槍玉その57 『弥生時代の歴史』 藤尾慎一郎 講談社現代新書 2015年8月刊 批評文責 棟上寅七
この本を槍玉に上げる理由について。
この本を初めて眼を通した時には、AMS炭素14年代が明らかにした弥生時代像、という惹句にたがわない内容であろうという期待と、国立歴史民族博物館の副館長という現職の方が著した本だから、と参考書のつもりで読んでいきました。
弥生時代が日本列島各地でもその発達段階は一様でない、等と言うのはもっともな話ですし、ずんずん読み進めました。
放射性炭素14法という年代測定技術についても詳しい説明があり、モノから判断される部分については問題はあまり気付きませんでしたが、3世紀あたりから、文献との照合がされるようになったあたりから、いわゆる定説、卑弥呼の都は纏向遺跡、に引っ張られて、いびつな『弥生時代の歴史』になっていっているように思われました。
最たるものは、近畿地方で弥生期に「鉄」の出土が少ない事と、政治的優位性の問題に対するこじつけ的な解説です。
かいつまんで藤尾さんの説を紹介すると、鉄の出土が近畿地方に少ないことは認める、だが、経済的な優位性にまさる宗教的優位性によって近畿が北部九州を圧倒した、という説です。
今回の批評は、その点について著者の説明を紹介しながら,(寅七注:・・・・)と意見を述べ、藤尾先生説の妥当性を検討したいと思います。
著者について
この『弥生時代の歴史』の表紙裏の著者略歴紹介に次のようにあります。
藤尾慎一郎:1959年福岡県生まれ。広島大学文学部史学科卒。九州大学博士課程単位取得。現在、国立歴史民族博物館副館長・総合研究大学院大学教授。専門は日本考古学。著書に『縄文論争』、『弥生変革期の考古学』、『〈新〉弥生時代 500年早かった水田耕作〉がある。AMS炭素14年代測定に基づいて弥生時代の開始を500年さかのぼらせて大きな話題となった国立歴史民俗博物館の研究において、主導的な役割をになった。
この本の概略(目次)の紹介
はじめに
①弥生時代とはどんな時代か
本格的な水田耕作が九州北部で始まった紀元前10世紀から、定型化された前方後円墳が近畿で作られる古墳時代が始まる3世紀の、1200年を取り扱った初めての概説書である。
②これまで水田耕作は、紀元前5世紀ごろから始まっていたと考えられていたが、歴博の炭素14年代測定の結果それまでの常識が覆された、
炭素14年代測定についての説明・弥生時代開始年代が紀元前10世紀となった測定結果・その紀元前10世紀説に対しての批判とそれに対する反論
③弥生時代の縄文文化
弥生時代には弥生文化のほか、続縄文文化・貝塚文化など複数の文化が存在した。弥生文化を、水田耕作を生活全般の中心においた文化、と仮定して話を進める。
④本書の構成
弥生時代を5段階に区分。弥生早期前半、早期後半~前期後半、前期末~中期前半、中期後半~中期末、後期。それぞれを章別に記述していく。
⑤縄文人と弥生人、ニューカマーと在来人、倭人
本書では、鉄を求めて朝鮮半島南部に渡るようになってからあとの人々を呼ぶときに、歴史用語としての倭人を用いている。
⑥弥生時代の環境
土器型式ごとの太陽活動を表に示している。
プロローグ
弥生前史 弥生開始前夜の状況
第一章 弥生早期前半(BC10世紀後半~BC9世紀中頃)水田耕作の始まり
水田稲作開始期の人々のくらし~最古の水田~最古の弥生土器~年代~利器は石器だけ
第二章 弥生早期後半~前期後半(BC9世紀後半~BC5世紀) 農耕社会の成立と水田耕作の拡散
農耕社会の成立~水田稲作の拡散~在来民と外来民(大阪平野における例)~畑作地帯の人々
第三章 弥生前期末~中期前半(BC4世紀~BC3世紀) 金属器の登場
水田耕作の拡大(東北北部砂沢遺跡の例)~水田耕作を採用しなかった人々(続縄文文化と貝塚後期文化)
第四章 弥生中期後半~中期末(BC2世紀~BC1世紀) 文明との接触とクニの成立
