槍玉その20 古事記講義』ほか  三浦佑之 著     批評文責 棟上寅七

今回、槍玉として俎上に上がっていただくのは、メインは古事記講義』文春文庫2007年3月刊ですが、その元になっている『口語訳古事記(神代篇・人代篇)』文春文庫200612月刊・、文芸春秋2007年5月号古事記序は後世の偽書”・ウエブ「神話と昔話」などの一連の三浦さんの著作です。

著者は、文庫本の扉にありますが、1946年三重県出身の方です。成城大学大学院博士課程終了、現在千葉大学の教授をなさっています。古代文学・伝承文学研究専攻で著書も随分沢山出されています。この内、『口語訳古事記』2003年に第1回角川財団学術賞を受賞されています。この本の、一般紙や雑誌の書評は概して好意的な批評であるようです。

略歴に見られますように、著者は長年『古事記』についての研究に携わってきていらっしゃいます。『口語訳古事記』は、神話として近年顧みられなかった『古事記』を、読みやすい物語風に仕立て上げ、それまであまり興味を持たれなかった、古代の日本に、人々の目を向けさせた、という功績はある、と思います。

この文庫本のp148に「古代ヤマトにおける英雄叙事詩の痕跡が古事記には見出せる、というのが私の認識です」と述べられています。これがこの講義録の中心テーマとなっています。

つまり、『古事記』を、伝承文学の面からの切り口で切り取って語られます。それは、悲劇のヒーロー、翳りのあるヒーロー物語に『古事記』の価値を見いだされていかれます。そして、『古事記』が何故正史になれなかったのか、と考察を進められます。序文と内容のトーンの違いから、序文は偽書、後でつくられたという方向に進まれています。

三浦先生の一連の著作の全体の流の根底にあるものは、井上光貞先生の流を汲む歴史認識と見て取れます。崇神天皇以降はまあ事実に基づいているだろうが、それ以前は官人の造作で信用にならない、という考え方です。

それで、『古事記』の伝承文学的側面からのアプローチのみが、『古事記』の価値を見いだせる、というような方向に進まれています。三浦佑之さんが取り上げられるのは、悲劇的ヒーローのスサノヲやヤマトタケル、であり、幼いマユワと共に滅びるツブラノオホミ、大和朝廷に屈服する出雲の神話など、ということになります。

しかし、この日本の古典中の古典古事記』を、この限定的な側面からのみ見ていってよいのだろうか、と疑問が生じました。特に古田武彦さんの『盗まれた神話-記・紀の秘密-』を読んでしまった人にとっては、三浦さんが自称される、古事記専門学者としては不勉強ではないか、と驚かれることと思いました。

私達が、『古事記』を読んで不思議に思うことを、思いつくままに上げてみます。天皇方の信じられない長寿 近畿地方には銅鐸が出土するが『古事記』などには姿をみせない。近畿地方に出土しない矛が物語られる。 景行天皇が九州征伐された後に、なぜかヤマトタケルが単身熊襲タケル暗殺に行く不自然さ (これは『日本書紀』の場合ですが)。 天孫降臨でニニギの言葉、「韓国に向かう良き地」とはどういう意味か。 ⑤『古事記』と『日本書紀』の記述のくい違い。

これらの疑問がどう解き明かされるのか、三浦さんの見解を見ていきました。

以下、長々と三浦さんの著作を検討していく過程を、読者の皆様にお付き合いいただくのは申し訳なく、まず、結論を先にお伝えして、次いで、結論に至った経過の説明、という順序で進めたいと思います。

まとめとして

この『古事記講義』はじめ、三浦さんの著作を見渡しましても、考古学的出土品と記・紀との関連についての記述が皆無に近いし、まして弥生時代の東アジアと日本の状況などとの考察などカケラも見ることができませんでした。

『古事記』を日本の古代の歴史を知るための貴重な史料、という面の評価が非常に乏しいのです。律令政治に向く史料は『日本書紀』、伝承文学的面で優れている『古事記』、という位置づけなのです。

しかし、例えば、近畿にたくさん出土する銅鐸が、なぜ『古事記』(『日本書紀』にも)には語られないのか?三種の神器は北部九州に集中することと、『記・紀』の神話との関係は?これらについて、中学生や高校生から問われたら、三浦さんどうお答えになるのでしょうか?

