槍玉その38 『百済の王統と日本の古代』 <半島>と<列島>の相互越境史 兼川 晋  不知火書房 2009年12月刊  批評文責 棟上寅七



著者はどのような人?

著書の経歴欄によれば、1929年生まれ。旧制五高を経て、54年、広島大学文学部を卒業。58年からテレビ西日本勤務(番組プロデューサー)。88年から九州芸術工科大学等の講師。九州古代史の会会員。

訳・著書に次の書があるようです。

1990年 訳書 『韓半島から来た倭国』 李錘恒著 新泉社
1993年 訳書 『加耶国と倭地』 尹錫暁著  新泉社
2009年 『百済の王統と日本の古代』 不知火書房

そのほか、韓国の研究者 李 鐘恒氏、耿 鉄華氏などの論文の訳書を発表されているようです。

著者は、最近では久留米大学の市民公開講座で古代史の講師をなさっています。内容や風貌に似合わない穏やかな論調や、漏れ伝え聞く酒席でのふるまいから、4年前に取り上げた、金達寿さんの『朝鮮』という本で、金さんと司馬遼太郎さんとの共通的なところを感じる旨書きましたが、兼川晋さんも同類の方のような親近感を覚えます。それはさておき、批評の俎上に上がっていただきます。


はじめに

この本には三つの特徴があります。

一つは、この韓半島と日本列島との古代の、所謂「越境」的な古代を描こうと、古文献の断片情報を集積して、努力されていること。

二つ目は、その母胎となった、古田武彦さんの影響を、表に出されないようにされていること。

三つ目として上げられるのは、添田馨さんという方の見事な解説を得られたことです。


この本は、一般の読者ではなく、古代史にかなり興味のある読者、を対象に書かれているように思われます。普通の常識から見れば、荒唐無稽ともとられるであろう沢山の仮説を提示されます。

この仮説は著者の文献を読み解く洞察力に負うところが多いのですが、例えば、小林恵子さんのように、非常識というところまでには空想を羽ばたかせないように抑えているようです。

一般読者のこの本の理解に、「解説」がかなり大きく寄与しているように思います。詩人添田馨氏の解説による各章の要約も示されます。


●兼川晋さんの手法について添田馨さんの解説


兼川晋さんが、断片的な情報から仮説を立てられることが多いことについて、添田さんは次のように指摘されています。ちょっと難解ですが引用します。

【史実の断片的積み上げを、ある段階から歴史の弁証法の側に転化させるという、そんなダイナミックな運動性を自らの論理に内在させえないかぎり、私たちはいつまでたっても近畿大和中心史観の迷宮的な構造から抜け出せないことになってしまう。そして、史実から歴史への転化ということにおいては、本書を通していくつもの大きな前進があったと考えるのである】

ここで仰られる「弁証法」は、エンゲルスの唯物論的弁証法と思われます。沢山の史実の断片的な積み上げが質的に変換にした、と肯定的な温かい評価を与えていらっしゃいます。

しかし当研究会としては、この「史実の断片的積み上げ」、というものの内容の評価が問題と思います。今回の検討の中心は、この点が中心にならざるを得ません。


次いで、二つ目の特徴に上げました、古田武彦さんとの関係についてのことです。

このホームページは、トップページに掲げていますように、「勝手連的古田武彦応援団」です。その面から言いますと、当方には非常に不満の残る本です。

この本を最初に通して読み終わって、古田武彦さんのことを殆ど無視しているけれど、これでよいのかなあ、と思いました。逆にいうと、そのことが兼川さんと古田さんとの関係がよく現れているなあ、と思われるところが多く見受けられました。


●古田武彦無視部分をいくつか上げてみます。

①『
後漢書』の「倭国は極南界也」を「南界を極わめるや」と読む、という解釈をしたのは古田武彦さんと思うのですが、全くその説明はありません。倭国の意味が古田さんと違う取り方はされているようですが。

「万葉集の天の香具山は別府の鶴見岳」説は、福永晋三による、とされます。しかし、これも古田さんの方が実質的には早く発表されていたと思います。 古田さんの『古代史の十字路』は2001年4月刊で、福永氏は2000年に現地調査、東京古田会月報に2000年9月に発表しています。これから見ますと、福永さんが早い、というように判断されるのも仕方ないか、とは思われます。

古田武彦勝手連応援団としては、古田さんは出版の前に講演会などで1年ほど前から喋られますので、これを聞かれた福永さんが実地調査をされた、というように思われます。

神功皇后の羽白熊鷲討伐の話は、別の史書からの盗用、とされたのは、これも古田武彦さんが『盗まれた神話』で初めて発表されたと思います。しかし、全くそれについての言及はありません、薬師寺縁起の話への導入p61、としてもちょっとどうかなあ、と思われました。

