槍玉その37  『聖徳太子と日本人』 大山誠一 角川文庫 2005年5月刊   批評文責 棟上寅七

著者の大山誠一さんとは

ウイキペデイア百科事典などによると、大山 誠一 (おおやま せいいち、19448 - ) は、日本の歴史学者。専門は日本の古代政治史。最終学歴東京大学大学院人文科学研究科卒。 中部大学人文学部日本語日本文化学科教授。

もう少し詳しく見ますと次のようです。東京都生まれ。1970年東京大学文学部国史学科卒、1975年同大学院博士課程単位取得満期退学。各大学の非常勤講師を経て、1991年より中部大学人文学部日本語日本文化学科教授。1999年東京大学より博士(文学)の学位を授与される。

ところで、中部大学とは聞きなれないので調べ、同大学のホームページを見てみました。沿革は、1938年名古屋第一工学校 1962年中部工業短期大学開学 1964年中部工業大学開学 1984年経営情報学部、国際関係学部開設、中部大学に名称変更 1998年人文学部開設、 ということでした。

ウイキペデイアには、【大山誠一氏は、長屋王家木簡の研究などで功績を上げた。1996年以来、一連の著作で「聖徳太子は実在しない」との論陣を張る。1999年に吉川弘文館から出版された『<聖徳太子>の誕生』は賛否大きな反響を呼んだ】ともありました。


はじめに

沢山の「聖徳太子実在せず」についての著作があるようです。そのうちの比較的最近の本で、大山さんの考えが出ていると思われる『聖徳太子と日本人』を取り上げることにしました。

これは、「古代のスター聖徳太子は実在しなかった、なぜ創造されたか」、ということについて書かれ、「天皇制にかかわりがある」ということを論じた本です。

『日本書紀』に描かれている聖徳太子は、というと、これは実際には書かれていないのです。つまり、厩戸皇子については『古事記』『日本書紀』の双方に出ているのですが、聖徳太子という固有名詞は出ていないのです。従って大山さんの説は「厩戸皇子は実在したが、その後の所謂、聖徳太子の業績とされる十七条の憲法などの業績の主人公としての聖徳太子は、実在せず」、ということのようです。「聖徳太子の実像を探る」という大山さんの研究テーマについては当研究会も大賛成です。

その研究の検討内容とその検証結果についてみさせていただき、それから導き出された大山さんが立てられた仮説に問題がないか、検証に問題がないか、をみさせていただき、その仮説を正しいとされる大山説の当否を判定したい、とこう考えているところです。以下、本の流れに沿って見ていきたいと思います。



第一章 聖徳太子は実在しない

この章で、聖徳太子の諸事跡とされることについての真贋を検討されます。十七条の憲法・三経義疏・天寿国繍帳などが全て聖徳太子のものでない、ということを説明されます。

大山誠一さんによる「聖徳太子実在せず」の論拠の一つの柱が、”十七条の憲法は聖徳太子が作ったのではない”ということの様です。その論拠を縷々と説明されます。とどのつまりのご意見として、憲法十七条の疑念と題しておおむね次の様に述べられます。

【『隋書』にある倭王は、天を以て兄となし日を以て弟と為す云々とあるように、中国文化と相容れない為政者の政治認識であった。こういう状況の中では、中国の古典を取り入れている十七条の憲法を制定する姿勢が生まれなかったことは明らかであろう】と。

大山さんの問題提起は、『隋書』にはっきり書かれている「多利思北孤〈タリシホコ〉」が『日本書紀』に見当たらない、だから、その時間帯に存在したとされる『日本書紀』記載の支配者(天皇たち)は創作されたものだ、ということから始まっています。

隋使は俀たい)王と会ったとして詳しく状況を描いていますが、大山さんはいとも簡単に「倭」王と決めつけ、多利思比孤〈タリシヒコ〉は推古女帝ではないし、聖徳太子でもあり得ない、蘇我馬子ではなかったか。馬子は実は天皇であった、というような論理で進まれているのです。

(疑問および意見):『隋書』にある、「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す、恙無きや云々」、という対等的な調子と、『日本書紀』にある「東の天皇つつしみて西の皇帝にもうす、云々」の、へりくだった調子とは明らかに違う文書ではないか、と疑うべきではないでしょうか。

『隋書』「倭国伝」ではなく、「俀(たい)国伝」となっていることもなぜなのか、と疑うべきではないでしょうか。『隋書』には「俀国」と同時に数ヶ所「倭国」という記載も同時に出てきていることへの不思議さにも思考を進めなければならないのではないでしょうか。

『隋書』に続く史書『唐書』には、倭国と日本国という二つの国の記載があることについての不思議さにも、思考を進めなければならないのではないでしょうか。

安易に、『日本書紀』の人物の存在が創造されたもの、という方向に向かってしまうと、正しい答は得られないと思います。



第二章 聖徳太子研究の壁

この章で、大山さんが自分の「聖徳太子不在論」にまで至った研究の経路を説明されます。この章の目次各項目を見ますとほぼ推察出来るかと思います。

【目次】・強固な先入観・歴史書は間違っているのか・皇国史観・飛鳥研究がなぜ難しいか・記録を残さない日本人・根強い聖徳太子信仰・天皇制との関係は・ということです。

大山さんは、聖徳太子関係の史料というものは、『日本書紀』や法隆寺関係で沢山あるが、それらは全て聖徳太子が生きていた推古朝のものではなく、1世紀も後の奈良時代に作られたとされます。

推古朝時代の史書がないために、従来の聖徳太子像を疑いないものとされてきたのだが、長屋王関係の木簡の研究により、『日本書紀』編纂時代の長屋王、藤原不比等、光明皇后などの動向が、従来の藤原氏中心の歴史認識と別の形であったことがわかり、『日本書紀』が編集され、聖徳太子という人物像が成立する様子を解明出来た、と言われます。