文明との接触(鉄を求めた倭人)~クニの成立(原の辻遺跡・三雲遺跡)~もっとも遅く始まった水田耕作(関東南部)~クニが見えない世界(仙台平野)~水田耕作をやめた人々(青森垂柳遺跡)
第五章 弥生後期(1世紀~3世紀) 古墳時代への道
奴国の中心(比恵・那珂遺跡)~平和な農村の象徴(登呂遺跡)~大人層の出現(吉野ケ里遺跡)~鉄器製作の本格化(山陰・中国山地の鍛冶工房)~見えざる鉄器と倭国乱~前方後円墳にとりつかれた人びと
エピローグ
弥生文化の仮定義・縄文文化の上に成り立つ水田稲作文化・遼寧式青銅文化という文明化(第一期)・初期鉄器時代という文明化(第二期)・秦漢世界と言う文明化(第三期)・一体化する倭の範囲・利根川以北の水田稲作文化・古代化に踏み出した「中の文化」
以下著書の内容をかいつまんで紹介し、気になったところを(寅七注:)として記すことにする。
プロローグ 弥生前史
弥生前史で述べられていることで注意を引くのは、これまでは水田耕作がBC4世紀ごろとされていたころは、中国の戦国時代の難民という見方だったが、それが崩れた。新しい天地を求めた人たちの故郷は、洛東江下流域の人たちであった。
玄界灘沿岸の小平野ごとの支石墓の棺の形式が異なるのは、故地が異なるという意見もある。
第一章 弥生早期前半(BC10世紀後半~BC9世紀中頃) 水田耕作の始まり
狩猟・漁労とともに、在来民のなかには、米以外の穀物を栽培していた園耕民(ホルティカルチャー)が居た。縄文後期・晩期の西日本は殆ど園耕民であった。
園耕民は平野の中・上流で暮らしていた。水田耕作民が下流地域に定住するまで下流域は、園耕民には魅力ない地帯だった。
この住み分けは水田耕作開始期に良く見られる一般的な現象である。
水田を拓く作業がいかに大変な技術と労力が必要かを説明する。
土器は縄文土器の特徴を持つ。水田耕作を始めた人々は縄文土器と朝鮮半島から伝わった穀物を貯蔵する壺という系譜の異なる土器を組み合わせて生活していた。
水田耕作が伝わって100年に亘っての状況を述べたが、これは北部九州の極めて限られた地域であり、日本列島の99%はまだ縄文文化の世界である。
水田耕作という弥生文化の重要要素が途切れなく続く、という意味から、「弥生早期」という時代区分を設定した。
第二章 弥生早期後半~前期後半(BC9世紀後半~BC5世紀) 農耕社会の成立と水田耕作の拡散
環壕集落の出現、有力者の登場、戦いの始まり。 この時期の副葬品は、石製武器と小壺という朝鮮半島南部の組み合わせと同じ。
水田耕作の拡散は緩慢で玄界灘沿岸から250年ほど留まっていた。BC8世紀末から、九州東部・中部、香川県以西の瀬戸内でも始まる。山陰側はBC7世紀前葉に鳥取平野、近畿にはBC7世紀に兵庫県、BC6世紀には奈良盆地、BC6世紀中には伊勢湾沿岸に到達する。
BC4世紀代には弘前、仙台、いわき市あたりまで北上した。
第三章 弥生前期末~中期前半(BC4世紀~BC3世紀) 金属器の登場
BC4世紀の本州・四国・九州で起こった大きな出来事。青森での水田耕作、鉄や青銅という金属器の登場。鏡や武器などの青銅製品を副葬品に持つ特別な人々が、九州北部に現れることである。
青森に水田耕作が伝わるが、富山や新潟には水田耕作の確実な証拠は見つかっていない。東北では縄文の祭り道具が用いられているし、青森の水田稲作が園耕段階にあったとも考えられる。
青銅器はBC8世紀末に九州北部に現れる。(今川遺跡)
BC4世紀中頃(中期初頭)になると、朝鮮半島製の青銅鏡や武器が、有力者の墓の副葬品として見られるようになる。(吉武高木遺跡)
国産青銅器工房は、熊本の八ノ坪遺跡で見つかっている。BC3世紀前葉(AMS炭素14法)である。この工人集団は、佐賀県平野西部、福岡県小郡市など、九州北部の数カ所で弥生独自の青銅器が鋳造されていた。