 隅田八幡の人物画像鏡の銘文の読みで、日十大王年と男弟王 ユニークな説として古田説を紹介しています。p132 兼川さんは、日十を百済の表記でヒトと読めるか、と力説されますが、倭国王であれば、当然倭国の読みでよい、つまり、倭王は自ら「日十」王と名乗っていた、と取るのが自然ではないかと思います。

この6世紀初頭時点で、倭国王はまだ自ら「漢字」で名乗っていなかった、という兼川さんの認識なのでしょうか。なお、二人に一枚の鏡を送ったのはおかしい、とされますが、2枚作った可能性はあるでしょう。なぜなら、使者も2人の名が鏡に記せられていますから。この2名の使者についての兼川さんの考察はありません。

年号「法興」は上宮王家の年号・・と佃氏の『天智王権と天武王権』を参照されています。 「法興」年号について法隆寺阿弥陀如来光背銘に出ているのは有名ですが、あえて無視されているようです。これに言及すると、古田さんの業績(著書『法隆寺の中の九州王朝』)に、いやでも言及しなければならなくなるからでしょうか。p202の、タリシホコ=法興法王説は古田さんが『法隆寺の中の九州王朝』で述べたのが初めてではなかったのでは?と思うのですが兼川さんの言及はありません。

巻末の参考文献として、古田武彦さんの著書は「人物画像鏡の銘文」『失われた九州王朝』のみ上げています。

普通は参考図書とか引用先などを「後記」などに書かれるのですが全くそれもなく、全くといってよいほど「古田武彦」が出てこない本です。正直、これで良いのかなあ、と感じました。

後述しますが、この本の20年前に書かれた、『韓半島からきた倭国』の訳者あとがきでは、『「邪馬台国」はなかった』で古代史に開眼し、古田さんの著書30冊ほど買った、云々、と述べられています。その後の気持ちの変化はそれとしても、初心忘るるべからず、というか、井戸を掘ってくれた人へのそれなりの対処法はあるのではないかなあ、と思われました。


●古田武彦との関係について、の添田馨さんの解説

添田馨氏は解説の中で、次のように、古田武彦さんの「九州王朝説」との関係を述べています。

【兼川晋の列島王権に関する研究内容は、それ自体がきわめて独自色の強いもので、先行する学説との直接的な影響関係といったものはほとんど見られない。・・・中略・・・私はこのことに付け加えてもうひとつ、兼川古代史学の形成へとまっすぐに繋がっていく、もう一つの重要な潮流があったこのに言及しておかなければならない。

それは一九七〇年代に、古田武彦によって先鞭をつけられた「倭国・九州王朝説」をめぐって湧き起こった、一般市民による広範な歴史研究活動のことである。兼川学説と系譜的に地続きといってよい古田武彦の、この「九州王朝説」は、ある意味で、兼川古代史の直接的な母胎であったと言って過言ではないだろう。・・・(後略)】(太字化 棟上寅七)

解説の添田馨氏が「古田武彦の九州王朝説が兼川学説の母胎だ」、と書いてくれているので、それで事足りた、と思っていらっしゃるのかなあ、とも思いました。

兼川晋さんの古代史関係の初仕事、と言ってもよい『韓半島からきた倭国』李鐘恒著 兼川晋訳 1984年刊で、「あとがき」をみますと、当時の古田さんと著者との関係が判るように思います。ここに引用するにはちょっと長いのでリンクを張りました。ここをクリックください。

古田氏を中心として出来た、古代史研究会の方針を巡ってのトラブルが、1980年代後半で、発生したようです。そのあたりの事情を、九州古代史の会のホームページで垣間見ることが出来ます。
市民の古代研究会が多元的古代研究会連合となり、後に現在の「九州古代史の会」となり現在に至っています。この間に、古田氏と兼川氏の間に隙間風が吹き込んだようですが、表には出てきていません。ただ、1990年代後半から、この本に見られるように、兼川さんの著書などに「古田武彦」を見ることが非常に少なくなってきています。

以上のようなことは、本来ならば最後の「むすび」あたりにもってくるべきかも知れません。しかし、この本の読者も多分、添田さんの解説を読んで初めて全体像が把握できるか、と思いましたので、添田さんの解説に対する感想が先になりました。


この本の着眼点について。

当研究会では、多元史観に立脚する方々の著作も槍玉に上げてきました。今回の兼川晋さんの著作は、なかなか、着眼点というか洞察力というか、アイデアというべきか、著者の広範囲の文献の読み込みがなされて、その中から著者ならではの独特のアイデアが詰められています。