(疑問および意見)①:残念ながら、その解明過程はこの本では説明が全くありません。木簡のいくつかのキーとなる断片でも示していただければよいのですが、この肝心のところが省略されているのでは、はいそうですか、と問答無用となっているのはどうしてでしょうか。


大山さんは、文字史料がないことについて、残念がられ、日本人には文字で記録を残す意欲に欠けた民族であった、という感想を持たれます。

(疑問および意見)
②:はたしてこのような思考過程を通ってよいのでしょうか。『日本書紀』に先行する書物の数々が、当の『日本書紀』に沢山出てきます。現物が残っていないから、これらの『日本書紀』に出現する『「日本旧記』や「一書」群、これらは全て「創作された」記事とおっしゃりたいのでしょうか。

又、『古事記』序文に見える、「諸家のモタラすうんぬん」の記録類の存在が推定される文言、『万葉集』に見える「古集に見ゆ」という先行する和歌集の存在、いくつかの出土墓誌(注1)、これらが目に入らないというのであれば、大山さんの資質は、古代史家としては如何なものかということになるのではないか、と大山さんのために心配させられます。

『続日本紀』にもあるではありませんか、 元明紀の和銅元年(708)正月条には、和銅改元のいきさつを述べながら大赦令を出すことに言及し、その範囲の説明に「山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罪する」という一行があります。(講談社文庫『続日本紀 上』 宇治谷 孟 訳)

このいわば禁書令がいう書物は、どんな書物だったのでしょうか。そういうことには全く思いを致さぬ大山さんは、歴史家としての感性に欠ける、と言われても仕方ないのではないでしょうか。

注1)、「小野毛人の墓誌」「飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上 小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」、「船王後墓誌」「惟船氏故 王後首者是船氏中祖 (中略) 即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」

これらの墓誌に出てくる歴代天皇名が『日本書紀』と全く合わないのです。

この墓誌について詳しく知りたい方は、2009年10月3日に 東北大学文学部で行われた 日本思想史研究会10月例会 で古田武彦さんが報告された『近世出土の金石文(銘版)と日本歴史の骨格』 が次のURLで読むことができます。http://www.tagenteki-kodai.jp/houkoku.html


大山さんは【聖徳太子像が天皇制の象徴的なもの、として『日本書紀』に創造された】とされます。部分的には正しいところもあるかもしれません。武力的には無力な天皇が時の権力者の権威付けに利用されたが、それに聖徳太子的な理想的天子像を重ねさせる働きを日本書紀が果たした、というように言われます。

(疑問および意見) しかし、では何故、聖徳太子の子孫は根絶やしにされた、というように『日本書紀』は記しているのでしょうか。大山さんの仮説が正しければ、このような記事は書かなければ済むはずでしょう。そこのところの大山さんの説明がなされて、それが納得できる説明であれば、大山説に誰しも賛同出来るか、と思います。なぜ、古代史専門家の大山さんは、このところの説明をなさらないのでしょうか。(この問題については、第八章で改めて検討します)

しかも、じゃあ、記録に残っている史書の見方は、と『隋書』の俀国伝の取り扱い方をみてみますと、これまたご自身が批判されている通説に寄りかかってしまっています。

まず「俀国」という国の捉え方です。『隋書』の「俀国」の行路記事、国の様子、などから見てこれは九州であろう、ということは容易に判断されます。しかし、九州にそのような国があったはずがない、という先入観念がおありでしょうから、やむをえないのかもしれません。

しかし、古代史史家という看板を下げていらっしゃるのであれば、その後の中国の正史『唐書(旧)』に、「倭国伝」・「日本伝」と二つの国が日本列島に存在していたことが書かれていることに注意が払われなければならないでしょう。

そうすれば、『隋書』が言っている「俀国」は、『唐書』の「日本」ではなく、「倭国」であろう、従ってタリシホコが「俀国」の天子と称していることは、九州の地で天子と称していた、ということに理解が進むことになります。ですから、飛鳥の推古朝の人物との姿にタリシホコを重ねようとしても、全く合わないということは当たり前、という理解になります。

少なくとも、『隋書』の「俀国」について、「倭国」と読むべき理由を記してもらいたいものです。大山さんは、聖徳太子を教科書が史料も不確実なのに青少年に教え込む、と非難されていますが、同じことを「『隋書』の俀国を倭国」と書いている教科書にも向けなければ片手落ちでしょう。



第三章 聖徳太子の作者は誰か ということに話を進められます。

大山さんは、この太子像が作られた時期の情勢を説明されます。大化改新から大宝律令へ・大宝の遣唐使がもたらした衝撃・藤原不比等と長屋王・両雄決裂・長屋王の勝利・中断された『古事記』・養老の遣唐使帰国す・キーマンは道慈、というような話を展開されます。

(疑問および意見1):これまでに至る論旨の展開のための前提条件が不確かなままにされるのですから、このまま大山さんに無条件に従ってよいのでしょうか。

大山さんは、『古事記』についての見方を次のように言われます。【『古事記』は高天原からの天孫降臨の神話によって天皇は神と直結し、神武東征で王権の原点が定まり、ヤマトタケルがまつろわぬ人々を平定し、神功皇后が新羅・百済を従えて、小帝国の勢力圏を確定し、その上にたって聖帝たる仁徳や天真爛漫な雄略が縦横に活躍するというものである】(同書p84)


(疑問および意見2):このような理解をベースに天皇制の淵源を、『日本書紀』の恣意的な編集に求めようとする、大山さんの史資料の読みこみは、かなり杜撰と思います。
『古事記』で仁徳天皇が、果たして「聖帝」と美化されているでしょうか。


仁徳天皇は、応神天皇没後の皇位継承で異母兄の大山守命を、異母弟の宇遅能和紀郎子<うじのわきいらつこ>とともに宇治川の私で伏兵をもって殺したことが『古事記』に書かれています。また、異母妹の女鳥王<めどりのみこ>を娶とろうとして、異母弟の速総別王<はやぶさわけのみこと>を使者に立てますが、もうすでに姉の八田若郎女が妃の一人として嫁しているし、本妻の石之日賣命<いわのひめのみこと>は嫉妬深いだから行きたくない、むしろ速総別王の嫁になりたいと返事します。仁徳天皇は、この二人を宇陀に追い詰め殺害します。

仁徳天皇はこのように書かれているのに、「聖帝」という評価を『古事記』がしていると、どうして言えますか?


