槍玉その52 日中歴史共同研究プロジェクト「古代中世史篇」  読後批評コメント集 棟上寅七

2014年10月に 『日中共同歴史研究第1巻 古代・中近世史』・『同 第2巻現近代史』 北岡伸一・歩平 編 勉誠出版 が出版されました。このプロジェクトの報告書はそれ以前、2012年8月に 日本国外務省ホームページに報告が出されています。 この批評文は外務省のホームページの報告書(PDF版)によりました。したがって、引用文のページ数などありません。ご了承ください。

はじめに

●この「日中歴史共同研究」は2006年に始まっています。当研究会がこのプロジェクトのことを知ったのは2010年夏です。
このホームページ「槍玉その42」で小島毅さんの『父が子に語る日本史』の批評で取り上げた時に、彼が「日中歴史共同研究」の日本側委員のひとりであることを知りました。

その批評の著者の紹介のところで、【上記のうち、気になるのが「日中歴史共同研究」委員です。この本では、隋書に記載されている俀(タイ)国の天子を名乗る「多利思北(比)孤」が煬帝に出した、「日出づる処の天子云々」について、”俀(タイ)国の「多利思北(比)孤」”との関係について、全く説明がないのです。『日本書紀』にある「東の天皇敬して西の皇帝に云々」の国書も又出ていません。このような歴史認識で、日中歴史共同研究がまとまるとは到底思えませんが。政治家が使う「両論併記」でまとめるつもりなのでしょうか】 ということを書いています。

今回、その共同研究の報告書が外務省から2012年に発表され、その後、2014年に勉誠出版から出版もされました。
その報告書によれば、両国の委員がそれぞれ論文を発表し、意見を交換し、修正が必要なところは論文の修正を行った。しかし、この討論の内容については発表しないことになった、とあります。つまり、「両論併記」ということになったのですが、古代史に限って言えば、『隋書』にある「俀国」を「倭国」と読み替えることについては、両国委員とも無条件に同意しているのには、残念でした。

今回この報告書を「槍玉にあげる」直接的な契機は、『隋書』の「多利思想北(比)孤」についての、古来~現在の論者の説明を調査していたら、現在の論者として九州大学の川本芳昭教授の論文が目にとまり、その川本氏が日中歴史共同研究の日本側の委員で古代史部分の論文を担当している、と知り、その内容を読んで、これは取り上げる必要があるかと思い、「棟上寅七の古代史本批評」ブログで、2015年1月初めから3月末まで、延べ26回にわたって短評を述べてきたものを、まとめたものです。

この報告書は、外務省から発表され、勉誠出版から出版され、「現近代史」篇 A5版464ページ(4860円)、「古代中世史」篇 684ページ(6450円)という大部の本です。幸いというか、外務省のホームページからその報告書にアクセスできますが、この「槍玉」に挙げるのに全文を紹介することは、いくらネットの上でも問題があると思います。そこで、論文の気になったところや、気にいったところを紹介し、その部分部分で短評を述べることにしました。

読者諸氏におかれては、報告書全文について知りたいと思われたら、勉誠出版の本、乃至、外務省のホームページの報告書を参照いただきたいと思います。
中国側の論文を最初に紹介し、そのあとに日本側の論文を紹介しています。中国側の論点は当方にとって目新しいところが多いのですが、日本側の論文は、いわゆる「定説」的なものが多く「以下略」としたところが多くなり、中国側の紹介を10とすれば、日本側のは3程度となっています。

●この「共同研究」は、同じテーマで両国の学者がそれぞれ論文にまとめ、それぞれをお互いに意見を述べて、それぞれの著者が納得すれば修正するし、その経過も記録する、と言う事ですが、結局は意見のやり取りは公開されないこととなったようです。
このプロジェクトの経緯と報告については、平成22年9月に外務省のホームページ「日中歴史共同研究」(概要)として発表されています。その中に「目次・序」(PDF)と「日本語論文翻訳版」(PDF)がありますので、それをクリックすると読むことができます。

同じテーマで両国の委員の論文が発表されるのですから、日中のそれぞれの同一テーマで並べた方が、それぞれの歴史叙述の違いについて理解しやすいかな、とも思ったのですが、古代史担当の日本側委員の論文は、いわゆる定説であり目新しいところはほとんどありません。中国側委員の論文を順を追って見ていくと、中国側の日本歴史観がよくわかるので、まず、中国側論文を批評して、その後、日本側論文を批評する、という形で進めることにしました。中国側論文と日本側論文の総評は、巻末にまとめて述べることにしました。


●「日中歴史共同研究」というプロジェクトはもともと、古代史というより、近現代の歴史認識の研究が目的であったと思われます。 しかし、これは「南京事件」一つをとっても難しい問題だと誰しも思う事ではないでしょうか。日中戦争と天皇の責任などという問題まで取り上げたらどうにもならなくなるのではないか、ということは明白と思われるのに、当時の日中指導者(安部総理と胡主席)がGOサインを出したのはどういう思惑があったのでしょうか?

このプロジェクトの報告書の序言に書かれていますが、最初はそれぞれの主張を相互に批評し取り入れ得るものは取り入れ、その経過も記録する、という事のようでしたが、発表段階ではまだ検討すべき問題もある、ということで討論の過程は封印された、という事のようです。それでも、例えば「盧溝橋事件」や「南京事件」も中国側の資料によっての論文が、日中双方で双方の言語で公表され、お互いの認識の相違があるということが分かる、という意味はあった、ということでしょうか?

しかし、当研究会の対象とするのが「古代」ですので、「日中歴史共同研究」報告書全体のうちの「古代中世史篇」を対象とします。


A)古代中世史篇 中国側論文

日中双方同じ目次で論文が論述されています。



<古代・中世史>


総論

序章 古代中近世東アジア世界における日中関係史 蔣立峰(中国社会科学院日本研究所所長、教授)・厳紹「湯玉」・張雅軍・丁莉
(コメント:厳紹「湯玉」氏の「湯玉」という字は、「湯」の下が「玉」となっている字です。これはUnicode辞書でも藤堂さんの漢和辞典でも見当たらない字です。中国の上海辞書出版社の『辞海』で見つかりました。Unicodeにある「盪」という字は「湯+皿」ですが、厳氏の名に用いられたのは「湯+玉」という字でdang(4声)と読み”黄金”の意だそうです。)

第一部 東アジアの国際秩序とシステムの変容
第1章 7世紀の東アジア国際秩序の創成  王小甫(北京大学歴史系教授)
第2章 15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係  王新生

第二部 中国文化の伝播と日本文化の創造的発展の諸相
第1章 古代中国文化の日本における伝播と変容  宋成有(北京大学歴史系教授)
第2章 「ヒト」と「モノ」の流動―隋唐時期を中心に  王勇(浙江工商大学日本文化研究所所長、教授)

第三部 日中両社会の相互認識と歴史的特質の比較
第1章 19世紀中葉以前における中国人の日本観  王暁秋
第2章  日中古代政治社会構造の比較研究  蒋立峰・王勇・黄正建・呉宗国・李卓・宋家鈺・張帆

まず、「序章」からその論文の概略を紹介します。その紹介する文章に気になったフレーズで、当方がコメントしたいと思ったところに朱色のコメントを入れておきます。


 序章 蔣立峰・厳紹湯玉・張雅軍・丁莉

●本研究では先人がすでに得た研究成果を総括した上で、さらに交流を通じて新しいことを見出したい。
(コメント:まずこのように「先人が得た研究成果」を尊重するということは、例えば『魏志』の「邪馬壹国」よりも『後漢書』の「邪馬臺国」を正とする、というような、いわば逃げ口上を述べているようだ)

●中国の二十四史は古代日中関係研究の重要な資料であり、その日本に関する記録は基本的に信用できるが、間違って伝えられている真実ではない箇所があることも免れない。日本の『記・紀』を代表とする重要な資料の問題は、おそらく更に多いので、双方がこれに注意しなくてはならない。
(コメント:二十四史は基本的に信用できる、というが、二十四史の中で『北史』や『南史』には誤りが多いといわれているが?)

●完新世初期、おおよそ1万年ほど前の氷河期後の海面上昇で、日本列島はアジア大陸と分離し、日本は狩猟・最終・漁労を主とする縄文文化の時代に入った。縄文時代はおおよそ紀元前300年頃まで続き、その後、稲作と金属器を代表とする弥生文化の時代に入る。
(コメント:中国側は弥生時代の始まりを紀元前3世紀あたりに置きたいように思えるが、日本側は反論したのかな?)

●(縄文から弥生への変換は斬新的ではなく)それは弥生時代に相当大規模な北方の大陸からの移民、もしくは南方の大陸と海洋からの移民が日本に到達し、同時に新しい文化、例えば水稲栽培や青銅器の鋳造技術などの先進的な大陸文明を、本州西部と北九州にもたらしたというものである。これらの大陸移民は、次第に日本その他の地域の原住民を凌駕し、弥生時代以降、次第に現代日本人へと進化する直接の祖先となった。
(コメント:「移民」、「大陸移民」という表現に異和感を覚えるが。)

●人口増加モデルと頭骨形態変化モデルのコンピューターによるシミュレーション研究の結果によると、弥生時代の始まったあとの1000年間に、日本列島の人口増加率は世界平均レベルをはるかに上回っており、大陸移民の数は推計で100万人以上にのぼり、弥生時代が終わった後の古墳時代には、原住民即ち縄文人の子孫と大陸移民との比は、西日本では1:9から2:8であった(古墳人における縄文人の直系と移民との混血率は、近畿では1:9、西日本では2:8、関東地区では3:7であった)。日本文化と日本人の身体的特徴の複雑な変化は、単一民族起原説を用いては説明のしようがない(注1)。(注1:安志敏「江南文化と古代日本」1989『弥生の使者徐福』)
(コメント:混血児が30世代も経てばその遺伝子を持つ子孫が占める比率は当然大きくなる。ただし、その遺伝子が個体に占める濃淡度も薄まると思うのだが。著者は、「大陸移民」が日本列島にその言語が残せなかった、つまり、原住民の言語に埋没してしまうくらいの集団であった、ということは認めたくないようだ。)

●『北史』と『隋書』には、608年裵世清が「倭国に使し、・・・・・竹斯国(筑紫)にいたり、又東して秦王国(博多)に至る。其の人華夏に同じ。以て夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり」と記している。この秦王国とは即ち徐福が東方の日本に渡って立てた国だと考える人もある。(中略)『魏略』『晋書』『梁書』『北史』『通典』などの記載によれば、倭人は「自ら太伯の後と謂」ったという。
(コメント:例えば現代でも、長崎に諏訪神社の秋季大祭の時期に訪れた外国人は、説明しなければ、これはきっと中国人の祭りと思うことだろう。ここで『隋書』には「俀国伝」とあるのに、何の断りもなく『北史』の「倭国伝」を採用している。また、秦王国=博多説は誰が唱えた説なのだろうか?『隋書』に筑紫の東にあるとされる秦王国が博多である、という根拠は何かな?)

●紀元前300年に出現し、稲作を始めた日本の弥生人は、中国人を主体とする東アジア大陸の移民が大量に日本に到達したことと密接不可分である。これらの移民の拡散過程において、混血が発生したが、大陸移民の遺伝子の優勢は日本の原住民を凌ぎ、次第に進化して現代日本人となった。中世以後、日本人群には海外からの重要な遺伝子の漂着による変化はなかった。(中略)
これによって導かれる結論は、現代日本人の人種の形成は、中国人を主体とする東アジア大陸からの移民の強い影響を受けたのであり、中国人と日本人の人種的関係は密接であると言うことができる。
日本文化は、日本人の日常生活の衣・食・住・行・婚・喪・礼・学を含み、すべて中国文化の全面的で根深い影響を受けた。
(コメント:言語体系に影響はなかったと思われるし、全面的とは言い過ぎではないかな。宦官・宮刑・纏足・科挙などの中国文化も日本文化に根深い影響を与えていないと思われるが?)

●日本民族は、どうして大和民族と自称し、「大和」を「牙麻托(やまと)」と訓読するのをなぜかと問うたなら、恐らく応えられる日本人は十分の一に満たないだろう。しかもこれらの答えもあいまいではっきりしないだろう。現在の大和の地で実際に体験してみると、「牙麻托(やまと)」とは「牙麻莫托(やまもと)」の便宜的な読み方で、古代の倭人は即ち「山下」「山麓」の人であった。
(コメント:「やまと」の表音文字に「托」を使うのはなぜ?奇を衒っているのかな?日本の漢和辞典には「托」の上古音は「tak(タ)」とあるのだが?「と」で検索すると、都斗途徒杜賭屠堵吐兎図土塗妬度渡登砥菟鍍頭肚刀など沢山あるのに。)

●日本民族は非常に早くから自らの音声言語を持っていたが、日本語中には大量の他民族言語の基本要素が混入している。(中略)音韻学の面から分析すると、日本語の語音は、中国古代の江南一体の呉音や、唐代になってからの長安一体の中原漢音、また宋・元以降の官韻が定める唐音との関係が密接ではあるが、呉音と漢音を主とする。
(コメント:中国側は漢字の読みの問題に集中するが、日本語文法の成立に中国語は全く関与していない、ということについては無言である。)

●弥生時代と古墳時代において、中国人を主とする多くの東アジア大陸人が日本に到達したことは、もし秦の始皇帝の暴政と焚書坑儒、及びその後絶えず発生した社会動乱を考えれば徐福のような知識人が、大陸移民の中で相当大きな比重を占めていたはずである。これらの人々が簡書・帛書・紙書を携えて日本に来たことは、完全にあり得ることであり、字書を携えずに日本に来たという方が却って不思議である。前に述べた徐福の「秦王国」は、いずれにしても字を持っていた国家であったはずである。
(コメント:「字を持っていた国家であったはず」というのは、倭奴国が字を解していたことは明らかであることから可能性はある。しかし、字を解してしていたことと、移民が国を造った、ということは別次元の話ではなかろうか。もし国家という強権の有る組織ができたのであれば、文字だけでなく言語も中国系になっていなければならなかったのではないかな、そのような痕跡はみえないようだが?。グループとして渡来しても1~2世代くらいまでは祖先言語を使用していたであろうが、数世代以降になれば地域言語に同化してしまったと思われるが?)

●中国の史書に記された、239年に魏の明帝が「詔書もって倭の女王に報ず」や、翌年に女王卑弥呼が「使に因りて上表し、恩詔に答謝す」は、邪馬台国が既に漢字の詔書を解読し、漢字を記して文章を表現する能力を備えていたことを示す。
(コメント:『魏志』の邪馬壹国について一言も無く、景初二年(238年)十二月とあるのを、を何の断りもなく239年と記すなど、今回の共同研究報告には失望以外の何物もない。)

●日本人は、自由に漢字を運用できるようになった後は、もはや単に中国人をまねて漢文を読み、漢字を記しただけではなく、漢字・漢文を利用して日本固有の言語を表現することを考え始め、それが漢字と日本語のさらに一歩進んだ融合をもたらした。(江田船山古墳出土の鉄剣銘文にみえる日本人の人名「伊太加」など。『万葉集』では「音仮名」だけでなく「訓仮名」も登場など)
(コメント:確かに日本人は漢字の利用法をすぐに考え付いたようだ。一方、中国人は、白文の漢字表記から抜け切れずにいたが、現代にになってやっと日本人のまねをして句読点を取り入れるようになったのだが、この辺の考察はないようだ。)

●(総括として)第一は江南地方に起源を持つ稲作農耕が東へと伝わり、日本列島の居住民が野蛮な時代から脱却し、文明の時代に入ることの最も主要な生産力の現れとなった。
第二に、紀元前3世紀から紀元後4世紀頃までに、大量の華夏族の移民が日本列島に移動した。彼等は当時の東アジアでもっとも先進的な生産技術を伝え、例えば、紡績・漆工・鞍作り・漢方医学などや、『論語』を代表とする漢文典籍がそれであり、物質と精神の両面において、日本古代国家建設のために強力な基礎を築いた。
(コメント:著者は大陸文明のみが野蛮から脱却させた、というが、縄文時代の独自の文化、巨木文化、栽培文化、陶器、石器加工などを「野蛮」で片づけているようで、その心情が淋しい。)

第三に、5世紀ころに、仏教が朝鮮半島を経て日本列島に入った。これによって、1500年間に及ぶ日本の民衆の仏教信仰が始まり、その強大な文化の流れは、日本社会のほぼあらゆる生活面に根深く影響を与えている。(以下略)
(コメント:仏教は中国文化なのかな?)

第四に、7世紀ころからの古代封建国家の形成過程において、聖徳太子の「十七条憲法」を代表として、中国の比較的成熟した豊富な政治観と道徳倫理観が、日本古代国家の基本的な政治理論の有効な構成要素となった。
(コメント:聖徳太子の業績ならびにその実在性について日本では論議されているのだが、それについての考察があってもよいのでは?)

第五に、『記・紀』神話は、天皇の神聖さを宣揚する国家神話体系であり、日本民族の「天皇信仰」と「神道崇拝」のもっとも根本的な心理的基礎となった。比較文化の立場から見ると、これは、日本原始神話の基礎の上に形成された「変異神話体」である。中華文明における道家・道教の観念や、儒学倫理、方士・方術の生命論などが、すべて「記紀神話」の構成に係わり、天皇権力観念の有力な支柱になった。
(コメント:「記紀神話の構成に中国文化がすべてに係わっている、というのは言い過ぎのではないかな?)

第六に、9世紀末の『本朝見在書目録』によれば、当時の日本の官庁及び皇宮に所蔵されていた漢文典籍は1568種であり、当時の中国国内のすべての文献の50%%前後に相当する。この現象は世界文明史上、かなり稀に見るところである。このような豊富な文化の移動は、専ら平和で落ち着いた親睦の政治的枠組みの中にあってはじめて実現することができる。明代以降・・(中略)
(コメント:『続日本紀』和銅元年(708年)正月の項に見える「山沢に亡命した者に対する禁書提出令」について著者はその意味を考察していない結論だ。)

第七に、漢字は日本の言語文字に対する影響が甚大であり、古代日本社会の文明を向上させる発展過程の根本的な指標となった。
(コメント:「発展過程の根本的な指標」というが、その具体的な内容が示されていないので、理解できない文章だ。)

第八に、8世紀から12世紀までの奈良・平安時代に、日本文化史上最初の文学的高まりが現れ、漢文学と和文学のどちらにも輝かしい業績が生まれた。しかし、漢文学と和文学とを問わず、いずれも中国文化の中の先秦から唐までの文学を移し、弁別し、吸収することを基礎としたものであった。日本文学の以後の発展・・・(後略)
(コメント:まさか、万葉女流歌人や紫式部や清少納言なども中国文化の影響で生まれた、というのだろうか?)

第九に、日本の12世紀末からの400年に及ぶ戦国期の日本文化に「一筋の生気」を保てたのは、次第に発展してきた禅宗と禅宗寺院だけであった。

(コメント:総括として、この共同研究で中国側委員がまとめたものは、定説に従うものの、中国正史の記事を正とし、夷蕃の史書類はあくまでも正史を中国側の思惑通りに補完できる場合のみ採用するという立場と思われる。下世話でいう「上から目線」の中国側委員の歴史観がよくわかる報告書ではある。)



第一部 第一章 7世紀の東アジア国際秩序の創成  王小甫

第1節 早期の東アジア国際関係

●倭が地域政治に積極的に介入しようとする進取的態度の発展は次の3段階に分けられる。

1.倭人諸国から邪馬台国に至る時期。倭は主として地域社会に積極的に参入しようという願望を見せ、「漢委奴国王」、「親魏倭王」といった藩属関係とその名号に満足していた。
2.統一後の倭の五王の時期。倭王は引き続き中国王朝の冊封を受けることを求め、それによって自らの国内的権威や国際的地位を高めようとした。
3.遣隋使。国際的地位や文明程度の高まりに伴い、倭国はもはや冊封を求めず、中国との対等な関係を勝ち取ろうとした。
(コメント:(1)に見える「漢委奴国王」は、金印の印字であり、『後漢書』では「倭奴国王」という表記である。「委」と「倭」、「倭」の略字として「委」が使われた、という説明が必要であろう。また、(3)については、倭の五王が忠節を尽くしたのは「宋朝」であり、それを倒して成立した「隋朝」は「敵」であった、という見方をとることは、中国側委員にはなぜできないのかな?)

●倭が国内で統一と発展をなしとげ、(好太王碑文に見られるように)同時に朝鮮半島で不断に勢力を拡大して行った頃、中国は「五胡十六国」の混乱を経て、南北朝時代に入る。
413年、倭は中国との通交を再開した。
420年、中国南方で劉裕が晋に代わって宋朝を建国し、439年には北魏が中国北方を統一する。
この期間に相継いで中国の南朝と友好関係を築いた倭国の讃、珍、済、興、武の五人の大王は、『日本書紀』所載の仁徳、反正、允恭、安康、雄略の五王であると多くの研究者がみなしている。
(コメント:倭の五王が日本の正史『日本書紀』に全く出ていないことについて、中国側の意見はないのかな?)

●倭王が百済を都督しようとする要求を幾度提出しても許可されなかったとはいえ、朝鮮半島における勢力を包含する名号が中国の皇帝の認可を得たことは、東アジア諸国関係における倭国の地位を相当程度に引き上げ、倭王の国際的な声望を高めた。
(コメント:この宋朝から与えられた名誉ある称号、新羅も任那もも倭国の配下であるという栄誉あるできごとが、全く日本の正史『日本書紀』に出ていない、この大きな謎を見過ごす中国側委員の目の節穴化が心配です。)


第2節 「白村江の戦い」と東アジア関係

●隋朝が中国を統一したにもかかわらず、倭王はさらに冊封を求めることも受けることもしなかった。そればかりでなく、国際的地位と文明程度の向上に伴って、対中関係の上でもますます主体意識を強め、中国と同等の地位を得ようとする態度を露わにしていった。第二回遣隋使の国書「日出処天子・・・」(日が昇る場所の天子から日が没する場所の天子に書を差し出す)と記し、第三回遣隋使の国書では「東天皇敬白・・・」(東の天皇が西の皇帝におうかがいする)ときしたことに、こうした態度が明らかに表れている。唐代初期に至るまで、中国に遣わされる倭の使者のこうした政治姿勢は、まったく変化しなかった。
(コメント:第三回遣隋使の国書は中国の史書になく、『日本書紀』にあるだけだが?なぜ中国の正史に記載されていないのか、についての考察も必要なのではないかな)

●(倭国の「日出処天子・・・」の国書に)煬帝はこれを不快に思い鴻臚卿に「蛮夷の国の書に無礼なものがあれば、二度と知らせるな」と言った。翌年文林郎裵世清を使者として派遣した。これは煬帝が倭王の国書を受け取っておらず、裵世清が倭に赴いたのも対等な国交の答礼使としてではなく、単に遠くから使者を派遣し朝貢にやってきた蛮夷の国に対して褒賞の意を表し勅諭を伝えるためだったに過ぎないと一般的に考えられている。
(コメント:何度も言うようだが、『隋書』には「俀国」であって「倭国」ではない。著者が言うように確かに裵世清は国書を帯同したとは隋書には見えない。『日本書紀』の国書を裵世清が持ってきた、とか、小野妹子が国書を盗まれたなどの記事は、「『日本書紀』には誤りが多い」として片づけているようだ。また、「・・・・一般的に考えられている」と述べるのは責任逃れのように思えるが?)

●(第一回遣唐使犬上君三田耜の翌年631年)使者が朝貢すると皇帝は使者が遠路やってくることを矜み、有司に詔して歳貢にこだわらなくてもよいとした。新州刺史高仁表(旧唐書では高表仁)を派遣し諭そうとしたが倭王と争礼が生じたため、天子の命を宣べることなく帰朝した。研究によれば、「争礼」とは「天皇、御座を下り、北面して唐使の国書を受く」という礼儀上の争いであった可能性が高い。
(コメント:各史書の記事の齟齬する部分の扱いは、後代に書かれた史書の方が正としているようだ。『魏志』の「邪馬壹国」→『後漢書』の「邪馬臺国」、『隋書』の「俀国伝」→『北史』の「倭国伝」、『旧唐書』の「高表仁」→『新唐書』での「高仁表」、『旧唐書』の「倭国伝と日本伝」→『新唐書』の日本伝などなど。)

●第一回遣唐使630年犬上君三田耜、第二回遣唐使653年高向玄理・学問僧と留学生を含む、第三回遣唐使654年新羅を助けよとの高宗の国書(唐会要)、第四回遣唐使659年蝦夷人を同道した・・・・、
(コメント:遣隋使・遣唐使で『日本書紀』と「中国の史書」との不一致について、著者にはその解釈が整理されていないようだ。『旧唐書』や『唐会要』にある朝貢記事が『日本書紀』には記されていないし、653年の吉士長丹の遣使は『旧唐書』には記載ないのだが、これは『日本書紀』の記事のあやまりとはみなしていない。つまり、自説に都合よく、というか補完してくれる場合には採用し、そうでない場合には『日本書紀』の記事は信用できない、としているようにとれるのだが?)

●白江口の戦い以前に両国間には多年にわたる往来があったにもかかわらず、隋唐中国の国際的地位やその力について倭が正確な認識を持たず、あるべきはずの重要視もしていなかったことが分かる。白江口の戦いは倭人の目の曇りを晴らし、倭人はそれによって唐朝中国の発達した政治文化と真剣に向き合い、学び、さらに自らの国家を建設し、自国の問題を適切に処理するようになった。
(コメント:両国間の問題として「隋の琉球侵攻」があるが、著者は全く触れないのは、琉球は日本と関係ない、という前提なのかな?また、百済と倭国の両王家間は姻戚関係にあったことが、倭国の行動への影響を与えたという説にも言及があってもよいと思うのだが。)


第3節 新羅統一が東アジア国際関係におよぼした影響

●倭国は長期にわたって朝鮮半島の経略を積極的に行ってきた。一方、隋唐は両代にわたって地理政治的な要因によって高句麗を攻撃、征伐していたとはいえ、隋唐王朝が朝鮮半島情勢に介入して行ったのはむしろ、主として朝鮮半島の新羅が巧に計画、実行した統一戦略にによって巻き込まれていったものだ。新羅の目的は朝鮮半島の大同江以南の三韓故地を統一することであり、そのため百済を消滅させることが主要な戦略的目的であった。
(コメント:中国は歴史的に朝鮮半島を支配下におこうと、漢代の四郡治や唐代の三都督府など、様々な機関を半島経略のために置いたことについては論じていない。なぜ?)

●新羅が唐朝を巻き込んだ方法は単純なもので、何かにつけて唐朝に新羅だけが東アジアの中で唯一信頼できる忠実な盟友であると思わせ、何事にも唐朝を頼みにしたのである。例えば、隋唐両朝が相継いで高句麗を攻撃、征伐した際、新羅は高句麗と盟を結ばなかったばかりか、643年には唐朝に対して百済が高句麗と親しく通交しており、党項城を取って新羅が入朝する進路を閉ざそうとしていると告発している。
(コメント:中国は鷹揚なライオン的王者で、新羅は狡猾なキツネ的な見方が著者の根源にあるようだ。)

●665年、新羅王金春秋は、また百済が高句麗、靺鞨の兵と北側の国境に侵攻し、すでに30カ所以上の城が落ちたと上表した。唐朝は新羅をこの挟撃からの危機から救うために高句麗を挟み撃ちにする体制を整え、高句麗を滅ぼすために先に百済を伐ってその重要拠点を占領しようと、百済を消滅させようとするのは必然の成り行きであった。
660年、百済は唐・新羅連合軍に一挙に攻め滅ぼされた。その後、百済の旧将福信と僧人道琛は周留城で抵抗し、王子扶余豊を倭国より迎えてこれを王とし、復国運動を展開した。
664年の第三回遣唐使帰国の際に、「王の国は新羅に近い。新羅は高麗と百済に侵攻されている。もし危急のことがあれば、王は兵を出して新羅を救うように」、と述べたが、倭国は自負心から勧告を聞き入れなかったばかりか、かえって唐朝に対抗しようという思惑をつのらせ、百済の復興を助けるために敢然と出兵した。
(コメント:この664年の第三回遣唐使の帰国の際の高宗が述べたというこの記述は、第一に、百済はすでに660年に滅んでいると著者が書いているのに年代的に合わない。
おそらく、この記事は、『旧唐書』高宗本紀に倭国から654年12月に遣使があったことを記し、『唐会要』巻九九に高宗がその使者に、百済と高句麗が侵攻した場合新羅を救援せよと命じた、とあるのに基づいて著者が年代を間違って記したものであろう。当時、近畿王朝の孝徳天皇は親新羅であったと伝えられていたことも高宗の頭の中にあったのかもしれない。ともかくこのことについての記事は『日本書紀』には有りません。)

●日本の史料では「白村江」とするものが多いが、その理由は未詳。韓国史料では白馬江であり、漢文資料は白江とする。
663年の白江口の戦闘については『旧唐書』劉仁軌伝の記述が最も詳細である。(中略)引用資料の記述からもわかるように、唐・新羅連合軍は綿密に計画を練っており、本来は水路の要衝である加林城を迂回し百済復興運動の中心地となっていた周留城を伐とうとしていたのだが、結果として思惑が外れ、逆に加林城付近の白江口で倭の水軍との間に大きな戦いがおこる。この海戦は唐軍にとっては、白江口で倭軍と戦闘がおこったことは全くの予期せぬ事態であった。(それは資料が「遇」という字を用いてこの事件を記している理由でもある。)

●(大体唐は対高句麗を主敵としていたのにこのような)鉢合わせによる戦闘がおこったのだろうか。その根本的な原因は唐朝が東アジア戦略の重点を南ではなく北に、倭ではなく高句麗に置いていたため、君臣上下の誰もが倭国や倭の兵を意に介していなかったからだと私は考える。
唐人のこうした意識は、『旧唐書』百済伝の記述と照らしあわせるとより明確になる。「扶余豊は福信が自分を殺そうとしていることを知って、側近を率いて彼を殺害し、高句麗と倭国に使者を派遣して援軍を要請し、漢軍に抵抗した。孫仁師は中途でその軍を迎撃してこれを破り、遂に仁願の軍と合流したので兵の勢いは大いに上がった。仁師、仁願および新羅王金法敏は陸軍を帥いて進み、劉仁軌及び別帥の杜爽・扶余隆は水軍と糧船を率い、熊津江から白江に向かって陸軍と合流し、ともに周留城に向かった。仁軌は扶余豊の軍と白江の河口で遭遇し、四度戦ってみな勝利し、船四百艘を焼いた。(後略)(『旧唐書』百済伝)
(コメント:ここに出てくる扶余隆という人物が元百済国王子であったことに著者は全く言及していない。扶余隆が百済降伏後唐に捕虜として連れ去られ、その後、唐朝に熊津都督として任命されて帰国したことは伏せられている。なぜか?)

