槍玉その30 『興亡古代史』 小林恵子(こばやし・やすこ) 文芸春秋社 2004年刊  読後感想 文責  棟上寅七

(注:巻末に古田武彦さんのご意見を付け加えました。2009.4.06)

著者について

 1936年生まれ 岡山大学文学科東洋史専攻卒業 と本の奥書にあります。著書は1987年現代思潮社から『白村江の戦いと壬申の乱』以来東アジアを舞台に数多くの著作を出し、今回の「興亡古代史」がその集大成とされます。著作の殆どは、現代思潮社と文芸春秋社の2社から出版されているようです。


この本を槍玉に上げる理由

本屋さんで古代史のコーナーで「小林恵子」の本をよく見かけます。随分前に、この小林さんを槍玉に上げるべきか、ということを考えてみたことがあります。

調べてみましたら、20071223日のブログでした。

【読者の方からコメントをいただきました。その中で、小林恵子さんの本の紹介があっています。小林さんの本は、井沢元彦さんと対極におられる歴史物作家と思います。(歴史家ではないように思われる。と云ったら叱られるかも知れませんが)寅七のテーマ「古代史の定説の検証」という意味では取り上げる対象になりませんが、一度小林さんの感想を道草にでも一文まとめてみたいとは思っています】

一応何だか逃げた感じで済ませていて、道草で取り上げることもしていませんでした。

しかし、今度『70歳からの自分史』を出版して、いろんな方面に売りまくりましたら、Y.H氏というドクターから、小林恵子は何故とりあげないのだ。彼女は古田武彦氏みたいにファンも取り巻きもなく孤軍奮闘しているのに、という便りをいただきました。

後ほど触れますが、古田武彦さんからも、小林恵子さんを研究しているのだって?是非やってください、とけしかけられ、この場に上がっていただくことにしました。



内容について

目次に従いますと、

第I部 卑弥呼以前から神功皇后摂政時代まで

第一章 邪馬臺国の北上
『漢書』地理志の中の邪馬臺国
越、南越と葛城氏の関係・・漢委奴国王と「神武」のモデル・大武神王・・北上するにニニギノミコト系神武勢力・・半島に追いやられた奴国王「帥升」・・

第二章 邪馬臺国から大倭へ
卑弥呼になった江南の巫術者許氏・・呉の孫権、公孫氏、高句麗王東川王の攻防・・魏国の内紛と二人の倭王の出現・・東川王の高句麗、母丘倹に滅ぼされる・・神武東遷に投影した東川王の列島亡命・・大倭国の統治

第三章 中国北方民族と崇神朝
鮮卑の慕容氏と、欠史八代・・匈奴の劉氏による列島支配・・崇神朝の成立と倭国内の実態

第四章 燕国の慕容氏
列島生まれの慕容仁の垂仁朝・・ヤマトタケル=慕容雋(ニンベン付の雋シュン)の景行朝・・慕容雋の息子仲哀、列島に来る・・

第五章 神功皇后摂政時代の真相
神功一族と武内宿禰の意外な正体・・慕容氏滅亡と高句麗、百済の攻防・・秦の苻洛、倭王応神に変身する

第II部 応神王朝から蘇我氏時代まで

第一章 苻洛=応神と広開土王の対決
苻洛=応神、百済も制圧する・・高句麗太子になったパルチア系安氏談徳・・広開土王と応神の半島をめぐる対決・・激変する東アジアと応神の最後の戦い・・

第二章 仁徳天皇と高句麗
高句麗の広開土王、列島に至る・・仁徳=倭讃に変身した広開土王・・仁徳の外交と北魏の戦略・・

第三章 倭の五王時代
履中の諡「去来穂別」いざほわけの意味・・倭王済=允恭と高句麗長寿王の攻防・・倭王興=「大悪天皇」安康の横暴・・半島中南部も支配した倭王武=雄略・・雄略没後の列島と新勢力の登場