鉄器の出現と機能
最古の鉄器は、BC5Cごろの中国の燕で製造された鋳造斧(愛媛県大久保遺跡出土)。その斧の破片を砥石で研いで小型のノミなどに加工して使用した。
燕で作られた鉄斧の伝播ルートには、半島経由と直接の二つの説がある。朝鮮半島南部より日本の方が早く出現しているし、製作技法も異なるので直接伝播説も根強い。
図ー14鋳造鉄斧と再利用した破片加工品の分布 前期末葉から後期前葉と後期中葉から終末期
(寅七注:この図でみられるように、弥生の終末期になっても鋳造鉄器加工片が殆どみえない近畿地方がなぜ卑弥呼の都の所在地たりえるのか、大きな疑問である。)
BC3世紀になると、鍛造鉄器が出現する。もっとも古いのは吉野ケ里で見つかった鎌状の鉄器である。
この、BC3世紀あたりから、朝鮮半島南部に弥生式土器が見つかるようになる。弥生土器が見つかった朝鮮南部の遺跡数は30以上。
この現象は、弥生人自らか、弥生人となんらかの関わりのある人物が、釜山あたりの鉄器製作工人と関わっていたのではないか。鉄を求めて弥生人が海を渡っていた可能性が考えられる。
BC3世紀は青銅器の国内生産も始まったいるので、鉄器と青銅器の原料は朝鮮半島で求めていた間違いない。炉の存在がはっきりしなくても鉄滓や鍛造剥片が鍛冶が行われていた証拠になる。
BC3世紀以降の九州北部では、次第に朝鮮半島南部産の鍛造鉄器の比率が増え、木の伐採、木材加工や木器製作、矢板や杭の製作など、利器全般にわたって鉄器が威力を発揮していったのである。
九州北部ではBC3C,中国地方ではAD1Cから本格的な鉄器製作がはじまる。(具体的には第五章で)
(寅七注:この章で北部九州と中国地方では約400年の文明格差がある、と言っているわけだが、近畿地方との格差についてはまったく口を閉ざしているのはなぜ? また、この古代製鉄について、藤尾慎一郎氏はご自分の説に合わないデータは使用されていません。小生が槍玉その51で取り上げた都出比呂志氏の古代製鉄について反論した部分を再録しておきます。
【古代史研究家奥野正男氏は『邪馬台国はここだ』(徳間文庫)で、褐鉄鉱以外にも、チタン分の少ない砂鉄からも、青銅器製造に必要な温度での鉄の鍛造が可能である、という近藤義郎氏の説(「弥生文化論」『岩波講座・日本歴史』I 1962年)を紹介しています。
そして、チタン分の少ない砂鉄は、福岡県糸島海岸と島根県斐伊川流域が飛び抜けてチタン分の少ない砂鉄産地であることを紹介しています。また、今宿焼山遺跡の製鉄址は九州大学理学部のC14法調査で-1660±60(AD249~369)であったことも紹介しています。
C14による鉄滓の年代測定については、古田武彦氏も『ここに古代王朝ありき』で九州大学冶金学科の坂田武彦氏の太宰府近郊の鉄滓などの測定結果を紹介されています。
太宰府町池田鬼面 古代製鉄登釜の木炭 AD380±30年
太宰府町都府楼 ちいさこべ幼稚園裏出土品 銅滓・鉄滓・土器・木炭 BC190±50年
これらは燃料として用いられた樹木の伐採時の樹齢を考慮しなければならないが、弥生期に製鉄が行われていたことを示す、と言ってよいでしょう。
尚、坂田武彦氏の発表論文を検索してみたら、「筑紫の原始製鉄ー1- 四世紀の台風による怡土焼山と御笠鬼面の埋没溶鉱炉跡」という論文が『九州大学工学集報』1970・7に収録されていることが分かりました。】
(http://www.torashichi.sakura.ne.jp/yaridama51.html)をクリックし参照ください。
第四章 弥生中期後半~中期末(BC2世紀~BC1世紀) 文明との接触とクニの成立
慶南泗川市勒島遺跡は、BC2世紀~AD1世紀中ごろの須玖式土器が多量に出土する。須玖式以外の弥生土器や漢式土器も出土している。勒島は外国人居留地の様相を示す。