●(孫仁師の兵が高句麗の兵を破り)兵の勢いは大いに上がり前途に強敵なしと考えた。そのため、白江口の和平もここでは「扶余豊の衆」とされ、捕えられた俘虜さえも、百済の附庸であるとみなされた。したがって戦いが終わると、唐朝の大軍の人馬は引き返して凱旋している。
(コメント:旧唐書の記述によれば、唐朝は倭国を特に軍事的に重要視していず、百済復興運動に若干の助力をしただけ、と見ていたのだ。したがって『日本書紀』が記す郭務悰らの6度の派遣という記事は必ずしも事実ではない、と言いたいようだ。次項参照)

●(『日本書紀』には)白江口の戦いの翌年(664年)「夏5月戊申朔甲子の日に、百済に駐屯中の劉仁願は朝散大夫の郭務悰らを派遣して手紙と贈物を届けた」とある。この後、665、667、669、671年にはいずれも唐朝の使者が倭に派遣された。この事実によって、日本の研究者西嶋定生は、事実上、白江口の勝利を契機として、唐朝の倭国に対する活動も突然積極的になったと考えている。またこれらの使節団は一回に船47艘、随員二千人を数えたこともあり、決して和平の使者ではなく、威嚇のために完全武装でやってきた遣使団であったとする。西嶋氏はさらに、666年に唐の高宗が泰山で行った封禅までも白江口の僭称と関連づけている(西嶋定生『日本歴史の国際環境』)。
(コメント:西嶋氏の見方を出してそれが日本側の定説として論じているが、『日本書紀』そのものの記述には、そのようトーンではなく、唐を敵対視するような記述はみられないのだが?)

●(唐からの威嚇的使節団であったという見方について)あきらかにこうした見方は敗戦側の倭国の感覚から生じたもので、客観的に事実を求める姿勢とはいえない。
まず指摘しなければならないのは、日本の史書に記載されているこれら唐人の遣使が、漢文史籍にはまったく見られないことだ。また、664年夏5月の「百済鎮将劉仁願」も存在しないことである。
白江口の戦いの後、劉仁願と孫仁師は唐の大軍を率いて凱旋帰国し、劉仁軌だけが駐屯するために残った。これは『資治通鑑』によれば663年9月のことであり、天子との会話にも百済に劉仁軌を残してきたことが出ている。664年劉仁軌が百済に駐留している兵の交代を陳情(上表)している。これらをみれば、『日本書紀』の記載は誤りだということがわかる。
(コメント:『日本書紀』の百済鎮将劉仁願の名が劉仁軌の誤りであったとして、それに係わる記事全体が誤り、という論理のようだ。)

●次に、資料には明確に記載されていることだが、白江口の戦役の戦いの後、「百済の城はすべてが再び帰順し、孫仁師や劉仁願らは兵を整えて帰還した」ので、勝利に乗じて倭軍を追撃し首都を脅かそうという意図はまったくなかった。そうした行動は唐朝の東北アジア戦略を見ても、白江口の戦役の遭遇戦という性質から見ても、合理的に理解出来ることである。

●(劉仁軌の上表によれば)兵は疲れ装備も十分でなく士気も衰えていて、このままだと高句麗と戦うに万全とは言えず、兵の入れ替えを陳情している。当時高句麗はなお「辺境の強国」であり疲弊した唐軍は百済に駐屯し、高句麗の勢力に及ばないことを恐れているのに、わざわざ遠方の倭の国との間に波風を立てるわけがないではないか。
(コメント:確かに唐朝が企図した、三か所の都督府設置による朝鮮半島の直接支配は、その後の経過を見れば唐軍の力不足で実現できなかった、のではあるが。)

●実際、唐朝中国の倭国についての理解には限界があり、倭国を上手く経略することはまったく不可能だった。『旧唐書』日本伝も記述には、「日本国は倭国の別種である。日の出の方向に国があるので、日本と名付けた。また、倭国がその名が雅やかでないのを嫌って日本と改めたとも言う。また、日本は古くは小国だったが、倭国の領土を併呑したという。日本人が入朝するときはおおかた自分を誇張して大きく見せようとし、実をもって応えようとしないので、中国はこれを疑った」とある。
これによれば、『日本書紀』の記述通り白江口の戦いの後に唐の使者が頻繁に倭を訪れたということが、仮にあったとしても、やはり百済の故地に駐屯していた唐軍の、虚勢を張って己を守らんとした示威行為であるにすぎないだろうし、滅亡した国から倭国へ逃げた百済の難民があおりたてたことも、敗戦側の倭国の過激な反応を後押ししただろう。総じて、唐朝中国の史籍にまったく記載のないということを考えると、唐朝と倭国の関係における重要な問題点について倭の側の一方的な言葉だけをうのみにしすることはできない。
(コメント:著者の言うことが今一つはっきりしない。『新唐書』の「実をもって答えず」というのを、「日本国は倭国の別種」ということをさしているのか、「倭国が単に日本と名を変えたのか」それとも「日本が倭国を併呑したこと」を指しているのか、あいまいである。『新唐書』が「日本伝」一本にまとめていて、天皇の系譜を述べていることをそのまま著者は紹介しているので、「倭国が単に名前を変えた」という立場をとっているようだが?)

●百済が滅亡すると、高句麗に侵略、占拠されてた百済の旧領地を奪い返すことが、おのずから新羅の統一事業の急務となった。666年、文武王は百済を滅ぼしたので高句麗を滅ぼそうと、唐に援軍を要請した。666年12月、唐は李勣を大総管、安陸と郝処俊を福管として高句麗を討伐した。
668年9月、高句麗は平壌で降伏した。(『資治通鑑』巻201)高句麗の滅亡は朝鮮半島で統一新羅(668~935)が成立したことを示し、これは東アジア国際関係史において画期的意義を有する重大な事件であった。
(コメント:熊津都督府を設置したとか、扶余隆が都督に任命されたが赴任できなかったことなどに全く触れていないのはなぜか?これについては次の第四節「渤海国の建国と東アジア国際秩序形成」の項で再度出てくるのでそこで改めて触れる)


第4節 渤海国の建国と東アジア国際秩序の形成
(コメント:倭国と日本という二つの国があったと記載されている『旧唐書』の記事の解釈や、倭国の日本国への改名問題、郭務悰の数度の来倭の意味など興味ある見解が述べられています。)

●実際のところ、白江口の戦闘がおこるまでは、倭の側ではつとに闘志を高揚させ、唐朝中国と優劣を争おうとしていた。661年1月、倭の斉明天皇は九州に赴き、自ら唐・新羅連合軍との戦闘を指揮しようとしたが、長旅の疲労により病に伏し逝去した。そのため倭軍の朝鮮半島出征計画は熟考を延期せざるを得なかった。研究によれば、白江口の戦闘においても、倭軍の自負や、自軍の実力への過大な評価、唐・新羅連合軍の実力の軽視などによって、無鉄砲な戦いを挑み、結果として惨敗を喫することになったことが分かっている。

●白江口海戦の惨敗は、倭国朝廷が全く予想していなかったことであった。心情的には自信満々で唐に対抗しようとする興奮状態から、一気に閉塞状態へと落ち込んだ。唐朝の一挙一動のすべてが、倭国朝廷を恐怖に陥れ、大軍が国境に押し寄せ、列島の安全を脅かすのではないかと不安にからせた。
『日本書紀』の記述によれば、664年5月、百済駐屯の将軍は郭務悰を使者として倭国に派遣した。12月、郭が立ち去った後、倭王は命令を下して対馬島、壱岐島、筑紫国に防人と烽火台を設置させ、また筑紫国には水城も作らせた。翌年8月、さらに筑紫国に大野、基言肆の両山城を築いて唐軍の来週に備えた。
667年11月、唐の使者法聡が倭に到着する。まもなく、倭国は対馬海峡一帯に高安、屋島、金田の三城をそれぞれ築いた。
668年に唐朝が新羅とともに高句麗を滅ぼすと、唐朝が倭国に出兵すると噂されたため、倭は一方で河内鯨を使者として唐朝に派遣して虚実を探らせ、一方では高安城などの守りを固めた。
天智天皇はこうした危機的な国際環境の中で、心労から病を得て逝去したのであった。
(コメント:この中国側の見方は、『日本書紀」に記された「郭務悰の筑紫滞在」中に、対唐防御施設を作る、という矛盾した行為は、郭務悰関係記事はすべて『日本書紀』の記述の誤り、としているようだ。しかし、郭務悰が立ち去った後に各種の防護設備を倭王が造らせた、というのは、『日本書紀』の記事の唐使達の渡来・帰国時期を見る限り、彼らの目を盗みそのような大工事を行える筈はないだろう。面倒だが白村江敗戦以降の唐使達の往還の一覧を示す。

663年9月 白村江の敗戦  
664年5月 劉仁願・郭務悰 来朝 
  同年12月帰国   
665年9月 劉徳高・郭務悰ら254人来朝 
  同年12月 劉徳高ら帰国  
667年11月 司馬法聡来朝 
     同月帰国  
669年1月 李守真来朝 
  同年7月帰国  
669年11月 郭務悰ら2000人来朝  
671年 郭務悰・筑紫君薩夜麻ら2000人来朝  
672年 郭務悰 帰国

この、たび重なる唐使の来朝、それも大多数の長期にわたっている。著者が指摘するこれらの防衛施設は、白村江敗戦以前か、郭務悰の帰国後に造られた、つまり唐使が国内をうろうろしていた時期には造れる筈はない、というのが常識的な判断ではないかな。
他のところでは『日本書紀』の記述は信用していないのに、防衛施設を造ったところは事実と解するのは恣意的な判断ではないかな。
それよりも、捕虜になり郭務悰と一緒に帰国した「筑紫君薩夜麻」という素性不明の王族についての中国側委員の意見を聞かせてもらいたいものだ。)


●『新唐書』日本伝の記述には、「670年に使者を派遣して来て高句麗を平定したことを祝った。後に次第に中国の言葉を理解するようになって、倭という名を嫌って日本と改めた。使者の言葉では、国が日の出の場所の方角にあるので名前にしたという。日本はかって小国だったが倭を併呑したともいう。使者は実情を述べなかったのでこれは疑わしい」とある。
倭国が日本へと改名した理由とその時期については、学会ではすでに多数の研究が行われ多くの学説が存在している。

いま東アジアの視点からこの問題を検討すると、倭国が日本へと改名したのは、戦争による打撃を回避するためであった可能性が高い、とする説(台湾の徐先堯氏)にほぼ同意したい。一般的に、改名は670年前後に行われたと考えられているが、遅くとも河内鯨が派遣された669年すなわち唐と新羅が高句麗を滅ぼした翌年には行われていただろうと私は考えている。なぜなら、時期的に、百済と高句麗が相継いで滅亡したことは倭国が新たな国名に変えようとするに充分な動機になり得るし、「河内鯨が出使して高麗を平定したことを祝った」ことはことは国名を改めたという情報を広めるのに格好の機会であったからだ。
(コメント:まず、著者は、「使者は実情を述べなかったので、これは疑わしい」ということ自体は正しいと思うが、それを「日本は元小国だったが倭を併呑した」ということが疑わしい、というように持っていっている。『旧唐書』の二国併記について考察を深めてもらいたいものだ。

また、唐の武則天(在位690~705年、則天武后ともいう)による承認(『史記正義』の「武后、倭国を改めて日本国と為す」の記事)、という説については何も述べていないのはなぜ?国名変更を、単なる改名というように持って行きたいように見える。しかし、『旧唐書』で、「倭国」と「日本」の地理的表現は明らかに異なる。それにも頬かむりしてよいのかな?

それに、武周朝の時期は中国の宮廷内は恐怖政治であったという。対外的な任務に携わる官人・軍人の任務遂行に影響があった、と思われるのだが、中国側委員は則天武后という中国唯一の女帝統治期間について、東アジア情勢に影響があったのかどうか検討した様子がないのは不審だ。当時は近畿王朝も女帝輩出状態であったのだが。)


●(河内鯨の遣使後は)701年に第八回遣唐使が派遣されるまでの間、三十年あまりにわたって日本と中国の間には一度も使者の往来がなくなるが、その理由は主に両国と統一新羅との関係が転倒したからである。
(コメント:670~701年の間、日中の往来がなくなる、という中国側の歴史認識は「郭務悰」の存在を(中国の史書に見えないという理由で)無視したための大きな誤りではないかな?
この期間には『旧唐書』や『冊府元亀』には泰山封禅の儀(666年)に倭国代表が参列しているようだけれどなぜ無視するのかな?)


●すでに657年に、倭国が、新羅と百済の紛争において百済に肩入れしたことから、新羅は倭国との正式な通交を断絶していた。しかし、高句麗が滅んだ後は、高句麗の南部領土の帰属をめぐって唐と新羅との間に確執が生じ、新羅は同年(668)のうちに日本に使者を派遣した。
その後700年までの32年間に、新羅は日本への使者を合計29回派遣し、同時に日本も新羅へ使者を11回派遣しており、両者の往来は平均で1年1回以上となり、恒ならぬ密接さを見せている。
この時期の新羅は唐朝に対抗するという目的のために、日本との良好な関係を必要としていたことは明らかである。また日本も地域政治のなかで勢いに乗じる機会とみなして、唐朝と関係を改善する機会をを放棄してしまったのである。
(コメント:ここでも「郭務悰ら唐使の倭国滞在を無視する」という、偏狭とも言われてもおかしくない見方が根底にあるようだ。)

●ところが7世紀末に唐と新羅の関係が次第に好転してくるに従い、新羅と日本との関係は再び冷え込み、日本人もついに目を醒ますこととなった。7世紀と8世紀の変わり目に東アジア国際関係の重大な転機が現出したのは、主として中国東北部に渤海国(698~926)が現れたからである。
高句麗滅亡の後、唐朝はさらなる経略を行わなかったばかりでなく、設立したばかりの安東都護府を朝鮮半島の平壌から遼東へと撤退させた。それは唐朝の戦略に限界があった=和平共存という中国の伝統的思惟の影響があった=ばかりでなく、西方で吐蕃王朝(629~846)が台頭してきたからでもあった。
コメント:中国は朝鮮半島を直接支配したかったと見るのが客観的な見方ではないのか。ここで著者が「和平共存という中国の伝統的思惟」といったり、郭沫若の「実事求是」の精神で判断すると中国側の序言で言ったりしているのとは異なる判断基準がみられるようだ。
しかも、670年から676年が唐新羅戦争の期間である。倭国に滞在中の郭務悰が帰国するのが『日本書紀』によれば672年5月である。この朝鮮半島の動乱と無関係と思われないが著者の言及はない。)


●(吐蕃の勃興は)東突厥にも復興の機会を与えることになった。(中略)ついに682年東突厥汗国を建国した。(中略)東突厥の復興によって唐朝の辺境で大きな騒擾が生じ、唐朝は東部の防衛線をさらに収縮させざるを得ず、東北部の辺境防衛にあたっていた営州(現在の遼寧省朝陽)の兵力をも東突厥の平定に振り向けることになった。(営州の重要性 中略)
営州で騒擾がおこったことは、東北アジアの政局に東北アジアに大規模な連鎖反応を引き起こした。(中略)696年、まさに武周の朝廷が吐蕃、突厥の双方と戦いに悩まされ、腹背から敵の挟撃を受けていた時、営州は契丹系反乱分子に占拠され一年有余続いた。(中略)

渤海靺鞨の興起は唐朝に新羅との関係改善と同盟関係の修復を促した。渤海は建国後、中国東北部で勢力を拡大するばかりでなく、朝鮮半島にも領土を広げようとし統一新羅の発展を阻害した。唐朝は渤海の国力を充分にけん制するために新羅と良好な関係を保ち渤海とを両面から抑制する必要があった。また新羅も中国との伝統的な友好関係を回復させることを望んでおり、一面では唐朝との同盟関係を頼みに渤海と政治的に拮抗しようとし、また一面では唐朝の先進的文化を大いに吸収し自国の発展を促そうとした。

●唐と新羅の政治的関係に重大な変化が生じたのはやはり8世紀30年代初頭である733年に唐玄宗が新羅に対し渤海を挟撃するための出兵を要請すると、新羅はすぐに積極的に呼応した。この時の軍事活動は冬季で雪のために撤兵することになったが、新羅の誠意に報いるために、唐朝は新羅の国境の北辺を現在の大同江と定めることを正式に承認している。これにより両国は長期的な友好関係を保ち、全面的に発展する段階に入った。
(コメント:大同江は平壌南部を流れる河である。5世紀以後の高句麗の首都でもあった平壌を含む旧高句麗領域は新羅領とならなかった。旧高句麗領域に、のちに渤海が興る。国定韓国高等学校歴史教科書の古代史では、高句麗や渤海も現代韓国の祖国として取り扱っているのだが中国側の見解はない。)

●総じて、8世紀30年代に唐と新羅が同盟関係を回復した後は、両者の連携関係は日増しに密接になり、こうした関係は統一新羅の社会発展にとても有利だった。
8,9世紀、唐と新羅の戦略的連携を軸に、東北アジアの政治的形勢は程良い均衡状態を保つになり、これによって国際秩序は二百年間近い安定した情勢を維持することとなった。

●日本は白江口における惨敗を教訓とし、天智天皇以後の歴代天皇はいずれもその原因を深く反省した。そうした中から彼等は、当時の日本が唐朝に対抗できる国力を持っておらず、日本が東アジアの強国となるためには、中央集権体制を整え、王権を確立し強化して、富国強民の国内政策を行わなければならないと悟った。事実、白江口の戦いの後四十年近い努力を経て、日本は様々な面で長足の進歩を遂げた。日本の統治者たちが白江口での惨敗によって得た第二の教訓は、日本の政治、経済、文化を迅速に発展させるには、平和な環境が必要なばかりでなく、さらに大陸の先進文化を吸収しなければならないこと、そのためには近隣の国家と友好的な関係を確立することが極めて必要であることを深く身にしみて理解したことである。よって、続く奈良時代は対外関係の新時代となる。
(コメント:何かお説教を聴いている感じがする歴史叙述である。
ここでもう一つの当事者新羅の言い分を現代の『国定韓国高等学校歴史教科書』のこの当時の記述をみてみるのも参考になるだろう。その教科書の「III 古代社会の発展 3 三国統一 新羅の統一」の項を紹介する。

【百済、高句麗が倒れると唐は百済の昔の土地に熊津都督府をおき、再び高句麗占領以後、平壌に安東都護府を設置し、はなはだしきは新羅本土に鶏林都督府をおいて、韓半島全体に対する支配権を確保しようとした。これに対して新羅は百済、高句麗の遺民と連合して、唐と全面的に対決した。
新羅の対唐戦争は、百済地域の駐屯軍を攻撃することから着手され、つづいて高句麗地域まで広げられた。唐もやはり新羅の攻撃にあって、侵略軍をひきつづき投入したために熾烈な戦闘を各所で展開した。新羅は買肖城で唐の20万の大軍を大いに撃破し、いったん戦争の主導権を掌握した。つづいて、錦江河口の伎伐浦でも唐の水軍を殲滅し、唐の勢力を完全に追い出したことによって三国統一を成し遂げた(676年)。
三国統一は、その過程で外勢の強力を得たという点と、大同江以南の統一にとどまったという点で限界がある。しかし、新羅が唐の勢力を武力で追い出した事実は、三国統一の自主的性格をみせている。(後略)】

この文章と中国側委員王勇氏の論述との違いは明らかです。さてどちらが真実に近いのでしょうか?)

●白村口の敗戦の後、特に日本が唐朝文化を学び律令制国家を建設した後は、その国策は地域政治へ積極的に参与したかっての姿勢から国内政策へと収斂し、平和と成長の方向に転向している。森公章氏の近著『白村江以以後】第3章第5節 「消極外交への返還」と題し、半島外交の放棄、耽羅の援助要請の拒絶、唐朝との通交の回避、新羅の朝貢、唐風化のモデル、「小中華」観の形成といった内容が述べられている。
これらはもはや明確に説明することができる。第八回以後の遣唐使は唐朝文化の学習に力を入れるようになったとはいえ、決して唐に冊封を求めようとはせず、「蕃国」と同等の地位に甘んじており、従前と比較すると、これらはみな政治の内向的な収斂の表れとみてよい。
(コメント:著者が言う「従前と比較すると」とは、どういう意味なのか。「東の天子」を自称した聖徳太子の対中国政策という意味だろうが、「東の天子多利思北孤」の正体の解明なくして、その政策変更の理解は難しいことが分かる。)

●(この国策の変更は)第一に海外に派兵する軍事作戦を行わなくなったことである。文献の上では(『三国史記』新羅本紀八に、日本兵が300艘で新羅東部に襲来とある)何度か新羅征伐が記載されているものの、いずれも実行には至らなかったようだ。
第二に、地域政治に関して交代して防御の体勢を取っていることで、白江戦の後および安史の乱の時なども同様である。
第三に、保守的な外交を行っていることである。8世紀からは新羅との往来が次第に減少し、779年以後は両国の国交はすっかり途絶している。唐朝との間では文化の学習が主であったため、得るものは多くあたえるものは極めて少なかった。渤海との関係は唐朝との関係とは逆で、おもに渤海の側が海上貿易を発展させることを望み、日本側は極力これを制限しようとした。
(コメント:日本と新羅間が疎遠になったのは、唐ー新羅間が険悪になっていたことと関係があるという視点がないがそれでよいのだろうか?)

●海の向こうから艱難を乗り越えてやってきた渤海の貿易使節団を追い返したりしていると、後に、いわゆる「海賊」が誕生することになった。こうしたことから、一部の研究者が描いている「小中華」という華麗な外見の下には禁輸鎖国の実態が隠されていたことが分かる。
周知のように、日本のいわゆる律令国家とその極めて特徴的な伝統文化は、主にこの時期に形成されている。それはまさの「塞翁馬を失うも、いずくんぞ福にあらざるを知らんや(塞翁失馬、安知非福)」という通りであり、この時期の歴史を回顧することは大いに啓発される所がある。
(コメント:王勇氏の論文に、白村江後の内戦「壬申の乱」についての評価が全くない。日本の歴史の転換点のこの権力闘争に無言なのはなぜかな。最後の「塞翁が馬」には同感するが。)



第二部第一章 古代中国文化の日本における伝播と変容  宋成有

●本章では古代の中国の日中両国の文化の関係を如何に理解し捕えるべきか、すなわち古代中国文化の日本への伝播、古代日本の中国からの異質な文化に対する導入過程における適応と創造、日本文化の形成とその特徴、古代文化と日本伝統文化の関係などのいくつかの問題をめぐって、一つの見方を提示し、共に討論を広げることを期待したい。
(コメント:中国側の委員の発言は総論とか原則ということでは素晴らしい発言をされますが、各論ではかなり姿勢が違った発言が見受けられるようなです。宋成有氏の場合はどうでしょうか?)

第一節 古代中国文化の日本への伝来

一.日本に伝わった中国古代文化の要素
(コメント:この章では膨大な論述がありますが、常識的な記述はわざわざ紹介するのも煩雑ですので、気になったところのみ著者の記述を紹介します。時間のある読者の方は、外務省のホームページに報告が出ていますので、そちらで原文を読んでみてください。PDFファイルのURLは次です。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_c_translate.pdf )


(1)漢字(略)

(2)儒教(その渡来から奈良・平安期に至る儒学について著者の主張の要旨)
儒学が日本に伝わったのは『日本書紀』によると、応神天皇16年(285)に百済から自らを漢の高祖の後裔という王仁が『論語』などの典籍を持って渡来したという記録が最も古い。6世紀の継体・欽明両天皇の時代には百済王の命を受け、数多くの五経博士が海を渡った。大化改新後、大学寮と国学などの教育機関で『論語』その他の儒学の経典が講義され、751年に編まれた『懐風藻』は、王仁の啓蒙以来日本が「気風は儒学に傾斜し、人は斉魯に趨く」として礼儀の国になったと称賛し、漢唐儒学が日本に伝わった社会的効果をはっきりしめしている。(以下略)
(コメント:儒教には女性蔑視という基本的立場があると聞く。儒教が伝わった日本で、10~11世紀に紫式部や清少納言など女流作家が輩出したことと、儒教の影響についての考察が無いようだ。
儒学の中の女性蔑視思想について中国側委員の意見(自己批判)が見られないことだ。
古代の日本社会における女性の地位は、「卑弥呼」、「天照大神」、数多くの「女性天皇」、数百の「万葉歌人」や「物語」「日記類」などの女流作家が存在したことでうかがい知れるように、かなり高かったようだ。
孔子の弟子の子夏の『礼儀喪服伝』で、孔子は『礼記』では「家にあっては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従う」と言っている。このいわゆる「三従の道」で見られるように、女性を一段と低く見て、後年(唐末?)てん足などという奇習をも生んだともいえるのではないか?(儒教が後年、朱子学・陽明学と姿を変えて統治手法としての利用価値が認められて、儒学は日本で復活したのではないだろうか。)

(3)道教(略)

(4)漢訳仏教(略)

二.伝播の特徴

(1)絶え間ない伝播(略)
(2)伝播ルートの多様性(略)
(3)広く深い影響
(コメント:この「広く深い影響」で、稲作文化が述べられる。この部分がちょっと気になるので、著者の意見を紹介しておく。

●中国から有形無形の文化が次々と絶えず日本に伝わり、広範な影響を及ぼした。
そのうち、稲作文化は日本に伝わってから、日本に根付いて芽を出し、たくましく成長し、永く続く農業構造と食生活に影響を与えた。
最近の考古学的発掘と測定分析によれば、うるち米の栽培は少なくとも7000年前に、中国長江中下流域の広大な地域で行われていた。
1973年に浙江省の河姆渡遺跡で、平均の厚み約40~50ミリ、総重量100トンを超えると見込まれる籾の堆積層が出土した。
2007年の杭州跨湖橋遺跡の考古発掘では、中国の水稲耕作は7700年前に始まったことが更にわかった。朝鮮半島あるいは東海(訳注:東シナ海)を横断する海上の道を通り、縄文末期と弥生時代にうるち米の栽培が日本に伝えられた。
1978年福岡市の板付遺跡では、土器の中で炭化した籾殻の痕跡が見つかり、、水田と水路遺跡などが発見され、大量の物証がえられた。
(コメント:この論述には首肯するが、雲南省とかアッサム地方が原産地であるとされた従来の見解が覆されたのは、「ジャポニカ」種という遺伝子研究から中国長江が原産地とされたというように記憶する。「ジャポニカ」という言葉に拒絶反応があるのか、単に「うるち米」という表現になっている。
また、「縄文末期~弥生期」に渡来として、絶対年代を入れていない。「稲の渡来」時期については、今回の宋成有氏に限ったことではなく、「日中歴史共同研究」の中国側の他の論者にも共通している。中国正史に記載のある「徐福伝説」に外れないような気配りかな、と思うのは僻目かな?)