(疑問および意見3): また、大山さんは、雄略天皇を天真爛漫と評価しています。

『古事記』によれば【 雄略天皇は、叔父の履中天皇の子、(雄略天皇の従兄弟にあたる)市辺<いちべ>の忍歯<おしは>王と一緒に狩に出かけ、雄略天皇は衣の下に鎧を着込み、弓矢を持って、馬を出し、両者が並んだ時、忍歯王を弓で射殺し切り刻んで土中に埋めた】そうです。これで天真爛漫?と評価される大山さんが、天真爛漫の幼児的な判断力しかないと思われることでしょう。

この話は、『古事記』の安康天皇のところで、安康の子、大長谷若建命の話として出ていますから気付かなかった、ということはまさかないとは思いますが。

以上のような大山さんの『古事記』の理解で、学生たちを教えているのか、と思うと、寒気すら覚えると言ったら言い過ぎでしょうか。



第四章 日本書紀にみる三つの顔

『日本書紀』編纂にかかわった人として、道慈・不比等・長屋王を大山さんは上げられます。

項目のタイトルは、聖徳太子を必要とした古代国家・仏教関係記事ー道慈悲の構想・薨日をめぐる謎ー玄奨三蔵と聖徳太子・儒教関係記事ー不比等の陰謀・道教関係記事ー長屋王の幻想・新羅コンプレックスからの脱出・なぜ厩戸王が聖徳太子になったのか、というものです。

このタイトルの流れで、大まかの大山さんの論旨の進め方を推測できるかと思います。

この中で聖徳太子の謎の内最大とも言われる、聖徳太子没年に関する謎について、大山さんの説明は次の様なものです。

【『日本書紀』によると推古22年2月5日に亡くなったとあるが、法隆寺関係の史料によると、その翌年の2月22日となっている。つまり1年ちょっとの差がある。

これは、聖徳太子を聖帝と祭り上げるために、没年月日を法隆寺の法会が行われた日に合わせた。それは光明皇后と道慈の考えによる】とされます。
この没年に関する謎については後でも出てきますので、そちらで論じます。

この章では、新羅コンプレックスからの脱出 という項で、大山さんは推古朝から奈良時代の国際関係についても、大山さんの見方を述べています。

【七世紀を通じて、朝鮮半島に介入したが、663年の白村江で唐・新羅連合軍に大敗した。その結果、百済が滅亡し、高句麗も滅亡し、新羅によって統一された。新羅は唐とも対決して勝利し国力は最盛期を迎えていた。その新羅に負けないような国つくりに不比等たちが励み、新羅の仏教からの文化ではなく、新羅に対抗するには唐から直接文化を導入したいのだが、白村江の戦い以来敵国とされ、事実上断交状態であった】、と。(文中太字は棟上寅七による)

(疑問および意見):しかしこれは『日本書紀』の記事や『唐書』の記事などから見て、事実上の断交というような表現は当たらないと思います。

このあたりの、朝鮮半島を巡るトラブルに関係した人の動きが、史書には沢山記せられています。中国の史書及び『日本書紀』から拾い上げて表にしてみました。

一応各史書が記す年代を、そのまま採用しています。

西暦 事件など 中国(史書の記事などより 日本列島 筑紫  日本列島 近畿(紀記による
598 隋高句麗を攻める 30万で高句麗攻撃
600 俀王 使者派遣 隋書 俀王 阿毎多利思北孤 (日本書紀に記事無し
607 俀王 使者派遣 俀国より使節きたる 国書日出づる処の天子 小野妹子派遣
608 隋帝 俀国に使者派遣 俀国に裴世清派遣 小徳阿輩臺出迎え 難波吉士出迎え
608 琉球へ隋軍侵攻 琉球へ隋軍侵攻 日本書紀に記事無し)
608 推古天皇使者派遣 裴世清帰国時、小野妹子派遣 国書持参
608 俀国 隋との国交途絶 隋書 (日本書紀に記事無し)
614 推古天皇遣隋使派遣 日本書紀
618 隋から唐へ
631 唐 使者派遣 倭、日本 高表仁を派遣 高表仁来国筑紫に631年 高表仁来国記事 632年
631 倭国 朝貢 旧唐書 (日本書紀に記事無し
644 唐 高句麗を攻める
645 倭国 朝貢 旧唐書 筑紫から朝貢した? (日本書紀に記事無し)
645.6 (乙巳の変) 蘇我入鹿・古人大兄皇子殺さる
646 (大化改新) 1月 改新の詔
648 倭国 朝貢 旧唐書 筑紫から朝貢した? (日本書紀に記事無し)
653 百済豊章王子 倭に人質 日本書紀
654 倭国 朝貢 旧唐書 筑紫から朝貢した? (日本書紀に記事無し)
659

両国使節団長安にて相争う

旧唐書 列島からの二つの使節団の記事 (日本書紀に記事無し)
660 唐 百済戦 蘇定法 を任命

百済滅亡(公式には)

