槍玉その16 『邪馬台国論争』(最終版) 佐伯有清 岩波新書 2006年1月刊 批評文責 棟上寅七
最終版はしがき
この槍玉16は、佐伯有清さんの、最新の著作である下記の岩波新書を俎上にあげました。結論として、『邪馬台国論争』と名付けているが、古田武彦さんや安本美典さんなど全く出てこない、仲間内の論争史であり、コップの中の嵐に過ぎない、としました。
ところが、読者の方から次のようなコメントを頂きました。「佐伯有清さんが古田武彦を評価していた本も吉川弘文館から出ている」。そこで調べてみました。1971年出版の本、1972年出版の本、1976年出版の本、2000年出版の本、いずれも邪馬台国論の佐伯さんの著書です。1980年代には邪馬台国関係の著書は無いようです。5世紀を取り扱った本が1988年に出版されていますので、それらも参考にして、それらの本での「古田武彦」評価の変遷を見て、この更新版となりました。
全体としては変わっていません。最後の章の「佐伯有清さんの古田説の評価の変遷」に、古田武彦さんの著書での、佐伯有清さんの評価的なものと、佐伯さんの古田武彦評価の関連について若干の考察を付け加えました。
著者について
佐伯有清 1925~2005
1957年 東京大、院 国史学専攻 北海道大文学部教授、成城大教授を歴任 専攻 日本古代史
この本について
カバー裏に、内容の紹介があります。
【大和か、九州か。邪馬台国をめぐる論争は、日本史のみならず東洋史・考古学・文化人類学などの学会にも波及して、この百年、絶えることなく続けられてきた。
現在も決着はついていない。「本国中心主義」批判の観点から大和説を主張した内藤湖南を中心に、知られざる逸話を織り交ぜて論争史をたどり、その行方を展望する】 とあります。
今回の槍玉の目的は、邪馬台国近畿説を俎上に上げたい、ということです。
畿内説の大御所・内藤湖南の学説を基軸に据えて、この100年間のそれぞれの論を打ち出した代表者的研究者の論説を一書にまとめた(本書 初めに ix )とされる、佐伯さんのこの本が適当かな、と思いこの本を選びました。
邪馬台国研究者
20世紀における邪馬台国の研究者で重要な働きをした人物を挙げるとすれば、久米邦武(1839~1931)と内藤湖南(1866~1934)であろう、という言葉からこの本はスタートします。
この両人以外にも、喜田貞吉、白鳥庫吉、富岡謙蔵、橋本増吉、黒板勝美、梅原末治、末松保和、井上光貞など史学界の大御所たちが、逸話を絡めて邪馬台国論争史として述べられます。
佐伯有清さんは、この本の中で、内藤湖南が「卑弥呼考」をあらわし、大和説に活気をもたらした意義を重視し、本書はささやかな内藤湖南外伝とも呼べる、としています。
そこで、当研究会としては、所謂、邪馬台国畿内説の代表として、佐伯さんのこの内藤湖南外伝を取り上げたいと思います。
従いまして、喜田貞吉・白鳥倉吉その他の方々の邪馬台国論争は一応置いておいて、内藤湖南の邪馬台国論を中心に検討していきたいと思います。
100年前の世相と邪馬台国論
第1章で100年前の邪馬台国論で、久米と内藤の論争を軸に、当時の世相を絡ませながら概説しています。
当時の世相から、これらの研究も大変だったことが語られます。
久米の”神道は祭天の古俗”という論文は、「国家の尊厳」を汚し伊勢神宮を蔑むものだ、と神道家の攻撃を受け、久米邦武は1892年に、帝国大学教授を依願免職に追い込まれているそうです。
又、久米邦武の古代史講義録が、1910年に起きた大逆事件に与えた影響について述べ、続いて、石川啄木にも強烈な影響を与えたことを教えてくれます
この部分を読んだときの感想を、寅七のブログから転載します。
『久米邦武の著書「日本古代史」に啓発されて、石川啄木は、1908(明治41)年の紀元節の日記に次のように記しているそうです。
“大和民族という好戦種族が、九州から東の方大和に都していた蝦夷民族を侵撃して勝を制し、ついに日本嶋の中央を占領して、その酋長が帝位に即き、神武天皇を名のった紀念の日だ”と。
石川啄木が夭折しなかった、としても、官憲から睨まれ、苦労多い人生となったのではないかなあ、など感じました。』
内藤湖南の卑弥呼=倭姫命説も、神道家からの攻撃を受ける危険を孕んでいると世間からみられていたので、内藤は、その後出版した『日本文化史研究』では、神道家を刺激する表現を避けざるを得なかった、そうです。
内藤湖南の邪馬台国畿内説に入る前に、対極にあった、代表的な邪馬台国九州論者の久米邦武について、佐伯さんが紹介していることを簡単に述べておきます。