●(以下要約)そのほか、①思想面では儒学、②政治の面では律令政治、③文学史学の面では漢詩や日本書紀ほかの史書の編さん、④芸術面では、唐楽を取り入れた雅楽、唐風建築様式、彫刻作品、水墨画、書道など中国のものを基としていないものはなく、⑤教育面では、『論語』、『四書五経』、『千字文』など各種の書物が教科書として長期に渡って伝えられ、⑥科学技術面では、天文、暦法、地理、漢方医学、数学知識が続々と伝わり日本で喜んで伝えられている。⑦節句や祝日の面で、中国の元旦、端午、七夕、重陽などの節句が伝統的な日本国家の祭日となっている。
●要するに、古代中国文化を離れての日本の伝統文化の形成と発展は、想像しがたいということだ。中国の文化要素の客観的な存在を否定するのは、学術研究の健全な発展にとり、害こそあれ益のないことで、結果として徒労に終わるものである。
(コメント:「中国の文化要素の客観的な存在を否定するのは云々」と、存在しているかどうかわからないとする極端な説が日本に蔓延している、という前提での論述のようだ。著者に日本の現状について錯覚があるようだ。次節で著者は「中国文化の導入過程での変遷と創造」について述べているので、このような当方の疑問に感じた部分が解消されれば幸いだが。)



第二節 古代日本における中国文化の導入過程での変遷と創造
(コメント:これも長文ですので、当方が気に入った、または、気に入らなかった文章を取り上げています。詳しくは、次のURLで原文を検索されてお読みください。http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/22/1/0131_01.html . 

●日本固有の文化について言えば、古代中国から導入することが必要だった。同時に、中国から来た「異文化」は日本に根を下ろして成長し、古代日本の朝野に創造性を発揮することを求め、加えて国情、政情の変容に合わせ、次第に内在化して日本の伝統的文化となった。古代日本が中国文化を導入して変化させ吸収し、本土化させていった事例は枚挙にいとまがない。紙幅に限りはあるが、僅かに以下の例をあげて説明する。
(コメント:この文章を読むと、中国文化が主語で、それが主体的に日本の風土に合わせて根を下ろした、というような「上から目線」が気になるが、まあ常識的な総論ではあろう。)

●1.仮名文字の創造
(歴史的経緯の部分省略。まとめとして)
漢字そのままの模倣から漢字の読音機能を選ぶようになり、万葉仮名が創られた。さらに片仮名、平仮名を創造し、それに漢字を加えて和漢混合文という民族文字を作ったことは、古代日本人の文化創造精神をあらわしている。
表音の仮名と、意味を表わす漢字を取り交ぜて使用する日本語は、中日両言語系の隔たりを巧妙に乗り越え、聞く、話す、読むと、書くことが一致しないという矛盾を克服した。ゆえに今に至るまで用いられているのである。
この文字は、体内的には日本各地の複雑な方言による難題を解決するのに有益であり、対外的には東アジアの国際文化交流に有益であった。それによってこの文字は活力に満ちていたのである。
(コメント:最後の「対外的には東アジアの国際文化交流に有益であった」というものの具体例が示されていないので、今一つしっくりこない。)

●2.『記・紀』編纂者の中国の宇宙観および歴史観の活用
(コメント:この問題は興味があるが、当方の手に余るので今回はスキップ)

●3.道教要素の吸収と変容
(コメント:これについては、日本の研究者、増尾伸一郎の、道教と日本の陰陽道、密教、神道、修験道、庚申信仰、風水説との複層的関係の研究成果を紹介している)

(まとめとして)上述の日本の学者の研究により、道教は日本に伝わる過程において、神道、陰陽道、修験道などの宗教の中に溶け込み、道教の宗教団体は作られていないものの重く用いられた宗教要素として、その他の教派と教団の日常的な活動の中に活きており、日本の社会生活に影響している、ということについてより突っ込んだ説明がなされた。

道教が古代日本人に取り入れられ、改造され、活用された過程は、日本が「異文化」を吸収する際に採用した、典型的な取捨選択して自分のために用いる方法だったのであり、儒学、仏教の輸入方法とは明らかな対象をなしている。どうしてそうなったのかという原因については、人により見解が異なり、引き続き議論されることが期待される。
(コメント:この項において著者は自分の考えを示さず、単に日本の研究者の説を紹介するにとどめる。日本人の研究が理にかなっていると思って紹介しながらも、議論がもっと深まれば、などと不満があるかのような叙述が気になる)

●4.江戸時代国学の形成と活発化
国学は、またの名を「皇朝学」、「和学」といい、廃仏し儒を斥け、古代の「神皇之道」を復興しまた発揚し、日本固有の民族精神を奮い起すことを唱導した。国学は江戸時代中後期に盛んになり、文化の本体意識を樹立する努力をはっきり示した。(以下著者は、国学の唱導者下河辺長流、契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などの考えを簡潔にまとめているが省略。)
(まとめとしての論述で次のような記述がある。)

国学が古道「神皇の道」を極めて崇拝したことは、神道という衣の下に隠された尊王攘夷思想を鼓吹し、幕末政治闘争に思想的武器を提供した。没落社会集団の没落感情と精神の求めを反映するものとしての国学は、その価値基準が複雑で、互いに矛盾してさえいる。国学の積極的働きは時代の進歩に反比例し、「神国論」、「日本優越論」などは近代日本の対外拡張思想の根源のひとつとなった。(以下略)
(コメント:よくまとめたものだと思う。)

●5.武士道の形成(略)
(コメント:この論述の最終部分を紹介しておく。【文化史の意義から見れば、武士道の形成と普及は、日本の統治階級が自身の要求に合わせて、朱子学から選び取り、それを変容させ日本化させた結果なのである。】とあるが、「文化史の意義」など説明が抽象に過ぎている。武士道が普及したのは、統治者が朱子学を自分の都合のよいように選びとって「武士道」と名付けて普及させた、ということなのかな?)、



第三節 日本文化の形成とその特徴

●大陸文化を取り入れ活用する過程において、徐々に日本の文化が形成され、その民族的特徴が表面化してくる。
(コメント:「大陸文化」というくくりによって、中国および沿海州、朝鮮半島からの文化としているようだ。ともかく、総論的には優等生的な記述が例によってなされているのだろう、と思ってしまうのは先入観に過ぎるのだろうか?)

●一.自我意識の形成と民族文化の発展

七世紀、遣唐使が倭国を日本と改めたと宣言したことや、八世紀初めに国史が編纂されたことは、自我意識の観念が形成されたことを示しており、これは民族文化を発展させるという思想の原点である。
平安時代の「国風化」あるいは「和風化」の過程は、文化史においては、日本の民族文化が発達した過程でもあり、また奈良時代の「唐風化」の論理が発展した結果でもある。
主として次のように表現される。(以下略)
(コメント:著者は、平安時代の「倭絵」の流行、『古今和歌集』や天照大神は大日如来の化身とする、「神仏習合」などの例をあげている。鎌倉時代になると・・・・「神国意識」が流行し、元寇での勝利の原因の解釈であるだけでなく、文化的に心理上に現れた自尊心、誇り、さらには傲慢な優越感を強調したとする。以下、室町・安土桃山・江戸の各時代の文化の特徴をのべている。)

●二、日本文化の特徴

(著者は、日本文化は欧米学者の「恥の文化」、日本の学者の「雑種文化」、中国の学者の「多元文化」という表現を紹介し、中国の学者の研究について周一良・王金林・厳紹湯玉・王家驊・魏常海・管寧・王勇氏等のそれぞれが捕えた特徴を要約して紹介している。そして「世界の文化という林に咲いた一輪の独特で珍しい花として、日本文化の特徴は次のとおりである」として次の項目に従って説明する。)

(1)開放的な「ダイナミズムを持つ文化」(以下説明は略)

(2)多様性文化。(略)

(3)二重性文化。日本文化は膨大な物質的精神的要素の運搬役として、互いの矛盾を排斥し、また互いに依存し合い補い合うという多元的属性を内包している。その中で、開放性と閉鎖性、受容性と排斥性、革新性と保守性、曖昧性と極端性、卑下性と傲慢性が共存しており、深い印象を与える。(以下略)
(コメント:中国の学者の方々は、抽象的な論述には熟練しているようだ。)

(4)実用性文化。中国文化の吸収の過程で)国情を勘案し、外来文化を推し進めるのに必要な選択、消化、吸収が、自らのために必要な実用性を際立たせ、次第に日本文化の一つの特徴となった。「唐化」の風が吹き荒れた奈良時代にあっても、科挙制度と宦官制度は取り入れず、江戸時代の朱子学で日用の理と奉公の意識などの事例を強調したことなど、いずれも日本文化の実用性を体現している。

(5)日本文化の核。
精神意識と民族の性格は各国の文化に深く焼き付いている。そのうち、不変を持って万変に対応する強烈な自我優越意識は、日本文化の基本を成す核である。
(コメント:著者は、中国文化が「中華意識」そのもの、という「自我優越意識」がない、とでも思っているのだろうか?)

これは、他者との境界をはっきりさせる日本人の個の意識と、日本国に対して賛同する群衆意識として表現される。
古代には天の助け神の助け的な「神国」意識を唱え、近世の「日本中華論」や国学の廃仏斥儒、近代天皇の「万世一系」の「家族国家」観念、現代の「世界のリーダー」という自我の位置づけなど、一貫した「自我優越」の理念を示していないものはない。
と著者は断じ、その原因を、気候温暖な環境、四方を海に囲まれた地理的条件からきているとする。そして、)
16世紀中期ヨーロッパの「西学東漸」と19世紀初期の欧米の「西力東漸」の二度の衝撃は、中国文化を中心とする古代東アジア伝統文化の枠組みを変え、日本が頭角を現した。(中略)
鎖国時代には、蘭学が日本で発展し、近代日本の勃興に必要な新興の知識人、人材集団を育てた。これが近代日本が中韓両国に水を開ける重要な原因のひとつであった。
(コメント:中国では「古代」というと清朝あたりまで含めるようで、例えば「朱子学」の政治の場における日中での利用し方の相違を詳しく述べている。総論的な初めの部分と終わりの結語的な部分のみを紹介する。興味ある方はネット以外でも勉誠出版から出ていますのでそちらでどうぞ。)

●日本文化には固有の根があり、少なくとも縄文文化は日本で最初に登場した文化の源と見ることができる。これが問題の一面である。
また別の面では、感応タイプ古代日本文化は曖昧さから脱却し、文明時代に入ってからも、主に中国文化から強い影響を受けながら次第に成長していった。
このため、東北アジア漢字文化圏の全体構造と文化類型の分析から出発すれば、中国文化は外側から相手に対して最も大きな衝撃を発する源であり、文明時代にある日本文化はその衝撃を受ける分流となった。
最初の文化をベースに、日本文化は漢や唐の文化に浸潤され、急速にレベルが上がっていった。同時に後発文化としての優位性を発揮し、漢字文化圏の中で能動性を充分に備えた分流となった。

弁証法的な角度と発展段階論の視角から出発すれば、本源と分流の相互関係は、孤立して静止したものでもなければ固定的で不変のものでもない。
受け入れ吸収するプロセスにあって、中国文化は取捨選択されて融合されて日本化し、文化類型上の分流は次第に民族文化を創造する新たな源となっていく。言い換えれば、源泉と流れの関係は互いに影響しあい、転換していく関係なのである。
(コメント:何も「弁証法的な角度」という前置きは、その意味するところが曖昧であり不要な気もするけれど、著者にとっては必要なのでしょうか。)

●1.文化類型の相似性
一般に、同じ東アジア文化圏に属していても、中国古代文化はオリジナル型文化に属し、日本古代文化は派生型文化に属するとされる。それにもかかわらず、日中の古代文化はいずれも漢字文化圏、儒学文化圏、大乗仏教文化圏の同種の類型として存在しており、若干の相似性がみられる。(以下、朱子学を例にとって「相似性」の説明をしているが、 略)
(コメント:ここでも日本文化の縄文文化についての軽視が見える。)

2.文化類型が政治に与える影響の相違性
国により国情、政情、国民の状況が異なるため、文化は伝播していく中で自然とその土地の習俗に従う事を求められ、変化を生じる。日本について言えば、中国文化は畢竟外来の異質な文化である。このため、中国文化は吸収、消化された後、さらに民俗化あるいは日本化、つまり「国風化」されて、土着化してその国の伝統文化の一部分となった。このように、文化類型においては「同じ」中にも自然と「異なる」ものが出てくる。両国文化の交流とその変遷では、類似した事例は枚挙に暇がない。朱子学の伝播と変遷だけを例に取って見ても、国情、政情、民情の違いが導く文化類型による政治への影響は、似た中にも非なるものがあるという神秘のありかを見つけることはたやすい。(以下、清朝が朱子学を政治に用いた例と徳川幕府が朱子学を用いた例について述べているが、 略)

●以上をまとめると、日本民族の伝統文化はその形成と発展の過程において、中国文化の長くそして深い影響から離れることはできない。中国文化の影響を抜きにして、日本の伝統文化の形成と発展を語ることはできない。これは両国の文化類型が政治へ及ぼす影響の「異なる部分」と「同じ部分」の程度をどう判断すべきかということになるはずであり、文化の源泉と流れについて考察する際の基本的な視点にもなるだろう。
(コメント:総論とかまとめとかはうまい、と思う。以上で第二部第一章が終わり、第二章『人」と「物」の流動に入りる。三角縁神獣鏡についての中国側の見解も出てくる。)


閑話でひと休み

●「日中歴史共同研究」の中国側委員の論文を読んでいますと、日本の論文の引用が結構出てきます。王勇委員は、タリシヒコは朝鮮半島の日本の鎮将であったとする説がある、と木宮泰彦氏の『日華文化交流史』を参考文献にあげています。調べたら戦前に出版されたものですが、1955年に冨山房から再版で出されたそうです。戦前の版は中国語にも翻訳され1930年ごろ上海で出版されている、というので今回の中国の委員もよくご存じの本だったのかもしれません。

木宮泰彦氏を今まで知らなかったのですが、東京帝大史学科~京都帝大大学院卒で、東アジアの通交関係では有名な方だそうです。(1887年生~1969年没)
肝腎の「タリシヒコ木宮説」は次のようなものでした。(『日華文化交流史』の関係部分を現代かなに直しました)

隋書に記載された倭使通隋

遣隋使は普通推古天皇の十五年(607)小野妹子等を遣されたのを以て最初としているけれども、隋書東夷伝や、北史倭国伝を見るに、これより前に隋と通交したことが記載されている。隋書に曰く、開皇二十年、俀王(倭王)姓阿毎、字多利思比孤、号阿輩雞彌遣使詣闋(北史もこれに同じ)(注1)

隋文帝の開皇二十年(600)は、我が推古天皇の八年に相当する。このことは我が国史に何ら記載するところがないが、隋書は開皇二十年から僅かに二十二年を距てた唐高祖武徳五年(622)に、封徳彝・顔師古の二人がこれを修し、次いで太宗貞観三年(629)から魏徴等が再修し、同十年に成ったものであるから、この記事は先ず確かなものと認めなくてはならぬ。
ただしこれが我が朝廷から遣わされたものであるか否かに就いては、疑いを挟むべき余地がある。本居宣長は馭戎慨言に、「西の辺なるもののしわざ」であると論じている。

当時に於ける朝鮮半島の形勢を察するに、任那日本府が滅んでから、歴朝これの回復に努められたが、未だ成るに至らず、この時に当り新たに大陸に起こった隋は統一の業を完成し、更に海東諸国をも謀ろうとする形勢にあったから、韓土に遣わされいた我が鎮将などが、大陸の情勢を探らしむる為に、特に使節を遣わしたのかも知れぬ。
隋書高祖紀によるに、恰もこの年突厥・高句麗・契丹など東方諸国が多く隋に入貢していることなども併せ考えるべきであろう。(同書59頁)

(注1)姓阿毎、字多利思比孤というのは、天ノ足彦であろう。即ち彦は歴代の天皇の御諱に多くあるところで、殆ど天皇の御異名の如くであったから、隋書はこれを聞き伝えて斯様に記載されたものであろう。阿輩雞彌は唐類函に「其国号阿輩雞彌華言天皇也」とある。阿輩雞彌は大君〈オホキミ〉の音を写したものではあるまいか。異称日本伝に「多利思比孤、舒明天皇諱息長足日広額、訛曰多利思比孤。開皇二十年、当我推古天皇八年、舒明天皇為推古天皇後王、故混言之、阿輩雞彌、推古天皇諱御食〈ミケ〉炊屋姫、訛之也」とあるのは当たらないであろう。(同書60頁)



閑話休題、「日中歴史共同研究」に戻ります。

第二部第二章 「人」と「物」の流動―隋唐時代を中心に    王勇

(コメント:今回の取り上げる部分は「徐福伝説」が中心です。「正史」に「徐福」や「秦国」などが出てきますので、中国側の論者は熱心に論じます。
この論者、王勇氏は日本でも有名な方のようで、筑波大学で講演録が出版されています。)

●古今東西を問わず、地域間の文化伝播は「人」と「物」を離れることはできない。しかしながら、文化伝播のモデルは、時代にともなって入れ替わり、空間によって変化し、決して千編一律ではない。(中略)
地域間の文化伝播は、地縁・歴史・伝統・風俗などによってそれぞれ特色をもち、その内容と形式を画一化することはできない。
上述の考え方に基づいて、日中間の「人」と「物」の流動、とりわけ隋唐時代の日中交流史について考察するにあたり、充分に時代背景と地域的特徴に鑑みなければならない。

第一節 大陸移民の東渡

●大陸移民の東への移動の始まりについては、年代が古く史伝は詳らかではなく、今日となってはほとんど考察する手掛かりがない。しかし日本列島の早期文明の幾度かの躍進は、まさに外来移民が持ちこんだ進んだ金属器や生産道具、紡織技術などとの関係が密接である。
たとえば、紀元前後の弥生文化の遺跡に出土した炭化した籾そして貸泉や漢鏡など、5世紀前後の古墳遺跡で発見された三角縁神獣鏡や銅鐸そして馬具などは、すべて日本列島に原生した物ではなく、大陸と半島から伝わった「舶来品」か、もしくは外来文明の刺激のもとで変異してきたものである。
それでは、だれがこのような「舶来品」を携えてきたのだろうか。来文明(ママ)の刺激はまたどこから来たのだろうか。この時期の錯綜した歴史を整理し、伝説と史実のもつれをはっきりさせよう。

1.徐福と「秦王国」

●徐福伝説については、虚実定かでなく、これまで日中両国の間にまたがる手に余るほどの「懸案」であり、同時に文学と歴史の双方から熱心に議論されてきた話題であった。
もし民間伝承の中で敷衍されて出来た虚構の部分を除き、徐福を秦漢移民群のひとつのシンボルとみなして考察を加えれば、その中から屈折して映し出されたいくつかの史実は依然として関心を持つ価値があろう。
古代中国人の世界認識の中で、倭人は東海島嶼に生息する民族であり、それゆえ「東夷」と称した。許慎『説文解字』には「夷は東方の人、大いに従い弓に従う」とある。段玉裁が『説文解字注』の中で示すところによると、蛮・閩・狄・狢・羌などの民族はみな動物偏や旁にもって(ママ)構成されるが、ただ「夷」だけが「人」を意味する「大」の字を含有し、それゆえ「夷の俗は仁、仁の者は寿、君子不死の国あり」という結論を導き出している。
(寅七注:この『説文解字注』の「夷」「人」が入っているから君子不死という論理の飛躍についての見解を知りたい。
よその国は虫や動物並みとしているけれど、日本人は人とみなしていたよ、と言うのだが、よその国は虫や動物並みとみなした「中華選民思想」についての自己批判も必要なのではないかな。
「徐福」が中国の史書にでているということで、日本列島に徐福が稲作を伝えたのが「史実」という思い込みがあるようだ。)


(中略)孔子でさえもそのようなこと(君子不死の国というユートピア)を考えていたようだ。『論語・公冶長第五』には以下のようにある。「孔子曰く、道行われずんば、桴に乗りて海にうかばん。我に従わん者は、それ由かな。子路これを聞きて喜ぶ」と。
孔子は「いかだに乗りて海に浮か」んで、どこに行こうとしたのか。『論語・子罕第九』には孔子が「九夷」に赴こうとし、この問題をめぐって以下のような一段の対話がある。「子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰わく、陋しきこと、これを如何。子曰わく、君子これに居らば、何の陋しきこと有らん」と。
孔子は九夷が「君子が住む」ところ、つまり隠居して身を寄せるためのひとつの理想的な地であることを信じている。「九夷」の指す地区については、漢代の李巡が『爾雅』に注疏をつけて、「夷には九種あり。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙」と説明している。
(コメント:孔子は紀元前6世紀、 徐福は紀元前3世紀の人物で300年ほど離れています。 孔子が言う「君子の国」が徐福の国ではありえない、徐福が仮に秦国を作ったとしてもそれは孔子が目指したユートピアではありえない、のだが、この文章はなんとなくそのように誘導している感じがしたので、著者の出版物での叙述を当たってみました。それは寅七の思い過ごしでした。

王勇著『中国史の中の日本像』2000年農文協(東京)より出版 第三節 東夷観の成立について より。
【二千年も前のことで、今となって真実をすべて解きあかすことは不可能に近いだろう。徐福の時代に、秦王朝の中国統一によって、既得利益を奪われた人々、生活基盤を失った人々が、大挙して海外に移住し活路を求めたことは、歴史的な事実だったのである。これらの移住者は、無名のままに歴史のなかに埋もれてしまったのがほとんどで、わずかに人口に膾炙する徐福の名で一部の伝承を後世に残したということも、十分に考えられよう。】)

『漢書・燕地』の中に「楽浪の海中に倭人あり。百余国に分かれ、歳時を以って来たり献見すという」とあるのは、誰もが知る倭人の記事である。しかし論者は往々にしてこの記事の前提とする前置きを見逃している。つまり「倭」を孔子が「いかだに乗りて海に浮か」んで行こうとした九夷の地であるとみなしているのである。
東夷の天性は従順にして、三方の外と異なる。故に孔子は道行われざるを悼み、海にいかだを設けて、九夷に住まんと欲す。(著者中略)楽浪の海中に倭人あり、百余国に分かれ、歳時以って来たり献見すという。
この例によると、遅くとも後漢までに、倭は九夷の一つであり、君子が住んでいるだけではなく民の性質が従順であるとみなされている。『史記』や『海内十州記』などに伝えられる、徐福が東渡し仙薬を求めたことはもしかするとこのような心理状態と世相を反映したものなのかもしれない。
(以下、「徐福伝説」について述べているが、通説を列挙しているだけなので省略する)

(結論的に次のように著者は述べる)徐福が東渡したというのは結局のところただの伝説で、しかしこのような伝説は秦漢の間に大陸移民が日本に東進した史実を屈折して映し出しており、このような移民の中には技芸を身体につけた工匠や農民が進んだ大陸文明と生産技術をもたらしたばかりでなく、音楽・宗教・書籍の類などの精神文明さえもある程度まで伝播するにいたった。
(コメント:筆者の述べるところを論理的に検討すると、君子の国であった「倭」を、大陸文明が変質させたということになるのだけれど?)


2.「呉の泰伯の後裔説」

●呉と越はともに江南にあったが、古くより戦争がやむことはなかった。紀元前473年、越王勾践は呉王夫差を打ち負かした。『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫支庶が海に入って倭となったのである」とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。
倭人が自ら呉の泰伯の後裔だと称するのは、最も早くは魚豢『魏略』の「倭人自ら太伯の後と謂う」という記述に見え、この説は唐宋時代に『翰苑』、『梁書』、『通典』、『北史』、『晋書』、『太平御覧』、『諸蕃伝』など様々な史書に採録されることとなり、かなり広く流伝していたことがわかる。
泰(太)伯は古公亶父(周太王)の長子であり、礼によって天下を三男末子の季歴に譲り、孔子から「至徳」(『論語』)と誉め称えられた。泰伯と次男の仲雍は父のために薬を採るという口実で、遠く荊蛮の地に逃れ、髪を散らし、入れ墨をし、土人を教化し、義を慕い帰順するものはだんだんと増え、そして自ら国を建て「句呉」と号し、都を呉中(現在の蘇州市)に建てた。春秋後期に句呉の国力は強勢となり、北上して晋国と中原をめぐって争った。
紀元前473年、越王勾践は臥薪嘗胆し、兵を興して呉の地に攻め入り、句吴は遂に夫差の代で亡ぶ。「呉の泰伯の後裔説」が形成された下限は、『魏略』が成立した3世紀の後期にあたり、その時日本は中国と「使訳通ずる所三十国」であり、その中で女王が統率する邪馬台国が最も強勢であった。
(コメント:「30国の中でもっとも強勢だったのは邪馬台国」というが、『魏志』によれば、30国を統率していたのは邪馬壹国の俾彌呼であった筈です。著者は正史『魏志』を参照しないのはなぜ?)

●「呉の泰伯の後裔説」は日本民族の起原に関係すると同時に、大陸移民の東渡にもかかわるので、学会で注目を浴び、激烈な論戦が交わされた。たとえば村尾次郎氏は中国人の「曲筆空想」だと指摘し、大森志朗氏はこれは「漢民族の中華思想の産物だ」とみなす。また千々和実氏は綿密な考証を経て、3世紀の倭人の部落が体内的には王権を強化するために、対外的には威望を挙げる需要のために、自分たち民族の始祖を賢人泰伯と結び付けたと指摘し、「倭人自称説」を肯定している。

『国語・呉語』の記載によると、越軍が呉の都に入り、王台を包囲し、勾践は使者を遣わし夫差に「私は甬句の東に王をうつし、夫婦三百、王とともに安住し、王の晩年を見届けさせる」と伝言していった。甬句は現在の寧波沿海の一帯にあり、夫差は「夫婦三百」を伴ったが、流されて「甬句の東」に到り、その中の一部の成員が海に出て日本に到達したという可能性も、ないわけではない。
『新撰姓氏録』(815年)を調べると、「松野連」条の下には「出自は呉王夫差である」と明記されている。ここからわかるのは、ある程度の人数の大陸移民が「呉王夫差」を始祖として奉り、彼らは日本で「松野連」と改姓したけれども、なお祖先を忘れてはいなかったということである。

『魏略』の載せる「自ら太白の後と謂う」倭人は、『資治通鑑前編』によれば「海に入って倭となった」呉人の支庶にあたる。この説はさまざまな中国史書に記録されているので、その来源はこまごまとした個人の伝聞などではなく、ある部落の始祖伝説によるものに違いない。
もし上述の推断が間違っていなければ、これは3世紀後期以前に、日本に東渡した呉人がある部落国家(或いは連盟)を建立し統治したことを意味する。この部落国家(或いは連盟)は親魏的な女王に背馳して、呉国の創始者泰伯を尊奉して始祖とし、邪馬台国の統治する30国に属さなかったと推察される。
(コメント:三国時代に「親呉倭人国」が存在した可能性はあると思われる。だが、「倭国が呉人の流民による末裔が建国」、というところまでは「日本語文法に与えた中国語の影響が皆無」であることからして、言えないと思うのだけれど?
著者が言う「中国移民」は男性主体であり、子孫はできても、結局は現地女性のマザータング恐るべし、という結果となったのではないかな)

3.呉人・秦人・漢人

●4世紀の初め、中国では南北が対峙する情勢となり、北方では「五胡十六国」の混戦状態に陥ったが、南方は東晋の統治下にあり相対的に安穏であったため、戦乱が誘発した人口移動は主に北方に出現し、移民は主に朝鮮半島を経由して日本に侵入した。この時、日本列島も統一の足並みを加速させ、小国林立状態は結束に向かい、古墳時代が幕を開けた。

(以下この項の概略を述べる。日本の史籍『古語拾遺』に帰せられる秦漢の渡来人の記事や、『新撰氏姓録・左京諸蕃下』に記される呉人集団の和楽使主の記事など、呉人の移民の子孫と自称するものが20族あることなどを述べる。『日本書紀』に出てくる朝鮮からの渡来人弓月君も『新撰氏姓録』によれば彼は秦の始皇帝の五世の孫で大和朝廷で「秦造の祖」とされた。『日本書紀』にある「阿知使主は自ら漢の霊帝の後裔と称した、などと書く。著者注として自身の著書『呉越移民と古代日本』国際文化工房2001年、を挙げている。)

(そして、まとめとして)日本の文献で、漢人をまた「綾人」、「漢織」、「穴織」などと称しているのは、彼らが絹の紡織に堪能であったことを物語っており、そのほかには、張声振『中日関係史』によれば、金属加工技術に精通したものや、漢の高祖の後裔と自称する「王仁」など、文人学士も少なくなかったようだ。
(コメント:著者は日本の文献はよく調べているように思う。ただ百済の王仁や任那の弓月君も漢族扱いとなっている根拠は?)


4.三角縁神獣鏡
(コメント:中国に出土しないこの鏡について、中国の歴史学者の解釈は?日本製(東渡呉人作製説)と断じた王仲殊はどう評価されているのか。出来るだけ省略せず、紹介したい。)

●もし徐福伝説が中原移民東進の史実を屈折して映し出しているならば、「呉の泰伯の後裔説」はまさに江南移民東進の縮図である。秦漢の間には確かにいくらかの斉人と呉人は乱を避けるため海に出て生きる道を求めたが、しかし当時の航海条件に照らせば、大規模の海上移動はかなり困難であり、移民の主流は必ず陸路での東進であった。

大部分の移民は遼東で歩みを止め、半島に居を定めるものもおり、本当に限られた一部分だけが新しい移民の圧迫のもと東進を継続し、最終的に日本列島にたどりついた。日本の史籍のなかにある「呉人」、「秦人」「漢人」という記録がまさにこれらの移民である。
(コメント:前項の”『資治通鑑前編』によれば「海に入って倭となった」呉人”というのと矛盾するが?それに、日本の史書によれば、渡来人や渡来文物は、「百済王」や「新羅王」など半島の統治者の、直接または間接の意思によって日本にもたらされたものが、中国より直接の到来より、はるかに多いのではないかと思われるが?)

