槍玉その23 石川日本史B講義の実況中継』 「原始~古代」  石川晶康  学習春秋社 2006年刊  読後感想 文責 棟上寅七

はじめに

久し振りに書棚から、石川先生の日本史講義録を取り出し目を通しました。改めて所謂通説が定説化されていることに、感心させられました。折角、大学予備校の先生が定説を整理してくださっていますので、こちらも定説の問題点の整理をこの際してみるのもよいかなあ、と思いました。石川さんの本を槍玉に上げると云っても、ご本人にしては何のこっちゃいでしょう。

石川先生は、予備校の歴史担当の先生の内で最も人気のある先生のようです。ウィキペディア辞書によりますと、
石川 晶康(いしかわ あきやす、男性 1946-)は河合塾日本史科講師、同主任。関東圏で東大クラスや早慶大クラスを担当する。また、多数の参考書を出版している。サテライト講座などの映像を使った授業の先駆者でもある。1946年東京都生まれ國學院大學大学院博士課程満期退学(専門は日本法制史・古文書学)、とありました。


丁度よい機会ですから、高校の教科書の描き出す古代史の問題点を拾いあげて見ます。そして、問題と思われる項目と、今までこのHPで槍玉に上げてきた項目とを突き合わせてみました。

以下に表で示すような項目で整理しました。表がちょっとゴチャゴチャして、量も多く見難くなっています、済みませんがちょっと我慢して目を通してみて下さい。

石川先生は、教科書を受験生の頭の中に入れる作業を担当されているわけですから、教える内容がおかしいよ、といわれてもご自分の責任では決してありません。むしろ、理性では、理解できない歴史の定説なるものを、生徒に教えなければならないとまどいがその講義録から窺えます。

例えば次のように述べられています。

好太王碑文の「倭」『考えてみれば変な話だね。日本国内では何が起こったかは文字史料ではわからないんだけれど、今の中国に碑が立っていて、大和政権の軍が攻めてきたことが記録されているわけですからね。』(p57)つまり、日本書記などの日本の史書にまったく記載されていないのはどうもおかしいのですが、という感じで石川先生は説明されているわけです。

隋書?国伝に出てくる、?王多利思北孤について、600年に「倭王姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩弥と号す云々・・」 倭王が使いを送ってきた。「阿毎」、「多利思比孤」は天皇(大王)と考えておくしかない。(中略) 文帝は役人に日本の様子を尋ねさせた。 日本側には記録がないので、詳しくはわかりません。 この時の倭王、倭の支配者は推古天皇ですけどね。使者の名もよくわからないし書いてあるのはただこれだけ(p94)

つまり、日本の史書によれば、推古天皇は女性であり、このタリシホコは妻もいる男王と中国史書にあるこの矛盾がある解釈を、生徒に押し付けることへの、石川先生の戸惑いも露わな忸怩たる思いが伝わって来ます。


今回は、石川先生の講義録は、いわばダシにして、日本史の定説が一般常識にいかに外れているかの例証として、登壇してもらおうと思っています。

一応テキストとして、山川出版の高校教科書詳説日本史』 2007年3月刊 著者 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦)  を使って、石川先生のコメントと対比させながら、高校の教科書での問題点をおさらいしたいと思います。

その結果、まだ槍玉に上がっていない、問題点があれば、それを中心に、この場をお借りして、検討をしていきたい、と思います。

教科書の古代史の問題点と過去の検討内容についての一覧

項目

教科書の記述

問題点

取り上げた
槍玉No.

石川先生のコメント

弥生文化

地域性の強い文化(稲の伝来・小国の発生・祭祀器具など)

銅鐸という不思議な青銅器について、その突然の消滅、記紀に記述が無い、謎について記載なし。

小和田哲夫(稲の歴史
長部日出雄(天孫降臨の地

青銅器の分布は銅鐸近畿地方、平形銅剣瀬戸内中部、銅矛・銅戈九州北部という各地域を中心に分布することが注目されている。ただし、近年島根県での大量の銅鐸・銅剣・銅矛の出土があり、新しい展開があるかもしれません。(p21)

文字の伝来

"

2~3世紀出土の土器に文字有り。
博多室見川発見の銅版銘
卑弥呼の上表

福岡県の歴史
小和田哲夫

辛亥の鉄剣銘は漢字を使って日本語が表記された実例(p65)

