槍玉 その1  黒岩重吾 古代史の真相』(更新版)      批評文責 棟上寅七

さて、槍玉に上げるとして、どなたにしようか、出来ればネームバリューのある人ということでは会員の意見は一致しました。教科書類は後回しにし、歴史学者もこの次に、有名小説家が良いだろう、ということになりました。

槍玉のたちのリストには、邦光史郎・高木彬光・黒岩重吾・伊沢元彦・豊田有恒さん、それに追加予定の永井路子さん達がいます。侃々諤々の結果、物故されています黒岩さんの著書古代史の真相PHP文庫1996年版に第一の槍玉に上がっていただく名誉を与えることになりました。

この著作は、あとがきによれば、1993年にPHP研究所から出版された『古代日本への挑戦』を改題されたものだそうです。つまり、在りし日の黒岩重吾氏1971年の古代史における辛亥革命の年から既に20有余年たって出版されている訳です。

黒岩重吾さんは、フリー百科事典Wikipedia によりますと、古田武彦さんより2年早い1924年のお生まれで2003年に79歳でお亡くなりになっておられます。1961年に『背徳のメス』で直木賞を受賞され、社会派推理小説作家としてご活躍になり、1980年『天の川の太陽』で吉川英治賞を受賞されています。

以後歴史小説の分野でご活躍になったことは、世の人々に良く知れ渡った作家です。このような方ならば、相手にとって申し分ないでしょう。ご遺族の方々、出版社の方々などに非礼になることのないように俎上に上げ料理してみたいと思います。


本論に入りましょう


冒頭で黒岩さんが、古代史に取り組む立場を述べていらっしゃいます。

古代は謎に満ち満ちています。新たな出土品、博物が紹介されたらされたで、古代の素顔がさらに深まり、増幅していくような想いにとらわれることがしばしばあります。

謎はロマンであり、私の作家的想像力を快く刺激してくれる。今回、古代史の幾つかを採りあげ、史実、史料、先達の研究をも参考にしながら私流に解明していきます。

私流ということは、私なりに勉強してきた二十数年の知識を土台に、時には大胆にイマジネーションを駆使して推理し、分析するということです】
と。

しかし、何と言いましても、日本の古代を取り上げるのに、古田武彦さんの一連の著作を読んでいらっしゃらない、と思われるのが、誠に残念です。

このご本は、黒岩さんが20年間の古代史の研究の成果を、古代統一国家はいかにして形成されたか葛城氏の興隆と衰亡  物部氏の正体  継体天皇の謎聖徳太子の謎 藤原鎌足の出自などの謎について、自説を展開されているわけです。

その前説で、立場をこのように言われています。【戦後、日本が敗戦国になって今までの皇国史観が改められた。これは歓迎すべき現象だと思います。私が古事記・日本書紀に親しむようになったのは、昭和42年のころからです。その頃は、記紀の批判が真っ盛りだったから、当然批判する立場から入ったのです。

しかし、研究を進めていくうちに記紀はうそばかりでもないと思うようになりました。(中略)・・・1971年に武寧王の墓碑銘が韓国で発掘され、墓誌にある生年が日本書紀とピタッと合ったのです。それ以来、私は日本書紀を見直したのです。

もとより批判的に読まなければいけないところもあるけど、それだけではない。日本書紀の中には、史実もしくは史実に近いことも含んでいるんだと思いました。】 とこのように述べられています。

黒岩さんはこのような、一見まともな立場から、小説家的な目で、記紀を料理され謎に挑まれたわけです。しかし、同時代の中国の歴史書を客観的に参照されたか、というとどうもそのようには思えないのです。中国の歴史書の記事を日本書紀に当てはめて考える立場のようにしか見えないのです。

また、洛陽の紙価を高からしめた、古田さんの著作を読まれたかどうか知りえませんが、黒岩さんは2年古田さんより年長でいらっしゃいます。歴史学者でもない(1971年当時は)若年者古田さんの説を取り入れようという気にはならなかったのかも知れませんが。

・古代統一国家はいかに形成されたか・の章、「記 紀はどこまで真実か」(同文庫本p12)に、【敗戦によって今までの皇国史観が改められた】と述べられています。この正しい視点から、内外の文献をきちんと読んでいただけたらなあ、と惜しまれてなりません。