日本書紀に関係記事あり
660 百済余豊即位 余豊倭より帰国 百済偽王 日本書紀に関係記事あり
661 唐の続守言を捕虜に 日本書紀に関係記事あり
661 唐の捕虜近江へ 唐人106人近江へ(続守言含まれず
661.7 (斉明天皇歿) 7月斉明天皇歿・中大兄皇子称制をとる
662 倭+百済対唐+新羅戦 4度の戦いに全勝 日本書紀に関係記事あり
663.2 唐捕虜移動 続守言を近畿へ移送
663.3 3月州柔の陸戦 9月、州柔城落城 薩野馬君捕虜となる? 倭軍27000人
663.9 白村江の海戦 海戦で大勝 百済完全に滅亡 海戦で大敗 軍船400艘失う
664.5 唐より来朝 百済鎮将劉仁願・郭務悰 日本書紀に関係記事あり
664.10 唐より来朝 郭務悰 日本書紀に関係記事あり
664.12 唐使者帰国 郭務悰 日本書紀に関係記事あり
665.9 唐より国使 来朝 劉徳高を派遣 劉徳高・郭務悰など254人 日本書紀に関係記事あり
665

唐に派遣

守君大石を派遣
666 唐高宗 泰山封禅の儀 倭国代表参加 倭国代表派遣 (日本書紀に記事無し)
667.11 唐より使者 劉仁願、李守真 日本書紀に関係記事あり
668.1 (天智天皇即位) 称制をやめ即位
668 高句麗滅亡 新羅統一
668.9 新羅より来朝 金東巌来朝
668.11 新羅使者帰国 金東巌帰国
669 唐より来朝 郭務悰など2000人 日本書紀に関係記事あり
670 倭国号日本に変更 旧唐書 (日本書紀に記事無し)
671 百済鎮将劉仁願 李守真来朝 日本書紀に関係記事あり
671

筑紫君薩夜摩唐より帰国

薩夜摩唐より帰国 薩夜摩派遣の記録日本書紀に無し
671 唐より来朝 郭務悰など600人+1400人船47艘 日本書紀に関係記事あり
672 郭務悰など帰国 郭務悰に大量の進物 5月帰国
672 (壬申の乱)
674 新羅の三国統一なる
690 大伴部博麻帰国 薩夜摩の帰国の為に奴隷身売
701 唐 大和王朝公認 則天武后 倭国国際的に滅亡
701 元号大宝 大宝律令制定
702 遣唐使派遣 粟田真人 粟田真人
712 古事記編纂 大安万侶(書紀に記事無し
720 日本書紀編纂 舎人親王

600年から660年までの中国史書に記載のある我が国との関係記事が、『日本書紀』に記載がないことが注目されます。(青色着色表示

このような動乱期の唐及び新羅からの来朝を大山さんはこの本を通じて一言も述べられません。

百済滅亡後の数次の、かつ大多数の唐人の来朝についても同じく口をつぐまれます。(赤色着色表示

すでに何千人もの唐から来朝しているのに、何が「事実上の断交」でしょう。自説に合わない史書の記事は大山さんには見えないようになってしまっているのでしょうか。

大山さんは、遣唐使の中の道慈という僧侶が、唐から持ち帰った新知識をもとに「聖徳太子=理想の天皇像」を作り上げた、と論じます。これまで見てきたように、前提条件を「聖徳太子=理想の天皇像」に合うように取捨選択して、だからこうなったのだ、と「創造された結果」を示されても、論評に値しないものです。

大山誠一さんは、「新羅コンプレックスからの脱出」というところで、わが国には新羅が文化的に進んだ国である、という抜きがたいコンプレックスがあり、新羅をまねるのではなく、唐から直接文化を受け入れようとした、と説かれます。


(疑問および意見)部分的にはともかく、全面的にそう言い切れるのでしょうか? 『宋書』にある、倭の五王たちが宋朝に対し、しつっこく綬号を迫っていたという記事を思い出しました。

大山さんは、我が国は新羅に軍事的のみならず文化的にもコンプレックスを持っていた、とされます。5~6世紀では、倭国が新羅や百済の軍事支配権を宋朝に対して要求していた頃のことです。

倭王讃は太祖元嘉二年、「自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、表して除正されんことを求む」「倭王済、使持節都督倭・新羅・加羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え・安東大将軍は故の如く・・・」とあります。

倭王武については順帝の昇明2年。・・・詔して、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」とあります。

この文面からすると、倭国王は歴代韓半島の軍事的支配権を宋朝に認めさせるよう要求し、(百済を除き)認められていたようです。つまり国際的には百済を除く、新羅加羅などの国々は倭国の傘下に入っていた、と取れます。

大山さんが新羅コンプレックス、と仰るのであれば、この『宋書』の記事をどう解釈されるのでしょうか。中国史書はいい加減だ、と仰りたいのでしょうか。7世紀に入って新羅が倭国のくびきから脱出した、ということが史書が記す新羅ー倭国の関係と思うのが自然ではないでしょうか。



第五章 法隆寺と聖徳太子  第五章と第六章がいわば聖徳太子実在せず論の主体のようです。

大山さんは、法隆寺系史料の検証を行い、薬師像銘の「天皇号」の使用、及び釈迦像銘の「法興」という年号と「法皇」という語の使用されているのがおかしい、とされます。

これらのことから、この金石文は、推古朝でなく後年天平期に捏造されたものであろう、とされます。

三経義疏』と「天寿国繍帳」を含め、これらはすべて聖徳太子のものとしては贋物と検証されます。

大山さんは太子の薨日について、【天寿国繍帳と釈迦像の二つの銘文は、『日本書紀』の621年2月5日と違って622年2月22日としている、これは法隆寺固有の事情によるものと考えなければなるまい】と書かれます。