後漢書東夷伝

建武中元二年、倭の奴国・・・倭国の極南界なり

後漢書の書かれた時期が、魏志よりも新しく、魏志を下敷きにして書かれた史書という説明が無い。
そこから、「倭の奴国・倭国の極南界なり」という理解できない記述があらわれている。

豊田有恒

朝鮮半島の植民地(中国の)から見れば、倭=日本列島は南の方の外れにあるということです。(p32)

金印

倭の奴国という小国がもらった

漢に朝貢した多くの夷蛮国の内金印をもらえたのは、漢書にも数は少ない。委奴国という倭人国の代表としてであろう。カンノナノコクオウという3段読みはあり得ない、という論があることの記載が無い。

福岡県の歴史

「倭」の国王ですが、印文は「委」になっている。

「漢委奴国王」かんのわのなのこくおう。(p33)

卑弥呼論

・邪馬台国の女王
・239年親魏倭王
・箸墓はひょっとしたら卑弥呼の墓

なぜ『記・紀』に、その名や授号が残っていないのか。
箸墓は径100余歩の基準が示されていない。

井沢元彦

佐伯有清

安本美典

(239年を暗記するために)卑弥呼に文来(ふみく)(239)る。(p47)

とにかく「径百余歩」ー大きな墓が作られた。(p49)」         

魏志倭人伝・邪馬台国

倭人伝の訳文を載せているが、行路が省略されて記載されている

臺とも壹ともなし・読みは「ヤマタイコク」
・邪馬台国論争が続いている、としている。「大倭をしてこれを監せしむ」、と読んでいる
・「一大率という役人」と読んでいる。
「春耕秋収を以って年紀となす」がない
・「景初2年は景初3年の間違い、書写されているうちに間違えた」
・「狗奴国の位置は不明」(邪馬台国の位置が不明なので)
・「卑弥呼死するを以って大いに冢を作る」と読む
・「卑弥呼の大きい墓」とし、100余歩の説明なし
・壹与の読み「いよ」
・その北岸狗耶韓国の記述なし

邦光史郎

高木彬光

松本清張

豊田有恒

井沢元彦

安本美典

21
宮本禎夫

「伊都国」そして次が「奴国」です。あの「漢委奴国王」の奴国でしょう。ここからがわからない。 8中略)そこで「邪馬台国論争がおこる。江戸時代から未だに決着がつかない論争が続いている。(p39)

邪馬台国への道程として、伊都奴国不弥国投馬国邪馬台国とし、参考に「榎説ー放射線読法」を図示している。(p38)
景初三年は、書写されるうちに誤って二となった。別の史料などから、これは景初三年のこととわかっているのでそれだと西暦239年あたることになります。(p46)

二倍年紀

同上。(年紀の部分が省略)

この部分の倭人伝の記載が省略されている

安本美典

三浦祐之

"

魏の短里

"

距離の単位「里」についてまったく説明がない。(卑弥呼の墓の径100余歩も同様)

邦光史郎

安本美典

とにかく「径百余歩」ー大きな墓が作られた。(p49)」     

大和政権の誕生

邪馬台国(ヤマタイコク・ヤマトコク)は近畿説と九州北部説とがある。
近畿説をとれば、既に3世紀前半に広域の政治連合が出来ていたことになる。九州説をとれば、邪馬台国連合は比較的小さいもので、ヤマト政権は別に形成され九州の邪馬台国連合を吸収したか逆に九州の邪馬台国が東遷したものということになる。

・文字の資料でわからない

・「前方後円墳の発生と分布が示す」とする。

・「箸墓古墳は3世紀末。これらが大和政権の成立を示している」とする。

古墳の築造年代判定に、大きな幅があることを記載していない。

・日本書紀の記述は信用できない、ということで直接の引用はないが、古墳期以後は、殆ど日本書紀の直接引用である。いつから日本書紀は信用される史料として使えるか、の説明なし。まして、古事記の資料的性格の説明は皆無。

松本清張

小和田哲夫

安本美典

22.
白石太一郎

いずれにせよ、この箸墓のような前方後円墳が、少なくとも3世紀末にいまの奈良県あたりで発生したことは間違いないわけで、以後、大王の支配下に入った地方の有力者たちが、同じような墓を作りだしたということです。いいですね、それが大和政権の成立を示していることになりますよ。

