槍玉その41 『大和朝廷の起源』 安本美典 2005年刊 勉誠出版 批評文責 棟上寅七
はじめに
安本美典氏はこのホームページで過去3回登壇いただきました。
槍玉その3「倭の五王の謎」では、【 この安本さんの著書『倭の五王の謎』での論述は、今までの多くの”倭の五王=大和王朝の天皇”論者の中では、「古代天皇在位平均年数」という新しいファクターを持ち込んで一見新鮮に見えます。しかし検討してみれば、その平均在位年数論も、結局はワカタケル=雄略に持って行くための小道具に過ぎなかったのではないか、と思われる安本さんの”倭の五王の謎”解きだったということでした】と結論しています。
槍玉その19「虚妄の九州王朝」では、【この本は「悪罵・嘲笑・中傷」に満ちていて、古田さんの何を批判しているか、の実体がなかなか見えてこないのです。従って、「悪罵嘲笑部分」にたいしては、まともな批判でなく、寅七の個人的お遊び部分の”道草その10”にパロディ文としてまとめたりしたので、時間もかかりました】 とボヤキが結びとなっています。
そして、安本美典さんが、古代史に登場されて30年経ち、今までの集大成的な著書として、2005年に「大和王朝の起源」を出されました。また、「季刊邪馬台国」の編集責任者として、1979年より現在に至るまで続けています。この「季刊邪馬台国」は、今年の2月号で104号を数えます。通説に反する古代史の専門雑誌を、ここまで継続されていることについては、編集責任者の安本美典氏に敬意を表さなければならないでしょう。
内容も、いわゆる通説に基づくマスコミの論調を、各個撃破的に反論していて、多くの邪馬台国九州説の人々の心のよりどころになっている、という功績は無視できないでしょう。ただ、毎号の安本さんの論調が、いつもといってよいほどの古田武彦説に対する、誹謗中傷さえなければ、という但し書きを付ける必要がありますが。
昨年(2009年)、邪馬台国シンポジウムが春日市で行われました。「邪馬台国はどこか」、という参加者投票で、「甘木朝倉」が1位でした。安本美典さんの情報発信の成果でもあるでしょう。特に「地名の東遷」というところが皆さんの共感を呼ぶのでしょうか。安本さんの今までの数多くの刊行物を参照しながら、「大和朝廷の起源」を検討の俎上に上げたいと思います。
参考にする安本さんの著書について
今回参考にしたのは、右上の写真の、寅七手持ちの安本本9冊です。
左より、
『「邪馬壹国」はなかった』 1980年新人物往来社 邪馬臺国説、魏晋朝短里はなかった
『邪馬台国の東遷』 1981年新人物往来社 邪馬台国東遷説、邪馬台国=高天原=甘木
『邪馬台国への道』 1990年徳間文庫 卑弥呼=天照大神、邪馬台国=高天原、邪馬台=馬田
『卑弥呼の謎』 1972年講談社現代新書 年代論、卑弥呼の年代
『倭の五王の謎』 1981年講談社現代新書 倭王讃=応神、倭王武=雄略、年代論
『虚妄の九州王朝』 1995年梓書院 年代論による神功皇后
『大和朝廷の起源』 2005年勉誠出版 年代論、地名説話、神武東征
『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く』 2009年宝島新書 邪馬台国=甘木説
『季刊邪馬台国』2010年104号 梓書房
今回、『大和朝廷の起源』の内容を検討しようと思っても、先行する著作の方が詳しく出ていたりします。したがって、年代論では、『卑弥呼の謎』、卑弥呼=天照大神では、『邪馬台国の東遷』『邪馬台国への道』を参照しつつ進めていこうと思います。なぜなら、『大和朝廷の起源』では、先行著作の「安本仮説」が、既に定まった「安本定理」として話が進行するからです。
なお、今回、安本美典さんの発言部分を”青色”、古田武彦さんの著書からの引用を”赤色”で表しました。
グラビア頁(グラビアページを見ての感想です)
グラビアには、神武天皇軍東征経路・狭野神社・宮崎神社・美々津港にある「日本海軍発祥の地」の碑と説明文・七つばえ一つばえ・美々津港「神武天皇船出の地」の案内・神武天皇の腰掛石・今井の図、と7枚の写真が掲載されています。これらの建造物は全て後世の作及び説明文です。安本さんは、一般市民が、神武天皇宮崎発進を信じている、ということを示したかったのでしょうか?
はじめに とまず、安本美典さんは、神武天皇陵墓の比定地についての問題をプロローグとして取り上げています。
まず、神武天皇陵の場所が、間違っている、とされ、神武陵の位置についての諸説を紹介します。
「丸山説」・「白橿村山本のミサンザイ(神武田)説」を説明し、丸山説が最も有力で根拠も多く、現在「ミサンザイ」に決まったのは当時の政治情勢による、とされます。その他に、「四条村の福塚(塚山)説」(現スイゼイ天皇陵)説もある、ということを説明されます。
そして、【神武天皇陵がミサンザイである可能性として、「平均在位年代10年説」によれば、神武は西暦280年~300年の人となり、周辺の土器、庄内式・布留式土器が出土しているから、年代的に合う】、といわれます。
しかし、この「平均在位10年説」がもし崩れると、神武天皇陵=ミサンザイ説も崩れかねません。ミサンザイ説の方々にとっては、有りがた迷惑の「平均在位年代10年説」の応援かもしれません。
この「平均在位年代10年説」についてはのちほど詳しく検討したいと思います。
第1章 新しい文献学
この章で、文献の科学 数理文献学の歴史の概説をされます。
【BC4世紀のアレクサンドル大王の時代、すでに文献の研究がおこなわれたこと。中世では、ヘブライ語旧約聖書の注釈学者たちはバイブルに表われる全ての語を数え上げていること。
19世紀の初め以来の自然科学の発達により、自然科学的な方法でテキストを研究しようとする動きがはっきりし始めること。例えば1867年の、スコットランドのキャンベルの統計学的なプラトン著作の研究。
第一次大戦後のイギリスの統計学者G.U.ユールが、「キリストにならいて」の30人もの著者説がある眞の著者研究を行ったこと。
その後、第二次大戦後の数理統計学の発展を述べ、アメリカのフリードマン夫妻の暗号解読や、イギリスのウエントリスによる古代クレタの文明をになうミノア文字を解読したこと。
その後、推測統計学、情報理論、確率論、因子分析法、多変量解析法などが導入され、コンピューターの発達とあいまって数理文献学は飛躍的な発展期を迎えていること】
ついで、わが国の古代文献の分析に数理文献学を用いる理由を述べられます。
【第一に、文献の分析から得られる客観的な結論と、論者の主観的な判断とが錯綜して表われる。その為にある程度の固定観念が出来た場合に、それを打破ろうとする時には、客観的な事実の提出に基づく反論以外に悪罵に近い言葉が投げかけられる事になる。
