槍玉その62  『邪馬台国は熊本にあった!』  伊藤雅文 扶桑社新書 2016年9月刊   批評文責 棟上寅七


はじめに

 この本の副題は―「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国―です。後世に改ざんされていた、ということは当研究会では初めてお目にかかる説です。


著者略歴

 本の奥書によれば、1959年兵庫県生まれ。広島大学文学部卒(西洋史学専攻)。歴史研究家。全国邪馬台国連絡協議会事務局員。邪馬台国の会会員。全国歴史研究会本部会員。とあります。平成26年『陳寿の記した道里~邪馬台国への方程式を解く~』(ブックウエイ/電子書籍)を出版。などの活動が記されています。

 どうやら著者は、安本美典氏の「季刊邪馬台国」の流れに身を任せていらっしゃる方のようです。古田武彦勝手連応援団としては心して対応しなければなりますまい、理性的な判断の論理の赴くままに。


邪馬台国熊本説のなりたち

 まだこの本を読んでいらっしゃらない方のために簡単に、この本の骨子部分のストーリーを紹介しておきます。

 この本には副題として、~「魏志倭人伝」後世改ざん説にみえる邪馬台国~とあります。ただ、後世の改ざん説というものがある、というのではなく、この本を読んでみますと、著者が改ざん説を唱えているのでした。


・『魏志』倭人伝の邪馬台国への行路記事は、直線的叙述と判断するのが正しいとして、不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国とする。

・現存の『魏志』倭人伝の、投馬国への行路、邪馬台国への行路記事だけが里数表示でなく、日・月表示となっているのがおかしい。(不彌国以降の「道里」が記せられていないのは矛盾、と主張している。)

・全体距離一万二千余里と、部分行程の総和とが、1300里合わないのが問題。

・陳寿の『魏志』にたくさんの注釈をほどこした裴松之が、この「道里」に合わない投馬国、邪馬台国への行路記事に注をつけていないのがおかしい。

・著者伊藤雅文氏は、現存の倭人伝は陳寿のオリジナルのものではなく、後世、『後漢書』の表記と合うように改ざんされた、と考えると問題は雲霧消散する、と主張。

・著者が解析したところによれば、陳寿は不彌国から投馬国までを水行600里、投馬国から邪馬台国を水行400里、陸行300里と書いていたのだ。

・その倭人伝行路記事を、范曄の『後漢書』の「会稽東冶」に合わせて、南方へと改ざんした。不彌国~邪馬台国の道里計1300里というところを、月・日表記、計2月に改ざんしたのだ。

・改ざんされる前の倭人伝行路に随えば、不彌国から南へ水行、御笠川を遡り宝満川を下って投馬国(吉野ヶ里)を経て、南へ有明海を荒尾方面に向かい、陸に上がって邪馬台国(山鹿市方保田東原〈かとうだひがしばる〉遺跡)に着く。

・行路記事の中で、対馬国が「方四百里」とあるのは実際の地理と形も大きさも合わない。また、末盧国から伊都国へ「東南五百里で伊都国」とあるが、伊都国に比定される糸島へは、東南というより東北に当たる、という問題が存在する。これは、魏使達の報告書に地図が付されていたのは間違いないと思われるので、その地図を参考にして陳寿が倭人伝行路を記したものだ。

 というものです。そのために次に述べるような仮説を述べられます。



邪馬台国熊本説にみえる仮説の数々

①『魏志』倭人伝の行路記述は直線的叙述である、という仮説に始まる(榎一雄氏の放射線叙述についてはその問題点を挙げているが、古田武彦氏の不彌国と邪馬壹国は接していた説は完全に無視している。まあ、認めたら邪馬台国熊本説は成り立ちませんから当然でしょうが。)

② 総行程は一万二千里で、不彌国までの総里数の差、千三百里が不彌国から投馬国を経由して邪馬台国までの距離である。
 道里についての論証が述べられ、日数表記は「道里」とはいえないと次のように主張している。

