槍玉その21 『卑弥呼の国はマイナーだった』 宮本禎夫 著 2004年12月 文芸社 刊 批評文責 棟上寅七
●最初に
いわゆる古田史観を受容した方々、というか、『魏志』倭人伝の記事は「邪馬”台”国」でなく「邪馬”壹”国」である派の本も、当研究会の検討対象にあげる、旨を、たしか新しい歴史教科書(古代史)研究会ホームページのプロローグに書きました。
しかし、実際幾冊かの本を読んでみましたが、どうも考えがまとまりません。仲間内の本の批判になりますと、重箱の隅をほじくるようになったり、揚げ足取りになったり、でプラス効果のある批評は難しいな、と感じます。
レーニン:トロツキー、毛沢東:林彪、大友皇子:大海人皇子など、親しい会派が分かれるとそれこそ骨肉の争いになります。
ともあれ、この『卑弥呼の国はマイナーだった』は、古田武彦全面肯定の方ではなさそうですから、試しに槍玉に上げてみることにします。
この本の著者宮本禎夫(みやもとただお)さんは、1933年生まれで、早稲田大学文学部を卒業されて、長く早稲田大学の図書館に勤務されていた方です。そのご経歴から判りますように、本の内容からその博覧強記ぶりがよく見て取れます。とても、寅七の太刀打ちできるところではないようです。
この本は、2004年に刊行されています。つまり、71歳のときの出版となります。かなりのエネルギーを使っての著作ですから、それなりの敬意を払って槍玉に上がっていただくことにしなければ、と思っています。
●この本の内容
この『卑弥呼の国はマイナーだった』は、基本的に古田武彦さんの考えに賛成する、ということを云われ、この本は始まります。
そして、倭人伝の読み方で、従来の読み方(岩波文庫)と山田宗睦さんの読み方が並列して述べられます。なぜ、古田流の読み方でないのか、ということがまず引かれた伏線です。
その山田さんの倭人伝の中の、倭語の表音表記が独特なのです。例えば国の名前ですと、対海国(とま)、一大国(ゆつだ)、末盧国(まつら)、伊都(うた)、不弥国(ほむ)、邪馬壹国(やまゆつ)というように一種独特なのです。しかしこの独特さの説明は一切ありません。
仕方なく、この『卑弥呼の国はマイナーだった』の内容を検証するために、山田さんの著書も買い求めざるを得ませんでした。これはこの本の唯我独尊的な一面と云われても仕方ないと思います。
古田さんの、道行き文的解釈が間違っている、と説かれます。部分距離の和=総距離=12000里の宮本さん流の解釈が述べられます。それは「余里」の解釈であり、又、壱岐からの行路が「南へ」という方向指定がない、ということと結びついて、邪馬壱国の位置が大きくずれていきます。
結果的に、豊前赤村が卑弥呼の都、と説を立てられます。この論理の進め方が、果たして理に適っているか、を見ていかなければ、と思っています。
なんとなく、第一感では、邪馬台国=豊前という前提を立てて、倭人伝を読み合わせたような気がするのですが、軽々しく決め付けてはいけないでしょう。それにしても、豊前赤村とはマイナー過ぎる場所、というのが正直な感じです。
宮本禎夫さんは、卑弥呼の国は豊前赤村だ、その方が『魏志』倭人伝の記事や、『宋書』の記事によく合う、と仰います。「豊前赤村」といっても殆どの人は”そこはどこ?”と全く知らない方が殆どでしょう。地図で表してみました。九州全体からみると、相対的にそう大した違いがあるとは思えません。目くそ~鼻くその違いくらいの差でしょう。しかし、行路図の意味は全く異なります。やっぱり宮本説はムリ筋じゃないのかなあ、と思われます。(後出 魏使ルート図参照)
宮本さんは、『宋書』の記事、「倭王武の、祖先が西の衆夷を征服した」、というところに古田説のほころびを見つけた、と思っておられるようです。西の衆夷ということは、その政権は九州島の東側にあった、という論法です。
そして、豊前赤村が卑弥呼の都とされ、その豊前に何があるか、と話を進められます。