第四章 継體朝の興亡
中央アジア・エフタル系継體の倭国侵入・・継體と新羅の智證麻立干は同一人物・・百済の東城王、武烈天皇となる・・半島内の戦乱と継體朝の滅亡

第五章 蘇我氏の時代
安閑朝を滅ぼし新羅王になった宣化・・百済の聖(明)王は欽明天皇だった・・欽明朝の対新羅・高句麗の戦い・・欽明朝における蘇我稲目の台頭・・突厥民族の極東への侵出・・敏達朝と蘇我氏と突厥勢力・・倭国における東西突厥勢力の激突

第III部 聖徳太子時代から地統朝まで

第一章 倭王タリシヒコ=聖徳太子時代
宿敵・隋と西突厥達頭タルドウ可汗との攻防・・達頭、高句麗・百済を経て倭国へ・・聖徳太子=タリシヒコに変身した達頭・・倭王タリシヒコ=聖徳太子の対隋外交・・唐の建国とタリシヒコの行方・・

第二章 山背王朝の成立と滅亡
唐国の倭国内聖への介入・・推古・竹田皇子母子の反乱と自死・・山背大兄の倭王即位・・山背王朝、対唐外交に失敗する・・「三つの顔」をもつ孝徳の登場・・山背王朝を滅ぼした者たち・・山背倭王一族の滅亡と唐太宗の決断・・

第三章 大化改新の実態
古人大兄短期王朝と乙巳の変・・蓋蘇文と唐太宗の高句麗征伐失敗・・大化改新の主役。翹岐、智積、蓋蘇文・・

第四章 孝徳朝と百済の滅亡
倭王孝徳を兼ねた百済王義慈と小王孝・・斉明朝、対唐国臨戦態勢に入る・・義慈王の百済、ついに滅亡す・・

第五章 白村江の戦いと間人(中宮天皇)朝
新羅王武烈の死と斉明の死との暗合・・鬼室福信と豊璋との対立の背景・・白村江の戦いの真相・・隠された間人(中宮天皇)朝の存在・・高句麗滅亡と中大兄・大海人の対立・・

第六章 近江朝と壬申の乱
拉致幽閉された天智天皇と土佐大神・・大友即位と唐・百済使者二千人の正体・・大友・高市の兄弟争いとしての壬申の乱・・

第七章 天武・大津・地統(高市)朝
天武天皇・文武王連合と唐高宗の攻防・・クーデターで天武を殺した真犯人とは・・「書紀」から消された大津(皇子)朝・・高市(皇子)朝が地統朝だった・・

 以上のように、目次を眺めていただけで、歴史の常識を覆す驚天動地の本だと、お分かりになると思います。


小林さんの視点

小林恵子さんが、『興亡古代史』の中で、「史書を読み解く2つの視点」ということを述べられています。

『三国史記』は半島ナショナリズムで書かれている、ということ。(反倭国・無視倭国で)

史書は政治的な変動を、天変地異や動植物の異常の記述で術的に暗示している。識緯的に表現と、道教の用語を目くらましに使っているようです。

この二つの視点で見ると、『古事記』や『日本書紀』と朝鮮半島の『三国史記』の記事が、同じ事実を全く逆に記述されているそうです。これを読み取る必要があり、いかなる正史、史料といえども改竄はつきものなのだから、それをどう見抜くか、が歴史学者の使命なのだ、とされます。

結局は、主観的な解釈自由の歴史観となってしまっているようです。

それに付け加えて、世の中の基準を自己解釈される自由さを確保されるのには、呆れるより感心します。例えば、 卑弥呼の墓の径100歩は、径はタテの長さをいうから、方形墓を示している、とされ、卑弥呼の墓は、平原遺跡の方形墓が候補地とされます。

径とは普通「さしわたしの長さ」ですが、著者の独特の定義の「タテの長さ」として、だから卑弥呼の墓は、円ではなく方形だ、とする論法。縦のものも横にしてしまう、万能の定義付手法です。


小林さんの論拠は?