その他、最初に私達が『古事記』の疑問点にあげた、ニニギの天孫降臨時の記事の解釈・天皇の寿命は何故長いのか・景行天皇の九州征伐は史実か、など全く私達の疑問に答えてくれませんでした。

古田武彦さんは、古代の東アジアの政治状況を外国文献との関係から明らかにされ、『失われた九州王朝』を著わされました。それから、『古事記』と『日本書紀』の記事の違いに目をつけられ、日本の夜明けの時代を、『盗まれた神話』として著わされました。それからもう30年以上経っています。日本の古代史に興味を持ち、古田さんの著書に接した人々は、定説・通説に不信の目を向ける人が多くなっています。

三浦さんをはじめ、アカデミズムに閉じこもる古事記学者さんが、どうして参考としてでも、この盗まれた神話』を読まれないのか、不思議です。ユダヤ教の信者がモスリムのコーランを手にすることが出来ないのと、同じ精神状態なのでしょうか?

この『古事記講義』は、口語訳古事記』の副読本的意味合いをもって、三浦さんが書かれたものです。
口語訳古事記』は文芸春秋社の80周年記念出版本の内の1冊として刊行されました。その後、文芸春秋誌に古事記を旅する、の連載が2004年秋に開始され、2年半に亘って続き、先般完結し、近々文芸春秋社から刊行される予定だそうです。

古事記講義』は文学界に連載され、文芸春秋社から2003年に刊行されました。文芸春秋社から口語訳古事記』も『古事記講義』も文芸春秋社の文春文庫で文庫本として出版されました。今、古事記序文偽書説を文芸春秋誌2007年5月号で掲載し、その内容は『古事記のひみつ』として吉川弘文館から今年刊行されました。これもおそらく文春文庫から出版と言うことになることでしょう。

この一連の流れを見ると、文芸春秋社の営業戦略にうまく乗せられている三浦先生本当に大丈夫かな、と心配になります。だってそうでしょう、『古事記』を伝承文学という一面からのみで捉えていらっしゃいます。天皇家の支配者の権力の移り変わりの記録、という本質的な面をあまりにもおろそかにされていますので、移ろいやすい今の世の中でいつまで持つのかな、と。


「まとめとして」に至った経緯

次に、この三浦さんの一連の著作を読んだ感想などを、A)最初に古事記講義を読んだ時 B)口語訳古事記そのたの三浦さんの著作とを読み合わせた後 C)古田武彦さんの盗まれた神話』他の著作と読み合わせたとき時 の3時点に分けて述べていきたいと思います。



A)最初に古事記講義』を読んだ感想

三浦佑之さんが取り上げられる神話・伝承についてのお講義は、それなりに面白く読ませてもらえます。しかし、批評する立場人のサガなのでしょうか、気になる点が大きくいいまして二つありました。一つは、神武東征~欠史八代について殆ど言及がないこと。もう一つは、古事記序文偽書説に大きく傾いていることです。

三浦さんは三浦さんなりの『古事記』の解釈 語り部による英雄譚、それも翳のある という面からの講義のようです。歴代の古代天皇の内、『古事記』がそれなりに記事量を割いている、神武・仁徳・雄略の各天皇には、強さだけが感じられたのか、三浦佑之さんのお気に召さなかったのか、この古事記講義』には殆ど登場なし、というのもどうかなあ、と思われました。