第二に、古代の文献の取り扱いの「規準」がないこと。私は「有意」であるかどうか、という数理文献学の客観的な規準を取り入れることにした。
数理文献学では、どのような場合であれば積極的な発言が許されるかの「基準」が客観的に一応はっきりしているといえる。具体的なデータの取り扱いにおいては、統計学的に「有意」であるものは肯定であれ否定であれ積極的に主張出来るとする】、と主張されます。(なにやらご自分の土俵を作っていらっしゃるようにも思えますが。)
そして、安本さんは、この『大和朝廷の起源』を読むに当って、注文を付けられます。
【この本の文章は、これまでの諸説と大きく異なる点があるであろう。しかし、固定観念や先入観によってではなく、結論が受け入れがたいとすれば、論理の筋道のどこに無理があると考えられるか、その無理は、本質的なものか、修正可能なものか、結論が受け入れられるとすれば、さらにそこから、どの様なことが導き出される可能性があるか、という立場からお読みいただければ幸いである。(p81)】
この文章から当研究会が読み取れることは、『安本説に本質的に無理があって、結論が受け入れられないとなった場合、ご自身が再検証しようとする姿勢は全く見えない。むしろ、安本美典説の拡張を促している。』というようなことですが、これは寅七のヒガ目いよるものでしょうか。
次いで、邪馬台国の問題について安本さんの見解が述べられます。(p82~83)
【31代用明天皇以後の、天皇の平均在位年数は11~15年程度である。この平均在位年数を使って、古事記・日本書紀の天皇の代数をもとに、推定の誤差計算を行いながら、邪馬台国の卑弥呼の活躍していた3世紀初頭は、わが国の史料に記されている誰の時代か推定してみた。結果、卑弥呼が比定されることの多い、神功皇后、倭姫、モモソ姫等は年代が重ならず、年代的に近いのは神武天皇から5代前の天照大御神だけ、ということが明らかになった】
このように安本さんは、天皇の在位平均年数、(この設定過程にも大きな問題があるのですが)、11~15年とされます。ところがいつの間にか、1代10年、となっているのです。10年だと卑弥呼の活躍年代と天照大神の活躍期と合う、と主張されます。最初の仮説、平均年数11~15年だと合わないので、少しずつ齧り込まれています。
【卑弥呼=天照大御神という仮説を立ててみる。天照大御神は九州で活躍している。従って卑弥呼が活躍する邪馬台国は九州である、ということが導き出される】
つまり、卑弥呼は『日本書紀』・『古事記』に記載されている人物の誰かに間違いない、という仮説から始まっているわけです。安本さんの頭の片隅にでも、ひょっとしたら、本居宣長が言うように「九州の酋長がわが国の代表面をして通交したのでは」、という思いは横切らなかったでしょうか。
あまりにも文書記録にこだわる安本さんだ、という気がします。せめて、古田武彦さんが提案する、筑後国風土記逸文にある「甕依姫」も、卑弥呼の伝承を伝えているのかどうか、科学的文献学者であったら検討されたら如何でしょうか。
この章での年代論については、結論だけを定理的に使われています。そこで、安本さんが以前出版された『卑弥呼の謎』で述べられた、「年代論」についてまず検討をしておきたいと思います。
『卑弥呼の謎』特にその年代論についての検討。
『卑弥呼の謎』(1972年講談社現代新書)
安本美典年代論は次のような流れで説明されています。
★①世界の王、中国の王それらの王の在位期間を調べてみると、古代になるほど短い、
★②日本においても同様だ
★③日本の場合、古代天皇は10.73年/代である。(『卑弥呼の謎』p126)
★④系譜の継承が記録に残る用明天皇以前の代数を当てはめ、かつ、3世紀末~4世紀は1代9年とすると、神武天皇の活躍期は280~300年あたりになる。(『卑弥呼の謎』p134)
★⑤神武天皇の5代前だと、その50年前、220~250年あたりが天照大神の活躍期となる。(『卑弥呼の謎』p175)
★⑥これは、『魏志』倭人伝に記録のある卑弥呼の活躍期と重なる。従って、卑弥呼=天照大神という仮説が成り立つ。
まあ、古代になるほど寿命は短かったでしょうから、①は一般論としては成り立つでしょう。ただ寿命と在位年数は比例しませんから、この点は注意を要します。
『日本書紀』は、「天皇」という後世の称号を遡らせて、古代の大王達に与えていることを考慮する必要があるのではないか、と思います。しかし、安本流文献数理統計学では、『日本書紀』に「天皇」と書いてあれば、同じ様に処理されています。
『日本書紀』は「天皇」としていますが、実態はかなり変化していると思います。「天皇」じゃなく、せいぜい「族長」乃至「地域の親分」の弥生期の時期と、管轄範囲が大きくなり始めた、4世紀以降の「大王」期、8世紀以降の日本統一期の「天皇」期を同一のファンクションで統計処理しようとする、その根本に、そもそもの問題があるように思われます。この8世紀以降の権力者としての「天皇」を、弥生期の族長の継承と、同様にとらえてもよいものでしょうか。
大王期から、勢力争いなどで、継承の順位が乱れ、兄弟間継承、夫婦間継承などが現れます。この時期の在位年数で、族長期にも同様に兄弟間・夫婦間の権力継承があった、とする根拠は薄いのではないでしょうか。権力争いをする余裕はなく、『記・紀』が記すように、父子継承を否定する積極的理由は見当たらないのではないと思います。
父子継承の場合、安本さんは、平均在位年数は18.6年と計算しています。(『卑弥呼の謎』p104) それなのに、安本さんは、崇神以前の継承についての記紀の記録は作為や創作でなく「訛伝」による(『卑弥呼の謎』p102)と、理由も示さずに、崇神以前も『記・紀』には書かれていないが、兄弟間や夫婦間の継承も行われたという大仮説を立て、1代9年(『卑弥呼の謎』p134)とします。
安本さんは単に、【古代諸天皇の代の数は信じられるが、父子継承は信じられない、とする】(『卑弥呼の謎』p173)といいます。
その理由は、【古代の天皇の父子継承率が、後世に比べ高すぎるから】(『卑弥呼の謎』p94)、ということです。これも、「天皇」の語の定義内容を考慮していない論といえましょう。
なぜ、父子継承の場合の1代18.6年ではダメなのか、それは、そうすると、「卑弥呼=天照大神が成り立たなくなるから」、としか思われません。
もうひとつの問題は、神武~天照大神間も同じく、平均在位年数として10年を用いていることです。天照大神は孫のニニギを派遣したことの『記・紀』の直系的権威継承の伝承を疑う人はないようです。ニニギ~神武の父ウガヤフキアエズ間は、とてつもない時間が流れている、という伝承はありますが、兄弟間夫婦間の権威の継承が行われた、ということの伝承はありません。
それなのに、なぜ、安本美典さんは、この5代の在位期間を5x10年とされるのでしょうか?この5代を父(母)子継承の安本さん自体の数値を使えば、5x18.6=93年であり、安本さんの計算の倍くらい伸びてしまいます。