そこには、神武天皇を祭祀とする、太祖神社の一群があり、戸城山がその中心であろう、とされます。
そこらあたりには考古学的出土品は少ないが、戸城山を発掘調査すれば出てくる、とされます。
地名の遺存性を否定し、特に伊都=怡土を否定するために、山田宗睦さんの洛陽口語を引用し、坂田隆さんの魏使岡垣上陸説を利用し、太祖神社の一群の分布と結びつけたのが、宮本禎夫さんの卑弥呼の国=豊後赤村説といえるようです。
●問題点と問題点の検討
・問題点
①『魏志』倭人伝の記事、魏使の宗像海岸上陸説
②豊前赤村=邪馬壹国とした場合の矛盾点の数々
③地名の遺存性の否定
④狗奴国がメジャーとした場合の矛盾点
⑤『宋書』の記事、西の衆夷の問題
⑥考古学的出土品の問題
⑦古田史観、多元王朝説の理解について
・問題点の検討
①魏志倭人伝の記事、魏使の宗像海岸上陸説
宗像海岸上陸説は、邪馬壱国豊前説の弱点は、槍玉その6 高木彬光さんの邪馬台国=宇佐説批判でも書きました。簡単に再録しますと、①壱岐から航路を、弥生時代の船で、遠い北九州に向かうより、中国のお役人は、目視できる松浦半島を目指した、と見るのが常識的解釈 ②上陸地からの距離が合わない ③卑弥呼の都としての考古学的出土品が少ない、などを上げました。
今回も同様の弱点があります。但し、距離の面での問題は解消されているようですが。
もう一つの弱点は、④倭人伝の壱岐の描写で、「南北に市糴」とあり、南(松浦方面)と北(対馬方面)と常に交易している、という描写があることを無視することになります。(古田武彦『風土記にいた卑弥呼』朝日文庫p227~ご参照ください)
また、古田武彦さんは、邪馬壱国の論理(朝日新聞社 p390)で、高木彬光さんの宗像神湊上陸説に次のように批判されています。(「神津恭介さんへの挑戦状」)
【(前略)つまり、「壱岐→末盧国」の場合、方角指定がないから、「千余里」という距離さえ満足させれば、真東にあたる「壱岐→
これは失礼ながら、「倭人伝」の文面に対するまったくの不注意です。「対海国」(対馬南島)と「一大国」(壱岐)の二箇所とも、「南北に市糴してきす」の一句があります。”島内”のことでしたら、南北にだけ
ですから、これは、これはこの両島を二つの中間点にして、「狗邪韓国→末盧国」の間が「南北の交通路」として周知の主要交易幹線路だったことをのべているのです。このような周知の通路だったからこそ、末盧国以降のような「方向指示」は省かれているのです。否、明記された二つの「南北市糴」という方角指示との重複を避けたというべきでしょう。(後略)】
宮本さんの岡垣も基本的には、古田さんの指摘される弱点があるといえます。別図に宮本説と古田説を示してみました。この図見るだけで、宮本説(高木彬光説も含め)は、古代の船の航路としては、常識的に見て無理な立論のように判断されますが、如何でしょうか。
②豊前赤村=邪馬壹国とした場合の矛盾点の数々
豊前赤村=邪馬壹国としますといろいろ矛盾が出てきます。
a 卑弥呼の国は、マイナーな国、小さい国である、としきりに主張されます。倭人伝がいう、戸数7万余をどう説明できるか。 宮本さんは説明なし、つまり頬かぶりです。
b 伊都国は、福岡県赤池町、投馬国は福岡県香春町付近、狗奴国は現福岡県北部以外の地とされます。倭人伝がいう、投馬国は、不弥国から南へ水行20日という位置関係をどう説明できるか。これも説明なし。
c では、博多湾岸の考古学的出土品の多い地域はなんという国であったのか。これも説明ない。
つまり、「赤村」最初にありき、で辻褄あわせもない、論理的には荒っぽい進め方をされています。
d 卑弥呼の国邪馬壹国は漢の光武帝から金印を貰った委奴国の後裔である、ということはほぼ間違いないことと思います。しかし、卑弥呼の国=豊前赤村と主張されても、じゃあ、委奴国=豊前赤村なのか、というとどうもそうは主張されていません。
③地名の遺存性の否定