三浦さんは、『古事記』の中から、翳のあるヒーロー物語を拾い上げ、それに焦点をあてて『古事記』を解説されます。そのような立場からの古事記物語ですから、一般受けも良いのではないか、売れ行きも良いのではないか、と思われます。

しかし、この『古事記講義』という本だけを単独に、取り上げて批評はしにくい本です。といいますのは、三浦さんが以前出された『口語訳 古事記』の副読本という位置付けがされていて、随所に「口語訳古事記のどこどこ参照」としてあるからです。

この本を槍玉に上げるのに、更に別の本を買わなければならないのは、どうも釈然としません。三浦佑之さんは、文芸春秋5月号に、「古事記序文は後世の偽書」という論文を寄稿されていますので、それとセットでもいいかな、と思ったりもしました。ともかく、文芸春秋社は、三浦先生を随分買っていらっしゃるようで、以前2年以上に亘って「古事記を旅する」という連載を載せていましたし、その意味では槍玉に上げ甲斐はあるかな、と思ったりしました。

結局、『口語訳古事記神代篇・人代篇』の2冊を買い求め、切抜きしていた文芸春秋誌スクラップブックから、「古事記を旅する」および、同誌2007年5月号”古事記「序」は後世の偽書”、それに、インターネットサイト「神話と歴史(三浦佑之)
http://homepage2.nifty.com/wayway/shinwa-to-rekishi.html  、これらの資料を合わせ読み、トータル三浦佑之さんを、槍玉の俎上に上げることにしました。

内容の検証は大変です。チョコちょこっと『記・紀』を読んだくらいで、何十年もこれを専門にしていた方に、太刀打ちできるわけはありません。まあ、基本的なところを、三浦さんがどのように説明されているかを見ていけば、自ずから道は開けることと思って読み始めました。




B)三浦さんの他の著作、口語訳古事記』『古事記序文偽書説』などを読み合わせた後の感想

文春文庫『口語訳 古事記』が届いたので、ざっと目を通しました。ちょっと読み、だけの感想で申し訳ないのですが、まず感じましたことは、三浦佑之さんが、序文偽書説に非常に傾斜されているということでした。

しかし、一般の読者には、偽書説が持つ意味がよく分からないと思います。三浦さんご自分の感覚では、そう感じる、というのでは、一般の読者は判断のしようがありません。引き続いて出された『古事記のひみつ』を読めば分かる、ということなのでしょうか。いずれにせよ、『古事記』は、時の為政者にとって採用されなかった、没になった史書であった、と言うことを前提にするべき、と思うのですが、そのところも、本居宣長に遠慮されているのか、歯切れが悪いようです

それに、『口語訳古事記』では、原本の『古事記』が、神代から人代に変わるとしている、第1代天皇イワレヒコ(神武)を実在にあらず、と切り捨てていらっしゃいます。

太安万侶原作の『古事記』では、上っ巻として、序文及び、神代ウガヤフキアエズ(神武の父)まで、中っ巻として神武天皇以降、下っ巻として仁徳天皇以降と分けています。

三浦さんは、『口語訳古事記神代篇』 語りごとのまえに で、「カムイワレ(神武)を神代に入れることによって、神がみの世界と人の代との違いをはっきりと示そうとした、と述べられます。つまり、神武は神代(神話)で、人代(歴史)ではない、とされるのです。

太安万侶が、大和朝廷第一代として、神代から人代の節目として記述したものを、勝手に変えても良いものかなあ、三浦さん少々思い上がりでは?(著作権は勿論切れてはいても)と思ったりもしました。

三浦佑之さんを批評するための資料探しで、インターネット検索してみました。三浦さんのホームページに出くわしました。神話と歴史というホームページです。

そこでは、三浦さんは扶桑社の歴史教科書の古代部分に文句をつけていらっしゃいます。つまり、古代史学会で、神武東征は仮構性が強い、という通説なのに、それを歴史と取り上げるとは!、と怒っていらっしゃいます。(ここでは、あと、ヤマトタケルの東征時に犠牲になるオトタチバナを教科書に取り上げることを批判されていることは、その通りと思いますが)