多角的資料から結論を出す(p17)、と沢山の史資料から真のアジア史を見出した、とされます。

棟上寅七の古代史本批評ブログに書いた、その部分を再掲します。

『興亡古代史』何とか読み通しました。沢山の歴史書や資料などが出てきます。とてもフォローできません。読者諸兄姉も次の史資料どれくらいご存知でしょうか。

古事記・日本書紀・続日本紀・続日本後紀・先代旧事本紀・懐風藻・水鏡・神皇正統記
百済本記(書紀引用)・三国遺事・ 三国史記(新羅本紀・高句麗本紀・百済本紀)
山海経・論衡・漢書・後漢書・魏志・晋書・南斉書・梁書・宋書・北史・南史・周書・隋書・旧唐書・新唐書
通典・資治通鑑・冊府元亀・東国與地勝覧・大唐西域記・法顕伝・豫章記・大唐大慈恩三蔵法師伝
太平御覧・本朝通鑑・延喜式・新撰姓氏録・上宮記(釈日本紀より借用)・二中歴・如是院年代記
筑前風土記・常陸風土記・出雲風土記・出雲国造系図・越前国風土記・播磨国風土記・伊予国風土記
海部氏本紀(宮津市籠神社)海部直氏系図・公卿補任(蘇我氏系図)・上宮法王帝説・日本三代実録・聖徳太子伝歴・聖徳太子補闕記・帝王編年記・七代記(敬明)・大織冠伝・家伝(大織冠公伝)・本朝皇胤紹運録・和州旧跡幽考・往代奇有記
八幡宇佐宮御託宣集・八幡愚童訓・多武峯縁起・(播磨)鶴林寺縁起・大安寺伽藍縁起・法隆寺東院縁起・熱田大神宮縁起
大蔵系図、秋月系図、坂田系図・江談抄(平安時代)・善隣国宝記・扶桑略記・一代要記(鎌倉時代)・月刈藻集(江戸時代)

これらの資料から歴史の主人公達をファンタジックに組み合わせて、小林流古代興亡史を紡ぎ出しています。


問題は?

これらの史資料から、とてつもない理屈付け(世の中では屁理屈というようですが)で、歴史上の人物を動かします。例をあげますと何百とありますが(付録メモ参照)、代表的な例を上げてみます。

広開土王の太子時代の名が談徳であり、談は讃(倭王讃)に通じ、仁徳にも通じる。つまり、広開土王が倭王讃であり、仁徳天皇である証拠。

万葉集に出てくる「休みししわご大君」 は新羅の東にあった休忍国の休氏が列島の天皇になった。休氏が天皇の姓であったから、大君の枕詞になった。

私見によれば百済の聖王=欽明天皇だから、その子敏達は当然百済王の余昌となる。

このような屁理屈の積み重ねで出来上がっている本が、歴史書として批評する内容のある本とはとても思われません。

この本を読んだ感想をブログに数回掲載しましたので、それを再掲してまとめに代えます。


感想(まとめ)

小林恵子さんの『興亡古代史』少し読んでみました。
朝鮮半島の『三国史記』と『日本書紀』の登場人物を、小林さんの頭の中でこねまわし、東アジアを舞台に適当に躍らせている本のようです。ここまで、ぶち壊してしまうと、ぶち壊し方を読んでみよう、ということになるのでしょうか?ともかく普通の頭では付いて行けない感じです。

例えば、「高句麗の東川王が魏に追われ、日本に亡命し、北九州を制圧し、近畿に向かう、これが神武天皇だ」などというお話の連続です。

折角読みはじめたので最後まで読んでみようとは思いますが、500頁近いバカ厚い本なのです。熊本のY・Hドクター、えらい本を槍玉に上げてみろ、と寅七にけしかけたものですね!