●「人」の移動は自然に「物」の流通を促し、移民は銅鏡・銅剣・鉄刀・陶器・絹織物・農具・楽器・馬具・薬・仏像などをもたらしただけでなく、水稲農耕技術・養蚕技術・紡織技術・金属加工技術・医薬技術・音楽演劇・文化知識なども伝えたが、これらはすべて誰もが認めるところである。しかし移民の貢献はこれに限られるものではなく、彼らは文化を伝えると同時に、また当地の伝統文化や風俗、さらには自然資源を吸収し、その土地の事情に適した措置をとり新しい文化を創造したのである。三角縁神獣鏡はその典型的な例証であろう。
(コメント三角神獣鏡は倭国産の立場のようだ。なぜか「銅鐸」は外されている。銅鐸は大陸由来と言えないのか、外した理由について述べないのはなぜ?)

●1950年10月、大阪和泉市の黄金塚古墳(前期)で発見された「景初三年」の銘文が刻まれた三角縁神獣鏡は、年代は『三国志・倭人伝』に載せる景初三年(239)に魏帝が倭の女王に「銅鏡百枚」をたまわったという記事と符合している。
1998年の統計によれば、各地で発見されたこの類の銅鏡はすでに485枚に達しており、特に畿内一帯に集中している。
(コメント:『魏志』によれば、明帝は景初二年十二月に、金印や銅鏡等を下賜する旨詔書している。中国側委員も景初二年は三年の間違い説に同意しているようだが、その説明がないのはなぜか?二年十二月だから三年でとしても問題ない、といういい加減さでの判断とは思いたくないが。日本の研究者の二年は三年の誤記説に同意したものとみえる。)

●銅鏡の制作場所をめぐって、学界では頗る争議(ママ)があった。ある意見では、銅鏡は日本で制作されたものだとみなし、つまり「国産鏡説」である。別の意見では、銅鏡は中国で製作されされたものだとみなし、つまり「舶来鏡説」である。銘文中に現れる「徐州」や「洛陽」などの地名と、「景初」や「正始」などの年号から判断して、多くの人がこれは魏の尚方局が作ったものだとみなしているのである。
(コメント:ここで著者は「多くの人が」という「多数決」的な論理を使っているが、学問的といえるだろうか?)

80年代初期から、中国の学者も論争に加わり、王仲殊・徐苹芳・王金林などが次から次へと見解を発表し、その中で王仲殊の提出した「東渡呉人製造説」は、日本の学術界で大きな反響をん引き起こした。ここに彼の主要な観点を要約すると以下のとおりである。
(1)三角縁神獣鏡は中国の境界内では現在に至るまで発見されていない。
(2)後漢から三国に至る時期に、江南地区では神獣鏡と画像鏡が流行していた。
(3)三角縁神獣鏡は画像鏡の外側と神獣鏡の内側を融合し、倭人の気風に合わせるために、中国の銅鏡にはない「笠松紋」を増やして、鏡体を大きくつくった。
(4)三角縁神獣鏡は日本に東渡した呉人が日本で製造したものである。
(コメント:この王仲殊説の筆者のまとめ方の論理に従うと、1980年代から武漢や上海で近代的な溶鉱炉を建設して高級銑鉄を生産したのは、建設指導した日本人である、という主張するのと同じよう思われれるが。また、ほぼ同じ時期に畿内では、巨大な銅鐸が製作されているが、その技術についての検討は?)

まさに王仲殊の観点が日本で大きな波紋を呼んだ時、1986年10月京都の福知山広峰15号古墳から「景初四年五月」と銘刻された斜縁盤竜鏡が発見され、兵庫県辰馬考古資料館もまた銘文や様式それに尺寸が等しい銅鏡を蔵していた。中国の歴史上には「景初四年」の年号がないため、この発見は「東渡呉人製造説」に根拠を補強することとなった。
銅鏡は鋳造するときに鋳型を用いるが、同じ種類の鋳型に流し込んで作られた産品を「同范鏡」と称しており、1998年奈良県黒塚古墳で出土した33枚の三角縁神獣鏡のうち、27枚がその他の地区で発見された銅鏡と一緒に「同范鏡」に属するものであった。ここからわかるのは、銅鏡製作は伝統を重視し個性に欠けており、ただ紀年に頼って年代を確定させるのは大変危険であり、ある条件下では「年号」でさえも形と構造、紋様、神獣の容姿、銘文と一様に、前代から後世に伝承することもあり得るのである。このため、ただ年号に頼って、これは魏の鏡であると確定したり、あるいは邪馬台国と直接関係づけることは、目下のところまだ明らかに証拠不足である。
三角縁神獣鏡の魏の年号と呉の様式は、二つの文化的背景を持つ集団が融合し共存したことが、新しい文化様式の誕生を促したという暗示なのかもしれない。
(コメント:呉人や秦漢人は日本列島のみならず東アジア全域に「流民」したことであろう。それがなぜ日本では特別に「開化」したのか、という考察があってしかるべきと思うが?
なお、著者は、河南省で三角縁神獣鏡が出土し河南省博物館に展示されているが、真偽のほどは目視しても判定できなかった、(2007年)と注記している。)
この河南省出土の神獣鏡については、最近報告書が出された、と朝日新聞が報じていた。中国に出ない、とされたのが出たというのでニュースになったのであろう。魏朝が卑弥呼に与えた鏡説に根拠を与えることになる可能性もあるが、出土状況など確認されなければならないであろう。

河南省出土三角縁神獣鏡記事










第二節 情報伝達と物の流通

●紀元589年、数世紀の南北分裂を経て、隋朝は陳を滅ぼして中国を統一した。東アジアの政治構造が一変し、周辺諸国は厳峻な外交選択に直面しただけでなく、内部に潜む様々な矛盾もまたこれに従って浮上した。
日本列島もそも余波を受け、激動する不安定な時期に入った。日本にはひとりの賢明な政治家―聖徳太子が登場し、内憂外患の中、推古朝政を管掌し、対外的には遣隋使を派遣して、大陸との直接的な交通を開拓し、先進文化を吸収して向上しようとつとめた。
体内的には制度改革を実施し、憲法と官制を制定し、天皇に集権して国家の基礎を固めた。日中間の交流は、ここから新しい局面が開かれた。
(コメント:こうまで日本の「定説」に従うのは、聖徳太子を「日中交流の基礎を作った人物」として持ち上げたいからだろうか?)

1.遣隋使から遣唐使へ
●『日本書紀』推古十五年の条に、大礼小野妹子を大唐に遣わし・・・」とあるあこのときの遣使については、また『隋書・倭国伝』大業三年の条にもあるため、学術界(ママ)では一般に遣隋使は紀元607年に始まったと認識されている。
しかし『隋書・倭国伝』の開皇二十年「倭王(中略)使を使わして闋にいたる」ということになる。

この時の遣使に関しては、日本の学術界(ママ)も多く疑義があるところで、これは九州の豪族が私的に遣わした使であると推測する者(著者注:江戸時代の本居宣長の『馭戎慨言』)もいれば、607年の遣使の重複誤記だと疑う者もいる。
『隋書』の中のふたつの遣使に関する記事を対照させると、まず、テキストによって倭王を「多利思比孤」または「多利思北孤」と表記することもあるが、「比」と「北」は字形が互いに近いので、二回の使節を派遣した者は同一の倭王であり、地方豪族の使節と中央政府の使節という区別はない。
(コメント:「北孤」と「比孤」のいずれかを取るか著者は単に似ている、というだけと問題していない。「比」であれば日本人によく用いられる「彦」に当てられる、ということで『隋書』版本に「北」とあるのを「よく似ているので書き違い」という日本側の取り上げ理由を、「正史」の記録をゆがめて解釈している、ということになるのではないかな。)

●次に、開皇年間の倭使は「高祖」文帝に謁見しているが、大業年間の倭使は煬帝に朝見しており、文帝の在位は仁寿四年(604)までであり、正史が帝号と年号をいい加減に記載することはない。さらに、文帝は「所司に命じてその風俗を訪ねさせ」たが、煬帝の時にはこのような内容はなく、これもまた開皇二十年の倭使が初めて到来したということの左証である。
(コメント:この、著者の論理が示すのは、『隋書』の記事にあるように多利思北孤の使いが、二度来隋したことと文帝が会ったのが最初の遣使だというだけであり、『日本書紀』を編集した近畿王朝からの遣使である、という左証にはならない。また、その使者が自分の国の政治体制を説明したのであるが、兄弟執政の体制と『日本書紀』が記す近畿王朝の政治体制とは全く合わないのだが。)

●同じ遣使が日中双方の正史に記載されるのは、遣唐使の事例から判断してさえ、その確率はそれほど高くない。
(著者注:日本正史の記載での遣唐使は16回だが、『旧唐書』・『新唐書』では12回で、そのうちの2回は日本の正史には見えず、双方で重複しているのはただ10回だけである。)
『隋書・倭国伝』では開皇二十年の倭使についての記述は具体的であり、内容は大業三年の記事と基本的に重複しておらず、そのため遣隋使は紀元600年に始まったとするのが割合妥当である。
(コメント:著者は多利思北孤の最初の遣隋使が日本の史書に載っていないのを、単なるミスとする。しかし、『隋書』帝紀にある大業六年(610)正月の倭国からの遣使についても『日本書紀』推古紀には記載されていないことも著者は無視している。ともかく、多利思北孤という国王の名前が日本の史書に見えない謎について一言も見解を述べないのはなぜ?)

●小野妹子を大使とした第二回の遣隋使では、隋の煬帝に向かって「海西の菩薩天子が仏法を重んじ盛んにしているとお聞きしましたので、朝に遣わされ拝礼し、沙門数十人とともに仏法を学びに参りました」と来意を表明している。
第一回の遣隋使には留学僧は随伴しなかったが、おそらく「海西の菩薩天子が仏法を重んじ盛んにしている」という情報を持ち帰り、そして「沙門数十人が仏法を学びに来た」という後の話につながったのだろう。
前に見た「倭の五王」は南朝に使節を遣わし、後に見る遣唐使は西に赴いて長安に行ったが、遣隋使はその中間に位置し、上を受けて後に展開したのである。遣唐使に関する論著の多くは遣隋使を前奏として触れることがあるが、「倭の五王」の関連研究は基本的には遣隋使に言及しない。遣隋使の背景を考察するに、一方では「倭の五王」がしばしば南朝に使節を遣わして以来、日中間の断交はおよそ百年に及んでいたいたこと。もう一方で、隋王朝が興って十数年もたっておらず、中原統一王朝というものは、倭国がいまだかって体験したことのないものであったことに留意すべきである。そして、前期遣隋使はしばしば失策したのである。
(コメント:倭国は「漢帝国」についての情報はは既知だったのではないかな?倭国の情報収集能力の過小評価ではないかな。
もうひとつの大きな問題は、「倭の五王」達の活躍が日本の史書に全く出ていないことではないかな。中国が授けた華やかな肩書も一顧だにされていない。これについても多利思北孤が日本の史書に出でないことと併せて考えるべきと思うのだが。)


●第一回の使者が鴻臚寺の諮問に対して、倭国の政情について「倭皇は天を兄とし日を弟としている。天がまだ明けない・・・・・・・我が弟に委ねると言う」と紹介したところ、文帝はそれを「大変義理に適わない」と斥け、また「これを改めるよう訓令した」そうである。
(コメント:国交もない国に訓令したこと自体の「華夷思想」への意見、自己批判とまでは言いませんが、あってもしかるべきでは?)

●第二回の使者は朝貢の規範に従い国書を携帯したが、煬帝は「日出づるところの天子より・・・」の字句をよろこばず、鴻臚卿に「蛮夷の書に無礼があれば、二度と上奏することのないように」と命じた。この国書は通常、日本の平等外交の証拠だとされるが、その実は日本の早期外交の一大失策だとみなすべきである。
(コメント:著者は、『隋書】俀国伝と『日本書紀』の遣隋使記事によって論を展開する。しかし、『隋書』には、「俀国伝」以外にも日本列島からと思われる遣使記事がある。『隋書』帝紀の煬帝上に「大業三年〈607〉三月、倭国が百済とともに遣使朝貢」、「大業六年〈610〉正月、倭国遣使朝貢」の二つの記事である。これは、『隋書』俀国伝に「「大業四〈608〉年、裵世清に伴われて朝貢した。その後、遂に絶つ」とあるのと完全に矛盾する記事である。この件に全く頬かむりですませている、著者の見識を疑わざるを得ない。)

●大業四年(608)四月、裵世清は小野妹子を送り使節として倭国へ行き、「皇帝が倭王に問う」(著者注:『日本書紀』は「倭皇」とするが、『経籍後伝記』は「倭王」、『異国牒状記』は「和王」とする。皇でなく王であろう)という国書をもたらしたところ、倭王は大いによろこんで「私は海西に大隋という礼儀の国があると聞いたので、使節を使わして朝貢した。我々夷人は海の隅に僻在しており、礼儀を聞いたことが無い。・・・・・大国惟新の化を聞くことを願う」と言った。
(コメント:「倭」と「和」の問題よりも、自国の正史『隋書』に「俀国伝」とあるのに「倭国伝」と何ら説明も付けずに変更していることの方がが大問題だ、と思うのだが。)

●隋朝にお世辞を使い「礼儀の国」として自らを「礼儀を聞いたことのない」「夷人」だと言って、聖徳太子が隋の煬帝と対等に振舞おうとしたなどというのは、後人の憶測に過ぎない。
倭王がよろこんで「大国惟新の化」を聞いた後、一続きの動きがあった。同年九月に第三回の遣隋使が出発し、携帯した国書の措辞は「東の天王、西の皇帝に敬白す」と改められており(著者注:、『異国牒状記』では「東天王」。この国書は何も紛糾を興さなかったことから見れば、、『異国牒状記』の記載するところを是とすべきである) 前回の国書がもたらした負の影響を取り除いた。注意すべきは、今回の遣隋使には4人の「学生」と、4人の学問僧」が随伴していたことである。
(コメント:俀国からの国書(『隋書』に記載)と近畿王朝からの国書(『日本書紀』に記載)を同じテーブルに乗せると、このように混んがらがってしまい筋のとおった説明ができなくなる。)

●聖徳太子が摂政に任ぜられて以降、多岐にわたる内政外交の改革を進め、島国から抜け出そうとする心理状態、これが彼が外交使節を出した内因であると思われる。「海西の菩薩天子が仏法を重んじ・・・・」というのが、遣使が隋に入る時「沙門数十人もともに仏法を学びに来た」外因である。
(コメント:聖徳太子=多利思比孤説のようだが、聖徳太子は倭王の地位には着いたことのない人物だ、ということについて、どのように説明できるのか。出来ないから頬かぶりなのでしょうが。おまけに小野妹子は沙門数十人を連れて行ったという日本側の記録はない。行くときは他に通訳1名で、帰るときには中国の裵世清とその部下12名と一緒に帰国したとある。沙門等を連れて行ったのは二回目の時なのに意識的にか混乱させているように見えるが?)

●裵世清は「大国惟新の化」という知識を倭国にもたらし、聖徳太子は「礼儀」を学ぶことの重要性を深く感じ、ゆえに「学問僧」のほかに等量の「学生」を追加し、この後それが定例となった。
(以下、遣隋使~遣唐使の状況について著者は述べ、最後に次のように締めくくっている)
この後、日本は律令制の国家を構築していく過程の中で、遣唐使は唐朝の進んだ制度と絢爛たる文化を幅広く学ぶ使命を担うようになった。
(コメント:多利思北〈比〉孤がなぜ日本の正史に載っていないのか、という疑問に答えていない。また、文章からみると、どうやら聖徳太子に擬しているようだが、太子は倭王の地位に着いていない。倭と俀の問題について中国側のこじつけは、後の史書『北史』で「倭国伝」とあるから、という事のように推察されるが、『北史』自体は誤りが多く史料価値が低い、と言っていて矛盾するのだが。

以上で隋朝時代の交流についての著者の論述は終わっている。『隋書』は当時の日本について沢山の情報が記載されている。しかし、この「日中歴史共同研究」では、「沖縄問題」が完全に抜け落ちている。『隋書』流求伝に、隋と琉球との交渉、というか琉球国への侵攻・国人の拉致が記されている。琉球問題は総論でも全く触れられていない。中国側も日本側も沈黙しているが、沖縄の人々はこの、琉球が抜け落ちている「日中歴史問題」について、歴史家たちのこの膨大な報告書をどう評価するか、気にも留めていないのだろうか?)


2.「唐消息」の情報源および価値

●唐に遣わされた留学生から「常須達」の助言を舒明天皇が受け入れ、定期的な遣唐使の派遣が基本的国策に据えられるようになった。唐朝へ派遣される官員・随行員・留学生・学問僧などは何れも新知識の収集という使命を担っていた。
(コメント:「常須達」という言葉を、歴史をかじる者には常識といわんばかりのタイトルである。
『日本書紀』推古紀31年秋七月の条に次のようにある。「是時大唐学問僧惠斉、惠光、及医惠日、福因等、並従智洗爾等来之。於是、惠日等共奏聞曰、留于唐国学者、皆学以成業。応喚。且其大唐国者、法式備定之珍国也。常須達。」〈是の時に大唐の学問者、僧惠斉、惠光、及び医師惠日、福因等、並びに智洗爾等に従ひて来る。ここに、惠日等、共に奏聞して曰さく、「唐国に留まる学者、皆学びて業を成しつ。召すべし。また、其の大唐国は、法式備わり定まれる宝の国也。常に通うべし。〉と、このように確かに書いてあります。
著者は「常須達」という言葉が、漢語的でないので気に障ったのかな。しかし、なぜ推古紀の記事なのに舒明天皇が「常須達」としたと著者は言うのかな?)

●彼らは帰国後朝廷への報告義務を負い、なかでも遣唐使官員の朝廷はの報告書のうち、唐王朝の国の重大事項については「唐消息」或いは「唐国消息」と称され、執政者は高い関心を寄せていた。
(以下著者は、「唐消息」が日本の「六国史」にどのように記録されたかや、中国文献に欠けている貴重な史料も多いと説明している。・・・略)


3.貢品と錫賚

(コメント:「錫賚」という見慣れない熟語が見出しに使われている。この熟語は『旧唐書』「日本伝」開元の時の遣唐使の記事に出てきます。「遣唐使として来た者が中国政府から”錫賚”を貰うと、それをすべて書籍の購入に当てて海を渡って帰る」、という記事ある。
辞典によれば「錫」も「賚」も上からた賜った物の意。岩波文庫は「たまもの」とふり仮名している。)

●遣唐使が朝貢で有る以上、当然手ぶらで来ることはない。貞元二十年(804)、空海が搭乗した遣唐使船・・・・(と遣唐使船が運んだ罪にの内容を『遣唐使と正倉院』東野治之を参照しつつ詳しく述べている。以下略)
国の公式使節団と唐政府の物品のやりとりは、当然双方向であった。「貢」があれば必ず「賜」があり、唐朝は貢品の価値に応じて給与する賜品は、ややもすれば貢品の値の数十倍であった。『旧唐書』の記載、玄宗皇帝が開元初に遣唐使に賜った「錫賚」は、語の意味から言うと金銭、貨幣を指し、実際の物品ではないが、惜しむらくは具体的な品目が列せられていないことである。
(コメント:最後のフレーズ「惜しむらくは・・・」は著者個人の感想かな?つまり、倭国の貧弱な粗末な貢物に対して桁違いの下賜品を贈った筈が、中国にとって何ら実質的な冊封の利益は無かったのに、とでも言いたいのかな?
このように、遣唐使が中国へ朝貢した物品に比べてはるかに多くの下賜品であった、と著者はいう。しかし、日本から外国へ下賜したと『日本書紀』が記すのは、天武元年に郭務悰の帰国に際して、甲冑弓矢、ふと絹1673匹、布2852端、綿666斤を下賜した、とある。〈一匹は二端、一端は二丈〉
これは、同じく『日本書紀』天智七年に新羅の使者金東厳に新羅王へと託した物は、絹50匹、綿500斤、韋〈なめした皮〉100枚とある。
それと比べても郭務悰へのは異常に多量の下賜品である。郭務悰一行が2000人という多数の軍民であったことと無関係ではないと思われる。それでも、中国側論者は郭務悰の任務と唐としての戦後処理と無関係というのであろうか?)

第三節 唐人の渡航の背景及び動機

(著者はまず、隋唐時代の日中交流は非対照性であった、「人」も「物」も価値的に唐の方が質的に高かった、と述べる。特に「人」については、日本側は積極的に先進文化を学びとるという能動的なものであり、中国からは鑑真の渡航の例外を除き儀礼的な訪問で受動的なものであった、と述べる。詳細は省略)

1.頻発した航海事故

●著者は、藤原清河が十二次遣唐使として玄宗皇帝に蕭頴士を国師として招聘したいと申し出、受け入れられたが、本人が病と称して応じなかったのが、実は航海の危険性にあった、という事を詳しく述べる。また、太宗による高表仁の倭国への派遣も「王子と礼を争い、使命を果たせなかったのは、往復の海路で「地獄の門」を通ったと周囲に話し、心身ともに耗弱状態だったという例をあげる。
(コメント:確かに日本の古代史解説本に、高表仁が使命を果たせなかったことと、海路の困難さとを結び付けて論じた人はいなかったようだ。)

2.唐王朝から日本に赴いた使節

●隋唐時代の日中間の使節交換について語る時、一般に日本が派遣した遣隋使および遣唐使に注目することが多く、中国が派遣して日本に行った使節については見落とされがちである。
隋王朝の裵世清や唐初の高表仁が命令を受けて日本を訪ねたことは、中国の正史に記録があるために広く知られている。
しかし日本の文献の細かな記述にしか見られない唐王朝の使節(寅七注:第十三次遣唐使小野石根の帰国時に代宗が内侍省棭庭令の趙宝英を答礼使として派遣することにしたが、小野石根が危険だからと代宗に進言したが聞き入れられず、船は日本の遣唐使38名と唐使25名とともに沈んだ)もあり、これは体系立った研究を進めている学者はわずかしかおらず、それに関する成果もどうしようもなく少ないと言える。

唐王朝から日本に赴いた使節は、かねがね二つの類型に分けることができる。
一つ目は儀礼的な意味を持つ送還使節で、高表仁や趙宝英、沈惟岳らがその例である。
二つ目は朝鮮半島の情勢と関係があって、「白村江」の海戦(663年)の後に集中しており、郭務悰や劉徳高、李守真らがあげられる。ここでは紙幅に限りがあるので、前者のみ論証を行うこととする。
(コメント:「紙幅が限られている」ということで、白村江敗戦以後重要な働きをしたと思われる郭務悰らをカットするのは無茶苦茶だと思う。本項のテーマからずれるが、唐王朝の一大イベント「泰山封禅の儀」に倭国代表が参加したことが中国の史書には見えるが日本の史書には見えない。東アジアの各国代表が集う晴れの舞台に倭国も参加している。これについても著者はどこにも触れていないのもどうかな。)     

●第一次送使。貞観五年(631)、日本の第一次遣唐使が長安に到着し、唐の太宗が新州刺史の高表仁に「節を持って行かせ慰撫させ」た。高表仁は翌年十月に日本に到着し、貞観七年帰国して復命した。
(コメント:高表仁は「王子と礼を争った」と『旧唐書』にはあり、『日本書紀」にはそのような「争った」記事はなく、むしろ歓迎ぶりをみて高表仁は悦んだと書いている。この矛盾について著者の考えを聞きたいもの。
この高表仁の倭国遣使のスケジュールを見てみると、足かけ3年かかっている。631年に命を受け(『旧唐書』)、翌年8月に、「艱難辛苦」の後に、対馬に到着(『日本書紀)という事になる。研究者によっては二度往復した説もあるが「艱難辛苦」が高表仁に与えた精神的な後遺症を考えるとそれはないかなと思う。
俀国を訪問し、王子と礼を争い、次いで近畿に赴き、そこでは歓待された、ということで旅程が長期になった、という解が正鵠を射ているのではないか。)


●第二次送使。乾封二年(667)十一月、唐の百済鎮将劉仁願の使者である熊津都督府熊山県令上柱国の司馬法聡が日本に着き、坂合部石積らを筑紫都督府に送って行った(著者注:『日本書紀』天智天皇六年十一月の条)。
(コメント:また白村江海戦以後多くの唐人が「筑紫都督府」に派遣されている。同じ時期に百済には熊津都督府を唐が設置している。この「筑紫都督府」は中国が設置したものかどうかについて何も述べない。中国の史書に記載がないことについてはあえて推論は避けているのであろうが、『日本書紀』にも記載のある役所である。考証したかどうかだけでも言ったらどうですか?)

●麟徳二年(665)九月、唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が使者として日本に行き、同年十二月に坂合部石積が命令を受け、唐の使節が帰国するのを送った。(中略)
第三次送使。開元二十一年(733)、遣唐使の多治比広成が・・・(阿倍仲麻呂が帰国しなかった挿話を述べる  略)
第四次送使。(第十三次の遣唐使として派遣された高元度を送るために沈惟岳ら9人と水夫30人が護送して日本に渡った。安史の乱が起こり彼らは帰国できず日本に定住した。詳細省略)


閑話その2

上記の第十三次の遣唐使として派遣された高元度一行に、唐朝は褒美として紫衣と「金魚袋」をあたえた、と述べている。さて、金魚袋とは何ぞや、ということで調べてみましたが、かなり手こずりました。
ネットでは見つからず、『辞海』上海出版社で概略次のようなことと分かりました。金魚袋で検索しても、遣唐使が貰った品物リストの中にある、というということばかりで金魚袋そのものについての説明はヒットしません。

まさか、とは思ったのですが「魚袋」で辞書を引きましたら出ていました。つまり、金の魚袋ということでした。では、魚袋とは何かというと魚符を入れる袋ということで、後には魚符が用いられなくなって魚袋だけが身分を示すして宮殿門の鑑札のような働きをしたということだそうです。位によって金銀銅の飾りが付けられたそうです。つまり、高元度は最高位の身分証を貰った、ということでした。


『辞海』上海出版社による「魚符」と「魚袋」の説明と、当方が理解したその内容を記しておきます。

【魚符】 唐代授予臣属的信物。唐高祖比其祖李虎的名諱、廃除虎符、改用魚符、武則天改為亀符。中宗初年又恢復魚符。
符也分左右両半、字都刻于符陰、上端有一”同”字。側刻”合同”両半字、首有孔、可以系佩。除発兵用的符外、五品以上的官都有随身佩帯的符、分金質、銀質、銅質等。此外尚有過宮殿門、城門用的通交符等。
金魚袋
【魚袋】 唐代五品以上官員盛放魚符的袋。〈新唐書・車服志〉;”随身魚符者、以明貴賎、応召命・・・・皆盛以魚袋;三品以上飾以金、五品以上飾以銀。”宋代無魚符、仍偑魚袋。〈宋史・輿服志五〉:”魚袋、其制自唐始・・・・・宋因之。其制以金銀飾為魚形、公服則系于帯而垂于后、以明貴賎、非復如唐之符契也。”

唐代は臣下に虎符というもの与えていたが、高祖は祖の名前「李虎」であり、それを諱で虎を廃して魚符とした。武則天が亀符としたが中宗が魚符に戻した。五品以上の官僚はこの符を帯びていると宮殿や城門の通交証の役目を果たした。これらの符は官員の格によって金・銀・銅で分けられていた。形は別図のように”同”と刻印されていた。魚符は魚袋に収められ、五品以上は銀、三品以上は金で飾られていた。宋代には、魚符はなくなっていたが、魚袋を身に帯びることは続いていた。魚袋は帯に付けて後方に垂らして身分の貴賎を表わしていた。

まあ、中国文化で宦官とか宮刑とか我が国が取り入れなかったものが多いけれど、この「金魚袋」もその一つでしょう。今回中国の辞書に句読点があることに気づき、日本で発達した「句読点」を中国が利用していることについて、今回の日中歴史共同研究でも言及されているのか気になりました。まだまだ全体を読みとおして、近代の文化交流の所まで行きつかないとわかりませんが。


閑話休題 「日中歴史共同研究」に戻ります。

●宋代 おそらく趙宝英の海難事故が唐朝に大きな衝撃を与えたために、以後の遣唐使の帰国に際しては二度と送使を随行させなくなった。(以下略)
最後にそれにかかわる「物」の移動である。(第五次送使に代宗が与えた口勅や、第四次の高元度が唐の代宗が、安氏の乱で兵器に使う牛の角を送るよう求め、日本から7800本の牛の角を送ったことなど、また、趙宝英を答礼使として派遣しようとしたが海難事故となった、第五次答礼使について報告しているが、詳細省略)


3.漢人渡航の背景

(著者は民間人の渡航例として、漢人の日本への渡航例について述べている。そのまとめ部分を紹介する。)
大体「人」の移動には、「推進力」もしくは「引力」が必要になる。唐王朝の使節が日本に行ったのは、主に「推進力」による。鑑真の日本渡航はこれと異なり、中国国内で道教の流行が仏教徒に故郷を離れさせる「推進力」となり、道教を尊ばない日本が彼らを引き付ける「引力」となった。
(コメント:今回の中国の論者は、道教が日本の政治に与えた影響について、その影響が大きかったと多言している。しかし、鑑真の渡航のへの推進力は道教を尊ばない日本だから、というのは食言ではないかな?)