沢山ありますが、主なもののいくつかを紹介しましょう。

百済という国名は「旧い多羅」がつづまってクダラとなった。(旧をクと読む、という倭側からの読み、というわけですが、古代百済では、自身では「クダラ」ではなくて何と呼んでいたのか、著者の見解を知りたいものですが)

倭の五王の済は、もともと百済を継ぐべく倭王済と名付けられていた。

百済の牟昆が倭王旨である。昆をひっくり返して一字減らして昆が旨となった。

多利思比孤の太子、利歌弥多弗利は、和歌弥多弗利の誤写であり、ワカンドオリと読む。これは皇族の意味である。(確かに出典例として、源氏物語末摘花に「わかんどおり」の語があります) 

多利思比孤は姓(かばね)である。(これによって、太子の和歌弥多弗利が多利思比孤という親と同一の姓を称した、という仮説も成立する。)

天智天皇が称制の間、斉明天皇は生存していた。死を装って近畿に引き揚げた。

物部氏が蘇我氏になるところの説明。物部尾興の弟とされる、目連公は物部麁鹿(アラカ)に仕えた。彼が蘇我稲目である。麁鹿はソガとも読めるから。

などが上げられます。アイデアと取るか、恣意的に合わせた、と取るかは読者次第でしょうけれど。



著者の仮定について

沢山の仮定というか仮説というか、が、この本のいわば骨子であり、又、批判する側の中心点でもあるわけです。沢山ありますが、当研究会が気になった、ところをいくつか上げてみます。(上述の着眼点も仮定の一部ですが)

 「邪馬壱国」は泰初2年で滅亡したのではないか、(p58)とされます。 これは、通説の方々が、中国史書での倭国記事の「4世紀の空白」を理由に、空想の限りを尽くされるのと同じ発想のように思われます。(参照)

 仮定と云う程のことではありませんが、多羅伽耶の人たちが、旧い多羅を韓国語で読むとクダラになる!p65 とあります。  ホント? 今の韓国語で読んだら、は、問題ありでしょう。アニョン(安寧)ハセヨ、カムサ(感謝)ハムニダの例を引くまでもなく、漢字の韓国読みが入り込んでいることは広く知られています。(最初の方では、「倭人が・・・・旧多羅をクダラと読んだ」、とも書いてありますが?)

 武内宿禰が仕えた天皇は、南韓の百済王であった。本稿では取りあえず・・・・・・考えてみることにする。(p73) とあります。 このような「取りあえず・・・考えてみることにする」、というスタンスで、4~5世紀の百済・倭の王統についての考察を進められます。

寅七みたいな、空想力の乏しいものには、そのような展開には「百済倭国両国古代史解説本」としては、とてもついて行けません。「歴史空想物語」として読まざるを得なくなりますので、兼川さんには、せめて「取りあえず云々」という、正直というか、逃げるというのか、そのような言い回しは使ってもらいたくないものです。

古田武彦さんが説く、卑弥呼ー壱与の国が、倭の五王の国に繋がった、とすると、兼川説は入り込めませんが、これらの仮説を立てると、百済・倭の共通王統という物語が展開できる、ということのようですが。

『日本書紀』の応神紀3年にはこう書いてあります云々、とあって、「応神3年は272年壬辰だから、干支二連を加えると392年になる。」と断定されています。120年飛ばす訳ですが、その理由というか説明は抜きです。こんなことで、信じろ、と仰るのでしょうか。もう少し丁寧に説明していただけないものでしょうか。まあ、このように解釈すれば、「兼川説」が成立する、ということなのでしょうけれど。

 武は嘘の上表をした、(p106) とあります。  ここを読んだ時には眼を疑いました。 「嘘」つまり史書の内容の書き替えをされているわけです。ご自分の仮説に合わない史料は、間違っているとされることはどうかなあと思います。同様に、倭の五王についての『南斉書』の系図では、王統の断絶がありませんが、この史料は無視されているようです。

宋書』に出てくる倭の五王について、兼川さんは百済王統と倭国の王統の中での各王名をユニークな比定をされます。中でも次の2点は、そう根拠も示されずに、当時同時代の史書や金石文に出てくる名前を、それぞれの王統の王名に比定されています。

 倭王興は東に行き、常陸に皇都をおいた。興(関東)と旨(筑紫)の並立王朝となる。(p119)
 倭王武は筑紫君磐井であった、(p127)とされます。

この仮定を読者に理性的に納得させられるか、兼川さん自身、自信はおありなのでしょうか? 読者の理解のためにもう少し、ご自分の仮定した過程の説明が欲しいところです。

これに関連して、2008年夏の久留米大学市民講座で、兼川講師が磐井の乱あたりを喋っておられていたことを思い出しました。その時、磐井=倭王武という仮説について質問したことを覚えています。返事は「私の著書???(書名失念)を読んでください」というようなことでした。その折の兼川晋さんの講演スナップがありましたのでご披露します。

