槍玉その12  古代最大の内戦 『磐井の乱』(再更新版) 田村圓澄・小田富士雄・山尾幸久 著  1998年 大和書房 刊   批評文責 棟上寅七

再更新版について

磐井の乱を日本書紀が描くような、「筑紫君磐井が大和王朝に反逆したのでなく、継体天皇が九州王朝に仕掛けたクーデター」という見方で捉えるべきではないか、と第一稿では論じました。

しかし、何故、磐井の墓が修理されなかったのか、九州王朝の墓域を破壊したのは白村江の戦勝軍の唐軍ではないか、日本書紀の描く「磐井の乱」はなかったのではないか、と古田武彦さんが問題提起をされ、更新版でこの問題を追加しました。

今回、同様に古田史学の会の伊東義彰さんが問題提起をされているのを知り、再更新版としてご紹介するものです。


まず、この本の著者についてご紹介しましょう。

田村圓澄  1919年 橿原市 生。九州帝大文学部国史学科卒。九州大学文学部教授を経て同大名誉教授。主な著書は、『日本仏教史』・『飛鳥白鳳仏教史』・『筑紫の古代史』ほか多数。(インターネットで検索しましたらジュンク堂で32点の出版物がありました)


小田富士雄 1933年 北九州市 生。九州大 文学部史学科卒。 現在 福岡大 名誉教授。 主な著書は、『風土記の考古学(1~5)』・『日韓交渉の考古学 弥生時代篇』 ほか多数。(インターネットで検索しましたらジュンク堂で20点の出版物がありました)

山尾幸久 1935 中国撫順市 生。 立命館大 文学部史学科卒  立命館大学教授を経て同大名誉教授。主な著書は、『日本古代国家と土地所有』・『魏志倭人伝』 ほか多数。(インターネットで検索しましたらジュンク堂で10点の出版物がありました)

いずれも錚々たる方々です。

本の構成については、まず、田村先生が、総括的な概説を述べ、次に、小田先生が考古学の方面から物証を披露し、最後に、山尾先生が、文献学的な補強をされ、シンポジュウム形式で問題点とその見方が示されています。そして、シンポジウムの内容を、座談会式にまとめられています。

最近の、考古学上の発見や、記紀の見方の変遷をふまえ、東アジアの情勢をバックに、磐井の乱を説明しようとされています。


磐井(いわい)の乱とは何ぞや

ところで、磐井(いわい)の乱とは何ぞや、とおっしゃる方もあるかと思いますので、所謂、文献として残されている、『古事記』、『日本書紀』、『筑後風土記』の関係箇所を、書き抜いて見ます。6世紀の初めの頃、筑紫君磐井(『古事記』では石井)が反逆て継体天皇が殺させたた、というお話です。高校の日本史Bでは次のように書かれている事件です。

ヤマト政権が5世紀から6世紀にかけて、大王を中心とした全国の支配体制を形成していく、その過程での「磐井の乱」だと、どの教科書も述べています(注1)。

その内容は概して次のような表現になっています。

【大王権力の拡大に対しては、地方豪族の抵抗もあった。とくに6世紀はじめには新羅と結んで筑紫国造磐井が大規模な戦乱をおこした。大王軍はこの磐井の乱を2年がかりで制圧し、北部九州に屯倉を設けた。】(山川出版社 高校用教科書 詳説日本史 より)


史料としては、「古事記」・「日本書紀」・「風土記」にその記事があり、 磐井の墓とされる「岩戸山古墳」が残っていて、風土記に書かれている石人などの遺物が残っていいます。古代の事件の、史料及び考古学的遺物がそのまま残っている極めて稀なケースなのです。

この3件の史料について、参考までにその内容を巻末に付けていますので、ご参照下さい。

そうすると、それなのになぜ磐井の乱が古代史上の論点になるのか、と皆さん思われることでしょう。先ほどの3資料の内、詳しく事件の経過を伝えているのが日本書紀の記事です。

このうち、継体天皇が百済を助ける戦いの邪魔をする筑紫君磐井を殺した。つまり九州も近畿王朝の支配下に完全になった、とされるのですが、どうやらそこがおかしい。なぜなら、派遣軍の物部アラカヒという将軍に、うまくいったら山口県(長門)から西はお前にやる、それから東は自分(継体)がとる、と書いてある、その意味が分からない。

また、筑紫君磐井を殺したあと、その子供が「糟屋の屯倉」を差し出して命乞いをした、と書いてあることが、アラカヒとの約束と似つかわない結果だ。

それに、継体天皇の没年が、国内伝承と百済本紀の記事とが異なっている、と日本書紀が書いていることについての問題です。この記事には、「日本の天皇および皇子、倶に崩薨〈かむさ〉りましぬといへり」と百済本紀の記事を引用しているが、該当する天皇・皇子がセットで死んだ記録がない。

そんなことがあるので、古代史の先生方の侃侃がくがくが続いているわけです。さて、当研究会が批判を展開しようにも、読者の皆様には、元の本の、このご三方の先生の論旨を紹介しないと、一人よがりの論断になってしまうと思いますので、内容をかいつまんで紹介します。


この本の基本路線は最初の田村圓澄先生の分担部分いまなぜ磐井の乱かで述べられています。

田村先生は、『戦前の史学では、磐井は反逆者であり、改めて評価されるようになったのは、戦後からである。当時の状況は、九州が中央で近畿は地方であった。磐井という開明的な君主が大和政権側にいたならば、歴史も変わっていただろう』、といわれます。

しかし、結論は、日本書紀の記事にひきずられた形の、いわば尻切れトンボ的なものとなっています。この本を読んでいない方の為に、概略内容を紹介します。面倒な方は読み飛ばして、検討・批判のところに飛んでもらっても結構です。

いまなぜ磐井の乱か 田村圓澄

磐井の乱の原因はなにか ということを述べられています。

【日本書紀によりますと、新羅は磐井に賄賂を贈り大和政権の軍兵が海を渡ることを阻止して欲しい、と頼んだとあります。
磐井の乱の原因についていくつもの見解があります。磐井の時代から半世紀ほど前に、高句麗の攻撃を受けて、百済が敗退します。大和政権側はさまざまな手を打ちます。任那の4県の百済への譲与もその一つです。

