槍玉その68 かくも明快な魏志倭人伝 木佐敬久 冨山房 2016年刊
(本論考は「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」 2021.5.06 からの転載です。)
今回は「邪馬壹国探索の旅」をお休みにして、倭人伝の行路について、木佐敬久さんの『かくも明快な魏志倭人伝』批評にページを割きます。ひさしぶりの「古代史本批評」となりました。
『三国志』倭人伝を読み直していて、魏国から派遣された「塞曹掾史張政」が、その在倭地は20年に及び、この倭人伝は一種の軍事報告書である、という説を述べられた木佐さんの事を思い出しました。
あの方はその後どうされているかとネットで検索してみましたら、ご健在で『かくも明快な魏志倭人伝』という本を冨山房から2016年に出されていました。福岡市総合図書館の蔵書には見えず、福岡県立図書館を調べたら蔵書にあり早速読んでみました。
私にとっての読後感は「かくも不明快な倭人伝解釈」でした。乍南乍東は一回きりの方向変換の意味で、魏の大型船で直行した、とされます。多島海域であるから、沿岸でなくかなり沖を航海した、と言われます。では、なぜ、狗邪韓国に寄ったのか、の説明が必要でしょう。
また、狗邪韓国から対海国へ行くのに「始めて一海を渡る」と陳寿は表現したのでしょうか。7千里も沿岸から外れて航海してきたのに、この「はじめて海を渡る」という表現はありえないでしょう。
それに、「韓国を歴るに」についての古田師の説明は無視しています。木佐さんは、最後にできれば将来大型帆船で実験航海をやってみたい、などと結んでいます。
近代の大型客船でもこの半島西岸の多島海でセウオル号のような沈没事故を起こすのです。その海域を夜間停泊をせずに、どのようにしたら航海可能か、せめて船舶の専門家に聞く、などの努力が必要でしょう。
もう十年以上前ですが、木佐さんと同じ半島西海岸を南下したという説の生野真好さんと論争したことがあります。本にされて出版されたのでその内容を批評してホームぺージに上げました。骨子は、「魏使は大型船で朝鮮半島西海岸を南下した。果たしてそう言えるのでしょうか?」ということです。
生野真好氏は次のように書きます。【当時の魏の海船のことはよくわからないが、呉には600~700人乗りの四帆の大型帆船があったことが、呉の万震撰『南州異物志』にある。また、『三国志』「呉志江表伝」に孫権が「長安」と号した3000人乗りの大船を、とある。ただし、これはすぐに沈没した。
また、呉の謝宏は、高句麗に使者として派遣されたが、その答礼品として馬数百匹を贈られた。しかし、「船小にして、馬80匹を載せて還る」とある。何艘で行ったかはわからないが、1艘とするなら馬が80頭も乗るのであるから相当大きな船であったことになる。しかもそれすら「小さな船」と言っているのは興味深い。
それに、史記によれば漢の武帝が楼船を造ったとあるが、「高さ10丈、旗幟をその上に加え、甚だ壮なり」とある。三国時代の約300年前に、すでにこれだけの造船技術を中国は持っていたのである。
その武帝は、朝鮮征伐の際、5万もの兵を船で朝鮮半島に送りこんでいる。「楼船将軍楊僕を遣わし、斉より渤海に浮かぶ。兵5万。」 この時には山東半島から渤海を横断して朝鮮半島西海岸に着岸している。この海上ルートは、前漢時代には開かれていたことになるし、魏の明帝も楽浪・帯方を奪回した時は「密かに船を渤海に浮かべた」とある。
以上のことを参考にするなら、魏使一行の乗った船は相当大きな船であったと思えるし、黄河河口域から博多湾まで10日で来ることができた可能性もある。現在の帆船であれば、一日の航行距離は、150~200km以上は可能である。黄河河口域から博多湾までは、約1800~2000km程度であるから、数字上は10日程での航行は可能ということになる。こと帆船に限るなら、3世紀と現在とでそれほど大きな差があったとも思えない。】
この計算はおかしいでしょう。「現在の帆船なら1日の航行距離は150~200kmは可能」という想定を3世紀の船にそのままあてはめるのは常識外れでしょう。現在の大型帆船は昼夜間航海も平気です。船にはレーダー、沿岸には灯台、海図・気象予報などの近代設備があってはじめて達成できるのです。もっと後代の遣唐使船でも、その成功率は50%とされ、常に複数の船で出でかけています。
この「魏の官船」にからむ記述は、孫栄健氏の『邪馬台国の全解決』の「魏時代の大船」の項をそっくりひき写していると思われますが、ご自分で文献に直接当ったかのような書き振りです。マナーとして如何なものでしょうか。
古代船について、ネットで調べてみましたら、日本の和船研究第一人者とされていた石井謙治氏による「角川春彦氏の野性号プロジェクト」における設計データは次のようなものだった、と報告されていました。
【全長35m、幅3m、排水量30トン、漕手50人、速度3.5ノット(6.5km)の船は三世紀次代にも容易に造れたと思う、としながらも、埴輪などから実験船としては、全長16.5m、幅2m、排水量13トン、漕手14人、速度2ノット(3.7km)を採用した。】
韓国西岸7000里(約550km)を沿岸航行をした場合、一日10時間航行したとして、理論上は65km/日であり、9日間で韓国西海岸を完走できることになります。実験船では37km/日ですので、15日かかる計算となります。(実験船はインチョンから西岸南端のカルドウポまで14日かかっています。その内一夜だけ夜間走行をしています。)ほぼ設計通りの性能は発揮できた、と言えるでしょう。
この結果から言えることは、魏使が大型の近代的帆船同様の性能で、夜の航行も可能な船でやってきた、ということの立証が必要になると思います。
生野氏の引用する、三国時代の船についての記事は、主として「呉志」に基づいた引用となっています。そして「南船北馬というけれど、魏も呉と同様な船を作れたはず」、と生野真好氏は主張されます。海に不慣れな魏使一行が貴重な贈り物を持って船に何日ものるか、韓半島には虎が生息していたのですが、それを防ぐ軍勢と共に山道を取るか、答えは見えているのではないでしょうか。当然陸路でしょう。
木佐さんは、伊都国を小城市あたりにします。しかし倭人伝には、「そこには中国の刺史のような権限を持つ一大率が常駐している。そして、帯方郡の使者がくる」と、「皆臨津捜露伝送文書云々」とあります。「臨津」というように、そこは「外洋とつながっている港」と書かれていることを木佐氏は無視されています。外国からの船舶の荷を検査する、ということがなぜ小城市あたりでやらなければならないのか、すこしも「明快」とはいえない倭人伝解釈です。
根本的には古田師がよく言っていらしたように、いろいろ我が郷土こそ邪馬台国と主張されるが、考古学的出土品のことについて抜けていてはダメ、と指摘されています。この木佐説も同じです。同じ時期にすぐ近くに「須玖岡本遺跡」など弥生銀座と称される地域がなぜ倭人伝に記載されていないのか、という謎が木佐説では説明できていません。できないからの無言でしょうけれど。
折角の大作ですが、俳句の夏井先生が古代史の先生だったら、この作品は「シュレッダー」でしょう。 以上