槍玉その18 『壬申の乱』 亀田隆之 著 日本歴史新書 1960年刊 至文堂 批評文責 棟上寅七
著者
本の奥書によりますと、昭和7年栃木県足利市生まれ。 昭和27年東京大学文学部国史学科卒業 関西大学教授、日本古代史専攻 とあります。
古田武彦さんの『壬申大乱』を読んでいましたら、亀田隆之先生について言及されているところがあるのに気付きました。
『壬申大乱』p66第二章真実の白村江 より
【(前略)天武紀は上・下に分かれている。その「上」は殆ど全部が今問題の「壬申の乱」に当てられている。その乱は、天武元年の6月22日に始まった。天武天皇が「すみやかに不破道を塞げ。朕今いでたたむ」と開戦を決意したのである。この戦いは短期間で終結した。翌月23日である。「ここに大友皇子逃げて入らむ所無し。乃ち還りて山前に隠れて自ら縊れ死ぬ」 すなわち、この戦乱は「1ヶ月と1日」で終結したのである。この31日間で「全1巻(上)」の殆どが構成されている。「日記」のような濃密さである。もし『日本書紀』がこのような濃密さで記述されていたら現在の何百倍もの大冊になってしまうだろう。(中略)
もっともこれに対して、「大変結構だ。歴史史料として理想的だ」とみなす人もあろう。事実この乱をめぐって1冊の書をなしている歴史学者にとってまことに”有難い史料状況”だったと言いえよう。(亀田隆之『壬申の乱』昭和36年1月、直木孝次郎『壬申の乱』昭和36年6月、森浩一、門脇禎二編『壬申の乱』春日井シンポジウム1996年)・・・(後略)】
つまり、濃密な記述のある史料に寄りかかって、歴史書の著作を物にする歴史学者の一人として名前を上げられています。それ以上具体的な各個の著作の批評はされていませんので、寅七が亀田先生の”壬申の乱”に言いたいことをいえる余地は残されているようです。
この本を槍玉に上げることにした理由
『日本書紀』でも、もう天武天皇の時代は、記録も多くなっていて、書かれていること自体に問題があろうはずもない、と思われています。果たして、そうなのでしょうか、というわけで、詳しく記述されている、『壬申の乱』を槍玉に上げてみようと思っています。
亀田隆之先生の本を取りあえず通読した感想は、まあ、こういってはなんですが、『日本書紀』そのものを読んでいたほうが面白い、ということです。大学の国史科のテキストなどに使われるようですから、いわゆる”通説””定説”の代表として取り上げるのに丁度良いのではないかと思います。
大学の先生らしく、『日本書紀』の記事を主体に、藤原鎌足の大織冠伝や、懐風藻などを参考図書として詳しく”乱”の解説をされています。 この本は初版が1951年ですから、50年以上も版を重ねている、「通説 壬申の乱 標準本」と言ってよいと思います。
当研究会で槍玉に上げた方の中で、壬申の乱について言及したことが2度あります。
槍玉その5異議あり日本史の永井路子さんと、槍玉その7古代史紀行の宮脇俊三さんです。
永井路子さんの場合は、永井路子さんの言われていることを、次のように紹介しています。
【壬申の乱は単なる皇位継承の争い、と見るのではなく、アジアの歴史の中で関連づけて見ようという動きが起こっている。当時日本は百済を救おうとして、唐・新羅連合軍に白村江(はくすきのえ)で大敗している。壬申の乱は、大化の改新・白村江の敗戦・壬申の乱はワンセットとして東アジア古代史の波の上で解明されねばならないのではないか、という気がし始めた。
壬申の乱は、歴史の謎の深さを教えてくれる。ある学者がこれこそ間違いない、という学説を出して、一時は学会を風靡しても、別の学者がひっくりかえしてしまうこともある。
「一プラス一、イコール二」というのとは、違った結論の出し方こそ、歴史の面白さと言える】
この永井さんの感性で捉えられている視点、”東アジアの古代史の波の上から”という視点が、亀田先生には失礼ながら、欠けていると寅七には思われます。
宮脇俊三さんの場合は、 以下のように”壬申の乱”について感想を述べられています。
【壬申の乱 大津~飛鳥間70キロ女官を連れて信じがたいほどの強行軍(p185)および宮滝~宇陀~榛原~名張~上野 の強行軍(p190)などは、私達が記紀を読んだときに感じる常識的な疑問だろうと思います】と。
亀田先生の、この『壬申の乱』という本は、次のような問題点を指摘することが出来ると思います。
①東アジアの政治上の情勢との関連についての検討不足
②天智称制についての検討
③壬申の乱は果たして最大の内乱か
④記事の虚構性についての検討の不足
⑤万葉集からの歌の引用の問題点
⑥「虎に翼をつけて放てり」の解釈
⑦その他説明不足の諸点
まず現代語訳を
ところで、このホームページの読者諸氏が、『日本書紀』の一番のハイライトと云っても良い”壬申の乱”のストーリーをご存知という前提で始めてよいものか、迷っています。
そこで、当方の知識の再確認の意味もこめて、『日本書紀』天武紀(上)の現代語訳を行いました。その結果はすでに、道草その8”壬申の乱”現代語訳として当ホームページに掲載いたしました。
ということで、今回、読者諸兄姉にも、”壬申の乱”の『日本書紀』の記事をまず知っておいて頂きたい、と思うのです。云われずとも良く知っている、くどい、と思われる方には、ごめんなさい、とお詫びいたします。
年表
特に①の東アジアの情勢との関連を検討するには年表でまとめてみる必要を感じました。そこで6世紀末から8世紀初めの年表を作成してみました。
西暦 |
事件など |
中国 |
朝鮮半島 |
筑紫 |
近畿 |
589 |
南朝陳滅亡 |
隋帝国の出現 |
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598 |
隋高句麗を攻める |
30万で高句麗攻撃 |
隋の侵攻受ける |
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600 |
俀王 煬帝に使者派遣 |
隋書 俀王 阿毎多利思北孤 |
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阿毎多利思北孤は筑紫の王者と思われる |
(記紀に記事無し。推古8年) |
607 |
俀王 遣隋使派遣 |
隋書 俀より使節きたる。国書に煬帝憤慨す。 |
’ |
隋に「日出づる処の天子・・・」の国書、学問僧数十人派遣。 |
日本書紀に小野妹子派遣の記事 |
608 |
3月 倭国朝貢 |
隋書に俀国ではなく倭国より朝貢あり、と記事がある |
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小野妹子の遣使のことか? |
