~101)『外三郡誌』は、中世津軽の豪族である安東一族にかかわる歴史と伝承を、江戸時代の寛政元年から文政元年(1789~1818年)にかけて収集し、編集したという体裁をとっている。この江戸後期に存在したとされる古代~中世の文書や口伝えを、時系列や内容の矛盾にとらわれずそのまま書き留めたとされる独特のスタイルが、真贋論争を複雑にしていることはいうまでもなかった。

安東一族は、前九年の役(1051~1062年)の敗者である安倍氏の子孫とされる。前九年の役は、蝦夷のリーダーだった安倍一族の勢力があまりにも強大になったため、それを恐れた朝廷が源頼義・義家父子に征伐させたといわれる事件だ。

その後、敗者である安倍氏の末裔は、安東氏と名を変えて全国に分散しながらも、自分たちを滅ぼした朝廷に対して敵愾心を持ち続けた、というのが『外三郡誌』の根底を流れる基本テーマだった。中世の国際港湾都市として名高い市浦村・土三湊を支配した安東氏も安倍氏の流れをくむとされる。市浦村役場が『村史資料編』として『外三郡誌』を出版した理由がここにあった。

家史である『外三郡誌』の編纂を企画したのが、安東氏の末裔と伝えられる三春藩(福島県)七代藩主の秋田千季だった。千季はその命を縁者の秋田孝季に与えた。孝季は協力者で妹婿の和田長三郎吉次とともに、日本全国をくまなく歩き回り、各地に残る文書や伝承を記録・蒐集したとされる。吉次は五所川原市の石塔山荒覇吐神社を守る家柄とされ、『外三郡誌』の発見者とされる和田喜八郎の直接の先祖とされていた。なかなか魅力的なストーリーだった。


このような内容の紹介に続いて、これは偽書である、と続けます。

著者の存在も明らかでなく、三春藩の史料にもなく、天井から発見されその後も続々と発見され続けた。「寛政原本」がある、と古田武彦教授は主張するが、和田が死亡して七年後もまだ見つかっていない。荒唐無稽なもう一つの日本史、つまり偽書である】、という東大の末木教授(仏教学)の発言を紹介し代弁させています。

『東日流外三郡誌』和田喜八郎編(北方新社刊)が描き出す東北の歴史は次のようなものです。
まず、旧石器時代に氷結した日本海をわたって、大陸からモンゴロイドの一族が到来。縄文時代中期には、一つの王国にまとまった。(津保化族王国)。

紀元前7世紀のころ、九州から佐怒王が近畿に侵略し、長髄彦は兄の安日彦とともに東北に逃げてきた。彼らは津保化族と合流し、荒覇吐(あらはばき)王国を名乗った。これがのちに「蝦夷」と呼ばれる。

この後裔である、中世津軽の豪族、安東一族にかかわる歴史と伝承を、江戸時代の寛政元年から文政元年(1789~1818年)にかけて収集し、編集した
】、という体裁の「東日流外三郡誌」です。

しかし偽書派の皆さんは『東日流史と三郡誌(古代史)』北方新社刊を読んだ上で、「偽書だ!」、と主張されているのでしょうか。この本に、秋田孝季・和田長三郎連名で次のように言っている、と編者は書いています。
知られざる東日流日下王国
「凡そ本書は史伝に年代の相違なる諸説多しとも、一編の歴史と照会して事実錯誤の発見あれども、私考して訂正するは正確とぞ認め難く、訂正の労は後世なる識者に委ねたり。」とか、「本書をうのみに史実とすべからず、外三郡誌は諸説不漏に綴りたる歴書なりせば是を究明の要あり」】などと述べているのです。

編者の小館衷三さんは、ちゃんと、うわべ丈読んで早飲みこみをする偽書派のような方々が生じることを予感して、その様に秋田孝季などが警告していることを知らせた上で、出版されているのです。(同書p17~18)

つまり、史実でないところもあるかもしれない、間違っているところがあれば後世の識者にその判断は委ねる、とも言っているわけです。偽書派の方々が、『外三郡誌』など和田家文書を、「真実の史書」と著者が主張しているという取り方をされているのを見て、あの世で秋田孝季・和田長三郎両氏は苦笑しているのではないかな、と思ったりします。



02 著者が「偽書」としていることについて 

斎藤光政さんが、この和田家文書が、古文書ではなく、現代人が書いた「偽書」ではないかとして取り上げていることを整理してみますと、次のようなことのようです。

a)筆跡が和田喜八郎氏のものではないか
b)用語などに現代人が使うものがある
c)内容に後世(現代)の知識が入っている
d)他の本などからのパクリ的な叙述がある
e)挿絵なども同じくパクリがある
f)著者とされる秋田孝季などの存在が証明できない
g)文書の発見の経緯がいかがわしい
h)和田氏の所蔵する出土品 は、にせものではないのか
) 文書の年号などの間違いが多い、その他

これらについて一つ一つ見ていこうと思います。

02a)筆跡が和田喜八郎氏のものではないか

この斎藤光政さんの本では、まず「筆跡」問題から入ります。著者がこの問題に関わったのが、和田喜八郎氏の著作に自分の写真などが無断で使用された、という大分県別府市の野村さんの著作権侵害の提訴問題からなのです。

これは、野村孝彦さんというアマチュア古代史研究家が、熊野に年代の古い猪垣状の構築物を発見します。これを調査し、新聞などに論文を発表したりしました。当時、東北地方にて「東日流外三郡誌」などの古文書が発見されているというので、写真などの資料を付けて問い合わせしたりします。

その後、和田喜八郎氏が『知られざる東日流日下王国』という本を出します。ところがその本に、野村さんが送った写真や、資料などが無断で使われていることを知ります。そこで、野村さんは、著作権侵害と、和田家に伝わる史書というのは、和田氏が創作した偽書ではないか、ということも含めて提訴したということです。

この事件を斎藤光政さんは、東奥日報社より担当を命じられ、調べてみることになりました。そして、『東日流外三郡誌』という古文書を和田喜八郎氏が所有していて、その出版の過程でトラブルが生じている、ということを知ります。

その和田喜八郎氏が所蔵する古文書は、筆跡が和田喜八郎氏本人が書いたものではないか、という疑惑がある、と青森の地元有志からも告発を受けていることも知ります。そして、著作権侵害の問題と併せて、古文書自体が偽書ではないか、という告発を含めた裁判だ、と言うことを知ります。

事情をよく調べてみると、安本美典さんという人が筆跡鑑定の大家でもあり、古代史専門家であり、そして、この『東日流外三郡誌』は偽書である、という論陣を『季刊邪馬台国』という雑誌を拠点に張っている、ことを知ります。そして、そのあたりの状況を斎藤さんは次のように書いています。

第2章 筆跡鑑定 古代史のプロ登場 (前略)古代史と筆跡鑑定に詳しい安本は、まさに偽書追及の急先鋒にうってつけの存在であった。その安本が『外三郡誌』問題に積極的にかかわり、独自に調査を進めているらしい・・・・。

多くの関係者を取材していくうちに、そんな情報を聞きつけた私は早速、神奈川県川崎市に住む安本に電話を入れた。せっかちな性格がこの時ばかりは功を奏した。

週刊誌の『サンデー毎日』と、安本自身が編集責任者を務める古代史専門誌『季刊邪馬台国』にこの件を掲載する直前だ、と安本は語った。「よし、それでは先にいただいちゃおう」私の中でスケベ心が頭をもたげた。
】(p37)

しかし、このようなことではジャーナリストとして問題ではないのかなあ、と感じました。皆さんも読んでみられるとお分かりのように、いわゆる、原告側に立つ、というジャーナリストとしてあってはならない立場に最初から立ってしまっているのです。このことを、斎藤さんは自覚しないまま、記者活動を続けられ、その纏めとしてこの本を出版されています。

ところで、この和田家文書の筆跡問題は、鑑定で簡単に決着することが出来ないほどに入り組んでいます。といいますのは、江戸寛政年間に『東日流外三郡誌』などを書いたとされる秋田孝季の原本は焼失し、幸い妹婿の和田長三郎吉次が所持していた副本が残ったそうです。

以後、そのような災難の対策に書写をしてきていて、書写者は長三郎吉次の妹和田りくや、明治時代では和田長三郎末吉の息子長作が多く書写しているといわれます。近年の和田喜八郎の原稿の代筆者には娘章子が当ったり、和田喜八郎自体も書写しているようです。

ここに、『東日流外三郡誌』の著者及びその子孫の系図を『東日流六郡誌絵巻』に従って記しておきます。(資料によっては異説もあるようです。)

秋田孝季の妹りくの夫和田長三郎吉次(43代)文政7年歿~長三郎基吉(44代)天保元年歿)~長三郎権七(45代)安政元年歿)~長三郎末吉(46代)大正2年歿~長作(47代)昭和14年歿~元市(48代)昭和56年歿~和田喜八郎(49代)平成7年歿  これらの人々、(特に末吉・長作両名が明治大正期に筆写したものが多い)、和田家文書を書写し伝存してきた、といわれます。

「擁護派」とされる、西村俊一氏(東京学芸大学教授)は次の様に、『和田家文書』の特徴である、累代の書写について述べています。

和田喜八郎自身、他人に資料を譲渡する場合は、「和田家資料」保存の必要上、その模写版を作成したと公言してきているのである】(注001) 

おっしゃっている「公言」の出典を見つけることができませんでしたが、言い換えますとこのことは、明治期の写本を昭和の時代に和田喜八郎氏が筆写作業を行った、ということを「擁護派」も認めているようです。

和田喜八郎氏と親交が長かった古田武彦さんは筆跡問題について、明治期のものかどうか、このあたりの判断について次のように述べています。

古文書にとって筆跡研究は、研究の生命線である。この一点において犯された「誤判断」は、当然ながら、全研究の意義を瓦解せしめることになろう。

この点、従来この『東日流外三郡誌』をめぐって行われた「偽書説」には、基本筆跡(和田喜八郎氏の筆跡)に関する、いわば、基本的な誤断が、不幸にも存在した。(中略)先述のように文書(明治写本)の「交流」を通じて、絶えず当人と連絡し、その筆跡にも接していたから、喜八郎氏の筆跡と、いわゆる「明治写本」の筆跡とが全く異なるものであること、いわば自明すぎる事実であった。

その点、いわゆる「偽書派」の論者には、そのような「対照資料」の用意を欠いていたため、喜八郎氏の長女の筆跡を以って、「喜八郎氏本人の筆跡」と誤断する、という、筆跡判定上の不幸を犯されたのであった。
】(注002)

筆跡問題については、秋田孝季の江戸時代寛政期の原本で判定すべき、と古田さんが主張し続けました。しかし、斎藤光政さんは、この一連の和田家文書は、すべて昭和20年代以降に和田喜八郎氏によって書かれたもの、と断じ、筆跡については、安本美典氏に意見を聞いて安本氏の見解を紹介しています。

この安本美典氏が、古田武彦氏の揚げ足取りの著作を量産している、古田さんの天敵とも言われているような立場の人間ということを、斎藤光政さんは担当新聞記者として知っていた筈だと思いますし、当然知っておかなければならなかったと思います。

斎藤光政記者が書いた、1993年4月6日の東奥日報の記事が、この本に引用されています。要約しますと次の様なことです。

安本美典産能大学教授が、『東日流外三郡誌』は、「発見者とされる和田喜八郎氏がねつ造した偽書」とする調査結果をまとめた。安本教授は和田家で発見されたとされる三郡誌の写本と、和田氏の筆跡を比較、個人の特徴がはっきり表われる誤字に注目し鑑定した。

その結果「於」の旁が「令」になっているし、「末」が「未」というように横棒の長さが上下逆など、誤字に特徴があるなどの特異な誤字の共通点を指摘し、「写本と和田氏自身の誤字が同じということは、東日流外三郡誌が和田氏によって書かれたものであることを示している」と結論
】(p37~42)
日本書道協会ペン字講座このように、最初から安本氏の目を借りて「偽書」という目で物を見てしまっているようです。

「偽書派」の方々の【『和田家文書』は全て同一人が書いた偽書の根拠の一つに、癖字というか誤字というか、「於」という字が、『和田家文書』では特有の文字であること】、があげられています。

「寛政原本」というものを古田武彦さんが公表(2007年)しましたが、その筆跡について「偽書派」の原田実さんが早速『季刊邪馬台国96号』で意見を述べています。主な点は、【「於」という字が和田喜八郎氏特有の癖字である、というところで、だから「寛政原本」なるものも和田喜八郎の筆跡だ】、ということです。

それに対して、「擁護派」の方々は、【『和田家文書』は書写され続けている、「長く祖先伝来の文書をみていると、同じような字になる」とか、「昔から親の字を手本にすると似てくる」】とか反論されています。

ここに、日本書道協会のCMを掲示しますが、「なぞり書きがキレイな字への近道です」というキャッチコピーとなっています。(2011年1月5日新聞折り込みチラシ)

和田家累世の書写者が、先人の書を写していくときに、癖字や誤字もそのままに伝わっていく、ということはあながち強弁とは言えない、ということを、書道協会のキャッチコピーが物語ってくれています。


斎藤光政さんは、和田家文書の中には、「古文書」と思わざるを得ない文書が存在することについて、次の様に山上笙介氏の説明を紹介します。【和田喜八郎以外の、別人の手によると思われる文書は、古文書を何処からか手に入れ、それに手を加え、『外三郡誌』に取り込んだ】と。(p88)

しかし、どのような文書がそれに当るのか、それらの文書は何処か別のところで存在しているのか、それらの探求をせず、単に憶測で弾劾するのは如何なものでしょうか?

また、斎藤光政記者が、五所川原市の飯詰地区に取材に行ったときのことを次のように書きます。
印象的だったのは老年に近い男性の告白とも取れる言葉だった。(中略)「私は和田さんの字を知っているので、彼の筆跡はひと目見ればわかります。とても特徴がありますからね。かなり前のことですが、和田家文書の書写本と呼ばれるものを見たことがあります。残念ながら、かれの筆跡でした。これでは駄目だと思いました。(後略)】(p65) 

しかし、この和田家文書の本質を知らない人たちの和田氏を貶める証言者について、具体的な人名を書くことは個人情報問題で出来ないでしょうが、それを隠れ蓑のようにして、斎藤さんのいわば書き放題の和田さん攻撃なのです。

1993年に和田氏側の弁護士事務所で「和田家文書」が公開されそれらを見た、と斎藤光政さんは書きます。

古文書公開の場は五月、青森県庁に近い五戸の事務所に設定された。しかし、期待に高鳴る記者団の前に置かれたのは、『丑寅日本記』『東日流内三郡誌』『武州雑記帳』『荒木武芸帳』・・・・。数そのものは十巻もあったが、問題の外三郡誌』はひとつもなく、いずれも、それ以外の和田家文書と呼ばれるものばかりだった。肩すかしをくらった記者たちの落胆ぶりは明らかだった。隣に座る中央紙の二十代の記者が口をとがらせ、ぼやいた。「こんな関係ないもの見せられても、しょうがないよな」】(p43)

しかし、斉藤光政さんが「偽書」とされる理由は、「偽書派」の諸氏の意見をそっくり取り入れ、同意されているのでしょう?その方々は次のように、『和田家文書』は全て和田喜八郎が書いたものだと、斎藤さん自身が次の様に書いているではありませんか?

221ページには安本美典氏の説明をおおむね次の様に紹介しています。【文書の大半は市販されている筆ペンでかかれていること。書いたのは、独特の癖字を持つ発見者の和田さんでしょう

230ページには、斎藤隆一氏の次の説明を紹介しています。【和田家文書が粗雑雑多不統一なのは、膨大な文書を一人の人間が書きまくったために生じた結果

斎藤光政さん自身の意見は書かれていませんので、この安本・斎藤両氏の説明をご自身の意見と同様と取ってよいと思います。だとすれば和田家文書のすべてが「和田喜八郎氏によって書かれたもの」、ということになります。

五戸弁護士事務所で公開された和田家文書の筆跡を、新聞記者としての自分の目で見てどうだったのか、ということは一言も書かれません。おそらく、和田喜八郎氏が全て書いた、などとは見えなかったものと思われます。【他の記者の『東日流外三郡誌』の原本が出てきていない】(p43)というような、という言葉を伝えるだけで済ませています。

しかし、この部分の叙述は、『東日流外三郡誌』の原本は種々雑多な文書の集合、ということを知らなかった、という記者さん達の不勉強振りと、斎藤光政記者が、『和田家文書』全体が問題とされている、ということも知らなかった、ということも告白しているということになります。

そして、反対派の反論については、まともに受け取っていません。古田さんが、「寛政原本」が出てきた、と竹田侑子さんとの共著『東日流「内・外」三郡誌』(オンブック社)を出版されました。この寛政原本の出版についても、古田先生に特別な感情を持つといわれる、【原田実氏の「古田さんの自爆テロです」という意見を載せて】、それを鵜呑みにした記述になっています。(p429~430)

そこには、多数の「寛政原本」とされる古文書の筆跡が良く分かる写真が多数掲載されています。これらを見て、和田喜八郎という一人の人間の手になるものとは到底思えません。そして、国際日本文化研究センター研究部笠谷和比古教授の鑑定書が掲載されています。

ちなみに鑑定者の笠谷氏は、京都大学文学部卒業の歴史家で、京都大学でも近世古文書の演習を受け持たれている方だそうです。

その笠谷教授の鑑定は、【文献6点についていずれも江戸時代中に作成された文献と認められる。特に、No.4、5,6の署名は「和田孝季」自筆の可能性が高い。4については本文も同人の筆跡と判断される】という内容のものです。

斉藤光政さんは、この笠谷鑑定書の真贋信憑性について検討し、読者に報告する義務があるのではないかと思います。棟上寅七が、古田さんの提示された「寛政原本」を見ましても、とても一個人で書き分けられる文書とは思われません。『寛政原本』には90ページ以上にわたって、『和田家文書』の「寛政原本」とされる筆跡等の写真が掲載されています。

参考までに、5種類のコピーを転載させてもらいますが、読者の皆さんに、これが同一人の手になると思われる方は一人もいないのでは、と思うのですが如何でしょうか?

http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/kanseigenpon001.jpg
秋田孝季 護国女太平記

http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/kanseigenpon002.jpg
和田長三郎写本 第二十 東日流外三郡誌 注書

http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/kanseigenpon003.jpg
和田長作写本 表紙 大正四年

http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/kanseigenpon004.jpg
東日流外三郡誌 二百拾巻の内の詩の部分

http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/kanseigenpon005.jpg
二百拾巻の内、仮名交じり文

この5種類の写本のコピーをみれば、斎藤光政さんが主張する「全て和田喜八郎が自ら書いた」という意見には、偽書派の方々を除き、だれもが同調できないと思われます。

強いて「寛政原本」の筆跡を否定する理屈を探すとすれば、他の古文書に「孝季」を書体に似せて喜八郎氏が書き入れた、ということぐらいきりないでしょう。しかし、これも、笠谷鑑定で否定されました。ですから、「偽書派」は、さわらぬ神に祟りなし、とばかりに笠谷鑑定を無視するのでしょう。


尚、「多元的古代」研究会のホームページには、和田家文書の筆跡サンプルが多数出ています、下記URLをクリックされてご参照ください。
http://www.tagenteki-kodai.jp/#wadake

又、「多元的古代」研究会の西坂氏が所有されている、和田喜八郎氏が昭和38年に筆写した原稿用紙のコピーも下記URLに掲載されていますのでご参照ください。
http://www.tagenteki-kodai.jp/Shiryo_07.html


02b)用語などに現代人が使うものがある。

偽書問題の中で、当て字・癖字・当用漢字などが使われていて、江戸期の文書ではありえない、という偽書派からの指摘がなされています。

また、【洗脳・闘魂・民活・超古代・準星・古史古伝など和田家文書には、用語に時代的整合性がとれないもの多い】(p229)、という指摘があります。

加えて、【「奉寄」などは和田文書のみの用語が用いられ、和田喜八郎氏独特の言葉遣いではないか】(p198)などの指摘もなされています。

これらの指摘について、「擁護派」の古田武彦さん・古賀達也さん・上条誠さんたちが古田史学会報や新古代学(新泉社)に多くの論文を発表されています。

例えば、「民活」という語が和田家文書に見られることについて見てみましょう。

斎藤光政さんは、偽書派斎藤隆一氏の次の意見を紹介しています。【「民活」:民間活力、民間活性の略語で、1980年代の行政調査会から使われ始めた

これについて、古賀達也氏は、『新・古代学第2集』で概略次のように述べています。

問題の「民活」という用語は『東日流外三郡誌』に使われている。  しかし、「民」とは文字通り「民衆」「人民」の意で使用されており、問題の「民活」も「民の生活」といった意味にしかとれない形で使われている。これを「民間企業の活力」などとしたら、文脈が意味不明となろう。ようするに「民心」とか「民生」とかと同様の用例なのだ。

民間活力の略語として、「民活」が使われ始めたのは昭和55年からであるが、「民活」が含まれる和田家文書は、昭和和40年ごろに既に発見されていた
】(注003)


同じ漢字が使われているからといって、同じ意味で使われているように即断した「偽書派」の意見を、無批判に取り上げる斉藤光政さんの態度は、「自分の判断」を放棄していることを如実に示しています。

「秋田犬」について、斉藤光政さんは次のように「偽書派」斉藤隆一氏の意見を紹介します。【『田沢湖町史資料編』に収録された和田家文書は、江戸時代では知り得ない近代用語であふれているんです。秋田県の象徴の一つとなっている「秋田犬」がいい例です。これは、明治以降に生まれた新しい単語です】(p172)

「秋田犬」が普遍的な名詞なのか、固有名詞なのか、という論争があったのかどうか、調べてみたけれど解りませんでした。しかし、秋田地方には「秋田マタギ」という狩猟犬は昔からいた様です。ですから、【「秋田犬」という日本犬の一種のブランドが確立した明治時代以前には、「秋田犬」という普遍名詞が存在していなかった】、という証明は、「偽書派」にとっても容易な事ではないでしょう。


この様に、同じ言葉が何時から使われたか、安易に結論を出すことには問題があると思われます。「偽書派」の皆さんは、当用漢字も昭和になって使われた漢字なので、それが入っているから、『和田家文書』は偽書の証拠とされます。

古田武彦さんは、現代かなや当用漢字が用いられている問題について、いくつもの論文を出されています。(「死せる喜八郎氏、生ける古田武彦らを走らす」という座談会報告など)

現在使われている、現代仮名遣いや当用漢字も、一般に慣用的に用いれていたのは、公的に認められるよりはるか以前からであること。当用漢字が使われているところがあるからといって、「偽書」と決めつけられるものではない、ということです。

この用語問題は裁判にも、原告側の上告趣意書に述べられています。 【用語について、和田家文書には近代の用語が入っている、「蜿蜒」とあるべきところが「延々」となっている】ことも、上告理由の一つになっています。

平成九年10月14日最高裁判決の中の、原告の上告理由、に明解述べられています。そして判決は、【原審の判断は正当であること。上告の論旨は、原審の判断を非難するか、独自の見解に立って原判決を論難するものである。最高裁の裁判官3人一致して上告の棄却をした】と述べています。

斎藤光政さんは、せめて当用漢字が採用された歴史的経緯について勉強されて、「擁護派」の意見について論駁された後に、偽書の理由として挙げるという態度が必要ではなかったのではないでしょうか。

このような用語の問題に引き続いて、内容自体の信憑性についての議論を見ていきます。



02c)内容に後世(現代)の知識が入っている。内容について信憑性が無い、という指摘がされています。

斎藤光政さんはこの本の中で、【『和田家文書』はウソでまとめたジョンカラ節である。昭和初期どころか、戦後の知識や言葉が多い】(P228)という斎藤隆一氏の意見を紹介しています。