これも、先ほど同様、そうしないと「卑弥呼=天照大神が成り立たなくなるから」ということ以外考えられません。
もし崇神~天照大神間を、安本さんの主張するように14代としましても、父子継承とすると、14x18.6=260.4年であり、安本さんの計算、14x10年との差は120年と開き、卑弥呼の時代より古い1世紀になってしまい、安本説「卑弥呼=天照大神」の崩壊となります。
仮に、1代18.6年とすると、神武天皇の活躍の時期は、安本説のように崇神天皇の時期をAD360年ごろとしても、(『卑弥呼の謎』p134) 神武天皇の活躍の時期はAD180年ごろとなり、卑弥呼の活躍時期より60年ほど前、3~4代前の人ということになり、「卑弥呼=天照大神」説の崩壊となります。
これについては既に30年前に古田武彦さんがその著書『盗まれた神話』で指摘されています。
【安本美典氏の「卑弥呼=天照大神」説。これは遺憾ながら従いえない。この本(『盗まれた神話』)の論証がしめす通り、天照は三世紀の卑弥呼などより、遥かに悠遠、古えの存在なのである。以下「天照~卑弥呼」間の歴史を通観しよう。・・(中略)・・こうしてみると、三世紀卑弥呼の時代は、倭人百余国が成立した前漢武帝、前二世紀のずっと後、「百余国」を「三十国」に統合し、各国の長官、副官もととのえられた”はるか後代”なのである。すなわち、天照大神と卑弥呼との間は、あまりにも遠いのだ。
安本とわたしとの、このような帰結の差異を生んだものは何なのだろうか。それは、安本が天照と神武の間(アメノオシホミミ、ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズ)をわずか四代と計算し、それに安本の言う古代王者の平均在位年数の十年をかけあわせ、天照の実在年代を割り出す、という方法をとったからである。
『古事記』においてはウガヤフキアエズ以下に厚い不分明の霧がかかっており(五百八十歳問題等)、『書紀』においては一方で史料につぎはぎの断絶<神代紀第十、第十一段の間がある。他方、「神武紀」<帝王本紀>においては、「天孫降臨―神武」の間に厖大な時間(百七十九万余歳)の流れていることが強烈に主張されている。にもかかわらず、安本はこれらを一切かえりみなかった。”それらは「後代の造作」であり、系譜だけは信用できる”として、「四十年」を計算し、もって解とした。
これが原因である。これでは、安本もくりかえしのべている”古文献の記事をむげに「後代の造作」として否定し去らないこと”という原則をみずから放棄することにならないだろうか。
この、”天照大神は卑弥呼より古い”という命題については、ほかにも今まで論じられてきた。〈吉本隆明「起源論」での意見 省略〉 もっとも、吉本の論断を待つまでもなく、一素人の素朴な感想をもってしても、天照の天の岩戸ごもりの神話に見られる牧歌的なイメージと、卑弥呼の「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す」という峻厳な印象と、”あまりにもはるかな時間のへだたり”を、そこに感ずるのではあるまいか】
安本さんは、父子継承伝承が信じがたい理由をいくつか述べられますが、【天皇の系図が不確かであったのに、一般には父子継承であったので、父子継承という記紀の記事になった】、とされます。
また、父子継承の場合として、18.6年を、仮説系IIとして、父子継承の平均を14.00年とするのが妥当ではないかとされます。(『卑弥呼の謎』p169) まあ、これでいくと「卑弥呼=天照大神説」が成り立つギリギリの値なのでしょうか? しかし、14歳での父子継承が続くわけはありません。
仮に初代が20歳で嗣子を得て、34歳で死ぬ。14歳で即位し、28歳で死ぬ。20歳で嗣子を得ていると、そのときには8才である。ここで連鎖は止まる。やはり父子継承の平均在位年数は、45歳くらいの平均寿命として、20歳近くで嗣子を得る、ということでないと続かない。(この場合の平均在位年数は20年となる)
しかも、『古事記』の伝承と、『日本書紀』(参考にされた一書群)の権力継承伝承が合っているのに、それを覆すだけの、夫婦間の継承や兄弟間の継承があったという「有意性」のある論証は、どこにも見当たりません。
もともと、安本さんの年代論の根本に問題があるのです。槍玉その3『倭の五王の謎』批判でも述べていますが、「天皇の代」と「世代」との違いを無視されていることです。
”代”と”世代”の違いは、親子間の代替わりと、兄弟(夫婦)間の皇位譲りでは、当然その”代”の期間は変わります。(親子間は比較的長く、兄弟間は一般的に短い)というのは常識な判断でしょう。特に古代天皇は兄弟間の代変わりが多く、その場合きわめて短期間で交替しています。
例えば、履中天皇~仁賢天皇の代は”天皇の代”で数えると”7代”となりますが、『記・紀』による系図を検討してみますと、人間の自然の”世代”としては”3世代”なのです。何と半分以下になるのです。
このような”天皇の代”と”世代”を、ごちゃ混ぜにして成り立つ、安本さんの数理統計学手法と称するものは、使い方にまやかしがあるのでは、と疑われても致し方ないでしょう。
上図(p279)は、安本説年代論をグラフ化したものです。この様な図は、安本さんの年代についての記述がある著書には殆んどといってよいほど記載されています。
現代から古代に向かって棒グラフが漸減していっていますので、読者に「成程なあ」と納得させる手段となっています。この手品のタネが「天皇の代数」なのだ、と言ういことは、今までの説明でお分かりかと思います。
古代においても、父子継承の場合、在位年数が20年弱であっても不思議ではないのです。そして、「卑弥呼=天照大神が同時代の人」説は成り立たない、ということになります。
以上、安本さんが『卑弥呼の謎』で述べられた、「古代天皇平均在位10年説」が誤っていることを検証しました。
昨年10月22日号の週刊文春に、箸墓古墳の歴博発表についての「箸墓古墳卑弥呼の墓にダマされるな」という河崎貴一さんの記事が出ています。この記事は、主に安本美典さんの見解を中心にまとめられています。その中で、【(歴博の発表は)、はじめに、『箸墓古墳=卑弥呼の墓』の結論があって、そこにデータを当てはめたとしか思えません】という安本さんのコメントが載せられています。
今、安本さんの「卑弥呼=天照大神」説を検討していて、安本さんも、はじめに「卑弥呼=天照大神」の結論があって、それに合うデータを作成し、当てはめているようにしか思えないのです。「俯仰天地に恥じず」の孟子の言葉はご存知ないのでしょうか。
◆高天原=九州甘木説 (栗山周一氏がこの本では出てこないのは何故?)
