槍玉その7 『古代史紀行』 宮脇俊三 著 1990年11月 講談社刊 批評文責 棟上寅七
●はじめに
この槍玉その7更新版は、2006年6月に発表したものに、その後の2年間の検討結果を加えて、書き改めたものです。主なところは、いわゆる「神武東征」の出発点などについてのところを再検討しました。それに、参考にした書物一覧を付しました。
●著者について
この著者は、もともとは作家ではなく、猛烈な鉄道マニアというか鉄道ファンの方でして、鉄道華やかなりし1970年代に、鉄道全線を完乗という偉業を達成された方です。
中央公論社に永く勤められ、編集局長~常務取締役を最後に退社され、1977年に『時刻表2万キロ』で日本ノンフィクション賞を受賞されました。その後一貫として、鉄道ノンフィクション・紀行文などを発表され、「鉄道紀行」を文学の一ジャンルとして確立された方として有名です。宮脇俊三さんにつきましての詳しいご経歴などは、ウイキペデイア百科事典(ここ)をクリックしてご参照ください。
この『古代史紀行』は、同書の”あとがき”によりますと、小説現代誌に「日本通史の旅」として、1987年1月号から連載され、とりあえず、奈良時代までを本書にまとめて刊行されたものです。
『古代史紀行』という史跡旧跡を巡る旅の紀行文です。知性と教養に裏打ちされた見事な紀行文と賞賛されています。
しかし、月刊誌の連載という性格上、いつも締め切りに追われていらっしゃったのでしょう、「時間に追われてゆっくりできない」、というような表現がこの本の中で、数多く見受けられます。時刻表マニアでもいらっしゃったのでしょう、スケジュールを守ることを、優先順位第一にされたようです。
もう少し、じっくり旅行されたら、同時期に発表されている、司馬遼太郎さんの紀行文、やはり古代の遺跡が多く眠る、対馬・壱岐・韓のくになどの『街道を行く』シリーズに負けないものになったのでは、と惜しまれます。
紀行文なのに、なぜ、当研究会が槍玉に上げるのか、という説明が必要でしょう。
この本の「あとがき」に、著者はこうも述べていらっしゃいます。【本書は、あくまでも旅行記であって、歴史の本ではない。しかし、史跡を訪れる理由を説明するために歴史叙述をした部分がかなりあり、章によっては半分を占めてしまった・・・】と。
宮脇さんは、前述のように、中央公論の編集長までなさっておられ、その編集者として成し遂げられた大きな仕事として、『日本の歴史』全7巻を、同じく「あとがき」で上げていらっしゃいます。
「あとがき」ではそれに、中央公論時代の、お付合いのあった先生方の名前も上げていらっしゃいます。曰く、村川堅太郎・貝塚茂樹・井上光貞・直木孝次郎・青木和夫・森浩一という錚々たる各先生方です。
特に、井上光貞先生に私淑されていらしたようで、先生がご存命だったら、校正刷を持参したかった、と「あとがき」に書いていらっしゃいます。
ということは、この『古代史紀行』の「日本通史」という流れは、今の歴史学会アカデミズム主流派の”通説”で構成されているわけです。
この「通史」が常識的におかしいと思われる点が有るか無いか、改めて読み直してみました。
常識的には、普通人宮脇さんの意見に同意するところも多いのですが、やはり、近畿中心王朝が、かなり早い時期から日本を一元的に治めた、と信じていらっしゃるようです。昭和元年にお生まれの宮脇さんにとりましては、小さいときからの、戦後の歴史教育環境からして、殆どの同年代の皆さんが、そう思っていらっしゃるのは、仕方ないことかも知れません。
●宮脇さんの通説に対する疑問点
しかし、「通説」に乗っかっていらっしゃっても、宮脇さんが納得できないところは、正直に疑問符を付けていらっしゃるところもかなりあります。
例えば、
☆邪馬台国山門説には賛成できない(p74)
☆倭建命から神功皇后に至る『記・紀』の記述は、神武以前の神話の世界に逆戻りしたかの印象がある(p100)
☆天の香具山は目立たないのに、何故か万葉集に登場する機会が一番多い(p164)(p208)