また百済の要請に応えて、兵士を送り、食料・武器を送りました。百済への軍事援助の基地は筑紫すなわち九州北部でした。つまり磐井が支配していた九州北部の人たちは、長期にわたり大和政権による百済援助の過酷な負担を強いられ、犠牲を要求されてきた。無制限に続く負担をはねのける形で起こったのが「磐井の乱」です。

こういうことも考えられます。九州北部には朝鮮半島からの渡来系の人たちが、多く居住していました。大宝2年(702)の豊前国の戸籍の断簡が残っておりますが、「
秦部(はたべ)」とか「(すぐり)」を名乗る人がかなりいます。秦とか勝とかいう朝鮮半島からの渡来系か、またはそれに関係ある人たちと考えられます。

8世紀に出来た「豊前国風土記」によると、福岡県田川郡香春町の香春岳の神は、昔新羅からお出でになったとされています。つまり香春の神を奉ずる人たちが新羅からこの地へ渡来したのです。このほかにも九州には朝鮮半島からの多くの渡来系の人たちがいました。その人たちは、百済と新羅とが対立している状況の中で、どっちらを支持したかというと、私は新羅の方を支持したのではなかろうかと考えます。

そうしますと、磐井が大和政権に抵抗して立ち上がったというのは、磐井一人の決断で決まったのではなく、つまり、九州北部に居住している渡来系の人たちの支持・支援により、またその意向に沿って、磐井が立ち上がったというように考えられるのではないでしょうか。
このような二つのことが考えられます】と。

その後どうなったか 
についても述べられます

【磐井の没落直後、近江毛野は渡海しましたが、まもなく百済と対立し、援助する筈だった任那の軍隊に追われます。大和政権が毛野を呼び返したところ、対馬にまで帰ってきてそこで死んだといいます。・・・(中略)・・・
磐井が滅び30年ほど経ちました562年(欽明23)に、新羅は加羅全域の併合領有化を完成します。つまり、新羅の最終的な勝利、そして大和政権の後退が決定的になりました。

そうするとこういうことが言えるのではないでしょうか。磐井はいってみれば東アジアの歴史の動向を的確に把握していたのであり、そして大和政権の側は、過去にとらわれ、新しい事態に対応することが出来ないまま、厳しい現実に直面せざるを得なかったのだ、ということです。

そこで磐井の滅亡の意義について申しますと、第一に、九州の豪族としての磐井が滅亡しました。私は、磐井の支配地域には、独自の文化、つまり畿内とは異なったところの独自の文化が蓄積されていたと考えます。朝鮮半島の新羅と外交関係を持つ独自の政治圏、文化圏を持っていた。その主である磐井が、大和政権の軍事力の前に倒れたということです。云ってみれば、大和政権に対する相対的な、政治的独立性が、失われたことを意味すると思います。


第二に、大和政権との関係から申しますと、大和政権は磐井が支配していた九州北部の地域に、政治支配の楔を打ち込むことに成功しました。磐井の滅亡直後、大和政権側は、磐井が支配していた地域に屯倉(みやけ)を設置します。こうして大和政権は九州支配を確実なものにし、統一国家への道を開くことになったわけです。磐井の時代には、九州は「中央」でした。そして磐井が崩壊すると九州は「地方」になったと言えると思います。


第三に、国際的な観点に立ちますと、たしかに磐井は負けました。しかし、磐井が目指したところの、あるいは切り開いたところの外交路線は磐井が勝ったことを証明しています。大和政権はあくまでも任那にしがみつき、任那の貢納体制の維持ないし復興計画を放棄せず、対外政策をこの一点にかけました。

磐井の敗北後40年もしないうちに、大和政権の対外政策は破綻します。562年加羅全域が新羅の支配に服します。しかし、この時点で、大和政権側は、加羅政策についての自己の敗北、すなわち新羅の勝利の事実を自覚するまでにはなお一世紀を必要としました。

663年(天智2)の白村江の敗北、すなわち大和政権の軍勢が完膚なきまでにたたきのめされるまで、大和政権側は、任那に対する執着、すなわち任那復興計画を放棄しようとしませんでした。このとき、磐井の時代から130余年が過ぎていました。

今なぜ磐井の乱を取り上げるか、ということについて。・・・(前略)・・・6世紀前半に九州北部に現れた磐井を一介の反逆者として片付けるとか、あるいは九州の一豪族に終始したとする視点のみで、磐井が評価でき、「磐井の乱」が理解できるとは思いません。磐井が生存し、活動した舞台として、東アジア世界を想定しなければならない。つまり国際的な感覚を持った磐井自身を想定しなければならないと思います。

辺境の九州におりながら、というべきでなく、日本のなかで、最も朝鮮半島に近い九州北部にいたなればこそ、磐井はすぐれて国際的な感覚的を持つことができた、と考えます。つまり、筑紫・火・豊三国の民衆の支持を得たから、大和政権を相手に一年半も交戦し抵抗できたと考えます。

同時に、磐井が優れた政治的指導者であったという点をも考えるべきではなかろうかと思います。もし大和政権の側に、磐井ほどの開明派の指導者がいたとすれば、六世紀以降の日本の歴史は、大きく変わったであろう、と考えられます。そういう人物の再発見を期待したいものです】と。


「田村先生の意見」の問題点と批判

この本の副題にある古代最大の内戦という評価は、磐井の乱が国際的な広がりを持っていたことが、他の継承権争いの内乱とは違う、ということからきているようです。古代の内戦につきましては、槍玉その9で取り上げました「壬申の乱」でも、亀田先生が、日本書紀の記事量が多いことで、最大の内乱と位置づけられるのは如何なものかなあ、と思ったのですが、今回の田村先生の評価は、それなりに受け止めることが出来ます。

ここで、磐井の時代は九州が中央であった、と考察されながら、それがどうして「政治権力」という表現にならなかったのでしょうか。悲しいことですが、田村先生の頭の奥に、近畿王朝以外に日本に政治権力組織なし、という考えが根を下ろしている、としか考えられません。