久米邦武の邪馬台国九州説
久米は、文献的には、九州で間違いなし、あとは考古学的遺物などによって邪馬台国を決めるべき、といって、熊本県玉名市の江田古墳を邪馬台国の関係遺物としたそうです。又、九州各地の神籠石遺跡は邪馬台国の関連遺跡として研究すべき、と主張したそうです。
この久米説の問題点は、倭人伝の「・・・南して邪馬台国に至る。女王の都するところなり。水行十日、陸行一月」に合わないのです。それで、陸行一日の誤りという説に組まざるを得ないということです。
久米邦武が主張した、神籠石遺跡は邪馬台国の遺跡という説は、この遺跡が7世紀初頭のものであり、時代的に、この遺跡が邪馬台国に関する遺跡ではありえない、既に論争の舞台から姿を消している、と佐伯有清さんは断じています。
果たして、そうでしょうか? 3世紀の邪馬壱国、5世紀の倭の五王の国、7世紀の俀国、全て連綿と繋がった”倭国”であり、神籠石遺跡もその倭国の首都の防衛施設であろう、という主張がなされていることを、佐伯さんは完全に無視しています。
内藤湖南の邪馬台国近畿説
内藤湖南は、爾来、卑弥呼神功皇后説(『日本書紀』の記事による)とされていたのを、倭姫命(やまとひめのみこと)に比定することで、大和説が成立つとしています。
「南、邪馬壱国に至る。女王の都するところ、水行十日、陸行一月」。この南を東に読む、というのが湖南論の基礎になっています。
北九州から、東に、水行10日陸行1月で大和に到達する、ということです。
その根拠は、支那の古書が方向を云うとき、東と南と相兼ね、西と北と相兼ねるのは、その常例とも云うべき、云々、と卑弥呼考に湖南は述べているそうです。
1970年に出版された三品彰英の邪馬台国総覧には、このことにふれ、だから、湖南は原文を改定したのではなく、南を東に解し得る可能性を注意しているのである、と述べています。
本当に、シナの古書では、南が東を相兼ねているのでしょうか?えらい先生から、そう決め付けられると反論しかねます。
そんな馬鹿なことはないと、調べてみましたら、古田武彦さんが、その第一書『「邪馬台国」はなかった』 朝日文庫版154~157頁で詳しく論証されていました。『三国志』全体の中に出現する576個の「南」の内容を調べて全くそのような南が東を兼ねる、というような例は存在しない、ということでした。
箸墓は卑弥呼の墓?
内藤湖南は、卑弥呼=倭姫命の墓として、箸墓(奈良県桜井市箸中)を比定しています。
箸墓が卑弥呼の墓ではない理由は、寅七が思うに大まかに云って3つあります。
一つは、築造の時代が合わないこと。古墳学の森浩一さんによりますと、4世紀を遡ることはないようです(古墳の発掘 森浩一著より)。
二つ目は、その大きさです。魏志倭人伝では”大いに冢(ちょう)を造る”とあり、墳を造るとは述べていないこと。サイズは径100余歩つまり約30mで、箸墓の長辺150mと合いません。
三つ目は、その形です。先述のように、”径”100余歩、であり円墳なのです。箸墓は所謂、前方後円墳です。
前方後円という中国では見受けられない墓の形であったならば、その形を記載したことは間違いない、と思います
サイズについて、100余歩は150mという論があります。1歩は6尺で、約150cm、100余歩は150mだと言うのです。(例えば、Wikipediaによれば、箸墓もその説を取っています)。
これにつきましても、『ここに古代王朝ありき』 古田武彦著 1984年 朝日新聞社 刊のなかで、”長里か短里か”(同書22~29ページ)で詳しく、素人にも分かりやすく、100余歩問題を解析されて、約30mということを証明されています。
内藤湖南の地名比定
佐伯有清さんは、内藤が卑弥呼を倭姫命に比定したのは、時代的にも、その係累からみても適当であるとし、『魏志』にある倭の国々を大和地方に比定してみせたからである、と書いています。
そして、倭人伝の国名を、内藤湖南が比定した地名が記されています。
この中で、当研究会が興味を持ったのは、”奴”が付く国の名です。
”奴”は全部で九ヶ国(10文字)あります。
”奴”をどう読むか、ということは、このホームページが始って以来何度も述べていることです。
魏志倭人伝の中に、音標文字として使われている文字は、全て同じ発音を表す筈、と思うのですが、内藤湖南は、この九ヶ国にある10個の”奴”の字を、どう読んでいるか見てみました。