③ 南至邪馬壹国水行十日陸行一月は総行程ではない。不彌国~投馬国の水行20日、投馬国~邪馬台国の水行10日陸行1月は道里ではない。陳寿の『魏志』にたくさんの注釈をほどこした裴松之が、この「道里」に合わない投馬国、邪馬台国への行路記事に注をつけていないのがおかしい。

④ 陳寿の『三国志』のあと范曄が『後漢書』を著わす。そこには「会稽東治」が「会稽東冶」と誤って書かれていたが、それは正史として認められてしまった。

⑤ 陳寿の倭人伝の行路では、邪馬台国は「会稽東冶」の東にはならないので、不彌国以南の行路記事を日程表示にして「会稽東冶」の位置に合せるようにした。(改ざんの理由その1

⑥ 当時は宋の時代であり、倭国から使者が朝貢にたびたび来ている。使者が、宋朝の役人の事情調取に、行路についても答えたはず。都から不彌国まではふた月かかったなどと。(改ざんの理由その2)

⑦ この二つ(⑤&⑥)のことから、陳寿の倭人伝の行路記事は改ざんされた。范曄によるのか改ざん者が別にいたのかわからないが。(改ざんについての詳細は別項で述べる)

⑧ 魏使たちの報告書には地図が付されていた筈である。陳寿はその地図付きの報告書を参考にして倭人伝を記述した。この仮説によって、対馬の「方四百里」、末盧国~伊都国の方向が「東南」、現実の地理と違っていることが、この地図があったということで問題が解消する。(地図の仮説については別項で述べる)

⑨ 不彌国から投馬国へは、南に水行、御笠川~宝満川と抜けた。(いわゆる二日市水道を通ったとされることについては別項で述べる)

⑩ 邪馬台国は熊本県最大の弥生遺跡、方保田東原遺跡であろう、まだ遺跡調査は10%ほどしか済んでいない。(まだ多くの出土品を期待されるような書きぶり)


行路解釈で日数表記は道里でない(上記③)とされることについて

 著者は、行路記事は数度の魏朝からの使者の報告書を基に書かれた、とも書いています。であれば、東夷の国への道筋を説明するのに、「距離(道里)」だけで十分と思われるのでしょうか。「どれくらいの日数がかかるか」という「日程」が必要不可欠なのです。

 そこを理解できないのは著者の勉強不足ではないでしょうか。古田武彦師はすでに45年以上前に、この件について調べた結果を述べていることを紹介しておきましょう。

 ”同一区間を一方では「里程」、他方では「所要日数」と二通りの表記をなす例が果たして存在するのか”古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日文庫版p213~214)より

これに対し、わたしたちは、陳寿が史書の先例として、表記の模範とした『漢書』西域伝の中に、その端的な例を見出すのである。

(難兜l国)西南、罽賓〈けいひん〉に至る、三百三十里。 (罽賓国)東北、難兜〈なんとう〉国に至る、九日行。

これは、一方が「西南」、一方が「東北」であって、方角相応じている点から見ても、両国間の同一ルートをさしているのは当然である。ところが同一区間において、一方は「里程」で、一方は「所要日数」で表記されているのである。
(中略)

陳寿は「邪馬壹国」の叙述について、ことにこの「罽賓国」に対する班固(『漢書』の著者)の筆をうけつぎ、反映しているのであるから、この帯方郡治よりの「二通り表記」もけっして偶然の一致ではないのである。以上によって、この里数、日数の「二通り表記」が、中国史書に先例をもっていたことが判明する。】

 著者は、日数表記されていることについて、「道里」に合わない、として改ざん説の根拠の一つとしているが、中国史書には「二通り表記」が史書に先例があることを知ろうともしなかったのでしょうか。

 それにしても、よく知らない国に行く案内書に、単に距離だけでは何日かかるかわからないのです。同じ距離でも、陸を行く場合には平地か山地か、船で行く場合は、海を大型船で行くか、川を小型船で行くか曳船で行くとか、距離だけでは説明不十分です。当然「何日くらいかかる」という情報も併せて必要なことは、古田武彦氏に言われなくても、中学生でもわかる事ではないでしょうか。