安本さんは、この『大和朝廷の起源』で【高天原は福岡県甘木地方だ】、と主張されます。
【「地名の遺存」の仮説から、 高天原の地名と甘木地方の地名の一致をみても、高天原は九州の甘木地方ということになる】と言われます。これは30年前に出された『邪馬台国への道』で主張されて以来続いています。
ご自分の説の補強という意味と思いますが、天照大神と高天原についての先人の説、市村其三郎(日本史)、和田清(東洋史家)、植村清二(東洋史)、牧健二(法制史家)、榎一雄各氏、を紹介しています。(p86)
ところで、『大和朝廷の起源』で安本さんが述べられる、「邪馬台国東遷説」には、先行本として、『研究史邪馬台国の東遷』という1981年に安本さんが出された本があります。
この『研究史邪馬台国の東遷』に、詳しく上記の先生方の説が紹介されています。しかし、その本で主要な先駆者として大きく紹介された栗山周一氏の業績が今回は省略されています。
この栗山周一氏が、年代論によって卑弥呼=天照大神論を唱えているのです。この『研究史邪馬台国の東遷』という本は、栗山周一氏を掘り起こして紹介した、という功績はあると思います。
しかし、「栗山周一氏の年代論」の不備を補って、安本式古代天皇平均在位年数を確立した(とされる)現在では、栗山周一氏を改めて先駆者として上げる必要がなくなった、ということなのでしょうか。
30年以上前に、古田武彦さんが『盗まれた神話』で、安本さんの、卑弥呼=天照大神説、高天原=朝倉説を批判しています。
例えば、古田さんが指摘する、【安本がいうように高天原は朝倉とすると、朝倉はレッキとした「筑紫」だ。だから、ここから筑紫へ「天降る」と表記することはできないのではないか?】ということについて、寡聞ながら安本さんが反論したとは聞いていません。
安本さんも、古田さんの指摘に応えるなどされれば、古代史研究の庭全体が広がるのではないでしょうか。
◆文献学の潮流
安本さんはこの項で、数理文献学の説明を、詳しくなさっています。
文献学の潮流と題して、【那珂通世・津田左右吉さんなどの戦後の神話追放論などは、19世紀的文献批判学と言うべきものであり、「確実に信用できるテキスト以外は史料として用いてはならない」という考え】、と言われます。
【これを見直そうとすると、次のような理由で批判される、 ・「厳密とはいえない」・「津田以前の方法だ」・「今日の学問的立場から認めることは出来ない」などと。19世紀的文献批判学の方法は、個々の史料の確実性を検討し、駄目なものはダメとなる。
数理文献学は、仮説検証的方法による。それは、まずある仮説をたて、それによって資料1を検証し、yesなら、資料2を検証し、と次々に10個の資料を検証し、全てyesであれば、その仮説は史的真実であるとする。noの場合は、仮説を修正し、再び同様の検証作業を繰り返すのである】
確かに、この安本さんの説明は、理屈はOKだけど、安本さんの実際の作業は?というところがどうか、ということです。年代論でも、【宋書に出ている倭王武は雄略天皇である、ということは「仮説」でなく「事実」】とされます。神武~天照大神間も五代という「仮説」でなく「事実」として検討されます。何をか言わんや、です。
◆神話は創作されたか
安本さんは、「神話は作られた」、といういわゆる定説 について、それはあり得ない、として次のように主張されます。
【大体、日本書紀編纂の時期、8世紀には物語すらなかったではないか。竹取物語でも平安時代初期の作なのだ。日本書紀に記されている、「一書群」の存在が神話が創作されたものでないことを示している。古代人のこころ、これを読み取れ】、と真っ当なことを主張されていて、これには文句はありません。
ただ、第四章 氏族伝承と帝紀 について述べているところで、【7~8世紀には物語りはできたであろうが、6世紀以前には無理だっただろう】、と言われるのは、上記の言と矛盾するように思います。
第2章 天皇の在位年数と寿命 ●「辛酉革命説」か「一世六十年説」か
「辛酉革命説」か「一世六十年説」か,とサブタイトルが付いています。この二者択一的な設問自体が、数理統計文献学者らしくないなあ、と思って読み進めました。
まず、推古天皇の9年辛酉の年から1260年前の辛酉の年に即位したとする、那珂通世氏の辛酉革命説 の説明をされます。その話の中の、問題と思われるところをいくつかあげます。
1・『古事記』と『日本書紀』 という項を立て両書の性格の説明があります。常識的な解釈です。しかし、両者の史料批判的なものはありません。『古事記』はなぜ日の目を見なかったのか、という普通人の疑問にも答えてくれません。
2・事件のあった年月日 という項を立てられます。
東征事件の年月日について考察されます。(p115)そして、「年月日の言い伝えがあれば『古事記』にも記されている筈」(p124)といわれるのですが、日本古来の暦の存在については「文献」はありませんから、安本さんにとって「年月日」の言い伝えはなかった、ということになるのでしょう。ですから、言い伝えとしてからの手がかりは歿年齢のみ、ということになるのかもしれません。
しかし、古代の言い伝えで、どのように「歿年齢だけでなく天皇の歿年」が記憶されていたのか(『日本書紀』の場合)、という普通人が不思議に思う問題について、安本さんの本には全くそのような問題に応えようとする問題意識は見られません。
話は違いますが、貝田禎造さんというアマチュア古代史研究家が『古代天皇の長寿の謎』という本で、”中国から陰暦が伝わる以前に、日本の古代の暦があった”という研究発表をされています。安本さんの数理統計学以上の綿密な『日本書紀』の記事の統計的処理とトライアルな実証方法で、「元嘉暦と儀鳳暦が輸入される以前に、わが国独自の旧暦的な暦が存在した」と報告されています。
貝田さんの研究結果によれば、神武天皇の没年は2世紀末ということで、卑弥呼=天照の安本説は成立出来ないことになります。
3・「辛酉革命」と「一世六十年説」。