黒岩さんの見方は、記紀に捉われないとおっしゃりながら、記紀それも日本書紀の記事を基準になさっていらっしゃるとしか思えないからです。

下の図は、同書33ページに記載の五世紀の日本列島の政治勢力分布図です。黒岩さんの鋭い感覚が捉え得たものと、高く評価出来ると思います。
5世紀の勢力分布図


しかし、畿内政権の大王の記録が日本書紀であれば、各地の政権もそれぞれの王の記録(有形・無形の)記録を持っていた、と推量するのが自然ではないでしょうか。外国文献、たとえば宋書の倭国伝について、黒岩さんがどのように取り上げていらっしゃるかを見てみましょう。

同文庫p28に【(倭の五王の)武が雄略天皇であることは99.9%間違いがない】とほぼ断定しています。その根拠は、と読んで見ますと、【宋書の五王の係累・関係の記事を日本書紀に当てはめ、「武」から帰納すると、五王はそれぞれ近畿天皇家のだれそれになる、としています。

しかし、それぞれの天皇の活躍時期と宋書の五王の活躍時期が合わないことを全く無視しているのは、中学生でもそれは、オカシイのでは、といわれる帰納法だと思います。

意識して、と思わざるを得ないのですが、外国文献と日本書紀との年代の比較を避けていらっしゃいます。黒岩さんの青年時代に流行ったと聞きます、デンスケ賭博同様の、まやかし手口と申し上げてもおかしくはないと思います。

同文庫本p179では、無理やり五王の興を安康天皇に比定しつつ、辻褄あわせなのでしょうか【日本書紀に記載あるが、実は安康天皇は即位しなかった】、と『日本書紀』の記事の改訂まで踏み込んでおられます。


同文庫本p38にも、【そもそも古代に現代のような国境意識があった、とは思えない、畿内政権が有っても、山陰は山陰で新羅と、九州は九州で南朝鮮と交易している】と正鵠を得たことをおっしゃっています。

何故それらが、近畿同様に「政権」でなかったのか、『唐書』に倭国の使者と日本の使者が長安の都でそれぞれの正当性を言い争った、という記事をご存知な筈ですのに、もう一歩踏み込めなかった黒岩さんを残念に思います。

九州には大和と別の政権があり、中国から認められていた、”倭の五王は筑紫の王朝の五王”という視点に立つことが出来ればよかったのになあ、と誠に残念です。いくら小説家だからと言って、安易に『日本書紀』を改変し、ご自分の想像を、あつかましく世の中に公表する、などの大逸れたことまでは、到らなくて済んだのではないでしょうか。

また、『隋書』倭国伝に有名な阿毎多利思北孤(男性)が、当時の倭王であり、日出ずる処の天子、日没する処の天子に云々、という国書を送ったという記事があることは、読者の多くの皆さんはご承知のことでしょう。

同文庫本p183によりますと、この倭王は聖徳太子で、当時の推古天皇(女性)は在位していず、太子が大王的実権を握っていて、中国の使者に会ったのだ、とこれまた『日本書紀』を書き換えた解釈を、黒岩さんはなさっています。こんなに簡単に、『日本書紀』を改変して、ご自分の考えを通そう、というのは、名が通った小説家黒岩重吾の驕りではないかなあ、と思われてなりません。

これらの、無理な帰納は、先述の、各地の大王の政権があり、九州地方の政権が、東アジア諸国とも交流していた、と中国の歴代王朝の史書を、正しく読まれたならば、無理なく帰納できたことだと思います。

結論的に言いますと、黒岩さんは、題材を古代史に求めるのであれば、1971年以降の(古田武彦さんの著作をはじめとする)、新しい潮に触れることが無かった(と思われる)、いわば、不勉強さが、『日本書紀』の記事の、無理な解釈や変更を呼び、私たちのようなど素人に俎上に上げられる結果になりました、ということでしょう。

流行作家として油の乗っている時期に時間も無く、年齢的にも、新しい外部の刺激に適応できる脳力の衰えというのか、感受性が磨り減っておられたのか、日本の青少年読者に、誤った日本の成り立ちを植えつける罪を犯されているかもしれない
なあ、と、己を省みず言わせていただきました。

欲を言いいますと、黒岩さんが取り上げられた、蘇我の馬子やヤマトタケル、それに聖徳太子。九州にも別の王朝ありという視点から、黒岩さんの、余人より優れた鋭い感覚で取り込むことができたら、彼ら、古代の主人公たちも、もっと雄大な古代世界を駆け巡り、素晴らしいロマンが描かれたのではないか、と残念です。 
      
                                         (この項終わり)
  