「偽書派」の諸氏が指摘する、科学的知見が和田家文書に出てくるから「偽書」だ、ということについては、「擁護派」からの反論がいろいろ出ています。

当研究会も最初、宇宙創成説(ビッグバン)が秋田孝季が長崎で仕入れた知識として紹介されていると聞き、半信半疑でした。

この和田家文書の宇宙原素大爆烈のところを読めば、まさしくビッグバンの考えを表している。1940年ビッグバンの理論が提起されて、1970(昭和45)年になって認められた学説である。『太古大絵巻』は昭和40年~50年ごろに世に出ているから、そういう意味での判断からは「現代人の書いた偽書」となるだろう】とこのように古田武彦さんも言います。(注004)

ちょっと調べてみましたら、「ビッグバン」説を提唱したのはベルギーのルメートルで1927年とされます。秋田孝季がオランダ人ボナパルドから受講したのが1797年ですから、130年前です。この差について古田武彦さんは、理論物理学者はやしはじめさんの意見を引いて次のように説明されています。

日本の理論物理学者が、この『ビッグ・バン』の説に関心をもち出したのは、昭和二十年以後、つまり戦後。それも、ごくわずかの人々でしょう。 昭和四十年代になると、理論物理学者なら、もう誰でも知っています。しかしその前には、「ビッグバン説」という精華を得る前の、それを生み出した背景、つまり、ヨーロッパやアメリカなどの、広い教養世界の歴史が必ずあるはずです。それを、わたしたちは知りません。『宇宙大爆発』という、ビッグ・バン的な説が(和田家文書に)書かれていたとしても、とてもわたしには、それを『にせもの』だ、と言う気にはなれません】(注005

この説明では、「秋田氏が宇宙創成説をボナパルドから聞いたということはありえた」、ということは言えるようです。でも、ルメートルの発表の130年も前ということを考えると、100%偽書説をやり込めるには、至っていないように思われます。

そこを補うのが上条誠さんの「進化論」をめぐってという論文です。 その内容はおおまか、次のような内容です。

秋田孝季と和田末吉が長崎出島で、紅毛人やら中国人からいろいろな新知識を聞き取って記録していて、その中に、宇宙創成説やら進化論などの新知識を書き取っているわけです。秋田孝季はフランスの博物学者ビュフォン(1707~1788年)の説を聞いた、とされます。

ビュフォンは生命の発生進化についても述べているし、また、ビュフォンの影響を受けたエラズマス・ダーウイン(1731~1802年)が、『ゾーノミア』を1789年に、『自然の殿堂』を1803年に出版し、生物の進化について説いている。時間的に秋田孝季が、その様な新知識を聞き取ることがおかしいことはないというわけで、この面からの偽書説は成り立たない、ということになります
】(注006)


古賀達也さんも、【『和田家文書』中に現れる進化、銀河系、光年、宇宙の年齢等々について、別に不合理ではない】、と『新・古代学』誌上で論じています。(注007)

ところで、読者の方々にはどのような事柄がどのような経緯で「和田家文書」に残されているのか、是非古田武彦さんの『真実の東北王朝』をご一読ください。

幸いネットで見ることができます、URLは次です。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku10/stouhoku.html



02d)他の本などからのパクリ的な叙述がある。

著者の斎藤さんが特に多くの頁を割いて「偽書の証拠」とされることに、「パクリ問題」があります。他の本や伝承を種本として、内容をいわば「パク」った、と斎藤さんが指摘するものに、福沢諭吉の『学問のすすめ』、チャーチワードの『ムー大陸の謎』、竹内巨麿の『戸来のキリスト伝説』などが上げられています。

まず、福沢諭吉の『学問のすすめ』の問題をみてみましょう。

特に福沢諭吉の『学問のすすめ』のなかの、「天は人の上に人をつくらず・・」のフレーズは『東日流三郡誌』から取ったもの、ということは大きな話題となったようです。

これについては、慶応義塾をはじめ一般的にもそんな馬鹿な、という意見が圧倒的であったであろうことは容易に察せられます。

まず、斎藤光政さんが書いていることをお伝えしましょう。名言をぱくる?(p46)で、次のように書きます。

「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」 日本人なら誰でも知っている福沢諭吉の有名な言葉である。民主主義の原理を簡潔に説いたものとして、著書『学問のすすめ』の巻頭に登場する。ところが、この名言がパクリだとしたらどうだろう。」それも偽書疑惑が浮上している『外三郡誌』からの引用だと教えられたら。その時の私はキツネにつままれたなんとかの状態だった。(後略)

そのことを教えてくれたのは和田喜三郎氏の知人で「擁護派」の一人、藤本光幸氏で、彼のところでその文書を見せてもらうことになったそうです。そこのところを斉藤さんは次のように書いています。

(前略) 藤本は、自分は長い間和田家文書を研究していると語り、「実は」と、おもむろに古文書とみられるもののコピーを取り出した。和田家文書の一つで、「福沢諭吉の書簡」だという。内容を見て驚いた。

「東日流外三郡誌」久しく貸付に預り大切ニ他見ハむ用と存し一説を引用仕り何卒御容許下サレ度願申上候 余著「学文之進め」なる筆頭「天ハ・・・・」(中略)大阪にて飛脚す  津軽飯積邑士族 和田末吉拝 八年六月六日 福沢諭吉 花押
】(p48)

そして、藤本氏の意見も次のように紹介しています。
「でも残念ながら、福沢からの手紙の実物がないんですよ。この写しだけです。写しは七年前に発見された後、文書類の中にまぎれ込み行方不明になっていたんですが、昨年再び見つかったんです」 実物はないのか、もしあったら日本史を揺るがす大ニュースなのに・・・と、私は落胆した。

しかし、藤本は「世紀の発見」に気をよくしてか、興奮気味に話し続けた。 「私も最初に見たときには驚きました。しかし、天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずという自由平等思想は、もともと和田家文書の中に流れる基本的な考えで、『外三郡誌』をはじめとする文書の中に何回も出てきます。

『外三郡誌』偽書説を唱える人たちは、これまでにこの思想を福沢の『学問のすすめ』から引用したと主張していましたが、事実はむしろ逆。福沢が和田家文書のテーマの一つを踏襲したのだと考えます。

写ししか存在しないのは福沢からの手紙本体が虫食いなどで傷んだため、末吉が書写したからでしょう。手紙はもうないと思います。ではその写しはどこにあるか?今はわかりません」(中略)

私は藤本の許しを得て、写しのコピーを撮影することにした。ファインダー越しにのぞくと、文字の一つ一つが大きく目に飛び込んできた。極端に右上がりの独特な文字が並んでいた。最後のあて名部分を見て、アッと思った。あて名の「和田末吉」の「末」の字がどうしても「未」としか見えなかったからだ。青森古文書研究会と安本が、和田の癖字と発表したものと同じだった】(p49~51)

このことについて、「擁護派」の意見を見てみました。

古田武彦さんは、十分あり得ることと、『東日流三郡誌』に流れる思想との関連を付けて、次の様に論じています。(『真実の東北王朝』 第六章)

引用が長くなりますが、福沢諭吉の名文句と和田家文書との関係を説明していますので、ほぼ全文を紹介します。

秋田孝季は、次のようにのべている。「神は人の上に人を造らず、亦、人の下に人を造り給ふなし」  (「荒覇吐神之事」寛政二年〈1790〉七月。北方新社刊『東日流外三郡誌』補巻、52~53ページ)。 これを見て、驚倒する読者も、少なくはあるまい。なぜなら、あの有名な、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」という、福沢諭吉の『学問のすすめ』における冒頭言、あれを思い浮かべない人は、少ないであろうから。 これこそ、「偽作」の証拠か。そのように論じた人もあった。

 ーーしかし。 和田長三郎末吉の自作文書が残っている。そこでは、次のようにのべている。「この一書をもつて、拙者の一代に果したる東日流外三郡誌、内三郡誌 六郡誌大要を書写仕り、ここに了筆せるこそ、祖父、亡父、先代に遺言せらるを果したり。・・・(中略)

 祖訓の一句を、有難くも、福沢諭吉先生が御引用仕り、『学問ノ進メ』に、天ハ人ノトニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ との御版書を届けられしに、拙者の悦び、この上も御座なく、幾度も読み返しをり、今更にして、福沢先生の学問にもつて不屈なること、不惜身命の勇ありと、感じをり仕る・・・」 このようにのべて、末尾に次の署名を行っている。「明治庚戊(四十三年)一月一日      和田宗家四十六代             和田長三郎未吉(花押)」

 『学問のすすめ』は明治五年二月以降の刊行であったから、その三十八年のちに、書かれた文なのである。 ただ、注意すべき点がある。この文章は、依拠原本(この活字本 ーー『東日流六郡誌絵巻全』津軽書房刊ーー のもとになった、と見られるもの)を実見したところ、長三郎末吉自身の「自署名」ではなく、彼の子供の和田長作の「再写」にもとづくもののように見えた。

この点、再確認したい(長作は、昭和十四年四月十日没)。和田家における、徹底した「再写主義」、すなわち複製本造りの情熱に、深い敬畏をおぼえざるをえない。 さて、問題の本質を見つめよう。 以上の末吉の「跋文」を見れば、ことの真相は明らかだ。 第一。末吉は、福沢諭吉に、『東日流外三郡誌』の一節を見せた。右の一文の(中略)部は、次のようである。

「東京の秋田重季子爵、福沢諭吉先生、西園寺公望閣下、加藤高明閣下の御親交を賜りたる拙者の生涯、悔ひ無き栄誉を戴きたるも、先祖の遺訓を大事とし、白河以北一山百文の国末に、日本帝国の空白なる奥州の史実、世襲にはばかる故に、拙者、祖来の尋蹟五代の労も、いまだ平等なる日輪に光当を妨ぐる武官の権政に好まれざれば、これを子孫の代に遺し、日浴平等に、自由民権の至る世まで、極秘に封蔵仕るなり」
 

秋田孝季ゆかりの秋田子爵(孝季の弟〈異父同母〉の系統)を通じて、末吉は福沢諭吉に会った、あるいは書面を通じての知遇をえたものと思われる。

第二。そこで福沢は、問題の一句を記し、「・・・と云へり」 という形で結んだ。これが自己の「独創」ではなく、何者かからの引用であることをしめしたのである。この点、福沢に「盗作」の意図はなかった、といってよい。

第三。福沢は明治三十四年(1901)に死んだ。福沢の死後、この一句は赫灼たる後光を帯びた、福沢思想をしめすべき「スローガン」的な位置を占め、教科書等に特記される慣わしとなったのである。 ーーそれは、西欧の天賦人権説の輝ける祖述者・紹介者としての福沢を、一言にして表現した一句、とされたのだ。

だが、いずこにもなかった。その典拠に擬せられたアメリカの「独立宣言」やフランスの「人権宣言」、いずれをとっても、この一句に対し、「翻訳の原本」と見なすべき「原文」を発見できない。もしできれば、それはおそらく“above man”“below man”といった簡明な英文(もしくは仏文等)であったであろうから、明治以降の英語の教科書では、喜んでこれを使用したことであろう。 ーーだが、それはなかった。

これに対し、『東日流外三郡誌』には、おびただしく存在する。

(A)安倍頼時 ーー天喜元年(1055)五月二日(寛政五年十月、秋田孝季写)
 「日高見国末代に住よき国造り、夢追ふが如く民にはげまし、いざこそ是れ荒吐族世の如く南越州、東坂東より北領の住人の国境及び司者を除きて住民一緒の政を布してより、飢え民ぞなかりしに、朝賊の汚名を蒙むりて、帝は征夷の勅を以て吾れ討なむとせり。誠に浅猿しき哉。絹衣を朝夕にまといし都、麻を着る民の汗をついばむ輩に、何が故の献税ぞや」
  
(B)安倍次郎貞任 ーー康平五年(1062)正月日(寛政五年、秋川孝季写)
 「吾が祖は、よきことぞ曰ふ。即ち人に生る者、天日に照しては平等なりと、人を忌み嫌ふは人にして亦、人の上に人を造り、人の下に人を造るも人なり」
  
(C)秋田頼季 ーー元禄十年(1697)七月(秋田孝季写)
「吾が一族の血肉は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
  

右の他にも、数多い。
この問題に関し、すぐれた共同研究者である藤田友治氏の作成された一覧表を掲げる
】(以下略)


また、安川寿之輔さん(名古屋大名誉教授)も、「福沢諭吉の思想と相容れない『学問のすすめ』の冒頭句だ」という趣旨の講演を、各所でなされているそうです。結果として東日流外三郡誌擁護派の援護射撃となっている、「福沢諭吉像の捏造」だと「偽書派」原田実さんが、怒っています。(『季刊邪馬台国95号』)


以上のような古田武彦さんの解説を読めば、かの名言に係わる由来を和田喜八郎氏が捏造したとは、とても断言することはできないのではないでしょうか。

斎藤光政さんは、【「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」は『東日流三郡誌』から福沢諭吉が得たものとすることは、偽書の証明】とされ、攻撃されています。その証拠に、谷川健一氏さえも、「この文句が入っていることこそ偽書の証拠、」(p57)と言われたそうです。

しかし考えてみればすぐ分かると思うのですが、この世に知られ渡っている名文句を『和田家文書』に取り込めば、「そんなバカな!」、「それこそが偽書の証明」と、世の中の「常識派」からから糾弾されることは自明のことです。

和田喜八郎が、安本美典氏をはじめとする偽書派の方々が言うように、「稀代の偽書作家」であるとしたら、このような危ない橋をわざわざ通ることもないでしょう。実際に祖先からの伝来の書にあったから、そのまま主張した、と思う方が筋が通ると思います。逆に言えば、「だから真実」と言えるのではないでしょうか?


ところで、斎藤光政さんは【慶応大学福沢研究センター長の西川俊作教授が、否定する理由に「学文之進め」というように自分の著書名を間違えていること】を上げています。(p53)

学文」とは現在では用いられない言葉です。調べてみましたら、【中世・近世には「学文」とも書かれた】と大辞林にありました。元の諭吉の原稿は「学文のすすめ」であったものが、本が世に出る時点で「学問のすすめ」、になった可能性も否定はできないでしょう。

それよりも、当研究会が気になりましたのは、和田喜八郎さんが「学文」という言葉を一般的にも使うことです。”古田史学会報30号に載せられた極北東の文化的波及という、喜八郎氏の文章に、【安本美典もまた自己讃美の他に、学文の道にそれた凡夫であり、私を裁判に提訴した野村も然りである】と書かれています。「偽書派」の方々には「学文」とは和田喜八郎誌独特の文字使いの証拠とされるかもしれません。

もう一つは、「学問ノススメ」を、「学文之進め」というように、「ススメ」を「勧め」であればともかく「進め」という言葉遣いに、福沢諭吉ともあろう方が使ったのだろうか、という違和感が残ります。「擁護派」の方々には、この点は問題とは思われなかったのでしょうか? 


次に、『ムー大陸の謎』『竹内文書』『ギリシャ祭文』と『東日流外三郡誌』との関係を見てみましょう。

斎藤光政さんが偽書のタネ本として書かれている、「戸来のキリストの墓」や「ムー大陸説」などについて、一般の読者にとりましては、特にこの辺が「やはり偽書!」と思わせるところでしょう。

「擁護派」の古田史学会報では、この件に具体的触れられていないようです。「偽書派」の原田実さんもこれらの種本のあとに、「ギリシャ祭文」の岩波文庫からのパクリが和田家文書にある、ということが分かったところで、「偽書」と確信されたように言われます。(『幻想の津軽王国』p225)

「ギリシャ祭文」については、古田武彦さんの詳しい検証がなされています。そのほかについて、蛮勇を揮って当研究会が、和田喜八郎氏の代弁をしてみましょう。まず、「戸来のキリストの墓」の問題です。

これは、斎藤光政さんがいうように、『和田家文書』「奥州風土記」に【戸来邑にてはキリストの墓など奇相な遺跡ぞ存在す。寛政六年七月二日秋田孝季】とあります。

斎藤光政さんは、【これは、元はと言えば、「竹内文書」に基づいて竹内巨麿が「この盛土がキリストの墓」と選定したのが始まりだ。それが1935年のことだ。つまり、キリストの墓伝説は1935年以降『和田家文書』取りいれた。和田喜八郎作成の偽書だ】(p212)というように書かれます。

しかし、その前提の「竹内文書」に描かれていた「東北地方へのキリスト渡来伝説」はどのようなものであったのでしょうか。「竹内文書」=「偽書」、その偽書竹内文書にあるキリストの墓伝説がある「奥州風土記」=「偽書」という論理での否定のような感じです。竹内文書と『和田家文書』の「奥州風土記」との関係はどうなのか、その辺の解明がなされないことには、安易に「タネ本」と断定はできないでしょう。

同様に、「ムー伝説」をチャーチワード氏が1931年に発表されるのに、どのような伝説などを資料としたのか、そのあたりの解明ないままの断罪は、ジャーナリストとして如何なものかと、喜八郎氏の身になって考えると、そう思います。

金子史朗さんという方が現代新書で『ムー大陸の謎』(1977年)という本を出されています。金子さんは、なぜチャーチワードがムー大陸などを知ったのか、ということから入ります。そして、チャーチワードがインドに陸軍士官で駐在時に、ヒンズー教の高僧と知り合い、夥しい粘土板の古文書を見せられ共同で研究し、7年の歳月後、ムー大陸の存在を知った、という事を書いています。

ムー大陸の伝説は、マヤのトロアノ古写本、チベットのラサ文書にも残っている、などと書かれます。著者金子史朗氏は、元来地質学者です。ムー大陸の水没について、太平洋の地質からみてそのような形跡が見えるか、について言及します。太平洋に無数にある「ギョー」と呼ばれる海山の地質調査の結果から、これらのギョーが、古代海面上にあったということは間違いない、といいます。

著者の金子さんは、科学ジャーナリストとしても活動され、ニューヨーク科学アカデミー会員でもあるそうです。地質学の視点から古代文明の謎に迫り、歴史的な大災害について多くの論文、著書を発表して来られた方だそうです。

ともかく、『偽書「東日流外三郡誌」事件』で、斎藤光政さんが、「ムー大陸説自体がチャーチワード氏作成の偽書」、という立場から、一方的に和田喜八郎氏を断罪するのは、ペンの暴力と言われても仕方がないと思います。

また、「ギリシャ祭文問題」でも古田武彦さんが詳しく反論されています。簡単に骨子を述べますと、次の様なことです。【「偽書派」が、『和田家文書』が岩波文庫の『ギリシャ・ローマ神話』ブルフィンチ作 野上弥生子訳をタネ本と指摘したのに対し、原本に当ると、弥生子さんの訳はかなり省略があるが、和田家文書の方が原本の内容をよりよく現わしている】、という論証です。(注009)

この反証に費やされた古田武彦さんの労力と時間は、大変なものであったろうと思われます。斎藤光政さんも、古田さんの反論には目を通していたと思います。少なくとも「擁護派」の反論には眼を通すべきであったでしょうし、その反論についてコメントする義務があったのではないでしょうか。


02e) 挿絵なども同じくパクリがある

斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』で、偽書の根拠の一つとして、挿絵が他の絵本からの盗用である、ということが上げられています。

これは、
第四章 告発と告白  ねぶた師の告発  『東日流六郡誌絵巻』の挿絵が『国史画帖大和櫻』に酷似している という項目で詳述されています。内容は、【「和田は凧絵を書くのがとても上手だった」と和田のいとこのキヨエが確かそう言っていた、】(p70~83)などと、偽書の証拠として示しています。

この斎藤光政さんの本を読んでいると、「そういうことなら偽書に間違いないだろう」と読者は(寅七も含め)思ってしまうことでしょう。

「擁護派」としても、これはどう弁解のしようもないのではないかと思われましたが、14枚の絵の一つ一つについて詳しく論証されている古田武彦さんの説明を聞くと、むしろ江戸期に秋田孝季が書いたという、いわゆる「真書」の証拠である、ということに納得している自分に気付きます。

詳しくは、リンクを張っておきますので
『大和櫻の反証』 をご覧になっていただきたいのですが、長文の論文です、これを簡単に纏めますと次のような趣旨です。

『国史画帖大和櫻』は昭和10年に刊行されているが、そこに書かれているように、昔の錦絵などから採録したものだし、元絵は昔からあるものだ。寛政期に秋田孝季が書写したものだから、昭和期の国史画帖大和櫻と、いろいろと異同があるのは当然である。一般的に見て、和田家文書の絵の方が古形を示している。】 

納得できない方は、上記URLをクリックされて、直接お読みになってください。
 一つだけ例示しましょう。

「高星丸脱出」図(E図・考察図)と「曽我の夜討」図(F図・画帖)である。このケースは、両書題材がちがう。ちがうけれど、男二人、女一人の姿勢の酷似していること、一目瞭然だ。ここでも、両書の間に(直接にせよ、間接にせよ)関係のあることは明瞭である。
高星丸脱出図
しかし、子細に観察すると、前者が図柄として百パーセントと言っていいくらい「自然」なのに対し、画帖は「不自然」きわまる構図となっている。(当画は、秀湖。明治二九年没、楓湖の門人。)

まず、考察図の場合、貞任の自決のあと、遺児高星丸を落ちのびさせるため、乳母の 一の前が抱いて外に出ようとする。向って左端には矢巾甚内が刀の刃を直立させて、外方を看視している。その後方に管野左京が抜刀寸前の姿勢で、侵入者を警戒している。さらに右端上方では、高畑越中がかがり火をさし出して、落ちのびるべき路をさししめしている。幼児をかかえる乳母が廊下から足を踏みはずさぬよう、との用意であろう。すべて、脱出の緊迫のただよった名場面である。

これに反し、画帖の場合、女中風の女性が雪灯を抱きかかえている。雪灯は、外を照らす明かりであるから、下を支えるか、上からつるすか、いずれにせよ、中間の和紙を張った部分を外に露出させなければ、用をなさぬ。しかるに、考察図の幼児(高星丸)の位置に、そのまま雪灯を入れかえたために、このような珍妙な画像となった。 

さらに不自然なのは、十郎(向って右側)の持つ松明だ。ここは、敵、工藤祐経の邸内である。この点、考察図が自分の邸(安倍館)からの脱出であるのと、全く逆の設定だ。だのに、あかあかと松明を焚いて侵入するとは。およそ馬鹿げているとしか言いようがない。「潜入」の態をなしていないのである。不自然きわまる画像である。

以上のように、正確に観察すれば、考察図の方が自然な「古型」をしめし、画帖の方が不自然な「改変型」をしめす。その事実は、およそ疑いがたいのである。(C図)                
これに対し、これほどの「改変型」をもって原型とし、「古型」をもって現代人(和田喜八郎氏)の偽作視するとは、正気の沙汰ではない。先入観をもって見れば、「見れども見えず。」その好例として、後世に語り継がれることであろう



なお、この挿絵は、斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』にも出ています。【和田家文書『六郡誌絵巻』に同じ図柄が取りいれられている例】(P73)として、掲載されています。


古田武彦さんは詳しく一つ一つの挿絵について詳細に反論されています。高星丸脱出図と同様に、和田家文書の絵の方が「古形」を保っている、と論証されています。

しかし、偽書派の三上重昭氏が、【和田喜八郎の関係した「安東氏歴代」、「御所川原市と東北古代中世史抄」、「安東船の勇姿なる写真」などの冊子の表紙に『国史画帖大和桜』そのものを、写真でズバリ使っている】という指摘があります。(『季刊邪馬台国95号』)