『魏志』倭人伝によると楽浪郡を出た船は、朝鮮半島の西海岸に沿って南下したあと、南海岸沿いを東に進むが、勒島は金海や釜山へと向かう南岸行路のほぼ中間に位置しており、中継地として最適な場所であった。
ただ朝鮮半島から対馬に向かう3世紀の航路は釜山を起点にしているため、九州へと向かうルートから勒島は外れてしまう。
(寅七注:勒島は釜山の西方約100kmの島で泗川市にある。藤尾氏は倭人伝記載の韓国内行路を全行路水行説を取っているが、あくまでもモノから判断すべきであろう。対馬との交易路を瀚海とも呼ばれる早い海流が東西に流れる対馬海峡を横断するには、釜山より西寄りの港が基地になるであろうことは自明と思われるのだが、藤尾氏は「定説」に従われているので結論もおかしくなっている。)
クニの成立(原の辻遺跡(一支国)、三雲遺跡(伊都国)
弥生人の健康診断
縄文人には結核は、これまでみつかっていない。弥生人には、結核菌による脊椎カリエスの病変を持つ人骨が確認される。(5000体中2例)
鳥取県青谷上寺地遺跡では弥生人の平均寿命は、男性30歳代、女性20歳代。
(寅七注:「平均寿命」として数字を挙げられているが、幼児期死亡率などをどのように推定したのか、平均寿命後に、どれくらい生き延びる事ができたのか、そのあたりの報告が欠けているので、折角の「平均寿命」と上げられている数字もあまり役に立てない。)
伊都王国 三雲南小路遺跡35面以上の鏡は、前漢初期(BC3世紀末)からBC1世紀にかけて前漢で作られた鏡で、BC1世紀後半代に下賜されている。
九州北部で出土した前漢鏡の50%弱が1号甕棺から見つかっていることを考えると、ガラス璧や金銅製品もあわせて前漢の下賜品であったことは間違いない。
(寅七注:なぜか、藤尾氏は前漢鏡の国内製造説について全く述べない。国内製造を否定するのであれば、その根拠を述べておくべきと思うのだが、かれも、無視することで否定したことにする、という悪しき学流に染まっているのだろうか。)
九州北部のランク分け
頂点に立つのは、三雲と須玖岡本の人。この2人で前漢鏡の75%以上が副葬されている。
次が福岡立岩遺跡。東小田峯。漢鏡の副葬が見られない原の辻遺跡は2ランク低い。
(寅七注:鏡研究の大御所とも言われる故梅原末治先生が、同じように、福岡県春日市須玖岡本遺跡D地点からの出土した漢鏡について述べていることは、藤尾氏も知っている筈(知らなければ考古学者とはいえない)です。この須玖岡本の虁鳳鏡問題については、「槍玉その48」で『古代九州と東アジア』小田富士雄著の書評で述べていますので今回は割愛しようと思いましたが、骨子だけを再録しておきます。
・須玖岡本遺跡D地点から前漢式鏡が30面前後出土し、一個は虁鳳鏡であること。
・虁鳳鏡は、内外に存在し、この鏡の鋳造の実年代は2世紀後半以降であること。
・従って須玖岡本遺跡の築造実年代は3世紀前半以降であること。
・同様に三雲遺跡の築造年代も見直さなければならない。
この梅原末治氏論文「筑前須玖遺跡出土の虁(キ)鳳鏡について『古代学』8巻の重要性には見て見ない振りをされている藤尾慎一郎氏のこの論文は、片手落ち論文と評せざるをえないでしょう。)
最も遅く始まった水田耕作―関東南部
水田耕作がはじまり、100年ぐらいのタイムラグがあって環壕集落が出現した西日本に比べ、関東ではそのタイムラグがない。
つまり園耕民の社会的質の変換が起きて水田耕作がはじまったと考えられる。
国が見えない世界―仙台平野
仙台平野には環壕集落もみつかっていない。
縄文と弥生両方の要素を見せながら、農耕社会が成立することもなく水田耕作を継続し、やがて西日本にそれほど遅れることなく前方後円墳を作る仙台大崎平野。関東以西とは異なる古墳時代への道のりがある。
水田耕作をやめた人々―青森垂柳遺跡
田舎舘村垂柳遺跡
砂沢遺跡の人々が十数年続けてきた水田耕作をやめ、しばらくして、BC3世紀になると再び水田耕作がはじまる。