槍玉 その1  古代史の真相  追加批判 

槍玉その1を読むと、その著書の一部分のみを取り上げて批評しているようです。改めて各章について紹介すると共に、その問題点などを検討したいと思います。(朱書部分は黒岩さんの説、青書部分は多元史観の説です)


古代統一国家はいかにして形成されたか

黒岩さんは、前述のように、【『日本書紀』や『古事記』は嘘ばかりではない、百済の武寧王の陵墓の発掘により、墓誌が出てきて、『記・紀』の説話も正しいものがあると思うようになった。しかも、宋書の謎に包まれた倭の五王についても、埼玉県稲荷山出土の鉄剣銘および熊本県江田船山出土の鉄剣銘から、雄略天皇がこれらの銘文に記載されていることを知り、記紀の説話を見直すようになった】、と大略このように述べられます。

そして倭の五王の天皇家の系図との検討から、【倭王武は雄略天皇に間違いなし】、とされ、あとの四王をそれぞれの天皇名と比定されます。一応このあたりのことに詳しくない方々の為に、倭王武と雄略天皇の『宋書』および『日本書紀』の年代が記された記事をみてみましょう。

倭王武は、中国史書『宋書』(5世紀末編纂)では、462年に即位したとされます。次に記事は、宋朝に対し478年に上表、有名な上表文「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國云々」を出し、朝鮮半島の任那を含む六国諸軍事・安東大将軍の称号を要求しています。

その要求は認められ、479年に授号されます。その後、同様に宋朝から502年にも再授号をしています(梁書636年編纂)。つまり倭王武は即位以後、少なくとも40年間はその地位にあった、と中国史書は云っているのです。

一方、『日本書紀』によりますと、宋との国交記事は全くなく、456年に即位し、479年に歿し、在位期間23年、とあります。 亡なって23年後の502年に、朝鮮半島を含む権限を与えられる、ということが有り得るのでしょうか。雄略没後500年までには、清寧・顕宗・仁賢・武烈と4人の天皇が即位しているのです。武烈天皇に授号なら年代は合いますが、雄略天皇だと全く合わないのです。

この両者、「武」と「雄略」とを同一人物とみなすことは、常識的判断とはとてもいえないでしょう。別人とするのが理性的判断でしょう。


倭王武=雄略の図式を基本として黒岩説を延々とお話されます。この説の基本が間違っていたら、すべてあだ花のお話になります。この考証が充分になされているか、といえばそうは思えないのです。

『宋書』の記事をいろいろ取り上げていらっしゃいますが、肝心の先ほど述べた、『宋書』に記載の倭王武の活躍の時代と、『記・紀』に記載されている雄略天皇の活躍時期の時間軸が全く違うことには、それこそ全く触れられません。(『梁書』に武への征東将軍任命記事があるのは、雄略の死を知らずに中国側が授与したという藤間生大さんの説を引用されていますが。p128

『日本書紀』と中国の史書の記事との食い違いについて、黒岩さんは、【中国の史書の記事を、主に『日本書紀』の記事に当てはめて』考えられます。しかし、『日本書紀』の編纂者は、その編纂された時期からみて、中国の史書を参考にして『日本書紀』が編纂されたのは間違いありません。ところどころに出てくる、晋の起居注による、とか記載されていることからも分ります。つまり、『日本書紀』の記事から中国の史書の記事をおかしい、とかいうのは本末転倒と云えるでしょう。

そうしますと、中国の史書をみながら、何故『日本書紀』の編纂者は「倭の五王」や「日出る処の天子云々」の記事を載せなかったのでしょうか、という疑問が皆さんにも出てくると思います。これについて、古田武彦さんの説明を聞いてみればなるほど、と納得がいかれることと思います。その骨子を概略まとめてみますと、次のようになります。

【『宋書』には倭の五王の記事があります。その讃・珍・済・興・武の各倭王が【日本書紀』には出てきません。なぜなら、『宋書』は南朝系の歴史書だからなのです。北朝系の唐から見れば、宋国と名乗る偽天子が倭国の王をいわば偽都督に任命した記事なのです。ですから、北朝系の唐が編纂した『隋書』には、この記事は出てこないのです。

従って、『日本書紀』編纂の立場からいうと、唐の見方に添う形にすると、『宋書』の「倭の五王」などは、われら近畿王朝とは無関係の記事として、載せていないのです。同じく、『隋書』も当然知っています。『日本書紀』が一番参考にした歴史書です。なぜなら、唐の建国後すぐに編纂されたのが『隋書』で、唐の諸制度を見習った近畿政権はこれを手本としました。