兼川晋氏の久留米大学市民講座での講義『日本書紀』の継体紀の注に「辛亥の年に天皇太子皇子皆死んだ」とあるのは、葛子大王とその一族が死んだのだ、(p164) とあります。

そして、継体天皇は百済から来た軍君であり、筑紫君磐井は倭王武とされますが、そのために、次の仮説が必要となったようです。
 
 「物部アラカヒが継体天皇から西日本の王権を受け取ったのだが、アラカヒは蘇我一統の始祖である」という仮説です。これには、前述のように、一応理屈が付けられていますが、あまりにもこじつけがましい、感じです。

まあ、「筑紫君磐井は倭王武」という説は、寅七が知る限りでは兼川晋さんが初めて唱えた、と思います。ただ、その初唱者としての名誉のために、文献の妥当性をかなり犠牲にされているのではないか、と危惧します。

『日本書紀』にも出てきますが素姓のはっきりしない鏡王は、天武の兄と同一人物とされ、かつ、鏡王=筑紫君薩野馬とされます。p203  しかし、話が進んだ後で、鏡王=筑紫君薩野馬は、鏡王が唐から生還という断定はできないので、保留 (p236) としています。 結局読者は、中途半端な仮定で、兼川さんのお話に付き合わされる、ということになります。

 隋煬帝から「義理なし」、と言われて兄弟統治を改めた、(p205) とされます。これは、兄弟統治を続けていた、とすると、百済と倭国の系図がうまく繋がらないからなのでしょうか? なぜ改めた、と言えるのかという根拠は、示されていないようです。

これに関連して、『隋書』に「大業4年 この後、遂に絶つ」という国交が途絶えた、という記事については全く述べられていません。

 前述した、兼川晋さんのアイデアの一つですが、多利思比孤は姓(カバネ)であり、太子利歌弥多弗利は弟であり、同じカバネ、タリシヒコである、(p213) とされます。 (p20)にも タラシヒコ、ヒメ 多羅から来た彦と書かれていますが、当時の姓について、「タリシヒコ」という姓(かばね)があった、ということへの論証はありません。 また、太子は普通子供をさすのではないでしょうか?もし、太子が皇帝の弟であれば、『隋書』は皇太弟などと断り書きをいれるのではないでしょうか。

 俀と倭と二国ではなく 倭国A,Bの二国であった、(p238)とされます。
これについて多元史観の立場からすると、とやかく言えませんが、倭国A、倭国Bという言い方でなく、『隋書』にある俀国と近畿の倭とされた方が一般読者にはわかりやすい、と思います。

ここの記述はものすごく分かりにくいのです。『隋書』の俀国と倭の二国でなく、俀国と倭国Aおよび倭国Bの三国という記述なのか判然としません。『旧唐書』には、日本と倭国と書かれているのですが、その倭国がAとBがあるとされますが、じゃあ日本国はどうなっているの? 日本は倭国Aなのかどうか、なかなか理解しにくい記述です。倭国Bを秦王国=播磨近畿の倭国Bという形に持っていきたい、という著者の気持ちだけは伝わってきますが。


 壬申の乱は敗者九州の復讐戦だった、(p243) とあります。
これは、決定的に『日本書紀』や『続日本紀』という歴史書の性格、その編集方針と相反する、と思います。兼川さんは、天武天皇が実は白村江の敗者だった、とし、その天武が壬申の乱の勝者となったのであれば、当然その天武が『日本書紀』も編集させた、ということになります。

寅七の読み違いかもしれませんが、もしそうであれば、天武が、九州にあった俀(タイ)国、大倭国についての歴史を抹殺する必要が何故あったのか、という疑問が生じます。兼川晋さんは、タリシヒコの存在を隠蔽しなければならなかったから、(p120)とされますが、豊国王朝論者以外の方を納得させるには、論証不足で説得力に欠けるように思われます。



著者の文献と考古学的出土品についての考え方について

兼川さんの考古学的出土品との整合性(考古学的出土品は年代がハッキリしないものは用いない。このことは、添田馨氏の解説にも「考古学的なこれまでの成果を全く排除するものではないとしながらも、はっきりと年代確定していない遺跡や遺物の採用は危険が多いとして注意深くこれを避けている。その一方で、文献資料や文字資料に関しては、逆にかってないほどその採用範囲を広く取っているのである。」と言われます。

兼川さんも、あとがきで次のように言っています。【年次を確定できたとは思えない古墳や遺跡は、利用しない方が無難に思われる】とされます。しかし、一般的に言って、築造年代が確定できなくても、大きな流れ、という意味で、大まかな年代での利用はできるのではないかと思います。

この本で考古学的出土品との整合性無視で、気になった点を五つほど上げてみます。

例えば、兼川説では、四世紀以降かなりの「王」が、百済と北部九州を行き来していますが、それらの王たちは、当然、百済と倭国のをカバーする領域に、何らかの統一的な墓制のもとで葬られていると思うのですが?それらについての言及はありません。

いろいろな天皇たちが出てきますが、これらのお墓が九州になく大和にあるのはなぜ? 伝承が消されて大和関係だけが残された?比定が信用できないから?ということなのでしょうか。

同じく中部~北部九州に広がる装飾古墳と、この百済王統との関係は?