およそ300年間水田耕作を続けたが、BC1世紀の洪水で水田が埋没し、そのあと、北海道から続縄文文化が南下する。
洪水にあっていない所の水田耕作も放棄されているのはなぜなのか。原因は寒冷化なのだろうか。
青森の人々にとってコメは単なる食料の一つであった。米を交換財と捉えると、米が交換財としての役割を失えば(他の交換財が見つかれば)稲作は必要なくなる、ということか。
第五章弥生後期(1C~3C) 奴国の中心―比恵・那珂遺跡
歴史像を書き換える
1世紀後半、本州・四国・九州の大部分は、弥生時代後期社会に突入する。
もともと石器から鉄器へ転換する時期として設定された弥生後期は、鉄器の普及と墳丘墓から前方後円墳への成立過程と言う、二つの考古学的な視点を軸に描かれてきた。
(寅七注:本州・四国・九州の大部分は弥生時代後期社会に突入する、というのは表現があいまいである。本州の大部分ではなく西日本の大部分、であろう。)
鉄器の普及と言う経済的な現象と墳丘墓から前方後円墳という墓制の変化が、近年この二つを関連づけて論じられてきたが、本章で、経済的な現象と墓制の変化を直接結びつけることなく、前方後円墳が成立した過程を考えて古墳時代への道を叙述する。
ムラではなくマチの様相を示す、比恵・那珂遺跡(p213)
弥生後期の代表的農村 登呂遺跡
3世紀の倭人の姿が見える吉野ケ里遺跡
BC1世紀末以降、奴〈ナ〉国の王がいる須玖岡本遺跡軍と、奴国の交易・流通センターである比恵・那珂遺跡群という役割の分担が続いていた。だが3世紀には王ととしての機能も併せもつようになった比恵遺跡群が、対外交易の機能を除いて奴国の中心でありつづけた。
こうした、「道路状遺構」と墳墓が一体として造営される景観を、同時期の纏向遺跡になぞらええ、「初期ヤマト政権」の中枢域に匹敵するという考えもある。
(寅七注:奴〈ナ〉国=博多という定説に乗っかってのこじつけ解説となっている。「奴国」=「ヌ国」=室見平野のクニ、卑弥呼の国は那珂川・御笠川流域という理解ができれば、もっと真実に近づく叙述が出来ると思われるのに残念です。)
平和な農村の象徴ー登呂遺跡
大人層の出現―吉野ケ里遺跡
鉄器製作の本格化―山陰・中国山地の鍛冶工房
新技術による製鉄 鍛冶炉と工房 鉄素材 鍛冶具
見えざる鉄器と倭国乱
倭国乱の原因
卑弥呼が共立される以前の戦い、「倭国乱」。
従来の仮説 鉄の輸入・配分・流通を握っていた北部九州と吉備・近畿諸国との争い。それに勝利した近畿が名実ともに古墳時代の中心になった、という仮説。
この説の弱点は、近畿中央部に鉄器の普及の証拠が乏しい。3世紀になっても鉄器の出土量は圧倒的に九州北部が多いのだ。
見えざる鉄器説は否定されるべきである。見えざる鉄器説の根拠が否定されているのだから、出土した鉄器の両が当時の実態を反映していると素直に受け取るしかない。
近畿中央部と対照的なのが近畿北部の日本海沿岸である。九州北部以外で豊かな鉄器を持つのは山陰である。
倭人の条に記されているように、3世紀には舶載品は一大率によって統制されていただろうが、九州北部における流通量はそのままで、さらに瀬戸内や近畿、東国方面にも鉄が広まるようになったのではないだろうか。
鉄刃農具の普及に伴う生産力の発達が増大したことが、古墳時代の成立を説明することができないとすれば、近畿中央部に3世紀以降、政治・祭祀的な中心が成立した別の理由を考えなければならない。
現在の学界は、古墳時代の始まりを、経済的な転換ではなく、政治・祭祀的な転換として描く傾向が強い。(216p)
(寅七注:見えざる鉄器説などと言われるので、従来説を批判しているのかと思ったが、政治的宗教的な転換という逃げ道を見い出したようです。)
前方後円墳にとりつかれた人びと
3世紀になって変わってきたこと。
