槍玉その10 『朝鮮』 金達寿 著 岩波新書 1958年9月刊 批評文責 棟上寅七
この金達寿さんを槍玉にあげる、という理由をまず説明をしなければなないでしょう。
今まで、日本の古代の動きを見てきました。避けて通れないのが、隣国朝鮮半島の歴史との関係です。
この金達寿(キム・タルス)さん(1919~1997)は、戦前10歳の時に朝鮮半島から内地に渡り、長じて、1940年”位置””後裔の街””玄海灘””太白山脈”などの在日朝鮮人を主人公とした骨太の作品を発表され、在日コリアンの小説家の先鞭をつけた方です。
近年の、梁石日・つかこうへい・玄月・金城一紀・柳美里の在日コリアン小説家の輩出の土壌になった方と言えるでしょう。
司馬遼太郎さんとの親交も有名です。司馬遼太郎さんの”街道を行く”シリーズの”壱岐・対馬の道”で、取材旅行に同行された話や、出会いの頃の昔話や、いくつものエピソードが語られています。
そこで浮かび上がってくる金達寿さんのイメージは、一言で言い表すとすれば”思慮ある直情径行の人”、付け加えれば、”友達になりたい人”であろうか、と思いました。
その、日本と朝鮮半島とのハザマで育った方の歴史認識を見てみたい、と思います。
この”朝鮮”岩波新書1958年刊 の内、古代史部分の記述は僅かです。
この新書版の1冊のなかに、民族・歴史・文化・現状とギッシリ押し込められています。古代の歴史も20ページに纏められていますので、止むを得ないことかも知れませんが、”何か抜けてるなあ”という感じがするのです。
それが何かなあ、と読み返して気付いたのは、私達日本人が疑問に思っていることが抜けている、ということでした。
このことを確認するために、井上秀雄さんの ”古代朝鮮” 講談社学術文庫2004年刊、という本を平行して読みながら、時代を追って行ってみました。
この岩波新書の”朝鮮”という本は、朝鮮・韓国の人を読者として想定して書いたとは思えません。金達寿さんの立場で、朝鮮・韓国とはこんな国ですよ、と日本人および在日コリアンの方たちの為に書かれた本ですから、日本語で書かれ日本で出版されたのだ、と思います。
最近の、”歴史認識問題”で日韓関係がギクシャクしています。これは、近代史における”歴史認識”ですが、古代史におきましても”歴史認識問題”が存在するようです。
この古代史の歴史認識問題が、この”朝鮮”に「何が書かれていないか」を見ることによって、判るのではないかと思い至りました。
古代史に関することで、この”朝鮮”に書かれていないことは、大きく云って次の三つの事柄です。
①魏志東夷伝に出てくる朝鮮半島の国々については書いてありますが、倭人の項に出てくる朝鮮半島南端部の”狗耶韓国”については全く書いてありません。勿論「宋書」に出てくる”任那”についても全く書かれていません。
②白村江の百済+倭国連合 対 新羅+唐連合軍 の戦い が書かれていません。
③姓氏と族譜 本貫 が、うるさい韓国と知っていますが、いつ始まったのか書いていません。
これは近代史の事ですが、1950年の朝鮮戦争についてどちらが仕掛けた、ということについても書かれていません。
このことについて判断は示さず、南からではないかという暗示的なところで止めているのは、当時の進歩的文化人、金達寿さんの意見としては、むしろ異端に取られたことでしょう。あの松本清張さんにしても”日本の黒い霧”で、南先攻論をとっていた状況の中、での金達寿さんの判断だったのですから。
その金達寿さんが、古代における朝鮮と日本とのかかわりについては、意識的にだろうと思われますが、無視していることは残念です。対象読者が日本人および在日コリアン2~3世であることを考えると、金さんなりの判断を示されてもしかるべきであったのではないか、と思います。
①狗耶韓国および任那問題
金達寿さんが狗耶韓国に触れていないのは、これがいわゆる日本書紀に書かれている”任那日本府問題”に発展する問題性を孕んでいるからかと思われます。
いわゆる皇国史観では、日本書紀に”任那日本府”という記事があることを金科玉条にし、古代から日本が朝鮮に領土を持っていた証拠とし、日韓併合の根拠の一つとしてきました。また、扶桑社の、所謂 ”新しい歴史教科書” も、この轍を踏みかかっているように思われます。
いずれ、”新しい歴史教科書”は当研究会の槍玉に上げる予定ですので、今回は、任那日本府自体には言及しないつもりです。
今、この朝鮮古代史について、その国の方々はどう思っておられるのか、ちょっとネットサーフをやってみました。
その中で、典型的と思われました、朝鮮総連の機関紙的なサイト”朝鮮新報”の記事がありました。