この指摘が事実であれば、古田武彦さんの弁護にもかかわらず、和田喜八郎氏が『国史画帖大和桜』そのものを所持していた、ということにはなりましょう。「和田喜八郎の関係した」とは具体的にどのような関与なのか、国史画帖の何を表紙に使ったのか、何故表紙に使ったのか、などが不明の状態では判断しようがありません。地下に眠る和田喜八郎さんのご意見をお聞きしたいものです。


ところで、和田家文書『六郡誌絵巻全』のさし絵をみますと、素人目にもこれらの沢山の絵は、ほぼ同一人の手になるように見てとれます。「明治写本」の筆写者、和田末吉か長作に絵心があったのかどうか、それとも全て「寛政原本」なのか、この辺の問題はあまり話題になっていないようですが、それでよいのだろうかという気がします。

この点について古田武彦先生のご意見をお聞きしました。先生のご意見は、【長作が描いたかどうかわからないが、『東日流六郡誌絵巻全』の絵には二種類の筆致が見られる。線が鋭いのと、なぞったような絵の二種類。前者は吉次たちではないかと私には思われる。量的に多いのが後者。後者が長作によったものかどうかはわからない】ということでした。


02f)著者とされる秋田孝季などの存在が、証明できない。

「東日流外三郡誌の著者とされる秋田孝季・和田吉次の存在は、『東日流外三郡誌』にのみ記載されているだけで、実在が証明出来ていない」というところが、偽書説の一つの論点となっているようです。

斎藤光政さんは、この本の第四章 「告発と告白」 で、孝季と吉次の不存在・石塔山荒覇吐神社の由来も架空・寛政原本は存在するのか、などと書きます。

そして、【確かに(秋田)千季は実在の人物だった。しかし千季の命を受け、『外三郡誌』を編纂したとされる孝季と(和田)吉次の存在を裏付ける記録は和田家文書以外になく、このため、偽書派は二人を「架空の人物」と位置づけていた。石塔山荒覇吐神社の由来も同様だった】(p101)と決めつけます。

これについて、古田武彦さんは上岡龍太郎氏との対談で、「秋田孝季の妹りくの夫和田長三郎の菩提寺の過去帳に残っている」、と言われています。古田武彦さんが、「秋田孝季」「和田吉次」の実在の根拠として上げられるのは、「過去帳」と「奉納額」の二つが主なものです。


過去帳の存在 【存在が確認できるのは過去帳というものがあります。それは秋田孝季ではないんですが、妹りくの夫の和田長三郎です。それが過去帳に出てきます。長円寺という菩提寺があり、そこに過去帳がありました。(中略)

寛政とか文政とか、あの辺にちゃんと和田長三郎が出てきています。で、和田権七さんという末吉さんのお父さん、この方も出てくる。それで和田末吉に当たると思われる明治二年のところに和田長三郎も出てくるんですよ。死んだ方は戒名で書いてあるんでわかりにくいんですが、その責任者の方が実名で書いてある。そういうのがちゃんとあるんですよ。だから近世文書やる時はそれから調べるのが常識なんです。

明治以前は戸籍はありませんから、その代わりお寺がいわゆる戸籍の代わりになってたわけですからね。その辺をぜんぜん調べてないんですよ、あの「偽作」説の人たちは。その長円寺に、和田長三郎吉次が作った石碑で、文政年間に建てている。和田長三郎の父母と、奥さんの、りくという人、自分の戒名だけ作って書いある、そういう面白い石碑がありましてね、これは過去帳と一致するわけです
】(注010)

擁護派の西村俊一氏も「著者実在かどうか」について調べて見られたようですが、確信されるにはいたらかったようです。講演録『日本国の原風景』で次の様にのべられています。【渡辺豊和も『北洋伝承黙示録』で試みたが今後の課題として残されている】と書いています。

その意味で、秋田孝季の名が記載されている、地元の神社に奉納された「宝剣額」の真贋論争が熱を帯びたのでしょう。ということで、この次は、宝剣額の真贋論争について、斎藤光政さんの見方と、古田武彦さん側との見方をみていこうと思っています。

なお、渡辺豊和さんの『北洋伝承黙示録』には、秋田孝季の実在を確認は出来なかったとされますが、『東日流外三郡誌』が今までの通説に歴史では記載されなかったことを記録していると書きます。その一つが、『東日流外三郡誌』に、BC3世紀に稲などが青森に伝来したことについて述べられていることに言及され、考古学的発見事実に合うとされています。この点については後述します。


奉納額に記載されている 
これは、青森県市浦村の神社に奉納された鉄剣額に秋田孝季の署名がある、というものです。
宝剣額
この斎藤光政さんの本に転載されている、奉納額についての共同通信社の記事は、次のようなものです。

『東日流外三郡誌』の著者とされる秋田孝季が、文書の完成を祈願して奉納したとみられる宝剣額の鉄剣の裏側に、額字と一致する寛政元年(1789年)の製造年月が彫り込んであることが、二日までに東北大金属材料研究所の鑑定で分かった。

外三郡誌は、先史時代からの東北・津軽地方の歴史を記した江戸時代の古文書で、先進地域とされた西日本中心の歴史観に再考を迫る内容を持つとも評価されている。鑑定結果は、宝剣額が外三郡誌の実在を証明する一級資料であることを裏付け、偽作論争に終止符を打ちそうだ。

外三郡誌は(中略)昭和22年、青森県五所川原市の民家から写本がみつかった。48年ごろには同県市浦村の神社で宝剣額が発見された。しかし、原本が未発見で、「孝季は架空の人物」などとして偽作説が持ち上がっていた。

古田武彦・昭和薬科大学教授(歴史学)や「古田史学の会」事務局長古賀達也さんらが5月、市浦村教委に保管してあった宝剣額を調べたところ、木製の額(縦70センチ、横33センチ)に矛状の鉄剣が金具で固定してあり、額には「寛政元年酉八月(判読不明)日 東日流外三郡誌 筆起 為完結」と墨で書かれ、孝季ら二人の自筆とみられる書名があった。

鉄剣の裏側には「鍛冶 里原太助」「寛政元戌酉八月 日」と作者と日付が彫り込んであり、官邸下谷野満・東北大金属材料研究所教授は「剣は当時の製造とみて問題ない。額に取り付ける際に彫ったとみられる」と説明している。「戌酉」とある干支について古田教授は「正確には巳酉だが、前年の干支が戌申のため、鍛冶職人が錯覚したのではないか」とし、「孝季が実在し、寛政年間に外三郡誌を書き始めていたことを証明するもの」と話している。


右上のが宝剣額の写真です。(『新・古代学第一集』(新泉社)宝剣額研究序説古田武彦 より転載。)

この奉納額が、真贋論議を呼んだようです。安本美典氏が国立奈良文化財研究所に依頼し鑑定したら、赤外線写真によって、その署名の下に別の人物名が見つかったと、次のように書きます。

この鑑定を受けて、安本は奉納額を「手品まがいの贋造物」と断言した。「現代人がどこからか寛政時代の奉納額を調達し、もともとあった文字を紙やすりなどで消したうえで、『外三郡誌』関係の文字を書き入れたのでしょう。変造した人は、『外三郡誌』の筆者とされる秋田孝季と和田長三郎吉次をどうしても実在の人物に仕立てたかったのでしょうね。」】(p260)

これに対して、古田さん側の意見も、この場合は次のように、斉藤光政さんは書いています。

秋田孝季の奉納額が発見されたが、安本らの赤外線写真撮影調査で、別人の奉納額を書き換えたものということが判明し、奉納額は秋田孝季実在証明の一級資料でなく、偽作証明の一級資料ということになったので、さすがの擁護派もがっくりきたかと思ったが、そうではなかった。

古田は意気軒昂だった。「昔は資材の再利用は当たり前です。だから、奉納額の墨書きの下から前の字が浮かび上がるのはよくあることで、なんの不思議もありません。筆跡については孝季らの文字と十分に比較してから判断してほしい。学問とは、結論が出るまで時間のかかるものです。偽作説を主張する人たちは結論を急ぎすぎるのではないでしょうか」
】(p263)

しかし、この斎藤光政さんが紹介する古田武彦さんの反論のところを読んでみて、古田さんの反論はいささか説得力に欠けている感じでした。可笑しいな、と思いこの古田発言を詳しく見てみますと、古田武彦さんは、上岡龍太郎さんとの対談で次のように言われています。(斉藤光政さんは、別のところで、この対談記事について言及されていますので、これを下敷きにしての前記の古田発言紹介とみてよいでしょう。)

文化財における「再利用」については、百済の武寧王陵墓碑や法隆寺釈迦三尊の台座などに例があるし、「最後の晩餐」でも下から別の絵が現れる、などの例をあげて、再利用したことが偽作の証明にはならない。昔の人はむしろ由緒あるものを「再利用」する方がふさわしい、というか奥床しいというかそういう感覚であっただろう】(注010)というように言っています。

「再利用」の具体例を出すか出さないかでは、読む人にとっては随分と違った受け取り方になります。斎藤光政さんは、『偽書「東日流三郡誌」事件』で、一見「擁護派」の意見を載せて公平を装って著述しているように見せかけているだけ、というように思わざるをえません。


2i)年号など日付がいい加減である

斎藤光政さんは、『和田家文書』の「丑寅日本記」に「天皇記」「国記」の記述がある、ということについて、安本美典氏の意見を聞いています。安本氏の説明をそのまま次のように無批判に載せています。

「竹内宗達なる人物が記した日付に注意してください。文正丙戌年は寛正から文正に改元した年で、二月二十八日から始まります。したがって、『丑寅日本記』にある文正丙戌年の二月七日という日付は歴史上、存在しないのです。和田家文書の特徴の一つとしてこのような年号の単純ミスが多いことが挙げられます。】(p197)

そして、【この改元された年号の記述法が間違っているから「偽書」だ】、となっています。

ところが、この年号問題は既に、別の時点での事が問題となり、古田武彦さんが取り上げている問題なのです。

この「天皇記」の事を藤本光幸から聞いたのが、1994年5月、と斎藤光政さんは書いています。ところが、古田武彦さんはその前年に、『季刊邪馬台国52号』(1993年)に掲載された、「安日彦長髄彦大釈願文の中の文明元年正月元旦問題」で、同様な「偽書派」の主張に対して、次の様に述べられています。(注007)

季刊邪馬台国は、文明元年は四月二八日の改元であるから、この年時は不成立とする記事を掲載している。しかし、例えば親鸞の教行信証後序には「承元丁卯歳仲春上旬之候」と明記されている。ところが、建永二年十月二十五日に承元と改元された。従って仲春(二月)は建永である。しかるに、改元後は、年頭にさかのぼって「その新年号下と見なす」このルールによって、親鸞は書いている。著名の例だ。その著名のルールを知らないのであろう。】と。

それなのに、その後も安本美典氏は、古田さんの意見にも馬耳東風です。普通の世の中では、反論ができなければ、その反論を認めたことになるのですが、安本流論理構成は、そうなっていないようです。反論もしないまま、同じ理由で「偽書の証拠」と、斎藤さんに「講義」しているわけです。

斎藤光政さんも、古田武彦さんのこの問題に対する反論を知っていて知らぬ顔の半兵衛をきめこんだのでしょうか、それとも不勉強だったのでしょうか?。

現代では、改元後は、その時点から新年号が使われ、遡ることはないのですから、古田さんの仰るルールが江戸時代では適用されなくなっていたのかどうか、当方には残念ながらそこまでの知識はありません。

改元後は、年頭にさかのぼって「その新年号下と見なして記述するす」というルールについての、反論がおありかどうか、安本元教授に斉藤光政さんもお聞きになってみたら如何でしょうか?


03 和田喜八郎氏という人物は?

経歴の不審問題 斎藤光政さんは、和田喜八郎氏の経歴について次の様に疑惑が多いと書きます。

和田の経歴は印刷物ごとに二転三転するのが特徴だった。一定していないのである。『和田家資料2』のあとがきのなかにも「二俣町(現在の天竜市)の通信研究所に学んだ」とあるが、そんな事実がないことは、当時の通信研究所関係者と和田の親類の証言で明らかにされていた。

また、経歴の中には第二次大戦中のスパイ養成学校として知られる「中野学校出身」というものもあったが
これも中野学校OBに完膚なきまでに否定された。挙句の果てに、警察官の経歴もないのに、まんまと警友会幹部になりおおせていたこともある】(p201)

確かに経歴などについて、第二次大戦の戦中戦後の混乱期に少しでも関わりがあったことを、針小棒大に述べているということはあったようです。「通信研究所には短期間ではあったけれども」と本人は書いています。1~2週間のモールス信号などの初歩的な講習に参加した、ということまでは恐らく、通信研究所の当時の関係者も否定できないことでしょう。

「警友会」という警察OBの組織も、戦後の一時期は地元有力者で警察に協力的な人も会に入れていたそうですから、一概に経歴詐称とは言えないと思います。

確かに胡散臭いと思われる「経歴問題」です。しかし、特に取り立てていえる「学歴」もない和田喜三郎氏が、独力で和田家文書を整理し、冊子にまとめあげた、その努力は称賛されるべきでしょう。

それらの出版に当って、著者の無学歴が著書の価値をおとしめるのではないか、と精一杯のお化粧をと、針小棒大の経歴添付になったのではないかと、見方を変えると、そういう弁明も出来るのではないでしょうか。


和田喜八郎氏の悪行とされる所業

確かに和田喜八郎氏の人物像を調べてみると、清廉潔白とか謹厳実直とかいう人物像とは、随分かけ離れているようです。斎藤光政さんは、次の様に描写します。

筆ペンを手に夜な夜な机に向かいせっせと文書作りにいそしむ男。その男は自分の文章に酔いしれ、文書が世に出た日を想像しては快感に浸る。傍らには歴史関係の本がうず高く積まれ、超古代をテーマにしたオカルト雑誌が散乱する・・・。原田、鈴木、安本が導き出した『外三郡誌』の製作者の姿だった】(p222)

この部分の表現を読むと、「偽書派」スピーカーのおぞましさ、を感じるのは、当研究会の感性のバランスが偏っているからでしょうか?

この斎藤光政さんの本では、和田喜八郎氏が詐欺漢同様の所業とされるエピソードが数多く出てきます。

四柱神社ご神体の里帰り騒動・和田喜八郎の海外渡航経歴疑惑・遮光器土偶の「なんでも鑑定団」での否定・木造町実相寺フェイク経筒・ 役小角の墓発見・クジラの化石・頼時の遺骨 など。

以上と同列ではないけれど、古田武彦さんが「寛政原本」のレプリカ作成を試みた、ということも書かれています。

これらのエピソードのいくつかについては、後に述べる、「偽書派と擁護派の争い」で詳しくみて頂くことにし、このように「詐欺漢」とも評される和田喜八郎氏の個性を、擁護する側はどうみているのか、について見てみます。


和田喜八郎氏の擁護派の方々の描写

西村俊一氏(東京学芸大学教授)は次のような感想を述べられています。

(偽書騒動)がこの様な異常事態に陥った一半の原因は、和田喜八郎ないし和田一族のこれまでの行動にも求められるべきものではある。和田喜八郎ないし和田一族が無神経に模写版を作り続け、それを他人に売却して生活の糧を得てきた形跡は少なからずあり、それが周囲の不信感を増幅させる大きな原因ともなってきたからである。】(注011)

古田武彦氏
上岡龍太郎氏との対談記事に和田喜八郎氏の個性について、述べているところがあります。

宝剣額の鉄剣を鑑定した谷野教授が和田喜八郎氏は立派な人格者で一部の人達が喧伝しているようないかがわしい人物ではない。自分は和田氏を全面的に信頼している。と古田氏が言った、とされることへの反論としてこう述べられます。

(谷野氏が伝えた古田の和田氏観を読んで)唖然としました。なぜなら、わたしの発言とは全くちがっているからです。わたしは次のように言ったのです。 「あの人(和田喜八郎氏)は、確かに長所と短所をもった人です。しかし、自分の家に伝えられた文書などに対しては、これを大事に守るという、その点は立派な人格の方だと思っています。」

和田氏は、圭角の著しい人です。もう70歳近くなった今でも、それは変りません。この点、何回か和田氏に会ったことのある人なら、恐らく誰人にも異論はないでしょう。ましてわたしなど、何十回のもの接触の中で、この10年前後、悩まされつづけてきた、と言っても、過言ではありません。そのわたしが、どうして「立派な人格者」というような言葉で表現できましょう。貴方も、もし氏と何回か接触する日があれば、右のわたしの感懐を直ちに納得されることでしょう。 

わたしがわざわざ「長所と短所」と言ったのは、この思いがあったからです。 もちろん「長所」もあります。行動力、耐久力など、わたしのような「都会生活者」には及びもつかぬ、数々の「長所」のあること、わたしも熟知するところです。 けれども、和田氏とわたしとを結びつけている、唯一といっていい「きずな」、それは氏の抱く、強烈な「祖先伝来の文書・宝物等に対する、畏敬の心」です。 

氏は言いました。 「おれにとっては、祖先の文書はただの文書じゃない、信仰だよ。」 その「信仰」の一語には、ドキッとするような響きがありました。この一点を指してわたしは「立派な人格の方」と言ったのです。それ以外の何物でもありません。 ところが貴方の文章で、 「立派な人格者」と言うとき、円満で常識豊かな、圭角のとれた人という、通常の日本語の用語に変えられています。「似て非なる文面」です
】(注012)

古田武彦さんが自ら仰っているように、「圭角の著しい人・10年間悩まされ続けた」、と表現されるような人であったことは間違いないようです。

圭角を辞書で引きますと、【《「圭」は玉の意》 1
(ぎょく)のとがったところ。玉のかど。 性格や言動にかどがあって、円満でないこと】とありました。「かなり角があり円満にほど遠い人」ということは、古田武彦さんも認めているようです。

「田舎の依怙地なおじさん・信念に馬鹿正直・他人を信用しない人」、というような人間像が浮かびます。



04 著作権侵害裁判の顛末

偽書裁判にはならなかった

この5年がかりで行われた裁判について、この本でも「双方の弁護士が勝訴」(p301)というコメントを出した、と書いていますようにきわめて特異な裁判だったようです。しかし、「何が争われたのか」ということが斉藤さんの本からでは、あまり明らかになっていないようです。

第一に野村さんが最初に著作権の侵害と申し立てを行った対象の書物は、『東日流外三郡誌』本そのものではないということです。

その裁判の対象となった本は、和田喜八郎氏所蔵の秋田家文献からアレンジして作られた『知られざる東日流日下王国』和田喜八郎著という書物と、学習研究社の『ムー』の昭和63年8月号です。

どちらにも記事中に、野村孝彦さんの写真が使われていて、『知られざる東日流日下王国』には、野村さんの論文なども無断で使われているというのです。和田喜八郎氏の弁明によれば、実質的編集者成田不二雄氏によって誤って写真が使われた、のではないか、というものです。

野村孝彦氏という大分在住の古代史研究家が、同氏が撮影した「謎の猪垣熊野に眠る」の写真および日経新聞に発表した論文が、『知られざる東日流日下王国』などに無断で使われたことに対して、損害賠償500万円と謝罪広告を求めて提訴した、というものです。

被告(和田氏)側の釈明は、この本の実質的編集者成田不二雄氏によって誤って写真が使われた、というものです。しかし、二審判決分を見ますと、【被控訴人和田は当審において、同被控訴人は本件書籍1及び2の著者とされてはいるものの、当該部分は成田不二雄の執筆にかかるもので、自分は執筆に関わっておらず、全く与り知らない旨述べるが、これを裏付ける証拠は提出されていないだけでなく、右供述自体も説得力に乏しいものであるから、到底採用することができない】とされています。つまり、著者和田氏の責任とされています。

裁判は1992年10月に始まりました。青森地裁の判決は1995年2月21日に出ました。


青森地方裁判所の結論は、平成7年2月21日の一審では、「写真の無断使用は著作権違反損害賠償金20万円、謝罪広告については認めない」、というものでした。

野村氏側は、写真そのものもさることながら、秋田家文献にある、という邪馬台城石垣遺跡自体も、野村氏の論文の剽窃であり、かつ内容も現代人の書いた偽書である、と上告申し立てを行いました。

二審では、「賠償金の20万増額(40万円)、裁判費用は四分の三を野村側負担、四分の一和田側負担。和田家文書を偽書と断定はできぬ」、としています。

この仙台高裁二審判決に対して、斉藤光政さんは次のようにまとめています。

「偽書とする説にはそれなりの根拠がある」「『外三郡誌』中の記述と本件の論文との類似は否定できない」「ヒントを得たものとみられる」と、論文盗用についてある程度の共通性と依拠性を認め、偽作説に一定の理解を示しながらも、著作権侵害までは認められないというものだった】(p298)

「擁護派」としては、この二審判決での理由書の中の、【したがって、「東日流外三郡誌」等の記述が本件論文の複製であることはもちろん、翻案であると認めることもできないのであるから、控訴人の有する著作権を侵害することを前提とした本件論文に関する請求は、「東日流外三郡誌」等の著作者が誰であるかの判断に立ち入るまでもなく、理由がないことは明らかである】というところを、勝訴の根拠としているようです。

これらの裁判の経過について、に対して、「擁護派」古田史学の会は、ホームページで裁判の判決書全文を掲載しています。最高裁上告趣意書には、原告側の長文の上告理由をも全文掲載しています。少なくとも「偽書派」よりも真摯かつ潔い態度、と言えるでしょう。(注013)

この会報の編集方針について、ちょっと勘ぐったような取り方をされる原田実さんの意見を、ネット上で見かけました。

『新・古代学』第3集を通してでも、実際に判決文に目を通し、さらに「上告趣意書」を読むことができるなら、古田氏の支援組織の内部からも、新たに「正確な認識をうることができる方が、必ずや現れることだろう。『新・古代学』第3集を編集した水野孝夫氏の苦心が、無駄にならないことを望むものである。】(注014)


野村側は、「翻案権の侵害について不備がある」と上告しましたが、最高裁では平成9年10月14日に上告棄却の判決となり、二審判決が確定したものです。

斎藤さんは、双方が勝訴した、といっているのは可笑しい、とというように書いています。 斎藤光政さんは、【朝日新聞青森県版が、当初「和田家文書偽書ではないとの判決」という記事を載せたが、後日訂正記事を出したとについて、述べ、「だから偽書説が正しかったのだ」』(p303)、という書き方です。

冷静に考えれば、もともと著作権侵害が主要因の裁判です。その意味で、原告(野村氏)側は慰謝料を勝ち取ったのですから勝訴でしょう。しかし、その著作権裁判に乗って偽書を証明しようとした試みは退けられています。その意味では、被告(和田氏)側の勝訴でしょう。

つまり、野村氏側は、少なくとも写真の無断使用は認められたのであり、勝訴ととったわけです。

和田氏側は、メインの和田家文書が、野村文書からの剽窃である、ということは否認され、かつ裁判費用も上告費用については原告負担というようになったのであり、勝訴、としたわけでしょう。

もう一つ明らかになったのは、和田喜八郎氏の一般常識とはかけ離れた著作態度でしょう。写真がまぎれ込んだのも他人に任せたせい、などと弁解しています。裁判上の戦術といっても、和田喜八郎という著者名で公刊された著作に対しての責任感の欠如は指摘されるべきだと思います。とくに、古田先生には多くの迷惑を結果的にはかけているのに、と思います。

『東日流外三郡誌』市浦村版には、古文書が天井から落ちてきたのは昭和三十二年、とあるそうで、これも誤植がそのままになっていた可能性が高い、と思われます。これは、発見の日時がいい加減だと偽書派側から「偽書の理由」として攻撃されました。これも公刊される著作物に対する、喜八郎氏の無責任さの一つの現れという指摘されてもやむを得ないでしょう。

まあ、和田喜三郎氏側の『知られざる東日流日下王国』という書物の編集が、かなりいい加減なものであった、という印象は否めません。この本は問題の箇所を抹消し、増補版として1987年に出版されています。

裁判の各判決は、全文が古田史学会報に出ています。それぞれのURLを巻末(注013)記しておきますのでクリックしてみてください。



裁判関係の専門誌『判例タイムス』にこの裁判の判決の解説も出ています。(注015)

この度裁判関係の専門誌『判例タイムズ』No. 976(九月一日刊)に、同裁判の判決文の紹介と解説が掲載された。その解説のポイント部分を紹介したい。専門家による第三者としての解説だけに、同裁判の性格を知る上で貴重なものです。同時に、偽作論者(原田実氏ら)の判決評価が虚勢であったこともうかがえよう。

《解 説 》
【(前略)この事件が上告審判決で決着が付いた時、X(野村氏側)、Y(和田氏側)双方はそれぞれ勝利宣言をした旨報じた新聞記事があった由である。Xは判示事項一の通 り写真関係では終始勝ったのだし、控訴審で賠償額も倍加したのだから、Xの勝利宣言はある意味で当然であろうが、他方五〇〇万円ほか謝罪広告・訂正広告・指揮部分削除等の請求中、認容されたのは四〇万円だけである。

訴訟費用の負担も一・二審を通 じ四分の三がX負担とされた。それを不満としての上告も例文棄却となったのであるから、Y側の実質勝利宣言も無理のないところがある。

この事件の甲号証(野村氏側提出証拠)は二百号証を超えたという。判決文から窺われる事案の寸法からはちょっと考えられない数字であるが、結局本件訴訟におけるX側の狙いは「写真」「論文」を手掛かりにして裁判所に『東日流外三郡誌』の偽書性を肯認させようとするにあったことからの現象であろう。

裁判所が判示事項二のように述べてその判断を回避した段階でその狙いの大半は失われた筈であるが、もし、判示事項三が全部排斥でなく、七項目中一つでも剽窃・盗用の判断が出ていたら、判示事項二にもかかわらず、X側は実質上狙いを ーー論理法則上「偽書でない」という全部否定は一部肯定で崩せるからーー 達することもできた。

その意味では、控訴し上告しても偽書説へ敗訴感はX側の方が大きかったであろうと思われる】
 

以上のように、判例タイムズ解説は本裁判の手掛かりを全然残せなかった点で、実質的の目的が『東日流外三郡誌』偽書性を裁判所に肯認させることにあったと指摘し、にもかかわらず「偽書説への手掛かりを全然残せなかった」判決であり、敗訴感は野村氏側の方が大きかったであろうと、見事に本質を突いている。

専門家による客観的な解説であるだけに、偽作論者の「勝利」キャンペーンはその声高な主張とは裏腹に、一層空しく響いている
、と古田史学の会事務局長 古賀達也さんが報告しています。

斎藤光政さんは、「偽書派」の見方だけに偏らず、「擁護派」の意見にも耳を傾けるべく努力をしなければならなかったのではないでしょうか?