608 |
隋帝 俀国に使者派遣 |
隋書 俀国に裴世清派遣 |
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隋より裴世清来る。小徳阿輩臺出迎え |
日本書紀に「裴世清に難波吉士雄成を派遣し招いた」、の記事 |
608 |
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裴世清帰国 |
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日本書紀に裴世清帰国時に小野妹子を再派遣の記事 |
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隋書大業4年 このあと国交途絶の記事 |
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(記紀にこの件について記事なし。推古16年) |
608 |
琉球へ隋軍侵攻 |
隋書 陳稜に琉求国侵攻命ず |
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隋書に「取って還った琉求国兵士の布甲を来朝していた?国使に見せた」 |
(記紀に記事無し。推古8年) |
610 |
倭国より朝貢 |
隋書 正月、倭より遣使あり |
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日本書紀がいう「残った通事福利」のことか? |
614 |
推古天皇遣隋使派遣 |
隋書に記事なし’ |
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日本書紀に犬上御田鋤派遣記事 |
612~618 |
煬帝3回の高句麗遠征 |
隋高句麗に敗戦 |
高句麗30万隋軍に勝利 |
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618 |
隋から唐へ |
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630 |
大海人皇子出生 |
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631 |
唐使者派遣倭、日本へ |
高表仁を派遣 |
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高表仁来国 |
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631 |
倭国 朝貢 |
旧唐書 |
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(記紀に記事無し) |
632 |
唐使者派遣倭、日本へ |
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’ |
’ |
高表仁来国 |
644 |
唐高句麗を攻める |
太祖 |
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645 |
倭国 朝貢 |
旧唐書 |
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唐に 朝貢 |
(記紀に記事無し) |
645.6 |
乙巳の変 |
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蘇我入鹿謀殺され, |
646 |
大化の改新 |
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1月改新の詔 |
648 |
倭国 朝貢 |
旧唐書 |
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唐に 朝貢 |
(記紀に記事無し) |
653 |
百済豊章王子 倭に人質 |
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654 |
倭国 朝貢 |
旧唐書 |
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唐に 朝貢 |
(記紀に記事無し) |
658 |
有間皇子の謀反計画 |
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有間皇子異母兄 |
659 |
両国使節団長安にて相争う |
旧唐書 |
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(記紀に記事無し) |
660 |
唐 百済戦 蘇定法 を任命 |
蘇定法を派遣 |
百済滅亡(公式には) |
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660 |
百済扶余豊即位 |
百済偽王 |
扶余豊倭より帰国 |
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661 |
唐の続守言を捕虜にする |
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続守言 筑紫に至る |
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661 |
唐の捕虜近江へ |
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唐人106人近江へ |
661.7 |
斉明天皇歿 |
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7月斉明天皇歿・ |
661.9 |
中大兄長津宮にて執政 |
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いつまで長津にいたか不明 |
662 |
倭+百済対唐+新羅戦 |
4度の会戦に全勝 |
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上毛野君は戦死? |
663.3 |
3月州柔の陸戦 |
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9月、州柔城落城 |