おまけに、国際的な観点から見る、と仰られても、磐井の死後、数十年を経ずして、アメのタリシホコが隋書に倭王として出てきます。磐井の王朝が滅亡した、と『日本書紀』の記事から推定するのは、東アジアの史書に合致しません。

以上の田村先生の概論は、『日本書紀』の継体紀の記事に、ところどころご自分の意見、例えば九州は中央であったとか、磐井は英明な君主であったとか入れながらも、『日本書記』をほぼなぞったように説明されています。

『日本書紀』に準拠し、中国の史書に現れる、「倭奴国」「倭国」「(たい)国」を九州に在った政権という理解が出来なかったところに、その原因があると思われます。

具体論は、山尾先生にお任せのようですし、ダブって論じることになりますので、田村先生の概論批判は、上記に止め、後の山尾先生の「文献から見た磐井の乱」とあわせて、検討することにしたいと思います。



磐井の乱を考古学出土品から考察する

考古学から見た磐井の乱    小田富士雄

小田先生の八女地方の古墳群の調査とその解説では、写真つきで詳しく述べられています。
又、磐井の乱後の九州で、これら石造物を墓地に配置する文化が廃れた、と説かれます。

石造物の文化の流れを、中国~朝鮮~日本という検討をしたが成り立たない、とも云われます。石造物の象徴するものが、埴輪と似通っていることから、近畿の埴輪の文化における材料を粘土から石に変えた、という見方をされます。

岩戸山古墳についての考古学の研究史~福岡県八女地方の古墳群の調査~石人山古墳と岩戸山古墳の比較~石人・石馬と磐井の勢力圏~石人・石馬の源流~磐井の乱後の九州。

以上の内容が沢山の出土品の写真・図を載せられて、詳しく説明されています。とくに石造物についての見解に多くの頁を割かれています。

石人・石馬の源流として、各人の説を紹介されたのち次のように述べています。
現在では、小林行雄先生などが指摘されたように、石製品につきましては、直接大陸と関係あるものではなくて、やはり原型は近畿などを中心に流行した形象埴輪を古墳に立てるという風が先行してあり、それが石に変えられたと見るのが妥当のようです。石に変えたというところに、磐井の文化圏の一つの独創性といいますか、そういうものをみるべきではあるまいかというように思っています】と。

見解に対しての当研究会の意見


当時の倭国は、『宋書』の倭の五王の記事に見られますように、宋朝に帰属していました。その上で、朝鮮半島における主権を主張していたのは、文献上明らかなことです。

つまり、政治的に、中国新羅という形なのだと思われます。墓制という政治的な築造物は、そういう流れで受け止めるのが自然なのではないでしょうか。

新羅のお墓の石造物が、九州の石造物の時代より新しいから、中国新羅倭という流れは否定できる。九州の古墳に見られる石造物は、近畿の埴輪を石で作った物であろう、その点での独自性を認める、という結論はいささか理解に苦しみます。

また、磐井の乱以後、九州が近畿王朝の支配下になった、埴輪の文化も移入された、と主張されます。

これは、白石太一郎さんも主張されていることですが、政治権力の変化は葬送儀式の変化に現れる、ということが、今回の磐井の乱に当てはめられることが出来るでしょうか。北部九州から熊本・大分地方にまで、近畿地方とは異質の装飾古墳文化は続いています。このことに全く目を閉じていらっしゃるかのような小田先生の見解です。

小田先生の、岩戸山古墳を中心とする古墳群の詳細な報告について、そのご努力には敬意を表します。しかし、その出土品の評価について、小田先生のご意見にはそのように納得できないところがみうけられます。

又、基本的な問題として、天皇への反逆者が生前つくっていた巨大な墓に入る事が出来たのでしょうか?磐井の子供「筑紫君葛子」が屯倉を差し出して助かった、と書かれていますが、少なくとも壊された親の墓をなぜ修復しなかったのでしょうか、という問題が残ります。磐井の墓とされる岩戸山古墳の石人のみならず、石山人山古墳の石人像も同様に破壊されていることも、説明が付きません。

例えば、葛子は父の墓を復旧したのだが、『日本書紀』に記載のある、筑紫大地震によって倒壊したのではないか、ぐらい考え付いてもよいのではないでしょうか。

古代の地震、有名なのは、天武紀の筑紫国の地震でしょう。『日本書紀』を拡げ改めてそのところを読んでみました。

「是の月に、筑紫國、大きに地動(ないふ)る。(つち)裂くること広さ二丈(ふたつゑ)、長さ三千余丈(みちつゑ)百姓(おほみたから)舎屋(やかず)、村毎に多く(たふ)(やぶ)れたり。是の時に、百姓の一家(あるいへ)、岡の上に有り。地動る(よひ)に当りて、岡崩れて処遷(ところうつ)れり。然れども家既に(また)くして、破壊(やぶ)るること無し。家の人、岡の崩れて家の()れることを知らず。但し会明(あけぼの)の後に、知りて大きに驚く」  

と、天武七年(679年)十二月是月条にあります。マグニチュード8クラスの地震であったと思われます。小田先生も、”たいした基礎工事もなく建立された石人石馬も、ひとたまりもなく倒壊したことでしょう。折角葛子が復旧した、石人山古墳とか岩戸山古墳(磐井君の墓とされる)などの石人像も壊われた”、という説でも立てられたらどうですか、とお節介も云いたくなります。


古田武彦さんは、その解答として、「石人石馬などを破壊したのは、7世紀末 の唐軍であろう」、とされます。この件については、文献批判と含めて後述します。

また、岩戸山古墳の別区といわれる場所で、当時の裁判の模様を擬した石像が多数あったことについて、小田さんは
述べられています。が、大和朝廷の初めての律令、大宝律令(701年)に先立つこと170年に、このような裁判を行っていた、先進性を持つ磐井君、つまり「裁判をすることは独自の律令を持っていたとみられますし、そのことを評価しようとされないのは残念です。

岩戸山古墳の石人石馬
新羅が律令を持ったのが520年です。新羅より上位に立ちたい(南宋に対し、六国大将軍授号要請記事)倭国として、当然律令を制定したと思うのは自然でしょう。

『海東諸国記』という書物によりますと、倭国では、522年に善記という年号が立てられています。遅くともこの時点では年号と律令はセットで制定されていたことと思われます。