☆壬申の乱 大津~飛鳥間70キロ女官を連れて信じがたいほどの強行軍(p185)および宮滝~宇陀~榛原~名張~上野 の強行軍(p190)などは、私達が『記・紀』を読んだときに感じる常識的な疑問だろうと思います。
しかし、『記・紀』を読んで、判らないことを、判らないとするのではなく、「通説」に従う、という形で紀行文を発表されることは、「通説」を追認させる結果を産みます。宮脇さんが、誠実な人であればあるほど、誤伝は増幅されて行くことでしょう。
「通説」ということで紀行文を著述していらっしゃいますが、宮脇さんがこれは通説がおかしい、自分の意見では、と述べられているところをよく読んでみますと、松本清張さんの『古代史疑』や江上波夫さんの『騎馬民族征服王朝』に傾いているように見受けられます。
●宮脇さん、ここがおかしい
当研究会が、宮脇さんのご判断が、常識的におかしいのでは?と思ったのは、下記の諸点(Q)です。
Q1 邪馬台国はどこか、『魏志』倭人伝の「里」の基本単位の長さが現在判っていない。従って所在不明。(p61) この文章は1987年ですが、里の長さがわかっていない、と記述されています。”魏の里”は既に歴史家の中で問題ありということが、常識化されて論議されていることについては頬かぶりです。井上光貞先生が認めないものは認められないという感じです。
Q2 奴国の「ナ」と無条件に読むなど安易な地名比定。(p65) これにつきましては”槍玉その2『福岡県の歴史』”で論じましたので、ここで改めて論じることは止めます。
Q3 邪馬台国東遷説が妥当(p78) これにつきましても”槍玉その6『古代天皇の秘密』”で論じました。
Q4 卑弥呼の宗女壱与は誤記で「台与」が正とする(p80)『魏志』にある邪馬壱国は、誤記で、邪馬臺国が正しく、=邪馬台国=ヤマト国 という流れで、同じ『魏志』にある人名「壱与」も同様な誤記で、「台与」が正しいとする強引誤記説。これにつきましては、別の機会に論じることにします。
Q5 神武=崇神同一人物説(p88) これにつきましては”槍玉その5『異議あり日本史』”で二人のハツクニシラスについて論じ、二人は別人であることを明らかにました。
Q6 橿原神宮の近くに行っているのに、神武天皇陵は考古学的に問題にならない、九代の陵墓はあてにならない、として『古代史の旅』のスケジュールに載せることもなさっていません。(p90) 神武~八代天皇架空説をとっていらっしゃいます。
Q7 倭の五王は、仁徳~雄略が「定説」 一人余るがたいしたことではない、とちょっと乱暴なご意見です。(p100) これにつきましても”槍玉その3『倭の五王の謎』”で論じていますので今回は取り上げません。
Q8 応神東征説 崇神王朝滅亡 4世紀後半に王朝交代説に賛意を示していらっしゃいます。(p101) これにつきましては、”槍玉その6『古代天皇の秘密』”の中の、「謎の4世紀」で論じていますのでそちらをご覧下さい。
Q9 聖徳太子の対隋外交「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(161)
以上のことから、今回、取り上げるべき問題は、神武天皇架空説と聖徳太子対隋外交の二つとなります。しかし今回は、前者、神武天皇架空説を取り上げたいと思います。
といいますのも、聖徳太子対隋外交について論ずることにも食指は動くのですが、神武天皇架空説の検討は、棟上寅七にとって能力以上の大きな問題ですので、今回はこれ一本に絞り、聖徳太子対隋外交については、別の機会に回したいと思います。
●引用された和歌にも問題が・・
それ以外にも、この『古代史紀行』の中には、沢山の和歌等が載せられていて宮脇さんが解説されています。(下記「W」に列挙しました)
それらの多くの歌に、詠み人・作歌場所・作歌年代 などに疑問が出ていることも、世の中の人に知っていただきたいと思います。
これらにつきましても、一章設けたいのですが、これも、別の機会に譲りたいと思います。興味おありの方は『古代史の十字路 万葉批判』(古田武彦著)を是非ご一読下さい。
W1 天武天皇(大海人皇子)の、「み吉野の 耳我の嶺・・」 の歌(p188)