(疑問および意見):光背銘文の主人公ははたして厩戸皇子なのでしょうか? つまり、最初から銘文の主人公を聖徳太子(厩戸皇子)と決め付けているから起きた矛盾であり、古田武彦さんが説かれるように、上宮法皇は大倭国(?国)の関係者であり、聖徳太子と別人、ということになれば、日本書紀と法隆寺史料との、薨日の食い違い問題も雲霧消散するわけです。幽霊の正体見たり枯れ尾花、という俗謡がありますが、正にこのとおりです。

しかも、釈迦三尊光背銘にある「法興」という年号について全く検証することなく、「法興」などの他で見られない年号を使っていることを贋作の一つの理由としています。

そして伊予湯岡の温泉碑文に「法興」という年号が使われていますが、今度は、その「法興」という年号によれば聖徳太子は25歳だし、法王大王と呼ばれるには若すぎるから、この碑文を伝える風土記逸文も贋作とされます。論証の方法が滅茶苦茶な感じです。

ところで、釈迦三尊の光背銘については、大山さんは後世の創作とされます。しかし、銘文は聖徳太子に関しての通説でも理解しがたいことが沢山あります。有名なのは、家永三郎さんが銘文を通説にしたがって聖徳太子の業績を記したもの、とされるのに対して、古田武彦さんが、この釈迦三尊は法隆寺焼失後他所から持ち込まれ、光背銘は聖徳太子でない上宮法王という人物の業績を示すもの、という論争があります。(『聖徳太子論争』 家永三郎/古田武彦 新泉社)

もし、大山さんが、これらの銘文を”後世の創作”とされるのなら、もっと聖徳太子にべったりの銘文と何故創作しなかったのか、という説明が求められましょう。

法隆寺の仏像光背銘文や伊予湯丘碑文にしても、上宮法王を聖徳太子と決めつけていて、碑文と聖徳太子の史資料と合わないところが多い、とされます。結局は、いずれも後世の贋作という大山さんの結論になっています。

もし、大山さんがその前提条件、「上宮法王=聖徳太子」を疑えば、結論も違ったものになりましょう。そして結論として、【『日本書紀』に出てくる人物に当てはまらない「上宮法王」なる人物と、「法興」なる年号が存在した】、という事実が浮かび上がってくるのです。



第六章 聖徳太子信仰の誕生

大山さんは、この章で、長屋王家滅亡~武智麻呂・光明子の政権~大地震などの異変~聖徳尊霊へ加護 という形で聖徳太子像が出来上がっていった、と説かれます。

【天平8年2月22日に法会を光明皇后が行っている。つまり、聖徳太子の特別な日、が2月22日であった。光明皇后の守護神と聖徳太子を位置させ、法隆寺の本尊と二重写しにする。薬師寺僧行信のアイデアだろうか、薨日も長屋王の変(2月12日)の前ではいけない。なぜなら、法会の後に長屋王の変を想起するようになっては困るからである。それより以後ならば、長屋王の変の記憶を吹き飛ばすことができるはずである、おそらくそう考えて十日後の22日が選ばれたのであろう】

亡くなった年が1年違うのは、【48歳というより49歳の方が仏教的である。なぜなら亡くなって49日間を中陰というし、弥勒の兜率天は49院である。そのように、1年遅れの2月22日として、太子の母や妃の死がもっともらしく付け加えられ銘文が出来上がった。】

以上の結論に至るまで、縷々と光明皇后や武智麻呂の政権の動きなどを説明されます。


(疑問および意見)

しかし、日本書紀が720年に撰上され、その後、官吏に対し講読キャンンペーンが展開されます。法隆寺の法会があったとされる、737年(天平8年)には、ほぼ日本書紀の内容は官僚群には充分に行渡ったことでしょう。

それなのに、その日本書紀の内容と反する、推古朝の大スター、聖徳太子の薨日を変更し、銘文を刻することなどありえるでしょうか。ありえる筈がない、というのが理性的な判断でしょう。寅七から、「大山先生は理性がない」といわれても仕方がないことでしょう。

「法隆寺が、何時何のために建てられたのか」、ということは大山さんの専売の設問の謎ではなく、例えば梅原猛さんもそういう設問をされています。

その一つの解として”鎮魂の寺”説です。承知のように太子の子、山背大兄皇子は蘇我入鹿などによって殺されます。詳しい説明は省きますが、「光明皇后が自分の兄弟四人を失ったのは、聖徳太子の祟りとして法隆寺を建てた」、とされます。(『日本古代史の謎ゼミナール』1975年 朝日新聞社)

「天智九年夏四月癸卯朔壬申、夜半之後、災法隆寺。一屋無余。大雨雷震。」と『日本書紀』にあります。大山さんは法隆寺の建立も釈迦三尊の仏像の造立も書かず、火事で燃えたことだけを『日本書紀』は記し冷淡だ、とされます。

その理由を、『日本書紀』編纂時点で法隆寺と聖徳太子との関係を示す史料がなかったから、とされます。つまり聖徳太子はいなかった、と。


(疑問および意見):大山さんが主張するように、不比等が『日本書紀』を「聖徳太子像を祭祀を主とする天皇像のモデルと言う風に編纂した」のであれば、何故、聖徳太子の子の山背大兄皇子を入鹿が殺したという事件を、太子の輝かしい業績に合わせるように粉飾しなかったのでしょうか? 説の当否はともかく、大山さんと梅原さんの説を比べてみると、大山さんの論理は奇をてらっているだけで、その展開に杜撰さが見えるようです。