わずかだが近畿中央部に鍛冶炉があらわれたこと(枚方市星が丘遺跡)。しかし、依然北部九州の鉄出土は多を圧倒。
倭国乱の原因ではなく倭国乱の結果、鉄が列島規模で東日本まで広がるようになったと考えた方が自然である。
そこで、倭国乱の原因を鉄に求めない場合、倭国乱以降に起きた考古学的事象の変化をうまく説明するには、何に原因を求めたらよいのか考えてみよう。
倭人が半島で鉄素材を入手するには、楽浪・帯方群の承認が必要であったこと。
一大率が置かれた伊都 玄界灘沿岸諸国も、再編成された列島規模の流通機構を通して物資の供給を受け、鉄器生産には変化がなかった。
しかし、3世紀になっても近畿中央部の鉄器の生産量は依然として低いレベルにとどまっている。
こうした、近畿中央部における鉄生産のありかたが、古墳時代に政治的な中心を生み出すための生産基盤となったとは、とても言えるものではない。
生産力発展のあとに政治的中心が生まれて古墳時代がはじまった、と考えるのには無理があるのだ。(p220)
(寅七注:このところの説明は邪馬台国=近畿説に基づいているので、結論は間違っている。北部九州とは異なった社会体制の中で近畿地方で古墳文化がはじまった、とどうして考えられないのだろうか)
大きく変わったことは
弥生後期以降、明らかに分布が変わってくるのは、銅鐸と前漢鏡や後漢鏡である。これら青銅器の動きから、近畿中央部に祭祀的な中心が形成されていくことがわかる。
1世紀中ごろから後葉にかけて作られた後漢の鏡になると、伊都国の王墓平原遺跡を除けば玄界灘沿岸諸国における大量副葬はなくなり、むしろ伝世後に瀬戸内や近畿の古墳に副葬される例が増える。
2世紀以降鉄素材と中国鏡の分布の中心が大きくズレる原因は、玄界灘沿岸諸国と近畿を中心とする東方世界とでは、求めるものが違っていたということにつきる。前1世紀後半の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡を最後に、中国鏡の大量副葬は伊都国に限られるようになり、分布も、有明海沿岸など玄界灘沿岸諸国を取り巻く九州北部の周辺地域の首長たちに及ぶようになっている。
(寅七注:須玖岡本・三雲遺跡の年代観が間違っているままに論をおししすめている。)
玄界灘沿岸諸国の首長たちにとってむしろ大事だったのは、生産力を保障する鉄素材などの必需財の確保と流通であり、鏡などの威信財を重視して必要とする時代は遠い過去のものとなっていた可能性がある。
一方、近畿を中心とする東方世界はといえば、まだまだ中国鏡などの威信財を重視し必要とする段階にとどまっていた。こうした立ち位置の違いが必需財と威信財の分布がズレることの背景にあったと考える。
弥生青銅器の再編
1世紀後半から2世紀初めにかけて、銅矛祭祀や銅鐸祭祀のような地域のシンボルをめぐっても、大きな変化が起こる。
まず、山陰や吉備が銅鐸祭祀を止め、特殊器台や特殊壺を墳丘上で用いる墳墓祭祀へと独自の対応をみせるようになる。山陰は四隅突出型墳丘墓上での祭祀を特徴とし、内部の結束を固めるようになる。
墳丘墓上での祭祀や青銅器祭祀など、シンボルを異にする地域同士の緊張状態が倭国乱の実態であった可能性がある。
また、銅鐸祭祀圏のなかでも再編成が進んで、近畿への収斂が進んだことは、東海の銅鐸の動向や、分布圏の西の境界が、吉備から播磨まで後退するといった考古学的事実からもわかる。
こうしてみると、倭国乱の前後で、分布にほとんで変化が見られない鉄などの必需財と、倭国乱の前から分布が変わり始めていた中国鏡や地域のシンボルをめぐる青銅器祭祀圏の再編成とは、異なる動きをみせていたことがわかる。
近畿中央部に収斂していくのが生産を規定する鉄素材などのハードウエアでなく、墳丘墓上で行われるまつりや威信財等のソフトウエアであることに、古墳成立のカギが隠されているのではないか。