小田さんは、『日本書紀』などに記事が無いからそんなことは認められない、という立場なのでしょうが、あったと考えるのが合理的な推測と思います。


明の太祖北部九州の石人石馬で墓を守護する文化について、一言したいと思います。

中国の南朝系、例えば、劉宋(都は建康、今の南京)では、石人・石獣で墓を守衛する文化が広く行われていたことは有名です。後の、北からの進入王朝によって無残に壊され、残っているのは僅かだそうです。後の年代ですが、明孝陵参道の石象は、南京の観光の目玉にもなっています。

磐井の乱60年前には、倭武が南宋から、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除せられています。

倭国と南朝との冊封関係のつながりがあり、その文化も取り入れたことは論を待たないと思います。それに先立つ倭の五王の時期は、倭国と朝鮮半島諸国がらみで、中国との交渉が最も盛んな時期であったろう、と思われます。

これらのことを考慮しますと、源流は中国江南の地、と見るのが妥当性があると思います。

古田武彦さんは『邪馬一国の考古学 ここに古代王朝ありき』 で以下のように述べられています。(p270)

【九州の数多くの古墳が石人・石馬によって守られていることは有名だ。これに対し、近畿中心の古墳にはこれがない。埴輪、つまり土人・土馬の類に守られている。「石造物」と「土造物」と、明らかに文明の質は異なっているのである】

当研究会は、小田さんの説かれる、石造物は埴輪に源流がある、という説より、古田さんの説かれる、石造物は中国にその源流があるという説の方が、理性的に受け入れることができると思います。



磐井の乱を文献から見ると

小田さんのあと、
文献から見た磐井の乱 と題して、磐井の乱についての、従来の説と山尾幸久先生の考えが述べられています。

山尾さんは以下のように述べておられます。

【「
磐井の乱」につきましては、敗戦後十数年間の研究により、一つの共通認識というべきものができておりました。

それらの研究は、大和政権が四世紀から五世紀にかけて、九州の北部や中部までを統一して、国家的・制度的な支配下においていたということ、そればかりでなく、大和政権が朝鮮半島の南部を直轄領として統治していたこと、そういったことを「磐井の乱」を考える上での前提としていました。

大和政権の朝鮮半島南部支配のための軍事力提供、あるいは物資提供の負担に耐えかねた九州北部の小首長たちが、民衆の不満や怨嗟を組織して、九州北部の大首長磐井の指導に同盟して、大和政権に反旗を翻した、と、そういう見解が、共通認識としてできていたわけです。

ところが、近年、4、5世紀の大和政権のありかたについて、基本にかかわるようなところで、いくつもの問題が出されてきています。

果たして大和政権が4,5世紀に、朝鮮南部を一括支配していたなどということ、東北南部から九州中部まで、国家的・制度的な支配下においていたなどということがあったかどうか。

そういう考え方の根拠になっています『古事記』とか『日本書紀』の叙述の内容について、かなり基本的な疑いが持たれるようになってきているのです。

五世紀代を中心として、朝鮮半島南部の加耶地方に、大和の大王の直轄領があったといわれております点につきましては、その資料的根拠は薄弱です。わたしの検討ではそんな事実はありません。
(中略)
五世紀ごろ、服属した地方首長が大王の地方官国造に任命され、その後国造が郡司に、という歴史叙述は資料的根拠に乏しく、日本の古代国家の形成は、六世紀中ごろから本格化するものであります。・・・(後略)・・・。】

【『日本書紀』の記事はこの乱について詳しく述べているが
】、と内容を詳しく分析されています。

【この継体紀の記事は、中国の「芸文類聚」という本にさまざまの古典の文章を少しずつ変えて綴りあわせたものだ】、と指摘されています。

つまり、【『日本書紀』の編集者が、中国の書物を見ながら、固有名詞をちょっと変えたり、その間にちょっと違う文章をはさみ込んだりしたもので、こういう部分は、磐井の乱についての歴史的な事実を推測する際に、根拠としてはあまり役に立たない、証拠力がほとんどない部分です。そのように作文された部分を取り除きますと『日本書紀』の磐井の乱の叙述はそれほど多くない】、とされます。

その後、磐井が毛野に浴びせた暴言の検討に入り、
九州の豪族が大王に靫負(ゆげい)として仕えていた史料が日本書紀の中にある、とし、膳大伴(かしわでのおおとも)といって大王の食膳に奉仕するのを関東の豪族が担当した例が多い、という方向に向かいます。

そして、
埼玉県稲荷山古墳の被葬者は、雄略天皇に膳大伴として仕えた人であろう、とし、熊本県の江田船山古墳の出土大刀の銘文から、同様に、雄略朝に「靫大伴」として仕えた人が被葬者でないかとされます。

銘文の「獲□□□鹵大王」は雄略天皇とされます。(稲荷山古墳・江田船山古墳の鉄剣銘につきましては、別の機会に論じることにします。)

西日本首長と朝鮮の項で、【
私は、倭王権を構成する西日本の首長勢力が、朝鮮半島で軍事的な活動をする時代を、大体西暦430年前後から490年代ぐらいまでと考えています。

宋書』倭国伝に「珍、又倭隋など十三人に平西、征虜、冠軍、補国の将軍号を除正されんことを求む」とあります。これは、438年の出来事で、451年にもまた別に23人に同じような将軍の称号が与えられています。これら将軍号を授けられた人々は、必ずしも大和政権を直接構成する畿内豪族だけでなく、西日本各地の首長にも、与えられた可能性が高いと思われます。それらの首長が、配下の民衆を率いて朝鮮へ渡ったのでありましょうが、九州北部の人々の負担が従来に無く過酷になったことは容易に推測できるわけです

次に、磐井の祖先と倭王権の関係について論を進められます。【筑後の
八女の豪族が九州一帯に勢力を伸ばしたのは、何か歴史的な事情があるのではないか、それを推測してみたい。

宋書倭国伝の雄略天皇に当たる倭王武の上表文「・・・・・」にみられるように、従来の朝鮮半島西沿岸まわり航路が使えなくなり、有明海が重要な港になった蓋然性が高い、つまり、そこを押さえている磐井の力が強くなったのではないか】
とされます。