”ナ” は5箇所 ①奴国(筑前那珂)、②蘇奴国(伊勢佐奈)、③鬼奴国(伊勢桑名)、④烏奴国(備後安那)⑤奴国(再出)
”ノ” も5箇所 ①弥奴国(美濃)、②姐奴国(近江角野)、③華奴蘇奴国(遠江鹿苑)、④狗奴国(肥後城野)
このように、”ナ”でも”ノ”でもよい、地域のサイズも問わない、となれば、どこにでもこのワンセットの国々の名の比定はできるのではないか、と寅七には思われます。(『まぼろしの邪馬台国』の宮崎康平さんも九州島原半島中心に比定されています)
佐伯さんの倭人伝
この本の巻末に付録として魏志倭人伝が付いています。
それには、原文を改訂すべきとしたところ、対海国→対馬国、一大国→一支国、邪馬壹国→邪馬臺国、巳百支国→已百支国、会稽東治→会稽東冶、景初二年→景初三年、狗葬→殉葬、と記しています。
これらの改訂の殆どが誤りであることを論証されたのが、古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』です。
佐伯さんは、湖南流に従ったのでしょう、南は東を相兼ねるとしたのか、南→東とはしていません。
南が東を相兼ねると、湖南は本心から思ったのでしょうか。
大和に邪馬台国を持ってくるための、苦しい方便であったと、思われるのですが。
三角縁神獣鏡
考古学的出土品と関連つけての邪馬台国論も、この本に述べられています。
”鏡”が主体です。
三角縁神獣鏡と称せられる鏡が近畿地方を中心に、古墳から夥しく出土しています。
これらの鏡が、『魏志』に記してある魏帝から下賜された鏡であり、したがって卑弥呼の国は近畿に相違ない、という論で邪馬台国近畿説は成り立っています。
第5~6章にかけて、所謂三角縁神獣鏡と邪馬台国についての論争が述べられます。
しかし、原田大六さんたちが、福岡県で発掘した、魏鏡よりもずっと古い鏡(漢鏡)その他の発掘物について殆ど述べられていません。
古墳で有名な森浩一さんの”古墳時代の出土鏡は3世紀の鏡でない”という研究結果を紹介しながらも、最後に未練がましくこのように述べています。
【20世紀100年を経た邪馬台国論争は、21世紀に入ったいま、どのような方向に深められてくのであろうか。恐らく三角縁神獣鏡をめぐっての邪馬台国論争が、いっそう熾烈なものになることは間違いないであろう、云々】(同書P188)
矛の不在
この本には、鏡についてはかなり詳しく記しています。しかし、”矛”について全く述べられていません。
『魏志』倭人伝には、「その風俗、・・・・・・兵には矛、盾、木弓を使う、・・・・」と記してあります。
考古学者の中では有名だそうですが、近畿地方(奈良・大阪・京都・滋賀・三重)に”矛”の出土はない、ゼロなのです。
それに比べ、福岡123、大分50、佐賀12、熊本9、対馬・壱岐97と銅矛が出土しています。
近畿地方の未発掘の天皇陵墓にあるかも、という逃げ口上で済ませているようです。
このことだけでも、邪馬台国近畿説は成り立たないと思います。
それにしても、都合が悪いことには頬かぶり、という態度が目に余ります。
(データは『ここに古代王朝ありき』 古田武彦著 1984年 朝日新聞社 刊 邪馬一国の考古学より)
ヒミコの名がなぜ残っていないのか?
佐伯有清さんの『邪馬台国論争』の中で、考古学者小林行雄氏(1911~1989)が邪馬台国大和説に立っていることを紹介しています。
その小林氏が、【ヒミコは、中国にまで存在を知られるほどの人物であったというのに、なぜか日本の史料にはその名は伝わっていない】 と、まっとうな疑問を投げかけています。
寅七が思うに、3世紀に大和に邪馬台国があったならば、その輝ける女王の名が、『古事記』なり、『日本書紀』なりに残っていないはずはありません。
つまり、その名が残っていないこと自体が、邪馬台国は大和にあらず、ということの証明になるのに、と思うのですが、なぜか小林氏はヒミコはヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百姫命)説に賛同するのです。
この考えは、現在白石太一郎氏に受け継がれ、箸墓はモモソ姫の墓地であり、ヒミコの墓説となっているそうです。
ただ、箸墓の築造年代は、その出土品などから、3世紀後半~4世紀初めとされていて、ヒミコの死亡年次と合わないことが、その箸墓=ヒミコ墓説の弱点だそうです。
白石さんは、何とか箸墓の築造年代を、3世紀に繰り上げたいと努力されているやに仄聞します。
『魏志』倭人伝を原文のまま解読した古田武彦さんを何故認めないのでしょう?