W2 「大君は神にしませば・・」の天皇権力強大化 大友御行 の2首 は??(p205) もう一つは有名な人麻呂の歌
W3 天武天皇の「よき人の・・・」の語呂合わせの歌(p210)
W4 舒明天皇「やまとには村山あれどとりよろふ天の香具山・・・」の国見の歌(p213)
W5 有名な、持統天皇の「春過ぎて夏きにけらし白妙の・・・」(p214)
W6 都府楼云々の道真公の漢詩の都府楼の解説「宮」の区域。(p260)『日本書紀』に筑紫都督府という記事があるのに説明なし。
W7 仲麻呂の歌「天の原ふりさけ見れば・・・(p303)
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●槍玉本論
さて、本論に入りましょう。
神武天皇架空説は果たして正しいのか、がテーマです。
しかし、当研究会は、トップページに記していますように、日本の古代史を外国文献に照らし合わせ、常識を働かせて、より正しい歴史を得よう、ということにあります。外国文献にも載っていない神武の実在性を検証する、のは大仕事です。
それではまず、現在の日本の古代史の”通説”で「神武東征」がどのようなもの、と見られているのか、概観してみましょう。
戦後の史学は、戦前は国賊扱いされた、津田左右吉博士の【『記・紀』は造作が多く、原則として信用できない。中国側の史料と一致しなくても差し支えない】に始まり、その流れに乗った井上光貞さんが、アカデミズムの主流としてリードして行ったと云ってよいでしょう。
では、神武天皇架空説を唱えられた、日本歴史学会の大御所井上光貞さんのご意見を見てみましょう。
井上光貞著『日本の歴史 I 】から、井上先生の神武伝承批判の要点を、古田武彦さんが『盗まれた神話』角川文庫268頁~ ”神武は「虚構の王者」か?”で纏めていらっしゃいますのでご紹介します。
【神武天皇が日向を出発点としているのはおかしなことである。
長い間大和朝廷の領域に入っていなかった日向や大隅・薩摩の地方、また、『日本書紀】”膂宍の空国(そじしのむなくに)”と背の肉のように痩せた地と書かれたような未開地がどうして皇室の発祥地でありえたであろうか。
又、東征の経過にもおかしいところがある。なぜなら、中間の地方は、ただ行幸途上の駐在地としてのみ記され、あらたにその地を征略したような話が少しも見えないからである。
従って、これは厳密にいえば、東方に向かっての征定ではなくて、単に都を九州から大和にうつしただけのことである。
ところが、神武たちの大和における活躍は、東遷の話とは違って一つの征討であり、またきわめて具体的である。
しかし、『記・紀』の一般的性質から判断すると、これらの話は大部分が神異の話や地名説話、歌物語などの寄せ集めである。
これらのもとの話は、個々のものとしては、大和のそれぞれの地にあった伝承であるかもしれないが、それらは、神武伝承を肉付けするために取り入れられたものにすぎない。
だから、それを取り去り、また人物を除いてみると、この神武東征物語は、ほとんど内容の無い輪郭だけのものである】
井上大先生のおっしゃるのが正しいのだろうか、と、『記・紀』を改めて読みなおしてみました。
当方の頭が粗雑なのか、神武東征の話は、これが後世の造作とはとても思えないくらいのリアリテイを感じます。
八呎烏やら熊の化身やら神話的な部分は多いのですが、大筋では、いかに苦労して征服したか、がよく伝わってきます。
特に『古事記』の記述は、右下に掲載しています、古代の大阪湾と河内湖の状況にもよく合致していますし、とても後代の造作とは思われません。
考古学的出土品にしても、奈良県だけは弥生後期の銅鐸の出土例がきわめて少ない、という大きな謎があります。
最初に神武軍が征服した大和盆地内では、ナガスネヒコ王国(東鯷国でしょうか?)の祭祀品の銅鐸は、隠す暇も無く、潰され鏃などの武器に変換された、とみれば謎は解けます。
中国の文献にも、古代の日本列島には”倭国”以外にも王国が存在していたことが、中国の史書『漢書』にあることを、古田武彦さんは指摘されています。