第七章 聖徳太子転生

聖徳太子信仰の一つの現われとして、鑑真が太子の生まれ変わりという説も流布された、という話を大山さんは紹介します。それが、最澄は聖徳太子の玄孫を自ら称し、聖徳太子信仰は平安遷都により、法隆寺を離れ、比叡山延暦寺とともに発展した、と説かれます。

まあ、これについてあれこれいうこともないでしょう。

問題は、この章に、湯岡碑文と法起寺塔露盤銘について大山さんが意見を述べているところです。伊予湯岡碑文というのは、伊予風土記に記載されているものです。「法興6年10月に法王大王が恵慈法師と葛城臣とが湯岡で温泉に入った云々」というような碑が建てられていた、と云うことについてなのです。

大山さんは、法興6年は、法隆寺の釈迦三尊光背銘の銘文によれば、推古4年であるので、聖徳太子は23才であり、とても法王大王と呼ばれるはずもない。贋作に決まっている。また、この文章は六朝風の文体を駆使した昂殿漢文である。とてもその時代の日本人に出来るものではない、鎌倉時代に捏造したと見るのが無難、とされます。


(疑問および意見)
:大山さんには、当時の我が国の文化レベルに偏見があるようです。西暦57年には「漢委奴国王印」を貰っていて、漢字に対する認識は、遅くとも金印到来以降、倭人にはできたことでしょう。

その後、3世紀の卑弥呼も、その文章の内容は残っていませんが、魏朝に文書を出して(上表して)います。5世紀の倭王武の宋朝への上奏文は内容も『宋書』に残っていますが、見事な漢文ではないでしょうか。

かって安本美典氏の『虚妄の九州王朝』を槍玉に上げた時にも、この問題を取り上げました。槍玉その19を参照ください。

6~7世紀のわが国の文人が立派な文章を書けた筈がない、と決めつけるのは如何なものでしょうか。形を変えた自虐史観と云う感じがします。



第八章 聖徳太子と天皇制

この章が大山さんが最も述べたかったところのように思われます。天皇制など日本の歴史認識について、二人の著名な歴史家の説を紹介されます。

そのお二人とは網野善彦さんと吉田孝さんです。網野氏は、個性的な地域社会がそれぞれの伝統と文化を持って、複雑に絡みあってきた世界とみていて、吉田孝氏は、著書『日本誕生』で縄文文化の高さが、水稲技術を継受し、異例の早さで政治的統合初期国家への形成が進み、その後の発展が、倭政権の発展・天皇を核とするヤマト政権と繋がっていく、と紹介されます。

どちらかというと吉田さんに批判的ですが、網野さんの日本国家論も何も分かっていないといっているに等しい、とも云われます。

そして、天皇が狂死したり暗殺されたりしたことを、『日本書紀』の編集者は知った上で、聖徳太子を聖天子として描いたのだ、と説かれます。とにかく日本の天皇が、巨大な官僚と軍隊を駆使したことがあっただろうか。倭王武の上奏文や『古事記』のヤマトタケルの活躍譚は単なる言葉の文(あや)で、その頃は、機構としての官僚も軍隊もなかったのだ、と説かれます。ここの部分が肝心なところです。ちょっと簡単には頭に入りにくい文章なのです。

面倒ですが、全文を参考に末尾に付けておきますので、読者諸氏も大山さんの文章を理解できるか読んでみてください。(末尾注参照)


(疑問および意見)

① 『日本書紀』の編者云々の文章のレトリックはおかしい。


聖天子として描いた天皇像があって、なぜ狂死したり暗殺したりされたりする天皇像を描かなければならなかったのか、という説明になっていません。聖天子として描いたのであれば、古代の天皇も有徳の天皇像に描くことは容易ではないのでしょうか、そして、人々に天皇は有徳なるゆえに天皇である、と教え込めるのではないでしょうか。

厩戸皇子を聖徳太子と仕立て上げた、と云うところまでは理解できても、天皇制の象徴に仕立てた、というのは無理でしょう。


② 四世紀の高句麗好太王碑文にある、倭との度々の戦闘について無視、(軍隊なしの外国との戦闘などあり得ません)、されているし、六世紀の『筑後国風土記』逸文の筑紫君盤井の墓に、裁判を模した石像が配置されていた、と書かれていることの無視、(官僚抜きの裁判などあり得ない)、はどう説明されるのか。大山さんは、古代は記録がないない、とボヤかれていますが、曇った目には見えないのでしょう。

この章では天皇制成立私論として、かなりのページを割いて、古代の王権の成立過程私論を述べられています。

簡単にまとめますと、【縄文・弥生時代は網野氏の説くような「個性的な地域社会」であったであろう。最初に栄えたのは、北部九州東部地域であった。邪馬台国連合と云われる国々が三世紀中葉から弱体化し、日本の歴史は舞台の中心を大和に移しヤマト政権の時代となる】というものです。


(疑問および意見) 「歴史」が自然に中心を移した、というのはあり得ないことでしょう。本当に弱体したのか。何が原因なのか。そう判断する根拠は?。外国文献は?考古学的出土品は?銅鐸の消滅は?  これらについて、全く語られない大山さんの歴史概説には、全く肯くことができません。

そしてヤマト政権の都 纏向遺跡が語られます。この辺のストーリーに乗ったお話が、昨年秋、週刊朝日の「姿を見せてきた邪馬台国」足立倫行の4回連載記事です。これについては槍玉その27をクリックしてご参照ください。

大山さんは、纏向が何故中心になったのか、ということが地政学的な方面から解説され、これが天皇制の特質に密接に関わっている、とされます。天皇制の特質は「東・西日本の勢力のバランスの上に立ち、間の自然障壁(中部山塊)を利用し巨大な権力を構築した。もう一つの特質は列島諸勢力(氏族)の利害の調停者である」とされます。