古墳とヤマト政権

3世紀後半になると大規模な前方後円墳が」出現。最も大きいのは大和地方に見られこの時期の政治連合がこの地方の勢力によって形成されたものであることを物語っている。
上毛野、丹後、吉備、日向にも大規模前方後円墳があり、近畿地方を中心とする政治的な連合体のなかで、これらの地方の豪族が重要な位置を占めていたことをしめしている。

黒岩重吾

小和田哲夫

佐伯有清

22
白石太一郎

謎の4世紀で、文字史料が欠け落ちているのに、どうして大和政権の成立が推定できるのだっけ?
ハイ、巨大な古墳が畿内に発生しそれが全国に波及していったから。もっともその発生が3世紀のいつごろか、中期か末期か、あるいは4世紀のはじめなのか?そこがなかなか確定できない。(p73)

4~5世紀の東アジアの状勢

朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済・加耶諸国に別れ、日本書紀では加耶諸国を任那と呼んでいる。

魏志倭人伝の狗耶韓国との関連つけの説明なし。

金達寿

日本は百済を援助するために、自分の支配していた加羅・伽耶と呼ばれた朝鮮半島の一番南側の部分百済にあげちゃったわけだ。そして、百済の国力を補強して、朝鮮半島における利権を確保しようとした。を

好太王碑文

碑文を紹介し、倭(ヤマト政権)が高句麗が戦ったことがしるされている、としている。

これだけの戦いなのに、ヤマト政権の史書「記紀」に全く記事がない。つまりヤマト政権外の「倭」が高句麗と戦ったということになる。

安本美典

「考えてみれば変な話だね。日本国内では何が起こったかは文字史料ではわからないんだけれど、今の中国に碑が立っていて、大和政権の軍が攻めてきたことが記録されているわけですからね。(p57)

倭の五王

倭の五王が相次いで南朝(宋)に朝貢している。
済は允恭、興は安康、武は雄略にあてることでほとんど異論は無い。
讃には応神・仁徳・履中天皇を当てる諸説がある。珍については仁徳・反正天皇を当てる2説がある。

「済=允恭、興=安康、武=雄略はほぼ確実」
年代のことをしつこく暗記させるのに、倭王武の年次がはっきりしている事跡についてまったく記載なし。

黒岩重吾

安本美典

吉田孝

武=雄略天皇で、実名は大泊瀬幼武といいます。
済=允恭、興=安康、はほぼ確実だとされています。

辛亥の鉄剣銘

鉄剣の写真と銘文の訳文を記載

読み方「ワカタケル大王の寺がシキ宮にあった時」と読むが、雄略天皇の宮がシキ宮にあった、という史料はない。「カタシロ大王」と読む説もある。

田村

「獲加多支鹵」大王つまりワカタケル大王としっかり金を使って埋め込まれているのでシッカリと今でも読めるのです。

江田船山の鉄剣銘

稲荷山の鉄剣とともに、「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)とある。大王は倭王武すなわち「雄略天皇」にあたる。

無理に雄略天皇に当てはめるため、不明の文字を推定しているに過ぎない。

安本美典

田村

前は、これは読めていなくて、「タジヒノミズハワケ」じゃないかとか、いろんな読み方が考えられていた。埼玉県稲荷山古墳の鉄剣銘に「ワカタケル」と読めるようになったわけです。(p64)

倭王武の上表

宋書倭国伝武の上表文の概略を訳文で示している

日本書紀などにまったく授号の記事がなく、宋との国交記事もない。

吉田孝

安本美典

倭王武の上表文は大和政権成立の史料(p60)
いかに自分の先祖以来の大和政権の国家統一が大変で、そしてこの地域を支配したかが述べられている。すなわちこの宋書倭国伝が5世紀になって初めて大和政権の成立の様子を直接示す資料となります。

筑紫君磐井の乱

大王の権力の拡大に対して地方豪族の抵抗もあった。大王軍は磐井の乱を2年がかりで制圧した。

全て日本書紀の記述によっている。
しかし、書記にある、戦後分割案などは出てこない。

田村

このあたりのことは、「日本書紀」に頼るしかないんですが、何しろ8世紀にできた史書ですから、どこまで正確かは大いに疑問です。(p86)

仏教公伝

北方仏教が4世紀に朝鮮半島に伝わり、6世紀に日本へもたらされた。552年説538年説2説あるが後者が有力である。渡来人の一部はそれ以前から信仰されていた可能性が大きい。

大和への仏教公伝が、隣国播磨からもたらされていることの説明なし。

安本美典

上宮聖徳法王帝説538年・日本書紀552年の2説あり。(p70.71)