●9世紀以後、唐王朝の商人が海上で活躍したが、これは中国での商品経済の発達と海外諸国が「唐物」に憧れたことにより形成された一種の「推進力」と「引力」なのである。宋、元、明の時代、日中両国には国交はなかったものの、商人や禅僧などは依然として行き来していた。その動力となったのは、中国の商品経済の発達と日本の武士階級の新たな宗教追及であった。
(コメント:中国の商品経済発達だけでなく当然双方の経済発達と捉えるべきではないかな?)


第四節 日中間のブックロード

(著者は古代のシルクロードという言葉の概念が示すものについてや、日本での絹の栽培生産が3世紀にはなされていたことを述べる。ただ「シルクロード」の概念をそっくりそのまま古代東アジア地域の文化交流に当てはめると、必ずしもぴったりと当てはまるわけではない、と概略述べて、次のように「正倉院珍宝」「「遣唐使の使命」「「書籍東伝の道」「漢文典籍の還流」の項を立てて述べている。ここでは最後の「漢文典籍の還流」の結語的部分のみ紹介する。)

上にあげたいくつかの実例は、ブックロードを通じて大量の中国典籍が日本に東伝したのみならず、少ないながらも日本の典籍が中国に逆流した、ということを説明するのに用いたのである。これはすなわち、このブックロードが双方向に通じていたことをしめしている。

実際、中国は安史の乱と会昌の毀仏があったことによって。文物典籍の散逸は深刻であった。五代十国の時代に、呉越国の天台僧義寂が宗門の復興を図ろうとし、また経蔵の無いことを嘆いた。ついに呉越王の銭弘俶が大金を出し、使者を海外に派遣して書を求めさせたところ、高麗の諦観と日本の日延が要求に応じて書を送ってきた。こうした散逸した書の回帰は、清朝の末期から民国の初期にかけて幾度も高まりを見せ、大量の文化遺産がそっくりそのまま戻ってきた。

(コメント:これまで紹介してきた第一部~第二部で古代史関係の「歴史叙述」についての論述は終わっています。続いて、中国人の日本に対する認識が「正史」にどのように表れているかについての叙述が始まります。
これも膨大な量の論述なので、当方が気に留めた所を中心に紹介するに止めておきます。詳しくは外務省のホームページの発表、または勉誠出版の報告書をご参照ください)



第三部第一章 中国人と日本人の相互認識  王暁秋

●日中の相互認識は、中日関係史を研究する上で非常に重要な課題である。或る意味では、日中関係史は、両国の相互認識の歴史であると言える。なぜなら、相互の往来、交流がなければ、互いの理解や認識は埋めれないからだ。
そして相互認識が、仲の良し悪し、好き嫌い、平和と争いなど両国間の相互関係を決定する。
さまざまな形式の相互関係を通し、相互認識を深めることで、互いの認識に変化が生じ、それがまた日中関係の発展や変化を推進していく。
(中略)
歴史を鑑として未来に向かう。我々は真剣に、深く掘り下げ、具体的に研究しなくてはならない。二千年の日中関係史において、両国はどのように互いを認識してきたのか?そして両国関係や両国史の発展にどのような影響を与えたのか?またこうした相互認識は時代によりどのような変化を遂げたのか?相互認識を促進、あるいは阻害してきたのはどのような要素なのか?その中からどのような歴史的経験の教訓をくみ取ることができるのか?われわれはどのようにして全面的、客観的、科学的に相手を認識することができるのか?
そして、相互認識、相互理解を深め、さらに健全で安定し、友好的で協力的な日中関係を築くには、どうすればよいのだろうか。
今日まで、日中の相互認識に関する研究は、近現代や個別の研究に集中しがちであった。そこで本文では前近代の中国人の日本認識を出来るだけ全面的に述べてみたい。


一 前近代における中国人の日本認識の概況と特徴

本文で述べる前近代の中国人の日本認識は、主に秦漢時代から清朝中期の中国人の日本認識、あるいは前近代の中国人の日本観と言ってもよい。

1.特徴

(著者は、概略次のように述べる。中国が日本を、世界で最も早く認識していたことは、『山海経』、『漢書・地理志』、『三国志・魏書・倭人伝』などでの「倭」についての記述があることで明らかである。その後も中国の俗称「二十四史」の正史の中に十六部の正史に、「倭国伝」乃至「日本伝」の記述がある。前近代の中国人の日本認識は、概して友好的、肯定的であった。理想的神秘的イメージを抱いていた。元・明代には倭寇の残忍さ、狡猾さという否定的イメージが出現した。

以下、2.歴史段階、3.ルートとチャンネル、4.形式  略)



二 中国の前近代の紀伝体正史における日本の記載

中国前近代では歴代、官撰正史を編纂する伝統があり、王朝が交替すると、新王朝が前王朝の正史を編纂した。これら紀伝体の正史は、私人によって編纂され王朝に認められた少数のものを除くと、多くは王朝の意を受け、あるいは政府が特別に施設や官職を設けて大掛かりで編纂したものだ。それらは主に当時の統治者の立場や史観を現しており、往々にして強烈な封建的正統思想と華夷意識が露になっていた。
(コメント:筆者が、「多くは王朝の意を受け」というけれど、「ほとんどが王朝の意を受け」ではないのかな。)

1.『史記』と『漢書』

(著者は概略次のように述べる。【『史記』最初の紀伝体正史の最初のものであり、徐福が始皇帝の命で不老不死の薬を探しに行かせたが、徐福は「平原広沢」を探し当て、そこの王になってかえらなかった、ことを記す。二番目の正史が『漢書』であり、始めて「倭」という文字が正史に記される。当時は小国(部落)林立状態であるが漢王朝と朝貢関係にあったと記す。倭人を含む東夷は「天性従順」とあるのに注目すべきである】と。)

2.『三国志』と『後漢書』

日本に関して「伝」を立てたのは『三国志』である。二千字程で地理的位置・社会形態・政治制度・経済・物産・風俗習慣・朝貢状況などが具体的に叙述されている。景初二年(238年)邪馬台国の女王が朝貢すると魏の明帝が「親魏倭王」の金印や大量の下賜品を与えたこと、「黥面文身」「食生菜」「性嗜酒」「出真珠・青玉」などで、その後の中国人の日本観に大きな影響をあたえた。『後漢書』は最初に日本伝を設けた断代正史である。内容はおおよそ『三国志』を参考にしているが、後漢年間の光武帝の印綬下賜などの重要な史実が加えられている。
コメント:景初三年誤記説は斥けているが、『三国志』の「邪馬壱国」でなく、『後漢書』の「邪馬台国」を採用している。理由は、後世に著わされた書の記載の方が正ということからであろうか?また、中国側の他の委員の論文では、景初三年説となっている。中国側の正史『魏志』の記事の評価をまだ定めることができないでいるようだ。)

3.『晋書』、『宋書』、『南斉書』、『梁書』、『南史』、『北史』

(『晋書』の倭人伝は『三国志の要約的なもの。『宋書』の倭国伝は南北朝の劉宋時代の、特に倭の五王に関する重要な史料が提供されている。倭王武の上表文や順帝から「安東大将軍、倭王」に冊封されたとある。 
『南斉書』の倭国伝は簡潔で短い。『梁書』の倭伝は基本的に前史を踏襲している。『南史』、『北史』の倭伝や倭国伝には、新たな史料はなく前史を勝手に改ざんして、少なからぬ誤りがある。この魏晋南北朝時代の中国の士大夫の日本の認識は、主に遣使、朝貢、冊封、華夷体系の確立などの面に集中していたことの反映である。)
(コメント:著者は宋史に多くの倭の五王の記事があることについては述べるが、それが日本の史書に全く表れていない「謎」については全く触れない。また、年代別に正史について述べているが、『南史』と『北史』の成立は『隋書』よりも遅い。なぜかこのことに言及していない。
また、倭王武の称号には、「使持節・都督倭・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」と『宋書』にはあるのだが、新羅や任那の管轄権と思われる表現があることについて触れていないのはなぜ?この『宋書』の記事にある「都督倭」にに任じられることについて、『日本書紀』の記事にある「筑紫都督府」との関係について、この論文を発表前に読んだ日本側の委員が何も意見を述べなかったのだろうか?)


4.『隋書』

(著者が引用する原文は省略したが、概略次のように述べている)
『隋書』は簡単に前史を繰り返し述べるのではなく、隋代の日中通交往来の歴史を記載し、日本の遣隋使の史実を詳細に記録している。高い史料価値があり後代の正史日本伝に頻繁に踏襲されている。
『隋書』は当時の中国帝王や士大夫の華夷思想を現わしている。文帝が倭の使者から「倭王は天を兄とし、日を弟とし、天がまだ明けない時に出でて政務をとり・・・・日が昇れば政務を停める」と告げられ、「これはとても道理ではない」と改めるように命じた。
また、煬帝が受け取った日本国の国書「日出ずる処の天子・・・」を読み立腹し、「蕃夷の書で無礼のあるものは、二度と取り次ぐな」と鴻臚卿に言った。しかし、『隋書』の日本の制度や儀礼に関する記載は、当時の中国人の日本認識が進歩したことや肯定感を現している。例えば聖徳太子の定めた冠位十二階屋、冠の制を定めたり、「その王は朝会のとき、儀仗を陳設し、音楽を演奏する」、「人は大変落ち着いており、争訟は稀で、盗賊も少ない」、「仏法を敬う」、「性質は素直、雅である」、「夫人は淫行や嫉妬をしない」などと書かれ、いずれもプラスのイメージである。
(コメント:日本国の国書としているが、そうではなく俀国の国書でしょう。また、『隋書』が記す俀国のプラスイメージの国が大陸流民の影響でできたとまでは言いきれないでしょう。『隋書』の「俀国伝」を著者は説明抜きで「倭国伝」する根拠を述べていないがなぜ?)

5.『旧唐書』と『新唐書』

(この二書の著者の評価については、あまり省略せずに紹介しておく)
唐代の正史には『旧唐書』と『新唐書』の二種類がある。唐王朝の国力が強大で、外国との文化交流も盛んに行われていた。日本からは相継いで十数回遣唐使が使わされ、多くの留学生や留学僧が中国に赴き、積極的に中国の制度や文化を学んで吸収するなど、日中の文化交流は高まりを見せる。
しかし新旧唐書にはこうしたことについての記載はあるものの、非常に簡略で、日本の遣唐使の回数や活動内容についてはもれている点も多く、唐代の中日交流の盛況さとは全く釣り合わない。
このような状況を生み出した主な原因は、当時唐朝の統治階級が日本をさほど重要視していなかったためである。

新旧唐書の日本観で注意を払うに値するのは、日本の呼称が変わった点だ。後晋の劉詢などが編さんした『旧唐書』東夷伝には「倭国伝」と「日本伝」の二つが併存する。
「倭国伝」では「倭国とは昔の倭奴国のことである」と書かれ、唐の太宗貞観年間における中日の交流が記されている。
しかし「日本伝」では「日本国とは倭国の別種である」と記され、倭国がなぜ日本と改名したのか三つの解釈があげられている:「その国は太陽のそばにあることから日本を名とする。あるいは、倭国は自らその名が雅でないことを嫌い、改めて日本としたと言う。または、日本は古い小国で、倭国の地を併合したと言う」とあり、他にも武則天長安三年(703)以降の日中往来に関する記載がある。
(コメント:ここに「武則天」についてちょっとだけ触れられている。しかし、白村江の敗戦から大宝年号開始にいたる日本の政治と無関係であったはずもない。しかし、武則天の悪名の高さからか、今回の日中歴史共同研究には全くと言ってよいほど姿を見せない。この章の末尾に「閑話その3」として、当研究会の武則天と日本との係わりについての短感を記しておく。)

また、北宋の欧陽修、宋祁等により編纂された『新唐書』東夷伝には「日本伝」のみが納められ、「日本とは古の倭奴のことである」と記されている。そして、唐の高宗咸亨元年(670)に、日本が「使者を遣わし高麗を平定したことを祝した」と書いた後に、名前を変えた三つの原因をあげている。「後に少しずつ中華の言葉を学び、倭の名を嫌い、更えて日本と号した。使者自ら『国が日の出る処に近いので、その名とした』と言った。あるいは、日本は小国であり、倭国によって併合された、このため倭国は日本の国号を僭称したという」。
これらのことから、当時の士大夫は日本が国名を変えたのは威亨元年から長安三年の間であるととらえていたことが分かり、おおよそ事実と合致している。
当時の日本はまさに大化改新(645年)、そして白村江の戦で唐に敗れた(663年)後で、そのイメージを改善し、自主性を高めるため、また「日の出る所に近い」地理的位置に基づき、国号を日本と変えている。
(コメント:第一に『旧唐書』に「倭国伝」と「日本伝」と明らかに別国とされているし、それが『新唐書』では日本伝と一本化されている。この基本的な記述の違い、つまり中国側の認識の違い、について述べていない。という基本的な欠陥がこの著者の論文にはある、と言わざるをえない。
また、倭国が日本に改名したということについて三つの解釈がある、とするが、二つは国名の由来であり、最後の一つが国の成立の由来である。
『旧唐書』は「東夷伝」の中の「倭国日本伝」という項にまとめて倭人国の二つの国の説明がなされている。読めば、先ず「倭国とは・・・」と説明があり、そのあと項を改めて、「日本国は倭国の別種云々」とあります。中国人が中国語の解釈ができないのはというのはどういうことだろうか。)


●中国正史の体制である「名はその土地の人に従う(名从主人)」との原則により、唐代以降の歴代王朝の正史では、いずれも「日本伝」とするようになった。『旧唐書』倭国伝では、日本を「その土地は女が多く男は少なく、多く文字が使われ、一般に仏法を敬う」と描写している。「日本伝」では日本の遣使を「入朝する物は、多くはうぬぼれが強く、不実な対応だった」と書いているが、遣唐使の粟田真人を「経史を読み、文を理解したり綴ることを好み、立ち居ふるまいは穏やかで優美だった」と称えている。『新唐書』日本伝は、多くの新しい情報を補充しており、特に初めて歴代の天皇の世系を記載している。
(コメント:『旧唐書』の「倭国」「日本国」の両建ての記事を、『新唐書』では「日本」一本になっているので、「後世の史書の記事がより正確」ということで納得しているかのように思われるが、それでよいのかな。)


「閑話その3」 則天武后と持統天皇

「日中歴史共同研究」の報告書を読んでいて疑問に思ったことの一つに、東アジアの政治情勢に大きな影響があったとされる、白村江の戦いと当時の実力者則天武后との係わりについて、、日中両国の委員の論文で全く何も考察されていないことです。せいぜい則天武后が遣唐使として来唐した粟田真人に褒賞を与えたというところぐらいです。

則天武后は、悪女の見本のように歴史書に出ていますので、中国側の委員さんもあまり取り上げたくないのだろうとは思います。しかし、則天武后は、中国の歴史上唯一の女帝です。その意義というか、なぜ彼女が皇帝に登れたのか、当時の情勢と関係がないわけがないと思われます。

隋の煬帝を怒らせ、百済復興戦を仕掛ける倭人国、その当事者であった夫の皇帝高宗を支え、その没後は自分の子供二人を次々に皇帝として、自分は垂簾聴政を行い睿宗没後は自らが皇帝武則天になった則天武后です。655年、32歳で立后し、王皇后と蕭淑妃の両人を惨殺し、宮廷内で権力者となります。

白村江の戦いは663年とされます。その時、則天武后は40歳です。夫高宗は、666年に泰山封禅の儀を大々的に行い、東アジアが泰平になったことを祝います。
683年に高宗がなくなりますが、それ以前から則天武后の垂簾聴政が行われていたと思われます。

唐の権力者であり夫高宗を支えて権力をふるった則天武后が、東アジアの夷人国についての情報を掴んでいたのは当然と思います。660年代後半から遣唐使がやってきます。702年に遣唐使としてやってきた粟田真人の記事も前述のようにありますが、その前669年に河内鯨も遣唐使として来唐しています。当時の日本列島の政治情勢も当然知識に入れたことでしょう。

則天武后が武則天として皇帝に即位するのは690年です。遣唐使は当然ながら国書を持参しているでしょうから、その国王の系統等についての知識も取得したのは当然でしょう。

つまり、白村江の戦の前まで斉明女帝が日本列島中央部の国の支配者として君臨していたこと、彼女は重祚していたこと、彼女の2代前は外曾祖母にあたる推古女帝などの在位も知ったのではないでしょうか。『日本書紀』の記述が間違っているとしても、東の夷人国にこのような女帝の例があることを知って、武周朝を開くことを思い立った可能性はあると思います。

また、その逆の流れとして、唐でも女帝が存在する、その垂簾聴政についての知識も我が国に伝わって、文武天皇に対する推古太上女帝の垂簾政治、それに続く元明女帝、元正女帝、孝謙女帝など女帝の輩出となったのではないかということも十分考えられることでしょう。中国側委員の論文はもうすぐ終わります。次章の「日中古代政治社会構造の比較研究:でも「女帝」について述べられません。続いて紹介するつもりの日本側委員の論文に、このような視点が見ることができればよいのですが、さて?


閑話休題終わり 『日中歴史共同研究」に戻ります



第三部第二章 日中古代政治社会構造の比較研究  蒋立峰 王勇 黄正建 呉宗国 李卓 宋家鈺 張帆

●古代の日中関係史について、文化交流の面ではすでに多くの研究があるが、〉政治的変化や社会的発展についての比較研究はまだ十分ではない。おそらく両国の学者は、関心の方向も違えば、禁忌も違い、新出史料に対する理解、応用も異なるからであろう。

本章では、中国・日本の古代における政治社会の発展史のうちから特にいくつかの代表的な問題を選んで論述する。
その目的は何かしらの結論を出そうということではなく、さしあたり一部分についての見解を提示し、中国・日本双方の研究者に、両国の古代政治社会構造を比較研究することへの関心を喚起することを願うものである。
これは、日中関係の研究をより高い次元に引き上げるために、かならず益することがあって害するところがなかろう。
(コメント:古代先進政治体制の中国とそれをなんとか取り入れようとして努力した倭国 という前提での話となるのでしょうが・・・。冊封体制という先進文化を学んだ倭国が、自身の冊封体制構築を目指した、ということに対してどのような自己批判?をするのだろうか?)

一. 皇帝と天皇

皇帝と天皇は中日両国の古代政治体制における最高位であり、国家の代表、象徴である。もし日中両国の古代政治構造について比較を進めるならば、まず皇帝と天皇について比較してみることがまったく(ママ)必要なことである。
(コメント:以下、著者の「天皇論」的な論述が続く。一応概略を紹介しておく)

●言うまでもなく、皇帝は中国の、天皇は日本の呼称だが、例外も存する。唐の高宗(650-683年)は、かって自らを「天皇」と称し死後の諡号は「天皇大帝」であった。そして『続日本紀』は桓武天皇(781-806年)を「今皇帝」と記している。これはそれぞれ独立して起きた偶然の現象ではなく、両国の政治体制の内在的なつながりを示す必然的現象として考えるべきである。
李氏の唐朝が道教を振興し、「道教の教祖老子は李氏の祖先であり、李氏は”神仙の末裔”である」と宣伝することで、皇権を神格化した。

唐朝が道教を振興したことの影響を受けて、日本の天皇および天皇制も道教と密接な関係を持つようになる。中国文化を厚く尊崇した桓武天皇は亡くなった早良皇太子に「崇道天皇」を追贈し、また中国の皇帝が天を祀る方式を模倣して、二度にわたって長岡京の南郊外に壇を築き、天神つまり「昊天上帝」を祀った。桓武天皇のこのような施策は不思議なことではない。

皇帝と天皇はいずれも自らの神格化には異なる点がある。中国では、出身を問わず、いったん皇帝となれば、「天子」すなわち「天帝の子」となり、これによって、最高神たる「昊天上帝」の化身、天帝の意思を伝える代理人として、神聖不可侵の絶対的権威となった。

●日本で『古事記』、『日本書紀』が成立するより前は、天皇の位置づけはまだ明確化されておらず、遣隋使は「倭王は天を以って兄とし、日を以って弟とする」と述べ、国書中では、「日出ずるところの天子、日没する処の天子に書を送る」と称したのは、おのずと隋の文帝と煬帝の不興をかっただろう。

皇帝祭祀の儀式のうちでも、祭天儀礼はもっとも重要であり、ランクも一番高い。日・月を祀るのは、いずれも第二等の儀礼である。
この後、日本の統治者は、「天子」としての中国の統治者からは区別するという目的もあってか、『古事記』、『日本書紀」が成立する前後に、編纂した開国神話を利用して、天皇を、太陽神を祖先神とする天孫として位置づけ、大嘗祭などの儀式を通じて、臣礼の附体を求めた。天皇はこうして、女性の太陽神の化身、すなわち「現人神」となったのである。
(コメント:ちょっと分かりにくい論理の展開だ。「天」を遠慮して「日」の太陽神を祖先とした、と言いたいようだが?日本側委員の川本氏の「倭王は天と日の間にある」、という説を取り入れたのかな?)

●中国の初代の皇帝は、間違いなく紀元前221年に秦帝国を成立させた始皇帝である。天皇の登場はそれよりかなり遅く、7世紀の初めになってようやく現れる。
事実としてはそうであるのだけれども、近代に至るまで、天皇はずっと「万世一系」であるとされており、現代の日本人でも人によってはこれを宣伝し深く信じている。
(コメント:現在、「学問としての歴史」を検討しているのであり、「万世一系」を学問的に信じている日本の歴史家は殆どいないのではないかな)

●中国の皇帝はといえば「易姓革命」のために絶え間なく姓が変わる。皇帝の「易姓革命は」文字通りであって、貧乏人でも乞食でももいったん玉座に座ればすなわち皇帝となることができる。
天皇は代々受け継がれ、天皇家の血統でない者は決して天皇になることはできない。

しかし天皇の「万世一系」もまた信じるに足りない。『記紀』が作りだしている天皇の系譜のうち、第15代天皇応神天皇以前の記述は信用性が極めて低く、このことはすでに広く承認されている。
それ以後の天皇の系譜にも問題はある。例えば、第48代称徳女帝と第49代天皇光仁天皇はそれぞれ第34代天皇舒明天皇から派生した支系のうち、それぞれ五代と三代後の子孫とされているが、律令の規定によれば五親等から外れている。

第50代桓武天皇については、2001年12月23日、現在の天皇明仁が68歳の誕生日の際に、「桓武天皇の生母は百済武寧王の子孫であり、『日本書紀』に記録されたことについて、私は韓国との縁を感じました」と述べている。確かに、『日本書紀』の多くの似たような記述から、天皇が継承されてきた過程で朝鮮半島との密接な関係を有したことは容易に推察しうる(例えば、舒明天皇の百済大殯の記事)。

このためようやく韓国の複数の学者が「日王」と朝鮮半島の起原上の関係を重視することを説くようになり、日本では水野祐の王朝交替説や江上波夫の騎馬民族王朝説が登場した。
(コメント:この文章は正しくない。今上天皇の発言があって、朝鮮や日本の学者が天皇の起源についての異説を唱えることができたかのような叙述だが、水野氏の王朝交替説は1954年、江上氏の騎馬民族国家説は1948年に発表されている。)

●ただし、天皇の血統は皇帝に比べると遥かに長く続いていることも事実である。
中国の古代史にあっては皇帝は最高統治者であって、「朕こそが天下」であり、その一言に千金の重みを有した。実際には往々にして権力を他者に委ね、場合によっては権力が周囲の手に移り、太上皇や外戚の専横が行われたり、宰相、宦官が「皇帝一人の下に立ち」、天下を壟断するのを許すこととなった。

権力と地位を争うために日本古代史にあっては、天皇は神話世界の存在から現実の存在となり、いったんは日本の最高統治者となった。その後最高権力は周囲の手に移り、院政や外戚による専横は頻繁に見られた。中世に至ると、国家の最高権力は、幕府の将軍の手にわたり、天皇は日本の封建的政治構造のうち、宗教的・象徴的部分のみを担った。前期天皇は、国家権力の中心部分に位置していたため、国家権力をめぐる宮廷闘争も熾烈であった。

中世以後は、天皇は国家権力を喪失したので、宮廷闘争も相当に緩和された。ただし、幕末に至ると、天皇は現実政治における闘争の渦中に巻き込まれ、孝明天皇についての「毒殺説」が説かれることとなった。
(コメント:中国側委員の日本の古代の権力機構についての見方は皮相的に過ぎるようだ。3世紀の卑弥呼と男弟、7世紀の多利思北孤王と俗事担当の弟、というような、宗教的な権威者と俗事為政者という古代からの流れ、という伏流にまで考えをいたすならば、などを中国の研究者に求めるのは、無いものねだりなのだろうか?)

●(コメント:以下、北京の紫禁城と、京都御所を比較するなら、・・・・と豪華の美と質素の美の話が続き 統治の道具としての道教と神道という「道」についてA4版5ページわたって詳説されているが省略し、まとめの部分を紹介します。詳しくは外務省のホームページの発表から原文を参照してください。)

●既に明瞭になったように、道教の宗派制度に類したものは、確かに制度として日本へ伝わることはなかったけれども、道教に包含される哲学思想、科学技術、祭祀風俗が日本へ伝わり、日本の神道が道教の精華を大幅に吸収して、道教が日本古代の政治体制、天皇制に対して否定できない影響を与えたのである。
仏教が日本に入ったのはあくまで「仏教」としてであったが、道教は日本に入ると神道のうちに隠れることとなった。こうして、仏教は日本に伝わったが、道教は日本に伝わらなかったというイメージが作り出されたのである。
(コメント:この結論はどうかな。「仏陀」もヤオロズの神として受け入れられたのではないかな?)