口語訳古事記の方は、『古事記』という原典があるわけで、三浦さんの解釈が入っても、原典に従って口語訳をされていますので、それほどひどいことにはなっていません。しかし、古事記講義』の方になりますと、三浦さんの個性に従った解釈が主になりますので、歪みも大きくなっていくようです。

その歪みは、次の著書古事記のひみつ』で、三浦さんの主張、序文偽書説の展開となっていくわけです。三浦さんは、
古事記に、歴史書としての地位を与えたくない、万葉集の中の「読み人知らず」の歌と同じように、「読み人知らず」の伝承物語に持っていきたい、とい意志が強く働いているように感じられてなりません。



C)古田武彦さんの『盗まれた神話』など関係ある著作と読み合わせた後の感想

沢山の疑問点はありますが、その内の主なものに絞って検討したいと思います。

1は、ニニギの天孫降臨時の『古事記』の記事の解釈
2は、天皇の寿命はなぜ長い
3は、柿本人麿は宮廷御用歌人か

ニニギの天孫降臨時の『古事記』の記事の解釈

三浦佑之さんの古事記解釈での、ニニギのミコトの高千穂降臨のところを見てみました。【此地は、韓国に向かひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地】 と従来読まれてきた文章です。

三浦さんの解釈では、”
日が当る良い地だ” という一般論になってしまっています。

古田武彦さんは、これは所謂天孫族が九州に侵略して、侵略地を高い峰から見下ろして、四方を東西南北の印象を述べた文だ、と具体性のあるものと解釈されます。

この両者の比較を示すことが、両者の特質の一面を示すことになるかな、と思っています。


このところの『古事記』原文は次の文章です。

『此地者 向韓国真来通 笠沙之御前而、朝日之直刺国 夕日之日照国也 故此地甚吉地』

この『古事記』の、ニニギの高千穂への降臨、所謂天孫降臨の記事について、三浦さんは次のように説明されます。口語訳古事記神代篇』 本文p170および注釈p192

ここは韓の国に向き合い、笠沙の岬にもつながって通っており、朝日が海からまっすぐに射し昇る国、夕陽がいつまでも輝き渡る国である。この地は、ほかに比べることのできないすばらしい処である】

そして注釈として、

【高千穂は、宮崎県の高千穂とも鹿児島県の霧島ともいわれるが、現実の地名と考える必要はなく、九州の、日に向かうすばらしい土地にある、神の降臨するにふさわしい山であればよい。

韓の国は、朝鮮半島をさす。韓の国に向きあう地というところからみれば、降りたところは九州北部ということになるが、実際は九州の南部を舞台にしており、現実の版図とは重ならない。
笠沙とは、今、鹿児島県薩摩半島の南端の地名(南さつま市笠沙町)にあるが、おそらく、その地名は後に名付けられたものであろう。要するに、太陽がいつも輝き続けるのがもっともすばらしい土地なのである】 そして、

朝日が・・・夕陽が・・・ とは、これは、土地ぼめの定型表現として、神話や祝詞などにしばしば使われる決まり文句】 と述べます。


三浦さんは折角、高千穂は南九州ではなかろう、笠沙も鹿児島ではなかろう、韓国に向かい、と云っているから、北部九州に降り立ったと思われる、とここまでは、常識的な解釈をされています。豊葦原瑞穂の国、つまり稲作の国ということと結びつければ、なおのこと、稲作先進地の北部九州という理解に進むのが、常識だろうとおもうのですが、三浦さんは、そこで、思考停止をされます。太陽がいつも輝き続ける素晴らしい土地、というどこでも良いような、解釈をされます。