敗戦サチヤマ君捕虜となる? |
倭軍27000人 |
663.9 | 白村江の敗戦 |
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百済完全に滅亡 |
海戦で大敗 |
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663.2 |
唐捕虜移動 |
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続守言を近畿へ移送 |
664.5 |
唐より来朝 |
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百済鎮将劉仁願・郭務悰 |
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664.2 |
天智天皇部下へ叙勲 |
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天智天皇叙勲 |
664.10 |
唐より来朝 |
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郭務悰 |
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664.12 |
唐使者帰国 |
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郭務悰 |
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665.9 |
唐より国使 来朝 筑紫 |
劉徳高を派遣 |
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665 |
唐より国使 来朝 大和 |
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劉徳高、郭務悰など254人 |
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665 |
唐に派遣 |
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守君大石を派遣 |
666 |
唐高宗 泰山封禅の儀 |
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倭国代表派遣 |
(記紀に記事無し) |
667.11 |
唐より使者 |
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劉仁願,、李守真 |
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668.1 |
天智天皇即位 |
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称制をやめ即位 |
668 |
高句麗滅亡 新羅統一 |
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668.9 |
新羅より来朝 |
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金東巌派遣 |
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金東巌来朝 |
668.11 |
新羅使者帰国 |
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金東巌帰国 |
669 |
唐より来朝 |
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郭務悰など2000人 |
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669 |
藤原鎌足歿 |
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670 |
倭国号日本に変更 |
旧唐書 |
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671 |
百済鎮将劉仁願 |
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’ |
李守真来朝 |
671 |
大海人皇子出家 |
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天智10年冬 |
671 |
筑紫君薩夜摩 唐より帰国 |
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薩夜摩派遣の記録 |
671 |
11月 唐より来朝 |
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郭務悰など600人+1400人、船47隻 |
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671 |
天智天皇歿 |
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12月 |
672 |
郭務悰に進物 |
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郭務悰に大量の物資進物 |
672 |
郭務悰など帰国 |
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5月 |
672 |
壬申の乱 |
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壬申の乱旧暦6~7月 |
674 |
新羅の三国統一なる |
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686 |
天武天皇歿 持統天皇即位 |
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地統天皇は天武の后 |
690 |
大伴部博麻帰国 |
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薩夜摩の帰国の為に奴隷身売 |