     (古代・中近世史篇 中国側論文 完)

一応「日中歴史共同研究」プロジェクトのうちの「古代・中世史」に関する中国側の論文の紹介は以上で終わりです。


続いて同じテーマでの日本側委員による論文とその批評を紹介します。当方のコメントは、中国側論文との区別が分かるように青色とします。


  B)古代中世史篇 日本側論文

「日中歴史共同研究」の紹介と批評も中国側委員の論文を終え、日本側委員の論文へと進むことになります。
内容は、中国側論文と同じく次に紹介する目次に見られるように、10編の論文が日本人委員によって論じられます。

<古代・中世史>

総論

序章 古代中近世東アジア世界における日中関係史  山内昌之・鶴間和幸

第1部 東アジアの国際秩序とシステムの変容

第1章 7世紀の東アジア国際秩序の創成  川本芳昭
第2章 15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係 村井章介

第2部 中国文化の伝播と日本文化の創造的発展の諸相

第1章 思想、宗教の伝播と変容  小島毅
第2章 第1節 ヒトとモノの移動 経済史  桜井英治
     第2節 美術史から見たヒトとモノの移動  井手誠之輔

第3部 日中両社会の相互認識と歴史的特質の比較

第1章 日本人と中国人の相互認識
    第1節 日本人と中国人の相互認識  古瀬奈津子
    第2節 江戸期日本の中国認識  小島康敬
第2章 日中の政治・社会構造の比較  菊地秀明


●上記のような10論文、A4版で70ページにも上る膨大な量です。日本史関係論文として、いわゆる「定説」に基づいて述べられています。
それらの中で、当方が気になったところを、本人としては論理に従っての公平な立場からのつもりですが、つまり恣意的に、紹介していきますことを了承ください。
詳しくは、外務省のホームページまたは勉誠出版『日中歴史共同研究』第1巻〈古代・中近世史〉北岡伸一・歩平 編を参照ください。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf


古代・中近世史 総論
(コメント:この総論は、座長〈北岡伸一氏〉が主となってまとめた、ということのようです。)

●日本と中国の関係は古来非常に密接で、しばしば「一衣帯水」と形容された」という冒頭の分から始まり、この2006年に始まった日中共同歴史研究の経緯と意義について述べている。
その中において、「古代・中近世史分科会の両国の研究者は、最も重要な経験は研究過程における率直さと公平性であると認識し、終始謙虚な姿勢でこのために努力してきた。
双方で歴史の出来事の見方や評価が分かれるときには、唐代の歴史家、劉知幾が言うところの、他善必称、己悪不諱(他の善い点は必ず賞讃し、自ら の悪い点は隠しだてしない)との主張に従ってきた。

●すなわち、古代・中近世史 分科会の両国の研究者たちは、共同研究をより実り豊かなものとするために、東アジア地域史や世界史の文脈で日中両国の歴史を多面的な角度から眺めるな どして、相手側の長所を掘り起こすことに努めると同時に、自らの欠点を隠そ うとはしなかった。
こうした広い視野は、新しい時代の日中歴史 共同研究にふさわしい成果をもたらす基礎でもあった」、と述べる。

(コメント:この報告書を一読した限りでは、双方の意見が果たして真摯に討論されたのか、記録が発表されていないので判断ができない。)

●歴史の事実を見るときに、われわれは 「実事求是(事実にもとづいて真実を求める)」の原則に極力従おうとする。双方共に、歴史は真っ暗な世界を無数のランプで照らし出すようなもので、はっきりしているところもあるとはいえ、やはり光の届かない曖昧模糊とした部分もあると考えている。
古代・中近世史という史料の限られた分野で、そうした曖昧な部分について主観的な推測と判断で満足することは当然できない。古 代・中近世史研究とは、史料を掘り起こし、疑問を消し去り、そのうえで判断の正確性を高めていく過程の中で一致した認識である。

(コメント:このような模範的態度が、はたして具体的問題に対して、どのように取られているのか注目していきたい。)

まとめとして

「自分の意見と異なる意見」の尊重こそ、日中歴史共同研究において古代・中近世史の研究を成功させる条件でも あったと言えるかもしれない。これはまさしく「実事求是」の精神を体現している。
この精神に立った本報告書は、不十分な点があるかもしれないが、日中両国歴史家の3年にわたる努力の結果であることを読者にご理解いただけるよう期待する。

(コメント:努力の結果をj拝見しましょう



序 章 古代中近世東アジア世界における日中関係史
山内昌之・鶴間和幸

はじめに~友好二千年の見直

●日本と中国との間に、二千年余りの外交の歴史があるというのは周知の事実である。今か ら二千年前の西暦57年、倭の奴国が後漢の光武帝に使節を送って朝貢して金印を賜与されて以来、日中の外交史が始まった。
その二千年の歴史のうち、1840年アヘン戦争以降は近代とされる。その近代の百六十年余りの歴史を除くと友好であったというのがこれまで両国での一般的な見方であった。

(コメント:「倭の奴国」が最初に出てくるのです。「倭の奴国」という小国との国交から始まるのでしょうか?中国正史には「倭奴国」とあるのに、金印の読みも「漢の委の奴国」といういわば三段階読みで中国側も納得したのかな?中国側にとってはどっちでもいい問題だったのでしょうか。何か国際談合的臭いを感じる。)

●1972 年の日中共同声明では、「日中両国は一衣帯水にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している」と述べられ、「長い友好の歴史」と「不正常な状態」 とが対比されている。
一衣帯水という漢語、すなわち海に隔てられていても一筋の帯のように細い海であることが両国の友好関係を象徴しているとされた。

●1992 年に天皇が訪中したときの楊尚昆国家主席による歓迎辞のなかでも、近代の「不幸 な歴史」に対して「中日両国は一衣帯水の隣国であり、両国国民は二千年以上の友好往来の歴史を有している」ことが強調された。
これに対して天皇は、「中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期」に対比させ、「特に、7世紀から9世 紀にかけての遣隋・唐使の派遣を通じ、我が国の留学生は熱心に中国の文化を学びました。両国の交流は、古代から長い間平和裏に続き、我が国民は長年にわたり貴国の文化に対し深い敬意と親近感を抱いてきました」と話している。

●1998年江沢民主席が早稲田大学で行った「歴史を鑑として、未来を切り開こう」という 講演でも、一衣帯水の隣国の悠久な二千年の歴史を、秦漢、南北朝、隋唐、宋から清と時代を追って述べている。日本人民が各時期に外来文化を学習し、そこから新しいも のを作り出す偉大な民族であったことが強調されている。

●2008年5月胡錦涛主席が同じ早稲田大学で講演を行った。中日両国人民の友好往来の歴 史に言及し、とくに長い歴史の過程において中日両国人民は互いに交流し、互いに学び合 い、東アジアの文明と世界の文明の発展に貢献した相互性を強調した。

●以上のように近年の日中友好に関する双方の意見を紹介し、次のように結んでいる。
「私たちはいま、日中間の歴史研究者の議論をふまえて、二千年の友好の時代の意味をより深く掘り下げていくことが求められている。前近代が友好であり、近代が不幸であると概括されたことの意味を十分踏まえ、未来に向けて友好をより確かなものにしていかなければならない。私たちは具体的な史料に基づいて、前近代の友好の時代の歴史の真実に冷静に 向き合っていかなければならない」と。

コメント:美辞麗句すぎるまとめ、という感想だ。ここで述べられている「具体的史料に基づいて歴史の真実に向き合う」ということが如何に困難なことであるか、思い知ることにならなければよいが。)

閑話その4

●朝日朝刊に、安部総理が戦後七十年に出す談話について、有識者委員の一人の北岡伸一郎氏が、講演会で「首相には中国へ侵略したことを言ってほしい」と言ったことを「ニュース」として取り上げていました。
北岡氏が日中歴史共同研究で座長を勤めて、6年がかりで報告書をまとめあげた人物、ということを知っていれば、このような発言を北岡氏がするも当然と思われます。
政府が選んだ有識者が、首相(の意向?)に反する発言をする、というところにニュース価値を見出したのでしょうが。
朝日新聞北岡氏の発言

この記事を書いた記者は、「日中歴史共同研究報告書」を読んでいないのではないかな。

閑話休題「日中歴史共同研究」に戻る


一、共同研究のテーマ設定と議論の経過

●(古代・中近世分科会 と近現代史分科会という時代区分が設けられた経緯について説明している文章の概略は、次のようなものである。)
中国では1840年のアヘン戦争以前の時代を古代という。一方日本の中国史研究者の 間では、近代以前(前近代)を古代・中世・近世に分ける時代区分を取ってきた。
日本人の研究者の間でも、古代の終末を後漢から魏晋期に置く見解と、唐代末期に置く見解の違いが存在する。
時代区分の歴史認識の差は、同じものを別の角度から見るというよりも、中国史と日本史とを相互連関的に東アジアという地域世界史のなかでとらえようとする日本の研究者と、中国史を多民族からなる中華民族史として捉え、その周縁に対外関係史を位置づけようとする中国の研究者との見解の差によるものといえる。

その差は予想以上に大きかったが、互いの率直な議論のなかで、双方の立場を理解する道が開かれたと考える。
2006年12月に日中歴史共同研究の第1回会議が北京で開催され、2007年3月に第2回会議を東京で開催した。
ここで中国側はあくまでも、これまで研究蓄積のある中日交流史の成果に基づいた共同研究を主張したが、日本側は東アジア世界のなかで、日中の外交、文化交流、そして社会構造を比較していくことを主張した。

当初その違いは予想以上に大きかったが、中国側は日本側の提案に対して大局的な立場から理解を示し、日本側 も共同研究という性格から柔軟な姿勢をもって中国側の意見に応じ、頭初紹介した目次を紹介している。

(コメント:「日本」の地理的範囲をどのように取り扱ったのかな?
この議論の過程で、8世紀に日本の律令政治が始まり、その規定する国郡の範囲、つまり、「日本列島」と中国大陸との交流の歴史、という検討範囲が定まり、琉球列島や北海道は検討範囲の外とされたようだが、果たしてそれでよいのかな?)

●中国の断代史では、日中双方の歴史認識の差は問題にならず、日本の歴史や文化交流史を超えた深いレベルでどう係わってきたかについて、今まで議論されることがなかった。
中国にとって前近代の日本は外交上の一国であって、中国文化 を一方的に受容するだけの存在であり、逆に中国の社会を左右するような影響を持つものではなかった。
ユーラシアの東端に位置する中国にとって、東の海を隔てた日本よりも、陸続きである北方遊牧地帯、朝鮮半島、西域、東南アジアとの関わりの方が重要であったことはいうまでもない。
したがって中外関係史の一つとしての中日交流史を研究すれば十分であった。
しかし一方の日本側の認識では、中国文化を受け入れることが日本という国 家、文化にどれほどの影響を与えてきたのかは計り知れないと考える。

大陸の文化は、大部分一方通行の形で朝鮮半島と中国の沿海地域から日本列島に入ってきた。したがって日中 の歴史を振り返るときに、日中間の不均衡な関係の分析から出発しなければならず、日中 関係史や交流史のレベルの解明ですむはずがなかった。
東アジア世界という国際世界のなかで、日本と中国の歴史は展開してきたし、そのなかでヒトやモノが移動し、思想や宗教も 伝播してきた。その日中の歴史認識の差を、まずは理解することから私たちの日中共同研究は始まったといえよう。

(コメント:ここで指摘されている「歴史認識の差」を具体的に例示して欲しかった!)

●委員の補充も行い、議論の不足分を補い、2008年3月に第四回目の会合を行った。史料に基づいて事実誤認は修正し、相手方の立場を重視するために改めるべきところは率直に改める雰囲気が出てきた。
一同は福岡の九州大学総長室を訪れ、郭沫若の書「実事求是」を実見し、あらためて歴史共同研究の基本精神を確認した。

(コメント:この「実事求是」を基本精神にする、ということが如何に難しいかを知れば、そう簡単にスローガンに掲げるてもよいものかな)


二、一国史史観の克服

(コメント:この項で、「一国史史観の克服」という、違った国家の歴史を同一の視点で叙述することができるのか、という困難な作業の経過について報告されます。)

●7世紀の白村江の戦については、『旧唐書』の記述は簡単であり、唐にとってはそれほど重要なものではなかったという認識である。
壊滅した百済軍の400隻の中に、「倭衆」が紛れていた程度の劉仁軌の認識であった。劉仁軌は新羅・百済・耽羅・倭の四国の使者を伴って帰国し、泰山の封禅の儀式を行うこととなる。

(コメント:泰山の封禅の盛典に倭国が参加したことは中国の史書に見えるが、日本の史書には出ていない。劉仁軌が倭国の誰を連れて行ったのかも不明である。この問題について全く検討されていないようだが、それでよいのかな?)

●白村江の戦については、東アジ アだけでなく、唐の周辺地域に広げて見れば、東方での戦争の勝利が唐にとっても大きな意味をもったことは否定できない。(後出の)川本芳昭論文は、大国唐と小国倭との関係で捉えようとはしない。同じ土俵の上に唐と倭を位置づける。
すなわち唐も中華の外にあった五胡、北朝の系譜を引いた王朝であり、東アジアに自らを中心とした国際秩序を築いていく。
一方の倭も東夷から脱却し、やはり自らを中心とした「中華」を目指そうとした。そのよう な両者の動きの中で戦争は起こったのである。

(コメント:確かにこのような日中両国の見方の違いはあるだろう。しかし、人質の王子を担いで復興戦を挑んだのは、旧百済との義を重んじたのか、利権を失うのを恐れたのか、そのような俗説の方が案外的を射ているのではないかな?

●日中間の前近代の戦争は、日中関係史という範疇だけでは理解できない。朝鮮半島を含 めた東アジア世界のなかで位置づけなければならない。そして戦争があった事実も「友好の二千年」の陰に隠すべきものでもない。

(コメント:ここで、日中間の戦争という範疇から外れるかもしれないが、「隋朝による琉球王国侵攻」という中国の正史『隋書』に残る「史実」が、当時の「俀国」の為政者に与えた影響についても考えをめぐらすべきではないのかな)

●(続いて)日中間交流史について日本の研究の紹介をしている。そのなかでは特に、木宮泰彦の『日華文化交流史』は中国語でも出版され今でも中国側の研究に大きく役立っているという。
日中交流史というが、厳密にいえば倭の奴国王が後漢光武帝に朝貢使節を出 したことは、日本と中国の外交ではなかった。奴は北九州の北端にあった小国であり、倭も日本列島全体を指すものではない。

(コメント:木宮泰彦の『日華文化交流史』が中国語で出版され、中国側委員が引用しているので、ちょっとケチを付けている感じだ。しかし、その文句の付けようが「倭の奴国」ということについてであるのは、自分の墓穴を掘る感じがするが?)

●現在の日本からさかのぼった歴史は日本史であるが、私たちは海に囲まれた日本列島を 舞台とする歴史を時間系列で見ていかなければならない。同様に中国史とは現在の中華人民共和国にいたる過程の歴史であり、王朝の変遷という歴史の流れを見ていかなければならない。

(コメント: 日本列島というが、沖縄・北海道と中国との交流について除外してしまってそれでいいの?)

●近代の歴史学がそもそも国民国家の歴史から出発した以上、一国史の枠から抜け出るこ とは容易ではない。
一国の内と外の関係は、とくに前近代の歴史では、外交、交易を外、政治・社会・経済・文化の歴史を内として、別に切り離される。
その結果、対外関係が国内の情勢に影響があったのか、なかったのかというレベルで語られがちである。
(とくに四方を海に囲 まれた日本は、海を渡ることによってはじめて外国との関わりが生ずるので、より一国史的観点の呪縛は強かった、と著者は述べて、西嶋定生や網野善彦の著作を引用し、東アジア世界論を展開する。また、近年の宮地正人、桃木至朗などの地域史・海域史としてとらえる論点を紹介している。)

(コメント:四方を海に囲まれている、という点ではグレートブリテン島も同じだが、そこではイングランド一国史では語れない。「四方が海」=「一国史的呪縛が強い」というのは、普遍的には成り立たないのでは?)


●三、歴史教科書に見る日中関係史

(コメント:この項での日本側の論文は、中国正史に見える日本関係の記述について説明をしているのだが、初歩的な間違いがある(後述)。折角のこの大プロジェクトの大きな瑕疵であろう)

●著者は、日中双方の歴史認識の差が顕著であることをまず述べて、概略次のように書いている。
日本では、日本史と世界史における日中関係の記述が異なっている。日本史研究者と中国史研究者の視点の相違によるものであり、「史料」というもの自体が日中それぞれの世界観で書かれている、という点の指摘が行われる。
中国史の研究者は中国の資料、日本史の研究者は日本の史料によって研究するから自ずと異なってくる。
現在の日中の教科書にみる日中交流史の記述の違いは、正史の記述の読み取り方の違いからきているようである。

●(その断代史の中での日本列島の位置づけの著者の説明の概略を記します。)
『後漢書』では東夷列伝の最後に「倭」が登場する。

『三国志』の『魏書』の烏丸鮮卑東夷伝としてまとめられている。
『隋書』では、東夷伝に六国が記載され、「琉球」の後、最後に「倭国」が入る。

(コメント:何故か「俀国」という国名についての疑問も解釈も上げない。)

『旧唐書』では、四夷の列伝と突厥・迴紇・吐蕃のそれぞれの列伝があげられ、四夷とは別の位置づけがされている。

(コメント:東夷列伝の中に「倭国」と「日本」と別項だての説明になっていることを、なぜか著者は書かない。)

『新唐書』では、四夷の列伝の東夷伝の中で高麗・百済・日本・流鬼と並ぶ。ここで始めて天皇の系図が見える。
『宋史』では、八つの外国列伝の七番目に倭国と日本国が並列してはいり、ここでも歴代天皇の年代紀を掲げる。

(コメント:この断代史の中での日本列島についての記述について、”『宋史』に「倭国」と「日本国」が並列されて云々”、とあるが、明らかに間違っている。この日本側の論文を中国側は本当に読んだのでしょうか?
このような間違いが堂々と校正されずに残っていることは、本報告書のレベルが疑われても仕方ない。)

『元史』では三つの外夷伝の云々(以下略)

(コメント:元寇について『元史』では殆ど触れていない。このことに日本側委員には何も意見はないのかのは不思議に思える。全体として、これらの断代史には「琉球伝」もいくつもあるのに、「琉球」に関しての発言が全く見られないのも不思議だ。)

●(中国の伝統的な正史は「華夷思想」で、現近代史は漢族の歴史でなく「多民族史観」である、と概略次のように説明する)。

中国の歴史教科書に見る倭や日本関係の記事は、歴代正史の東夷伝からの引用が多い。
たとえば中国の歴史教科書の隋唐史の箇所には、多民族国家の発展と友好的な対外関係の記述が別々に述べられている。多民族国家の発展では突厥・回紇・靺鞨(渤海国)・南詔 ・吐蕃の歴史が述べられ、友好的な対外関係の箇所では、新羅・日本・東南アジア・インド・中央アジア・西アジアからヨーロッパ・アフリカへと広がる世界が記述されている。

しかし伝統的な正史の華夷思想と現代の多民族史観(中華民族史観)とに差異があることも確かである。
靺鞨、渤海は『旧唐書』『新唐書』では北狄列伝に入っているが、現代の歴史教科書では唐の版図に入れて説明される。
それは中国史が漢族の歴史としてではな く、多民族からなる中華民族の歴史として語られているからである。

中華思想は中国だけのものではなかった。日本の古代においても、とくに8世紀、大宝律令以降みずからを中華とし、冊封することはなく、唐を隣国、新羅や渤海を蕃国とした。

(コメント:ここで華夷思想と漢族中心の史観というのがごっちゃになって語られているようだ。古来、北方の漢族以外の民族による王朝が立てられたことの方が多いのではないかな?

●阿倍仲麻呂と鑑真は日中双方の教科書に取り上げられている。日本史教科書に鑑真、世界史教科書に阿倍仲麻呂、中国の教科書には日中友好交流の象徴的な貢献者として両人を登場させている。
中国の歴史教科書では、何故か魏晋南北朝の時期の東アジアの記述つがすっぽり抜け落ちている。
倭の奴国の後漢への朝貢か らいきなり隋唐期の日中交流史に移ってしまうのだ。中国の教科書では北方少数民族と漢族との融合の記述が重視され、また仏教が盛んになったことから西方文化への関心が高かった点が強調されている。

●中国において、元朝は統一的な多民族国家として描かれてる。そして元朝と日本との 関係では、経済文化交流が行われ、仏教と飲茶の風習が日本で盛んに行われたことには言及するが、日本史にとって重要な元寇については、まったく記述がない。
『元史』外夷列伝には元の世祖が高麗を通じて日本に国書を送ったことと、その後の至元11(1274)年 七月に九百艘、兵士1万5千人が日本に遠征したが失敗したこと、至元18(1281)年に再度10 万人を日本に送って失敗したことは確かに記述されている。
しかし、伝統的な正史の 外国伝に記述された日中関係の重要な記述が教科書には活かされていない。元朝を中国史に おける征服王朝として位置づける見方をとっておらず、高麗の服属や日本遠征などをとりあげ ることがない。
13 世紀の東アジアの歴史は、元の動きを中心に動いており、高麗の服属、 南宋の滅亡、2回にわたる日本遠征軍の派遣は、それぞれ密接に連関していたことを忘れてはならない。13 世紀から16 世紀の倭寇の記述は日中両国の歴史教科書で異なっている。(以下略)

(コメント:中国がモンゴル帝国の一属国になったことを、中国人として直視できないのではないかな。それこそ中国に対して、客観的な歴史の叙述を行ってあげたらどうかな?)



四、中国文明と東アジアの海

日中共同声明のなかに、「日中両国は一衣帯水の隣国であり、長い 伝統的友好の歴史を有する」という一節があった。一衣帯水とは本来は一本の着物の帯のように狭い川の流れをいい、古くは隋文帝のことばにも見える。つまり海によって両国は隔てられているものの、その海 は帯のように狭いものであり、長い友好の歴史を持ってきたではないかという文脈で使われた。

しかし一衣帯水は象徴的なことばであり、現実の海への関心を示すものではない。 日中間にはさまれた現実の東アジアの海への認識は、歴史的にも揺れ動いてきた。とくに近代になっても領海がわずか3海里の時代は海の国境をめぐる紛 争は起こらなかったが、1970 年代以降12 海里を領海とし、また200 海里の排他的経済水域内の漁業権や海底資源の開発権が主張されるようになってから、領海など海をめぐる問題は国際間の摩擦の原因になっている。
(以下、中国の内陸文明、我が国の海洋文明についての論述があり、中国が必ずしも内陸文明ではなく、島嶼数、海岸線という面からみても我が国と遜色なく、内陸にも水上交通網が広がっていた、」と説く。)
最後に、【現在、こうした東アジアの自然現象に、国境がないことを十分認識し始めてい る。黄砂という自然現象、黄土高原に見られる森林の伐採による環境の変遷など、黄河長江下流域と東アジア海の環境は、環境を視点に入れると、東アジア海をめぐる地域は、まさに共存すべき世界であることがわかる。歴史学者の地域認識は、自然科学者に遅れをとっているようだ。いまや古代・中世・近世という時期区分が、社会の発展段階をも共有することを求めるものではなくなった。同時代のモノやヒ トの流れによって時代を共有してきたことこそ重要であり、その歴史をまずは明らかにしておく必要があろう。】と述べている。

(コメント:ここで述べられていることは至極まともなことだ。)


おわりに~前近代の歴史認識の共有への展望

●ここで日中歴史共同研究にも参考となる日韓歴史共同研究について一言しておきたい。(と、次のように概略述べている)

日韓歴史共同研究は、2002年5月に始まり、活発な討議をへて2005年11月に報告書が出された。
古代史の第1分科では、4世紀から6世紀の日韓関係史が取り上げられ、「広開土王碑」、『宋書』倭国伝、『日本書紀』などの史料の性格など が議論された。

第2分科では、偽使(正規の使節を装った朝鮮王朝への使節)、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)、朝鮮通信使が取り上げられ、研究史の整理ととともに専門論文が日 韓双方から発表された。前近代の日韓関係は、日中関係よりも直接軍事的に衝突することが多く、共通の認識の共有に達することは難しいが、双方の歴史認識の違いを確認したこ との意義は認められるだろう。

日韓両国でも日韓共通歴史教材制作チームによる『日韓共通歴史教材 朝鮮通信使 豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ』(明石書店、2005 年)などが出版されている。
歴史教育研究会(日本)・歴史教科書研究会(韓国編)『日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 先史から現代まで』(明石書店、2007 年)、歴史教育者協議会(日本)・全国歴史教師の会(韓国)『向かいあう日本と韓国・朝鮮の歴史 前近代編上』(青木書店、2006 年)も出版されており、国を超えた歴史認識へと着実に進んできている。

私たちは東アジアの歴史を日韓関係史と日中関係史に別けてしまうことで、全体の動き が見失われてしまうことを十分認識している。近年日中韓三国間では東アジア共通の歴史 教科書を執筆する動きが進んでいる。
2005 年に日中韓三国共通歴史教材委員会による『未来をひらく歴史-東アジア三国の近現史』(日本:高文研、韓国:ハンギョレ新聞出版 部、中国:中国社会科学院社会科学文献出版社でそれぞれ出版)が三国で同時発売された し、歴史教育者協議会編『東アジア世界と日本』(青木書店、2004 年)も東アジア世界の なかの日本通史である。
また東アジア歴史教育研究会(代表:東海大学名誉教授藤家禮之助)も三国の歴史家 と協力して1996 年以来東アジア共通歴史教科書『東アジアの歴史』作りを目指してまもな く成果を公刊する。

東アジア世界成立の基盤、東アジア世界の形成、東アジアの伝統社会、 東アジア世界の新生、と四部構成で、その三部が前近代であるという。代表の藤家禮之助は、 一国主義史観を超え、東アジアをトータルに捉え直し、「国家」を相対化し、国家権力の 障壁を低くし、未来の「東アジア共同体」共通の教科書の出発点を目指そうとしていると 聞く。

東アジアの歴史上に興亡した国家の領域は、現在の国境とかならずしも重ならない。古代国家高句麗は中国の東北三省と北朝鮮と韓国にまたがっているし、渤海も中国東北三省、北朝鮮、ロシアにまたがっている。中国の古代統一王朝は、中原を中心として現在の中華 人民共和国の領域よりも狭い。

日本の現在の領域が明確になるのも19世紀後半になってか らであった。もちろん現在の領土にいたる歴史をとらえることは重要であるが、かといっ て現在の国境の枠や一国史観にとらわれていたならば、過去の歴史を動態的に捉えることはできない。

日本の世界史の教科書では、高句麗の歴史は中国史でもなく朝鮮史でもなく、東アジア世界という地域史として扱われる。
秦漢帝国崩壊後、中国が南北に分裂する時代、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の三国時代を迎え、日本列島の大和政権もこれと深く関わっていったと説明される。ここでは国家の枠を超えた地域世界史の観点が必要なのである。

いま私たち日中両国の歴史研究者による歴史共同研究も、二千年の日中両国の歴史の意味を議論し、その成果はいつしか共通の歴史認識として教科書執筆にも役立つことであろう。
私たちが提案しているのは、東アジア世界やさらには世界史全体のなかで、日中の歴史を見直していくという立場である。

日本における日本史研究や中国史研究の学界において築きあげてきた成果をもとに、中国の研究者と議論をしながら、あらたな歴史像を築いていきたいのだ。
私たち歴史学者は、互いの歴史と文化の営みを尊重しあうバランスのとれた歴史認識を求めていきたいものである。

(コメント:日本の古代史の明らかになっていない部分、中国や朝鮮の史書に出ていて日本の史書に出ていない重大な問題、『魏志』に出てくる「邪馬壹国」や「卑弥呼」、高句麗好太王碑文にある「倭との戦い」、『宋書』に出てくる倭の五王」、『隋書』に出てくる「多利思孤」と「俀国」、『旧唐書』に記載のある「倭国」と「日本国」の併記など、日本の史書にはまったく姿を見せていない大きな謎、についての解明をせずに、東アジアの真実の歴史が語れるわけがないと思う。
この日本側委員の論文は美辞麗句で模範的な文章が並んでいる。しかし、コメントでいくつか、指摘しているが、『宋史』に「倭国」と「日本国」の併記があるように間違った記述をしていたり、元寇はモンゴル軍によるものであり、中国の侵略ではないかのように、あまり問題視していないのは不思議だ。)

(注) 著者があげている参考図書の著者名を参考までに記しておきます。
竹内実・鈴木俊・西嶋定生・岸本美緒・内藤湖南・谷川道雄・安藤彦太郎・大津透・鎌田元一・杉山正明・ 木宮泰彦・網野善彦・荒野泰典・石井正敏・村井章介・堀越啓介・和田清・石原道博・石井正敏・山田吉彦・蘇暁康・鶴間和幸・川勝平太・鄒逸麟・王勇・古瀬奈津子・藤家禮之助



第一部 東アジアの国際秩序とシステムの変容

第一章 7世紀の東アジア国際秩序の創成  川本芳昭
(コメント:以下の川本論文には、便宜的に小フレーズ毎に〈小見出〉しをつけることにする。)

は じ め に

7世紀の東アジアは、隋による高句麗遠征に端を発する動乱によって幕をあけ、やがて隋の滅亡、唐の建国と拡大、それにともなう朝鮮半島諸国の興亡というようにめまぐるしく変動・展開した。その変動はやがて新羅による半島の統一、日本における古代国家の完成、唐を中心とした東アジア国際秩序の構築へと行き着く。

こうして創成された国際秩序は、それ以前の秦漢魏晋の時代の国際秩序とはかなり様相を異にするものであった。何故なら、7 世紀の国際秩序は、後漢末・魏晋の時代より以降にあって生じた東アジア諸民族の自立化への動き、及び五胡十六国・南北朝時代における諸民族の融合を踏まえ出現した、という性格を持つものであるからである。

よって本章ではまず表題に掲げた7 世紀の東アジア国際秩序が、どのような過程をへて出現したものであるのかについて論じ、それを踏まえて、7 世紀の東アジア国際秩序の実相に及びたいと思う。なお、本章における考察は、本共同研究の性格に鑑み、その主 たる焦点を日本と中国との関係におくこととする。

(コメント:最後に「本共同研究の性格に鑑み、その主 たる焦点を日本と中国との関係におくこととする」と断りをいれていることは、「琉球」を入れていないことへの弁解かな?)

1 倭国「自立化」の過程
卑弥呼の遣使〉

紀元100 年前後の時点において、所謂倭国は誕生したと考えられる。
107年における倭国王帥升等による後漢王朝への遣使は、そのことを後漢へ告げるための遣使であったと考えられる。

その後、239 年、卑弥呼は曹魏へ使節を派遣し、親魏倭王の称号を受ける。
このとき倭国の王としての卑弥呼は、曹魏の遼東への拡大という時機をとらえて遣使したわけであるが、そこには遼東の公孫氏政権が曹魏によって滅亡させられたことの、国際政治上で持つ意味に対する彼女の冷静な判断があったと考えられる。

その結果、彼女が親魏倭王の称号を受けたことは、所謂冊封体制の論理に基づけば、彼女が当時の魏の皇帝たる明帝の臣下となったことを意味する。

(コメント:ここでは、『魏志』にある、景初2年を書かず、単に239年に卑弥呼が遣使した、としている。しかし、正史『魏志』には「景初2年」とあり、それは西暦238年のことである。この「正史」の記事の訂正について中国側はどのような反応をしめしたのであろうか?同じ記事を中国側は「景初2年238年」と記しているが。)

〈倭の五王〉
魏晋の時代における倭国と中国との間の政治的交渉を今日に伝える史料は、266 年より後にあっては見出だせなく なる。すなわち266年より後の、いわゆる倭の五王の時代を迎えるまで、倭国・中国の外交交渉は途絶えるのである。

それが再び復活するのは、東晋末の413年以降のことである。東晋の末から中国への遣使を再開した倭国は、南朝の宋の時代、中国南朝の宋の皇帝か ら倭国王の称号を賜り、以降、宋末の478年まで使節を派遣している。

このことは、 『宋書』倭国伝所載の記事などから窺えることであるが、その際、倭国王は、例えば478年に、倭の五王の最後の王である倭王武から宋の順帝に送られた上奏文において、順帝に対して「臣」と称していることに示されているように、明確に中国皇帝の臣下であることを 認識していた。

(コメント:この綬号記事には、新羅や任那を統べる称号が与えられたと明記されている。この晴れがましい重大な出来事が『日本書紀』に全く書かれていない。なぜ?と川本氏は不思議に思わないのかな?)