従来の古事記解釈ではなく、『古事記』をそのままに解釈した、古田武彦さんの同じ天孫降臨の記事の解釈を見てみます。古田武彦『盗まれた神話』角川文庫p210~219で詳しく述べられています。以下その趣旨を略記します。

天孫降臨の記事は、『此地は、韓国に向かひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。』と従来読まれてきた。
しかし、笠沙を鹿児島県にあて、高千穂を宮崎や霧島に当てると全く常識外れの文となる。ニニギが降り立ったのは、古事記に書いてあるように「筑紫の日向」である。日向国ではなく、筑紫の国の日向である。つまり福岡県糸島郡の日向(ひなた)である。そこには古名くしふる山も存在する。

この文は四至文(四方へ至る説明文)である。『この地(福岡県糸島郡の高祖山:くしふる峯 付近から望む)は、(北なる)韓国に向かって大道が通り抜け、(南なる)笠沙の地(御笠川流域)の前面にあたっている。そして、(東から)朝日の直に照りつける国、(西から)夕日の照る国だ』と臨地性に立つ的確な表現である】

この両者の解釈を読み比べますと、常識的には此の地についてニニギの表現を、よく説明しているのは、後者古田武彦さんの方だと思われます。

天皇の寿命はなぜ長い

口語訳古事記】の解説の中で、神武天皇について、三浦さんは、次のように述べています。

神武天皇は、一百あまり三十あまり七歳生きた、とされる。(過去の神々に比べると)まだ随分長寿だが、次第に人間の寿命に近付いてはいる。これだけ長いというのに事績が何も語られないのは、カムヤマトイワレヒコが初代天皇として仮構された天皇だから、である。なお、二~九代の天皇たちも系譜だけが伝えられており、これらの天皇も、天皇家の歴史を長くするために後に加えられたものである】 と、このように断定的に述べられています。

この三浦さんの意見のうち、二代目綏靖天皇から九代目の開化天皇までの、いわゆる
欠史八代についてまず、検討してみます。

『日本書紀』も『古事記』もそろって、この八代は、系譜を伝えるのみです。創業者の事績は語られても、じっと実力を蓄え中の後継者たちの事績は、後世に伝わらないもの。周囲が敵ばかりの中で、やっと10代崇神天皇になり、外部に版図を広げる時代になり、事績も記録されるようになった、という解釈を古田武彦さんはされていますが、その方が理性的判断において勝っていると寅七には思われます。

古田武彦日本列島の大王たち』朝日文庫p64~「大和盆地内の豪族 八代の欠史問題」で詳しく述べられています。その骨子は、【神武が大和盆地に侵入し、拠点を確保できた。この苦心譚は詳しく伝承されたであろうが、敵に囲まれた中でじっと耐え、10代目の崇神天皇になってやっと、外部に勢力を拡張できるようになった】 との説明です。

似たような意見ですが、宝島社文庫の異聞!暗殺の日本史』別冊宝島編集部編にも、三浦佑之さんが無視された、所謂欠史八代について書いてあります。

この本も、三浦さんとは別の切り口の古代史でもあります。
神武から崇神天皇までの事跡の記述が乏しいことについて、次のように書いてありました。

【大和の侵入した初代神武天皇によって、近畿天皇家の基盤はつくられた。第2代スイゼイ天皇によるタギシミミ殺しはあったものの、崇神天皇までの8代の間はスムーズに親子間で継承されている。

後代に比べると、あまりにもすんなりと継承されていることから、「こんなにスムーズなはずがない」と欠史8代の天皇の実在を疑う研究者もいる(実はおおかたの研究者は疑っている)。

しかし、このときの近畿天皇家が置かれた状況を考えると、周囲は依然として敵だらけの状況で「継承争い」ができなかったのが実情ではなかろうか。周囲が復讐の機会を虎視眈々とねらっている中で、格好だけでも団結の姿勢を見せておかなければ、すぐさま周囲の国家からつけこまれる。生き残るためには「継承争い」をしている余裕がなかったと見るべきではないか
】 と。