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697 |
持統天皇譲位 文武天皇即位 |
’ |
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天武天皇の孫 |
701 |
唐 大和王朝公認 |
則天武后 |
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倭国国際的に滅亡 |
’ |
701 |
元号大宝 |
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’ |
大宝律令制定 |
702 |
遣唐使派遣 |
粟田真人 |
’ |
’ |
粟田真人 |
707 |
文武天皇歿 元明天皇即位 |
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元明女皇は文武の母 |
712 |
『古事記』編纂 |
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’ |
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大安万侶(『日本書紀』に記事無し) |
720 |
『日本書紀』編纂 |
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’ |
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舎人親王 |
年表を作っていて、わからなかったのは、中大兄皇子が斉明天皇が661年7月に亡くなって後、9月には福岡の長津宮というところで称制でマツリゴトをした、という記事があるのですが、その後の動静が日本書紀からでは分かりません。
6年後の667年になって近江遷都という記事が出てきます。全体の流れからは661~662年には飛鳥京に帰ったように思われるのですが。ところが、天武紀には”倭京”という名は出てきても”飛鳥京”とは出てきません(飛鳥寺は出てきます)。これも不思議です。う少し、他の本で当って見る必要があるようです。
各論に入ります
①当時の東アジアの政治上の情勢との関連についての検討不足
亀田隆之さんの”壬申の乱”には、外国史書の引用が全くされていないこと・日本書紀に天智3年~天智11年の間に、6回も名前が出てくる唐の郭務悰(カクムソウ)に全く言及されていないのは不思議に思います。
古田武彦さんは、その著書『壬申大乱』でそのことの重要性を指摘されています。
上表で見られますように、白村江の戦いのあと、唐の軍の代表たちが、何度も筑紫に来ています。
状況からして、又その人数の多さからして、多いときには2000人が軍船47隻で来朝し、一種の占領軍、唐にとっての戦後処理の代表団だった、と捉えるのが自然だ、と思います。
日本書紀は、唐の劉仁願将軍も百済の鎮将などと表現し、あたかも百済人が来朝したように読ませようとしています。
しかし、旧唐書によれば、劉仁願という人は、唐の高祖から対百済戦のために派遣された、と書かれています。
このことは、1945年の敗戦を終戦と表現した精神と通じるボカシが、この時代にもあったのかなアと思わせます。
ところで、亀田先生は、そのボカシ表現に拠りかかって、天智4年の劉徳高の来日で関係修復が終わった、とされます。唐の軍勢について全く関与なし、と無視され、何度となく日本書紀に出現する”郭務悰”の名前にも一顧だに与えていないのです。対新羅については、天智称制7年金東巌の来日で対新羅関係回復が済んだとされます。
当時の倭国は、白村江で大敗を喫し、筑紫君サチヤマも捕虜になり、唐の軍船が来朝し、火の消えたような状態に筑紫はなっていた、とみてもおかしくないと思います。
そういう状態のときに、近畿で天智と大海人の兄弟の争いが始まります。
結果的に大海人が勝つのですが、この筑紫にいた唐軍(戦後処理班)の了解なくしては始められなかったことと思われます。
つまり、大海人が吉野(九州)に行き、唐軍(郭務?)の了解を取り付けた時点で、この戦いの帰趨は決していた、と思われます。
亀田先生は、勝利の理由は天皇の出自が一番大きい、といわれ、負けた大友皇子はその出自が低いから、と言われます。(155p~158p) つまり母親の身分が高いほうが勝った、と言われます。母親の身分=力 と解釈すれば、納得できる面もありますが、天皇の血縁への近さが出自の高さでそれが勝利の原因、というのは納得し難い面があります。
亀田先生の大海人の勝利の理由を国内事情だけに求め、国際的な関連を見ない、という態度では、この乱の正当な評価ができるとは、失礼ながら思われません。
倭国敗戦後の戦後処理の方法論が、大友皇子と大海人皇子とで考えが異なり、唐の郭務悰が大海人の方針を支持した、というところまで踏み込むのは、当研究会の範囲を越えるでしょうから止めておきます。
②称制についての検討
斉明天皇の没後、中大兄皇子(天智)はどこで政治を司ったのでしょうか。天智天皇は何故即位をためらったのでしょうか、7年間も。
”称制”という古代中国で、皇帝が幼少のため、皇太后が代わって政治をみる制度を取り入れ、天皇に即位せず、称制でマツリゴトを行ったことについて、亀田先生は、こう説明されます。
【称制は、外戦の失敗による自戒と、自分の思う方向に大化改新政策を遂行するため。皇位につくと実務は次の皇太子が担当することになるから】と。
亀田先生は、天武が即位しなかったことに特に不思議と思われていないようです。天皇家はここで、制度上から見ますと、約7年の空白期間があることになります。
こんな大事なことが生じた原因は、何なのでしょうか。
壬申の乱自体だけでなく、この”称制”の取り入れも、当時の東アジアの政情と絡めて見なければならないのではないか、と寅七には思われます。
今後の検討課題ですが、私見では、朝鮮半島の対新羅+唐戦の戦場で、サチヤマ王が陣頭指揮をしている状況で、近畿王朝の王位継承の儀式などできよう筈も無く、その間に白村江の敗戦で、唐+新羅連合軍の今後の動向を見るため、(敗戦の責任を逃れるため)に王位継承を延ばしていたのではなかったのか、という疑念が生じてきました。
年表をみていただくとお分かりになるように、倭国敗戦後、664年唐の将軍が筑紫に来ます。恐らく戦後処理の問題が話し合われ、その決着が着いてはじめて、天智天皇が称制を終止し668年に即位しています。