埴輪

古墳時代後期になると、形象埴輪が盛んに用いられるようになり、九州地方の石人石馬・九州・茨城・福島などに装飾古墳がみられるなど、古墳の地域性が強くなった。

・埴輪の起源は、吉備地方から、ということを記していない。

・東アジアの同時期の石造物との関連の説明なし。

田村

形象埴輪は古墳文化の中心であった畿内などで発達したわけではない。というところも注意を要する点です。(p77)

遣隋使

隋書倭国伝「開王二十年・・・」、日本書紀(推古紀15年)「大礼小野臣妹子を大唐に遣わす・・・」、隋書倭国伝「大業三年、その王多利思比古使いを遣わして・・・」の略文の訳文を記載。

・600年の遣隋使の記事が日本書紀に見えないこと。
・俀国伝を倭国伝としている。
・俀王の姓が阿毎とあり、近畿王朝にその姓の記録がないこと。
・国書の、内容及び遣使時期の違い
・使者とその冠位の違い、俀国伝では小徳我輩臺、日本書紀では大礼小野妹子 と違っています。
・中国側の記録、?国とその後ついに絶つ、と国交が途絶えた、という記録は日本側にはないこと。
・俀国の風物の最たるものは、阿蘇山が上げられ、瀬戸内海や琵琶湖、富士山などが上げられていないこと。
・隋の琉球侵略が書いてない

吉田孝

600年に倭王が隋に使いを送ってきた。「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩鶏弥(タリシヒコ、アハキミ)と号す。
この時の倭王、倭の支配者は推古天皇ですけれどね。(日本側の記録がないので詳しくはわかりません)(p94)

607
年に小野妹子が持っていった国書に、「日出るところの天子、書を日没するところの天子に致す、恙無きや云々」隋朝は起こったが、高句麗とまずい状況なので、答礼使を送ってきた。608年に再び小野妹子を派遣し、「東の天皇敬して西の皇帝に白す云々」の国書を出した。日本書紀には「唐客に副えて遣わす」、つまり「唐」とありますが、『日本書紀』の記事ですから、イイカゲン、この場合は、唐=中国と考えてください。もちろん王朝はですよ。(p97)

多利思北孤

タラシヒコ(足彦)は男性の天皇につけられるよび名であるが何天皇をさすか不明。(阿輩鶏弥 オオキミ と振り仮名している。)

・俀王タリシホコ(妻は鶏彌)などの名前が日本書紀などに見えないこと。
・同時期の近畿王朝の天皇は推古天皇であり女性であること。
・俀王の太子の名が、利歌弥多弗利という名で、これも当時の近畿王朝にこの名が見えないこと。

黒岩重吾

吉田孝

煬帝への国書

小野妹子の持参した国書「日出づるところの天子云々・・・」の記載あり。(西の天皇謹みて申す云々・・・」の記載なし)

小野妹子の遣使は607でなく608?年と日本側の記録になっている。その持参した国書は「西の天皇謹みて申す云々・・」である。対等の文書でない。

吉田孝

608年の小野妹子の再派遣で、またここで「日出づる処の天子」とやると、今度は本当に小野妹子の命が危ないね。しようがないから、今度は「東の天皇敬して西の皇帝に」お手紙を差し上げます、ということにした。(p97)

倭国の組織

隋書によると「軍尼」(クニか)、「伊尼翼」(イナギか)などの地方組織があり10伊尼翼が1軍尼にぞくしていたという。
地方組織として「評こおり」が各地に設置された。(藤原宮木簡などで各地の「評」の記載がみられ、新しい評が設けられたことが常陸の国風土記にみえる。)

隋書にある地方組織名が、日本の史書に無いことは、近畿王朝と別組織の地方組織名と理解するのが妥当なのではないか。
倭国と?国と二国に記載を無視している。
郡評論争は、701年以前に「評」という「地方組織名」が存在していたことを示す。記紀に「評」の設置記事なし。701年の大宝律令で「郡」が設置される。

武蔵義弘

701年以前は評を使っていたが、大宝律令以後は国郡里制になった。藤原京から出た木簡ではっきりわかった。

白村江の敗戦と倭国

敗戦を受けて、大宰府の北方に水城・大野城、南方に基肄城などがきづかれ、対馬から大和にかけて朝鮮式山城がきづかれた。

現在の考古学の山城(神護石)の築造年代は7世紀初頭とされることについての説明なし。


亀田隆之

(教科書とおり、白村江の敗戦で、今度は逆に日本が攻められる可能性が出てきた。九州の一番かなめである大宰府を守ろうとして、水城・烽火・防人・朝鮮式山城などを作った、との説明。)