(寅七注:銅鐸を祭祀とする人々が鏡を巨大な古墳に埋葬するようになった変化を説明できているとは思えないが)
農耕社会の成立間もなく、鉄器の普及が遅れても古墳を作りえた、仙台から茨木地方の動向を説明するロジックと同じではないか。
地域連合をまとめる契機と力
鉄素材や中国鏡などの安定的に確保し、列島規模で調整する立場の人間が必要とされ、それが倭国王であったろう。倭国王が九州内部かそれ以外の地域なのか諸説あり定まっていない。
しかし、調整がうまくいかず、政治的・軍事的に超越した人物でなく、宗教的権威によっておさまった、と倭人の条にある。
こうした宗教的権威を持つ個人の地位や威信を演出した舞台装置こそが定型化された前方後円墳上で執り行われたまつりなのである。
その演出の発想には、吉備や山陰にルーツがある。
前方後円墳の成立
3世紀中ごろ、ホケノ山古墳が出現する。長さ100メートルを超す巨大墳。葺き石。墳頂に壺形土器。木槨。鏡の大量副葬。
最古の前方後円墳とされてきた箸墓は、炭素年代測定の結果、240~260年のどこかに来る。
規模がホケニ山の3倍ある箸墓は、ホケノ山に先んじて、卑弥呼の生前から築造にかかっていた可能性もある。
(寅七注:ホケノヤマの築造中に、箸墓も同時進行的に築造されていたような意見である。そのあたりの説明が藤尾氏がうまくできずにいる様子がうかがえる)
祭祀・政治に御中心と〉生産・経済の中心
3世紀になっても鉄器の出土量は、九州北部が他を圧倒しており、列島における鉄器生産の中心であることには変わりなかった。3世紀半ばの布留式段階になると、九州北部における鍛冶はさらに技術革新の末、塊錬鉄の精錬を行うまでに発達する。
3世紀半ばといえば、箸墓古墳が築造され、祭祀・政治の中心が奈良盆地東南部に完成している時期なので、列島における祭祀・政治の中心は依然としてズレていたことになる。
(寅七注:当時の祭祀・政治の中心が奈良平野という前提でのはなしにいつのまにかなっている)
かっての「見えざる鉄器説」は、祭祀・政治の中心と生産・経済の中心が一致することによって、古墳時代の政治的な中心が完成することを証明しようとしていることがおわかりになるであろう。このズレが解消されていくのは古墳時代になってからである。
最後になぜ奈良地方に前方後円墳が造られるとうになったか、という問題に触れておく。
まず、「無主の地故」という考え方。次に祭祀・政治の中心であった邪馬台国の所在地だったから。三つ目は列島の中央という地の利を活かして、外来物資の流通ネットワークを主導できたからという説である。
ほかに、この三つの説が当てはまる地域はない。九州北部を除いた列島の倭人たちにとっての中心は、まさに近畿だったから、ということにつきる。
人口的にも、面積的にも九州北部とは比べ物にならないほど大きな世界の中心が近畿である。九州北部は中心になれる筈もなく、またその意思もない。大多数の倭人たちが求めるものを供給できた、またその意思があったのはが近畿だった。心を同じくする倭人たちの祭祀的・精神的シンボルこそ、前方後円墳だったのだ。
(寅七注:奈良地方がなぜ世界の中心になったか。それは歴史は勝者によって描かれる、というナポレオンの言によっても明らかである。モノから判断しなければならない考古学者が、『日本書紀』に描かれた大和朝廷一元史観に引っ張られて、真実が見えなくなっている。もっと、モノから見ることを貫く姿勢が考古学者に問われていることを、この本ははしなくも現わしている。)
(参考:奈良県と福岡県 面積:369,100ha対498,600ha 耕地面積:23,200ha対85,200ha 水田面積:9.850ha対67,300ha、人口:141万対509万 いずれも福岡県が奈良県をはるかに凌駕している)
エピローグ 弥生ってなに (略)
(この項おわり)
トップページに戻る
著作者リストに戻る