こういう視点で、「”称制”の導入」を捉えている書物があるか調べてみたいと思います。古田武彦さんの『壬申大乱』にも、これ以上の踏み込みは”推測”の領域に入ると思われたのでしょう、触れていないようです。今度何かの折に、ご意見を聞いてみようか、と思っています。
③壬申の乱は果たして古代最大の内乱か
亀田先生はこの壬申の乱は、皇位継承の最大の内乱とであったと云われます。
しかし、以前にどれほどの規模の乱があったのか、叔父ー甥の争いは今回が初めてなのか、その説明も無く、単に日本書紀の記事量で判断されているのではないかと思われます。
亀田先生には、”過去の近畿王朝の皇位争奪の歴史から見る”という面も欠けているのではないかと思いました。
”最大の内乱”というのは正当な評価でしょうか?
壬申の乱以前の皇位争奪の歴史(表) 注記をつけますとこの項が冗長になるかと思い、省略しました。詳しくは、道草その9 を参照下さい。
天皇名 |
排除した相手 |
相手の続柄 |
内容(『古事記』による) |
名前について(『日本書紀』の場合) |
綏靖 |
タギシミミノ命 |
異母兄 |
当芸志美美命の反逆(注1) |
’ |
崇神 |
タケハヤコヤス王 |
庶兄 |
建波邇安王の反逆(注2) |
’ |
垂仁 |
サホヒコ王 |
后の兄 |
沙本毘古王の反逆(注3) |
狭穂彦王 |
景行 |
大碓命・ |
長男 |
大碓命を弟、小碓命に殺させる(注4)、小碓命を遠国に討伐に何度も行かせ死なせる。(注5) |
大碓皇子・小碓尊 |
応神 |
忍熊王 |
異母兄 |
忍熊王の反逆(注6) |
同じ |
仁徳 |
大山守命、 |
異母兄弟 |
大山守命の反逆(注7)・ |
大山守皇子・ |
履中 |
墨江中王 |
同腹の弟 |
墨江中王の反逆(注9) |
住吉仲皇子 |
安康 |
軽太子・ |
同腹の兄・ |
軽太子のタハケ(注10) |
木梨軽皇子 |
雄略 |
目弱王・ |
叔父の子・ |
目弱王の乱(注11)・ |
眉輪王・ |
継体 |
’ |
’ |
応神天皇の5世の孫 |
20年間大和に入ることができず |
天武 |
大友皇子 |
甥(兄の子) |
ーーーー |
壬申の乱 |
壬申の乱は、戦闘記事や戦略の駆け引きなども、『三国志』に及ぶべくもありませんが、『日本書紀』が一番のページ数を割いている記事です。
壬申の乱を書かれた本で共通していますのは、それまでの”最大の内戦”と捉えているということです。確かに、『日本書紀』に書かれている記事量としては最大ですが、内容的にはどうだろうかなあ、と簡単には同意しかねるところです。
あまり気乗りがしない作業ですが、壬申の乱のように、近親者間で皇位を争った件は、『古事記』から拾いましたら、上表に見られるように、壬申の乱以外にも12件ありました。(このことについて最近宝島出版から文庫本が出ています 「暗殺の日本史」 宝島編集部編)
第2代スイゼイ天皇はじめ、崇神・垂仁・景行・仁徳・履中・安康・の各天皇は近親者を排除して皇位を保っています。それ以外に、『古事記』にはありませんが、『日本書紀』によりますと、継体天皇の即位から、大和の中に入れるまでに約20年かかっているようです(一説によれば7年)。
武烈天皇にお子がなく、遡って応神天皇の5世の孫からの即位、ということですから、同条件の王族は数百人はいたことでしょう。
恐らく、継体天皇でまとまるまでには苛烈な争いがあったことでしょうが、何も史料の残っていない今となれば推測となりますし、歴史小説の世界になってしまい、寅七がでしゃばるところではないようです。
又、亀田先生は、【この乱が、最大規模の内乱に発展した理由は、単に皇位継承の争うというだけでは解しきれないものがある。乱それ自体を見つめるのでは不十分であり、律令制度の形成過程で捉え考察するのでなければ充分な成果が上がらぬだろう】(p2)とまず述べられています。
結果として、大化の改新の精神が発展し、律令などの整備がなされた、として、公民制完成についての、滝川政治、 関晃、直木孝次郎、井上光貞 各氏の著作を参考文献として挙げられています。内容として、天智称制3年2月丁亥 民部・家部設置の法令についての解説や、官僚制国家の形成に成果を挙げています。(p203)
このように、結果として、天武天皇が大化の改新の精神を発展させることが出来た、と述べていますが、失礼ながら、結果の説明であって、これが内乱の原因の説明には論理的にも全くなっていません。
『日本書紀』の記事から見れるところは、単に皇位争奪で勝ったものが強かった、というに過ぎません。大友皇子がなぜ倒されなければならなかったのか、その大義名分の説明が『日本書紀』に、全くないのは不思議といえば不思議です。勝者の天武天皇側の記録ですから、いくらでも造ろうと思えば造れたでしょうに。
壬申の乱に見られるような、古代の皇位をめぐる争いも、つまるところル-ルがなかった、無法状態だったからでしょう。702年に大宝律令が出来て以降は、長子相続の方向が決まってやっと収まったということなのかなあ、と思います。
この乱が、亀田先生の仰るように、律令制度を発展させるために、ということであれば、”律”の為に”律”の一番の罪の”殺人”を犯す、という皮肉な説明となるわけで、それを聞けば、大海人さんも苦笑されることでしょう。
大宝律令制定の100年以上前、531年に継体天皇に殺された筑紫君磐井は、独自の律令を発布していたようです。
岩戸山古墳に今も残っていますが、律令の存在を示す石造物の数々があったと『筑後風土記』にあります。”律令”という方面でも、日本列島の中での、北部九州の文化先進性が見受けられると思います。
④壬申の乱の記事の虚構性についての検討が不足しているのではないか
亀田先生は、壬申の乱の日本書紀の記事が多少の誇張はあるが、実際の出来事であったことは、間違いない、とされます(91p)。
亀田先生は、乱の記事量が多い理由は、 舎人の日記とか大伴家の家記などの提出(日記の提出は713年~720年とされます)で資料が豊富であったからとされます。
ならば、大化の改新や乙巳の変などの資料は少なかったというのでしょうか? もしこれらの事件も日記風に記述されていれば、読み応えのあるものになったことでしょう。
特に、大海人の吉野~桑名への脱出行の日記風記事は、騎馬の専門家によって疑問がでている、と古田武彦さんは指摘されています。(古田武彦著 『壬申大乱』 127~144p)
三森尭司氏「馬から見た人心の乱ーー騎兵の経験から壬申紀への疑問」(「東アジアの古代文化」18号1979年)を詳細に紹介されています。
最後に、三森氏の、【ともあれ、乱の6月22日から29日にかけての馬の活躍は不可能、と断定せざるを得ない】 と締めくくっておられることを紹介されています。前述のように、宮脇俊三さんも、日本書紀の記事は読後感として強行軍過ぎる、と書かれていますが、そのように思うのが普通でしょう。