この『隋書』の性格といいますと、隋を滅ぼした王朝唐にとって、隋の煬帝はダメな天子だった、だから隋の一部将が立ち上がって煬帝を倒さなければならなかった、という大義名分を立てるための歴史書なのです。

『隋書』に、煬帝は多利思比孤の国書「日出る処の天子云々」を読み怒ったとしていますが、その無礼な蛮族に何も厳しいことも出来なかった、と批判してもいるのです。だから、『日本書紀』編纂者は、あの「日出る処の天子云々」の記事の、筑紫の蛮族の天子とはわれわれは関係ない、として書いていないのです。

従って、近畿王朝の小野の妹子が持参した国書は「西の天皇恭んでもうす云々」というものであり、こちらは『日本書紀』に記され、この国書は、「日出る処の天子云々」とは全く別なものなのです】 
(詳しくは、古代に真実を求めて第9集に、日本書紀の編集者は「宋書」「隋書」などを知っていた。p39~41で述べられています。)

黒岩さんは、中国の文献などについても随分と勉強されていらっしゃいます。「尊卑文脈」新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)や「上宮聖徳法王帝説」なども引用されていたりされます。当然、大宝律令の基準とした唐書についても内容はよくご存知だったと思います。

その唐書に、倭国の使者と日本の使者が長安の都でそれぞれの正当性を言い争った、という記事があることもご存知な筈ですのに、折角各地に王権あり、とされながら、もう一歩踏み込めなかった黒岩さんを残念に思います。九州には大和と別の政権があり、中国の宋王朝からから認められていた、”倭の五王は筑紫の王朝の五王”という視点に立つことが出来ればよかったのになあ、と誠に残念です。


「倭王武=雄略」という基本のところでおかしい黒岩史観がどのような展開をするのか、みていきます。


葛城氏の興隆と衰亡 

黒岩さんはこの章で、【『記・紀』の内容は造作が多い】、と津田左右吉博士の論を受け入れていらっしゃる発言をされます。
【『記・紀』に造作が多い】といわれることについて、古田武彦さんは次のように疑問を呈されます。【『記・紀』に造作が多い」ということは、5,6割は史実だが4,5割は後世の造作、というイメージでしょうか。しかし、「倭の五王」と同時代の「仁徳~雄略」の説話を比べてみても全く共通部分がありません。「造作が多い」という表現は当てはまらないのではないでしょうか】と。(詳しくは『盗まれた神話』角川文庫版p36~37参照)

黒岩さんは、『記・紀』に系譜があるスイゼイ~8代が古墳を作らなかったことも、架空の証拠とされます。しかし、大和盆地の一隅に侵入し徐々に勢力を蓄えて行く、神武以後の時代に、大きな古墳を作る余裕もなかったのでしょう、墳ではなく、冢(塚)という規模であった、と思う方が自然だと思われます。

黒岩さんが、後代の造作とされる、スイゼイ~の8代の天皇について、そう簡単に創作された天皇と決め付けてよいのでしょうか。

伊東義彰さんという方が、古代に真実を求めて第6集「欠史八代は語る」で、概略次のような意見を述べられています。
神武東征後の大和盆地平定に8代かかった。2代~8代にかけて宮居・墳墓共に葛城地方であり、后の出自も磯城県主系列が多い。説話も当然あったであろうが、神武が「天の下しろしめす云々」と橿原で宣言したことにしたので、それらの大和盆地平定説話は矛盾することになる。10代の崇神で大和の外に出て行くことになって初めて、神武の「橿原宣言」を越え、説話も記述できるようになった】と。

黒岩さんは、【九州の勢力が徐々に東進し河内の勢力と結びついた】、とされます。(p81) 雄略天皇の時代だけでなく、それ以前の古代統一国家について、黒岩さんの持論は、【邪馬台国は九州にあり、4世紀後半九州の諸部族が東に移動した】、ということのようです。4世紀の倭国について中国の史書に記事が無いということで、いろいろ推論を述べる余地があるとお思いのようです。

この所謂「謎の4世紀」について、江上波夫さんの騎馬民族征服王朝説や、高木彬光、松本清張、安本美典などの諸氏も同様に、4世紀に大移動があった、という説のようです。この部分については、特に詳しく自説を述べられていませんし、別の槍玉で詳しく検討する機会もありますので、今回は割愛することにします。