先にものべましたが、倭人伝の訳文に山田宗睦さんの文を使っています。漢字の読みも山田さん独特です。この読みについて全く説明がないのは感心しません。
特に、寅七は、過去何度も、「奴」をなぜ「ナ」と読むのか、読めるのかと述べてきました。この山田さんの読みも「ナ」なのです。宮本さんの邪馬台国豊前説にとって、奴国は「ナ」国であった方がよいのではないか、と疑われます。
倭人伝の”奴”の”ナ”読みが一般的(通説)です。この本でも、奴=ナとなっています。調べてみますと、表音文字は長田夏樹さんという方の「洛陽古音」の研究に基づく”邪馬台国の言語”に依った、とされています。
古田武彦さんは、奴に上古音で”ナ”と読んだから、倭人伝の奴も”ナ”というのはおかしい、同じところに”ナ”の音標漢字に”那”を使っている、と指摘されて、奴は”ヌ若しくはノ”であろうと言われます。この上古代の発音がどうだったか、などに議論が行けば、それこそ藪小路に入ってしまいます。
宮本さんは、「伊都」とあっても糸島にあらず、地名比定に倭人伝の漢音読みを当てることを否定するツールとして、山田さんの「洛陽口語」を利用されているようです。しかし、それでいかなる結果を宮本さんが得られたか、結局、末盧国も伊都国も奴国も不弥国も、その読みに合わせることなく、いわば「どこでもよい」ということになってしまったわけです。
地名の遺存性を全く無視するということは、古田先生を師と仰ぐ宮本さんに似合わぬ暴論と思うのですが、それについての論及は全く無いのは不思議です。(邪馬壹国の論理 神津恭介氏への挑戦状 p392 地名比定の無視批判 を参照下さい)
④狗奴国がメジャーとした場合の矛盾点
宮本さんは、メジャー狗奴国が九州島を押さえていて、中国の呉と結び、親呉倭王と言う立場で卑弥呼の国と対立した、と論を進めます。
『後漢書』にある100余国の内の30ヶ国の代表が卑弥呼の国だから、”卑弥呼の国はマイナーだった”という表題になっています。古田武彦さんは、「昔は100余ヶ国が、今30国に統合された」というように、『失われた九州王朝』では解釈されています。
『後漢書』の描く倭国と、1世紀以上は離れた魏志の描く邪馬壹国とでは、その間に、いくつかの国が統合されたり、またいくつかの国は敵対関係になったり、と考えられましょう。
100余国という漢の時代の国々と、魏の時代の国々と領域などは、変わってきていたと考えるほうが自然だと思います。それから又2000年離れた、宋の時代の、倭の武王が上表文で歴史を述べている、200ほどの国々と卑弥呼の時代とでは、国の定義というか内容が変わってきた、と思うのが理にかなっていると思います。
『魏志』が著わされた200年後の後漢書でも、30許国と、卑弥呼の国は描かれています。狗奴国のその後は後漢書にはありません。邪馬台国の東千里に倭種の国があるとはありますが。後漢書の著者范曄にとって、その時代、5世紀の常識として、倭国は30国のいわば連合体というように理解されていた、と思われます。九州島に狗奴国が存在していたら記載していたことと思います。
つまり、この部分は、宮本さんの頭の中に浮かんだストーリーに過ぎないといえましょう。これらの論の前提仮説を宮本さんが、史資料などもっと検証した上で、歴史書としては発表されるべきかと思います。
⑤『宋書』の記事、西の衆夷の問題
『魏志』倭人伝や『後漢書』の倭国記事から、日本列島と倭国の相対的な位置関係を定める条件を5個上げられ、赤村が合致するとされます。又、倭王武の上表文にある「西服衆夷66国」から、「西の国々を征服というからには、その武王の国は九州の東側にあった筈」と云われます。
しかし先ほど示した、九州の地図の赤村と博多湾岸との位置関係から見て、赤村の満足する条件は博多湾岸筑前もまた満足するのです。
また、宮本さんは、倭王武の「祖先が西の衆夷を制服した」、というところに古田説のほころびを見つけた、と思っておられるようですが、このように殆ど目くそ鼻くその差に過ぎません。