 著者は、裴松之が「水行十日陸行一月」という「道里」に合わない記述に対して「注」を付けていないのはおかしい、ということで推論を展開しています。しかし、裴松之は邪馬台国研究者が頭を悩ませる「会稽東治」・「邪馬壹国」・「景初二年」にも注を付けていないということをまず指摘しておきます。



著者の最大の仮説「倭人伝行路改ざん説」にみえる仮説

 このことはこの本の中で最も重要なところです。著者の主張の内容は概略次のようなことです。


 a)会稽東冶に合わせた、という改ざんの理由その1


 著者の説明。 【『魏志』の後に范曄によって編さんされた『後漢書』では、范曄は陳寿の『魏志倭人伝』の記事を参照しながら、「会稽東治」の意味を理解できず、「会稽東冶」と記した。その『後漢書』が正史となり、邪馬台国は遥か南方にあると認識されるようになった。

 この問題は、元の陳寿の倭人伝の行路記事には、里数記述になっていた、と仮定すると、問題は解決する。、

 すでに陳寿は亡くなっているし、『後漢書』と『魏志』の会稽東治の食い違いについて、陳寿に正せるわけもなく、南に動かされた『後漢書』の邪馬台国の位置に合わせて、『魏志』の行路記事を書き直せばよいのだ
】(p59~67より抜粋)


 b)「倭の五王」の遣使が与えた行路情報による改ざんの理由その2

㋐倭王讃の都は近畿にあった。

㋑倭王讃の使者が宋の聴取に対し「都から不彌国まで二月かかった」と述べた。この聴取記録がある筈である。それを、范曄もしくは改ざん者が参考にしたと思われる。

㋒その聴取記録があったので、范曄もしくは誰かが、「倭人伝」の行路を書き変えた。


 著者の説明。そして、もうひとつ、直接の改ざん者や、もしかすると范曄にも影響を与えた可能性を排除できないのが、倭王讃の遣使である。

 空白の四世紀を経て、倭王の讃が宋の武帝に朝献するのが四二一年である。その後、四二五年と四三〇年にも使いを出して貢物を献じている。その際、おそらく宋の側から倭の使者に対する聴き取りが行われたに違いない。そして、その内容は聴取記録として残されたであろう。

 そこに記された内容を推察すると、一つの仮説が浮かび上がる。


 四二〇年から四三〇年というと日本の歴史上、応神天皇に始まる河内王朝が成立していたと言われる時期である。都は難波にあったか大和にあったか明言できないが、使者は現在の大阪平野、当時の河内湖辺りから出発した者と思われる。

 一行は瀬戸内海を西進し、不彌国、奴国のさった博多湾を経て、壱岐島、対馬伝いに朝鮮半島へ渡り、陸路もしくは黄海を横切って宋へ到着したと考えられる。


 宋の役人に来訪ルートを聞かれた使者は、この経路を伝えたことであろう。しかし、当時の倭人はおそらく『隋書』に書かれるように「不知里数但計以日」である。

 万一、倭独自の尺度らしきものが生まれていたとしても、宋で用いられていた里についての共通認識はもっていなかった。里数を答えられない使者は「都から不彌国へは二月かかった」と答えたかもしれない。

 聴取にあたった宋の役人が、「魏志倭人伝」の記述を知らずに「都から不彌国へは二月」と書いたか、邪馬台国のことを認識したうえで「邪馬台国から不彌国へは二月」と書いたかはわからない。

 しかしながら、聴取記録には「都(のある邪馬台国)から不彌国へは二月の行程である」という趣旨の一文が記されることになる。


 聴取記録に遺ったこの内容も、あるいは范曄に女王の国が会稽東冶の東にあると誤認させたか、またあるいは改ざん者に不彌国から邪馬台国への行程を二か月(「二十日」「十日」「一月」の合計)に書き換えさせた原因となったのではないだろうか
】(p68~70)