謎の巨大豪族「物部氏」の正体

黒岩さんは、物部氏は大王家に匹敵する豪族で、九州を出自とし、大王家同様に東進した、とされます。神武東征以前に近畿地方に天下ったという伝説のニギハヤヒの命が物部氏の祖先であろうとされます。『記・紀』その他の資料から、「物部氏」をキーワードに拾い上げた断片史料から「物部氏」の正体を黒岩史観で綴られます。


藤ノ木古墳の被葬者は誰か

この古代史の真相が出版される前、1985~88年にかけて奈良斑鳩の藤ノ木古墳の発掘調査が行われました。金メッキの馬具副葬品などの出土もあり、当時この古墳の被葬者は誰か、と諸説が出ました。(結局は現在でも確かな説はありません) 物部氏と蘇我氏の対立に巻き込まれた犠牲者、穴穂部皇子・宅部皇子・泊瀬部大王の3人のうちの一人ではないか、という推定を述べられます。


古代史の巨大な謎

継体天皇以後については、『日本書紀』の記述は信用される】、とされます。しかし、それ以前の時代も、 倭王武=雄略とされ、【雄略の時代に関東から九州まで近畿王朝の勢力圏であった】、と述べられます。その証拠として、埼玉県稲荷山出土の鉄剣銘と同じく熊本県江田船山出土の鉄剣銘を上げられます。

しかしながらそのずーっと後の継体天皇の時にも、大和には20年間も入れないし、磐井の乱で示されるように九州も治めきれていない状態です。ここもまず、倭王武=雄略天皇という固定観念から解き放されない限り、時代像は見えてこないのではないかと当研究会には思われます。

『日本書紀』の継体天皇以後の記事はほぼ史実とされる黒岩さんも、継体天皇の死亡時の年齢について、『日本書紀』と『古事記』では全く違うことに頭を悩ませていらっしゃいます。日本書紀では82歳、古事記では42歳で死亡なのです。黒岩さんは、【82歳の老人に豪族達が従うはずは無い、古事記の42歳が正しい、と感じる】、とされます。

『記・紀』に見られる、古代の人たちの超長寿ともいえる年齢について、「古代の日本は2倍年暦であった」(『魏志』倭人伝に倭人は年紀を知らず、春耕秋収を計って年紀とする、とあることから、安本美典氏および古田武彦さんがそれぞれ立論されています)ということについて、ご存知なかった様に見えるのは残念です。当研究会は、『古事記』は『日本書紀』に比し早めに古代暦から脱却した年齢を取り入れたと思います。


古代出雲の実像に迫る

今回は、最初の時には気付かなかったところが、気になったりします。例えば、【四隅が突出してヒトデみたいな形をしている四隅突出型方墳、これはかってヘリで俯瞰して見たけど実に不気味で、ああいう古墳の築造者はやはり朝鮮半島からの渡来系でしょう】(同書p33)と書かれています。古墳といえば前方後円墳の近畿タイプのみが日本的古墳といわんばかりです。黒岩さんの「渡来系」に対する差別的な書き様が気になりました。

四隅突出型方墳と共に、巨木文化についても語っていらっしゃいます。【出雲大社に代表される巨木文化は、中国大陸文化の影響を受けた】、と語られます。縄文時代の巨木文化は今では常識なのにと思って調べてみました。

この本の出版は1992年で、青森の三内丸山の巨大な栗の柱の出土は1996年です。しかし、富山県の巨木遺跡はそれ以前から発掘されています。富山の桜町遺跡の同じく栗の巨大柱遺跡の発掘は、1980年代から行われています。これらの遺跡はBC2000年以上前とされます。安易に「
文化の流れは中国から」というのは如何なものかなあ、と思われます。


聖徳太子の謎

黒岩さんは、『宋書』の倭の五王の系譜と近畿王朝の系譜が合わないのでさまざま『日本書紀』の改変を試みています。【太子はさまざまなエピソードで神秘化されているが全て創作の所産】とか、【持統天皇は崇峻天皇が殺された後直ちに大王位につかなかった、空位であった】。又、【倭の五王の内、安康天皇も皇太子のまま終わって天皇にならなかった、世子興と『宋書』にある】などです。

聖徳太子は対隋外交の主人公であったことは間違いなく、又、聖徳太子の事跡は、湯の岡碑文に残っている(釈日本紀)】ともいわれます。(伊予湯岡碑文とは 碑の現物は亡失し、文面のみ『釈日本紀』巻14所引の『伊予風土記』逸文に残っています。 ... 「法興610月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。」)しかし、「法興6年」という不思議な年号に注意されないし、「法王大王」という称号にも注意を払われていません。