倭王武とワカタケル〉
しかし、日本の関東に位置する埼玉県の稲荷山古墳、および九州に位置する熊本県の船 山古墳から出土した、その倭王武(獲加多支鹵すなわちワカタケル)の時代のものとされる5世紀後半の鉄剣、鉄刀にはそれぞれ銘文が刻まれており、そこには「治天下(天下を 治める)」という記述が見える。

(コメント:倭王武=ワカタケル=雄略天皇という証明が先ずなされるべきでしょう。)

〈天下とは〉
このことは、5 世紀後半の倭国の王が、「天下」を治め る王でもあったことを伝えているとされよう。稲荷山古墳出土鉄剣銘文の冒頭に見える辛亥年は、現在471年を指すことが、多くの研究者によって支持されている。つまり、『宋 書』倭国伝中の倭王武の上表文が、順帝に差し出された478年をさかのぼる471年の時点で、 倭王武は「治天下大王」と称し「天下」を治めていたと考えられるのである。

(コメント:倭王武が478年順帝に上表したことが、471年に「治天下大王」と称したワカタケルと同一人物と、と決めつけることにはならないのだが?)

日本国内から出土した鉄剣、鉄刀の銘文には、「治天下」 の表記が見えるのである。中国の政治思想において、天下を治めうるものは天命を受けた唯 一人たる天子-皇帝である。乱世において幾人かの天子が乱立する際、彼らが相手を非正統と攻撃し、天下の統一を目指すのは、自らのみが天命を受けた正統な支配者であることを、天下に示すために他ならない。

(コメント:銘文にある「治天下」の「天」と、中国皇帝が「天命」を受けて、の「天」と同一の意味であることを確かめてから論ずべきではないかな?)

このことを踏まえると、5 世紀段階の倭王武は内に対し ては「治天下大王」と称し、中国皇帝の対しては称臣するという、ダブルスタンダードの 政治姿勢を使い分けていたということになろう。

(コメント:倭王武=ワカタケルという前提で論を進めるから、結局は「ダブルスタンダ-ド」という結論に成らざるを得ない。これが別人であれば、「ダブルスタンダード」などというおかしな結論にはならないのに。)


2  四~六世紀朝鮮・中国における中華意識の叢生

華夷思想〉
前節で見た古代日本における天下意識は、やがて日本を中華とする意識へと展開するが、 これと同様の動きは、すなわち中国から見たとき「夷狄」の建国した王朝が、中華を標榜するようになる動きは、同時代の朝鮮や中国にあっても生じていた。

(コメント:このあと、「今これを朝鮮、中国の 順に見てみる、云々」と詳述していますが省略します。くわしく知りたい方は本を購入されるか、ネットで外務省のHPの日中歴史共同研究のURLをクリックしてお読みください。)



3  七世紀冒頭・遣隋使段階における倭国と中国の関係

(コメント:この「七世紀冒頭・遣隋使段階における倭国と中国の関係」が、川本論文の目玉的なところです。あまり端しょらずに紹介したいと思います。)

第一回多利思北孤の遣使〉
倭国からの中国への使節は倭王武による478年の遣使を最後として、以後隋の開皇20年(600)までの120年余の間途絶する。

『隋書』倭国伝には、その開皇20年における国交再開時において、倭国使と隋の高祖・文帝との間に交わされた問答を伝え、 開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、「倭王以天為兄、以日為弟。天未明時出聽政、跏趺坐。日出便停理務、云委我弟。」高祖曰、「此太無義理」。於是訓令改之。 とある。

倭王武による478年の遣使以来122年ぶりの、この倭国による遣使再開は、西晋崩壊後の、300年になんなんとする混乱を収束して589年、隋が中国を統一したこと、及びその 統一のエネギーが半島に及び、高句麗と隋との間に緊迫した事態が生じた状況下に行わ れたものである。それ故、そのような緊迫した状況下における外交の現場において発せられ た倭国使の発言は、到底単なる問答などではないと考えられる。

(コメント:『隋書〉には「倭国伝」はなく、「俀〈タイ〉国伝」とある。何らのエクスキュースないのは中国正史に対して失礼ではないのかな?)

〈倭王以天為兄、以日為弟〉
このときの倭国使の回答 によれば、倭王は「天の弟」(当時の大王は推古であるので天妹とすべきか)、「日の兄」ということになる。周知のように「天子」は単に「天の子」のみを意味するのではなく、地上世界を統治せよとの天命を受け、天下に君臨する皇帝そのものを意味し、「日」 は中国では皇帝そのものを暗喩する用語である。

また、倭王が「天の弟」ということを、中国的家族制度に基づき天子たる中国皇帝の側からから見れば、倭王は中国皇帝の叔父、叔母の位置に属する尊属ということになり、倭王が「日の兄」ということを「日」と暗喩される中国皇帝の立場から見れば、倭王は中国皇帝の兄ということになる。

つまり、このことが文帝をして「これははなはだ理屈の通らない話だ」(此太無義理)と言わしめた原因と考えられ、ために前掲の『隋書』倭国伝の記載の末尾に、「於是訓令改之」と見えるような対応が文帝によって採られたと考えられるのである。

(コメント:この解釈は、木を見て森を見ず、の典型的な例であろう。兄の俀王が夜の明けるまで宗教的な勤めを為し、日が上ると弟に俗事の政を委ねる、と文面そのまま解釈すれば、文帝が、そのような体制は理に適わないものだと訓示した、ということだ。
このような「兄弟政治」が当時の近畿王朝に例が見当たらないので、このような、解釈をひねり出したと思われる。
尚、この文章によれば「タリシヒコ=推古天皇」としているようだが、あいまいな表現になっている)

〈第二回多利思北孤の遣使〉
このことを念頭において、この開皇20年(600)から7年後の、大業3年の際の小野妹子が煬帝にもたらした国書に見える、「日出處天子致書日没處天子無恙云々」の記事について考えてをみよう。

従来の研究では、この国書の内容が倭国側の対等外交を求めた姿勢が示されたものとする理解が大勢であるが、上で明らかにしたことがらを踏まえれば、一歩進んでこれは一面では大業3年の遣隋使において、倭国側が文帝の訓令を受けて、一定の譲歩、修正を行ってきているものと見ることもできる。

何故なら大業3年の国書における小野妹子のもたらした国書の内容が、煬帝から見たとき、いかほど不遜なものであろうとも、「日出處天子」「日没處天子」という形でいずれもが「天の子」であると称しており、決して自らを「天の弟」「日の兄」などとは称していないからである。そこには開皇20年のときに見られたような叔父・甥や兄弟という家族的秩序になぞらえ、倭王を皇帝より上位に位置づけんとする姿勢はなくなっているからである。

(コメント:小野妹子が多利思北孤の国書を持参した、というのは事実かな?それを確かめるには、まず、「多利思北孤とは誰」を抜きで論を進めてよいのだろうか?
また、最初の遣使の兄弟政治の説明と、多利思北孤の国書の東西の天子の表現は、何も「譲歩・修正」の結果でなく、同一の体制であることの証明ととるのが自然でしょう。)

〈第二回多利思北孤の遣使は小野妹子?〉
外交という問題の性質上、大業3年に遣隋使として中国に至った小野妹子が、その7年前の遣使の際、文帝が倭国使に対し「此太無義理」と述べ、天弟・日兄の主張を改めるよう「訓令」したことを認識していなかったということは、ことが国家の浮沈に関わる外交案件であることに思いを致せばあり得ないことがらである。

それゆえ、小野妹子がもたらした国書に見える「日出處天子致書日没處天子無恙」の表現は、倭国側が文帝の「於是訓令改之」という下命を踏まえた上で作成したものということになるのである。

(コメント:第二回とされるこの俀国の遣使が小野妹子ということは中国史書には出ていない。著者は何らかの説明が必要なのではないのかな。)

ところで先に見たように『隋書』倭国伝によれば、小野妹子のもたらした国書を見た煬帝は、覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。と述べたとされるが、この状況は、開皇20年の遣隋使との問答をへて、それに対してその不合理さを指摘した文帝の場合と似通っている。

文帝の場合はその不合理さを改めるよう「訓令」している。文帝がその「訓令」を文書の形で倭国使に手交したのか否かは定かではない。

(コメント:前項で指摘しているように、「小野妹子がもたらした国書」が既定事実として、さらに発展させた砂上楼閣の推論と言わざるをえない。)

〈遣使裴世清〉
『隋書』倭国伝に、小野妹子の帰国の際、同行して倭国に至った裴世清が倭国王と会見したことを伝えた記載が見え、そこには、裴世清と会見した倭王は大いに悦んで、「私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いた。故に使い(小野妹子)を遣わして朝貢した。私は夷人であり、海中の片隅にいるために礼儀というものを聞くことがなかった。そのため国内に留まって謁見できなかった。いま、故に道を清め館を飾り、大使を待った。冀わくは大国惟新の化を聞かん」といった。

裴世清はそれに答えて、「皇帝の徳は天地にあまねく、その恵みは四海に及ぶ。王が皇帝の化を慕ったが故に行人を遣わして宣諭するのである。」と述べた、とされている。

(コメント:『日本書紀』によれば、裴世清は推古天皇と会見していない。この矛盾の説明が必要でしょう。)

〈裴世清持参の国書〉
一方、裴世清は『日本書紀』推古紀の記述によれば、来日の際、煬帝の国書を持参したと伝えられ、またその国書を倭国王に伝達・会見した後のこととして、『隋書』倭国伝には、其後遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。とある。

これらのことは、裴世清の来日が倭国に対する宣諭を目指したものであったことを示しているが、現行の『隋書』や『日本書紀』などの史書による限り、そこに「日出處天子致書日没處天子無恙」とある文言に対して無礼であるとした煬帝の意向を伝える倭国王に示された「訓令」にあたる文言は見あたらない。

(コメント:俀王と推古天皇が同一人物という前提では解けない謎でしょう。)

〈煬帝の不快の念
『隋書』倭国伝によれば、文帝の場合、倭国使の回答に対して「此太無義理」と述べている。煬帝は「覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞」とあってあからさまに不快の念を表明している。
この文帝と煬帝の対応を比較した場合、その不快の表明は煬帝の方が強くなされているといえよう。

ではこの煬帝の「不快の念」はどのように倭国へと伝達されたのであろうか。小野妹子のときの場合、ことが倭国から送られた国書に対する「不快」であるからには、その伝達が遣隋使(小野妹子)に対してのみにとどめられた、あるいは倭国中枢への伝達を要しないものとして処理された、といったことは考え難いであろう。

しかし、従来の研究はこの点について全く考究することなく、煬帝が「不快」であったにもかかわらず裴世清を派遣したのは、当時の隋が対高句麗の関係で、その背後に位置する倭国の存在を重視したからであるとする。

ただし、こうした理解は十分な解答たり得ない。何故なら、倭国への不快の度合いが、煬帝に比べればそれほどでもなかったと考えられる文帝のときの場合は、具体的なことがらは不明であるが、『隋書』倭国伝に、高祖(文帝)曰、「此太無義理」。於是訓令改之。とあるように、なんらかの「訓令」という形でそれが示されたことが窺えるからである。

(コメント:俀王=推古天皇という誤った仮定で解釈するので、ますます謎が解けなくなっていくようです。)

小野妹子の国書紛失事件〉
さらに、この問題との関連で考究すべきことがらが、『日本書紀』には記されている。それは煬帝から倭国へ送られた国書には、裴世清が持参したものの他に、もう一通の小野妹子に託された別の書があり、それが小野妹子が帰国の際、百済によって盗まれたとする奇妙な記述が『日本書紀』に見えることである。

すなわち、推古天皇16年(608)6月、裴世清一行が難波津に至ったとき、彼らをともなって倭国に帰着した小野妹子が上奏してきたことを伝えて、『日本書紀』推古紀に、爰妹子臣奏之曰、「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之曰、「夫使人雖死之、不失旨。是使矣何怠之、失大國之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之曰、妹子雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐。とあるのである。この記載からは小野妹子が煬帝から託されたとする返書の具体的内容を知ることは出来ない。

しかし、具体的論証はここでは省略するが、その書こそが先にその存在を想定した、煬帝からの訓令書であったと考えざるを得ないのである。もしこの小野妹子にもたらされた煬帝の書の中に訓令のことが何ら記されていなかったとすれば、そもそも何故煬帝が裴世清と小野妹子との各々に返書を付託したのかという理由が極めて不可解なものとなるであろう。

唯一、その紛失を恐れ、同一の文書を本国の使節と交渉国から派遣された使節との両名のものに預けるということが想定されるが、中国の外交においてこのようなことが行われた事例を筆者は寡聞にして知らない。よってこうした想定が実際にありえたとは考えがたい。つまり、裴世清と小野妹子のもたらした文書の内容は異なっていたと考えられる。異なっていたとすれば小野妹子の授けられた書は「訓令」の内容を含んでいたと考えられるのである。

何故そのようなことが生じたのかということについては、種々の説があるが、いまはその詳細には立ち入らない。百済によって奪われたという説も成り立ちうるであろうし、小野妹子や倭国の中枢がその書を破棄したということも考えられるであろう。ただし、煬帝が小野妹子に授けた書にいかなる内容のことが書かれていたのかということについて、小野妹子が関知していなかったということはあり得ないであろう。また、小野妹子がその書の内容を知っていたならば、小野妹子は使節の使命として当然そのことを何らかの形で倭国中枢に伝達したはずであるから、倭国中枢もまたそのことを知ることになったであろう。
つまり、国書の紛失の存否に関わりなく、小野妹子の持参した煬帝の書の内容自体は倭国中枢に伝達されていたと想定されるのである。

でなければ、小野妹子失書に対して流罪と決した群臣の議を大王自ら勅命を下して覆し、小野妹子を赦免するということは考えがたいであろう。また、『日本書紀』推古紀には、裴世清の帰国時のこととして、唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子爲大使。とあるように、不可解なことに小野妹子は、煬帝の書を紛失するという外交上の大失態を演じたにもかかわらず、その罪が異例の形で免ぜられたのみならず、裴世清が隋に帰国する際、再び「遣隋大使」に任ぜられ、中国へ派遣されているのである。つまり、聖徳太子などの倭国中枢は小野妹子が失ったとされる煬帝からの書の内容が隋からの「訓令」にわたるものであったことを必ずや認識していたと考えられるのである。

(コメント:小野妹子が国書を受け取りその国書を失くした、という。しかし、同時に来訪した裴世清が国書を持参している。同時に二通の国書が存在したことに対する疑問について述べる必要があると思うが?ともかく、この川本論文の『隋書』についての基本的な問題は、①「俀国」という正史にある国名を何の断りもなく「倭国」に変更していること。②この時代は推古朝であるが、著者の論文には、”倭王は「天の弟」(当時の大王は推古であるので天妹とすべきか)”というところで、唯一「推古」が出てくるに過ぎない。推古天皇架空説なのかな?③かといって、多利思北孤=聖徳太子とも明言しないのも不思議だ。)


4  倭国と唐との「争礼」

〈推古紀の唐皇帝への国書〉
先掲の裴世清帰国の際のことを記した『日本書紀』推古紀の記載には、続けて、唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子爲大使。吉士雄成小使。福利爲通事。副于唐客、而遣之。爰聘唐帝。其辭曰、東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至、久憶方解。季秋薄冷、尊如何。想清悆。此即如常。今遣大禮蘇因高、大禮乎那利等。謹白不具。とある。

ここに「天皇」、「皇帝」、「謹白」などの表現が見えることなどから、この国書で倭王は隋の皇帝を先輩か兄に見立て、倭国の王が隋の皇帝と対等であることを改めて主張している。

(コメント:皇帝と天皇はたとえて言えば兄と弟の差であり基本的に同等と主張している、というのは強弁に過ぎるのではないかな?)

最初の天皇の称号
この際、そこに史上初めて日本における政治的リ-ダーとしての「天皇」という呼称が用いられていることは、注目に値する。
つまり、天皇という呼称はまず外交文書で使われはじめ、従来の大王あるいはオオキミと併用されながら国内で通用するようになったのではないか、そして、やがて律令の中で、天皇号として定着するようになったと考えられるのである。

換言すれば、倭国は自国におけるそれまでの天下意識の形成を踏まえ、遣隋使を派遣した当初、「天弟、日兄」の立場をとったため、文帝の訓令を受け、「天子」という表現を和らげた隋の天子と対等の称号を名乗った。

しかしその後再び今度は煬帝から「訓令」を受け、それを受ける形で「謹白」などの表現を用い、隋の皇帝を先輩か兄に見立てこの問題を処理しようとした、その過程で「天皇」の用語がもちいられる段階に至ったと考えられるのである。

(コメント:著者の「天子」の意味が特殊な感じだ。「天皇」という表現は、継体紀に「日本天皇皇子倶に薨ず」という百済本記の記事が紹介されているが?金石文にも、622年には「法皇」という称号使われていた〈法隆寺釈迦三尊光背銘〉ということから、天皇は少なくともこの「法皇」が自身をその称号を用いる前に、「天皇」という称号を自身に用いられていたと言えるのではないかな?)

〈倭国の自己主張
そこには、南北朝の混乱を終息せしめ、新たに中国を再統一した隋に対し、倭国が一定の譲歩を示しつつも、一貫して強い自己主張を貫いていることが窺える。
この自己主張の貫徹は朝貢国に対し、臣礼をとることを求める中国の立場から見たとき、容認しがたい姿勢ということになるであろう。

先に見た煬帝の不快も、それと同根の政治理念から生じていたものと言える。それ故、このような形での裴世清の帰国は、再び隋側の反撥を呼び起こすものとなった可能性がある。
しかし、『隋書』をはじめとした当時の関係史料は、このことについて語るものがない。史料の欠落という可能性もあるが、おそらくそこには、隋が高句麗遠征の混乱の中で滅亡していったことが、大きく関係していると想定される。また、唐が建国されても、しばらく倭国と唐との間の政治交渉はおこなわれなかった。それが再開されたのは、唐が建国されて10年以上のちのことである。

(コメント:遣唐使は260年間に18回、つまり約15年に1回行われている。特にこの「10年」を長いと思わせるのは恣意的な叙述ではないかな?当然倭国側も「隋朝」を倒した「隋の武将のクーデターが果たして長続きできるのか、と時間を置いたのは当然だろう)

〈高表仁の争礼の相手〉
『旧唐書』倭国伝には、貞観5年(631)のこととして、(太宗)遣新州刺史高表仁、持節往撫之(倭国のこと)。表仁無綏遠之才、与王子(他の関係史料は王子を全て王とする)争礼、不宣朝命而還。とある。

ここに見える礼とは何であろうか。この時期より後のものであるが、『大唐開元礼』嘉礼・皇帝遣使詣蕃宣労の条に、執事者引蕃主迎使者於門外之南、北面再拝。使者不拝。・・・使者称有詔。蕃主再拝。使者宣詔訖、蕃主又再拝。執事者引蕃主、進使者前、北面受詔書。・・・とあり、開元礼においては蕃国を皇帝の使者が訪うたとき、使者は蕃国側の再拝に答えず、皇帝の詔書を宣し、蕃国側は北面して詔書を受けることになっていた。631年の段階においても、この点に大きな相違はなかったであろう。

(コメント:高表仁が争ったのは『旧唐書』には王子とあるが、他の史書には王とある、と著者はわざわざ断りを入れている。つまり、当時、「王子」に相当する人物が近畿王朝に存在しなかったので、『旧唐書』の誤りといいたいのであろう。
『日本書紀』の高表仁については、難波について寒風の下での大げさな迎えに喜びかつ恐縮する、といい、接待役と酒を飲んだ、とあり、礼を争った記事はないが、なぜか著者の説明はない。)

裴世清と王との会見〉
『隋書』倭国伝に拠れば、608 年に来日した隋使・裴世清は、大礼の哥多毗の率いる二百余騎の迎えを受けて飛鳥の都に入り、その後、其王與清相見、大悦曰、「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義。是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使。冀聞大国惟新之化。」清答曰、「皇帝徳並二儀、澤流四海。以王慕化、故遣行人來此宣諭。」とあるように、倭王と会し、その際倭王は夷人と称し、さらに裴世清はそれに答えて宣諭したとしている。

また同じ『隋書』倭国伝には、裴世清がこの倭王との会見の後のこととして、其後遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。としている。すなわち、裴世清は、朝命、則ち煬帝の命令は既に伝えたので帰国したい、と述べているのであるが、とすれば裴世清はこの時点で、使者として「朝命」を伝達すること、すなわち倭王に対する「宣諭」の役割は遂行されたという認識を持っていたことを示している。

(コメント:まず、川本教授は『隋書』に裵世清は大礼の哥多毗の迎えを受けて飛鳥の都に入った、と書くがこれは間違いである。少なくとも「飛鳥の都に入った」とは書いてない、俀王の都に至る、と書いてある、のだ。また、前にも書いたが、『隋書』の裵世清の記事では俀王と面談しているが、『日本書紀』では推古天皇と面談していない。川本教授は、この矛盾についての考察がないまま論を進めるのは、『日本書紀』の誤りで済ませているのだろうか?)

〈綏遠の才が無かった高表仁〉
先に挙げた『旧唐書』に見える高表仁の場合は、後には「綏遠の才が無かった」という評価を下されることになるが、高表仁自身はこの「争礼」の時点で未だ「朝命」を伝達していないと考えていたはずである。その「非礼」とは、彼が唐使として倭国に来朝していることを考えれば、唐の体面に関わる問題が存在していたと考えざるを得ない。

ところで、所謂遣唐使は630~894年の260 年間に18回が計画され、うち15 回が実行に移された。また、この15回の遣唐使の帰国にともなって唐帝の意を帯して勅使が来日したのは、632年の高表仁、778 年の趙宝英の場合の計2 回のみである。

つまり、唐使趙宝英の来日は(ただし、趙宝英は遭難し、実際に来日したのはその部下の孫興進)、高表仁以来、実に1世紀半ぶりのことであった。このとき、その唐使をどのような形で迎えるべきか議論が興り、唐使とともに帰国した遣唐使判官小野滋野は諸蕃国(新羅や渤海など)の礼と同じく接遇すべきを主張し、中納言石上宅嗣は蕃主が皇帝の使者を迎える礼を迎えるべきであると主張している。

(コメント:唐からの使節派遣はそのように2回のみなのである。そのうちの1回目という唐朝の正使高表仁の来訪が、日本の正史はなはだ簡単に記されている。舒明天皇と会ったのかどうかも載っていない。「王子と礼を争ったので天皇に会えなかったのだ」、という岩波文庫の説明的な著者の説明もないのは著者の怠慢ではないかな?)

『隋書』と『日本書紀』の記事の矛盾〉
先に述べた『日本書紀』と『隋書』に見える遣隋使関係の記載には相互に矛盾する点が多く、果たして実態がどのようなものであったのか不明な点が多い。
ただ、これらの矛盾および上述の唐の時代の唐使趙宝英の来日の際の議論を踏まえると、高表仁来日の際の争礼とは、開元令のいう嘉礼に関わるものであり、そこに両者の体面の問題が存在していたことが窺えるのである。
(コメント:記事の矛盾ではない。そもそも”『日本書紀』に記事がない”ことが問題なのではないかな?)

高表仁と日本書紀〉
それ故、倭国側と紛糾が生じ、「朝命」を達することなく帰国することとなったが、『旧唐書』はそれをとらえて「綏遠の才が無かった」としているわけである。
とすれば、『旧唐書』に述べられていることを意を持って汲み取れば、『旧唐書』には「高表仁は唐の体面に関わる「礼」にこだわって争いを引き起こし、結果、「朝命」を達せず帰国することになったが、これは高表仁に夷狄を綏撫する才がなかったからであり、夷狄に対する綏撫には深慮が必要である。」ということが述べられていることになろう。

(コメント:唐使高表仁の倭国訪問にはいくつかの疑問がある。これらの疑問があることすら著者は伝えないのは問題ではないかな。
①中国史書によると足かけ3年に及ぶ彼の長い旅程と、『日本書紀』の対馬到着から対馬出立までの5ヶ月弱の短い旅程。
②礼を争ったのは誰か。王子(『旧唐書』)か王(『新唐書』)なのか。
③『日本書紀』に記載のある高表仁接待者の氏名不詳者が多いことのはなぜ?など)


5 唐・高句麗・百済・新羅の動向と白村江の戦い
(コメント:著者が当時の大陸と半島の政治的状況の説明をしている。中国側の論文が半島支配の思惑があったことを極力隠そうとするのに比べると、倭国関係の状況抜きの論述であることを除けば妥当な叙述と思われる。その概略を紹介する。)

〈当時の東アジア諸国の動向〉

北魏孝文帝の洛陽遷都の後、北周が北斉を滅ぼして華北を統一し、北朝最後の王朝隋建国(581)による統一に至る。強大な隋に脅威をいだいた高句麗や百済は、南朝の陳との結びつきを強めた。
589年、隋が陳を平定すると、百済・新羅は隋に遣使し、隋との関係を取り結ぶことに成功する。
高句麗は隋による中国再統一に脅威をいだき、軍備を増強して国防に努めようするようになる。

漢の武帝による朝鮮四郡の設置以降における中国の朝鮮半島に対する支配は、313年にそれまでの朝鮮支配の拠点であった楽浪郡が高句麗に滅ぼされて以降、途絶していた。
隋では中国再統一の機運を受けて、藩国でありながら定められた歳貢を実行しない高句麗に対する膺懲の議論が活発になってきていた。

一方598年、高句麗は靺鞨万余騎を率いて遼西に侵入し、607年には隋の北方にあって隋を牽制する突厥と高句麗との連繋が発覚するなど、隋と高句麗との関係は悪化の一途を辿っていた。
また、朝鮮半島の状況も、百済・新羅を軍事的に圧倒した5世紀までの高句麗優勢の状況から、高句麗、百済、新羅の三国が鼎立する、とめどもない抗争の段階へと推移していた。

隋が建国した頃の半島の状況はこれら三国がそれぞれ鎬を削り合っていたのであるが、中国では隋唐の統一、拡大が一方で進行していたのであり、この中朝の関係は、相互に絡み合いながら7世紀の隋による高句麗討伐、隋の滅亡、唐の建国、唐による高句麗討伐、百済の滅亡、白村江の戦い、高句麗の滅亡、新羅による半島の統一へと展開していったのである。

612年、隋の煬帝は二百万と号する大軍を派遣し、高句麗を討った。これは隋から見たとき、突厥との連繋を企図する高句麗に対する懲罰戦という性格を持ち、また、既に高句麗との関係の険悪さが進行していた新羅・百済両国からの高句麗討伐に対する要請にもこたえるものでもあった。しかし、高句麗は遼東城での籠城や乙支文徳率いる醍水(清川江)の戦いなどで隋軍を撃退することに成功する。その後も高句麗は再三隋軍の侵入を退け、遂に618年、国内の反乱のなかから、唐が建国された。

その後、朝鮮三国間の抗争は激化し、また、唐が半島への関与を強めたので,高句麗では宝蔵王が臨戦体制を整え、645年以後、高句麗は五度にわたり唐の遼東攻撃を退けることに成功する。しかし、665年実力者泉蓋蘇文が死去すると,彼の子供たちの間に対立が生じ、これに乗じて唐は668年、高句麗を攻め滅ぼすことに成功するのである。

〈唐と百済と新羅
古代日本の国家形成の転機ともいうべき白村江の戦いは、唐によるこの対高句麗戦の南方戦線における戦いという様相を示している。
唐の場合と異なり、隋による三度に及ぶ高句麗遠征は、百済への侵攻をともなうものではなかった。

しかし、唐による高句麗遠征は、高句麗の南方にある百済を衝くという側面も有するものになる。それは643年に唐の太宗が救援を求めてきた新羅の使者に、百済は海を頼みとしているが朕は水軍数万をもって攻めることもできる、と述べていることなどに示されはじめる(『新唐書』高麗伝)。義慈王の王子の扶余隆=徐隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使として旧百済王城の熊津城に入れ、その統治に当てた。

その後、新羅の勢力が強くなり、都督府は撤退を余儀なくされた。高句麗、百済の地は新羅、渤海、靺鞨に分割され、百済の影響は朝鮮半島から完全に消滅する。677年2月、唐は扶余隆=徐隆の封爵をかつての百済国王と同じ光禄大夫・太常員外卿・熊津都督・帯方郡王に格上げし、熊津都督府を回復しようとしたが、既に百済旧領は新羅領となっており、隆は熊津城に帰ることが出来なかった。

ただし、太宗の時点における唐の主敵はあくまでも高句麗であり、徐々に新羅との連合へ傾斜しつつも、いまだ百済を敵視する段階にまでは至って居らず、むしろ対高句麗戦争遂行の上で、百済に唐側に加わるよう慫慂している段階にあり、こうした方針は太宗の治世が終わるまで変化することはなかった。

しかし、新羅の金春秋が唐との同盟関係を成し遂げ、唐風の制度改革に着手し、さらに高宗の段階になって、新羅が高宗の年号である永徽の年号を採用し、唐の制度を導入する段階に到ると、様相は大きく変わってくることとなった。

百済は倭国と同様、南北朝時代にあっては南朝と深いつながりを持ち、北朝と交流することはほとんどなかった。それ故、北朝の継承国家としての隋唐との間に十全な意味での親しい関係を確立できない歴史的状況下にあった。

また、隋の高句麗遠征時において、隋を支持することを表明してはいたが、それはその本心から出たものではなく、時勢を観望する対応から出たものであったといえる。また、隋が高句麗を討って、結局滅亡したことも、唐による高句麗遠征に際しての百済の対応に大きな影響を及ぼしていたと考えられる。

すなわち、百済は、唐にとっても高句麗を攻略することは容易ではなく、とすればその状況を利用して、宿敵である新羅を討とうと企図していたと考えられ、この時期、百済が唐に朝貢することを取りやめていた背景にも、そうした百済の配慮が働いていたと想定されるのである。

(コメント:『唐会要』巻九九にある記事、倭国の遣唐使に対して“高宗、書を降して之を慰撫し、「王の国は新羅と接近す。新羅は高麗・百済の侵す所となる。若し危急有らば、王宜しく兵を遣はして之を救ふべし」”という史料を黙殺しているのはなぜ?)