寅七も個人的体験を、棟上寅七の古代史本批評ブログhttp://ameblo.jp/torashichi/に書きました。
上記のホームページで、今までに槍玉に上がっていただいた宮脇俊三さんの”古代史紀行”(槍玉その7)が”壬申の乱”に言及されています。宮脇さんは、大海人皇子一行の行軍のスピードが強行軍に過ぎるのではないか、この点では信憑性に欠けるような発言をされています。
寅七も学生時代にはよく山歩きなどをしました。一番長く歩いた思い出は、阿蘇の高森町から、宮崎県高千穂町まで約50km夜道をあるきました。国鉄高森駅にSLの最終便で着きました。それから高千穂までの接続バスは出た後で、リュックを背負って、高千穂の知人宅まで夜道を歩きました。夜9時ごろから朝7時ごろまで、約10時間あるきましたが、もう歩くのがイヤになった思い出があります。
夜道、星明りだけの歩行は、山道で、たとえバスが通るような広い道でも、歩きにくかったことを記憶しています。1300年以上前の道路の状態がどうであったか、狭くて凹凸が激しく、草履もすぐ擦り切れたことでしょう。雨模様、女子供連れ、の大海人皇子一行の吉野脱出行の約100kmの記事は、ちょっと信じられないところが確かにあります。
『日本書紀』の天武紀の、この日記風の日程記事は、机上で作成された可能性が高い、と思われます。
⑤万葉集から壬申の乱に関係する歌を引用しているが、もっとも有名な、人麻呂の高市皇子への挽歌が出ていない
亀田先生は、『万葉集』から幾つか和歌を引用しておられます。
p92に”み吉野の耳我の嶺・・・”の歌を引用されています。 天武天皇の吉野でのうつうつとして晴れぬ気持ち、とされます。
この和歌の解釈をすることは寅七の能力を越えることですから批判はしませんが、同じ歌から、古田武彦さんは、この歌が奈良の吉野で作歌されたとすると、”吉野の耳我の嶺”の場所が不明であるが、九州の吉野とすれば、理解できるとされます。
詳しくは同書をお読みいただければと思います。”みみがのみね”の”みみ”は肥前国基肆郡耳田で、”みね”は肥前国神埼郡三根である、とされます。そして、大海人皇子は九州の吉野に向かった、とされます。
当研究会は、古田武彦さんの検証と論理の進め方に異論を挟むところがないように思います。
亀田先生は、万葉集から引用するのならば、同じ柿本人麻呂の「(壬申の乱の功労者)高市皇子への挽歌」がなぜ引用されていないのでしょうか。
古田武彦さんは、この人麻呂の歌の解析から、時期が冬の戦を歌っていることなどから、この歌は壬申の乱を歌ったものでなく、朝鮮半島での州柔の戦いを歌ったものだと、論証されています。つまり万葉集も選者が作歌の場所・主題などを意識的に変更している部分が多いことを検証されています。
『万葉集』の虚構性を詳しく述べられた本に、この『壬申大乱』以外に『古代史の十字路』、『人麿の運命』、『失われた日本』などいずれも古田武彦著があります。『万葉集』に興味のある方は、こちらを是非読まれることをお勧めします。
⑥虎に翼を付けて放てり、の解釈が薄弱すぎる。
天智紀及び天武紀の2度にわたってこの「虎に翼を付けて放てり」という記事が出てきます。
亀田先生はp111にその「虎に翼を付けて放てり」について理由を説明しています。
【さてこのようにして大海人皇子は東国に向かって出発したのであるが、その従者の数といい、またその内容といい、真に徒手空拳にして起ったともいいうる有様であった。(中略)
前皇太弟としての地位や、天智と同腹の弟であるという高貴の出自がもたらす声望によっても、皇子の決起によって多くの貴族たちが皇子の側に参集することにある程度の見通しをもっていたのではないか、と考えるのである。誇張して言えば、まさに「翼をつけた虎」は、ついに野に放たれたのである】
まったく説得力がありませんネ。
吉野に仏門に入った古人大兄皇子の前例(乙巳の変)があります。
大化の改新で中大兄皇子に敗れた古人大兄皇子は、大海人皇子の出家の僅か25年前に、同じく吉野に逃れ出家したという前例があります。中大兄皇子が難癖をつけ40人の兵で取り囲み、古人大兄皇子は切り殺されます。
このような不吉な前例があるにもかかわらず、亀田先生は、何故、翼を付けた、という表現がなされているのか、全く考えをめぐれしていらっしゃいません。昔の人は馬鹿げた形容をするものだ、とか、わからないなら判らないと正直に書けばよいと思うのですが。
これについて、古田武彦さんは、著書『壬申大乱』の中で、大約して次のように述べられています。
【当時、白村江で大勝した唐の一大船団は日本西部を制圧していたと思われる。九州内陸部で近畿王朝側につき力を持っていたのが大分君惠尺であったと思われる。大海人が吉野(九州の吉野ヶ里)付近に駐留していた郭務?と大分君の勢力範囲に入ったことで、「虎に翼を付けて放てり」の京雀の評となったのであろう】 (古田武彦著 『壬申大乱】192~195pに詳述されていますので参照下さい)
寅七にはこの解釈であれば、当時の東アジア情勢と照らし合わせてみるとき、理解できる気がします。
(ただ、寅七の私見ですが、大分君については若干の疑問があります。この巻末”壬申の乱 落穂拾い” を参照ください。)
⑦その他
亀田先生が、古代史の専門家であれば、下記の事柄についても何らかの説明があってもしかるべきではないか、と思いました。
⑦-1 「大夫」について 『日本書紀』の天智紀には「大夫」という言葉が頻出します。ところが『日本書紀』には「大夫」という役職について全く記載がないのです。そこで亀田先生は、p15「大夫以上に食封を賜う」 大夫の検証 p17大化2年3月 前に良家の大夫を・・・ 「前に」とは? 関晃氏の見解を紹介 p17 などと一生懸命他の先生方の論文を探したりされるのです。
しかし、古代史専門の方なら、 倭人伝に「大夫」という言葉が頻出していていることはご存知の筈と思うのですが。古の倭国の役名であろう、とされていることについては言及されていません。「大夫難升米」・「使大夫伊声耆」・「古くから中国に来た倭の使者は自ら大夫と称している」など中国の史書に出てくることは有名ですのに。
亀田先生は、外国資料不信論者なのでしょうか。
⑦-2 真人について p214に天武紀13年に所謂”八色の姓”を定めた、と言うことを記されています。上から真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置です。
天皇の名にこの八色の姓が見えることに、素人は???と不思議に思うのですが、この 真人 の姓が天武にある理由は?