この本の中に、佐伯さんが無意識の中に現わした、アカデミズム権威主義の鎧が見えます。
と言いますのは、橋本増吉が、邪馬台国九州説を唱え、湖南の著書『卑弥呼考』を批判したことについて、湖南が言ったことを佐伯さんは、次のように紹介しています。
【橋本氏は史学雑誌で九州説を唱えて余の所説を覆さんとせられしも、余と見解の相違より生ぜし異論にして、別に論駁要すべきところなし】 と自意識過剰の言を湖南が述べたそうです。
そして佐伯さんの解説によると、【この内藤の説明は、内藤の橋本への無言の強烈な批判というべきものであった】、(同書76頁)と評価されています。
このように自説に合わないものは、理由を挙げずに無視する、という学会内の悪しき風潮に染まりきっている佐伯さんの姿が、この本の中で見え隠れしています。
この佐伯さんの最後の著作になった『魏志倭人伝論争』は、『魏志』倭人伝を、原文のまま合理的に読解した、古田武彦さんの成果を無視する学会の体質を、よく示している本であることは間違いないようです。
コップの中の嵐
邪馬台国近畿説・九州説の論争を述べてはいますが、肝心の、”卑弥呼の国は博多湾岸”の古田説や、甘木説を唱える安本美典さんを全く無視して、話が進み、そして終わってしまいます。
邪馬台国畿内論と云っても、箸墓問題、南は東を兼ねる問題、矛の不在問題など、一皮剥き、もう一皮剥きしていくと実態のないものだ、ということが良く分かってきます。
つまり、この本は、自分たちの仲間内の、いわば”コップの中の嵐”をコップの中から述べたものに過ぎないようです。
考古学会・古代史学会には古田学説に正面から向き合う勇気のある人はいないのでしょうか?
佐伯有清さんの古田説の評価の変遷
佐伯さんの「古田武彦評価」
この岩波新書の『邪馬台国論争』は2006年の出版で、佐伯さんの最晩年の著作です。はしがきに書きましたように、以前、佐伯さんは古田武彦を認めていた時代もあった、と聞きましたので調べてみました。
1971年出版の『研究史邪馬台国』(吉川弘文館)、1972年出版の『戦後の邪馬台国』(吉川弘文館)、1976年出版の『邪馬台国のすべて』(朝日新聞社)、1988年出版の『雄略天皇とその時代』(吉川弘文館)、2000年出版『魏志倭人伝を読む(上・下)』(吉川弘文館)、これらの6冊から、2006年の『邪馬台国論争』に到るまでの、佐伯さんの古田武彦説の評価を見ていきました。
(1)『研究史邪馬台国』
まず、この本の出版が、古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』の出版(1971年)より先だ、ということに注意が払われなければならないでしょう。古田さんは、1969年の史学雑誌78/9号に「邪馬壹国」を発表されています。
佐伯さんは、この『研究史邪馬台国』で、「戦後の邪馬台国研究」という一章を設けられ、52頁に亘って述べられています。その中の「最近の研究動向」という項で、一番最初に、古田武彦さんが史学雑誌で発表された「邪馬壹国」の紹介を、5頁ほど割いて紹介され、【古田氏の考察は大きな意義をもつものであろう】、とのべられています。後年の、佐伯有清さんの「古田武彦」に対する扱いとの落差を感じさせられました。
(2)『戦後の邪馬台国』
この本は、前著『研究史邪馬台国』の中で「戦後の邪馬台国」という章で述べられたことを、再度詳しく述べられたものです。従いまして、古田武彦さんの邪馬壹国に対して高く評価されています。古田説に対しての尾崎雄二郎・牧健二・大谷光男の反論なども紹介され、「最近の邪馬台国研究」という章は、殆ど古田説の紹介とその反論の紹介で費やされてるといっても過言ではありません。
(3)『邪馬台国のすべて』
1976年に朝日新聞社が古代史ゼミナールを催した講演内容を、1冊にまとめた本です。佐伯有清・大林太良・原田大六・森浩一・西谷正・金達寿・和歌森太郎の諸氏が講師でした。佐伯さんは、トップバッターで「邪馬台国論争の歴史」という題で講演されています。本にまとめられた頁数として45頁です。この中で「古田武彦」がどう評価されていたか・いなかったか、について見ていきました。破格と言っていいほどの扱いでした。
「邪馬台国論争の進展」という章の中で、古田さんが「邪馬壹国」問題を取り上げたことを、「古田氏重要な問題を提起」という項でまとめて、2頁に亘って報告されていました。その中では更に、古田説に尾崎雄二郎氏や牧健二氏が反論し、その再反論が1975年に朝日新聞社から「邪馬壹国の論理」として再反論をされていることも紹介されていました。当研究会としては意外な発見でした。