05 偽書派と擁護派の争い

「偽書派」と「擁護派」の論戦というか争闘は、長年月に亘る熾烈なものです。

「擁護派」は古田武彦さんを中心とするグループです。元々は、1977年に発足した「古田武彦を囲む会」が母体で、「市民の古代」という機関紙を中心とするグループです。「偽書派」は古田武彦さんの業績には何から何まで何でも反対の、安本美典氏が編集責任者の「季刊邪馬台国」グループです。

「擁護派」の拠点と思われた「市民の古代研究会」が1994年11月発行の第16号で、「東日流外三郡誌」を巡って、という研究集会の論争の記事を出します。発表者は、斎藤隆一・永瀬唯・原田実の各氏で、基本的に「偽書説」に軸足を置いていました。

斎藤隆一氏は、古田武彦さんの多元的古代王朝論に共鳴されて「市民の古代研究会」のメンバーでした。原田実氏は、昭和薬科大学で古田武彦教授の下で助手を務め、古田教授の研究の(東日流外三郡誌も含め)手伝いをしていて、古田教授と何かのきっかけで袂を分かち、古田説に反対する立場に回った方です。永瀬唯氏はSF作家で「と学会」(トンデモ本学会)の幹事です。

この16号の記事をきっかけに、古田武彦さんは「市民の古代研究会」と絶縁します。古田史学の会・多元的古代研究・東京古田会など各地の研究グループのそれぞれが発行する会報を古田武彦さんは意見発表の場とします。また、古田武彦さんは『新・古代学』という不定期刊行雑誌を新泉社から1995年7月に刊行を始め、2005年の第8集まで刊行されています。その後、「真実の歴史学 なかった」という雑誌を2006年にミネルヴァ書房出され、2009年の6号まで続いていました。

原田実・斎藤隆一の両氏は、1999年の『市民の古代』が18号で終了となったので、以後「三郡誌」関係の論文を『季刊邪馬台国』に発表を続け、安本美典氏陣営の反古田論陣の強力なスピーカーの役を果たしています。


「擁護派」の偽書にあらず、という理由

では、「擁護派」とされる方々は、『東日流外三郡誌』を真実の歴史を語っている「真実の歴史書」と思っているのでしょうか?「擁護派」としてたびたび登場してもらっている、お二方の意見を紹介します。

a)まず、西村俊一氏が、『東日流外三郡誌』の史料価値という内容での講演(注016)に述べられていることを、それこそ学者らしい文章ですが、そのまま紹介します。

この『東日流外三郡誌』の記述は、言うまでもなく、編者秋田孝季の事実認識と価値判断の双方を含んでいる。それ故、現時点で見れば、いずれ、その双方について、(1)肯定できるもの、(2)肯定も否定もできないもの、(3)否定されるべきもの、の3要素が看取されるのは当然である。

その中、その事実認識の当否は、認識枠組みの当否とそれに応じる実証的根拠の有無如何によって判断されなければならない。また、その価値判断の当否は、判断基準の当否とそれによる判断の整合性如何によって判定されなければならない。もちろん、その事実認識と価値判断の当否の判断に研究者自身の事実認識と価値判断が影響するのは避けられない。それ故に、研究者自身の事実認識と価値判断の適用は、明確な自覚の下になされる必要がある。

しかし、その適用は、対象を処断するためではなく、むしろ両者を並置対立させて相互点検を行い、研究者自身の事実認識と価値判断を精緻化するためになされるべきものである。
 
さて、特に『東日流外三郡誌』における古代・中世史の記述には、誰の目にも上記(2)の要素が多いのが特徴である。それは、研究者自身が精確な事実認識と適正な価値判断を未だ有していないことの反映にほかならない。いわゆる「空白の古代・中世」なる表現は、まさにそのことを意味しているのである。

その場合は、当然、最終判断は保留するしかないが、上記(1)と(2)を研究者自身の事実認識と価値判断に加味することによって古代・中世史像を仮構してみることは許されることであり、また意味のあることでもある。何故なら、それは、次なる調査研究の方向を見定める有力な手がかりとなるからである。

「和田家資料」復刻版の編集・刊行に努めてきた小館衷三や藤本光幸が、常に、その資料価値は慎重に判断されるべきものである旨を記しているのは、この意味において、まさに当を得た配慮であると思われる。
 
ところが、『東日流外三郡誌』をめぐる「真書・偽書論争」は、基本的には、上記(1)、(2)、(3)の範囲確定に関わるものでも、また、仮構された古代・中世史像の成立可能性に関わるものでもない。それは、専ら、「偽書」論者が、「和田家資料」の直接考証を経ないままで、その全記述を(3)に属するものと断定し、それによる古代・中世史像の仮構の試みを一切否認することによって生じているのである。


西村さんはこのように、『東日流外三郡誌』は「史料」として検討されるべきだ、編集者小館衷三や藤本光幸もその旨注意を喚起しているのではないか、という真っ当な意見を述べていると思われます。

b)古賀達也氏は、和田家文書は偽書ではない、とされ偽書説への反論のまとめとして次のように言われています。(注017)

古田氏の言うところの大局の論証、すなわち次に示す「偽作説成立」のための根幹的論点に対して、偽作論者は今日に至るまで回答できなかったし、また将来においても不可能であろう。

一、偽作に要する大量の明治・大正時代の紙(大福帳など)をいつどこから入手したのか。
二、和田家文書に採録された古今東西の膨大な伝承群に関する知見をいつどのように入手したのか。
三、膨大な量の文書を毛筆で書き、かつ製本する作業を、近隣の村人から知られずに戦後何十年も続けることが、どのようにしたら可能なのか。
四、和田家が収蔵している膨大な遺物・古美術品をどこから入手したのか。

五、戦後間もなく、地元の研究者により和田家文書が研究・発表されている事実をどのように説明するのか。

 これら偽作説成立のために必要不可欠な論点に応えられないまま、そして、再写文書・書き嗣ぎ文書という、和田家文書の史料性格への正確な認識を欠いたまま続けられている偽作論は、やはり学問的に成立困難なのである。と同時に、これら偽作説成立の根幹にかかわる論点がなに一つクリアーできない以上、和田家文書は真作と見なさざるを得ない、これが学問の方法論と論理が指し示す到達点なのである


「擁護派」が「偽書ではない」とされるのは、古賀さんが挙げた五つの根拠にほぼ尽きるでしょう。それぞれについて、この本で斉藤光政さんが述べていることを纏めますと次のようになります。

1)紙の問題
この紙の問題では、斎藤さんは二つのことを偽書派側の話として書きます。
【一つは紙自体が時代に合わない紙であった。もう一つは、障子紙などに書いて古紙に変造する技術を持っていた】

2)古今東西の知見をどのように得ることができたのか
【これについては、斎藤さんはタネ本の存在】を上げていることは既に述べました。

3)膨大な量の文書を一人で作成出来るのか
内容がいい加減なものだから、書きなぐりだから、何千冊といってもショートショート見たいな短編だ

4)遺物・美術品などの入手方法は?
遺物とされる品物自体が安価なまがい物だ。和田本人が造ったものもある

5)和田家文書の発表は早い時期からなされている
文書は続々と増殖していった。役行者関係が処女作。後だしジャンケンみたいに、あとで考古学的発見を入れ込んだ古文書を偽作する

以上の「偽書派」の指摘する問題点については、殆んど、今までご紹介または今から説明しますように、古田史学の会の会報で反論されています。

古田武彦攻撃の激化

ところが、偽書派による『東日流外三郡誌』批判は、単に「偽書」批判に止まらず、古田武彦個人攻撃に進みます。

『季刊邪馬台国』に多くの反古田武彦キャンペーンがなされています。その集大成というものが平成7年発行95号でしょう。右下にタイトル頁のコピーを載せていますが、「これ以上騙されるな!警戒警報発令 疑惑の古田武彦元教授」という特集です。
季刊邪馬台国95号
そのいくつかが、この斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』に挙げられています。

・明治の写本に大正3年の紙(p127) ・天皇記の買い取りを古田が持ちかけ(p199) ・クジラの化石事件(p362)・安東商船道之事事件(p128) ・レプリカ作成依頼事件 (p381)などです。また、大量の和田家文書は喜八郎氏一人で充分書ける、というという論断に進みます。

これらについて、いわば斎藤光政さんから言われっぱなしの「擁護派」の意見も紹介したいと思います。


明治33年の文書が大正3年の紙に書かれている

明治33年の文書が大正3年の紙に書かれている」件については、「だから真書の証拠」という古田武彦さんが反論されています。それを読めば、常識的な頭で判断すれば、「擁護派」の方に理があると思うのですが、斉藤光政さんは黙殺されています。

この件を「擁護派」側の主張を見ますと、「偽書派」の勇み足というか、返り討ちにあっている事件なのです。

斎藤光政さんは偽書派に不名誉なことの詳細は書かずに、題名だけを上げて、さも「偽書説が突きつけた問題点です」、というアッピール効果を狙っているように思うのは深読みでしょうか。

『季刊邪馬台国54号』に掲載された内容は次のようなものです。

大正3年の文書が書かれている反故紙の裏を使って明治33年の古文書を偽造した」という事件で左下の写真付きです。

『和田家文書』の『陸奥古事抄全』のなかの『因果応報』の末文。『大正三年の鏡字がかなり読みとれる。和田喜八郎氏が、『大正三年銘』の反故紙を入手し、不注意にそれと気づかず、『明治三十三年』と書いたと見られる。粗雑な偽書作成である。本文の斉藤隆一氏『荒覇吐神の幻想』参照。『大正三年』『明治三十三年』を長円でかこんだのは編集部

というものです。

大正3年の紙に明治の文章が
コピーを見られるとわかると思いますが、鏡文字の「大正三年」「明治三十三年」が薄く見えています。

この『季刊邪馬台国』の指摘に古田武彦さんが、「これこそ偽書でない証拠」と反論されています。(注018)

その証拠は、この冊子の裏にある。そこには「大正六年、和田家蔵」の年時が記載されている。その一枚前にも、やはり「大正六年」の年時署名があり、その上、本文中に「寛政二年より大正六年に至る」云々の文言さえ出現する。

すなわち、当冊子は「大正六年」時点の執筆であり、『季刊邪馬台国」で指摘した部分は「明治三十三年時点の末吉の文章の再写」にすぎなかったのである。

このようなケースは、よくあることだ。わたしが親鸞の教行信証後序を分析したとき、「流罪中(三〇年代後半)の自分の文章を元仁元年(五二歳)の親鸞自身が再写している」という視点に立ったとき、従来の研究史上屈指の難問が解決したのであった(『親鸞思想~その史料批判』)。

末吉の明治写本の場合は、何回もこの類のケースに出合った。その上、偶然にも、当冊子がわたしの手元にあった(今年五月以来)から、その実物によって、右の事実が確認されたのである


なお、古田武彦さんは、【当冊子の筆跡は(末吉晩年に多く見られるように)末吉の子、長作(喜八郎氏の祖父)の筆跡である】と拡大写真のコピーを掲載されています。それを見ますと、偽書派が言う末の字が未になっていませんし、右肩上がりの癖字でもないようです。

そして古田さんは、次のように弾劾します。

このような「あやまち」がなぜおこったか。『季刊邪馬台国』は責任をもって追跡し、公表すべきである。なぜなら、当冊子の史料状況(くりかえし「大正六年」が出ている)から見て、少なくとも「原資料提供者」が「事の真相」を知悉していたこと、疑いがたいからである。

当誌がこのような、「責任」ある者として当然なすべき「追跡」「公表」「謝罪」を行わないとすれば、すでに「事の真相」を知りつつ「偽妄の論証」を行わせたのは、当誌の責任編集者自身である。そのようにわたしたちは了解せざるをえないであろう。そのさいは、「責任編集」とは「犯罪的編集」の別名となろう


しかし、『季刊邪馬台国』編集責任者安本美典氏は、それを一顧だにせず、10年余りの後再び『季刊邪馬台国95号』に特集号を組んで、あたかもこの問題が「偽書の証拠」と、改めて掲載しているのです。「擁護派」から鉄面皮と罵られる様なことがあっても、仕方ないのではないでしょうか。


天皇記の買い取りを古田が持ちかけ

これはひどい記事です。斎藤光政さんが取材の中で聞き込んだとして、おおよそ次のように書きます。【中央紙の支局の古田フアンの記者が和田を訪ねたら、和田から「天皇記」「国記」の買い取りを求められた。その話を本社につないだら、そんな馬鹿な、と一笑に付された。この記者に話を持ちかけたのは古田だ】(p199)

この斎藤さんの本の文章は、「という」という伝聞スタイルで全て成り立っているのです。話しとして面白ければ何でも書いて良い、というものではないでしょう。書くからには、当事者の意見を求めて、その反応というかコメントを入れて書くのが基本的なマナーでしょう。

古田武彦さんが偽書報道で「イジメ」問題が起きていますよ、という懸念をしめされたのを一顧だにせず、【イジメがおきているならそれは、「擁護派」があくまでも「真書」と言い張るからではないか】、というような論法で逆切れしています。(p236~243)

このところを読むと、いわゆる三流ジャーナリズム精神の発露を見せられる思いです。


クジラの化石問題というのが、第十三章 偽化石 という一章を使って書かれています。

斎藤光政さんが書いているこの問題の概略は、次のようなものです。

安倍頼時が前九年の役で源頼義に敗れています。安倍頼時の活躍の舞台であった岩手県衣川村では、その顕彰碑を建立しようとしていた。その安倍頼時の遺骨が青森の五所川原市の荒覇吐神社にある、と岩手県衣川村に連絡があり、古文書に記載があるということで、和田喜八郎から分骨してもらった。これに疑いを持った人たちが、6年後に岩手大学に鑑定を依頼したところ、クジラの骨の化石とわかった。また、このクジラの骨が「津保化族の骨片」として、和田喜八郎氏の著書『知られざる東日流日下王国』で紹介されている】、というものです。

この衣川村の顕彰碑事件に和田喜八郎氏が係わったことは、斎藤光政さんの本に記載された記事から見て紛れもないことのようです。斉藤光政さんはこの件について、詳しく「一章」を割いて書いています。

和田喜八郎氏が「安倍頼時の遺骨じゃないかと下さったのを鑑定したら、クジラの化石だった」】ということです。

この「遺骨」については、その遺骨は古田武彦氏が鑑定したというお墨付きだった、という報道が流されたそうです。斎藤光政さんは【衣川村役場は「頼時の骨で、しかも東京の薬科大学の先生の鑑定ずみだと聞いていたのですが・・・」】というコメントを書いています。(p362)

又、偽書派の論客、斉藤隆一氏のコメントも紹介しています。【頼時の遺骨も津保化族の骨片も狙いは同じです。外三郡誌を正当化し権威づけようとしただけなのです。(中略)いくら古田さんが鑑定したとはいえ、鑑定書もないのに受け取る安易さ、これがすべて問題です。(後略)

ここでははっきりと古田武彦さんが鑑定した、という前提での話になっています。この件は『季刊邪馬台国』54号に次のように報じられています。

「岩手県胆沢郡衣川村に、安倍頼時の菩提を弔う九輪塔と、安倍一族鎮魂碑が再建されている。(中略) 実は、和田喜八郎氏が、石塔山荒覇吐神社にあった安倍頼時の骨を、衣川青史会に寄贈し、墓が出来たというわけなのである。なぜ頼時の骨が津軽にあるのかも疑問だが、その骨を鑑定したというのが『古田武彦』氏なのである

古田武彦さんは、この件について「許しがたい」と反論されています。(注018)


わたしにとって、許しがたい一文が『季刊邪馬台国』54号にあった。

「安倍頼時の骨」など、見たことも、聞いたこともない。それどころか、わたしには「骨を鑑定する」ような、能力もなければ、趣味もない。かつて誰人の骨も、「鑑定」したことなど、一切ないのである。 誰か、他の人類学の専門家ととりちがえたか、さもなくば、全くのガセネタ、つまり「作り話」であろう。 

問題は、次の一点だ。これほど事実無根100パーセントの「古田攻撃」について、一回も、わたし自身に「確認」をとらなかったことである。とれば、事実無根は、すぐ判明したのに、全くせず、「活字」にさせたことだ。


そして【この記事が『アサヒ芸能』に転載され、増幅されて、また、季刊邪馬台国55号の記事となっている】、とも書かれています
結論として、【この「骨鑑定」が古田によった、という証拠を提出せよ。それができなければ、率直に、明白に謝罪した上、「和田家文書攻撃」を停止せよ。】で結ばれています。

ただ、この騒動は、和田喜八郎氏の行動(本人の言によれば善意で呉れてやった)、が原因ではありましょう。しかし、斉藤光政さんが、この『偽書「東日流外三郡誌」事件』を執筆するに当たり、古田さんの反論を読んだ上で無視されたのであれば、不偏不党のジャーナリストの肩書きは返上しなければならないでしょう。


安東商船道之事問題

『東日流外三郡誌』裁判の筆跡鑑定に絡んで、【青森の木村実さんが、和田家文書を筆写したというのはあり得ない、と木村さんの遺族が、『歴史Eye』という雑誌に掲載された論文にの著者、古田武彦さんに抗議した】、【大学教授が自分の研究分野で民間人から抗議文を受ける大学教授、というものをあまり知らなかった】とし、安本さんの意見を聞いて、木村実氏の遺族の抗議を正しいとする記事を東奥日報に載せた】、(p128~136)と書いています。

しかし、この件についての「擁護派」の意見は、斎藤光政さんの伝える話とは大違いなのです。これらの反論を読まれたうえでの斉藤光政さんが書いたのであれば、本当に片手落ちの取り上げようだと思います。

この問題は、木村実氏が持っていたいくつかの古文書は、木村実氏が和田喜八郎氏から借り受けた古文書を筆写したもの、と『歴史eye』に書かれていたことに対しての抗議です。その抗議というのは木村実氏の没後、息子さんが、「三郡誌真贋論争に父親が巻き込まれたことは遺憾だ。そのような偽書作成に加担するような父ではない、父の書体とも違う」、というようなことのようです。


これらのことについて調べてみましたら、「擁護派」の古賀達也さんと藤本光幸さんが意見を述べていました。

古田史学会報に載せられていますが、『東日流外三郡誌』裁判の被告側意見陳述書という形ででも出されています。おおまかにいいますと、【
木村実氏は、和田喜八郎氏の文書を筆写していたこと。木村氏が古文書として資料館などに寄贈したものは、木村氏本人もしくは誰かの筆写したものであり、和田喜八郎氏の筆跡でもない】ということのようです。

これらの筆跡による偽書という証拠は、取り上げられなかった、という裁判の結果になっています。木村実氏関係の、これらの文書、『安東船商道之事』や『高楯城関係文書』は、偽書説側が裁判所に、「これら文書が和田喜八郎によって書かれたもの」という、筆跡鑑定の資料名として出ていましたが、裁判では否定されたという結果になっています。


藤本光幸氏は、「『角田家秘帳』模写のいきさつ」 という論文で、木村実氏が『角田家秘帳』という古文書も木村氏が書写していたことと、筆跡は木村実氏(書家でもある)の流麗な文字である、というように主張されていました。(注019)

このような方々の、木村実さんは、頼まれたり又自分が気にいっていたものを筆写していた、という証言を、もう一度木村さんの遺族に伝えたうえで再度確認をとってから、記事にすべきではないでしょうか。「偽書派」の雑誌に載ったものを、それが正しいとして無批判に伝えるスタンスは、正に「偽書派」スピーカーの面目躍如というところでしょう。


レプリカ作成依頼事件

次はレプリカ作成依頼事件です。『偽書「東日流外三郡誌」事件』には、「寛政原本」といわれるものがなかなか出てこないことに関連して、「古田武彦さんが寛政原本のレプリカの作成を試みた」、ということを、週刊誌『アサヒ芸能』が報じた、と斎藤光政さんは次の様に書いています。

それは、1994年のことである。広島市に住む古美術商が週刊誌などに衝撃の告白を行った。彼によると、古田の依頼を受けて二百万円で「寛政年間の古文書」の作成を請け負ったという。「レプリカを作ってくれというようなレベルのものではありません。本物と発表できるようなものを作ってくれといわれました」(アサヒ芸能1994年9月29日号)

そう証言する古美術商は、その依頼の証拠として、古田からの製作費振り込みを示す銀行口座のコピーを示した。弁護士立会いでの下で書き上げた念書を公開してまでの告白に、歴史学会はもちろん世間は息をのんだ。
】(p381)