稲荷山古墳出土の鉄剣銘についての解説は述べられます。銘文の大王は武であろう、とされます。 倭王興が関東で都を構えたという兼川説との矛盾は? また、武王が、関東地方に巡狩に来た時に仕えたことを名誉にして云々、と説明されます。しかし、その被葬者は副墓的位置にあり、主墓被葬者は同じ古墳に葬られている、という考古学的な観察結果とは矛盾するのですが?

古墳関係だけでなく、考古学的出土品についての百済と列島との関係について、全く触れようとされないのは、古代史を語るには片手落ちではないでしょうか。

例えば、北部九州のみに出土する所謂三種の神器と百済王統との関係は?何故かこの本には、三種の神器が全く出てこないことなどが、その典型的な例です。三種の神器の原型が、伽耶からその内出てくる、とまでは仰ってはいませんが。

トータルとして、勘繰って言いますと、出土品や古墳様式とか取り上げると、自説に適合しないから、止めておこうということなのでしょうか。


著者の考えが分かりにくいところ。(一般常識とのあまりもの乖離

こういうことを寅七が言いますと、著者は「当たり前、常識を覆すための労作」と仰ることでしょう。しかし、一般人が百済について知っている事柄が何故この本にはまったく出てこないのか、それを知りたい、という気持ちには答える必要があるのではないでしょうか。

質問 百済が滅亡し、かなりの王族も亡命してきています。もし同一王統であれば、もう少し処遇が違ってのでは?(巻末 南郷村百済伝説参照)

質問 新羅との姻戚関係はなかったのでしょうか。新羅からも人質のやり取りがあっていますが。

質問 p241に、 唐のシナリオ 白江で九州の大倭が滅びるのを見届けてから残りの倭軍は引き揚げた、とされます。唐と新羅の連合軍はなぜ大倭と倭とを区別出来たのでしょうか。失礼ながら、講釈師見てきたようなウソをつき、の俗諺が浮かびました。

質問 百済のヒメが列島に入朝して子が授かって、その子が王位についた場合、「渡来して居座った」という表現は可能といえば可能でしょうが、邪道のように感じますが。

質問 p126に、「磐井は一度の抵抗もしていない」ということで論を進められます。『日本書紀』によると「筑紫の御井郡に交戦ふ」、とありますが?


おわりに

九州年号の検討から、日本の古代を復元する試みは、評価されるべきでしょうが、あまりにも恣意的と思われる歴代天皇の比定と年号改元事由によって、かえって一般読者の反発を買うのではないか、と危惧します。

この点では、最近、正木裕さんが古田史学の会会報で、「九州年号の改元について」を、連続して論文を発表されています。この正木裕さんの九州年号についての内容の方が、兼川晋さんの今回の本より、少なくとも理性的に受け入れることができる論述と思われます。

p211に 注書で 「原文非改定主義には賛成であるが、それも程度によるだろう。何が何でもと意地になることほど、つまらないものはない」と書かれています。ここらあたりが、兼川さんの本音かなあ、と思われました。

原文が写本である限り、誤写は避けられない。そういう意味での非改定主義というのはあり得ない話でしょう。しかし、己の仮説に合うように恣意的に改定する、と云うことが問題なので、あまりにも通説に寄りかかる方々が多いので、古田武彦さんの手法が原文非改定主義と誤解されるのでしょうか。

ただ、兼川さんの百済王統の研究が、あまりにもの仮定x仮定ですので、後継の研究者にとっての道標と言えるか、というところが問題だろうと思います。

再度同じテーマで、文献史料の再評価や、恣意的な読み変えなどを排し、考古学的史料とも適合するような、「百済の王統と日本の古代」の研究を続けて頂きたいものです。

さもないと、余計な心配、と著者から言われそうですが、この本は、あくまでも、兼川さんでとどまる本の様に思われます。そういう意味で言うと、古田武彦さんの手法は、古田さんの著作から伸びていける可能性がある、そこが兼川晋さんとの違いなのかな、というのが結論です。