このような状況を受けて、唐が百済に対する方針を明確に変更することを告げたのは永徽2年(651)のことであった。そのことを伝えて、『旧唐書』百済伝に、高宗が百済王に与えた璽書が見え、その一節に、王、もし進止に従わざれば、朕(高宗)已に新羅王金法敏の請う所により、其に任せ王と決戦せしめん。

また高麗に約束せしめ、遠く相救恤するを許さず。高麗もし命を承けざれば、即ち契丹諸蕃をして、遼澤を渡り入りて抄掠せしめん。王、深く朕が言を思い、自ら多福を求め、審らかに良策を図り、后悔を貽ることなかれ。とある。これに拠れば、このとき唐は百済が高句麗と結んでいることをも認識していたこが窺えよう。

このような推移の後、結局、百済は660年、唐によって滅ぼされることになるのであるが、周知の如く所謂白村江の戦いは、このとき、百済を滅ぼし百済の故地にあった唐軍とそれを後援した新羅の勢力が、百済復興を企てた余豊、およびそれに与した倭国軍との間で交えた戦いであり、倭国の軍隊はこの戦いで壊滅的な敗戦を蒙ることになる。

この戦いにおいて百済・倭国が壊滅的敗戦を蒙ったのは、倭国の軍隊が寄せ集め的な軍隊であったため、充分な統制がとれていなかった、いや統率された軍隊であり、むしろ倭国が百済救援よりも、この機に乗じて新羅から領土を奪うことに執着したからであるなど、研究者間では対立的な見解が存在するが、ともかくもこの敗戦が、倭国に自国にも唐の鋭鋒が及ぶとする深甚な脅威を抱かしめることとなったことは動かしがたい事実である。

(コメント:この時期の『日本書紀』の記述にみえる中大兄皇子の行動からは、積極的な参戦というようには見えないのだが。)

〈百済滅亡後の唐と新羅〉
唐はその後、668年、高句麗を滅ぼすことに成功し、その都平壌に安東都護府を置いたが、高句麗遺民の復興運動や朝鮮半島の統一を志向する新羅との戦いに敗れ、676年に安東都護府を遼東に移すこととなる。
翻って考えるに、唐の高句麗遠征は、高句麗に対する昔年の遺恨を果たすこと、中国旧領の回復などにその目的があったが、しかしそうした目的の中にあって、第一のものは、唐を中心とした東アジアにおける国際秩序構築にあったといえる


(コメント:川本先生は、どうも中国ひいきの論を張られているように思われる。先に見た旧百済領に熊津都督府、や新羅に鶏林州都督府を置いて半島を直轄領として支配しようとした試みがあったと思われる出来事を記さないのである。

新羅や百済、さらには倭国にはそもそも自国を中心としたそうした国際秩序の構築の意図はなく、当時これらの諸国に存在したのは、半島における、あるいは自国の権益の拡大、保持にその最大の狙いがあった。

従って、最終的に、7世紀における諸国間の抗争が、新羅による半島の領有に帰結したとしても、それは唐にとって新羅が唐の国際秩序を認める冊封国である限り、利点のある終息であったといえるであろう。

一方、新羅による半島の統一とともに、唐の脅威が薄らいでいった倭国では、臨戦態勢下において実現した天皇を中心とした律令体制を完成させることに成功し、新たな国号「日本」を制定するに到るのである。

(コメント:『旧唐書』の倭国と日本国のニ国併記についての著者の意見は、どうまとめているのか次をてみたい。


6  世界秩序の変貌-魏晋南朝と北朝隋唐-

〈南朝から北朝へ〉
所謂魏晋南北朝時代にあっては中国との間で冊封関係(朝貢関係)を結んだ周辺諸国のリ-ダーが、中国王朝の爵位のみならず官職をも受けて中国王朝の臣下となるという現象が広範に見られた。倭国王が王号のみならず将軍号や都督号を与えられていることなどにもそうした現象が端的に示されているが、それはこの時代における中国の王朝権力の弱体化と、中国王朝がそうした状況を踏まえつつ周辺諸国をその体制へと取り込こもうとした意図の存在とによって促進されたものである。

しかし、一方でこれを胡族をはじめとした諸民族の側から見たとき、それは諸民族の自立への動きと併行するものでもあったのである。後漢後期には既にその様相を見せていた匈奴・鮮卑など所謂五胡の移動・侵入はその後、五胡十六国の成立、北朝の出現へと展開し、北朝の拡大を懼れた南朝は、北朝を封じ込めるための国際的包囲網の形成を企図する。

450年、北魏の世祖太武帝は50万の大軍を発して南朝の宋を攻め、長江の北岸にまで達したとき、宋の太祖に手紙を送り、その中で、「この頃、関中で蓋呉という人物が反逆し、隴右の地の氐や羌を扇動しているが、それはお前が使いを遣わして誘っていることである。

(中略)またお前は以前には北方の柔然と通じ、西は赫連、蒙遜、吐谷渾と結び、東は馮弘、高麗と連なる。凡そ此の数国、我みなこれを滅したり。」(『宋書』索虜伝)とあるのは、南朝の宋の時代におけるそうした動きをうかがわせるものである。

しかし、こうした包囲網は時代を下るに従って徐々に崩されて行くのである。上で述べた450年における北魏の長江北岸にまで至る南侵もそうした状況を生む上で大きな役割を演じることになった。いまそうした南朝を中心とした体制の衰退の一面を具体的な事例をあげて見てみよう。

所謂倭の五王の時代の山東半島は、倭国をはじめとして東夷の諸国の南朝への使節派遣において、その中継地点として極めて大きな役割を果たしていた。
そして、413年から倭国の南朝への使節の派遣が始まるのも、東晋の将軍であった劉裕がその地にあって、鮮卑慕容部が建国していた南燕を滅ぼし(410)、山東の地を領有したことと関連しているが、その山東半島の地は、469年正月以降、今度は北魏の領有するところとなる。

それまで南朝領であった山東半島を手中にした北魏は、早速その経営に乗り出している。すなわち、その翌年にはそこに新たに光州という州を設置し、その5年後の475年には軍鎮を置き、その支配を一段と強化しているのである。

以後北魏はここを基地として南朝へ朝貢する東夷の船舶を厳しく監視するようになった。
そのため、東夷の諸国から南朝へ送られた使節や南朝からの答礼使が、山東の沿岸で遊弋する北魏の船舶によって拿捕されるという事態まで生じるようになる。

また皇興3年(469)2月には、柔然、高句麗、庫莫奚、契丹等の北アジア、東北アジアの諸国が相継いで北魏に朝貢するが、これら遣使は北東アジア地域の諸国が南朝に朝貢する際のセンターとしての役割を果たしていた山東の地が、その前月に陥落したことに触発されたものであろう。

これは逆に見れば、山東半島が魏領となることが東夷諸国にとって、どれほど重大な意味をもつものであったかを示している。
また、高句麗はその2年後に皇帝の位についた北魏孝文帝のとき、それまでの貢献品の額を倍増しているが、このことも山東の陥落と無関係ではないであろう。

つまり、この5世紀の後半の時点で、南朝が目指した国際連携のもとでの北朝の封じ込めという施策は、その東部戦線においてその連環が断ち切られたことがわかるのである。
ではその西部戦線はどのように推移していたのであろうか。当時、西部の吐谷渾や河西回廊の勢力、さらには北方の柔然の勢力との連絡に大きな役割を果たしていたのは長江上流の四川の地であったが、この地も長い南北抗争の末、南北朝の後半には北朝の勢力の傘下に組み込まれることになる。

それは553年のことであったが、このとき江南は北方から帰順した胡族の将軍である侯景の起こした乱による混乱の中にあった。当時征西大将軍として四川の地にあった梁の武帝の八男である武陵王紀は552年8月、軍を率いて東下し、湖南の地を図ろうとした。当時湖南の地には武帝の七男である湘東王繹(後の元帝)がいたが、彼は憂慮して救いを北方の西魏に求め、四川の地を背後から撃つことを求めた。

これに対し西魏では将軍尉遅迥を派して四川を討つ計を定め、翌年3月、軍を起こす。武陵王は防戦に努めたが、結局8 月成都は陥落し、四川は北朝の西魏の領有に帰し、南朝は対北朝の国際戦略上の重要拠点である四川の地をこうして喪失したのである。

このような流れを受けて、南北朝時代は最終的に北朝最後の王朝である隋による中国再統一へと帰結して行く。このことを南朝の側から見るとき、それは南朝を中心とした世界システムの崩壊を意味していたといえるであろう。

北朝の拡大、隋唐帝国の出現は南朝のみに影響を及ぼしたのではない。先に取り上げた北魏世祖太武帝が宋の太祖に送った手紙にも見えるように、それまで南朝と連動、あるいはその傘下にあった柔然、吐谷渾、雲南爨蛮(雲南にあった南蛮勢力)、高句麗、百済などの諸勢力は唐代にかけて相継いで滅亡する。

一方で、それら諸勢力の背後にあって勢力を蓄積してきていた突厥、吐蕃(チベットで興起)、南詔(雲南で興起)、渤海、新羅、日本などが興隆してくるのである。本章で示した高句麗、百済の滅亡、新羅による半島の統一はその好例ということが出来るであろう。

そしてそうした動きは、例えば、南朝時代、南朝の寧州刺史などに任じ、昆明・曲靖を中心として雲南東部を支配した爨氏勢力や、大理を中心として独立勢力を形成した張氏白子国勢力が、隋唐の攻撃を受けて滅亡し、替わって南詔が勃興してくる動きにも見えるように、東アジア規模において生じた動きであったのである。

それ故、倭国が遣隋使、遣唐使の派遣を通じて、国制の大改革を実施し、白村江の戦いによる敗戦を一つの主要な契機として古代律令制国家を完成させ、国号を日本と称した動きも、単に国内問題、あるいは朝鮮半島の動きといったような規模で捉えるべきことがらではなく、上で述べたような中国を中心とした「天下」の動きのなかにおいて捉えるべきものと考えられるのである。

夷狄であった五胡の中から出現した北魏が、南朝と同じく正統王朝であることを示す北朝の呼称をもって中国の士大夫からも認知され、北朝を受けた隋唐が中国の正統王朝となるという逆転現象、隋唐の文化、国制に見出される胡俗文化の影響などに注目するとき、秦漢から魏晋へと受け継がれてきた中国史の流れはここにいたって一転し、従来非正統なところに生じた流れが正統となるという、極めて興味深い展開をこの時代の歴史は示している。

また、本章において筆者は古代日本における歴史展開をその中華意識の形成という観点から考察したが、その軌跡を五胡・北朝・隋唐に至る中国史の展開と比較するとき、秦漢魏晋的秩序から見ると、同じく夷狄であったものが、それぞれに「中華」となるという点で(「東夷としての倭から中華としての日本へ」と「五胡から中華への変身」)、両者は相似た軌跡を描いたのである。

そしてこの軌跡の類似は、今まで述べてきたことを踏まえると、決して偶然に生じた類似ではないといえるのである。すなわち、五胡・北朝・隋唐と古代日本は、秦漢帝国を母胎として、その冊封を受けるという形で魏晋南朝的システムの中から成長し、それを突き崩しつつ出現した、という面で共通した側面をもつ国家群であったといえるのであり、7世紀東アジアの国際秩序は、マクロな視座から捉えたときそのような過程をへて創成されたものといえるのである。

(コメント:川本教授の述べるようなに、中国大陸の政治情勢の変化をみて、多利思北孤王は、「対等の天子」としての国書を送った、ということの背景が理解できる夷。ただ、多利思北孤王が俀王であり、近畿王朝の王ではなかった、と言う理解が必要であろうが。残念ながら日本側委員は「俀は倭の書き間違い」説ですませているようだ。

せめて、坂本太郎氏が述べているように、「遣隋使関係については、わが朝廷に信ずべき記録が残っていたと考えてよい。それなのに、推古八年の遣隋使人について一言も触れていないのは、それについては朝廷に記録を欠いていたと考えるほかははない。八年の使人は朝廷の与り知らぬものではなかったかという推理がここに生まれる。」〈『人物叢書 聖徳太子』吉川弘文館 1979年〉というくらいの柔軟な頭が必要でしょう。)


「日中歴史共同研究」日本側論文について

この共同研究の「古代中世史篇」の日本側委員の論文は、今まで検討してきた第一部の川本先生の論文だけではありません。

第二部「中国文化の伝播と日本文化の創造的発展の諸相」でも、たくさんの先生方が論文を発表されています。

小島毅氏がまず、「思想、宗教の伝播と変容」について述べられ、続いて「ヒトとモノの移動 経済史」というタイトルで 桜井英治氏、「美術史から見たヒトとモノの移動」という面から井手誠之輔氏、「日本人と中国人の相互認識」というタイトルで古瀬奈津子氏、「日中の政治・社会構造の比較」という面から 菊地秀明氏が論じられます。

それぞれ力作です。是非皆様にも一度目を通していただくとよろしいか、と思います。

ただ、当方の「古代史本批評」は、その著作の歴史観という面から行っています。それぞれの報告書に興味はありますが、手に余るところもありますし割愛させていただきして、このあたりで、「日中歴史共同研究」の古代史に関する叙述の批評を終わらせていただきます。




まとめとしての感想

各項目の中で無数の短いコメントを入れてきました。最後にまとめとしての感想を述べておきます。

◆中国側委員の論文について◆

古代史に関しての、中国側の委員は、例えば王勇氏などは日本語の古代史に関する本を日本で出版されていたり、日本側の委員とも以前から交流があるようです。それもあってか、古代史自体の日本の政治体制の流れについては、日本側のいわゆる「定説」に大きく異なるところはありませんでした。そういう中でも、日本人の論文ではお目にかかれない興味ある事柄が多く、コメントも多発させていただきました。

「コメント:」で述べた中で強く印象に残ったものを改めて記しておきます。

・翻訳文だから余計そのように受けとるのかもしれませんが、「上から目線」の論述が多かったようです。

・「正史」にある記述は正しい、という基本があり、同じ事柄に対する記述の齟齬は、後代のものの方が、先人の研究の成果が表れているのでそれに従う、というような基本的な考えがあるように思われました。

・中国の歴代王朝の対外的な基本姿勢は、化外の民族に徳を及ぼすものであり、領土拡張などの野心はなかったのだ、という鷹揚なライオン(中華)と狡猾なキツネ(化外の民)的な構図で語られている。

・肝心の白村江の戦い以降の唐とわが国との関係について、日本の史書にあっても中国の史書にないもの、例えば郭務悰の多人数による幾度もの渡来について〈日本書紀の記事〉、そのまま受け取ってよいものかと疑念を抱いているようです。

・『魏志』の邪馬壹国、『宋書』の倭武、『隋書』の俀国・多利思北孤、『旧唐書』の倭国・日本の両国併記などが全く日本の史書に見えないことについて、蕃国の史書だから、という理由でしょうか、一顧だにしていないのには失望以外の何物でもありませんでした。

まあ、何か日本の定説に一矢報いられるような意見でもないかな、など助兵衛こころを起したのが間違いでしょう。日本の歴史の真実は、自らの探求でしか得られない、ということを思い知らされました。


◆日本側委員の論文について◆


・特に目新しいものがなく、紹介する程の論点も多くありませんでした。

・開皇20年(600)の多利思北孤高の使いが述べた俀皇の日常の執政態度について、川本先生は、”倭王は「天の弟」で「日の兄」”という論をのべて、それに基づいた当時の隋ー倭国の関係を説明しているということだけが目立ちました。

・この川本説が果たして国内でどれくらいの支持があるかは知りませんが、定説とまでは言えないでしょう。。川本先生にとっては自説を発表できる舞台となったので満足されていることでしょうが。
他の日本側委員の皆さんの意見はどうだったのでしょうか。

・それに、中国側委員の縄文時代=野蛮、弥生文化の開花は中国移民のおかげ、という論調に一矢報いてもらいたかったと思います。たとえば、野蛮とされる縄文時代の日本へ孔子が筏を浮かべて行きたい、と言ったことと、その野蛮の国を大陸移民が文明開化させたと威張ることとの矛盾について聞いて欲しかった、ということは無い物ねだりだったようです。



   [ 完 ]

付録

改めて本プロジェクトの目次・経緯・を日本国外務省ホームページに従って紹介しておきます。

第一期「日中歴史共同研究」報告書 目次

目次

<古代・中世史>
総論
序章 古代中近世東アジア世界における日中関係史
(日本側)  山内昌之・鶴間和幸
(中国側) 蒋立峰・厳紹湯玉・張雅軍・丁莉
第1部 東アジアの国際秩序とシステムの変容
第1章 7世紀の東アジア国際秩序の創成
(日本側)7世紀の東アジア国際秩序の創成  川本芳昭
(中国側)7世紀の東アジア国際秩序の創成  王小甫
第2章 15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係
(日本側) 15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係 村井章介
(中国側) 15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係  王新生
第2部 中国文化の伝播と日本文化の創造的発展の諸相
第1章 思想、宗教の伝播と変容  
(日本側)思想、宗教の伝播と変容  小島毅
(中国側)古代中国文化の日本における伝播と変容  宋成有
第2章 ヒトとモノの移動
(日本側)第1節 ヒトとモノの移動 経済史  桜井英治
      第2節 美術史から見たヒトとモノの移動  井手誠之輔
(中国側)「ヒト」と「モノ」の流動―隋唐時期を中心に  王勇
第3部 日中両社会の相互認識と歴史的特質の比較
第1章 日本人と中国人の相互認識
(日本側)第1節 日本人と中国人の相互認識  古瀬奈津子
      第2節 江戸期日本の中国認識  小島康敬
(中国側) 19世紀中葉以前における中国人の日本観  王暁秋
第2章 日中の政治・社会構造の比較
(日本側) 日中の政治・社会構造の比較  菊地秀明
(中国側) 日中誇大政治社会構造の比較研究  蒋立峰・王勇・黄正建・呉宗国・李卓・宋家鈺・張帆


<近現代史> 
総論
第1部 近代日中関係の発端と変遷
第1章 近代日中関係の始まり
(日本側) 近代日中関係の発端  北岡伸一
(中国側)    同上         徐勇・周頌倫
第2章 対立と協力 それぞれの道を歩む日中両国
(日本側)対立と協調:異なる道を行く日中両国  川島真
(中国側)    同上          徐勇・周頌倫・載東陽・賀新城
第3章 (日本側)日本の大陸拡張政策と中国革命国民運動  服部龍二
(中国側)    同上            王建朗
第2部 戦争の時代
第1章 満州事変から盧溝橋事件まで
(日本側)満州事変から日中戦争まで  戸部良一
(中国側)    同上            臧運祜
第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦
(日本側)日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦  波多野澄雄・庄司潤一郎
 (中国側)日本の中国に対する全面的侵略戦争と中国の全面的抗日戦争  栄維木
第3章 日中戦争と太平洋戦争
(日本側)日中戦争と太平洋戦争  波多野澄雄
 (中国側)  同上           陶文釗


本共同研究の経緯について(外務省ホームページより抜粋)

2006年10月8日、安部総理と胡錦涛国家主席が歴史共同研究を立ち上げることで意見に一致をみた。以後双方がそれぞれ10名の研究者からなる歴史共同研究会そ組織し、「古代・中近世史」及び「近現代史」の二つの分科会を設置した。

この共同研究の目的はまず学術的に歴史の事実を明らかにし、意見交換によって歴史認識の隔たりと問題をぶんせきすることで歴史のん大をめぐる対立感情を和らげ、両国の交流を増進して両国間の友好関係を深めることにある。

結果として今回の各論文は執筆者本人の認識であり、双方が同意した共通認識ではない。しかし依然として異なる認識が存在しているものの、研究過程での討論やそこで形成された共通認識がそれぞれの論文の中に体現されされていることを強調しておく必要がある。読者は、双方の研究者の論述から、歴史認識の基本的状況を理解することができる。以下、この報告書の官制に至るまでの本プロジェクトの始動と活動の経緯、及び本報告書の性質について詳しく述べることにしたい。

1 日中歴史共同研究プロジェクトの始動

2006年11月麻生外務大臣と李華夷高部長は日中歴史共同研究の実施枠組みについて以下の共通認識に達した。(以下はその合意の概略)
一、双方は、日中共同声明等三つの政治文書の原則、及び歴史を直視し、未来に向かうとの精神に基づき、日中歴史共同研究を実施するとの認識で一致した。
二、双方は、この共同研究を通じて歴史に対する客観的認識を深めることにより、相互理解の増進を図ることにあるという認識で一致した。
三、双方は、それぞれ10名からなる委員会のたち上げ、二つの分科会の設置、之一籌口語の会合の主催、日本は「日本国際問題研究所」に中国は「中国社会科学院金台氏研究所」に具体的実施について委託するなど確認した。
四、双方は、年内に第一回会合を開催し、日中平和条約締結30周年にあたる2008年中に研究成果を発表できるよう努めることで意見の一致を見た。

実施枠組みが整えられた後、研究テーマとそのカバーする範囲を決定し、双方の研究者が別々に論文を執筆する。また、近現代史はテーマの下にさらに共通の関心項目を置くという方式により、双方の研究者が論文の中で均しく言及すべき問題を定め、焦点を合わせて学術的研究を共同して進められるようにした。

2 日中歴史研究プロジェクトの展開

(1)共同研究委員会の成立

日本側委員会のメンバー構成(肩書きは発足当時)

座長 北岡伸一 東大法学部教授

(古代・中近世史分科会)
山内昌之 東京大学教養学部教授
川本芳昭 九州大学人文科学研究院教授
鶴間和幸 学習院大学文学部教授
菊池秀明 国際基督教大学教養学部教授
小島毅 東京大学文学部准教授

(近現代史分科会)
北岡伸一(前出 座長)
小島朋之 慶応義塾大学総合政策学部教授
波多野澄雄 筑波大学人文社会科学研究家教授
坂元一哉 大阪大学法学研究科教授
庄司潤一郎 防衛省防衛研究所戦史部室長

中国側委員会のメンバー構成
座長 歩 平 中国社会科学研究院近代史研究所所長・教授

(古代・中近世史分科会)
 蒋立峰 中国社会科学研究院日本研究所所長・教授
 湯重南 中国社会科学院世界史研究所教授
 王暁秋 北京大学歴史系教授
 王新生 北京大学歴史系教授

 (近現代史分科会)
 歩 平 (前出 座長)
 王建朗 中国社会科学研究院金台氏研究所副所長・教授
 栄維木 中国社会科s学院近代史研究所「抗日戦争研究」編集長
 徐 勇 北京大学歴史敬教授
 臧運祜 北京大学歴史敬副教授

(2)共同研究テーマの確定

2007年3月の第二回全体会合で研究テーマ等について合意に達した。
①古代・中近世史分科会では三つの大テーマときめ、その各テーマを二つのテーマにわけ、3部6章の論文を執筆する。序章を加えると日中それぞれ7本の論文を完成させる。
②近現代史分科会では、戦前、戦中、戦後の三つの歴史時期ごとに三つのテーマを設け、日中それぞれ3部9章の論文を執筆する。
③各テーマについて完成した論文をお互いに交換して討論を行う。】討論では、相手側の論文に着いて率直に学術的な批判を提出する。聴取した意見に基づいて自分の論文を改訂し、同時に異論が残った店を記録しておく。④執筆者が不足する場合は、委員会外部の協力研究者(外部執筆委員)に執筆を依頼することができる。
5外部執筆委員は執筆する論文に関連する会議に出席し論議に参加する。
6充分に討論をしたうえで、研究報告にとりまとめ、古代・中近世史と近現代史それぞれ1巻とし、双方の座長が共同で序文を執筆する。
⑦2008年6月を報告官制時期とし、同年8月に両国政府に提出し、対外的に公表する。この期間中には必要に応じて随時、両国座長の作業会議および分科会を開催する。
第2回の会合で決定した研究テーマは以下のとおりである。
(省略 目次参照)

(3)論文の執筆と討論

外部執筆委員の委嘱

日本側
古代・中近世史分科会
井手誠之輔 九州大学人文科学研究院教授
小島康敬 国際基督教大学教養学部教授
桜井英治 東京大学総合文化研究科准教授
古瀬奈津子 お茶の水大学人間文化創成科学研究科教授
村井章介 東京大学文学部教授
近現代史分科会
川島真 東京大学教養学部准教授
戸部良一 防衛大学校教授
服部龍二 中央大学総合政策学部准教授

中国側
厳紹湯玉(盪の皿が玉になっている字)
宋成有 北京大学歴史系教授
王小甫 北京大学歴史系教授
王 勇  浙江工商大学日本文化研究所所長・教授
張雅軍 中国社会科学院考古研究所副教授 
丁 莉 北京大学外語学院副教授
黄正建 中国社会科学院歴史研究所教授
李 卓 南開大学日本研究院院長、教授
宋家鈺 中国社会科学院歴史研究所教授
張 帆 北京大学歴史系副教授

近現代史分科会
金熙徳 中国社会科学院日本研究所副所長、教授
王希亮 黒竜江社会科学院歴史研究所教授
宋志勇 南開大学日本研究院副院長、教授
周頌倫 東北師範大学歴史系教授
張連紅 南京師範大学歴史系教授
載東陽 中国社会科学院金台氏研究所副教授
米慶余 南開大学日本研究院教授
賀新城 中国人民解放軍軍事科学院教授

そのうち、日本側委員小島朋之教授の病気により、東京大学法学部教授の高原明生史が引き継ぐことになった。
2008年1月第3回全体会合が北京で開催され、古代・中近世史分科会で提出された12論文、近現代史分科会では16論文について討論を行い意見をこうかんした。
その後数回の研究討論会を行い、最終の会合を東京でおこなうことにした。

相互の回覧と討論を経て、双方の研究者は必要に応じて修正を施し、また必要となる技術的な準備も行った。
当初、双方は相手側論文についての批評意見と双方の論文の相違点を整理してまとめ、論文の後ろに付すつもりでいた。
しかしこの作業を進めるうちに、論点をあまりに簡略に要約すると専門家以外の人に説明するのは容易ではないことがわかったため、まとめて整理した結果は次の段階での共同研究で用い、現段階では発表しないこととした。
最後に、古代・中近世史、近現代史各巻に双方の委員が助言を付した上で、両国の座長が共同で研究報告書全体の助言を書いた。こうして研究報告書整理作業が完成した。

3 この報告書の叙述スタイル・意義について

本報告書は学術論文である。論文が最終的に体現しているのは執筆者本人の認識であり、双方が同意した共通認識ではない。しかし研究過程で討論を経て得られた共通認識や、相手側の主張でも共感できるものは、みな各自の論文に体現されている。(中略)

これまでの共同歴史研究で、双方の研究者は、「たとえ相手の意見に賛成できなくとも、相手はそう考えるのはある程度理解できる」という学術研究領域の段階に達した。この意味で、日中歴史共同研究は大きな成功をおさめ、今後の日中の相互理解の促進に建設的な意義があった。

当然のことながらまだ3年が経過したばかりで、数十年さらには百年以上蓄積されてきた歴史認識の隔たりを解決するには、まだ端緒を開いたにすぎない。多くのもんだいについてさらに意見を交換し、深く研究する必要がある。いま発表する論文は第一段階での初歩的な研究結果で、次の段階に発表を持ち越された論文もあるし、次の段階で引き続き研究が必要なテーマも多くある。

以上は本プロジェクトにかかわった当事者による研究成果の自己分析と自己評価である。日中両国の読者が、日中関係の発展に関心を持ち、それを促進するという立場から、この研究報告を客観的に分析し、論評することを期待する。

多くの異なる意見があると思うが、以上のような努力を読者にくみ取っていただき、歴史に対する客観的な認識を深めて頂ければ幸甚である。
(最後に・・・と途中で亡くなられた小島教授のご冥福を祈って終わっている)


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