これが事実であれば、古田武彦さんの学者生命は間違いなく断たれるような事件でしょう。しかし、斎藤光政さんは、古田さんが「事実無根、偽書派に嵌められた」、と弁明・反論していることは知りながら、「擁護派」側の話は全く読者に伏せたままの一方的な断罪は、いかに「伝聞」という形をとっていても、斎藤光政さんの人間性、偽書派べったりの取材姿勢は、ジャーナリストとしての適性が問われるのではないでしょうか。

古田武彦さんの弁明・反論は、『新・古代学 第1集』に掲載されました。

そこでは、広島旧二中の後輩の桐原氏のAちゃんという娘さんの窮状に同情した古田さんが、銀行送金した事情が述べられ、それが「偽書派」から利用されることになった経緯が詳しく述べられています。両派の情報戦がいかに厳しかったか、ということがよくわかる事件です。古田さんの反論を簡単にまとめてみますと、次のようなことのようです。

調査員などをしている桐原氏が、「広島中学の後輩だが、安本ー古田TV対談をみて、偽書説に肩入れをしている編集に憤慨した」、と古田武彦さんに近づきます。紙の調査についても知識があるということであったし、広島の旧制中学後輩ということと、交通事故で母親を失い自身も重傷を負った娘さんを男手ひとつで育てた、ということにも同情して、調査を依頼することになる。

当時、所謂偽書裁判中で、偽書側は、興信所を使って和田喜八郎周辺を調べていた。その結果の調査書を安本美典氏から古田さんに送ってきたところであった。つまり、和田というのはこんないい加減な人間なのだ、というようなことを古田さんに言いたかったからであろう。しかし古田さんは、同じように安本側は自分の事も調べさせているのではないか、と不安にかられ、桐原氏に相談する。

すると、「安本氏の手口は分かっていますから」、と桐原氏がいうので、紙の調査と合わせて安本氏側が古田氏周辺を調べているかどうか、調査の依頼をし、100万円を支払った。

その後、Aちゃんが渡米したいと言っているので、500万円貸して欲しい、という申し出があったが、断った。しかし、Aちゃんに対しての同情心から100万円を差し上げた。これらの経緯については、電話録音もあるし、レプリカ作成依頼などは全くしていない、証拠があるならば出して見せよ
】ということだそうです。

しかし、古美術商(古田さんはそうは言っていませんが)で弁護士事務所調査員という人物を信用して、調査依頼にお金を払った、という事実はあるようです。

古田武彦さんは、桐原氏が、最初から「仕掛人側」に立っていて、その企画に従って、接触を求めたか。経過の途中の「ある時点」で、「仕掛人側」の掌中におち入ったか。最後段階で「ある力」に屈して、「沈黙」を強いられる状態に入ったか、のいずれかであろう。

名誉毀損で訴えても、「レプリカ作成依頼」ということが何故名誉毀損になるか、ということになる。古田武彦が三郡誌の寛政原本のレプリカ作成を試みた、というメッセージが世の中に伝わるであろうという心理戦術にはまってしまった
】、(注020) というように述べています。

しかし、いやしくも社会の木鐸たるべき新聞記者であれば、古田さん側の意見も聞かなければならないでしょう。古田さんは、この件で、所謂「偽書説」側の陰謀に乗せられかけた、と、その経緯を公開されているのです。

斎藤光政さんの本を読んで「なるほど、レプリカ作成依頼するなど偽書間違いなし」と思われた方は、この古田武彦さんの文書全文を読んでみて頂きたいと思います。そうすれば、如何に「偽書派」側の工作が陰湿なものであったか、そして斎藤光政さんのこの本の組み立て方が、いかに「偽書派」一方に偏っているということがよくわかると思います。

この問題について、先日古田先生から次の様な電話をいただきました。

【この「レプリカ作成依頼事件」の状況は大体「貴方は何処へ行くのか 桐原氏へ」に述べている通りですが、現在も私古田武彦は、桐原氏に騙された、とは思っていない。京都市内で桐原氏と会ったのですが、このときには、古田史学の会の水野・古賀両氏にも立会ってもらい、6時間ほど話し合いました。私は進んでA子さんのことを心配して(金品を)差し上げたのです】、ということでした。

上記の「
貴方は何処に行くのか 桐原氏へ」は、如何に他人をおとしめるか、という面からみると、非常にうまく仕組まれている恐いお話です。リンクを張っておきますので、是非、読者のみなさんも「偽書派」の手口を読み取ってみてください。


一人でこのような大量の文書が書けるか。「書ける」という偽書派の意見

『東日流外三郡誌』問題で、このような大量のものを、和田喜八郎個人で書けるものかどうか、ということが、「偽書派」と「擁護派」の間で論争になっています。和田家文書の総量は、『和田家文書』の中の北斗抄二十七に「総4817冊」と出ているそうです。(新古代学第1集 和田家文書概観 古田武彦)そしてその文書は、和田末吉が書写したもので、その息子の長作が昭和7年に書き留めたものだそうです。

奈良大学で1994年4月「東北王朝・東日流外三郡誌偽書事件」という公開シンポジウムがあり、その席で、参加者からの質問が多かったのが、「千冊以上ともいわれる膨大な文書群を一人で書くのは無理ではないか」という素朴な疑問だった。古田ら擁護派が、『外三郡誌』は和田が製作したものでないと主張する論拠のひとつにもなっている重要なポイントでもあった。「あんな膨大な古文書群を初老の一人の男性に作れるはずがない。だから、偽書ではないんだ」という単純な論理である。

これに対する、原田の答えはこうだった。
「文書を調べると、思いついたときそれをそのまま文章にしているように見えます。まさに、書き飛ばしという感じですな。しかも、ネタ元は本や雑誌、テレビ番組・・・・と・・・・と周りにあるものはなんでもという感じです。思いつくまま書いているので、内容的には矛盾や繰り返しが多く、ネタも使い回ししています。

第一、文書は小説でいえば短編やショートショート程度のものが多くを占めます。和田さんは断片的な思い付きを羅列することができても、それを長い文章にまとめる構成力に欠けているんです。われわれの調査によると、和田さんはそんなことを若いころから日常的に繰り返していました。したがって、時間的にも、量的にも膨大な和田家文書を一人で書くことは可能だったと思います
】(p225~226)

しかし、「擁護派」からは、内容的に書き飛ばしとか、長い文章が書けない、構成力に欠ける、若いころから日常的に作成していた、という点については沢山の反論や証言が出ています。

斎藤光政さんも「和田喜八郎氏にこのような大量の古文書が作れるのか?」と自問自答しています。

和田家文書は合計で千巻以上に達するとも言われていた。そんな大量の文書を一人で書くことができるのか、という疑問が私の中で頭がもたげてきていた。】(p42)と斎藤光政さんは常識的な疑問を発せられます。

この本のその後の著述は、「一人で書ける」という方向に向かい、青森の評論家、松田弘洲氏が早くから偽書性を指摘していたことを次の様に紹介しています。(p58)

『東日流外三郡誌』は現代人によって執筆された、現代人のための〈偽作・盗作〉であった。昭和三十年代、四十年代にさまざま執筆された地方紙に影響された津軽人が、図に乗って、古文書や金石文にない歴史物語をたまたま書きあげたら、そのフィクションがどうしたわけか、「ウソでも、本当らしい」と受けとられ、歴史学界などにも少なからず影響を与え、テレビ番組にもなったが、まともな歴史家はこれはアヤシゲなものと否定した。(後略)

そして、【これらの大量の文書を書けるには「種本」がある】、と斎藤光政さんは書きます。

津軽の岩木町在住の三上重昭氏を訪ね聞いた話、【和田家文書の中の「六郡誌絵巻」は『国史画帖』からの盗用ではないか】を、紹介していますが(p75~79)、これについては、前に出ましたので、省きます。

福島市在住の古代史研究家、斎藤隆一氏が、それ以外にも種本がある、と教えてくれた、と次の様に書きます。(p81~83)

彼がおもむろに取り出したのは、タイムライフインターナショナル社が1969年に出版した『原始人』(クラーク・ハウエル著、ラディ・ザーリンジャー絵)という本であった。そのなかに登場するラマピテクス、アウトラロピテクス、クロマニヨン人などの絵が、八幡書店版『外三郡誌』の第一巻に出てくる日本列島の彦神や先住民の図とそっくりなのだという。見てみた・・・・。確かに、姿勢、筋肉のつき具合などかなり似ていた


種本としては、青森古文書研究会会長と斎藤光政さんが紹介する鈴木氏の説明も紹介します。具体的な名前は、『青森県史』(青森県庁1926年)、『新釈青森県史』(東奥日報社1960年)、『東北太平記』(青森県文化財保護協会1987年、『東北の歴史 上・中・下』『つがるの夜明け』(陸奥新報社1967年)などを上げています。

【「内容から見て、以上のような歴史関係の本などを参考にしたと考えられます。それに加えて、県内に残る伝承や昔話、子守唄も材料の一つです。こうした素材を基に作り上げたのが和田家文書と呼ばれるものなのです。(後略)
】(p220)

その他に種本としてあげられているのは、前に述べた「戸来のキリスト伝説」、「ギリシャ祭文」、「ムー大陸伝説」や奥州の歴史やオカルト関係の雑誌などです。そして、最初に外三郡誌の編集に携わった、山上氏の和田家文書の成立過程を推測した文章を紹介します。

暗い灯火のもとで、一人の青年が、毛筆をとっている。歴史書を読み漁り、必要なものを選んで、和紙に書き写す。一枚のものもあり、長短さまざまな写しができる。なかには、改作したものや、自分の創作もあった。つくりあげた文書に、煙や薄墨などを用いて、古色をつける。線香の火で、虫食いも模造する。本物の文書を手に入れて、切り取りし、加筆するなど、都合よく変造する。こうしていろいろ雑多な、時代がかった「古文書」群ができあがった。

(中略)青年は、壮年になり、初老にいたる。この歳月のうちに、作成した「古文書」類は、厖大な量に達した。この量がまた、「個人では不可能な仕事」と、世間に錯覚をいだかせる。しかし、十年、二十年かければ、たった一人だけでも、できないことはない。なぜならば、その文字と文章は、きわめて粗雑であって、用語の正誤や文法を気にしない、書き飛ばし、たれ流しである。一篇をつくるのに、たいした時間を必要とすまい。(後略)
】(p94~95)

斎藤光政さんは、「偽書派」各氏の「喜八郎氏に充分書ける」という、次のような発言も紹介しています。(p225~228)

原田実氏 【古田ら擁護派が、『外三郡誌』は和田が作成したものでないと主張する論拠の一つにもなっている重要なポイントでもあった。「あんな厖大な古文書群を初老の一人の男性に作れるはずがない。だから、偽書ではないんだ」という単純な論理である。これに対する、原田の答えはこうだった。「文書を調べると、思いついたことをそのまま文章にしているように見えます。まさに書き飛ばしという感じですね。しかもネタ元は本や雑誌、テレビ番組・・・・と回りにあるものは何でもという感じです。(中略)

第一、文書は小説でいえば短編やショートショート程度のものが多くを占めます。和田さんは断片的な思いつきを羅列することができても、それを長い文章にまとめる構成力に欠けているんです。われわれの調査によると、和田さんはそんなことを若いころから日常的に繰り返していました。従って、時間的にも、量的にも膨大な和田家文書を一人で書くことは可能だったと思います。


作家の森村誠一氏 【「この壮大な偽書とこれだけの偽書をつくりあげた作者の情熱には賛嘆しました。これだけの才能と情熱に恵まれていれば贋作ではなくオリジナルな作品を創造できるのではないかと思いました」】

青森ペンクラブ会長三上強二氏 【『和田家文書』は喜八郎氏が書いているものだ。和田喜八郎には書けないと言う人もいるが、器用で歴史的な知識もあるので、あの程度は書けると思う。(後略)】、

作家高橋克彦氏 【和田を、ムー大陸説を唱えた「日本のチャーチワード」とさえ持ち上げていた


以上のように「偽書派」は、和田喜八郎氏を稀代の一大創作家に仕立て上げていきます。


和田喜八郎氏を擁護する側の発言は、先ほど述べましたように「とても一人で書ける量でも内容でもない」、ということです。

まず、西村俊一氏(東京学芸大学教授)は次のように言います。

和田喜八郎は決して凡庸な人間ではないが、当方の管見するところ、その文字と文章は真に拙劣極まりないものである。それは、和田喜八郎が高等小学校卒業のため、やむを得ないところでもある。そのことは、誰よりも原田実自身が最も良く知るところではないのだろうか。『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」の文章もさほど優れたものとは言い難いが、両者に格段の差があるのは明白である】(注021)

古田史学の会の古賀達也さんが、『和田家文書』のなかの金光の資料について、佐藤堅瑞さんという、青森県の浄円寺の住職から聞き取ったことを、和田家「金光上人史料」発見のいきさつとして報告されています。

佐藤住職は「金光上人」について研究されていて、たまたま「和田家文書」に「金光上人」関係の文書があることを知り、『金光上人の研究』を故開米大泉寺住職とともに出版された方です。

その佐藤さんの証言の中には例えば、次のようなことが挙げられています。【和田さんがいくら頭がよいか知らないが、金光上人が書かれたという『末法念仏独明抄』などは、今まで書名は分かっていたが日本国中探しても見つからなかったもので、内容や巻数などは誰も知らなかった。当時和田喜八郎さんも金光上人という人も知らなかった。この『末法念仏独明抄』内容はすばらしいもので、学者でも書けるものではない

古田武彦さんも、この金光上人関係の文書について、【「金光と親鸞の対面の場面」や「金光と親鸞の問答」など生半可な知識で創作できるわけがない】、というようなことを説かれています。そして、【金光上人関係文書では、「親鸞」という名が出ていず、「綽空」という流罪になる前の名で出ている。和田喜八郎氏は「親鸞=綽空」とさえ知らなかった】、と書いています。(新古代学第1集 「累代の真実」)

まあ、安本さんや斉藤隆一さんなどに言わせると、和田さんが自分で「知らない」といったことなど証言に値しない、というでしょうが、仏教関係の本邦初出の古文書をどのようにして素人が書けたのか、という反証を出さなければ、「和田喜八郎作成文書」などと簡単にレッテルを張ることはできないと思います。

しかし斎藤光政さんは、「擁護派」は和田喜八郎氏の執筆能力を低く見る、というように書いていますが、古田武彦さんは和田さんの教養について、そう馬鹿にされていません。斎藤光政さんは、【和田を追及する立場の人間たちが和田に能力を高く評価し、逆に和田を守るべき人間たちが和田の能力を低くみるという、なんとも皮肉な現象が生じていた】(p228)と書いています。

古田武彦さんは浅見光彦氏へのレターの中で、次のように言っています。

秋田孝季や和田吉次は、国文学上は、本居宣長の『古事記伝』流の教養に立っていました(和田家には、江戸期版本の幾多の、宣長の書籍が残されています)】と。決して和田喜八郎氏が無教養の環境に育った人とは、古田武彦さんは思っていません。

和田喜八郎氏の著作や論文などを読んでみましても、西村教授が仰るように論文レベルとしては低いのかもしれませんが、棟上寅七レベルよりも上ではないか、と思われました。


明治写本というが末吉も長作も文盲だった、という指摘。

偽書派の方々が和田家文書の「明治写本」を、あり得ないことの一つに挙げられるのが、「明治写本を筆写したとされる、和田末吉、和田長作の両名は文盲だった」、という指摘です。

斎藤光政さんは、和田喜八郎氏の親類の二人の共通の認識としてこう伝えています。
和田家には先祖から伝わっている古文書などありません。したがって古文書が発見されるわけがないのです。喜八郎さんと支援者たちは、寛政原本から書き写したのは喜八郎さんのひいおじいさんの末吉と祖父の長作だと言っていますが、それはありえない話です。なぜなら、末吉は文盲でしたし、長作も文盲に近い状態でしたから、二人に写本を作れるわけがないのです】(p394~395)

まず、はるか明治の昔を生きた和田末吉氏が、文字が読めない明きメクラであった、という昭和末期での生き証人の存在自体を疑うべきと思います。斎藤光政さんは、偽書のタネになることは全く無批判に取り上げる、という基本的問題がここにも露呈しています。

この「文盲問題」は、「日本史が危ない偽書東日流外三郡誌の正体」安本美典・原田実共著原正寿編 に詳しく出ているそうです。それに対して古田武彦さんが反論されています。(注022) 

しかも、「確かに文盲という記録がある」と古田さんはいわれます。いわれるように、長作も岩手県の実業学校の講習ノートが残っているということですし、文盲であるわけがないのです。これを次のように謎解きされます。寅七が要約してしまうと、古田武彦さんのおっしゃりたいニュアンスが伝わらなくなる恐れがありますので、ちょっと長くなりますが原文通りお伝えします。

『日本史が危ない!』の中に、「親戚関係者」や「長作とともに炭焼きを生業としていた人たち」の話として、「末吉は文盲であり、長作は字を書けなかった」といった類の「話」がのせられているのです。(同書p.89)これがほんとうだったら、「和田末吉」や「和田長作」の書き写した、厖大な「明治(大正・昭和)写本」の存在は、すべて「架空」にして「虚妄」となってしまいます。すなわち、喜八郎氏あたりに「偽作責任」を押しつける他ないわけです。

けれども、今まで数多くの和田家文書に接してきたわたしには、とんでもないこと。まったくのぬれぎぬと言う他はありません。たとえば、明治時代の教科書に、真面目な、子どもらしい字で、「和田長作」の署名のあるものを、いくつも見てきました。(カラーコピーや)写真にも撮りました。その教科書は、東京の専門の教科書センターに持ってゆき、本物であることを確認しました。「同類」の収蔵物も見ました。もちろん、貴重なものです。その上、青年時代に、岩手県の実業学校の講習に出ていたさいの、ノートもありました。青年らしく、ビッチリと書かれた、律儀な、授業記録でした。そのときの「講師」の名前も、書かれています。 ーー金輪際、「偽作あつかい」などは無理なものです。

では、なぜ、「文盲説」が出たのか。実は、その確かな根拠があるのです。なぜなら、彼らが「文盲」だ、という記録があるのです。「われは文盲なれば、云々」の文言です。なぜか。実は、これと同じ文言は、『東日流外三郡誌』の著作者(正確には「編者」)とされる、秋田孝季の文章の中にも、あります。「それがしは文盲なれば、云々」とあるのです。

お判りでしょう。この「文盲」は、現在の用法とはちがうのです。「文字が読めない」「目に一丁字がない」との意味ではありません。そうなら、もし、その通りなら、右のように、「自分で書く」こと自身、ナンセンスではありませんか。とうていありえないことです。 

つまり、この「文盲」とは、実は謙遜の言葉なのです。「わたしは、無教養な者ですから」という、礼儀の表現です。奥ゆかしい、謙遜の言なのです。わたしたち日本人は、相手にプレゼントするとき、「つまらないものですが」と言いますね。これを聞いて、「この人は、つまらない物を、わざわざ持ってきたのか。失敬な」と、怒る。そういったたぐいの話です、これは。

同書が伝えるこの「話」は、近所の人や親類の人々が、「この和田家文書を見た」ことをしめしています。そしてこの「文盲」の一語を、現代風に誤解したのです。それが「風評化」したのでしょう。いささか何とも、面白すぎる話ではありませんか。同じ言葉でも、「昔」と「今」では、使い方がちがう、その証拠。 ーー案外こわい話かも、しれませんね。

この興味深いテーマにふれていただいた「偽作説」の論者に感謝いたします。もちろん、皮肉などではありません。ありがとう。(後略)
】 

この古田武彦さんの分かりやすい説明に対して、さすがの偽書派からも具体的な反論はできないのか、再反論は見当たらないようです。もちろん斎藤光政さんも古田さんの反論自体を黙殺されて、読者の目から隠しています。



06 和田家文書の史料批判

偽書の定義は

「偽書」の意味というか定義というか、この事件の場合について整理しなければならないと思います。これら『和田家文書』は、江戸時代のもの、明治写本とされるもの、昭和になって和田氏および関係者が筆写して外部に出した文書、などがあり、これらを仕分けしてそれぞれについての問題点をまとめなければならないでしょう。

まず、江戸時代の文書であるのかどうか・筆者は間違いがない人なのか(現実に存在したのか)・伝承が正しく書かれているのか・伝承の内容は正しいのか(史料批判) などを検討する必要があります。

ところが、斉藤さんの本によれば、「東日流外三郡誌以外に和田さんが発見したとされる一連の和田家文書も、和田さんが書いた可能性が高いですね」(p40)という安本美典氏の見解に同意する形で進められています。伝承の内容は正しいのかどうかなど問題にならない、つまり最初から「偽書」だということで話は進められています。

江戸時代のものであるかどうか、という用紙の真贋判定について、斎藤さんは、「障子紙に藁屋根の古い藁を燃やして煤を付ける、などの古文書偽造法を和田氏は知っていた」(p394)とされます。

しかし、古田武彦さんは次のように主張されます。【和田家は江戸~明治まで、これらの古文書を子孫に伝えるために保存用に書写してきている。したがって、用紙も江戸・明治と時代的にはそれぞれの用紙が使われている。勿論検査もしている。ともかく『東日流外三郡誌』の寛政原本が出ないことには何とも言えないではないか、と原本が発見されてからそれを検証すべき】、と。

また、斎藤光政さんは本書p306に、山形の須藤嘉門氏の言葉をかりて次の様に書きます。【須藤の分析によると、『外三郡誌』は現代人が書いたにもかかわらず、「作者名」を秋田孝季、「作成時」を江戸時代といつわっていた。それだけで、『外三郡誌』は須藤の考える「偽書」の定義を満たしていた。

この須藤氏の主張に沿った形で、斎藤光政さんは、『和田家文書』が江戸時代から伝わってきたものがある、ということについては全否定です。和田家文書は全て「偽書」という前提での、この『偽書「東日流外三郡誌」事件』という本は出来上がっています。

最初の方に述べたように、「本書はいろいろと歴史と合わない所もあるが、自分の意見で修正することはせず、後世の識者に委ねる」、というような著者秋田孝季・和田吉次の断り書きが入っているのです。「偽書派」の方々は、この部分を意識的に無視して「偽書だ、偽書だ」と騒ぎ立てているように思われますが如何でしょう?

斎藤光政さんは、『和田家文書』の特色書き継ぎ文書について、それを否定し、その理由に前出の「曾祖父末吉も祖父長作も文盲だった」(前述)ということをあげるのです。


公的な鑑定とは

この斉藤光政さんの本では、【世の中が公的な鑑定を求めているのに、一貫して和田氏側がこれを拒み続けている】、というトーンで描かれています。(p98)

この本で「鑑定」について斎藤光政さんが書いているのは、【青森古文書研究会(民間団体)の鑑定結果『外三郡誌』が成立したのは江戸時代とされているにもかかわらず、明治以降に作られた新語が出てくる。原本から書き写されたのは明治時代とされるが、字体には戦前から戦中にかけて教育を受けた者の特徴が見られる。『外三郡誌』と筆跡が同じ一連の和田家文書には、戦後に生産された版画用の和紙が使われている。

したがって、文書は戦後に作られたものに他ならない。そして記者用に配布された史料にはこう記されていた。「つまり、和田喜八郎氏の直筆でなされたものである」(p34)


そして、【専門家安本美典氏が鑑定し雑誌に発表したと聞いて東奥日報の記事にした】(p40)と書かれるのです。斎藤光政記者は、古田史学の会側から、「偽書派の急先鋒」とレッテルを張られたことに憤慨されていますが(p238偽作キャンペーン記者と呼ばれて)、安本氏が裁判の原告側の鑑定人の役を務めていることを知りながら、東奥日報紙の読者にはそのことを知らせていないわけですから、東奥日報の斉藤記者は「偽書派」という評価になるのは当然ではないでしょうか?