日本の古代史史家のどなたも論及されていない「漢四郡遼東半島説」が韓国では定説になっていることを興味深く読みました。
当研究会は、神武天皇実在論を是認したり、任那問題を取り上げることによって、当研究会が、所謂”右寄り”と思われるかも知れません。
最初に述べていますように、日本の古代を外国史資料に基づいて見てみたい、ということから”任那”も日本との関係はどうであったか、と見ていかざるを得ないのです。
まず、朝鮮半島の南端部の古代の社会状況を見てみたいと思います。
古代朝鮮の各種族として、金達寿さんが示している左図と、井上秀雄さんが”古代朝鮮”の中で、魏志に基づいて、右図に各国々の位置を示されています。
この二つの地図は、時代が違いますし、一方は”種族”、もう一方は”国” で直接の比較は出来ません。
しかし、全体的には、よく似ています。違うのは、井上秀雄さんの図には、朝鮮半島南端に”倭”とあることです。
金達寿さんは、その南端部分の”駕洛国”は魏志で書かれている弁韓で後年新羅によって滅亡された、と書いてあります。
井上秀雄さんが、南端部に”倭”があったとされるのは、魏志倭人伝の記事によってであろうと思います。
まず、魏志の東夷伝の内の韓の条にはこのようにあります。
『韓は帯方の南にあり。東西海を以って限りを為し、南、倭と接す。』
同じく、弁韓の説明で、『弁辰の瀆盧国、倭と界を接す』とあります。
海に面しているのは、東西だけ。南端部は倭の勢力下にあった、ということになります。
又、魏志の東夷伝の倭人の条にはこの部分が、邪馬壱国への道程の中に出てきます。
『郡(帯方)より倭に至るに、海岸に循いて水行し、韓国を歴るに、乍ち南し、乍ち東し、其の北岸 狗邪韓国に到る 七千余里。 始めて一海を度る、千余里、対海国に至る。・・・・・』
”其の北岸”は文を素直に読めば、”倭の北岸”です。これらのことから、井上秀雄さんの地図には半島南岸部を倭としてあります。
この南岸部分は、この3世紀の魏書から次の5世紀の宋書でも出てきます。それは、任那という国の名前です。
日本書紀には、いやというほどこの任那が出てきますが、これは一応無視して、中国史書を見ていきましょう。
宋書倭国伝には次のような記事があります。
●太祖の元嘉2年 (珍)使を遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国軍事・安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。
●太祖の元嘉28年 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国軍事を加え、安東将軍は故の如く、並びにたてまつるところの二十三人を軍郡に除す。
●世祖の大明6年項 ・・・興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国軍事・安東大将軍・倭国王と称す。
●順帝の昇明2年 ・・・詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国軍事を加え、安東大将軍倭王に除す。
この宋書は、斉の武帝永明6年(488)に勅命に基づいて完成した、と著者沈約が巻末で述べています。南朝劉宋が479年に滅びて10年経たずして完成している同時代史書なのです。
この宋書の記事を信用しない、ということであれば、その理由を述べてしかるべきでしょう。
ただ、この”任那”という国の来歴は中国の史書に詳しくは述べられていません。
しかし、高句麗の好大王碑文に”任那”の国名が記されていたり、660年に成立した”翰苑”の新羅の条に”任那”が見え、新羅に滅ぼされた、と記されています。
3世紀に中国から、狗邪韓国 と名づけられた地域が、後年 任那、加羅などに分かれたと理解してもよいのではないかと思われます。
これらの中国の史書から見ると、倭国は朝鮮半島南部に3~5世紀に勢力を張っていた、とみるのが常識的な帰結と思います。
朝鮮半島の人々は、一方では中国の王朝の圧迫を常に受け、南から、好戦的な”倭国”からの侵略を受け続けて来たのです。
そして、674年の統一新羅誕生により、倭の圧力を跳ね返し、倭を海の外に追い出した、というのが、中国の史書から見て常識的な、古代朝鮮の姿ではないでしょうか。
②白村江の戦について
662~3年この戦について触れられていないのは、全体の歴史上の事件として大した事件でない、と判断されて記載されなかったのかも知れません。
結果として統一新羅が出来上がることになる事件です。