(4)『雄略天皇とその時代』
1976年の古代史ゼミナール以降、2000年に至るまで、佐伯さんの「邪馬台国」について調べてみました。1981年から1982年にかけて創元社から『邪馬台国基本論文集 I・II・III』 を出されています。この論文集について古田武彦さんが『倭人伝を徹底して読む』朝日文庫で次のように書かれています。
【佐伯有清氏はこの基本論文集IIIの巻末の解説の終末において、わたしの論文「邪馬壹国」を特に取り上げ、それが克服され、やはり「邪馬台国」が正しい、という心証を読者に与えようとした一文で文章を閉じている】 と。
何故、「古田武彦の評価」が変わったのか、判る手がかりになれば、と調べて見ましたら、1988年に標記の『雄略天皇とその時代』という著書がありました。
1978年に稲荷山古墳から出土した鉄剣に銘文があることが判明し、考古学界が賑やかになりました。佐伯さんは、この本でそれをまとめられ、鉄剣銘の大王は雄略天皇とされています。
古田武彦さんは、『関東に大王あり』を1979年に出版され、稲荷山鉄剣銘にある大王は雄略天皇に非ず、と主張されました。
佐伯さんが9年前に出版された古田さんの本をご存知ない筈はないのですが、全く古田説は無視されています。古田さんが『関東に大王あり』の中で、佐伯さんの鉄剣銘の読み方は原文を改定している、と佐伯さんの専門の古代の氏姓にからめて批判されています。それが根にあって、の以後の「古田説無視」となった、とは思いたくはありませんが、可能性は高いのではないか、と推測されます。
(5)『魏志倭人伝を読む(上・下)』
古田武彦説評価はどうなっているか、と見ていきました。倭人伝の卑弥呼の国の名前は、邪馬臺国とされ、邪馬壹国のカケラも見えません。その他、全て通説に基づいており、魏の里は435mであり、倭人伝記載の距離は実体と合わない、と述べられています。
巻末に参考とされた書籍が200冊ほど上げられています。そのなかの1冊として”古田武彦『「邪馬台国」はなかった』 が上げられているのみです。つまり、古田武彦の本は参考にしたが、取り上げるほどのものはなかった、という評価になっているようにも取れます。
以上の6冊の佐伯さんの著書における「古田武彦」評価は、1980年あたりで断層が生じているようです。今回槍玉に上げた、岩波新書文庫2006年の『邪馬台国論争』に至って、「古田武彦」が全く参考図書からも抹殺されてしまった、という状況に至っています。
古田さんの「佐伯有清評価」
佐伯さんの古田武彦評価が、どうして変わったのか、視点を変えて、古田武彦さんの「佐伯有清評価」を、前出の『関東に大王あり』以外の著書を調べてみました。
とりあえず調べてみた結果です。『邪馬一国の道標』1978年5月講談社、および、『邪馬一国の証明』1980年角川文庫、で、古田さんの佐伯有清評価があるのを見つけました。
前書では、【「邪馬台国」の研究史を緻密に平明に書いておられる、その業績はよく知られています】 とし、後書でも、【「邪馬台国」研究の史家、佐伯有清氏は云々】とされ、古代の氏姓の研究家という紹介は全くされていません。
このあたりを見てくると、やはり『関東に大王あり』での、佐伯さんへの「古代の氏姓の専門家」といういわばレッテル貼りと、家系図の専門家というような表現などが、佐伯さんの感情を刺激したのかなあ、など想像されます。
ともかく、この2006年発行の岩波新書『邪馬台国論争』のあとがきによれば、2004年に脱稿され、2005年にお亡くなりになり、篠原賢成城大学教授が校正され出版されたとのことです。殆ど佐伯先生がタッチされなかった本かもしれません。
しかし、その遺稿となった「あとがき」に、佐伯さんは、「内藤湖南への回帰」の必要性を強調しておられます。以前は、邪馬台国九州説に理解を示していた佐伯さんが、何故、このような邪馬台国近畿論者内藤湖南の邪馬台国研究への貢献を特筆大書する本書となったのか興味あるところです。
しかし、その問題に深く立ち入るだけのデータベースの構築ができていませんので、今回はここらで切り上げることにします。
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