壬申の乱

皇位争奪の戦い

唐の占領軍の存在。郭務悰の存在が隠されている。

亀田隆之

(教科書とおり、皇位争奪との説明)

天皇の称号・日本の国号

壬申の乱後の天武天皇あたりからそれまでの「大王」にかわって「天皇」という称号、及び国号「日本」が用いられるようになった。

(三国史記による)日本書紀に記載の、「日本天皇皇子ともに死す」と「日本」出ているが説明なし。

長部日出雄

武蔵義弘

亀田隆之


702年第.8回の遣唐使で行った山上憶良の「日本」と詠んだ歌が万葉集に残っている。

白鳳時代

飛鳥文化へ続く、7世紀後半から8世紀初頭の文化を白鳳文化という。天武・持統天皇の時代、律令国家形成期の若々しい文化で、新羅から伝えられた唐初期の文化の影響を受け、仏教文化を基調としている

なぜ「白鳳」文化というのか、の説明なし。

"

白村江の敗戦で、百済から亡命貴族がやってきた。学者・政治家・お坊さんなど、と一緒に優秀な文化がやってきた。これが、白鳳文化の面でもポイントとなるところです。
(白鳳についての説明はない)

唐書

まったく記述なし

旧唐書・新唐書とも記載せず、二つの国問題を隠している。つまり、天武の大化の改新以降は、全面的に日本書紀・続日本紀の記事を採用している。

武蔵義弘

まったく記述なし

古事記

天武天皇の時代にはじめられた国史編纂事業は、奈良時代に「古事記」「日本書紀」として完成した。712年にできた「古事記は「帝紀」旧辞書」をもとに稗田阿礼によみなわらわせ太万侶が筆録したもの。神話・伝承から推古天皇に到るまでの物語。国生み・天孫降臨・神武東征・ヤマトタケルの地方制圧などの物語で、そのまま史実とはいえない記述がある。口語を幹事の音訓を用いて標記している。

一番古い書物に対して、もう少し敬意を払っても良いのではないか。
天皇の詔勅により作られた書物が、何故か日の目を見なかった、かなどの謎も、記されても良いと思う。

永井路子

宮脇俊三

長部日出雄

三浦祐之

(古事記は712年成立と、712年の年だけ何度も記憶するように出てくる。太安万侶などの名前は全く出てこない。試験に出ないからであろうか。)

日本書紀

720年に舎人親王たちが編纂したもので、中国の歴史書の体裁にならい漢文の編年体で書かれている。神話・伝承・「帝紀」「旧辞」などを含め神代から持統天皇までの歴史を天皇中心にしるしている。なかには中国の古典や編纂時代の法令によって文章を作成した部分もあることから十分な検討が必要であるが、古代史の貴重な史料である。

史料として使うには、十分な検討が必要である、といいながら、実際は、倭の五王の天皇比定や、継体天皇以降の日本書紀のかなりの記事を、無批判に史料として取り入れている。

永井路子

宮脇俊三

(入試に出ないのか、記紀についての記述殆どなし。)

風土記

713年に諸国の郷土の産物・地名などの由来・古老の伝承などの筆録が編集された。
常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5ヵ国の「風土記」が伝えられている。

吉備風土記(埴輪)・筑後風土記(磐井の乱)など逸文にせよ残っている重要な記事が抜けている

田村

(「風土記」選進は713年とこれも年代暗記せよとだけ)

万葉集

天平宝字3(759)年までの歌約4500首を収録した歌集。選者は、大伴家持といわれるが不詳。有馬皇子・額田王・柿本人麻呂・山上憶良・山辺赤人・大伴旅人・大伴家持・坂上郎女などが名高い。

東歌があって、筑紫歌がない不自然さが指摘されてしかるべきであろう。

亀田隆之

宮脇俊三

天皇権威の確立で、万葉集の大伴御行や柿本人麻呂の「大君は神にしませば・・・」で天皇は神だと賛美している。
山上憶良の貧窮問答歌は必ず試験に出る。


教科書の問題点の内、まだ槍玉に上げていなかった問題

(a)弥生時代初期の銅鐸文化、(b)年号問題・白鳳について(いわゆる九州年号問題)、 (c)白村江の敗戦と倭国での、神護石・水城などの防衛施設の評価などが挙げられます。