黒岩重吾さんは、古代史の真相の中で、【隋書俀(たい)国伝の「俀王多利思北孤」を聖徳太子に比定し、推古天皇は即位していなかった、この時の倭王は厩戸王子だ】、とされます。しかし、斑鳩宮で4人の后と共に暮らしたと記録があることについて、【当時は通い婚が常識だった時代でこれは異様な生活形態だ】(p189)と仰います。

しかし、『隋書』には「俀王多利思北孤は、キミという名の妻と後宮に6~700人女性がかしずいていた」、とされることの矛盾については全く無視されます。ご自分の想定される聖徳太子像に外れ、説明不可能なことは、史書に書かれていることも無視される態度に見えるのは残念です。


藤原政権を作り上げた男

黒岩重吾さんは、「古代史の真相」で、藤原政権を作り上げた男藤原鎌足について一章を設けていらっしゃいます。ところが、鎌足の出自は常陸鹿島とされるが、なぜ異常な出世が出来たのか? 天武天皇から下賜された采女の「安見児を得たり」の異常な喜びの和歌の意味は?長男の真人を僧侶にしたのはなぜか? 正妻鏡王女とは、父の鏡王とは?これらの少し歴史を勉強した人が疑問に思う謎について黒岩さんは全く答えてくれていません。

次男の不比等が安見児の生んだ子であれば(天武のお手つきなので)、持統天皇とは異母姉弟になる、ということと、不比等の描いた青写真が摂関政治につながる藤原氏隆盛の基になった、と、結果から見ての推論を述べるに留まっています。まあ、文庫本ですから紙数に制約があるのかもしれませんが、黒岩さんの謎ときを聞きたかったと思います。

このあたりについて新庄智恵子さんの『謡曲の中の九州王朝』に【藤原氏の出自「鏡王女と藤原鎌足」】という一文があります。これに鎌足の出自として、鎌足の曾孫藤原仲麻呂の『大織冠伝』に、大倭国高市藤原の第に生まれる、としてあるそうです。これはウイキペディア百科でもほぼ同様です。ほぼと云いますのは「大倭」が「大和」と変えられているからです。大倭国=倭国であれば、話は全く変ってきます。

大倭」は「大なる倭国」という意味で、中国から「委奴国」(いのこく)とよばれた倭国がおのれの美称として「大倭」国と名乗り、それが気に喰わなかった唐朝は、同じ読みで「弱い国」という意味の「俀(たい)国」と名付けた、という古田武彦さんが唱えた 説は説得力があります。

では、高市藤原という地名は奈良ではないか、と一般に思われるようですが、実は『万葉集』489の注に「高市崗本宮、後崗本宮」という記事があることから、この特殊の「崗本」の地、須玖崗本遺跡の元福岡県春日市の崗本ではないかとされます。又、異説として「大鏡」に鎌足の出自は『藤原家伝』と異なり「鹿島」としてあることから、黒岩さんも常陸鹿島ではないか、とされるのですが、佐賀県の肥前鹿島の可能性もある、と新庄さんは指摘されます。

古代の地名を簡単に比定することにはいろいろ問題があることを知らされます。

藤原の鎌足が活躍した時期は「白村江の敗戦」~「唐の郭務宗2000人の数度の筑紫入国」~「壬申の乱」と重なります。このように動く時代を、所謂ヤマト王権の立場からだけ見たのでは、謎も解けないことでしょう。

これについて、謎解きの一仮説を当研究会の道草その12に眞説「鎌足と鏡王女」の一文を載せました。それは次のような黒岩さんと同様に推理小説的な謎解きのお話です。

鏡王は筑紫王朝の係累の王で、その王女は、筑紫の大王の寵妃であり、白村江の敗戦の結果、天武の後宮に入ることになった。ところが、この鏡王女は既に、筑紫王朝の胤を宿していた。それを知って天武は鎌足に払い下げた。元、筑紫王朝の官吏であった鎌足は、大恩ある筑紫大王の胤を宿している鏡王女、かってそれとなく恋していた鏡王女を自分が庇護できる立場になったことを喜んだ。しかし、生まれた子は世に出せぬ子であり、僧侶にする、という話です。


結論

古代の多元的な王国の存在を認めながらも、外国史料の記事の解釈を、『日本書紀』の記事から逃れることが出来なかった、黒岩重吾さんの小説家としての限界が見られる本でした。

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