那珂通世の辛酉革命説の説明があります。そして、那珂説への疑問として、塚田六郎さんという国文学者の意見「推古の606年または斉明の661年が何故大変革の年なのか」を取り上げます。有坂隆道さんという日本史学者も1999年に同じ疑問を呈している、と述べられます。これらは、別におかしなことでなく、辛酉革命というのが間違っている、ということでしょう。
次に、古代天皇1世六十年説について説明されます。卑弥呼に神功皇后をあて、あと60年を一人に割り当て、結果的に辛酉年が紀元前660年になった、という説です。
『大和朝廷の起源』第2章で安本美典さんの「文献」学者の限界が露呈しているようです。安本さんは、「年月日の言い伝えがあれば『古事記』にも記されている筈」と言われます。(P124)
古代の伝承記録者(伝える人)が何らかの「暦」的なものを持っていなかったら、「何歳で死んだ」という事実自体を伝えることが出来なかったことになります。古代の人が、何らかの「暦」的なものによった年齢を勘定し言い伝えた、と思うのが常識的判断でしょう。
安本さんは、「文献」という記録がない限り認められない、という立場のようです。ですから、古代の天皇の歿年齢がどのように伝承されてきたか、ということには(文献にないことについては)関心が薄いようです。
◆古代天皇の長寿について
これを疑問視した、方々の意見を紹介しています。貝塚茂樹も「歳」が半年単位の意味だとし、藤堂明保も「歳」は穂が垂れて刈り取られるようになるまでの期間の意味、と云っていることなど。『日本書紀』の編集者も古代天皇は倍の年数を生きたという認識があったと主張されます。
ただ、不思議なのは、『魏書』の「倭人は長寿で90年生きる」が何故引用していないのか、ということです。古田武彦さんに関係してくるからでしょうか?
4・古代天皇の寿命(享年)
【日本書紀が記す天皇の在位年数は、かなりな程度天皇の寿命伝承に基づいて設定されたと考える】、といわれます。
ちょっと読みにはOKのように取れますが、長命天皇の次代の天皇は、「在位年数」は短くなる、ということについて考慮を払われた形跡はありません。ある天皇が長命であれば時代の天皇の即位は必然的に遅くなります。ですから、全体として考えると、長命=在位年数が長い、とは言えないのです。【『日本書紀』の寿命と在位年数には相関が高い 0.925】、だから信頼性が高い、と仰りたいのでしょうか?
当然のことですが、長命天皇で在位年数が長い、次世代の天皇はたとえ長命であっても、在位年数は短くなるのです。この相関度については口をつぐまれます。身近な例では、今上天皇がいかに長命であらせられても、昭和天皇の在位年数63年を越すのは極めて難しいことでしょう。
『日本書紀』の編集者は、1世30年とし、二倍年暦を逆算したのではないか、とされます。そして、安本さんは、神功皇后摂政元年を一応201年と定める、とされます。このような仮説をご自分では科学的に検証されたのでしょうか?疑問に思えてなりません。
神武~崇神天皇のいわゆる欠史八代の平均在位年数について、安本美典さんは約10年とされます。安本さんは、父子継承は信じられない、とされます。それはそれとして、『古事記』及び『日本書紀』のそれらの天皇の方々の歿年齢から、父子継承が成り立つものかどうか、検証する必要があります。
『古事記』に記されたスイゼイ~崇神間9代の生存年数は、平均すると94歳となり、魏志倭人伝が伝える、「寿考90歳」にほぼ一致します。古代は二倍年歴だったと仮定し、『古事記』及び『日本書紀』に記された生存年齢から、次の生物学的仮定をして権力継承問題を検討してみました。
①父子継承ですから、成人を15才としても、嗣子を得るのは17才ぐらいか、
②天皇が死んで嗣子が後を継ぐが、在位は2~3年(二倍年暦で4~5年)はあった、とする。(1年程度だったら、別の継承者になるか、伝承からオミットされると思われる)
③幼年での継承も可能とした(妻やその他の後見人がいたとする)
その結果は、
①神武歿年~崇神即位まで、古事記の数字からは、140年(平均在位17.5年/代)
②日本書紀からは160年(平均在位20年/代)という値がえられた
③古事記によると、安寧・孝昭の両天皇は幼年即位(10才未満)となる
④孝元天皇は極めて短期間在位(5年位)になる
⑤日本書紀の記述に従えば幼年即位、短期間在位もない(平均在位が長いから当然のであろうが)
という結果を得ました。これについては、話がわき道に逸れてもいけないと思い、「道草その20」としてまとめました。興味ある方はクリックしてみてください。
5・在位年数と寿命をめぐる検討
安本さんの古代天皇の平均在位年数説を読んでいて疑問に思うことがあります。『古事記』、『日本書紀』共に書かれている各天皇の死亡時年齢についての考察が何故なされていないのでしょうか。
『記・紀』の記事はいい加減で、系譜だけは『記・紀』共に合っているから、という説明はあります。しかし数理統計学の専門家を自任されているのですから、折角、『記・紀』それぞれに記されている死亡時年齢という「数字」について解釈を述べて頂ければと思います。10年ほどでないと、卑弥呼=天照大神説がなりたたないので、その説に役に立たないことがはっきりしているので無視している、ということかなと思いますが。
前段の部分では、【十個の基礎的事実があって、その一つ一つについて二通りの解釈が出来るのなら全部で1024通りの解釈が可能である。仮説の提出よりも検証の方法を考えてみる必要がある】、と至極まともなことを言われています。
しかし、具体的な所になると、そうは取れないような前提を置かれます。【『記・紀』の諸天皇の「代の数」は信じられるが、「父子継承」は信じられない、8世紀の頃と同じ様に兄弟間の継承があったものとする】、という仮説で「平均在位年数」を求めています。
ご自分の求めたものが、ご自分が主張する「仮説の提出はもうやめよう」ということと矛盾しています。結局、卑弥呼=天照大神に持っていくために、統計的手法という隠れ蓑を使って、善男善女を誑かしている、としか思われないのです。
第3章地名説話と歌謡
1・地名説話
地名説話について、もともとあった地名を、それを説明するために作られた説話という説明。
何故その様な説話が発生するのか、その背景の考察を次のように述べる。