鑑定について斎藤光政さんは、【五所河原市郷土館長だった神野高行氏が「安東文書を持ってきてこれを津軽の歴史として認めてほしいというので、京都大学に検定を依頼したいというと、そんなことをしてもらわなくてもよい、と持って帰った人物がいた、という話を、これは和田氏の所業であろう】、という筆致で描いています。(p119)

それに対して古田武彦さんは、性急な結論づけをするのではなく、『和田家文書』を研究し、江戸期の秋田孝季と和田長三郎吉次が書いたとされる、いわば「寛政原本」が見出されてから議論・検討してもよいのではないか」と主張されています。また、斉藤光政さんがこの本にも引用されているように、「その寛政原本が出てこなければ、自分の立論の原点はなかったということになる」、というようにいっておられます。

しかし、「鑑定」というものに関して、『季刊邪馬台国』における「偽、筆跡鑑定人」群が存在する、と古田武彦さんは次のように言われます。

筆跡鑑定者には二種類ある。第一は、学問的筆跡鑑定者、第二は、御用筆跡鑑定人だ(以下、御用鑑定人と略称する)。御用鑑定人とは何か。江戸時代に流行した「箱書き」の能手である。「菅原道真公の直筆」「豊臣秀吉の直筆」といった形で、地方の素封家に伝来する書蹟に対し、「本物」であることを裏書きするのである。もちろん、「鑑定料」を入手する。それらのすべてがまちがっていたわけでもないであろうけれど、その多くは、「依頼者の要望」に応じたにすぎない。この場合、依頼者のもとに、その書蹟がいかにして伝来したか、その出所の研究など、一切問うところではない。

これに反し、学問的筆跡鑑定者の場合、当の書蹟は、研究の出発点である。当然、「伝来」や「入手」「出所」などの研究が、そこからはじまる。そして大切なこと、それは当該資料(鑑定対象)と同類、同質の相当量の比較資料に恵まれない場合、またその比較資料(筆跡資料)の出自・身元が不確かな場合、その学問的鑑定者は、断固として「分かりません」と告げる。その勇気の所在の有無こそ、「学間的鑑定者」と「御用鑑定人」とを峻別すべき一点なのである。

では、『季刊邪馬台国』に動員された(大学・高校・小学校教師等の)「鑑定者」たちは、そのいずれだったであろうか
】(注023)

古田さんのおっしゃるように、この斎藤光政さんの本自体の「鑑定人」として最初に上がっている青森古文書研究会関係者の鑑定人も、「原告側」の鑑定人であり、決して第三者ではないのです。斉藤さんがもっとも頼りにする安本美典氏が「鑑定人」にふさわしいのかどうか、という問題にもなります。いわば、この斉藤さんの本は裁判の原告側の安本鑑定人の意見に沿って書き上げられているといってよい本でしょう。

「偽書派」とされる原田実さんは、『和田家文書』の「鑑定」による真贋論争は、議論の立脚点が違う、と次の様に言っています。

古田教授は『九州王朝の歴史学』1993年で、「偽書論」を発表された。偽書の本質は、当人みずから偽りと知りつつ、それを他に真実と信じしめる行為としての造文・成書というものである。当人が真実でないと知っていながら真実として世に出せばそれは偽書の資格を持つ。犯意の存在が重要というものであり、その点からすれば、『東日流外三郡誌』は偽書でない。

このような考えの古田教授と、内容から見て現代人の偽作ではないか、とする安本美典教授との偽書論争がかみあうはずがない
】(『幻想の津軽王国』p221~222)

この意見は、『九州王朝の歴史学』の「偽書論」全体を読まないと、古田さんの真意を汲み取ることはできないでしょう。部分だけを取り上げて自分の主張にあう部分を取り上げているのではないか、とも思いますが、ともかく、古田武彦さんとの学問的な論争になると、同じ土俵に上がりたくない、ということのようにもとれます。

ところで、斎藤さんが書くように【古田さんが、「寛政原本」が出てくれば和田喜八郎さんの創作だという論難もストップする】(p180)、と古田さんも言っています。そして、「寛政原本」が発見されないまま和田喜八郎氏は亡くなりました。

斎藤光政さんは、論争のまとめというように次のように書きます。【言えるのは、この原稿を最終校正をしている2006年の段階で「寛政原本」はまだ姿を現していないという現実である。古田が「出てこないということになったら、やっぱり事実はなかったと思ってもいい」と断言した1993年から13年の月日が流れようとしていることだけだった。】(p384)

この斎藤光政さんの立場からすると、【「寛政原本」は出てくると言いながら出てこないじゃないか、やはり古田武彦さんも「事実はなかった」としていいと言っているのだから、偽書という鑑定は正しかった、ということでまとめた】、ということでしょうから、その意味では、棟上寅七などから責められることはないのかもしれません。

しかし、この本の文庫本化の2009年の時点では、既に古田武彦さんが、「寛政原本」が出てきた、と2007年に発表しています。斉藤光政さんも「文庫版のあとがきに代えて」という一章を付け加え、単行本出版後の動きに「寛政原本」の出現についてのことを追加されています。しかし、【寛政原本の出版は古田さんの自爆テロだ】、という原田さんのコメントですませ、一切自分の見方を変更されていません。 

この「寛政原本」については項を改めて後述します。


発見の経緯がいかがわしい

この『和田家文書』には発見の経緯が異なる、ふた通りがあるようです。一つは、和田家の天井裏から落下してきたというもの。それは喜八郎氏の祖父長作氏が、『和田家文書』の内容が反皇室であり、当時の戦時色が強まる時勢を見ての判断で、天井裏に隠匿)もの。もう一つは、その文書の中に、「石塔荒覇吐神社近くの洞窟に隠匿した」、という伝承が書かれていて、それに従って探索して発見したもの、の二通りです。

第一の「天井裏からの落下」話、それ自体が虚偽、ということでこの本は出来上がっています。
斎藤光政さんは、この発見のいきさつおよび天井裏の構造などからあり得ないとされ、次のように書きます。

発見者の和田によると、『外三郡誌』は戦後まもない1947年(1948年ともいう)に、天井を破って屋根裏から突然落ちてきたという。大きな長持ちに入っていたというから驚きだ。その後、『外三郡誌』をはじめとする和田家文書は続々と発見され続け、最終的には千巻以上に達したともいわれている】(p102)

和田喜八郎氏の死後、斉藤光政氏は原田実氏とともに、その天井裏を実見したそうです。その感想を原田実氏の言葉として次のように紹介しています。

そもそも、この家は天井裏に物を隠せるような構造じゃなかったんですね。和田さんは文書が落下してきて初めて気が付いた、と言っていましたが、それはおかしな話です。

この家は、キヨエさんらの証言で、文書が落ちてきたとされる昭和22年当時には天井板が張っていなくて、その代りにカヤで編んだすだれだけを渡していたということがわかっています。ということは、天井は丸見え、家の人たちは夜ごと、天井に何個もつるされた長持ちを見上げながら寝ていたことになります。気が付かないはずがありませんよ」

天井裏には大きな長持ちを吊っておくようなスペースも、梁に長年縄を縛っていたような痕跡もなかった。第一、梁そのものが細く、「厖大な文書」が入った重い長持ちを六個も七個も支えられない事は明白だった
】(p402~403)

この発見にいきさつは、発見者和田喜三郎氏本人によると、次のようです。

『東日流六郡誌絵巻全』にて、編者和田喜八郎氏がこの本の大要について説明しています。その中に次の発見の経緯などの説明があります。

(前略)昭和22年8月頃、わが家に事件が起り、これらの秘書が脚光を浴びるきっかけとなった。真夜中、天井板を突き破って、挟箱(はさみばこ)が落ちてきたのである。天井裏を調べてみると、ほかにも、鎧箱や船荷箱などが麻縄で吊るされていた。その一つの縄が切れて落下したのである。

挟箱をはじめ、その他の箱にも、固い施錠がされていた。開けてみて驚いた。すなわち、一連の「東日流誌」控書であった。最初の箱から出た和綴じの数冊を読んでみると、先代たちがそれぞれ再書したもので、書写しおわったのは、明治の終わりごろであることがわかった。それでも、ひどく虫に食われて、紙面がボロボロになっているのもあった。

他の箱にも、「控書」がつまっていたが、ほかに、数千冊に及ぶ諸国の板木本や刊本が蔵されていた。世界史、進化論、宇宙天文学、宗教書、博物学書などであり、いずれも、「東日流誌」編纂に使用された参考書と認められた。(後略)


別の和田さんの文書でもほぼ同様の記述です。(注024)

昭和22年夏の深夜、突然に天井を破って落下した煤だらけの古い箱が座敷のどまんなかに散らばった。家中みんながとび起き、煤の塵が立ち巻く中でこの箱に入っているものを手に取って見ると、毛筆で書かれた「東日流外三郡誌」「諸翁聞取帳」などと書かれた数百の文書である。どの巻にも筆頭として注意の書付があり、「此の書は門外不出、他見無用と心得よ」と記述されていた。

親父がまだ若かったし、私も終戦で通信研究所の役を解かれ、家業である農業と炭を焼く仕事に従事し、これは二年目の出来事である。当時、飯詰村史を担当していた福士貞蔵先生や奥田順造先生にその一冊を持参して見ていただくことにした。

次の日五所川原の弥生町に住んでいた福士先生にみていただくと、「これは歴史の外に除かれた実相を書き遺したものだから、大事にするように、できれば三日ほど貸してくれないか」と言われ、そのままにしていたが、まさか飯詰村史に記入されるとは思わなかった。(後略)


古田武彦さんが、浅見光彦さんへのレターという形でのべられた、「天井問題」の解説はおおまか次のようなものです。(注024)

興味深いのは、「天井、不存在」問題です。例の「落下事件」の場合、「文書の入った箱」が天井を破って落ちてきた、といわれているのですが、そんな「天井」など、もともとなかった。「偽作説」の論者は、そう主張しているのです。その「主張」を裏づけるため、この家を若い頃(戦前)に建てた、という大工さんから、「そんな天井はなかった」旨の「念書」をとり、それを雑誌に掲載しているのです。まことに念の入った「反証」といえましょう。

「そこまでやったのなら、もう間違いないだろう」 もしかしたら、浅見さんも、そう思いこまれたのかもしれませんね。一般の読者に、そういう人も多いでしょう。 けれども、「実際」は、まるきりちがいます。「昭和7(1932)年」には、まだこれら「和田家文書」は「天井」に隠されてはいません。「以後は以て是を保存せるに難なれば蟲喰を防がむ為と世襲に障りを避けて天井に蔵し置き後世に障りなき世至りては世に出だし(「す」か)べし〈下略〉 昭和壬申(7)年七月十日  和 田 長 作 」

和田家の系図は次のようです。 末吉 ー 長作 ー 元市 ー 喜八郎 従って、ここで長作が、「天井に蔵し置き・・・世に出だしべし」と命令もしくは要請しているのは、子ども(次代)の「元市」に対して、なのです。 それまでは「洞窟内の一部」か、それとも「土蔵」などに蔵されていたようです。従って、(上限) ー 昭和7年 (下限) ー昭和22年の15年間の中で、問題の「文書などを入れた箱」はつるされたのです。

つるしたのは、喜八郎氏の父、元市さんでしょう。大正6年生れの大工さん(O氏)は、若い頃「和田元市」を発注者として和田家の「古い家を取り壊し」「新築した」というのです。わたしが喜八郎氏から聞いたところでも、彼が10歳前後、まだ「文書」などには何の関心もない頃だった、とのこと。ほぼ、O氏の話と対応しています。
そこで考えられるのは、次の状況です。

(1)「文書などを入れた箱」をつるして、その「下」に天井をとりつけたのは、「元市氏」である。(生前の長作の「命」に従った)

(2)現在の天井は(もしO氏の記憶が正しければ)「建て増し」部分となりましょう。(一番高いところの「屋根裏」とは、別)

(3)「昭和10年代」前後は、「満洲事変」「日支事変」など、いわゆる日中戦争の時期に当たっています。従って「O氏」も「元市氏」もふくめ、人間移動・移転の烈しかった時期に当たっていることとなりましょう。

(4)思想的に「反天皇の文献」と目されやすかった東日流外三郡誌などの性格上、その「隠匿」は、必須だったのではないでしょうか。(後略)
 】


当然のことながら天井板が張ってなければ、容易に発見されている訳で、そんなミエミエの発見話を作ることは子供でもしないでしょう。しかし、結局は水掛け論で、発見者の言い分を信用できるか、ということになるのでしょう。この斎藤光政さんの本は、発見の状況が信用できない、そんないかがわしい出所の文書はいかがわしいに決まっている、という論理で終始しているようです。

江戸~明治期に書写された文書なのか、発見者が書いた偽書かどうか、発見時の状態と絡み合わせて判断することは、お話としては面白いでしょうが、間違った結論に導くのではないか、と思われます。


石塔山の洞窟からの発見譚

天井裏から落下してきた文書の中に、石塔山近くの洞窟に隠匿したという、記述にしたがって発見したという古文書、及び安東家に伝わった古物の発見された、というのが和田喜八郎氏の主張です。古物については、後に「発掘物」という項を立てて論じるつもりですので、ここでは古文献について検討します。

斎藤さんが特筆されるのは「天皇記」「国記」問題です。斎藤光政さんは、「天皇記」と「国記」問題について、9頁にわたって次のようにおおむね述べられています。

藤本光幸氏から、『丑寅日本記』に「天皇記」と「国記」が秘密の内に石塔山荒覇吐神社に納められたものが発見されと聞いた。『丑寅日本記』に記せられたのは、秋田孝季たちが安倍・安東氏の資料収集のため全国をまわっていて、どこかで竹内宗達が書いたものを書写したのだろう、ということだった。

この問題に詳しい学校の先輩の佐伯有清成城大学教授に意見を聞いた。「もしそれらが存在すれば、大変なことだ。本物だったら、文体などからすぐにわかるはず。しかし、これまでの研究結果から、現存の可能性はまず考えられない。恐らく作られた話だろう。」

さらに安本美典に聞いたら、『丑寅日本記』の「天皇記国記之抄」というのを書いた竹内宗達の署名した日、「文正丙戌年は2月28日に改元されている。文正丙戌年2月7日という日は歴史上存在しない」ということでした。以上のことをまとめて、東奥日報の日本最古の史書『天皇記』『国記』””石塔山(五所川原市)に眠る?””和田家文書に記述””専門家『あり得ない』という四本見出しの署名入りの囲み記事となった
】(p191~198)

ここでも偽書の決め手は、改元後の、それ以前の日付の表記方法です。これまでも見てきましたように、古田武彦さんは親鸞関係の実例を上げて、改元された年の、それ以前の日付記載は改元後の年号を使う、というルールだった、と仰っています。(2f)日付問題 前出) 恐らくこの「ルール」についての古田さんの意見を、安本美典さんが知らないはずはないと思います。古田さんの土俵に乗りたくないのか、この「ルール」の件での「偽書派」側の意見は見えないようです。

このような安本さんの態度について、斎藤光政さんは全く無批判です。そして、「専門家の意見」として一方的な見方を取り上げて記事にするのはやはり問題があると思います。

確かにもし事実であれば大事件でしょう。史料批判としては、藤本光幸氏が「古田史学会報、71・72.73.75号」で発表された、和田家文書に依る「天皇記」「国記」及び日本の古代史についての考察があります。しかし、稿半ばで亡くなられ未完遺稿となっているようです。今後の後継者による研究の進展を待ちたいと思います。


内容について

『東日流外三郡誌』の内容は真実の歴史なのか、斉藤光政さんは、全て和田喜八郎氏の創作とされます。

斎藤光政さんは、『外三郡誌』がなぜ人々の心を掴んだのか、ということへの答えを原田実氏へ求めます。そして、原田実さんの返答を次のように伝えます。

実物の『外三郡誌』がいかにずさんで中身がないかということを知らないわけです。障子紙に筆ペンで書かれただけの文書がひとたび活字となり、本として刊行されると、筆者の実体からはるかに離れて偶像化されてしまうのです。こうして、『外三郡誌』の一人歩きはさらに加速するわけです

斎藤光政さんのこの『偽書「東日流外三郡誌」事件』では、全てがいい加減な書物である。真実と見られる部分は他の史書や伝承を取り込んでいるから、とされます。そこで、「擁護派」はどう言っているのでしょうか、正しい東北の古代を現わしていると云っているのでしょうか。

「擁護派」の筆頭の古田武彦さんは、この『東日流外三郡誌』が伝える古代史について全面的に賛意を示している訳ではありません。【所謂弥生期の九州・近畿・東北を描く政治地図については、秋田孝季が本居宣長流の古代史観の影響を受け間違っている、とされます。文明伝達が中国朝鮮半島日本列島という一方向ではなく、シベリア(粛真)東北日本という流れもあった、という指摘が重要】、とされます。

ところで、斎藤光政さんの本の中に流れる、斎藤さんの「奥州人」というか、ご自分の地元「青森の古代について」あまりご存知でないのではないか、と思われる叙述が後述のように散見されます。


従来の歴史書になく、『和田家文書』が明らかにしたと云われる事柄の主な物は次の様なことがらです。
a)稲作の伝来  b)十三湊大津波伝承  c)三内丸山遺跡


a)稲作の伝来

この稲作の伝来というか奥州での稲作の歴史について斉藤光政さんの知見が、私などから見ても不十分だと思われます。

これを取り上げると揚げ足取りというように取られるのではないかと、ちょっと逡巡しています。【奥州の民が大和朝廷に屈服せざるを得なかったのは、稲作の普及時期の差】、というような表現が気になります。青森県の縄文・弥生時代の稲作遺跡について全くご存じない様ですので、よくそれで古代史関係に物を申うせるなあ、と己を省みず思ってしまいます。

斎藤光政さんは東北芸大の赤坂先生の言葉を借りて次のように書きます。【列島最北端の青森に広がっていた蝦夷とヒエ中心の社会に、水田耕作という「日本化」の波が押し寄せ、完全に「日本民族」に組み入れられるのは12世紀末の鎌倉時代のことだった】(p334)

これがいかに考古学上の知見と雲泥の差があることか、東北地方の稲作、特に青森の稲作の歴史を真面目に調べたらすぐ判明することです。例えば佐々木広堂氏が青森県縄文弥生時代の稲作遺跡について 古田史学論集第8集で詳しく報告されています。

その内容をかいつまんでお伝えします。

青森県には、縄文後期~弥生中期の遺跡うち、「水田跡」「炭化米」「焼米」「籾殻」「籾痕」が出土した遺跡が21もある。縄文晩期の八戸市亀が岡遺跡から焼米・籾殻が出ていて、三沢市小山田遺跡からは炭化米500粒が出ている。これらは近畿・東海・関東地方よりずっと早く、近畿地方から東北にもたらされた、という仮説は成り立たない。

北部九州東北とするか、沿海州東北の二つが考えられる。寺澤薫氏も遠賀川式といわれる土器の伝播状況から、日本列島には、南と北からの二つの文明伝播ルートが考えられる
】、と言っていることなどを報告しています。

古田武彦さんも『真実の東北王朝』で、青森県田舎館遺跡の656枚の水田遺跡と弘前市砂沢遺跡の5枚の水田遺跡跡の写真をグラビア頁に掲げています。そして、【これらの津軽の水田跡は、福岡市板付を先達とするものであり、『東日流外三郡誌』で安日彦・長髄彦が稲作の伝来者とあることを考え合わせなければならない】、というようなことを述べています。(p203~204)

また、『北洋伝承黙示録』という本で、著者渡辺豊和氏も、『東日流外三郡誌』に、BC3世紀に稲などが伝来したことについて述べられていることに言及され、考古学的発見事実に合うとされています。

斎藤光政さんも、地元青森の古代についての情報を集めて本を書かれないと、優れた東北の古代文明を築いたご先祖様に申し訳ないのではないかと思います。

折角、【東北日本の古代の製鉄遺跡が、大陸から北回りで運ばれた鉄鉱石を溶かして当時のハイテク製品の農具を作った、北方面からの流れの文化伝来であろう、と言っている】(p75))のですから、和田家文書の描く東北アジア文明の流れとの一致に、目を向けられてもよかったのではないでしょうか?


b)十三湊大津波伝承

行政側が『東日流外三郡誌』によって町おこしを考えたことがいろいろと問題を起こした。その例の一つが「十三湊伝承」と、斎藤光政さんは書きます。『三郡誌』が伝えるのは、次の様な話です。

古代、日本列島の東は日高見国、西は倭国に分裂し、その後、倭国は日本国と改称し、日高見国を蝦夷と呼ぶようになった。日本国は東侵を繰り返し、平安時代までには、津軽を除く東北全域を平定した。

一方侵略を受けたアラハバキ族の王は安倍氏と名を改めた。安倍氏は前九年の役で源氏に敗れたが、安東氏を興し、今の弘前の近くの藤崎に藤崎城、津軽半島の十三湊に福島城を築いた。安東一族は十三湊を起点に安東水軍が活躍したり、海上貿易をおこない繁栄した。

しかし興国2年(1341年)に大津波が起こり、はるか古代からの遺跡や文物が海の下に沈んだ。その後、南部氏が侵攻してきて、安東一族は北海道や秋田に分散した
】、というものです。


この伝承が正しいのか、と十三湊の周辺の発掘調査が町によってなされたそうです。原田実さんの『幻想の津軽王国』にも、市浦町が遺跡調査をしているところの写真が載せられていました。

十三湊伝説の内、興国の大津波の史実性については、疑わしいとする説が有力とされ、その根拠として、(a)十三湖は日本海に面しているが、日本海側の大津波は地質学上考えにくい。(b)同時代の信頼すべき記録がない。(c)十三湊は江戸時代に於いても津軽四浦の一として水上交通の要衝をしめており、中世に滅びたわけではない。(『幻想の津軽王国』 批評社 原田実 p103)

このうちの(a)は1983年日本海中部地震震源地能代市沖80km、マグニチュード7.7が起き、津波も10mを越すもので、最高は車力村で、14.9m、この地震による死者104名、その内津波によるもの100名という被害をもたらしました。したがってその面からの「偽書説」の根拠は消えたようです。

市浦町と合併した五所川原市のホームページで、調査の結果などを見てみました。

調査の国立歴史民俗博物館と富山大学人文学部考古学研究室によって、1991年から1993年にかけて調査が行われたそうです。その結果、中世の津軽十三湊の町並みや遺構が残っていて、当時の博多と匹敵する規模であることが分ったそうです。

しかし、調査では大津波の痕跡が見出された、ということは報告されていません。十三湊の衰退は、湊が砂で埋まり港湾としての利用価値が著しく衰退してしまったことが大きな要因とされました。平成17年に国の史跡指定を受けることとなり、町おこしの一つの成果とはなったようです。

ただ素人耳には、中世に飛砂の堆積によって放棄された十三湊が、百年後再び湊として再建された、ということは、「大津波説」よりも信じがたい説のように思われますが、どうでしょうか?今後の研究が進む事を願います。


c)三内丸山遺跡

1994年、三内丸山遺跡に六本柱の巨大な木柱跡が出現し世間の耳目をあつめました。このことについて、斉藤光政さんは、概略次のように『外三郡誌』との関係を説明します。

『新古代学第2集』で古田さんが、「雲を抜けるが如き石神」との具体的な「画」が紹介され、和田家文書の描く遺構が三内丸山から実際に出現した。だから和田家文書は偽書ではない、というわけだ。

これについて原田実氏の意見は、「木柱跡が見つかったのは1994年。古田さんが絵図が出てきたと言い出したのは1996年。六本柱の発見のほうが和田家文書の絵図の公表よりも早く、和田家文書の偽作は歴然。じゃんけんでいえば遅だしもいいところ
】(p321)