【(A)楽浪海中、倭国有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う。(『漢書』地理志、燕地)
(B)会稽海外、東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う。(『漢書』地理志、呉地)
この二つの文章の内、なぜか(A)のみが、歴史研究書に引用され、著名であるが、(B)は取り上げられていない。この二十国の分国を持つ東?国(とうていこく)は、次の魏志以降には現れない。つまり卑弥呼の時代には、滅亡した、と思われる。東鯷国は、その漢字の意味からして、東の端の国、であり、倭国より東にあった国と思われる】
東鯷国については、その存在した位置について、古田史学の会でも、まだ定説として固まっていないようですが、存在したことは間違いないことでしょう。
詳しくは、『盗まれた神話』朝日文庫・第八章傍流が本流を制した・第十章神武東征は果たして架空か・『日本列島の大王たち』古代は輝いていたII 朝日文庫・第一部 銅鐸の国家・第二部近畿王朝の萌芽と発展 、若しくは、『日本古代新史』第一部神武天皇は実在した、などを是非お読み下さい。
ところで、『古事記』の「神武東征」のところを見ますと、”坐高千穂宮而議云坐何地者平聞看天下政猶思東行即自日向発幸行筑紫故到豊国宇沙之時・・・”とあります。
岩波文庫では、”高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞こしめさむ。なほ東に行かむ」とのりたまひて、すなはち日向より発たして筑紫に幸行でましき。故、豊国の宇沙に到りましし時・・・”と訳しています。
そこで神武の言葉としては、「東へ行こう」と云っているわけで、出発地が宮崎県だとすると、東へ向かえば太平洋です。おかしいなあ、と思っていましたら、その後、古田武彦さんは、上記の一連の著書で神武の発進地とされた、宮崎県(日向国)ではなく、福岡県の日向と訂正されました。
古田武彦さんは、『古事記』の中の、神武歌謡といわれる、神武記のなかの数々の歌謡の歌詞の分析から、神武たちの出発地は、福岡県の日向(ひなた)とされました。『神武歌謡は生きかえった』1992年新泉社 に詳しくその分析・検証結果が述べられています。
●「神武東征」のお話とは
神武天皇の実在性および神武東征を、簡単に纏めるのは大変で、手に余ります。
が、敢えて、誤解を受けることを恐れずに、『記・紀』の述べること、考古学的出土状況などから、天孫降臨~神武東征~崇神天皇までのストーリーを、『古事記』の記事を基に、棟上寅七なりにまとめてみることにします。
1☆天孫降臨とは、壱岐対馬を活躍の場とする、天(海人)国が、筑紫の博多湾に侵攻したことの伝承が神話に仕立てられた。
2☆神武の祖先とされるニニギの尊は主流でなく傍系(主流は兄の天照国照火明命)である。
3☆しかし、筑紫では、筑紫の王者たち(例えば漢の光武帝から金印を下賜された委奴国王)の縄張り内では、うだつが上がりそうもなかった。
4☆神武兄弟は、東の方にはまだ自分達を受け入れてくれる余地のある地があるのでは、と東に向かって出発した。
5☆彼らは、日向(福岡県糸島郡日向)を出発し、筑紫に向かい、本家の了解を取って、宇佐に向かった。宇佐津彦・宇佐津媛の厚遇を受け、足一騰宮(4本の柱のうち1本が川に立てられている家屋)という住居も作って貰ってしばらく滞在する。(宇佐~安芸、宇佐~吉備への根回しが行われたのでしょう)
6☆そのあと、関門海峡を通過し、遠賀川下流の岡田宮に立ち寄る。おそらく、同行者(久米部の軍団を呼び寄せた?)も募ったことでしょう。
7☆それから、安芸のタケリ宮に寄航し、その後吉備の高島宮に身を寄せる。ここに4年(古事記には8年とありますが、その半分の期間でしょう・春耕秋収を計って年紀となすとされる倭人伝記載の倭国の二倍年紀による)滞在し、勢力を蓄える。
8☆この吉備の有力者・瀬戸内の王者がいわば神武兄弟のスポンサーとなった。(この戦闘軍団をここに居つかせるより、けしかけて仇敵の銅鐸圏を攻め取るように勧めた?)