『古事』記と『日本書紀』とでの地名の違いについて、大きい地域はほぼ同じだが小さい地域での異同が目立つ。これは、漢字の使用が統一されていなかったことによる。
地名説話は地の文から遊離している。氏族の祖先の伝承の後に発生した。
2・歌謡
神武歌謡は神武伝承とは別に成立し、国史編纂のさい一つにまとめられた。
その理由は、①歌謡は伝承の中にはめ込まれた形になっている。②同じ歌謡が記紀で歌われた時が違っているのが2首ある。(6首は同じ)
これらの神武歌謡を、五音七音率で区分けを試み、4グループに分けている。I 短歌型 II 長歌型 IIIa施頭歌型 IIIb 古歌型。そして、I型は7世紀、II型は6世紀、III型は3世紀までさかのぼる、とされる。
補足として、「神風の伊勢の海」については、伊勢津彦に関係するもので皇大神宮に結び付けるものではない。
何を言いたいのか、つまり古来の伝承でなく、後年の歌謡がはめ込まれた、と仰りたいようです。
ところで、安本美典さんは、神武歌謡を詳しく取り上げています。特に、「神風の伊勢の海」という言葉で始まる歌について、【「神風の伊勢の海」というと私たちは伊勢の皇大神宮のことを思い出しがちである】と書かれます。
そして、【それは間違いで、出雲系の伊勢津彦であろう】とされます。しかし、高天原甘木論者の安本さんが、筑紫の伊勢という地名について全く関心を示されない、糸島の二見が浦という同一名の場所の存在についても言及されない、糸島一帯の弥生遺跡と地名については無視されるのは不思議です。
第4章氏族伝承と帝紀
この章では、神武紀の成り立ちの分析をされ、「帝紀的なものが幹で、氏族の伝承や歌謡などが加わった」と結果を述べられます。
1・氏族の祖先の物語り
神武伝承と朱(丹)との関係を延べ、神武東征の理由の一つに水銀を求めた、ということも上げられる。
尾生ふる人は尻当てを腰に紐でぶら下げた水銀採鉱者(松田寿男)、獣皮の尻当てをしたきこり(西宮一民)を紹介。
贄持・井氷鹿・石押分の三人に会ったのが、兄宇迦斯を殺した後(日本書紀)、殺す前(古事記)と異なっていることに注目している。つまり後世の挿入が考えられる、と。
国造は地方君主が支配組織に組み入れられ、県主は直轄領の現地管掌者であり、世襲された。
地方豪族宇沙都比古の墓と思われる赤塚古墳から五面の三角縁神獣鏡が出ている。この地には青銅器製造の伝統技術があった。
三角縁神獣鏡普及以前の段階では、畿内を中心とする地域では銅鐸、九州を中心とする地域では銅矛・銅戈などと別々の青銅器文化で、大和朝廷が成立し、前方後円墳が作られるようになった段階で、それの普及盛行に伴う形で三角縁神獣鏡が普及盛行する。三角縁神獣鏡は国産されたと考えるのが自然である。
槁根津比古(サオネズヒコ)の場合として、速吸の門は『古事記』と『日本書紀』では場所が異なるが、古事記jの方が妥当。先代旧事本紀によると、槁根津比古の子孫が明石の国造に任命されている。
久米の直について。久米は球磨であろうという説(喜田貞吉)を紹介している。
『古事記』と『日本書紀』の相違点
『古事記』は天皇家一族の記録である。『日本書紀』は各豪族の家記なども取り入れ、『古事記』の私的な物語(神武天皇の皇后への歌物語や、雄略天皇の赤猪子の話)などを削除している。
神武紀の地名説話や氏族の祖先説話などについて、今までの学説の解説をしています。 しかしながら、なぜ『古事記』が日の目を見ず、『日本書紀』が編纂されなければならなかったか、についての考察がないのは残念です。
ただその記述の中に、安本氏の技術の受容についての考えが述べられているところがあり、興味深く読みました。
大分県宇佐の赤塚古墳から三角獣神鏡が出土したことについて、この地には銅矛が多く出土していることを、概略次のようにのべています。
【この地に青銅器製造の技術があったのである。それが三角獣神鏡の製作に受け継がれたと見ることができる。のちの時代でも、鉄砲が数伝来すれば十余年のちにには刀鍛冶の伝統技術を応用して国産の鉄砲が作られ、三十年のちには三千挺の鉄砲を信長が容易できた国柄なのである。三角獣神鏡は国産と考えるのが自然である】
2・帝紀的部分
【帝紀的な物を中核とし、それに付加物が加わり、雪だるまのように大きくなっていったものだろう、と思われる】、とされます。(以下略)
第5章東征の理由と時期
1・安本さんは、神武東征の理由について、【日本書紀によれば「東に美い地がある。そこに都をつくろう」とある】ことを上げています。【文化の低い地方出身の上昇願望と神武の英雄性。南九州の東に、南九州よりも生産力の豊かな土地があった。神武東征は邪馬台国後継勢力の植民地化運動の一環として理解できる。】などと述べられます。
【九州にあった邪馬台国が発展し東遷して大和朝廷をたてた。邪馬台国は中国によって権威付けられ、その王家の血を引くことは、古代においてもとも権威あるものであった。邪馬台国の後継勢力による国土統一戦争は古代において長期間続いた一大革命戦争であった、とも述べられます。神武東征時期は、古代天皇平均在位年代説から、三世紀末であろう】、とされます。
確かに『日本書紀』には「東に美い地がある・・・」とありますが、『古事記』には「何処に行けば安心して政治を行うことが出来るのだろうか、東へ行ってみよう」というように書いてあります。
安本さんが、【神武東征は九州の邪馬台国後継勢力の植民地運動の一環】、と言われます。その根拠は何でしょうか。他にもその様な動きがあった、という伝承などがあるのでしょうか。
【邪馬台国の後継勢力による国土統一戦争は、古代において長期間続いた一大革命戦争であった】、と言いますが、そのような動きは何処から引き出されているのか、全く説明がなく、フィクションの世界に入っておられるようです。
この章に述べられる、論証めいた叙述も、古代天皇平均在位年数論から紡ぎだされた、安本美典さんの頭の中に浮かんだ蜃気楼みたいなものでしょう。
この章に歴博の小山氏の地図 が掲げられています。この地図によれば、弥生時代の人口稠密地域は「筑後~肥後北部」となっています。この地図の問題点については、既に古田武彦さんが、小山さんに直接会って確かめられています。