当研究会も、このような推測は、常識的なものとして受け取れ、納得できます。

三浦佑之さんのように、後世の判断で勝手に、「これは付け加えられたものだ」、とか「仮構のものだ」、と決めつけたり、理由もなしに、自説に合うように、原典を曲げるのは如何なものか、と思われます。まあ、三浦さんは津田左右吉の学説に従っているだけのことなのでしょうが。

『古事記』を読んでいて、歴代の天皇の寿命が長いのに誰しも???と思うと思います。(下記URL参照下さい)

これについて、安本美典さんが天皇寿命2倍説を唱え、古田武彦さんが、『魏志』倭人伝の倭人は春耕秋収を計って年紀となすという記事から、古代の倭人は年2回年を取る計算をしていた、との説を立てています。

これによりますと、古代天皇の寿命の記事の???は解消されます。三浦佑之さんは、これらの説には一顧だに与えていません。

神話だからいい加減なのだと放置されるのは、古事記学者として如何なものかなあ、と寅七は思います。倭人2倍年紀説など、こうこういう理由で成り立たないのだ、と我々古代史に素人の庶民に教えていただきたいのです
古田武彦さんは『失われた九州王朝』「記紀の二倍年暦」という項で、古事記二記されている神武~雄略の天皇の没年齢の平均が約90歳である。二倍年暦と考えたら特に長寿とはいえない、と一覧表を載せて解析結果を示しています。
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当研究会は、古代の天皇の長寿は、古代倭国二2倍年紀説を取り入れればすんなりと解消できると思います。古代史専門家の先生方も、「倍年紀説など成り立たない」、「倭人伝の記事の読み方が間違っている」、などもっと論争してみたらどうかなあ、と思われます。

在野の方ですが、倉西裕子さんという方が、日本書紀の真実ー紀年論を解くー』 2003年講談社刊 で次のように、二倍年紀論の紹介をされています。(但し、ご本人は二2倍年紀説者ではありません)

1880年(明治13)年に、ウィリアム・ブランセンという研究者によって初めて唱えられた説です(「日本年代表」)。基本的には、非現実的紀年数は2分の1に縮めれば、妥当な数字となるという考えです。『魏略』に「其俗不知正歳四節 但計春耕秋収為年紀」とあることも、その左証とされました。この説は、その後の紀年研究に大きな影響を与え、近年では、山本武夫氏が、『日本書紀の新年代解読』(1979年)、高城修三氏が『紀年を解読する』(2000年)において、春秋二倍暦説を用いています】なぜか、古田武彦さんとか安本美典さんの名前が上がっていませんが。

三浦佑之さんも、古事記専門学者を自認されているようですから、一般人の興味のある 古代天皇は何故長寿かの疑問に答えられるように、もっと勉強していただきたいものです。


柿本人麿は宮廷御用歌人か

柿本人麻呂の評価が、大和朝廷の御用歌人というようになっています。先日、古田武彦さんの人麿の運命』という本を読んで、感銘を受けたばかりなので、この面からの切り込みも出来るかな、と思ったり、人の褌で相撲取るみたいなので、どうかな、など悩んでいるところです。

この三浦さんの評価と、古田武彦さんが描き出された、柿本人麻呂像のいずれが、皆さんの理性的常識に叶うのか、判断を仰ごうと思っています。
文芸春秋5月号

この柿本人麿という『万葉集』の代表的歌人に対する従来の評価は、宮廷歌人、追従がうまいお抱え歌人、というようなものでした。

その見方は非常に浅薄なものだ、と再評価されたのが、古田武彦さんで、1994年『人麿の運命』でその実像に迫られました。又、2001年古代史の十字路ー万葉批判』を著わされ、失われた九州王朝の和歌が数多く読み人知らずとされていることを指摘されました。