最初に言いましたように、この本は詩人添田馨さんの解説で、難しい本がいくらか読めるようになった感じです。兼川晋さんは良き友を持たれて幸せだな、と思いました。

(この項おわりトップに戻る

参考資料など

宮崎南郷村の百済伝説(南郷村ホームページ 鄭在貞の解説より)

宮崎県の南郷村一帯には、次のような伝説がある。今から約1,300年前、朝鮮半島で百済が新羅と唐の連合軍に滅ぼされ、王の禎嘉王は、長男の福智王、次男の華智王と共に日本に逃げた。

王の乗った舟は、最初に安芸の国(現在の広島県)に漂着したが、新しい生活の足場を求めて九州に向かった。しかし、道中に険しい暴風に遭遇し、禎嘉王と華智王を乗せた舟は日向の金ヶ浜に、福智王を乗せた舟は高鍋の蚊口浦に流れ着いた。

禎嘉王と福智王は、各自が「これからどこに向かったものか」と占った。占いでは禎嘉王に「そこから7080里離れた山中(現在の美郷町南郷区神門)に行け」という結果が出た。福智王の投げた玉は、「木城の比木」と出たため、2人の王は離れて暮らすことになった。しばしの間、2人は静かな場所で平和に暮らした。   

しかし、すぐに禎嘉王の住む家を探して、朝鮮半島から追っ手が攻撃してきた。禎嘉王は、敵を迎え撃って東郷の伊佐賀で激しい戦いを繰り広げた。その地の豪族が禎嘉王を助けたが、兵士の数が少なく敗戦の危機に直面。その時、福智王が援軍を率いて敵をけ散らした。しかし、この戦いで華智王が戦死した。そして、禎嘉王も矢を受け、その傷がもとで亡くなった。   

村人たちは百済王一族を追悼し、禎嘉王は神門(みかど)に、華智王は伊佐賀に、そして後に比木で亡くなった福智王はその地に葬り、神として祀った。各地に建立された神社と、そこを舞台に催される師走まつりは、村人たちの追悼の情をよく示している。三父子が1年に一度出会うこの儀式は、今も行われている。  

師走まつりは、福智王に祀る比木町の比木神社から禎嘉王を祀る美郷町南郷区の神門神社までの90キロメートルを巡り、23日かけて移動する。毎年陰暦12月に当たる陽暦1月下旬に行われる。    

美郷町には禎嘉王の墓とされる古墳があり、師走まつりでは東郷町の伊佐賀神社で対面した百済王父子が神門神社に向かう途中、この墓に寄って神事を行う。父子が別れるときは、互いにたいまつを揺らして惜別の情を分かち合う。遠ざかる火を惜しむべく眺め、手を大きく振り回して声を張り上げる。「どうか豊かに暮らして、豊かに暮らして」(韓国語で「チャルサラバ」)という叫びが日本語の「さらば」の由来となったとみるのは考えすぎだろうか。

 (参考)