(a)「銅鐸」については、別の専門書に槍玉として上がってもらうことにし、(c)は本質的な問題ではないようですので、今回は、(b)「年号問題」を中心に取り上げたいと思います。


◆年号問題について


『日本書紀』によれば、孝徳天皇の時(645年)に「大化」の年号がはじめて用いられ、次いで652年に「白雉」と改元しています。その後、32年の間をおいて、686年に「朱鳥」が1年使われます。また24年間中断し、701年に「大宝」が用いられ、以後は「平成」まで連続しています。

何故「年号」がこのように飛び飛びに使われたのか、『日本書紀』には説明がありません。王朝は続いているのですから、「年号」の趣旨からいって不思議です。

それなのに、『続日本紀』の聖武天皇の詔勅に、「昔の白鳳・朱雀時代云々」という記事があるのも不思議です。

この不思議さを、「不思議」として問題視しない日本の古代史学会は理解できません。

白鳳時代とか白鳳文化とか使われている、その白鳳について、高校の教科書では、どのように説明しているのか見てみます。
文部省検定済教科書高等学校地理歴史科用 『詳説日本史』 山川出版社 2007年3月刊 著者 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦
 

【白鳳文化 飛鳥時代に続く、7世紀後半から8世紀初頭にかけての文化を白鳳文化という。天武・持統天皇の時代を中心とする、律令国家が形成される時期の生気ある若々しい文化で、新羅から伝えられた中国の唐初期の文化の影響を受け、仏教文化を基調にしている。主な美術品など:薬師寺東塔・興福寺仏頭・法隆寺阿弥陀三尊像・高松塚古墳壁画など】

何故、「白鳳」といわれるか、については全く説明がありませんでした。

では、現代の通説である、ウィキペディア辞書ではどう説明しているでしょうか。2007年9月20時点での説明は次のようです。

白鳳は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。日本書紀に現われない元号をいう)の一つである。通説では白雉の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)。「二中歴」等では661年~683年。また、中世以降の寺社縁起等では672年~685年の期間を指すものもある。なお、『続日本紀』神亀元年十月条(724年)に「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」といった記事がみられる】

「逸年号」・「私年号」とか姑息的な説明をしています。さすがに、『続日本紀』の記事に出ていることは記載しています。これは、倭国年号である、と云えば済むことだと思うのですが。

それでは、何故「白鳳時代」という言葉が、特に美術史で定着しているのか、調べてみました。ウィキペディア辞書では次のように説明しています。

『白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。

天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。(歴史家は、白鳳は逸年号、としたいようである。が記紀の編纂命令が天武天皇であることを思うと、『日本書紀』に姿を見せない白鳳が天武天皇の頃に使われていた、とする説明はおかしい。

また、『続日本紀』には、724年に聖武天皇が、「時代が違う昔の話」、と云っていることからすると、天武天皇の頃631~686としてもおかしくはないのであるが)

その特色。7世紀の終わり頃完成した、古代の都で最大の規模を誇り、条坊制を布いた本格的な中国風都城の藤原京を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化であった。飛鳥浄御原令や大宝律令が制定され、本格的な国家が始動しだした頃でもあった。初唐文化の影響や朝鮮半島、インド、西アジア、中央アジアの文化も影響した。天武天皇・持統天皇の時代が中心だが、一部その前の天智天皇・弘文天皇時代を含む部分もある】

飛鳥時代の説明には以下のように、白鳳時代(文化)との関係が説明されています。

【現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。1900年前後に美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案され、関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、大化の改新以降を白鳳時代として区別する事がある】


下記のように、神社の案内板に「白鳳7年」とあるなどは、珍しい例でしょう。古い神社仏閣の縁起書などには、このような『日本書紀』に無い「古代年号」がちょくちょく見られるそうです。

高良大社奥宮看板福岡県久留米市 高良神社奥宮案内板。白鳳七年の記事あり。

ところで、この古代年号について、『二中歴』(にちゅうれき)という、鎌倉時代初期(1099年)に成立したとされる事典に、517年から700年の183年間の年号が記されています。この中にはちゃんと「白鳳」「朱雀」という年号が出現しています。