9☆銅鐸を宝器とする繁栄する一大文明圏に侵入し、新しい支配地を樹立しよう(さもなくば死か)という賭けに出た。吉備から出発し、浪速で初めての戦闘が始まります。筑紫を中心とする細剣の勢力範囲を越え、銅鐸文化圏に入って戦闘が始っていることに注意が払われるべきでしょう。(考古学的出土品の分布状況によく合っています。)
10☆大阪湾に突入し、日下でナガスネヒコの軍と戦い、敗戦し南方から湾外に逃れ、紀州に撤退する。この時、神武の兄五瀬命は死にます。記紀の記事によりますと、日下(盾津)とか南方とか、記紀編集時の8世紀時点では、船で行けないところを船で行って戦った、と記述しているのです。近年分かったことですが、この対ナガスネヒコ戦の紀元前2世紀?かの古代の大阪湾は、奥に河内湖があったのです。(右上図、大阪府史掲載図から作成、参照)
11☆記・紀が編集された8世紀には日下は既に陸化されています。その記紀編集時の約1000年前のことを、史官が想像のみで記述できるとは、とても思われません。このことは、神武説話は弥生期に語られたので、弥生期の自然地理と合致しているのです。
12☆兄を失い、神武が統率し、熊野経由で大和盆地に侵入する。奈良に入るのは紀ノ川を遡るのが自然ですが、神武は、迂回による奇襲作戦を選び、熊野川を遡ることにします。
13☆神武たちが、道なき道を進み、大和盆地への進入は成功します。この戦闘・殺戮・だまし討ちなどの記述は、記紀の記事が生々しく伝えています。(棟上寅七には具体的に記述する勇気が無い)
14☆それまで大和盆地に鳴り響いていた銅鐸の響きは止み、隠され、あるいは溶かされ銅鏃となり、銅鐸文化は消滅することになります。
15☆そして、橿原で新しい統治(大和地方の)の宣言を行ったのです。つまり、なんとか、神武天皇は、大和橿原に拠点を構えることができたわけです。
16☆以後2~300年くらい、この地を治めるのに専念する。(初代の神武陵墓も、それからの八代の陵墓も、土饅頭的なもので、信用にならない、と宮脇さんは書いていますが、棟上寅七は、むしろそのことが、厳しかった統治初期の状態をよく示していると思います)。かつ北部九州との連絡も絶え、鉄文化も北部九州に遅れをとります(鉄鏃の奈良での出土が見られない)。
17☆ 10代崇神天皇に至ってやっと東国や、出雲まで(銅鐸文明を破壊し)に勢力を張れるようになり、陵墓も立派に作られるようになりました。
18☆余談ですが、『魏志』倭人伝に出てくる21ヶ国の邪馬壱国の構成国で、奴国が2度出てきます。最後の奴国が、この神武が建設した、奴国の分国という可能性が高いように思われます。
●欠史八代の陵墓案内
前記16☆で簡単に、欠史八代について述べました。これだけでは、納得のいかない方が多いことと思います。
古田武彦さんが、『失われた日本』1998年原書房刊 で第五章 分流の天皇陵でこの問題について検証を進められていますので、そちらを是非参照していただきますと、きっとご納得いただけることと思います。
●まとめとして
この研究会は、神武実在説を主唱するものではありません。ただ、『古事記』・『日本書紀』にある神武天皇の伝承を、後世の造作、という説に「はいそうですか、というには???」ということです。
宮脇さんも、架空と思われるなら、その根拠を示していただきたいものです。欠史八代の土饅頭的なお墓を、宮脇さんに訪れていただいて、そのご感想を聞きたかった、と思います。
『古事記』での神武東征の記事は、僅か約2000字に過ぎません(『日本書紀』で6000字弱)。是非機会があれば皆様方も一度読んでいただきたいものです。
ところで、この検討をしていますと、大きな疑問に突き当たります。
神武天皇が実在し、即位したことが=即「建国」なの?ということです。このことを研究することは、この研究会の趣旨、”古代史に関する著作の検討”に悖ると思います。別に道草にでも、棟上寅七の私見を、改めて述べさせていただこうと思っています。
(この項終わり)
参考図書
古事記 岩波文庫
日本書紀(一) 岩波文庫 坂本太郎ほか 1994
古田武彦 盗まれた神話 角川書店 角川文庫 1979
古田武彦 日本列島の大王たち 古代は輝いていたII 朝日新聞社 朝日文庫 1985
古田武彦 日本古代新史 増補邪馬一国の挑戦 新泉社 1991
古田武彦ほか 神武歌謡は生きかえった 新泉社 1992
古田武彦 失われた日本「古代史」以来の封印を解く 原書房 1998
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