百済の王統と日本の古代 寅七メモ


  鉄 金扁に夷 が元の字 金属の王なる哉 に造字
p19 極南界也 列島の南界の果てまで 古田説の言及なし
p20 タラシヒコ、ヒメ 多羅から来た彦
p25 隋書 百家を以て海を済ったので国名を百済とした。(済海=渡海)OK
  (ネットで調べたら、仇台の百済読みでタラになった説があるが)
p32金氏牟氏系・・・・熊津を都としている以上筋の通る説明は難しい、と私は考える。・・・・説明必要
   雄略21年春3月 (末多王に久麻那利を)  日本旧記「末多王に久麻那利を」 日本書紀「モン洲王に久麻那利を」
p37 雄略紀23年「天王」・・・末多王に・・・  書紀の雄略21年本文「モンス王」を載せ、書紀が注記している日本旧記の「末多王」は無視している。
  (武列紀4年 末多王暴虐記事)
p49東城王が・・・・支離支滅という説明は? 倭国は知らなかった、中国も知らなかったかもしれない
p50倭の五王が宋に百済を含めた諸軍事を要求した理由・・・OK  三つあったのはそうかも知れない
p58 「邪馬壱国は泰初2年で滅亡したのではないか」 兼川さんあなたもか!  狗奴国=熊襲
p58 熊襲征伐をした景行天皇は・・・・OK ミマキイリヒコを「ミマに行かせた皇子たち」という理解も可能では?そうすると別の話になる。硯田は筑豊ではないのでは?
p60 天の香具山は、福永晋三説によると・・・古田説ではなかったのかな? 古代史の十字路は2001年4月刊 福永氏は2000年に現地調査、東京古田会月報に2000年9月に発表
p61~62 の神功皇后の話は、盗まれた神話の受け売りと思われるが説明なし。薬師寺縁起の話への導入、としてもひどい。吉山旧記の史料批判は???
  (古田武彦 ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学  沙至比跪 の話で、イシサカ宮が太宰府近郊という話で、石穴という地名がある、1978年ごろ?兼川晋さんの話として紹介されている。)
p64 なぜオキナガタラシヒメがタラカヤに所縁のある、といえるのか、の説明が欲しい
p65 多羅伽耶の人たちが、旧い多羅を韓国語で読むとクダラになる!ホント? 今の韓国語で読んだら、は、問題あり。アニョンハセヨ、カムサハムニダの例を引くまでもなく漢字の韓国読みが入る込んでいる。
  (最初には倭人が・・・・旧多羅をクダラと読んだ、としていたが?)
p66 高良記の史料批判の必要
p67 神功前紀 アリナレ河の返りて逆さに  要チェック  大川=アリナレ
p70 佃収 貴国=キイ国説 佃収 伊都国と渡来邪馬台国 Wiki になし 1998頃から出版著書数冊 古代史の復元シリーズ
  (淡海が豊前はちょっと仲間褒めすぎでは? むしろ博多湾では)
p72 サチヒコ=サチヒキ説? 古田氏への反発?
p73 本稿では取りあえず・・・・・・考えてみることにする。(!!!この一文がスタート!)
p74 論理は強引 天皇は
  例えば百済のヒメが入朝して子が授かって、その子が王位についた場合、「渡来して居座った」という表現は可能といえば可能であろうが、邪道のように感じる。
p85 比有余死 比有余=済百済に行って死ぬ。 
  余慶=后ー弟 (旨+軍君)倭へ済は百済王として死 子の興は倭王として死 武に取って奄に父兄を喪った、ということになる。 要チェック
p89 残国とは列島に行った讃が南韓に残していった国  百残とは百済残国を省略した表記。
  残国の兄王=応神=高良のトウ
  小林恵子の古代興亡史よりはまし。
p96 応神紀37年 遣使先は呉ではない???
p100 奄は「にわかに」
p101 リョウアンにあり 宋後廃帝昇明元年477 遣使は昇明2年478  雄略紀475年に国王以下全滅記事ありこれが父兄奄に死ではないか。 要チェック
p104 済が近カフロであれば奄に父兄を喪ったことになる。
p105 もともと百済を継ぐべく「済」の一字が王名に付けられた。 アイデアOK
p106 武は嘘の上表   ・・・要チェック 嘘つまり史書の内容の書き替えでは?五王の南斉書の系図は?完全無視するの?
p107 余慶が近カフロでなく、余ヒがヒ有でなければ、ヒ有の子の済は、讃・珍とは別系オンソ系余氏と認めざるをえない。  (といって論議を強引に進めて行く)
p109 南斉書に余昆牟昆 の記載を採用している。南斉書の恣意的利用では?
p112 泰4=泰始4(468)
  牟昆倭旨 ひっくり返して一字減らして昆が旨に。アイデアマン!
p114 旨は文周王の内臣左平として・・・・・何故?意味が分かりにくい
p115 七支刀の特異な形は七軍事 寺下真治によるとされる。(越境の古代グループは参考図書名を上げている)
  百慈王=百済王の銘文の意味 要チェック
p117 雄略紀20年本文 要チェック
  旨を文周王の補佐をさせた。???
p119 東の皇都常陸 興と旨の並立!! 無理筋のアイデアでは?
p123 磐井=倭王武  継体=仇台の牟氏  着想は面白い
p125 長門と筑紫の間に豊がある
p126 イワイは一度の抵抗もしていない???書紀によると2年戦があったようだが?
p127 イワイは年号を建てた形跡なし   古田、大芝説を批判。
  二人の継体!!
p129 興の遣使477、 478遣使=武の即位  つまり継体元年
p130 善記は創始年号にあらず・・・・ナルホド    しかし、「九州年号」といっても「九州」にだけに使われた年号ではない!継体が九州にいた、という理屈にはならないのでは?
p131 二中歴 継体5年=継体紀11年 24年の詔と関係13m年野ズレこのズレが解明できれば・・・・という筋書き。
p132 日十大王年と男弟王 ユニークな説として古田説を紹介している。百済の表記でヒトと読めるか、」と力説。二人の長寿を念じて一つの鏡をおくるのはおかしい、というのはどうかな?二つ作らなかったとは言えないでしょう
p132 継体24年と二中歴(暦?)との13年のずれを何とか糊塗しようとしている!!
p134 坂田隆氏の読みの紹介(日本の国号) なぜ近畿の継体となるの?坂田説  葵未年503=大王十年=継体十年なら継体元年は494年
p135 紀の継体元年は507年だから13年のズレがある。  坂田説批判 上記 (しかし日十大王の百済読みの記述は見当たらないようだが?)
p136 書紀は継体ヲオホト尊(九州)には更の名 ヒコフト尊(近畿)がいることを隠していない。???  角田八幡隅田八幡 OK
p155 武=タケル 何故読める? 寺が宮に在るとは?説明要す。副墓的位置なのだが???主墓は武?? 巡狩したときに仕えた、とすると武=イワイでもあるし、ちょっと無理では。
p163 仁王唐より仁王経到来  鏡王女小説に使おう
p164 辛亥の変は書紀に記載なしとする・・・・つまり歴史の創造。 稲目が二人の娘を差し出す。ありえない、とされるが、記紀を読めばあり得る話ではないか!
p169 日本書紀の編者は・・・・・編者の立場から考える、はおかしいのでは?
p170 1年のずれ、暦の違い    OK
p181 法興は上宮王家の年号・・佃氏 
p184~185 豊と筑紫の二人の敏達  書紀に2回の立太子記事  豊系ばかり書いたのは、タリシヒコに触れなければならなくなるから、とのことだが???
p189 九州王朝の近江遷都 海東諸国記の史料批判 No.61
p189~193 の丁末の変の真相は面白い
p194 後半 上宮耳のところは要チェック
p195 馬子と守屋の戦場の地名からではなく、参加者の人名から考える、とは?
p197 太宰管内志 玉垂命ー上宮耳=タリシヒコ
p200 上宮宮家のイワレ。。。OK?
p203 第六章 鏡王=天武として話が始まる。(これはp236で保留としているのだが)
p205 隋から義理なし、と言われて兄弟統治を改めた!!?
p206 日本紀に付けられた系図は破棄された。古事記の系図は??天武紀以前の古事記は偽書なの??
p208 タリシヒコの弟をワカミタフリとするが、弟を立太子させることへの説明は?
p209 豊聡耳は播磨の斑鳩に行く 秦王国
p209 「わかんどうり」は「王家の血を引く」岩波古語辞典  要チェック
p213 タリシヒコは姓(カバネ)  弟も同じカバネ!!
p219 日本書紀の大ウソ 要チェック
p210 ワカミタフリ=ワカンドオリ
p211 注書 原文非改定主義ーはつまらないものはない  幻想史学の本質??
p230 天智称制の間、斉明は生存? 死を装って引き揚げ! アイデア!
p235 鏡王=天武の兄=サチヤマ これについてはp236で一応保留とする、と逃げている。日本書紀の鏡王出現とサチヤマの出現について要チェック
p237 隋書 タイ国と倭国=秦王国??ちょっと強引
p238 タイと倭 倭国A,Bの説明がややこし過ぎる
p240 古田説を否定。サチヤマは主権者(鏡王?)配下の将軍。サチヤマの敗戦8年後の帰還記事の説明は?
p241 唐のシナリオ 白江で九州の大倭が滅びるのを見届けてから残りの倭軍は引き揚げた  講釈師見てきたようなウソを吐き
p243 海東諸国記 661 白鳳と改元 近江遷都  壬申の乱は敗者九州の復讐戦だった!!(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou61/kai06101.html古賀達也)
p245 天武が建元した朱雀が書紀にないのはなぜ?   懐風藻によると・・・・
p253 添田馨 調べること 