次に、継体紀に見る編年の移動と、磐井の乱の関係について見解を述べられています。

磐井の乱は『日本書紀』が編年していますように、527年から528年に起こった、とは考えていない。これは、530年から531年にかけて起こったと考えています。継体天皇の死亡の年を534年であったのを、『日本書紀』の編者が、『百済本紀』の記事に「太歳辛亥・・又聞く、日本の天皇及び太子の皇子倶に崩薨す」とあるので、継体の死亡を辛亥の年531年に移した。そこで、継体・安閑・宣化各天皇の編年がおかしくなった

それから山尾さんの530年前後の歴史の流れの推理が語られます。

【他の史料(??)から考えますと、歴史的な事実としては、531年、継体天皇の次に即位したのは欽明天皇でしょうし、また、安閑・宣化の二代は実在しなかった蓋然性の方が大で、この二代は七世紀前期の修史事業で追加されたのではないかと思います。
そして、この「磐井の乱」を平定したのは、継体天皇ではなく、乱の半ばで継体天皇は位を退いて、新しい欽明天皇は、王権の命運を賭して、一大戦争を敢行し、最終的には是を平定した、という風に考えているわけです


最後に、山尾さんは、次のように、磐井の乱は九州独立戦争 と締め括っておられます。

【磐井は、自らが、大和の大王の干渉や拘束から独立して、独自の国家を造ろうとしていたと言ってよいと思います。
それに対して、大和政権から見た場合、対外的な交渉権の一括集中を軸として、強力な中央政府として地方を支配するシステムを造ろうとしていた。つまり、これまた古代国家を造ろうとしていたわけであります。

そうしてみますと、「磐井の乱」というのは、大和政権の国土統一の権力的な企てと、磐井の九州独立構想とが、正面から衝突した歴史的大事件であったといえると思います。

史料に基づく細かな話を積み重ねてきましたが、「日本書紀」に叙述にも、検討すれば基底的な歴史事実を垣間見ることが出来、それは、東アジアの政治的な情勢、大和と九州との権力的な関係、そうしてまた、社会の経済的な状態などから、この時期に起こるべくして起こった、大和から見ての国土統一戦争、磐井から見ての九州独立戦争、それが「磐井の乱」であろう】
と。

以上のように、山尾先生は『日本書紀』を、詳しく分析はされています。このご努力も大したものだ、と敬服しますし、
【『日本書紀』に「筑紫国造磐井」としてあるが、六世紀当時まだ国造の制度は無く、筑紫地方の豪族であった、と捉らえるべきだ、まだ大和政権は全国にその権力を振るえる状態でなかった】、とおっしゃっています。

そう仰りながら、5世紀の築造とされる、熊本の江田船山古墳出土の大刀銘は、治天下獲□□□歯大王世、云々・・と欠字だらけなのに、ワカタケル大王、つまり雄略天皇とされますが、その論旨不一貫なところは、ご自身では気にならないのでしょうか。

そして、倭王武の上表文は雄略天皇の事跡ともされます。しかも、『日本書紀』の記事で、これはいい加減な記事とされているところがあります。

たとえば、有名な、継体天皇が磐井征討に向かわせる物部大連にたいして、社稷の危機であるとして、鉞を手渡して、上手くいったら筑紫から西はお前が、長門から東は私が取る、という分割案が記されています。

山尾先生は、【
この文章は中国の芸文類聚という書物から、似合った文章を取りあげ、そこに適当に事物を当てはめ文章にした。したがっていい加減なものだ。だからこの部分は資料的価値なし】と云われます。(注2)


山尾さんの主張に対しての当研究会の見解

山尾先生には、金印を受けた倭奴国~邪馬壹国~邪馬臺国~俀国 などと中国の史書に書かれた倭人国の流れがある、という理解が全くないところが解釈の矛盾となって現われています。それらの矛盾を糊塗するために推測の路に入って結局は『日本書紀』は史実を忠実に語っていない、改変されたものだ、とされるのです。

山尾先生は、他の史料という読者に史料名を伏せて、『日本書紀』の継体紀の編年の齟齬がある、とされます。そして読者は、『記・紀』の言うように、継体天皇が磐井を殺したのではなく、3代後の欽明天皇が磐井を殺した、と推理小説的な解釈を押し付けられます。

折角、『日本書紀』にない西日本首長グループという概念を創出しないと説明できなくなっている、ということを仰っているのに、先述の田村先生と同様、首長グループという概念から独自の政治的権力という概念へと進み得ない、頭の奥の「縛り」が存在するようです。

さて、『記・紀』が伝える「その後はどうなったのか」、興味のあるところです。その後の動きを、東アジアの動きの中から見れば、自ずと判るのではないかと思われます。

磐井の乱の約60年後、隋書に俀(たい)国伝として、俀国王アメのタリシホコが有名な【日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや・・・】の国書を送ります。年格好から言いますと磐井の孫乃至曾孫の時代です。(600年の出来事)

608年に隋より裴世清という使者が、俀国に調査に来て倭王に会っています。その使者は、竹斯国に到着し、その後、足を延ばして近畿大和に至ったようです。このことは『日本書紀』にも記されています。このあたりから、中国に近畿の大和王朝が認識され始めたように思われます。(『隋書』に倭国・俀国と二つの国が現れているところがあります)

このように見てきますと、磐井の乱の後も、火の国・豊の国の協力体制のもとに、倭王武から繋がる、筑紫の王朝は、葛子からタリシホコへと繋がって行くことができた、と推定するのが外国史料から見て自然ではないでしょうか。

つまり、倭武から繋がる、筑紫の王朝はこの「磐井の乱」によって何も影響が出ていないと云えましょう。


山尾先生は、『日本書紀』を一生懸命に勉強されながら、『記・紀』には出てこない、金印や宋の将軍号の徐正の記事が何故出ていないのか、ということに対して”何故?”と問うてみる基本的姿勢が欠けているところに問題があります。宋の将軍授号の記事は書かれていなくて、呉国からガチョウを貰って帰った、そのガチョウが犬に食い殺されたなどの記事は『日本書紀』には書いてあるのです。このアンバランスさについて、山尾先生の注意が何故向かわないのでしょうか?