仮説にみえる問題点

 倭人伝の行路記事は連続式叙述を正しい、とした仮説については、著者の信念とも言えるものでしょう。古田武彦説を読んで欲しいもの、というだけです。

 改ざん説の二つの理由についての問題について述べます。

・著者の「改ざんの理由その1」について

 「会稽東冶」という范曄の『後漢書』の記述に合せるために、陳寿の『魏志』の記事を改ざんした。その改ざんされた倭人伝が現在の『魏志』倭人伝だ、と著者は主張します。

 しかし、かりに著者のこの仮説が正しいとしたら、この史書の改ざんをした者は、なぜ「会稽東治」の部分を「会稽東冶」と改ざんしなかったのか、という疑問が残ります。それこそ簡単なことですのに。著者もその点に気付き、これだけでは弱いかと思っての改ざんの理由その2となったのではないでしょうか。

・改ざんの理由その2について 

 これは、不彌国~投馬国~邪馬台国の倭人伝行路記事を連続行路とした場合、「水行20日+水行10日+陸行1月=延べ2ヵ月」という計算に合せるために、著者が捻り出したものでしょう。

 隋朝への倭国からの使者は当局から事情聴取がなされたことは『隋書』の記事から明らかです。だから宋朝への使者も当然事情を聴かれたであろう、ということです。この点の推論はかなり可能性が高いと言えましょう。しかし、不彌国から都まで2ヵ月かかった、という内容はあまりにも恣意的で推理作家なら作家失格でしょう。



その他の問題点その1

⑧で挙げた「 魏使たちの報告書には地図が付されていた筈である」という仮説について。

 著者は、陳寿はその地図付きの報告書を参考にして倭人伝を記述した。この仮説によって、対馬の「方四百里」、末盧国~伊都国の方向が「東南」、現実の地理と違っていることが、この地図があったということで問題が解消する、と次のように述べます。

 魏使達が報告書を出すときに、文章による報告に付け加えて「地図」(略図)を付けたはず、と言います。そこまでは、妥当な推論と思います。その推論の要旨は次のようなものです。

【『魏志』倭人伝は梯儁や張政らの報告書には「地図」が付せられていたと考えるのが妥当であろう。彼らが知りえた倭の国々の位置関係や地勢を文章で伝えるのは困難であるが、地図であれば一目瞭然に示すことができる】(p128)

 確かに、その可能性は高いと思われます。そして著者は【ここでは仮に、梯儁の報告書に図表16のような地図(略図)が付されていたとしてみよう】と次のような図を示します。その図は100里毎にメッシュがはいっている所謂方眼紙状の用紙に書かれていたとではないか、とされます。

魏使達の報告書に付けられた地図

 そして次のようなコメントを入れられています。

図表16は筆者が即席で作成したもので、当時の表現方法に沿ったものではなく、目的地を上に置いたり、意図的に対馬は少し小さく書いている。この方格で描いたこの地図を念頭に考えてもらいたい。対馬がなぜ方四百里と形容されているのか。どう見ても実際の対馬の地形に合わないのであるが、この地図の対馬は方四百里の中に収まっている。実はこのような地図があったから「方四百里」という形容になったというのが真実だったのではなかろうか】と。(p129~132より抜粋紹介)

 そして【さて、思いもかけぬところから対馬、壱岐島の形状に関する「方」についても納得の結論を得ることができたところで、報告書に付された「地図」の存在を前提に、再度九州上陸後の行程に付いて考えてみよう】と話を続けられるのです。

 ちょっと待ってよ、地図が付されていた可能性はあったにせよ、そこに対馬が四百里四方で描かれていたから対馬は方四百里という倭人伝の表現になった、というのは、飛躍過ぎる論の進め方ではないか。

 筆者は「この地図では意図的に対馬国を少し小さく書いている」といっている。つまり「方四百里」に合うような地図があったと仮定して、そのような地図があったから「対馬は方四百里」という記述になった、という言葉上のトリックでの倭人伝行路を解釈しているのです。