我慢して読み進みました。全体の三分の一、160ページくらい迄進みました。しかし、飛躍する論理についていけません。

例えば、中国北部の秦国主苻堅の従兄弟苻洛が休忍国に使者を派遣して兵士を徴集しようとした、と記録にある。その記録によれば、休忍国とは新羅の東にある国とある。つまり日本列島の国であろう。

『万葉集』には「休みしし、わご大君」と天皇の枕詞が「休みしし」である。つまり、天皇の姓は休氏であった、というような話になり、苻洛が後に応神天皇になるなどと発展していきます。チョット待って、『万葉集』は万葉仮名で書かれているよ。「休みしし」、とはかかれていない。「八隅知之吾大王」です。これを休忍国と結びつけるのは、無理も無理筋でしょう。と読み続ける気が失せたところです。


思い直して読み進めました。真面目に読もうとするから疲れるのではないか、スイスイと読み飛ばせばよいのだ、と自分に言い聞かせて読んでいます。しかし、次のように書かれてあるとつい引っかかります。

12世紀に編纂された『高句麗本紀』に、好太王碑で有名なあの広開土王が、南を巡回した、と書いてある。南というのは日本列島のことだ。広開土王が日本を征服して仁徳天皇になった。広開土王の太子時代の名が談徳であり、談は讃(倭王讃)に通じ、仁徳にも通じる。つまり、広開土王が倭王讃であり、仁徳天皇である証拠、と云われると、何も云いたくなくなり本も投げ出したくなります。


●三分の二ほど読み進み、西突厥の達頭〈タルトウ〉が、俀〈タイ〉国のタリシヒコであり、聖徳太子となった。というところまできました、というところまで来ました。

これまでも、継体天皇は新羅王智證麻立干である。武烈天皇は百済の東城王である。安閑天皇は高句麗の安蔵王である、などなどという小林説を読み進めてきましたので、西突厥の達頭が、などと言われましても、あまり気にもならなくなりました。この本は、小林さんのファンタジーの集大成なのでしょう、歴史書と思うのが間違っているのでしょう、きっと。

●小林恵子さんという方を理解しないと、この本は理解できないようです。
通して読んで感じたのは、このお方は、一種の貴種願望が潜在的にあるのではないかな、ということです。

縄文時代には、土器を持って大陸や朝鮮半島から渡来して来た、と日本の火炎土器に象徴される土器文化を否定されるし、古代の各天皇を中国や朝鮮半島の貴人と同一人とされます。
小学4年正のころ、敗戦で一夜にして鬼畜米英がカムカムエブリボディと変わり、一種の被虐劣等意識が植え付けられたトラウマに由来するのでは、と邪推したくなります。

この本の批評は、古代史の方面からではなく、心理学者に分析してもらわなければならないのではないでしょうか。貴種流離譚は昔からありますが、これほどギッシリと貴種が詰まっているお話は初めてです。暇つぶしついでに、四方田犬彦さんというかたの、新潮社から出ている『貴種と転生』という本があるようですから、それでも読んで少し勉強をしてみようか、と思っています。

●小林恵子さんの本をホームページに上げるかどうか、迷っていたら、古田先生から別の件で電話があり、話が小林さんのことになりました。尾林さん、是非おやりなさい、とけしかけられました。まあ、思った通りのことを書けばよいのかな、と思うことにしました。
ということで、一応この項を、この辺で締めて出稿することにします。

追記:(2009年4月6日)

このホームページの小林恵子論について、古田武彦先生から、電話でおおむね次の様なコメントをいただきましたのでご披露しておきます。
【たしかに小林恵子さんの本は無茶苦茶な話ばかりでうが、あなたの言うように貴種願望という面もあるかもしれないが、日本文化朝鮮淵源説とみた方がわかりやすいのではないか。韓国や北朝鮮の学者がこのような説をのべるのは今までにもあったが、日本人の学者が書く、ということに、文芸春秋社などの大出版社が、売れる、とみて、後援しているのではないだろうか】ということでした。