継体  517~521  善記  522~525   正和  526~530  教到  531~535
僧聴  536~540  明要  541~551  貴楽  552~553  法清  554~557
兄弟  558       蔵和  559~563  師安  564       和僧  565~569
金光  570~575  賢接  576~580  鏡当  581~584  勝照  585~588
端政  589~593  告貴  594~600  願転  601~604  光元  605~610
定居  611~617  倭京  618~622  仁王  623~634  僧要  635~639
命長  640~646  常色  647~651  白雉  652~660  白鳳  661~683
朱雀  683~685  朱鳥  686~694  大化  695~700

そのほか。日本の史料にどう出ているか、を調べました。

『続日本紀』 現代語訳 講談社学術文庫 宇治谷 孟
【聖武天皇神亀元年十月一日「治部省が次のように奏言した。京及び諸国の僧尼の名籍を調べてみますと、(中略)彼らにも公験(僧尼の証明書)を支給すべきことになりますが。それで良いのかどうか分かりません。伏して天皇のご裁定を仰ぎたいと思います。(それに対し)次のように詔があった。白鳳以来・朱雀以前のことは遥か昔のことであるので、調べ明らかにすることは難しい。また、役所の記録にも、粗略のところが多くある。そこで今回、現在の僧尼の名を確定して、それから公験を支給せよ。 (神亀元年は724年にあたる)】

『如是院年代記』(1298~1318ごろ書かれたとされる)大宝という年号以前に、522年善記に始まり、正和・教倒・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵知・師安・知僧・金光・賢弥・鏡常・勝照・端改・吉貴・願転・光充・倭景縄・聖徳・僧要・命長・常色・白雉・白鳳朱雀・大化・大長の年号があったと記されている。

『麗気記私抄』
1401浄土宗第七祖了誉聖冏、『如是院年代記』にほぼ同じ。

襲国偽僭考』 鶴峯戊申1836などが白鳳・朱鳥の入った年代記について記して、九州年号としている。

その他、木簡史料・寺院縁起などに、これらの年代が断片的ではありますが出ています。

・木簡史料:例えば三条九ノ坪遺跡出土の木簡、「三壬子」か「元壬子」とどちらで読むかによって倭国年号の木簡かどうか、論争されている。
三条九ノ坪遺跡で検索してみますと、その辺の論争にぶち当たります。興味ある方はどうぞ。

・寺院縁起:神戸市の明要寺の縁起(沙門祐賢「勧進」文書)によりますと、このお寺は欽明天皇の時代に百済僧によって 「明要元年辛酉三月三日始開山岳造仏閣」とのことです。ちなみに、この「明要」と いうのは正史には登場しない年号です。欽明天皇の2年(541)が明要元 年となります。つまり、少なくとも播磨地方には用いられていた年号ということになります。

外国の史料を見てみます。

李氏朝鮮の歴史書 『海東諸国記』 1471年完成 隣国日本の地理歴史を記載している。
継体天皇の項に、「十六年壬寅、年号を建てて善化と為す」とある。以下、正和・発倒・僧聴・同要・貴楽・結清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢接・鏡当・勝照・端政・従貴・煩転・光元・倭京・仁王・聖徳・僧要・命長・常色・白雉・白鳳朱雀・大長(15箇所如是院年代記と異なっているが概ね同様)


結論として

これらの史料を、先入観念をなくして、上記の史料読みますと、”『日本書紀』に出てこない、白鳳・朱鳥などの年号が日本で使われていた” ということは認めざるをえないと思います。

”『日本書紀』に出てこない」、ということは、近畿王朝での年号ではなかった、ということは云えるでしょう。そこで、歴史家の皆さんは、「有力豪族や有力寺院が、私年号として使った、公的なものではなかった」として、歴史資料として無視しようとしてきています。しかし、「近畿王朝が、大昔から全日本を全て統治していた」、とまでは、定説にしがみついていらっしゃる歴史家の皆さんは主張されません。しかし、何故か「倭国」という別王朝があった、というところまでは仰いません。

江戸時代は、一応大和王朝の顔をたてて、倭人伝などの卑弥呼は、熊襲の女酋長だ、(鶴峯戊申1836『襲国偽僣考』これも見方によっては、別王朝という主張になりますが)などという諸説がありましたのに、明治維新以降、大和王朝一元主義が徹底されたようです。
 