しかも同じ上表文の「海北を平らげる」というところには、宮本さんは口を閉ざしていらっしゃいます。
地図で見られるように、博多湾岸からであれば、海北の国々といえば、朝鮮半島とすんなり理解できますが、豊前に寄ると”海北の国々”は対象とする場所がなくなってしまうのです。確か、古田武彦さんも、宇佐説に対して同様の疑問を呈していらっしゃった記憶があります。(神津恭介氏への手紙)
倭王武が赤村に本拠をおいていた、ともとられる宮本さんの、この立論はかなりムリだと思います。まず、宮本さん本人が、武王の本拠は赤村と云えない(いくらなんでもそこまでの厚顔な主張は出来ない)でいらっしゃいますから。
尚、「西の衆夷とは」について、詳しくお知りになりたい方は、古田武彦著『失われた九州王朝』朝日文庫p257~258 西なる衆夷 参照ください。
⑥考古学的出土品の問題
宮本禎夫さんは、『卑弥呼の国はマイナーだった』で、豊前赤村に卑弥呼の国を比定されますが、しかし、そこは考古学的出土物が全く無いといってよいほど少ないのです。このことについては、赤村の戸城山頂の古宮跡の発掘によって出現する可能性に期待されます。
これは、どうかなあ、このような議論がまかり通れば、どこでも卑弥呼の国の候補地となり得ます。古田武彦さんは、『邪馬壱国の証明』(角川文庫p37)に次のように述べられています。
【3世紀の日本列島で「矛」の(出土品)の中心地はどこか。文句なく、博多湾岸だ。何より、「矛の鋳型」が100%、この地域に集中しているのである。全く銅矛を出土しない近畿は”論外”だが、出土する九州でも、大分・筑後・島原等、幾多の「邪馬台国」候補地も、博多湾岸とは全然比較にならない。― ”今後出るだろう”そのような遁辞がいつまで純真な古代史愛好者を”なだめおおせられる”ものだろうか。(以下略)】 このように古田さんの仰っていることが道理に叶っている、と思います。
考古学的出土品に乏しいのは、高木彬光さんの宇佐説と同様です。弥生時代前期の考古学的出土品が多いのは、赤村ではなく、それから一山越えた飯塚の立岩遺跡です。ここが都とされるのなら、それはそれで、立派な候補地になることでしょう。(立岩を、不弥国に比定する説もあるそうです)
⑦古田史観、多元王朝説の理解について
古田武彦さんの「多元王朝説」について、この本の中にコメントが2箇所にあります。アレッと思いました。ちょっと気付かないのですが、最初の方に、多元史観についての叙述がありました。p139 古田学説の総括
【古代イングランドに七王国があったのと同様に、北東九州の「倭国」、近畿の「銅鐸国」、関東のカタシロ大王の「鈴鏡国」、南西九州の「狗奴国」、津軽の「アハラバキ王国」、沖縄や北海道の諸王国、そしてそれらの間隙を埋める無数の小国が存在していた】
しかし、これはおかしい、古田武彦さんはそのように言っていません。3世紀の弥生期の王国でしたら、南西九州の「狗奴国」の存在については、むしろ「狗奴国」=「銅鐸国」説のようですし、出雲王国、瀬戸内王国(吉備)などにも王国の存在を説いていらっしゃいます。
仮に、それらを100歩譲って目をつぶったとしましても、同書p239に、【古田氏のいう「多元」とは、単に二元以上、すなわち主たる九州王朝と従たる近畿天皇家といったほどの意味にしかすぎず、せいぜい関東なる「カタシロ大王」の国を想定するに留まるが、(後略)】 というように、古田武彦さんの多元王朝説を、非常に矮小化して定義されていることはおかしい、と思います。
そして、自分で勝手に設定した「古田多元王朝説」に対して、古田説の穴を開けた、と、得得と自説を展開されるのはいただけません。「師の説にな、なずみそ」以前の問題です。宮本さんは、古田武彦さんを師と仰がれると仰っていますし、ともあれ古田武彦さんの”日本列島の大王たち”を読むべきでしょう。読んでいてなおかつこのように多元説を唱えられるのでしょうか?