百済が倭と組んで、新羅が唐の応援を求めて、半島の覇権を争ったのです。結果は、唐の水軍力が物を言ったのか、新羅連合が勝利したのです。統一新羅が出来上がるのに、「中国」の力を借りた、というのが韓国の人たちの民族自尊心に影を落としているのではないか、と下司の勘繰りをしてしまいます。
新羅の人たちが、唐を利用するだけ利用して、後は、うまく唐の影響力を排除して行った新羅の外交力は素晴らしい、と思うのですが。この新羅の立場から日本書紀の諸記事を読むと、そのしたたかさが浮かび上がって来ます。
このことにこれ以上突っ込むことは、小説家のする仕事でしょうから、これで止めておきたいと思います。
倭国滅亡の直接原因になったと思われます、白村江の戦のことについては、別に槍玉に上がる本が出てくる、と思いますので、その場合、改めて論じたいと思います。
③の姓氏 族譜のこと
韓国の方が、本貫にこだわるのは何故か、私には理解できず、金達寿さんの本で何か分かるか、と期待したのです。金達寿さんは、韓国民は、族譜・本貫を大切にする、256かの姓に分かれている、書かれています。(族譜・本貫の説明については、Wikipedia百科事典を引いてみてください)
昔の韓国人の姓名はどうであったか、残念ながら魏志東夷伝韓の条には、韓人の名前は出てきません。倭人の条には、卑弥呼だとか壱与とか沢山出てくるのですが。
しかし、私達が目にする、百済関係資料を引いた『日本書紀』には、音標文字的に漢字を使った三韓の国の人たちの名前が沢山出てきます。暇に任せて調べてみ ましたら、日本書紀で295の名前がありました。
韓国では、いつどのようにして一字姓になったのか、地域的なことから姓が決まったのか、賜姓という言葉が、韓国にあるようですから、日本みたいにお上が姓を授けた場合もあったようですが。それらが分かれば、韓国の人たちの本貫を大切にする気持ちが理解できるのではないか、と思ったのですが。
地理的に、中国歴代王朝と接触の多かったと思われる高句麗(日本書紀では高麗とある)が、一字姓を取り入れるのが早いかと予想したのですが、間違っていました。
新羅が一番早く、一字姓、それも圧倒的に「金」姓で、まれに「朴」でした。時期的には、唐と連合して、新羅を攻略した時代に一字姓への転換があったように見えます。
百済は、王の姓は”余”でしたが(先祖の種族名 扶余 から来ているという説があります)、その他の人の一字姓は見られないようです。鬼室とか甲背 とか姓ではないかと思われる、それも二文字の姓が稀に見受けられますが、例外のようです。又、百済の人の名の中には、ミドリ、サル、キミ、カスミなど我々が親近感を感じる名前がいくつか見受けられます。
済州島(古代名 耽羅)も、百済と同じく、姓は見られないようです。
百済は結局、新羅に滅ぼされました。国は滅びても何十万人の人は生き残ったと思います。その生き残り百済人は、その後、一字姓を貰えたのだろうか、この人たちの本貫はどうなっているのだろうか、全員が中国遼東方面や、対馬・九州などに逃げ出せたとは思えないのですが、金達寿さんは、全く触れていらっしゃいません。
金達寿さんは、自分は、駕洛国金海の金だ、とおっしゃり、江上波夫の騎馬民族征服王朝論で言うと、わが祖先が、ヤマト王朝と縁続きになるのだが、と冗談話も載せていらっしゃいます。
常識的な判断としては、中国との交流の中で、統一新羅で何らかの理由で一字姓の制度が出来た、としか今のところ云えないのでしょう。もう少し詳しく事情が分かればなあと思います。残念ながら、本貫を大事にすることを理解するには至れませんでした。
歴史認識とまで大げさなことではありませんが、韓国の人たちが”本貫”を大切にする気持ちを理解できなかった棟上寅七です。同じように、神社の前に行けば、何となく荘厳な感じを受け、お賽銭をあげてお参りをする棟上寅七の気持ちを、韓国の方々は理解していただけるのでしょうか。歴史認識を共有することは難しいことだなあ、と思いました。
結び
金達寿さんの”朝鮮”を通して、古代朝鮮と日本とのかかわりを見たいと思いました。
しかし、今回のは、『書評』と云えるのかちょっと問題かも知れません。今までの槍玉に上げた各書籍と異なり、今回は、”書かれていないのは何故か”ということでの検討となったからです。
当研究会のよい教材に、反面教師の意味も含めて、なったことを、鬼籍に入られた金達寿さんにお礼を申し上げ、将来、統一コリアが、平和裡に一日も早く出来ることを祈念しまして、結びとします。
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