しかし、この「遅だしじゃんけん」の説明にはひどい欺瞞があります。古田さんは六本柱の絵図についてだけ発表したのではないのです。1995年に古田さんが発表したのは【昭和58年(1983)出版の『東日流外三郡誌』に「雲をつく石神殿」の記事があり、これが三内丸山遺跡であろう、つまり三郡誌の記事の方が10年も先】、という主張なのです。

ところが、「偽書派」が和田家文書の石神殿の絵図が六本柱で、三内丸山遺跡の復元予想図と類似していることに目を付け、そこに焦点をずらして、遅出しじゃんけんと揶揄し、ジャーナリズムも無批判に乗ってしまったのです。

斎藤光政さんは、1983年に記載されている、「雲を抜ける石神殿」については読者に知らせずに、古田さんの発言【この情報を知らなかったのではない。「知らなかった」というのでは、ジャーナリズムの名が泣こう。】などという部分だけを報じて、【まるでうらみ節のような文章だった】と、まるで勝利者のような感想を書いています。

斎藤さんが引用している古田さんの文章のすぐ前のパラグラフに、問題の「1983年に『東日流外三郡誌』に出ている」、ということが書いてあるのです。この重要な部分を巧妙に隠し、読者の目に触れさせていません。古田さんが、まっとうな議論を受け付けないジャーナリズムに対して悲憤慷慨するのは、もっともなことではないでしょうか。

斎藤光政さんが引用した、「三内丸山」についての古田武彦さんの文章を、斎藤さんがカットした部分を含めて、掲げておきます。(注026)

この日本列島において出色抜群の三内丸山縄文都市国家について、伝承し、記録している文献があった。青森県五所川原市の和田家所蔵の文書群がこれである。当文書には、「彼の故土に於て、幾百万なる津保化族栄へ、雲を抜ける如き石神殿を造りしかあり。」と。『東日流外三郡誌』によれば、東北地方の最初の先住民はアソベ族であり、第二の「侵領」民がツボケ族であった、という。そのツボケ族の中心拠点の筆頭にあげられているもの、それが「山内(=三内)」の地であった。 その他、上磯・十三湊・神威丘・糠部・是川などの地名があげられている。 

このツボケ族の構築したところが上の「石神殿」であった、という。当文書中、「石神」という言葉は頻出する。したがってこれは「石の神殿」ではなく、「石神の殿(高殿)」を意味している、という可能性が高い。事実、三内丸山遺跡からはすでに幾多の「石神」(岩偶)が出土しているのである。

さらに、このツボケ族は「靺鞨・ツングース族」の一派とされているが、その靺鞨の本拠地の一たる黒竜江・ハンカ湖の地域とは、縄文後期を中心とする一大交流の事実が裏付けられている。津軽海峡圏に分布する黒曜石の鏃が、ウラジオストック周辺の領域から出土し、右の事実を指示しているのである。これらの事実は、いわば「最近の認識」であり、逆にこの認識をもとにして、右の「石神殿」の一文が書かれた、などということはありえない。

なぜならこれらのことが書かれている『東日流外三郡誌」北方新社版、第一巻、の出版された時点(1983年)の方がずっと先だからである。(赤太字棟上寅七)

以上、わたしがすでに講演や論文でくりかえしのべたところ、それをここに再述したのは他でもない。次の問題点に対し、注意を喚起せんがためである。それは、昨年の夏以来、くりかえし当三内丸山遺跡に関する報道がなされたにもかかわらず、『和田家文書』との関連にふれた「情報」が、各新聞・雑誌とも「皆無」であった。 もちろん、各編集者がこの「情報」を知らなかったのではない。わたしが各種の講演や会報・会誌・著作で三内遺跡と三郡誌との関係を述べているのにかかわらず、丸で知らぬふりである。

「東日流外三郡誌は偽書説が出ているから、危ない。さわらぬ神にたたりなし。」これがジャーナリストの心情だろうか。だとすれば、何とも情ない。戦時中の自己規制、文化大革命中の自己規制、それと同じ「規制の壁」が、今なお日本のジャーナリズムに健在である。その証拠ではないだろうか。それこそ「危ない」兆候だ。

第一、今回の三内丸山遺跡の出現は、従来の「偽書」説がどうにも成立できないこと、その証明となっていた。それは右の、わたしの簡単な叙述からも明白だ。だのに、「偽書説が出ているから」というのでは、全く自主的に、論理的にものを考える力がない。そのことを自己告白していることになるのではないか


斎藤光政さんは、「石神殿」については意見を書いていません。上記の古田さんの意見に対して、「偽書派」側から【「石神殿」という表現は、石造の神殿と解するべきである】、という意見があります。それに対しても上記の古田さんは、そうではなく「石神の殿」と解した方が自然、というように説明されています。

「偽書派」の主張のように、石造の神殿であれば、そのような遺跡が津軽地方に無いにもかかわらず、和田喜八郎氏が史書を偽造した、という矛盾が生じるのです。



発掘物について

この問題が一番判断の難しいところです。斎藤光政さんが一番の目玉として報じている発掘物、アラハバキ信仰の神像と『和田家文書』が伝える「遮光器土偶」について、まず見ていきたいと思います。

斎藤光政さんは、発掘したと称する古物は、自分が偽作した古文書とセットのいわば「古文書商法」だとする、斉藤隆一氏の言葉を紹介しています。

和田喜八郎の古文書商法には、文書の出現とそれに伴う和田の行動に一定のパターンがある。つまり、古文書を偽造するだけでなく、その内容に合った偽の古物を作るか入手する、古物を出現させることによって、偽造文書の価値と発見者である自分の信頼度をたかめる、偽造した古物は相手に譲ることもあるが、多くの場合には小道具として利用する、展示会や講演会を開き、金銭を得る、という一連の流れである】(p176~)
アラハバキ神像
遮光器土偶にかかわるエピソードを、「何でも鑑定団に出された遮光土器」というタイトルで次のように斎藤光政さんが書いています。

テレビ東京の人気番組でお宝ブームをつくった「開運!なんでも鑑定団」に、和田から大金と引き替えに受け取ったという遮光器土偶を手に出演していた人がいたのだ。彼は和田から、石塔山に埋まっていという財宝を掘り出すための資金提供を持ちかけられ、百万円以上を支払ったという。しかし、その財宝が出ることはなく、和田はその資金を返す代わりに、国宝級の品と称して遮光器土偶を差し出したというのだ。この遮光器土偶に対する番組の鑑定結果は、なんと「市価数万円で、しかも模造品」】(p205~206)

以上に対する、遮光器土偶などの真贋について「擁護派」の発言を探してみました。古田武彦さんは『真実の東北王朝』p206に次のように書いています。

孝季は大和で銅鈴を見た、といって書いているものは明らかに銅鐸である。世上、和田喜八郎氏をもって、一個の「詐偽漢」のごとく噂する人士が絶えないようである。氏の所持される「宝物類」を、あたかも、他よりもたらした(あるいは他で作らせた)「贋作」のように見なそうと欲するのである。では、その人士に聞こう。「では、なぜ、氏は『銅鐸』の贋作を作らせなかったのか」と。

氏の著述(たとえば『知られざる東日流日下王国』)を見れば、直ちに判明するように、氏は、孝季流の、「津軽の長髄彦=近畿の長髄彦」説の忠実な祖述者である。その氏が、自己の立説を「物」で裏付けようとされるなら、何よりも先ず、必要な「贋作」は「前漢鏡」ではなく、「銅鐸」であったこと、今は小学生にも分かる道理であろう。

氏の説が、孝季と共にあやまっていたことが、たとえ事実であったとしても、それは氏の光栄だ。逆にまちがっても、氏が忌むべき不道義漢などでないこと、この「銅鐸」問題に目を開けば、一目瞭然ではあるまいか


この発言は、『東日流外三郡誌』では長髄彦が近畿から東北に逃げてきた、となっているのだから、文書史料に合わせて出土品を偽作するのであれば、銅鐸圏の近畿からから来た事に合わせて「銅鐸」をなぜ作らなかったのか』ということでしょう。

しかし、当研究会が聞いているところでは、銅鐸は、現代の鋳造技術をもってしても、本物同様のレプリカの作成は非常に難しい、ということですので直接の反論にはなっていないように思われますが。

『真実の東北王朝』で遮光器土偶について、和田喜八郎氏から見せてもらった、と書かれていますが、グラビアにある遮光器土偶は、他の方の所蔵品です。前漢式鏡は写真を撮らせて頂いたのか写真を貰ったのか「和田喜八郎氏所蔵」として掲載されています。

「擁護派」の方々の、和田喜八郎氏の所蔵品を観察した報告書はまだ出来ていないようですので、これ以上の検討は今後の展開に期待しています、ということしか言えないようです。
(この件について、古田先生から電話で興味あるお話しを聞きました。この項最後尾の、喜八郎氏所蔵物のその後 参照ください。)


石塔山荒覇吐神社がらみの発掘物について

石塔山荒覇吐神社について、斎藤光政さんは、近所に住む初老の人物の言を引用する形で、【和田家文書の由来と疑惑の多くは、この謎の神社に結びついていた】と次の様に書きます。(p180)

あそこはね、石ノ塔と言って、十和田様と山の神がそれぞれ祀られたちいさな祠と、湧き水があるだけの場所でした。十和田様は水の神様ですが、荒れ果てていて、キツネが出るような雰囲気でした。『外三郡誌』で聖地になっている? 前九年の役で敗れた安倍一族が眠っている? 安東氏の秘宝? 洞窟?炭焼きでいつも通った場所ですが、そんな話聞いたこともないです。地元にもそんな言い伝えなんかないですよ。どうせ、また和田さんが言っている話しでしょう。和田と同じ飯詰地区に住む初老の男性は笑いながらいった。】(p181)

この文章は、斎藤光政記者が記事用にうまく作り上げたようなものという感じがします。べつのところでは、【出てきたといえば出てきたけれど、それは盃のようなものが、多くても二十個ほど。そのほかはなにもありませんでした】(p279)と、和田キヨエさんの話で、発掘物があったということを書いています。

炭焼き窯の故人になった三浦さんの「炭焼き窯を作ろうとしていてアイヌの土器がでたことはありました」、との言と共に、【それ以来、和田さんは自分で集めたものを、「石の塔から出土した、とやりだしたからみな怪訝な目でみていた」】(p279)、と続けます。

また、ノンフィクションライター藤原明氏の【和田が問題の出土品は京都や奈良から仕入れてきたものだ、と当時の消息に通じた人物から聞いた】(p282)とつづき、斎藤光政さんの記事構成力のうまさには敬服します。


p138~169には、【御神体里帰りの根拠は、和田家文書の『丑寅日本記』の一説。御神体は青銅製の仏像風。青森県の石塔山荒覇吐神社からから秋田県の田沢湖町の四柱神社のご神体の1992遷座式。遮光器土偶も洞窟から12個出た(但し3個以外は破損品)。そのうちの1個をご神体として引き受けた】というふうに斎藤光政さんは書きます。

そして、【安本氏に写真を送った。「仏像のほうは中国に行けば、どこでも買える土産物にすぎません。遮光器土偶も似たようなものではないですか」。後、北京の古玩城で、土産物として子供のお小遣い程度の金額で売られていた】と続きます。

斎藤さんは、【一年後に問題のご神体は盗難にあった、犯人は逮捕された】(p169)、と書きます。社会部記者として、ご神体のその後について興味が示されていないのは、何故なのでしょうか? もし、 盗難に遇ったご神体などが、もしガラクタであったら、斎藤記者は大々的に報じたと思います。神社から盗まれたものは、相当な価値があったと思われますがどうでしょう?


「偽書派」からの、【出土品が喜八郎氏贋作乃至他所から持たされたものではないか】、ということに対して、古田史学の会事務局長古賀達也氏は次の様に反論します。

昭和29年2月14日付の東奥日報の記事に、和田家が和田家文書に基づいて発掘した文化財公開のことが記されていた。昭和20年代既に和田家が文化財を大量に収蔵していた事実を証明する記事だが、このことはとりもなおさず、和田家文書が偽作ではなく、安倍安東一族の伝承と秋田孝季らによる調査を記した貴重な文献であることを裏づける】と。(注027)

ただ、この東奥日報記事の最後には、斎藤光政さんによると、「権威者による鑑定が待たれる」、と末尾にあって記事が締めくくられているようです。古賀さんも「権威者による鑑定」についてコメントするのが難しかったのでしょうか、この部分は省略しています。

和田家文書の真贋についての意見は、「擁護派」の方々からも多いのですが、和田喜八郎氏所蔵の出土品についての意見は以上のように、あまり見つける事が出来ませんでした。

和田喜八郎氏自身も、【
所有の古物数千点にも及び、資料収蔵庫を作りたい】、と生前言っています。(古田史学会報30号「極北東の古代文化波及」)

和田喜八郎氏の著書『知らぜらる東日流日下王国』にはかなり沢山の所蔵品の写真があります。右上の「遮光器土偶」も「アラハバキ神像」として載せられています。(同書p42)

和田喜八郎さん本人は、古田史学会報23号で、「
荒覇吐神社に、三度も破錠侵入し、数々の遺物が盗みさられた」と既に物が無くなった、と言います。しかし、会報30号では、「収蔵庫を建てたい」、という希望を述べられていますので、まだ沢山の出土品を持たれていたことがうかがえます。が、それらはどこにいったのでしょうか。藤本さんから竹田侑子さんに行ったということも聞こえませんし、今後の問題でしょう。

「擁護派」の西村俊一さんは、【すべての『和田家文書』は、和田喜八郎氏の死後、藤本光幸家に有償で引き取られており、それが散逸した事実はない】(なかった3号p18)と書かれていますが、発掘品については述べられていません。


また、古田史学の会会報17号には、裁判記録に関連して藤本光幸さんの、民間所有では最大の和田家所蔵の勾玉などの記述があります。

(前略)別の野村陳述書に「ここにいう勾玉や剣は偽物である。『祖先の開いた石塔山』『貴重な文献を書き遺してくれた祖先』は作り話である。」とありますが、これに対しては「何もご覧にもなっていない方が断定したり、御託宣を下されるのは、この裁判の野村氏側の一大特色のようですが、私を含めて数多くの人々が勾玉も剣も見ておりますが、その中で偽物と言った方はなく、石塔山も現実に存在しますし、文献も現在までの調査で四千八百十七冊卷あることが判明しており、これらについては現在着々と調査が進められております。」と反論しました。

古田史学の会の中でも石塔山の大山祇神社に行かれた人達は既に現地石塔山、「和田家文書」、勾玉、剣、そ の他数々の秘宝を見て居られる事は否定する事が出来ません。勾玉についてはその写真もありますし、私の知って居る限りでは日本国内で民間に存在するものでは最大の勾玉だと思います。(後略)
〈編集部〉和田家収蔵物や和田末吉に関する貴重な発見と調査が現在進められているが、いずれ、詳細な報告がなされるであろう
】(注028)

この槍玉その43のプリントを、藤本光幸氏の妹、竹田侑子さんにおみせしたところ、参考資料になりますか、と『北奥文化』という郷土誌28号(平成19年10月発行)を送って下さいました。

その中の「和田家文書報告」という竹田侑子さんの論文のなかに、次のように若干発掘物について触れられています。(注034)

喜八郎氏が藤本光幸さんのところに、中山山地の洞窟で発見したという品物を持参していた。中国古代の青銅爵・鐸・内行花紋鏡・古銭・象牙製品・仏像などで、座敷廊下に並べてあった。それらは、「安倍・安東・秋田秘宝展」の前に喜八郎氏が持ち去った。現在藤本家に残っているのは、藤本家の書庫にあった、銅鏡・銅件・懸け仏・小仏像など数点である。喜八郎氏が管理していたとされる発掘物の保管場所は不明】と。

和田喜八郎氏にかけられた、贋造者という汚名をそそぐためにも、古田史学の会会報編集部が書いているように、「擁護派」による和田家収蔵物の調査とその報告が望まれます。

古田武彦さんは、「和田家所蔵の発掘物」について非難が浴びせられるのは、シュリーマンがトロヤの遺跡から発掘したといっても、当時誰も信用せず詐欺漢扱いされた。それと同様な現象が和田喜八郎氏に対して起きている」、と次のように言われていますことを付け加えておきます。

シュリーマンは、わたしの敬愛する先人だ。その生涯と業績は、いつもわたしの心の奥底をふるいたたせる。彼には、いたましい「反応」が襲った。彼への賞讃の代りに、「詐欺師」「ぺてん師」「にせの骨董品を買いこみ、発掘品と称する大山師」こういった悪罵と中傷を投げつける人々が次々と現われたのである。あるいは、博物館長、あるいは、軍人。背後には、有名な学者たちがいた。今回も、同じだ】(注029)


当研究会としては、古文書については、個々の文書、お互いに意見が出ていますが、発掘物についての真贋論議は、現物自体の現状確認も難しいようで、今後この方面の探究が進むことを願っています。


和田家文書などが「発掘」されたということについて

古賀達也氏古田史学の会事務局長の古賀達也氏は、「偽書派」が主張する、【洞窟から遺物を発掘したということはガセではないか】、ということに対して次のように反論しています。(注030)

当時、飯詰村では和田父子が発見した遺物が評判となったようで、和田父子が山に入ると、村人がぞろぞろと後をつけたという。この逸話も当時村人たちが「和田家文書」や「遺物発見」を疑っていなかったことを表しているのではあるまいか。偽作論者はこの時発見された「遺物」をことさら過小評価しようとするが、開米氏の論文に掲載されているグラビア写真を見ても、発見された遺物が貴重なものであることは明白である。少なくとも、戦後の混乱期に炭焼きを業としている貧しい農家であった和田家で偽造したり、購入したりできるものでないことは疑いない

また、昭和26年に発行された『飯詰村史』に、大泉寺住職の開米智鎧氏が、和田喜八郎父子とともに洞窟に入った当時の状況を報告している、とおおむね次のように紹介しています。

古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高さ六七尺、奥行は未だ確かめていない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内に塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩詞如来像と異らぬ。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。此の洞窟に就いて岡田氏所蔵の記録に、「東方一里洞穴三十三観音有 正徳年間 炭焼午之助説」といふ、若し此れが此の古墳の洞窟を指したものとすれば、多数の佛像の存在を三十三観音と推考したものであらふ】と。

そして次のように続けています。【偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている


当研究会として、特に上記の「和田氏による洞窟の調査」の写真に注目しました。と言いますのは、石塔山は以前は水の神様であり、湧水もあった処、とされます。その様な場所にある洞窟に器物はともかく、「冊子とか巻物」が隠匿されていた、ということは、常識的には信じがたい所があります。

しかし、常識的なところに隠匿したらそれこそ簡単に発見されてしまう、というパラドックスに落ち込みます。 しかも、和田喜八郎氏の洞窟探検状況写真(「東日流六郡誌絵巻全」p263)では崖の最下部ではないようにもみえますが、水は流れているようです。

湿気はどうだったのでしょうか?みたところ鍾乳洞ではなさそうで、青森県五所川原市あたりの地質をネットで検索してみました。どうやら火山性の洞窟で、富士山の風穴、とか阿蘇山周辺にもある沢山の洞窟同様のもののようですので、湿度はそれほどのものではないのかもしれません。

おそらく国有林でしょうから、そこからの発掘物だと没収されかねないので、喜八郎氏は出所をあいまいにしていた、ということなのでしょうか。

竹田侑子さんによりますと、この洞窟は石塔山近くの洞窟ではないそうです。北奥文化28号に、竹田さんの書いた論文によりますと、【秘洞は確かに存在する】、と言われます。【兄藤本光幸が生前残した資料などから、山歩きのベテランさんと探し、2か所を発見した】、と書かれます。【兄藤本光幸が残した資料などからみると20以上あるようだ】とも書かれています。(注035)

今後の調査の進展が待たれます。

喜八郎氏所蔵物のその後

この石塔山からの発見物などについて古田先生にお聞きしましたら、先日電話で次の様な非常に興味のあることを、お話し下さいましたので付け加えておきます。

和田喜八郎氏所蔵の物は何処に行ったのか。長男孝さん(故人)の話では、一部は佐藤住職のお寺に行ったそうです。全体の行く先は章子さんが知っていると思うのです。どうしてかと言いますと、わたしが喜八郎氏を病床に見舞ったときに、章子さんもいるところで今後の話になりました。喜八郎氏は鍵が20個ほどの付いた鍵束を示し、娘に聞いてくれ、というようなことがありました。

確かに石塔山は国有地です。その昔、有力者 の斡旋で国有地を借りることが出来ました。目的は「祖先のお祭りをするため」です。藤本光幸氏存命の時には藤本さんが借地料を払っていたようです。喜八郎氏が亡くなった後は、章子さん(のご主人)が払い続けているようです。

石塔山の近くには洞窟がたくさんあります。私も一か所入って見た事があります。鍵がかかっていました。今でもそこに発掘物などは納められているのではないか。鍵束もその意味だろうと思います。

土偶については、私は喜八郎氏から「発掘した」と直接聞いたことはありません。竹田侑子さんは、お兄さんの藤本光幸さんの「文献」は引き継がれたけれど、「物」は章子さんが継がれたようです。

章子さんは「イジメ問題」が出た時の当事者です。イジメを受けた本人です。亡き父喜八郎氏の所蔵品は貴重なものという認識は当然持っています。

しかし、本物であろうと偽物だろうと、もうひっそりと人目を避けていたい、という気持ちなのだろうと察せられます。じっと黙っていることが賢い、と思っているのではないでしょうか。これは東北人のノウハウで、触らぬ神に祟りなしという心境になるのも止むを得ないと理解してあげなければ、と思います。このような気持ちで石塔山関係の借地料を払い続けているのだろうと思います。

竹田侑子さんは、「和田家文書」に対しても表に出して研究したいという考えですが、章子さんは一線を画しているようです
】と。


07 今後に残された問題

今まで述べてきた各項目で、それぞれに斎藤光政さんが著書の中で取り上げた、「偽書派」の「偽書である」という主張に対して、「擁護派」の意見を紹介し、「擁護派」の方がむしろ理がある、というような意見を述べてきました。

一番最初のところでも述べましたが、東日流外三郡誌偽書騒動とは何だろうか、と思います。「偽書派」の皆さんは『東日流外三郡誌(古代史)』北方新社刊を読んだ上で、偽書だ、と主張されているのでしょうか。改めて書きますが、この本には秋田孝季・和田長三郎連名で次のように述べてあるのでます。

「凡そ本書は史伝に年代の相違なる諸説多しとも、一編の歴史と照会して事実錯誤の発見あれども、私考して訂正するは正確とぞ認め難く、訂正の労は後世なる識者に委ねたり。」とか、「本書をうのみに史実とすべからず、外三郡誌は諸説不漏に綴りたる歴書なりせば是を究明の要あり」】などと、編者の小館衷三さんは、ちゃんと告して出版されているのです。(同書p17~18)

つまり、『外三郡誌』には史実でないところもあるかもしれない、間違っているところがあれば後世の識者にその判断は委ねる、と言っているわけです。「偽書派」の方々が、『外三郡誌』など和田家文書を、「真実の史書」と見て、「偽書」だと責めるのは矛先の向け方が違うのではないでしょうか。

斎藤光政さんがこの『偽書「東日流外三郡誌」事件』という本で描き出しているのは、結局、「偽書」かどうか、という論争は、『三郡誌』が秋田孝季なる人物が寛政年間に書いたものか、昭和の時代に和田喜八郎氏が書いたものか、ということに凝縮されるようです。

しかし、この本が書かれたのは、古田武彦さんが、「寛政原本」が出た、と発表される前でした。古田さんは以前から「寛政原本」が1993年10月までに出てこなかったら、『東日流外三郡誌』は無かったことになる、というような発言さえされていた。だから、「偽書」という立場で書くのは当然のこと、と仰りたいのかもしれません。


しかし、単行本を文庫本化する時点では「寛政原本はあった」と古田さんが発表されました。そこで斎藤さんはそのことについて次の様に言及されています。【
寛政原本』のご開帳は、2007年4月の古田武彦氏の講演会などに合わせておこなわれた。(中略)彼(原田実氏)は擁護派が『原本』と称するものを会場でつぶさに観察し、そして分析した。その結果は、「いや、もう驚きましたよ。その『寛政原本』は見事に和田喜八郎さんの筆跡だったんです。あきれかえりました。結局、これまでの『和田家文書』となんら変わりなかったということです。」という実にあっけないものだった】(p429)

そして、2008年に古田武彦さんたちが、2008年に寛政原本のオンデマンド出版に踏み切った事について、原田実氏の『と学会誌21号』に載った意見【「この本はある意味、出版という形をとった自爆テロである。ただし、それで爆砕するのは古田氏一人である】(p430)という言葉を引用して、「寛政原本」についての締めくくりとしています。


ともかく、「偽書派」の執拗ともいえる追及があり、「擁護派」もこれとの論争によって質的充実ができたのではないでしょうか。寛政原本

できれば、古田武彦さんが発表された「寛政原本」を再検証の出発点として、感情的な行きがかりは置いて、学問的に「偽書派」「擁護派」双方で検証されることを望みます。しかし、現状を見る限り絶望的のようです。

斎藤さんの本からは外れますが、その後の動きなどをみておきます。



寛政原本についてのトピックスなど

「寛政原本」の発見が遅れたのは何故?