その結果について古田武彦さんは、『邪馬壹国の証明』(角川文庫 1980年10月刊)p112で、分布図の不適切な使用とは何か、と題して以下のように述べられています。
【安本美典氏は民族博物館の小山修三氏の作製図によって「弥生時代の政治的文化的な文明圏の中心は、博多湾岸あたりには、なかったことがいえる」といわれた。これを、小山修三しに確かめたところ、それはとんでもない、安本氏の誤解であった。
①メッシュ(網の目)が千平方キロ(33km四方)。②北辺など、「海と陸」を半々に含む。③現在の陸地(博多市街)も、弥生期は海。④筑前の南域(春日市~太宰府を含む)と筑後北域は同じメッシュ。⑤春日市~太宰府の間が特に遺跡の濃厚なことは十分に意識。
これらの点が判明したのである。分布図は、その作り方(作製上の方法論)を十分に確かめて慎重に使用せねばならぬ。失礼ながら不適切な使用法によって、「我田引水」に走ってはならない】
また同書p194でも、【小山氏は安本氏の分布図の使用の仕方を見て驚かれ、この地図をそのように使用するのは不適切である旨、克明に(上述①~⑤)告げられたのである】とあります。
当研究会の意見としては、小山さんの作図法が誤っていると思います。メッシュの切り方はともかく、陸上部分面積での比率での色分けですから、メッシュに海上部分が含まれていれば、その面積比に基づいて修正された地図でなければ正確とはいえないでしょう。
ともかく、安本さんはこの欠陥地図を上手に自説の補強に使っているのは流石というべきでしょうか?
2・神武東征の年代
安本さんは、【卑弥呼が神格化され天照大神になった。邪馬台と大和の音の一致で、邪馬台国後継勢力が東遷し大和朝廷になったことは間違いない。邪馬台国の東遷の伝承が神武東征伝承である】と主張されます。
ここで、またもや年代論の説明があります。 【初代神武~29代欽明までの在位年数は信用できない。しかし、21代雄略~欽明間は別の史料で知ることができる。宋書によると雄略は宋に478年に使いを出している。30代敏達は572年に即位している。したがって、9代で94年平均10.44年。ここまではほぼ確実に主張出来る。又、倭王讃を応神天皇とみると、六代65年となる】
これは、雄略=倭王武という仮説によって成り立っているのですが、その依って立つ仮説が大丈夫なのか、そのような心配は全くされていないようです。
又、那珂通世の年代論、『日本書紀』の年代、内藤湖南の年代論、卑弥呼=ヤマトトトモモソ姫説の年代論、これらを概略説明し、それをグラフ化しています。
これらのグラフに共通しているのは、雄略天皇以前の在位年代数が異常に高いことです。これは記紀の寿命をベースにしているわけですから当然かもしれません。それでご自分の10年説のグラフが自然だろうという材料に使っていらっしゃるようです。
【平均年代説が妥当だという説明が、古事記と日本書紀の神武紀の検証からいえる】と説明されます。
つまり、【古事記と日本書紀で一致する、①主役は神武及び天皇一族、②九州から来ている、③天皇の代の数が合致】
このことから【神武天皇が実在したとすれば、西暦三世紀末に活躍した人であるということが導きだされるのである】、とされます。これには論理が飛躍して、普通の常識ではついて行けないところです。
欠史八代とされる2代~9代の天皇実在論についてのべられ、二人のハツクニシラス問題について、別人であるという見解を述べられます。
【市村其三郎の「邪馬台国東遷説」の紹介。卑弥呼=天照大神説。森浩一の考古学的出土品の分布から見ると、東遷説をとったら状況の説明はつく】、という言葉を紹介して東遷説の妥当性の補強をされています。
そして、年代論のまとめとして次のように述べられます。
【天皇の平均在位年数を10年とすれば神武天皇は3世紀末に活躍したことになり、中国の史書の記述と記紀の記述とを統一的に理解しうるみこみがあることになる。神武の活躍の時期は幅をつけて推定しているので余程特殊な事情がないかぎり大きな誤りをおかしている可能性は小さいであろう】 これは自信満々なのか、虚勢を張っているのか分かりかねます。
3・九州から大和へ
ここで安本さんは、大和朝廷が大和から発生したと思われない根拠を、20項目に亘ってのべています。まあ、妥当なところなのですが、「神武は3世紀末の人」、「卑弥呼=天照大神」、「大和は邪馬台を移した」、「6~7世紀に長編の物語を創作できる文化的基盤はなかった」ということを根拠にしているのは問題ありです。
東遷説の補強としてでしょうか、井上光貞の「銅鐸文化の消滅、ヤマトの国号の問題も東遷説で合理的に理解できる」という言葉を紹介しています。まあ、権威を借りている、とも言えますが。
まとめとして
この『大和朝廷の起源』という本は、安本美典さんが新しい論を展開しているのか、と思って買われた方はがっかりされたのではないかと思います。プロローグの神武天皇の陵墓、神武歌謡や伝承の分析などが初出で、あとは今まで出された本からの寄せ集め的な本です。
その初出の神武天皇陵墓についても、結果的に「古代天皇平均在位10年説」をベースにした話ですので、問題ありの話です。
ともかく、安本流古代天皇平均在位年数論で、卑弥呼=天照大神で三世紀中葉の人、それから5代後の神武天皇は50年後の三世紀末の人、ということで成り立っている本です。
この仮説が成り立たなければ、全て雲霧消散する本です。従いまして、批判の根本も年代論が中心になりました。従って、議論に数字が多く入って読みづらいところが多かったのではないか、と思います。しかし、安本説古代天皇平均在位年数論に基づく「卑弥呼=天照大神説」が、そこにもって行かんが為の説であることがはっきりしたのではないかと思います。
地名グループの移転、また、『魏志』倭人伝をまともに読み、考古学的出土品との常識的な判断をする限り、邪馬台国九州説でしょう。その意味では、一般受けし易い安本美典説なのです。ですから、「邪馬台国東遷説」も受け入れられ易いのではないかと思います。
『虚妄の九州王朝』という本で、安本さんは「古田武彦の九州王朝論は、大ハマグリの吐き出す蜃気楼の様なものだ」と決めつけています。今回の検討結果では、安本美典さんの「古代天皇平均在位年数論」に基づく、「卑弥呼=天照大神」説が蜃気楼ではないか、という結論でした。