(疑問および意見)
 纏向が日本の中心であった、という仮説自体の当否を確かめることなく、その列島を一元的に支配者した居所だろうとしてからスタートする、仮説の上の仮説にはどう答えようもないでしょう。

箸墓が前方後円墳の最大のものであり、初代大王の墓である可能性が高い、などとも言われますが、箸墓より大きい造山古墳(吉備の大王墓?)などどう評価されるのでしょうか? 屋根に天皇の家と同じ堅魚木を上げているといって、その県主の家を焼こうとした、などという雄略天皇の事跡も古事記に記録されています、が。



終章 <万世一系>の誕生

大山さんは、この章を書きたいためにこの本をまとめたのではないか、とも思われます。一応これまでの流れに基づいた、聖徳太子非実在→天皇制との関係→天皇制誕生の大山説(万世一系の誕生)ということです。

この章で、まず、聖徳太子は『日本書紀』の中で造られた人物だった。その『日本書紀』はその中心のスターの聖徳太子の事跡は全て事実ではなかった、ということで始まります。

『記・紀』は王権の歴史的正当性つまり天皇制を確立するためのものであった。その『記・紀』の論理は、高天原・天孫降臨・万世一系のことである。この論理がいつどのように成立したか。

高天原が史料に見えるのは、文武天皇即位の詔である。それ以前に遡る史料は存在しない。持統から文武への禅譲に即して高天原という概念が構想された。

天孫降臨は、「持統→文武」へ、祖母から孫への関係が、「アマテラス→ニニギ」として説話化された。持統天皇のおくり名は高天原広野姫と高天原を含んでいる。

万世一系は父系原理に限っている。最初のアマテラスは持統の禅譲を前提としたからである。日本は古代母系であり、この父系論理は七世紀の律令制以後成立と云うことになる。

と、以上のように大山さんの見方を説明されて、初代の天皇は誰か、という話に進みます。

『記・紀』からみて、初代とみられるのは、以下の5人の天皇である、と言われます。

神武天皇 しかし、崇神天皇と同じ「ハツクニシラススメラミコト」という呼称は、系図などでは古いほうが後から架上されたもので実は新しい、というのが原則である。だから神武も崇神よりも新しい。

崇神天皇 大和王権の最初の大王の可能性大。崇神は三輪山近くに居したとされ、近くには巨大な纏向遺跡も存在する。ハツクニシラススメラミコトと呼ばれた。


応神天皇 母の神功皇后は斉明天皇をモデルとし、敗戦を勝利にすり替えて作った人物にすぎない。応神は海神たる住吉の神を祭る河内の勢力を背景とした初代の天皇。

允恭天皇 『日本書紀』に「即帝位」と記している。他の天皇は「即天皇位」である。倭の五王の済は前代の珍とは関係が書かれていない。系譜上の断絶があった。

継体天皇 応神5世の孫と記紀がいうのは、父系原理が存在しなかった時代にそのような伝承を考えることは不可能である。


以上のように万世一系が貫徹しているはずの『日本書紀』の記述には、王家交代の痕跡が数多く存在する、といわれます。


そして、なぜ、神武が創出されたか。と自問自答されます。

なぜ二人のハツクニシラスを作る必要があったのか、誰のイメージを神武に託したのか、と自問の内容を説明し、『記・紀』のストーリーとして、九州から東征してきた、としなければならないが、崇神は三輪山と結びつきが強いので新たに創造する必要があった、と自答されます。

そして、天武も「即帝位」とされているように初代の大王と思われる。神武は大和の抵抗勢力を平定し、天武は壬申の乱に勝利して即位している。壬申の乱の記事に神武陵に奉納せよなどという記事もある。神武は天武をモデルとして創出された、と纏められます。

神武以外の4人の天皇の王家が交替した。この中では、万世一系の原理など存在していない。万世一系という論理は持統天皇と藤原不比等が作ったものである。

結語として、日本人の歴史認識は、その出発点を不比等が構築した『記・紀』の論理であり、日本人は不比等の呪縛のまま生きてきたようである、と述べられます。


(疑問および意見):①二人のハツクニシラス問題について大山さんは意識的に、それぞれの名前をカナで表しています。記紀では、当然漢字での表記です。『古事記』での神武は「神倭伊波禮毘古命」であり崇神は「所知初国御真木天皇」、『日本書紀』では神武は「始馭天下之天皇」崇神は「御肇国天皇」と全く違うのです。

その肝心のところの論証を無視して、鎌倉時代に付けられた読み仮名で同一名と決めつける。そして同じ名なので、という「虚」の原点から論理を展開されていく。その結果が「実」を含むとはとても思われません。この二人のハツシラス問題は、3年前に永井路子さんの『異議あり日本史』「槍玉その5」で取り上げていますのでご参照ください。

② 允恭天皇と天武天皇は即位に際して、「即帝位」と『日本書紀』に書かれている、だから初代大王、新王朝と云われる。では崇神、継体の場合は「即天皇位」と書かれているわけですから新王朝とは言えない、という論理になりますが? なんとも手前勝手な論理を読者に押し付けるものです。

③  『日本書紀』継体紀で、百済系の史書の天皇太子皇子ともに死す、という記事を紹介しています。この『日本書紀』の編者は、継体天皇の死亡時期と国内伝承との食い違いをそのままにして、「後に勘がむるにまかせる」旨書いています。この記事を大山さんは、どのように解釈されるのでしょうか。継体天皇は天武天皇に繋がる新王朝の始祖とされるのですから、その没年をいい加減なことで済ませたら、編者の首はいくつあっても足らなかったのではないでしょうか。