   トップページに戻る

   著作者リストに戻る

付録メモ

021 政治的な意味においてもっとも差しさわりの多い部分を動物や天変地異の記述で呪術的に暗示して明記していない。
023 縄文人は土器を持って渡来した。
031 邪馬台国は奄美大島にあった。
033 倭人伝の持衰はジスイで、奄美の脱皮を意味するスィデルからきている。
0?? 後漢書の「極南界」は近畿原点で倭人が邪馬台国の位置を表現したもの。
066 卑弥呼の墓の径100歩は、径はタテの長さをいうから、方形墓を示している。平原遺跡の方形墓が候補地。
074 史書に「東倭」といいう語が出てくる。二人の倭王がいた。
082 卑弥呼の王宮は伊都国にあった。
088 高句麗東川王 柴原に葬る=再生の意味。 東川王が伊都に上陸し神武となって東征した。
09? 臺與=ホトタタライケヨリヒメ トとヨが入っている。
098 ヤマタイの意味とは。邪=旧い、馬=南、臺=根本、旧い南部の中心国=九州の南となる
104 東川王の孫、西川王が大和盆地に亡命してきた
105 史書には、識緯説的表現がある。
106 4世紀直前、匈奴劉氏が日本列島を支配した。
119 史料に明記されている訳ではないが、高句麗は匈奴劉氏のバックアップを得るようになった。
120 高句麗美川王は320~330年間記載がない。列島に亡命していた可能性が高い。
120 劉氏慕容?氏=燕   崇神垂仁天皇 垂仁紀に燕居という語がある。
    慕容?が死に、雋=ホムツワケ=ヤマトタケル息子仲哀
123 ?の三男子慕容仁が垂仁天皇。
136 仲哀は百済王となり角鹿に上陸
138 仲哀=近肖古王???
140~142 百済本紀の仲哀は近肖古王で神功皇后と戦った
146 成務天皇は仲哀の後の天皇
155 武内宿彌は近肖古王の息子近仇首
156 休みししわご大君 は休氏が天皇の姓であったから枕詞になった
158 八幡宇佐宮御託宣集 応神は中国生まれ
164 応神と好太王との戦い
    武内宿彌は近仇首王であり、ヤマトタケルの息子
190 広開土王は南を巡行した。南=日本列島。広開土王は=仁徳天皇倭王讃。
195 広開土王の太子時代の名、談徳。談は讃に似る。
    313プラス100 413の意味???
214 允恭天皇=倭王済=高句麗訥祇
217 天日槍=安康天皇=倭王興
227 倭王武の上奏文 句麗は無道にも見呑し、は併合であろう、倭国を併合しようといている、という意味
    雄略=百済王昆支であり、高句麗と戦った
    後に仁賢天皇となった憶計=紀生磐宿彌で任那を拠点としていた。
2??慕容雋(ヤマトタケル)の子孫エフタツ民族の継体が渡来した。蒙古鉢形冑の出土がある。
    季節はずれの冬に桃李が咲くのは、臣下が君主を思いのままに動かし、刑罰と恩賞を勝手に行うことを暗示。
   木が抜ける、の記事は、王朝が倒れる場合の識緯的表現
    金城に龍が現れる、は簒奪者が現れること。
   継体=新羅王智證麻立干、武烈=百済東城王、安閑天皇=高句麗安蔵王
    宣化天皇は新羅真興王になった
   日本書紀が同母弟と記すのは、異父弟のこと。天智ー天武、安閑ー宣化。
   271 那津とは任那の津のこと、洛東江のほとりに屯倉を作った。
    新羅本紀に春3月雪が1尺積もった。これは有徳者が災厄にあったことを示す。
    高句麗本紀に夏4月に雹が降った、。これは、陰が陽を脅かす意で、婦人や外戚の後継者争いを暗示している。
   同じく、梨の木が他の木の枝と連なった、とある。これは外国の降伏者がその国にくる場合を暗示。
   敏達天皇=百済の余昌、百済の聖王=欽明天皇だからその子敏達は当然余昌となる。
    高句麗本紀 異鳥が宮庭に集まった。異鳥は簒奪がある場合の識緯的表現
   高句麗本紀 雷の記載 万民に怨念と離反の心が生じ氾濫が起きる場合に雷が鳴る。
292 高句麗本紀は倭国関係の記載はしないという法則で書かれている。
    聖徳太子は法王大王とよばれ、元は北魏の彗思禅師である。百済法王達頭でもある。
   書紀 川の水が宮庭に満ちた 洪水は臣下の氾濫を暗示する
   中大兄は百済の王子翹岐
    持統天皇は高市皇子であった

             などなど  (付録 終わり)