ノリキオ画伯が「大ハマグリが吐き出す蜃気楼になにやら卑弥呼が見える」というイラストを描いてくれました。
安本さんも、年代10年論での史観を構築されてしまっていますので、今更自分の仮説に問題ありました、とはいえないだろうなあ、と思います。しかし、一度は受け入れた安本教信者も、この「槍玉41」によって、「やはりおかしいぞ」、と思うようになることを期待しこの項を終わります。
付録として
古田武彦『盗まれた神話』に見る安本美典説批判を参考に挙げておきます。
第十三章 天照大神はどこにいたか 「天国」とはどこかp368~
(前略)「天国」を地上と見なす説は、古くから存在した。最近でも、学界でこそ宣長・津田の二権威をうけて高天原天上説が定説化しているにもかかわらず、一般には高天原地上説をとって、”ここぞ高天原”と言い立て、情熱的に自説を展開する民間研究家は跡を絶つことがない。
この点の研究史について興味深くまとめたものに安本美典『高天原の謎』がある。安本は、天上説と地上説、大和説と九州説の各系譜を要領よく紹介した後、みずから「九州の朝倉=高天原」説をたてている。
その根拠の一つは、甘木、夜須、香(高)山など、「天の~」と『記・紀』で呼ばれている地名がこの地帯に多く分布していることにある。
しかし、論理的には、安本が、①邪馬台国の中心をこの地域とみなしたこと<『邪馬台国への道』>、②卑弥呼と天照大神を同一人物としたこと<『卑弥呼の謎』>、この二点の必然の帰結が、この「朝倉=高天原」説なのである。なぜなら、答えは簡単だ。天照の住んでいるところ、そこが高天原だからである。
この安本の見解を吟味しよう。
第一、「朝倉=邪馬台国」説。たしかに朝倉付近は卑弥呼の国の中心領域の一端に属する。なぜなら、そこは「筑紫後国」ではなく「筑紫」に属したこと、「前つ君」の九州一円平定説話で明らかである。「橿日宮の女王」も筑紫平定のさい、この地の「松峡宮」を根拠地としたのであった。
一方、「陸行一月→一日」の原文改定に立ち、筑紫山門説からこれをいわば北上させ、朝倉中心説へと移行せしめた安本の手法そのものは、わたしの受け入れえない所だ。だが、朝倉などに関しては”結果的に一致する”わけである。
第二に、「卑弥呼=天照大神」説。これは遺憾ながら従いえない。この本(盗まれた神話)の論証がしめす通り、天照は三世紀の卑弥呼などより、遥かに悠遠、古えの存在なのである。以下「天照~卑弥呼」間の歴史を通観しよう。・・(中略)・・
こうしてみると、三世紀卑弥呼の時代は、倭人百余国が成立した前漢武帝、前二世紀のずっと後、「百余国」を「三十国」に統合し、各国の長官、副官もととのえられた”はるか後代”なのである。すなわち、天照大神と卑弥呼との間は、あまりにも遠いのだ。
安本とわたしとの、このような帰結の差異を生んだものは何なのだろうか。それは、安本が天照と神武の間(アメノオシホミミ、ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズ)をわずか四代と計算し、それに安本の言う古代王者の平均在位年数の十年をかけあわせ、天照の実在年代を割り出す、という方法をとったからである。
『古事記』においてはウガヤフキアエズ以下に熱い不分明の霧がかかっており(五百八十歳問題等)、『書紀』においては一方で史料につぎはぎの断絶<神代紀第十、第十一段の間>がある。
他方、「神武紀」<帝王本紀>においては、「天孫降臨―神武」の間に厖大な時間(百七十九万余歳)の流れていることが強烈に主張されている。にもかかわらず、安本はこれらを一切かえりみなかった。
”それらは「後代の造作」であり、系譜だけは信用できる”として、「四十年」を計算し、もって解とした。―これが原因である。これでは、安本もくいりかえしのべている”古文献の記事をむげに「後代の造作」として否定し去らないこと”という原則をみずから放棄することにならないだろうか。
この、”天照大神は卑弥呼より古い”という命題については、ほかにも今まで論じられてきた。<吉本隆明「起源論」での意見 省略>
もっとも、吉本の論断を待つまでもなく、一素人の素朴な感想をもってしても、天照の天の岩戸ごもりの神話に見られる牧歌的なイメージと、卑弥呼の「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す」という峻厳な印象と、”あまりにもはるかな時間のへだたり”をそこに感ずるのではあるまいか。
さて、安本は今回の高天原問題について、これを地上の存在として「復権」させるという、すぐれた仕事を行っている。その依拠点たる朝倉は、たしかに卑弥呼の国の一中心だ。にもかかわらず、安本の見逃した一点、それは「天国は筑紫ではない」という命題だ。
なぜなら、天孫降臨説話にしめされているように、”天国から筑紫へ「天降る」”のであるから。ちょうど、”日向から筑紫へ行く(神武紀)”から、この日向は筑紫とは別国だ、というのと同じだ。
この点、朝倉はレッキとした「筑紫」だ。だから、ここから筑紫へ「天降る」と表記することはできない。では、筑紫でない”地上の天国”とはどこか?問題はこのようにしぼられてくる。・・・(後略)
最後に
ある方から寅七の安本美典氏批判について、「古田史学の会会員はもともと安本説は好きでないと思います。その批判を読んでも面白くない?それとも痛快だ!と思うでしょうか?」という意見が寄せられました。
それに対し「現在、いわゆる邪馬台国問題で、通説反対派の中で、古田説より安本説の方が優勢な現状を憂えて、という面から啓蒙というとおこがましいかもしれませんが、批判はきちんとすべきではないかと思います。昨年の福岡での邪馬台国シンポジウムのアンケート結果でも、博多湾岸説より甘木説を信じる人が多かったので」とお答えしました。
古田説のPR作戦について古田史学の会も戦略的なものを考えてもよいのではないかと思います。今のところ、安本派に負けている様に思われますので。
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