『続日本紀』が編纂された8世紀末には、九州・四国・本州の殆どが大和政権に纏められた、と思われますが、それまでの過程で、所謂群雄割拠時代があり、その中の雄国が、年号を建てる国家組織にまで出来上がっていたとしても、不思議ではないと思います。むしろ、そのような仮説を立てれば、全ての史料との辻褄が合い、説明がつくと思います。

◆古田武彦さんの見解

これらの年号が、九州を主領域とした、「倭国年号」である、と古田武彦さんは主張しています。

古田武彦さんは、『失われた九州王朝』1973年、『法隆寺の中の九州王朝』1985年、『失われた日本』1998年と、それぞれの著書に、「倭国(九州)年号」について書かれています。参考された史書として、最初の本では朝鮮の『海東諸国記』をメインに、次いで、鶴峯戊申の『襲国偽僣考』を、後の著書では、鎌倉時代の『二中暦』を使われています。

『失われた日本』1998年 に古田武彦さんが意見をまとめていらっしゃいますので、紹介します。(同書p161~175)

【第一、倭国は中国から東夷と呼ばれていた国々(高句麗・百済・新羅等)の中で、中国に対抗して唯一「天子」を名乗った国である。高句麗・百済・新羅が交々「自国年号」をたてている中で、「天子」を名乗る倭国だけが無年号であった、とは信じがたい。周辺の国々は、中国に遠慮して「王」を名乗った。それでも「自国年号」を作ったのである。「天子」を自称した倭国に「年号なし」とするのは、理性において理解不可能である。

第二、720年に出来上がった『日本書紀』には、大化ー645~649、白雉ー650~654、朱鳥ー686、の三つの年号だけが7世紀段階に出現している。これはいずれも先に述べた倭国年号が恣意的な時間帯にちりばめられている。これはまことに不合理であり、かつ無意味である。なぜなら年号の持つ意味は、「権力者を原点とする、時の暦」なのであるから、このような飛び飛び気まぐれな年号発布では、年号としての意味をもたないからである。

第三、大化の改新で「郡」制が施行されたように『日本書紀』には記載されている。しかし、出土した木簡から、701年以前は「郡」ではなく「評」が用いられていたことが判明している。「大化の改新」の正しい歴史上の位置は、「701」年になる。大宝元年は大化7年ということになる。

第四、白鳳は飛びぬけて長い期間用いられている。何故か。白鳳2年(662年)白村江の戦いだ。倭国は百済と連合し、唐・新羅連合軍と4度戦って4度敗れた。筑紫君薩夜麻は唐に10年間捕囚の身になり、このような、敗戦の混乱状態から23年間改元されなかった、という点も大いに首肯されよう。

第五、中国の史書に梁朝(502~557)には倭国は全く姿を見せなくなる。この間に倭国は年号を開始する。高句麗王、百済王などが倭王より上位におかれたことを不満とした、という可能性もあろう。

第六、その年号に、仏教関係の年号が多いのが特徴的である。仏教伝来とされる、552年より、僧聴元年(536年)のほうが早い。仏教伝来記事と明白に矛盾する年号があることは、これらの年号が「偽作」でない証拠である。

第七、『続日本紀』の聖武天皇の詔勅に、「白鳳以来・朱雀以前」という年代がでてくる。「お前たちは、白鳳・朱雀の時代には、土地の権利はこうだった、とか言ってくるが、もう昔のことで調べがつき難い」と。しかし、これらの年号は『日本書紀』には全く顔を見せない。何故か。「実在した年号を消す」ことは、それは「実在の九州王朝を消す」行為で、新しい権力者による歴史欺瞞である】


ウイキペデイア辞書の説明・教科書の説明に比べ、古田武彦さんの説明は、理路整然としていて、受け入れ易い意見と思います。読者の皆さんのご意見は如何でしょうか。

最後に

高校生に歴史に興味を持たせるためには、年代の丸暗記第一主義を改める必要があります。わが研究会のノリキオ画伯も、高校の日本史の授業は全く面白くない、と言い切ります。
大体の年代、何世紀頃、位で覚えればよいのではないでしょうか。全体の流れを掴ませることがより必要なのではないでしょうか。

今の歴史教科書で、通説・定説をもってしても、理解でき難い所、説明しがたい所、などは隠しています。しかし、わからないところは正直にわからない、と書くべきでしょう。そうすれば、これらの謎解きに、知的好奇心を擡げる若者も出てくることでしょう。

                                       (この項終わり)

                          
 トップページに戻る

                           著作者リストに戻る