天武天皇の名前、 天渟中原瀛真人天皇を見たとき、古代史の専門家であれば疑問を持って当然と思うのですが、亀田先生の本には答えがありません。
当研究会の亀田隆之さんの”壬申の乱”についての結論
亀田先生は、壬申の乱は、結果的に大化の改新を進めた、これが乱の意義と言われます。また、律令制度の制度が進むことにもなった、とも言っておられます。これは、常識的に云って、論理が逆立ちしています。
もし、そのようなことであれば、大友皇子側が、大化の改新の諸事業をどのように阻害しようとしたのか、又、この皇位争奪という行為が、何故律令制度を進めることになるのか、説明がなされるべきと思いますが、そのような説明は全くありません。
又、国内史料の筑後風土記逸文の説明にある、磐井の墓の別区にある裁判の石像物から、律令が筑後では行われていた、と思ってしかるべきと思うのですが、そのような目はお持ちでないようです。
日本書紀には、この事件の虚構性を疑わせる、数々があるのは見てきた通りです。
唐軍の大集団が筑紫に来ている状況で、このような皇位争奪が行われた、ということは、やはり、大海人皇子と唐軍との何らかの意思疎通・了解があった上で、乱は生じた、と見るのが常識的な判断か、と思われます。
亀田先生は、【『日本書紀』の日記状の記事は、従軍した舎人たちの日記を提出させて出来た。それで詳しく日記風になった。『釈日本記』にそのような記事が見える、「安斗智徳の日記に云う」とか「調連淡海の日記に云う」とかの文がみえ、それが壬申の乱の一部分を叙述したものであるのが知られること】 を、この『日本書紀』の記事が事実である、という根拠にされています。
しかし『釈日本記』というのは、この乱の後400年もの後に書かれた、『日本書紀』の解説本とも言うべき本です。(ちょっと高価なので、当方は手に入れるまでに至っていません)『釈日本記』にどれほど信憑性がある本は知りませんが、壬申の乱の記事の信憑性が、果たして亀田先生の仰るようなものかどうかを検討しないことには結論づけられないようです。
しかし、今まで見てきましたように、亀田先生のこの『壬申の乱』は、日本書紀の記事のうち、国際的な観点にはあえて目をつぶり、一生懸命、『日本書紀』その他の国内資料記事をあさって、結果的に『日本書紀』の壬申の乱の記事丸呑み、という結果になった、といわざるを得ません。
大海人皇子が甥の大友皇子を排除したこと、その戦があったことは事実でしょう。乱の終結後に、功労者に対して位階などを上げるなど恩賞を与えています。
しかし、本当の戦いの姿は隠されて『日本書紀』に記録された、それは唐軍の庇護下での勝利を隠したいために、大量の戦の記事を投入した、と主張される古田武彦さんの意見の方が、当時の『旧唐書』等の記事による東アジアの状況から判断すれば、納得できます。
古田さんの『壬申大乱』は、壬申の乱の虚構性をあばき、『万葉集』の人麻呂や天武天皇の作とされる、関係する歌を解析され、吉野は九州佐賀の吉野とされます。
この壬申の乱の記事が『日本書紀』に大量に詳細に述べられているのは、郭務悰と大海人の結びつきを隠す為に行われた、とされます。
古田武彦さんは、著書『壬申大乱』の中で、『日本書紀』地統紀6年に「復、大唐の大使郭務悰が、天智天皇の為に造れる阿弥陀像上送れ」という記事があることから、郭務悰と天智・天武との関係について推論をすすめられて、次のように述べられています。
【『日本書紀』の編者は、全体においては「郭務悰と天武天皇との筑紫における出会い。そして両者の信頼関係」それを隠した。おそらく、両者からの「要請」にもとづくものであったであろう。やむを得ぬ”秘密事項”に属したのであろう】 と。
以上を総合的に判断し、当時の東アジア情勢及びその後の近畿王朝の発展振りからみて、『日本書紀』の、精密すぎる大海人皇子の吉野行きから吉野脱出は、古田武彦さんが仰るように、「唐と天武」との関係を隠すために創作された可能性が高いと思われます。又、壬申の乱で大友皇子側に打ち勝つための大海人皇子側の戦略に、「唐」の影も隠された可能性も高いと判断されます。