この章を通じて大山さんは、『記・紀』の論理は高天原・天孫降臨・万世一系で成り立っていて、それは藤原不比等が構築された、と説かれます。


(疑問および意見):しかし、この『記・紀』の論理の中心は、この国の歴史は天皇家が列島を神代から現在まで統治してきた、ということを述べていることではないでしょうか。それに差しさわりのある、外国史料の記事や国内の伝承などを無視して編集された『日本書紀』であり、『日本書紀』に反する書物(『古事記』を含み)を厳しく取り締まってきています。それらに目を背けては正しい歴史認識はできないことでしょう。



まとめとしての意見

この本では、聖徳太子は実在しなかった、と説かれます。記紀には厩戸皇子であり、聖徳太子は実在しなかったが厩戸皇子は実在した、とされます。

聖徳太子の業績とされる、「十七条の憲法」・『三経義疏』は聖徳太子の事跡ではない、と縷々考証をされます。当時の我が国の文化水準では「十七条の憲法」が出来るわけがない、とされます。『三経義疏』でも、その中に使われている語句が後世になって使われ始めたものであり、聖徳太子の時代に出来た筈がない、とされます。

しかし、推古朝当時の文化水準を示す文献というと、全く現存していないと云ってよいわけで、『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』に描かれたものから類推する以外はないのです。

しかも、大山さんは、日本人は文字にして残す意欲がなかった、と断じられます。大山さんは、その時代の文化水準を示す貴重な資料、法隆寺の阿弥陀像光背銘や伊予湯岡温泉碑文その他について、『日本書紀』などの史料と矛盾する、全て贋作捏造と決めつけられます。

外国の史書にある、日本列島と東アジアの人々の交流の記事についても目をそむけ、日本列島にあった二つの主権国家の記事にも目をそむけ、国内の史料の隅をホジくりまわし、聖徳太子像は天皇制維持のために、「理想の天皇像」として創造され、国史書、『日本書紀』に記載された、という結論を導いた、ということです。

太子像を理想の天皇像と描く、そういった意味が全くなかったわけではないでしょう。権力者によって作られた歴史書なのですから。しかし、何度か、各項目で(疑問および意見)述べましたが、【都合の悪い史料は見ない、部分を見て全体を見ない、前提が間違っているのに、結論を信じろ、信じないのは作られた聖徳太子信仰に惑わされている】、というような論調は、夜郎自大と云われても、仕方がないのではないでしょうか。

しかし、この大山説に則ってマスコミ(週刊朝日)が、邪馬台国=纏向遺跡説、聖徳太子非実在説を、足立倫行を使って、一昨年、昨年に、各4週、述べ8回の連載をしました。この本に見られえるような、上滑りの思いつき的な論理なのに、半世紀近く前の、前衛的学生運動の論理展開に似た、独りよがりの、ややこしい言い回しです。それを、あたかも革新的歴史観みたいに、マスコミがもてはやしていることへ、云い知れぬ不安感を抱きました。

(この項おわり)



参考図書

『日本古代史の謎 ゼミナール』 朝日新聞社 古田武彦・梅原猛ほか 1975年3月

『法隆寺の中の九州王朝 古代は輝いていたⅢ』 朝日文庫 1988年6月


『聖徳太子論争』 家永三郎/古田武彦 新泉社 1989年10月

『古事記』 岩波文庫 倉野憲治校注 1963年1月

『日本書紀』 岩波文庫 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 1994年9月

『続日本紀』 講談社学術文庫 宇治谷 孟 訳 1992年6月



末尾注:(第八章参照) 同書p201-202 に大山さんが展開する「残虐な天皇の記載が日本書紀に書かれている理由」。


【不比等や長屋王らは、日本の天皇は、聖天子であるべきだと考えた。だから道慈は<聖徳太子>をそのように描いたのである。しかし良く考えてみると、現実の中国の皇帝は聖天子とは限らない。否、そういう人物はほとんどいない。先に、始皇帝を唯一絶対の権力者と言った。その後の皇帝もそういう建前である。聖天子でなく、ただの権力者である。ただし、天命思想により、その建前が尊重され、巨大な官僚と軍隊に支えられているから、そう簡単に否定されることはない。正史をひもとくと、多くの皇帝が、十代のうちに、アルコールや妙な薬、みだらな呪術に狂い死にしたり、暗殺されたりしている。このことは、道慈でなくとも、『日本書紀』編纂に関わった人たちは知っていただろう。

知った上で、偉大な聖天子として、<聖徳太子>を描いたのである。なぜなら中国の皇帝と違って、日本の天皇には、支えてくれる天命思想も、巨大な官僚も軍隊もなかったからである。それらの支えなしで、国家秩序の頂点に立つためには、聖天子たらざるを得なかったのである。

一体、天皇が巨大な官僚と軍隊を駆使したことがあっただろうか。最初から、想定されていなかったのではないか。倭王武の上表文や『古事記』のヤマトタケルがそうではないか、と思うかも知れないが、単なる言葉の文(あや)でその頃は機構としての官僚も軍隊もなかったのである。

聖徳太子が王族であるというよりも、<聖徳太子>という存在によって、天皇制が象徴されたと考えるべきである。不比等も長屋王も道慈も、日本という国家、また、天皇制について、歴史的に考えた筈である。その結果、<聖徳太子>が誕生したのである。彼らは、日本という国家、またそこにおける天皇制の意味を、<聖徳太子>によって示したのである。

その天皇制とは、どういうものなのか。誤解を恐れず、私見を述べれば、日本という島国に生まれた唯一の価値観であり、宿命でもあると思う。決して、多様な価値観の一つではない。他に代わるものはない、唯一のもの、そういう価値観である。しかし、それを生み出した島国は、人類史的にみても、決して小さくも、均一でもない。とてつもなく、巨大で、複雑で、多様な世界である。だからこそ、天皇制が成立し、<聖徳太子>も誕生する必要と必然性があったのである。】

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