この本で山尾先生の説明を聞いてしまった後で、読者は最初の問題点、継体とアラカヒの戦後分割案は何であったのか、葛子が屯倉一つ差し出したら引き上げたのはなぜか、磐井が殺され近畿王朝の支配下に入ったのに、葬祭儀式が変った様子もない、のはなぜか、60年後に多利思北孤が俀国王として出てくるが、磐井との関係はないのか、などの問題に何一つ解答は見つかっていません。

山尾先生が主張なさるように、欽明天皇が磐井を殺した、と『日本書紀』の記事をずらしたとしても、糟屋の屯倉の話はどう解釈するの、天皇皇子共に死んだのはどう解釈するの?とお聞きしたいものです。仮説を立てるのは結構ですが、その仮説が、設問に矛盾なく解答できなければ、単なる仮説に留まり、読者はますます、混迷の出口の無い古代史の闇に引きずり込まれてしまうだけです。

山尾先生が、再度検討して、欽明天皇にずらしたらこのように全てが解決できました、という本をお出しいただいた時点で再度検討の俎上に上げることにしましょう、というのが当研究会のこの本にたいする結論です。

同じ様に、『記・紀』の創作説、それも「磐井の乱そのものがなかった」たと主張される、古田武彦さんの仮説は、どうなのでしょうか。問題点をクリアーできているのでしょうか。(後述)

この、「古代最大の内戦 磐井の乱」という本は、何とか従来の、『日本書紀』の記事鵜呑みの通説から、少しでも新しい見方をなさろうとする努力は読み取れます。しかし、5~7世紀の東アジアの状況を、中国・朝鮮半島の諸国・大和政権という流れで捉えていますし、国内資料は基本的に『日本書紀』に負ぶさっていますので、無理な解釈になっています。

この本を読んで、「磐井の乱」はどういうものであったか、『日本書紀』の描く「乱」の記事とどう違ったのか、著者達の主張を納得できたのか、と読まれた方々にお聞きしたいものです。結局は、山尾先生の「乱は欽明天皇の時代の事件だ、そうでないと辻褄があわない」というように、もっていかれています。

「磐井の乱はなかった」古田武彦さんの主張

古田武彦さんの「磐井の乱はなかった」という説の概略を、まとめてみますと次の通りです。(詳しくは、古田史学の会編 古代に真実を求めて第八集 2005年3月 講演記録「磐井の乱はなかった」をご覧下さい)

古田武彦さんは、ご承知の方も多いと思いますがその著書、『失われた九州王朝』や『法隆寺の中の九州王朝』でこの磐井の乱を取り上げています。『日本書紀』の記事は間違っている、九州王朝に対する継体の反乱と論じていらっしゃいました。

しかし、その後検討を続け、どうもこれはおかしいのではないか、と思うようになったと言われます。

その理由は、九州王朝には当然九州年号というものがある。しかし、磐井が死んだり葛子が跡を継いだりしたら、九州年号に影響が出なければおかしいが、そのような形跡はない。『筑後風土記』に継体の軍が墓を壊した、というのが磐井の乱の証拠ともされている。しかし、葛子は何故墓を修復しなかったのかという疑問が残る。なによりも6世紀に九州王朝が近畿王朝の支配下になったとすれば、考古学的出土品にそのような徴が見れるか、というとそれは無い。

古事記』・『日本書紀』に記載があるからといって必ずしも実際にあったとは限らない(そういう例は数多くある)

7世紀末の唐軍が、白村江の戦勝国として2000人もの集団が何度も来朝し、近畿王朝の協力を得て、九州王朝の諸施設(陵墓を含む)を破壊した。これは中国でも、北朝隋が南朝宋の墓などを徹底的に破壊した前例がある。

近畿王朝は、唐に協力して筑紫の王朝を滅亡させたことを隠蔽するために、磐井の反乱という話を造作したのではないか。『風土記』も8世紀になって『日本書紀』に合わせて造られたのではないか、とされます。


磐井の乱の記述の目的は、「九州王朝はなかった」この建前の一大メッセージの「国内伝達」。日本武尊説話や、景行天皇遠征説話に続く、この「磐井の乱」平定記事によって「代々九州は大和の支配下にありつづけ、」その反乱があっても、常に平定されてきた」という、偽のメッセージ。これが『記・紀』・『風土記』記述の最大目的である。

石人・石馬破壊は、七世紀末、白村江の敗戦以後、九年間に六回も筑紫に「進駐」してきた唐軍(およびそれに協力した近畿天皇家)」によるという仮説を立てた。『風土記』にいう、200年前の官軍の暴虐により、いまだ手足の不自由な人が多い、という記事は、50年前の、唐軍の暴虐の結果、とすると辻褄があう

これらのことから、古田武彦さんは、少なくとも『記・紀』に伝えられているような、「磐井の乱」はなかった のではないかと主張されます。

結論的には、磐井の墓を破壊したのは白村江の戦いの勝者、唐軍であり、『日本書紀』に書かれているような、「磐井の乱」はなかったのではないか、とされます。当研究会も、この古田武彦さんの説が、今までの磐井の乱の問題点とされたところをクリアーできる、画期的な説と思います。以下にその理由を述べます。


当研究会の磐井の乱の見方

当研究会の磐井の乱の見方は、まとめてみますと、当時の東アジアの状況は、中国・朝鮮半島・筑紫の王朝+大和の王朝、と捉えなければ方向は見えてこないということです。何よりまして、701年、大宝元年の近畿王朝の九州王朝の吸収という革命的変動、「評から郡へ」、の変換点における史書編纂事業、偽定削実である、という視点を持つ必要があるでしょう。

「『日本書紀』の改変」でも、山尾さんの”『日本書紀』の記事を継体から欽明に移動させる”という改変ではなく、古田武彦さんが主張されるように、『日本書紀』の示すような「磐井の乱はなかった」、と考える方が、筑紫君葛子が父の墓の修復をしなかった問題その他を、全て矛盾なく解釈できます。倭の五王の国から、多利思北孤の国の間、北部九州の装飾古墳も九州年号も、磐井の乱と無関係に続いています。