古田武彦さんが「寛政原本」がでた、と発表され、和田家文書所有者の竹田侑子さんと共著で「ついに出現、幻の寛政原本」というサブタイトルで『東日流「内・外」三郡誌』を出版されました。(2008年) 元々古田さんは、「寛政原本」が出てきてから議論しよう、と言われてきました。

生前、和田喜八郎氏は 【天井裏に隠匿されていた先祖が秘匿していた文書は、「明治期の写本」】と言っていました。(『東日流六郡誌絵巻全』の和田喜三郎氏の説明文)

それらの中に「寛政原本」も混じっていて、和田喜八郎氏が意図的かどうか不明ですが、庇護者の藤本光幸氏に託していたのが、喜八郎氏の死後発見された、ということになります。


なぜ寛政原本の出現に手間取ったのか、その理由についても西村俊一氏は『なかった 3号』で、【藤本家の長押に置き忘れられていた未見の諸文書の中から「寛政原本」の遺りが発見された】、と次のように書いています。

そもそも、筆者は「寛政原本」が書写後すべて廃棄されていたとしても、「明治写本」が存在する以上、別に問題はないと考えてきた。しかし、古田武彦はあくまでも「寛政原本」の発見と確認にこだわり続けた。

また、筆者は、「明治写本」とされるものの中にも「寛政原本」の遺りが含まれている可能性があるのではないかと思っていた。しかし、古田武彦は独自の筆跡鑑定に基づき、その可能性をみとめようとしなかった。実は、そのため古田武彦と和田喜八郎との間には「寛政原本」の隠匿如何をめぐって容易ならざる軋轢も生じていたのであった。

今にして思えば古田武彦の学問的良心の発露でもあったということである。このたび、藤本光幸家の長押に永く置き忘れられていた未見の諸文書の中から「寛政原本」の遺りが発見されたのは、その古田武彦の学問的両親に神が与えた褒賞かもしれない
】(注031)

同じ号で古田武彦さんが「寛政原本の発見」について述べられています。(p9~13) おおむね次のような説明です。

2006年11月、八王子でのセミナー会場に竹田侑子さんの子息が届けてきてくださった。それらの大部分は見慣れた「明治写本」であったが、これらとは異質の古写本が存在していた。

それはまさにボロボロの様態、下手にめくれば壊れそうな姿で、虫食いのしみがつき、これらは、「明治写本」には全く見られないものだった。しみ以外にも、筆跡が「明治写本」とは異なっている。中身も、諸種の記録を集めて記録する百科全書的な東日流外三郡誌の性格を持っていた。

又その後で、高い位置の押し入れに、同じような虫食いの古文書があった、と竹田侑子さんが届けて下さって、その中にも「寛政原本」と思われるものを発見できました



何故「寛政原本」の発見がなかなか出なかったのか、ということについて「偽書派」の論客原田実さんは『季刊邪馬台国96号』で、次の様に類推されています。

和田喜八郎は生前、活字化される前の手書き本としての『東日流外三郡誌』は紛失したと主張していた。それは『東日流外三郡誌』を活字版ではなく、元の本で鑑定したい、という研究者たちの要求から逃げるための口実だったのだが、どうやら古田氏は喜八郎が隠していたその手書き本を探し当て、しかも江戸時代の古文書と見誤って世に出してしまったようである】(p129) と、皮肉たっぷりに書いています。

そのように、「寛政原本」出現後の状況とみますと、「偽書派」は「寛政原本」を全く認めていないようです。

これは追加情報ですが、古田先生が最近の電話で次の様な寛政原本についての推理を話して下さいました。【藤本光幸さんは、序巻と第一巻だけがあったというが、第二巻以降も存在するのではないか。石塔山の洞窟の中に、鍵をかけられた倉庫のようなところに隠匿されている可能性があると思う。】

そうなりますと、喜八郎さんの娘、章子さんの協力が必要となりましょうが、先述のように、章子さんの考えとは違うので難しいかとは思います。

尚、竹田侑子さんが送って下さった資料に「寛政原本」発見時の状況が書かれていますので、概要を紹介しておきます。(注036)

兄藤本光幸氏の没後、兄が残した仕事を受け継ぐことになった。整理のために実家に何度か行ったある日、甥に座敷廊下奥の書庫にも資料がある、と教えられ、甥夫妻が詰めてくれた段ボールを持ち帰り、平成十八年春、それを開いてみた。

その中に虫食いが激しく、紙はくっついて固まっており、うっかり開くとボロボロになりそうな数冊の綴本があった。表紙には「寛政五年七月、東日流外三郡誌・・・」和田長三□□とあるのや、秋田孝季編とあるものなどである。これが「寛政原本」ではないのか、と古田武彦さんに連絡し、笠谷教授の鑑定となった


「偽書派」からの「寛政原本」鑑定内容批判

原田実さんは、「と学会誌」で、古田さんのオンデマンド出版の「寛政原本」についてご自分の意見を書いている、大体次の様なことだ、と言われます。

明治写本」と「寛政原本」との筆跡の違いを具体的に示していない。日本文化研究センターの「紙」の検査結果からでは、「粗悪な和紙」ということで、この種の紙は昭和になっても作られていた。「寛政原本」の中には、古いお寺から出たものが使われている】(注032)などと。

しかし、その中には、「笠谷和比古教授の鑑定結果」に対しては何のコメントもありません。 古田武彦さんとすれば、筆跡鑑定・用紙の鑑定もちゃんとしているので、そこから「三郡誌研究のスタートを」と仰っています。これに対して「偽書派」は、古田さんの土俵には上がりたくないようです。


その後の議論の発展

『学問のすすめ』が『東日流外三郡誌』からの引用か、という論争は続いているようです。

西村俊一氏は、「寛政原本」出現に絡めて『学問のすすめ』について次の様に述べています。

【(前略)ついでながら、筆者は、公共哲学京都フォーラムにおける議論の中で、福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の一文「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」は、米国の独立宣言」からではなく、『東日流外三郡誌』を含む一群の『和田家文書』からの借用であるとの説もあることに言及した。ところが、即座に丸山真男門下の平石直昭が侮蔑的な言葉でそれを遮ったのであった。それは平石直昭・金泰昌編『知識人から考える公共性』(東京大学出版会、2006年)にも記録されている。

しかしながら、筆者は平石直昭が前記文書を実地に考証したことを寡聞にして知らないし、何よりもこのような応接は極めて無礼であった。最近、安川寿之輔は、その著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(高文研)において、この一文を福沢諭吉の思想であると誤解させたのは丸山真男が創作した「丸山諭吉」神話であるとし、むしろそれは『和田家文書』からの借用である確度が高いと論じている。

丸山真男は、吉本隆明がまさに指摘するように、「方法の原理的な一貫性と整序性」に拘泥するあまり、福沢諭吉を新たな時代の生んだ近代的知識人の典型として過度に理想化した。そして、それを平石直昭がこの度の「寛政原本」の発見にどのように対応するか見守りたい。
(後略)】(注033)


今後の研究の問題点の提起があっています

今後の問題としては、吉原賢二(東北大教授)さんが指摘されている、「明治写本」と「寛政原本」との「増補記事云々」の問題でしょう。

北方新社版『東日流外三郡誌』によれば、「けだし子子孫孫にて本書の増補記事訂正をなし、世の安泰世襲のあらたむ世に至らば本書頒布の需めに応ずべし。(中略)他見無用門外不出と心得」とある。しかし、オンデマンド版の、寛政原本のその部分の写真版には「他見無用門外不出」とだけあり、増補、訂正の勧めがない。】(古田史学会報 97号)「科学的記述についての考察」より)

この問題は「昭和写本」の存在問題に発展するかもしれないとも思われます。当研究会としては、発見された四千八百冊の「明治写本」が、喜八郎さんが古田さんに託したいという一万三千冊(古田喜八郎古田史学会報30号「極北東の古代文化波及」)とのこの大きな差は何だろうか、「昭和写本」というものの存在を思わざるをえません。今後ともこの点の解明を進めて頂きたいものです。

ともかく、斎藤光政さんが『偽書「東日流外三郡誌」事件』という本でまとめたものは、「寛政原本」がないまま和田喜八郎氏および古田さんをはじめとする「擁護派」の諸氏を弾劾しているのです。その「寛政原本」について古田武彦さんが「出てきた」と言われるのですから、安本さんや原田さんの受け売りでなく、ジャーナリストとしてきちんと評価してあげる義務があるのではないでしょうか?


付記 喜八郎氏の反論

和田喜八郎氏の文章を読まずに、欠席裁判的な、斎藤光政さんの「本」から得ていた喜八郎氏のイメージを作られた読者の方に、喜八郎氏の文章を読んでみて頂きたいと思います。

裁判が決着した後の、古田史学の会会報、23号と30号の2件の発言を紹介します。

斎藤光政さんの様な、社会部記者さんの記事のようには読みやすくありませんが、リンクを張っておきますので是非ご一読下さい。

(その1)古田史学会報23号「
偽書論をキーワードにした者達へ一言

(その2)古田史学会報30号「
極北東の古代文化波及



終わりに

今まで述べてきた、各項目での当研究会の感想的なコメントで目につくのは、斉藤光政記者の「偽書派」べったりの一方的な記事の書き方への批判でした。

話しが面白ければよい、というスタンスも見受けられ、当事者の反論には目をつぶったのか聞こえなかったのか、馬耳東風というところが目につく『偽書「東日流外三郡誌』事件】という本でした。

本の記述内容のチェックの必要性から『和田家文書』の真贋論争にまで立ち入る羽目になりました。正直言って、当研究会が槍玉に上げるには大きすぎる問題だったようです。

それぞれの項目に出来るだけ当研究会としてのコメントを書きましたが、「今後の進展を待つ」「今後の研究解明を願う」と言うような表現も散見される結果になりました。

しかし、『和田家文書』というか、『東日流外三郡誌』というか、それらの内容が荒唐無稽ではないかということと、それが伝承されてきたこと自体が嘘なのか、ということは違うと思います。古事記や日本書紀の内容にもいい加減さも沢山ありあますが、伝承されてきた内容も多い事と思います。


この『和田家文書』真贋論争の、古田武彦さんの八面六臂の働きには驚かされます。上岡龍太郎氏が古田さんとの対談(注010)で【古田武彦をやっつける奴はおらんのか】と次のように言っています。

【東日流外三郡誌で、「これはどうも古田武彦も具合悪いぞ、これは安本美典派に勝利がいくな」、これはボクの一番よろこぶところ、一番うれしいなと思ってね見てたんですが。 

ボクは何に感心したかというと、ダーウィンのことであるとかビッグバンのことであるとか国史画帖ですね。大和桜のことなど、最初に入ってくる情報で、これはもうだめだ、これアあかん、もうこれはどうしようもないやろ思ったら、え?ああそうなんか、大和桜そのものが昔からあるものをやったものなんか。

ハハァ、ダーウィンか、こりゃあかんやろ思うたら、あっそうか、エラズマス・ダーウィン、チャールズ・ダーウィン、ああ、そうか、その家柄の学問っていうものがあるのんか。ビッグバンにしろ、そういう考え方がもともとあったんか、われわれの知ってんのは一番新しい形のもんで、学問というものは突如見つけ出したものやない、ずーっと練り上げたものやから、その前にもそういうことを書けるのか、というのを知ってね。

だから余計に、もしもこの東日流外三郡誌が仮に偽物でも、そういうことがわかるだけでもすごい。


棟上寅七もほぼ同様な感想をですが、それだけでなく、「ギリシャ祭文」の件でも「金光上人」の件でも、古田武彦さんの論証に費やされた時間と精力は大変なものだったと思います。

その様な「擁護派」側の努力を一切頬被りですませる、斎藤さんの記述態度には我慢できないところがあります。


真贋問題に関連して、「寛政原本」を鑑定された、国際日本文化研究センター研究部の笠谷和比古教授の次の意見が尊重されてしかるべきか、と思います。

「東日流三郡誌」をめぐっては幾多の論議が重ねられ、真偽論争から感情的軋轢を引き起こすことも少なくなかったかと思われるが、これまでの経緯は御破算とし、右記諸文献を基点としつつ、同書に関する純粋に学問的な議論が再開されることを切望するものである。(『東日流「内・外」三郡誌』(オンブック)で、同書の鑑定書に付けられた所感)】

ところで、斎藤光政さんは、本書の第九章「奉納額」で次のように書いています。

『外三郡誌問題は、文書の即時全面公開によって簡単に解決するはずの問題だった。「もし、第三者機関による分析の結果、和田家文書が和田さんの製作でないことがわかったら、深く謝罪し頭を下げる」 と偽書派は明言すらしていた。】(p241)

『東日流「内・外」三郡誌』(オンブック)」で古田武彦さんが紙質・筆跡などの鑑定書も、公表されています。是非斎藤光政氏には、「偽書派」にその真贋を確かめて頂いて、ご自分の見解を読者へ届ける義務があるのではないでしょうか?

この、斉藤光政さんの本にたいして、東奥日報紙に鎌田慧氏の書評がのったそうです。そのことについての竹田侑子さんの感想が『北奥文化』という郷土誌にでていますので、紹介しておきます。(注037)

平成十八年十二月、斉藤光政著「偽書『東日流外三郡誌』事件」が出版され、東奥日報に「真摯真実を求める」という鎌田慧氏の書評が載った。鎌田氏は私の敬愛する大先輩であるが、この書評を書いたことは氏の生涯の汚点となるであろうと思った。残念である。

評の中に、斉藤記者の孤立しながらも真実を明らかにしようとしたジャーナリスト精神をたたえる文があったが、これは贔屓の称賛である。斉藤記者には東奥日報という大樹のガードがあったし、斎藤隆一氏をはじめとする「季刊邪馬台国」に連なる通称偽書派の応援団がいた。皆、マスコミ操作の上手なつわものたちである。孤立していたのは故和田喜八郎氏とその家族の方であろう。

鎌田氏は、「〈偽書に依存しなくても東北には誇りにたる歴史があったのだ〉という読者の声が、結末に紹介されていて救われる思いである」と結ぶ。この声を引き出した斉藤記者の手腕は確かに見事であった。

しかし、このことは同時に、斉藤記者は先入観からか、「和田家文書」は最初だけ、あるいは斜め読みで事足れり、孝季・吉次が判断を後世に委ね依頼する「愚言」や「述言」を読んでいないことが解る。それとも、孝季や吉次、末吉や長作の真摯な思いを受け止める感性がなかっただけであろうか。

孝季も吉次も、後世の読者に依存されたら迷惑であろう。文書は、孝季や吉次の同時代人のために書かれたのではなかった。いつの日か、青天白日の機が到来するときのために、収集したすべての記事を書き修めたのである。判断を後世に託して。「凡そ本書は史伝に年代の相違なる諸説多しとも、一遍の歴史と照会して事実錯誤の発見あれども、私考にして訂正するは正確とぞ認め難く、訂正の労は後世なる識者に委ねたり。」

願わくば、二十一世紀の今日が彼らの希求した陽光の日でありたいものである。

「和田家文書」は、和田喜八郎の書いた偽書ではない。孝季・吉次、末吉・長作、この津軽の地に生きた先人たちの後世に託した依頼を受け止め、心血を注いで書き残した遺産のひとつ一つを検証する作業に取り組んでくださる識者の多からんことを願うものである。真摯に真実を求めるために
。】

当研究会の感想

論理的に物を考える力不足?などと言ったら失礼かもしれません。斎藤光政さんは、『東日流外三郡誌』が書き継ぎ文書、百科事典みたいな集合文書、などの特質について理解しようともされなかったようです。

斎藤光政さんの本を読んだらわかるように、安本美典氏らの鑑定意見に従って叙述しています。最初から、安本氏らの「眼」を借りて自分の「眼」を使っていません。その結果、古田武彦さん側からの反論は黙殺ないし無視、ということになっています。ただし、古田さんの意見も肝腎のところをカットして、自分の説に利用することはありましたが。

最初から、裁判の原告側の鑑定人の意見に沿って叙述された、この『偽書「東日流外三郡誌」事件』であった、というのが最終的な感想です。ジャーナリストとして、反対側の意見も良く聞き、自分の判断で記事を書き、本にまとめられたら、大宅壮一賞の獲得も夢ではなかったでしょうに。

この身の程知らずに『東日流外三郡誌』を槍玉43を取り上げてしまい、ブログでいろいろ悩みをぼやいたりしました。「偽書派」として名前を上げている、原田実さんから、忌憚のない意見や著書などを教えて頂き、いろいろと参考になりました。最後の段階で、私が理解できない事などについて古田先生にお聞きしましたら、1時間あまりの長い電話で、2度に亘ってご教授頂きました。その一部はこの「槍玉その43」の文章の中に取り込ませて頂きました。内容・程度は違いますが、お二方に厚く御礼申し上げます。

「和田家文書」の管理をされている、竹田侑子さんに、この「槍玉43」のコピーをお届けしましたら、いろいろと資料をお送りいただきました。その一部は、更新版として今回使わせていただきました。とくに、前項の「鎌田慧氏の東奥日報の書評記事に対する感想」は、そのまま、当研究会として完全に同意できる文章でした。ありがとうございました。

(この項おわり 
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参考図書

『東日流外三郡誌 第一巻古代編』小館衷三・藤本光幸編北方新社1983年
『知られざる東日流日下王国』増補版 八幡書店 1989年
『東日流外流六郡誌絵巻全』編集構成 山上笙介 津軽書房
『真実の東北王朝』 古田武彦 駸々堂1990年
『北洋伝承黙示録』渡辺豊和 新泉社1997年
『市民の古代』16号 市民の古代研究会編 ビレッジプレス 1994年
『なかった 真実の歴史学』 第3号 2007年6月
『新・古代学』 第1、2、3、8集 新泉社
『古田史学会報』23号、30号、100号
『日本国の原風景』「東日流外三郡誌」に関する一考察」西村俊一(講演)
『季刊邪馬台国』52号、69号、95号、96号その他各号
『ムー大陸の謎』金子史朗 講談社現代新書 1964年
『幻想の津軽王国』新装版 原田実 批評社 1998年
『トンデモ偽史の世界』 原田実 楽工社 2008年
『東日流「内・外」三郡誌』 幻の寛政原本の出現 古田武彦/竹田侑子 オンデマンド出版 2008年
『郷土誌 北奥文化』28号


(001)西村俊一 日本国際教育学会第10回大会における発言「日本国の原風景」1999年11月7日
     
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/genihonj.html
(002)『東日流「内・外」三郡誌』 古田武彦/竹田侑子(オンブック)(p70~71)
(003)『新・古代学 第2集』 古賀達也 
民活偽作論の虚妄より
(004)『真実の東北王朝』 第六章『東日流三郡誌』を問う 古田武彦 p232
(005)『真実の東北王朝』 第六章『東日流三郡誌』を問う 古田武彦 p234
(006)『新・古代学 第1集』 上条誠 
西欧科学史と和田家文書
(007)『新・古代学 第2集』 古賀達也 知的犯罪の構造 民活偽作論の虚妄
(008)『新・古代学 第8集』 古田武彦 
浅見光彦氏へのレター
(009)『新・古代学 第1集』 古田武彦 ギリシャ祭文の反証 古田武彦
(010)『新・古代学 第1集』 古田武彦 
「上岡龍太郎が見た古代史」
(011)西村俊一 日本国際教育学会第10回大会における発言「日本国の原風景」1999年11月7日 
     
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/genihonj.html
(012)『新・古代学第1集』 古田武彦 「鉄検査のルール違反 谷野満教授への切言」
(013)裁判記録 青森地裁判決http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai3/saiban01.html
     仙台高裁判決http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai3/saiban02.html
     最高裁判決http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai3/saiban03.html
(014)1998年10月原田実氏のHPに掲載された『東日流外三郡誌』と熊野猪垣二より
(015)『新・古代学 第4集』 古賀達也 続平成・翁聞取帖 
『東日流外三郡誌』の真実を求めて より  
(016)西村俊一 日本国際教育学会第10回大会における発言「日本国の原風景」より
(017)『新・古代学 第1集』 古賀達也 
和田家文書研究序説 
(018)『新・古代学 第1集』 古田武彦 
「三つの質問状」より
(019)古田史学会報8号 藤本光幸 
角田家文書模写のいきさつ 1995.8.15
(020)『新・古代学 第1集』 古田武彦 貴方は何処に行くのか 桐原氏へ
(021)西村俊一 日本国際教育学会第10回大会における発言「日本国の原風景」より
     http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/genihonj.html
(022)『新・古代学 第8集』 古田武彦 「浅見光彦氏へのレター」より
(023)『新・古代学 第1集』 古田武彦 
和田家文書「偽書説」の崩壊より
(024)『新・古代学 第1集』 和田喜八郎 
「和田家文献は断固守る」より
(025)『新・古代学 第8集』 古田武彦 「
浅見光彦氏へのレター」より
(026)『新・古代学 第1集』 古田武彦 
「東北の真実 和田家文書概観」より関係個所要約
(027)『新・古代学 第1集』 古賀達也 「
和田家史料(出土物)公開の歴史
(028)古田史学の会会報17号 藤本光幸 「
事実無根の名誉毀損を許さない」より
(029)『新・古代学 第2集』 古田武彦 「
和田家文書の中の新発見」より
(030)『新・古代学 第1集』 古賀達也 「
和田家文書研究序説 和田家文書公開の歴史」より
(031)『なかった3号』 西村俊一 悪霊に取り憑かれた暗黒の村 p19
(032)「棟上寅七の古代史本批評」ブログ 
2011.2.05 への原田実氏のコメント より
(033)『なかった3号』 西村俊一 悪霊に取り憑かれた暗黒の村 p20
(034)『北奥文化28号』 竹田侑子「和田家文書報告(3)」p51~53
(035)『北奥文化28号』 竹田侑子「和田家文書報告(3)」p57~58