壬申の乱 落穂拾い
『日本書紀』の天智紀~天武紀を勉強して寅七がおかしいなあ、こういう理由からではないかなあ、と感じたことを付け加えておきます。
●大分君恵尺
壬申の乱で大海人皇子を助けた功臣に大分君恵尺という人がいます。この人の読みは、どの本をみましてもオホキタノキミ・エサカとなっています。
ところで、今の大分市付近は、大昔、碩田国といわれていたそうです。『日本書紀』の景行天皇の熊襲征伐の時の地名説話に出てきます。
その読み方は、オオキタノクニです。その碩田(大きい田んぼ)が訛って大分になったそうです。今でも、大分に碩田の地名は残っていて、碩田(セキタ)中学校は大相撲の千代大海の母校です。
何を言いたいのか、といいますと、大海人皇子を助けたのは、大分の豪族が自分の手兵を以って助けた、という方に話を持っていかれる方がいらっしゃるのに、???と、そう決め付けてといのかなあ、と思ったからです。大分には恵尺のお墓などもあるそうですが。
『日本書紀』の壬申の乱のところに、大分君と出ているのは確かです。しかし、読み方まで”オオキタ”として書いてあるわけではありません。単に漢字で”大分”と書いてあり、後世の方々が勝手に”オホキダ”と読み慣わしているに過ぎないのでは、と思われます。
”大分”と呼ばれていた地名は、日本国内に他にも沢山あると思います。特に、大分と云って”あああそこの大分か”と古代の人にすぐわかる地名は、筑紫にあった可能性の方が高いのではないかと思われます。
例えば、筑前に大分というところがあります。そこは、太宰府から豊前方面に通じるショウケ峠越えといわれる古い街道の要点に位置しています。(飯塚市大分)
そこに、大分廃寺跡(国指定史跡)があり、7世紀初めの遺跡と」されています。
ただし、この大分は、読み方は”オオイタ”でなく、”ダイブ”なのです。
ついでに、この大分”ダイブ”の地名の由来を調べてみますと、中国の古書『尚書』にある”大傅”から来ているそうです。大宰がいるところが太宰府で、大傅がいるところに大傅府がおかれていて、現在大分廃寺とされていますが、当時の役所の可能性が高いと思います。
壬申の乱でのこの”大分君”の出自についてこのような見解が通用するものか、一度古田武彦先生のご意見を伺ってみたい、と思っています。
●登場人物の名
日本書紀の天武紀は所謂壬申の乱を記述しています。戦闘にかかわった人物の名も沢山出てきます。
面白いのは、その名前です。まるで今の渾名のようです。庶民の名ではなく、将軍の名に出てくるので面白いと思います。うし・くま・うさぎ・くじら・むかで・しおかご・くすりなど、この登場人物からは、丸で童話の世界のようですが、食うか食われるか、叔父甥の骨肉の争いなのが怖いところです。
この時代の人は、このような名前をつけるのが流行っていたのでしょうか。登場人物のこのような現実味に欠けるような名前が多いことが、壬申の乱の記事が、なんとなく作文めいた感じを与える原因の一つかもしれません。
このような、この時代の名前の研究があったら是非読んでみたいものです。
●吉野詣の主人公
持統天皇の31回にも及ぶ吉野詣では、古田武彦さんは、対唐+新羅戦の大本営的な吉野に当時の九州王朝の大王が出かけた事跡の記録を、後に、干支を60年繰り上げて地統紀に嵌め込んだのであろうとされます。
これからは当方の推論になりますが、倭国の王が当時女性であった可能性はないのかなあ、その事跡記録を同じ女性の持統紀に持ってきて当てはめたのではないか、卑弥呼・壱与の事跡を神功皇后紀に持ってきて当てはめたように。
終わりに
亀田隆之さんの『壬申の乱』を検討俎上にあげて、当研究会の常識的判断を示したい、との意気込みで始めたのですが、その目論見とは裏腹に、古田武彦先生の『壬申大乱』にオンブニダッコになり、当方の浅学非才をさらけ出す結果になりました。
文章には表れていませんが、おん年傘寿の新庄千恵子さんのご著作『謡曲のなかの九州王朝』(新泉堂刊)も随分と着想力の素晴らしさに驚き、参考になりました。お二方にお礼申し上げます。