ただ、古田武彦さんも仰っていますように、「日本天皇・皇子共に死す」という百済本紀の記事と、磐井の死との関連については、次のように今後の検討課題とされ、大事な保留問題とされます。

 【百済側が伝える事件があったことは間違いない。あそこには干支も書いてある。だが、それが磐井であるという証拠はない。磐井以外のケースでそういう問題が起きえたケースがあったか。例えば倭の五王。上表文のところで、悲痛なことを言っています。父が亡くなった。兄が亡くなった。自分が頑張らねば、そのように言っています。そのような背景にこの事件があっても不思議ではない。そういう目で、もう一度検討したらよい。磐井にこだわらず、いったん事件を保留して、もう少し時間帯を六十年単位で動かしてみたらどうか。動かせば何か引っかかるところが見つかるかも知れません、大事な保留問題と考えています】(古代に真実を求めて 第八集 p48~49)

結論的には、以上の事柄から、全般的に、『記・紀』に書かれているような「磐井の乱」があったとするのは、問題があるとこは間違いありません。


推測的仮説ですが

ここからは、古田武彦さんの検討をさらに進めての推測的仮説、つまり寅七流無責任仮説となります。

天武天皇が『古事記』序文にあるように、削偽定実の歴史書作成を命じます。内容は、今回九州は唐のお陰で滅び、われわれが唯一の王朝になった。われわれは、天智天皇が鎌足の進言を入れて、母斉明天皇の死を機に引き揚げ、唐に恩を売った。これは史書にそのまま書くのはまずい。ずーっと昔、磐井君といわれる九州王朝の王が殺された事件があった、と大倭国の史書にあった。あれを継体天皇の時期に入れよ。そうすれば、継体天皇の御世でも九州の豪族が反乱しても、すぐに我らが鎮圧してきた、という歴史になるし、唐軍が九州の諸設備を破壊した証拠も消すことが出来る。

言われた太安万侶は、すぐさま書き上げます。『古事記』序文には、麗々しく天武天皇の壬申の乱の疾風迅雷の動きを褒め称え、本文では、継体紀に 「石井を殺したまひき」、で『古事記』を締めくくります。

しかし、天武は、これでは満足せず、壬申の乱の記述が気に入った舎人親王に再構築させて、出来上がったのが『日本書紀』の「磐井の乱」の仰々しい記事です。八女あたりの屯倉を取り上げたのも糟屋に置き換えたりもした。しかし、唐軍が破壊したことを消すにはイマイチなところを、後年、『風土記』編纂時点で、継体軍の石人石馬破壊の証拠の記事を、後で追加造作させた、という仮説です。


ずーっと昔の「磐井君といわれる人が殺された」、というのは、例えば次のようなストーリーです。

大倭国の君主に逆らって殺された、筑後地方の王がいた、という事実が九州王朝の歴史書『日本旧記』にあった。

それは、古田武彦さんが示唆されるように、倭の五王の王朝での出来事であった。

倭の五王の本家王朝に対し、筑後の分家磐井が反逆を企て、筑前の本家側が近畿分王朝に協力を求め、筑後の王を抹殺したのではないだろうか。

そうすると、戦後分割案も、東を近畿側が取った、境を定めた、ということになり矛盾がなくなります。

また、糟屋の屯倉一つのささやかな戦利品も説明がつきます。

このような九州王朝の史書を切り取って、『記・紀』に嵌め込んだ。

⑦葛子は磐井の墓を修復したが、天武七年の大地震によって石人像も全て倒壊した。

このように仮説を立てて考えると、全ての問題を矛盾なく説明でき、辻褄も合うのですが、如何せん、小説ロマンの世界に入ってしまいます。

何となく締まりが悪い寅七流仮説で終わりになりました。今後、古田武彦先生の「磐井の乱」についての新展開がありましたら、改めてこの項を再検討します。


伊東義彰さんの推測的仮説
古田史学論集第九集

寅七の磐井の乱の推測的仮説に先駆者がいらっしゃったことに最近気付きました。

伊東義彰 「倭王になろうとした磐井」 『古代に真実を求めて 古田史学論集第十集』 2007年3月刊 より結論部分を紹介します。

伊東さんは、磐井の乱を、古田武彦さんが「失われた九州王朝」で、「磐井の乱ではなく、継体天皇の九州王朝に対する反乱であった」と主張され、それを納得していたのに、今度は、「磐井の乱はなかった」と発表されて、大きな衝撃を受けた、と書いていらっしゃいます。

そして、あらためて考察を進め、次のような仮説を提示されました。本文は、九州王朝の存在・『日本書紀』の中の磐井・磐井の蜂起と大和政権軍・岩戸山古墳と詳細に論じられています。それをかいつまんで紹介するのは大変と思ったのですが、幸い、推測的仮説をご本人がまとめておられますので、その部分を紹介します。

磐井の乱の要点

磐井は九州王朝内の臣下であったこと。

磐井は自分が仕える九州王朝内にあって、大王をも凌ぐ実力者であった。

磐井は、その実力を背景にかねてから九州王朝簒奪を考えていた。

九州王朝大王側の磐井排除とも言うべき任那派遣軍司令官人事を機に決起した。

任那派遣軍編成を決め、司令官に近江毛野臣を任命したのは九州王朝大王である。

近江毛野臣は、九州王朝内の豪族の一人である可能性が高い。

近江は青海(あおみ)・淡海(あふみ)で、有明海か不知火海沿岸地域である可能性があり、毛野も愷那(けな)がもとの名ではなかろうか。

継体が派遣した物部麁鹿火を大将軍とする大和政権軍は、九州王朝大王の救援に名を借りた、九州王朝乗っ取りを目論む大軍であった。

磐井の防御が固く、短期決戦を期していたのに一年半近い長期戦となり、ついには九州王朝大王側は磐井の子、葛子によって破れてしまう。

筑紫御井郡の戦いで磐井を討ち取ったものの、葛子の軍と戦う余力もなく、糟屋屯倉譲渡を条件に撤退のやむなきに至る。

九州王朝は磐井の子、葛子が乗っ取りに成功し、以後、九州王朝を継続する。

そして、葛子が岩戸山の墓を修復しなかったのは、磐井の墓でなく、九州王朝大王の墓であったからだ、とされます。又、装飾古墳で有名な王塚古墳がその新しい九州王朝の大王葛子の墓ではなかろうか、と仮説を述べられています。