 詩や詩評論の創造的な書き手に贈られる大阪文学協会主催の第7回小野十三郎(とおざぶろう)賞(朝日新聞社共催)の選考会が22日、大阪市内であり、同賞(賞金50万円)にさいたま市の会社員、添田馨さん(49)の詩集「語族」(思潮社)が決まった。贈呈式は2005年11月26日午後1時半から大阪市北区の朝日新聞大阪本社アサコムホールで。

 公募した詩、詩評論の計190点から、詩人の金時鐘(キム・シジョン)さん、辻井喬さんら5人の選考委員で選んだ。辻井さんは「叙事詩や叙情詩という枠にはまらない重量感がある作品だ」と評価した。
一九五五年生まれ・四十五歳。 詩というものを、永いこと樹木のイメージで考えてきました。 .... おそらくこの感じ方は、添田馨が吉本隆明の言葉から援用して「指示性の根源」を指摘していることと密接な関係がある

p257 クダラ語源
p259 碑文の読み 要チェック よくチェックすること!
p265 添田氏の要約はよく纏まっている
p266 豊饒な伝説群 確かにそうだが、仮説と考古学と対応できない場合も強引に押し通しているようにみえる。考古学の時代推定が不確かだからと言われるのであろうが?
p269 奄かに父兄を喪う  読みは? にわかに(岩波文庫本)、ともに(古田)?


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