縄文期には縄文的国家が、弥生時代には弥生的国家が、古墳時代には古墳時代的国家があった。と古田武彦さんが仰ることは道理と思われます。
豊前赤村付近の地域を統率する政治権力が、縄文~古墳のどの時代かはわかりませんが、存在していた可能性はあるかとは思います。しかし、証拠なしでは無理でしょう。
それにしても、豊前赤村のすぐ近くの、「博多湾岸の考古学的出土品の多い国」は宮本説では、その位置づけがぼかしてあるのは、全くずるいとしか言いようがありません。
●結論
古田説を認めると宮本さんは仰りながら、古田説のいわば穴を探してそこに自説を展開されるわけです。
そのために、地名の遺存性から「伊都=イト=怡土(糸島)」といわば定説化している部分を、山田さんの「洛陽口語」を利用して、「伊都=ウタ」であるので、糸島にあらず、という風に定説を否定されます。
また、坂田隆氏の”魏使福岡県岡垣上陸説”の倭人伝行路解読にほぼ同じ根拠で、邪馬壱国=豊前赤村説を唱えられます。その根拠は倭人伝に、壱岐から末盧の方向の記載がなく距離のみ記されていることを上げられます。
赤村周辺には、大祖神社という名の神社群があり、戸城山が本宮であった、これが卑弥呼の都とされるのです。
卑弥呼の国は、小さい国である、としきりに主張されます。伊都国は、福岡県赤池町、投馬国は福岡県香春町付近、狗奴国は現福岡県北部以外の地とされます。
これには、邪馬台国論を少しでも聞きかじった人には、定説サイド・古田史学サイドの双方から、受け入れられることはないでしょう。
倭人伝にある、①邪馬壱国は戸数7万余 ②投馬国は不弥国から南水行20日という2点からだけでも根本的な矛盾があるといえます。
又、『宋書』の倭の五王 倭武の上表文の「西の衆夷を征服」ということから、博多湾岸ではおかしい、豊前赤村であって初めて、西夷を征服といえる、と主張されます。これは、古田武彦さんがいわれるように、中国の朝廷から見た視点、「東夷」の王の視点、で解釈すれば、なんらおかしくはないと思います。
もう一つまた、九州島全体から見た、東西の位置関係は、「赤村」が「春日」よりも東よりですが、全体から見ればその差はたいしたことではないと思います。この点を取り上げて「春日」を否定する論理は、同様に「赤村」も否定することになると思います。(上図参照)
考古学的出土物がすくないことについては、赤村の戸城山頂の古宮跡の発掘によって出現する可能性、つまり”万能の論理”を用いられています。
最後に、古田武彦さんがよく引用される本居宣長の「師の説に、な、なずみそ」で、古田説に対して異説を上げたという言葉で締めくくられていますが、とんでもない、と思われます。「師の説に執着したらいけない」という意味はわかりますが、当研究会からかくも簡単に欠点をあげつらわれるようでしたら、それこそ「マイナーな本」と化しましょう。
こういったら何ですが、この『卑弥呼の国はマイナーだった』という本は、「仮説を立てる」以前の「仮説検討段階の本」と思われます。レベルからいいますと、道草その4”委奴国久山町説”くらいでしょうか。
この本を読んで気になりましたのは、折角、古田武彦さんの古代日本の見方に賛意を表されて、書き始められ、読者としては、読み始めるわけです。しかし、ある時点から、古田説を換骨奪胎して、邪馬台国豊前赤村説に持って行かれるわけです。
古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』を読まれていた読者の方でしたら、古田さんの考えと違うことにすぐ気付かれることでしょう、が、初めてこの『卑弥呼の国はマイナーだった』で古田説を知った方は、「古田説もいい加減な説だなあ」という感想を持ってしまうのではないか、と危惧します。
竜頭蛇尾に終わってしまっている本ですが、豊前地方の国の歴史を掘り起こそう、という熱意は感じられますので、別の観点から、豊前赤村地域に光を当ててみては如何でしょうか、というのが、当研究会からの宮本禎夫さんへのアドバイスです。
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