寅七の説とは、葛子の扱いが違う位ですが、内容的には月とスッポンくらい違います。しかし、合理的に判断すると大体このような推論に達するのかなあ、と思いました。

(この項終わり)


(注1) 最初のところの、「磐井の乱とは何ぞや」の項で、「磐井の乱」はどの教科書にも載っている、と記しましたが、扶桑社の新しい歴史教科書(中学校用)には載っていません。これについては別に検討をする必要があるようです

(注2)山尾先生の『芸文類聚』について 山尾さんは、継体天皇がアラカヒにマサカリを授けて言う場面で、『芸文類聚』という中国の書物と構文が一緒であり、作文された証拠、と仰います。これには、実業の世界に身を置いた寅七には言い分があります。私たちは今でも、例えば外国文のビジネスレターの手紙を書くとき、そのマニュアル本を参考にします。形式を真似たから内容が信用できない、とは大学の先生にもあるまじき論理性の欠如と言わざるを得ません。 

おまけに、山尾さんが『芸文類聚』という種本があると見つけ出したかというとそうでもないのです。この
『芸文類聚』テキスト論は山尾さんに始まったものではありません。岩波文庫版『日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注1995年刊に、「芸文類聚、武部の戦伐・将帥条の諸書をつなぎ合わせて成り立っており、句の順序を変えたり、人名・地名を入れ換えたりしたもの」と解説されています。本書は1998年刊 しかし山尾さんは何の注釈も入れられず、これは著作権侵害すれすれではないか、と気になりました。


関係史料

『古事記』(岩波文庫 倉野憲司校注より)

継体記『この御世に、竺紫の君石井(いはゐ)、天皇の(みこと)に従わずして、(まね)(ゐや)無かりき。故、物部荒甲(もののべのあらかひ)大連(おほむらじ、)大伴の金村(かなむら)の連二人を遣わして、石井(いはゐ)を殺したまひき』

『日本書紀』(岩波文庫 坂本太郎他校注より)

継体記『二十一年夏六月(みなづき)壬辰(みずのえたつ)の朔甲午(きのえうまのひ)に、近江毛野臣(あふみのけなのおみ)衆六万(いくさむよろづ)()て、任那(みなま)()きて、新羅(しらぎ)に破られし南加羅(ありしひのから)・喙己呑(とくことん)為復(かへ)興建()てて、任那に合わせむとす。是に、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやっこいはゐ)(ひそか)叛逆(そむ)くことを(はか)りて、猶預(うらおもひ)して年を()。事の成り難きことを(おそ)りて、(つね)間隙(ひま)を伺ふ。新羅、是を知りて、密かに貨賄(まひなひ)を磐井が所におくりて、勧むらく、毛野臣(けなのおみ)(いくさ)防遏()へよと。是に、磐井、(ひのくに)(とよのくに)、二つの国に(おそ)ひ拠りて、使修(つか)(まつ)らず。()は、海路(うみつぢ)を邀たへて、高麗・百済・新羅・任那等の国の(としごと)貢職(みつきものたてまつ)る船を(わかつ)り致し、内は任那に(つかは)せる毛野臣の軍を(さいぎ)りて、・・・・

八月(はつき)辛卯(かのとう)(ついたちのひ)に、(みことのり)して(のたまわ)く「()、(物部麁鹿火)大連(おほむらじ)惟?(これこ)の磐井(したが)はず。(いまし)()きて()て」とのたまふ。・・・(中略)・・・重詔(またみことのり)して(のたまわ)く、「大将(おほきいくさのきみ)(おほみたから)司命(いのち)なり。社稷(くにいへ)存亡(ほろびほろびざらむこと)(ここ)にあり。(つと)めよ。恭みて天罰(あまつつみ)を行へ」とのたまふ。天皇(すめらみこと)自ら斧鉞(まさかり)()りて、大連に授けて曰く、「長門より(ひむがし)をば朕制(われかと)らむ。筑紫より西をば汝制(いましかと)れ。専賞罰(たくめたまひものつみ)を行へ。(しきり)(まう)すことに勿煩(なわずら)ひそ」とのたまふ。

二十二年冬十一月の甲寅の朔甲子に、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥、磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ。・・・(中略)・・・遂に磐井を斬りて、果して彊場(さかひ)を定む。
十二月に、筑紫君葛子、父の罪によりて誅せられむことを恐りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献りて、死罪贖はむことを求す。』


筑後国風土記』逸文(古代最大の内戦 磐井の乱 p90による)

上妻(かみつやめ)(あがた)。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳(はか)有り。高さ七丈、(めぐり)六十丈なり。墓田(はかところ)は、南北各々六十丈、東西各々四十丈なり。石人・石盾各々六十枚、交陣(こもごもつら)なりて(つら)を成し、四面に周匝(めぐ)れり。東北の角に当たりて一つの別区あり。

(なず)
けて「衙頭(がとう)」と曰ふ。衙頭とは政所なり。其の中に一石人有り。縦容(おもぶる)に地に立てり。号けて「解部(ときべ)」と曰ふ。前に一人有りて、裸形にして地に伏せり。号せて「偸人」(ぬすびと)と曰ふ。生けりし時に、猪を偸みき。仍りて罪を決められるを擬る。側に石猪四頭有り。「贓物(ざうもつ)」と号く。贓物とは盗物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間有り。

古老伝えて云えらく、雄大迹(おほど)天皇のみ世に当たりて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に(したが)はず。生平()けりし時、預め此の墓を造りき。俄かにして官軍動発(おこ)りて襲わんとするの間に、勢の勝つまじきを知りて、独り自ら豊前国上膳(かみつみけ)の県に遁れ、南の山の(さか)しき嶺の(くま)()てぬ。

是に官軍、追ひ()ぎて蹤を失いき。(いくさびと)怒り()まずして、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち(おと)しき。古老伝えて云えらく、上妻の県に多く篤疾(あつきやまひ)有るは、蓋し?(これ)に由るか、と。

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