三浦佑之さんの柿本人麿の評価は、文芸春秋2007年5月号古事記「序」は後世の偽書の中で語っていらっしゃいます。

【現人神という認識は、天武・地統朝あたりに形成されたもので、その象徴的なプロパガンダとして柿本人麻呂という宮廷歌人が存在する】と書かれています。山田孝雄さんあたりと同じ万葉解釈と思ってよさそうです。

三浦さんの『古事記講義』の本を批評するには、ちょっと寄り道かも知れませんが、古代を研究される学者さんの基本的な考えがこうも違うか、こうも違えば、古事記の解釈も全く別な方向になるのは必定だなあ、と思いましたので、詳しくは、古田武彦さんの上記著書を読んでいただくこととして、とりあえず、一例だけ参考にあげてみたいと思います。

万葉集巻第三、雑歌、235 ( 講談社文庫 万葉集 中西進 訳注 より)
(元歌)皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨

天皇(すめらみこと)雷岳(いかづちのおか)に御遊いでましし時に、柿本朝臣人麿(かきのもとのあそんひとまろ)の作れる歌一首
大君(おほきみ)は神にし()せば天雲(あまくも)(いかづち)の上に(いほ)らせるかも

(訳)大君は神でいらっしゃるから、天雲にとどろく雷のさらにその上に、仮のやどりをしておいでになることよ

又、山田孝雄氏の『万葉集講』義によれば、中西さんとほぼ同様の解釈で、この歌は「天皇は神にてましませば、奇しくあやしき御わざありて、人力のおよぶまじき雷の上にいほりを作り給えるかな」、の意というのが従来の定説だそうです。

この従来の解釈に対して、古田武彦さんは、『古代史の十字路ー万葉批判』p196~222「雷山の絶唱」で検討された結果を述べていらっしゃいます。

作歌場所とされる、明日香村の雷山は、高さ10mほどの丘であり、「岳」と形容することも、また、天雲云々は大げさ過ぎる。このような歌と解釈すれば、人麿は「空前絶後の阿諛歌人」の名を奉らなければならない。しかし、この作歌場所は九州の糸島郡の雷山である。雷山には上中下、三宮あり,ニニギ以来の代々の王者を祭ってある。時期は白村江の敗戦後、九州王朝滅亡のころに詠まれたものである】 とされます。

途中の論考考証は上記の本にゆずりますが、古田武彦さんのこの歌の現代語訳を読んでいただければ、従来の説と大違いで、柿本人麿大歌人の姿が浮かび上がってくると思います。

代々の王者は、すでに死んで神になっていらっしゃいますから、天雲のかかった、この(いかづち)(の山)の上に”いほり(住家)を作っておられます。(しかし、生きている民には、もはやいほりもなく、みな、苦しみ尽くしています)】

その他落穂拾い的に

・森浩一さんの日本神話の考古学】を読んでいて、『日本書紀』には国生み神話に越のくにがあるが、何故か『古事記』にはない、という指摘がありました。

これについても、三浦さんの解釈は示されていません。古田武彦さんは、太安万侶が古代伝承を整理したのではないか、『日本書紀』の本文や一書群の中の国生み神話の中で一番新しい形が『古事記』の記事、と云われます。森さんは、越のくにを『日本書紀』が取り上げているのは、継体天皇の出身地を無視できなかった、からではないか、と云われます。

三浦さんの、古事記観では、文学的内容のないこととみなされて、無視されたのかな、と思われました。

・景行天皇の九州征伐とヤマトタケルの熊襲タケル暗殺譚の記・紀の食い違い、という問題についても、三浦さんは全く興味を示されません。ヤマトタケルをヒーローとして取り上げながら、その主人公の父の事跡についても、検討しなければ、息子オウスの活躍譚の評価も充分なものとならないと思います。

ご自分の説に都合が悪いことは頬かぶりしてすませる、という日本歴史学会の悪しき流れに、三浦先生が乗っておられないことを願うのみです。

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