ちょっと小さく書いた」というのがどれくらい小さくかいているのかチェックしました。
対馬と息を方形であらわしたら

 その結果は、対馬の大きさを半分以下に小さくしなければ対馬全島を方400里という記述にあわない、ということが判明しました。(Google Mapから作成)


 このようないい加減な仮定から仮定の積み重ねを随所で行っている著者の手法をチェックするのは大変です。


 ただ、対馬の「方四百里」の説明には無理がありますが、末盧国から伊都国へ「東南五百里」というところの問題点、唐津から糸島は東北の方角なのになぜ東南と倭人伝は書いているのか、という疑問については、この地図によれば、唐津から盗難に歩き始めるということが図からわかるから、とされています。(図表16の末盧国から伊都国への記入例部分参照)

 これは古田武彦氏が唐津から糸島方面にいくには東南の方向に行くことを示す「道しるべ」標記とされたことと一致しています。



その他の問題点その2

⑨であげた「二日市水道という仮説」について

・「不彌国から南へ水行で、御笠川を遡り、宝満川へと投馬国(吉野ヶ里)へと向かう」としています。これは、宮崎康平氏の『まぼろしの邪馬台国』の着想(仮説)に同じです。詳しくは、「槍玉その26 まぼろしの邪馬台国」をクリックください。

 水路がつながっていなくても、曳舟などの船越設備で船を越させることは可能であったであろう、とされます。


 現代の技術でも、そのような二つの川の源流の分水嶺部分に、水路を作り、水路の水深を常に維持することは極めて困難なことと思われます。もし、そのような掘割が掘られていたり、船越設備を設けていたとすれば、何らかの伝承や遺跡が残っていて当たり前と思います。

 尚、後世江戸時代になって筑後川と博多とを水運で結ぶ計画があったのですが、実現できなかったそうです。西日本新聞社1982年発行の『福岡県百科事典』に次のような記事が出ていました。

上座郡堀川開発計画

 江戸時代、筑前国上座郡(朝倉郡朝倉町)と福岡・博多両市中を、河川と運河で結ぼうとした水路計画。福岡藩領の上座、下座両郡は、城下町福岡から遠くて水運の便がなく、年貢米などを福岡に運ぶには膨大な人馬を要した。このため、筑後川から水を引き福岡、博多まで水路を建設せる計画は、江戸時代初期から幾度もたてられ、1664年(寛文4)には幕府の許可を得て着工した。

 このときには開削地に岩が多く、多大な労力を必要としたため途中で中止。1753年(宝暦3)には、この計画の一部ともいうべき御笠・那珂二郡堀川が完成したが、水量が乏しく船が進まなかったため、まもなく廃止された。

 1810年(文化7)福岡簀子町(中央区大手門)の米屋与平が、上座郡山田村(朝倉町)から筑後川の水を引き、諸川の底に水門を設け、或いは樋を渡して博多まで船を通す計画書を藩に提出した。1813年には不備な点を改めて再提出したが、成否利害の諸説紛々として結局実施されなかった。



 このように、時代が下った江戸時代でも計画の実行は難しかった、まして弥生時代にはとても出来たわけがない、ということの傍証になるかと思います。


 この西日本新聞社の『福岡県百科事典』はIT化されていないようで、「江戸時代の上座郡堀川開発計画」をいろいろキイワードを変えて、ネットで検索してもヒットしません。『まぼろしの邪馬台国』の批評の為の史料当たりをしているときに、福岡市総合図書館でたまたま目にでき、「上座郡堀川開発計画」を知ることができました。正に僥倖でした。 著者が知ることができなかったことを責めることはできません。

 しかし、日本の各所に「船越」とか「舟越」などの船を陸地越えさせたと思われる地域が存在します。九州だけでも、福岡県では、糸島市、北九州市八幡西区、久留米市、うきは市。長崎県では、対馬市の大船越、小船越などがあります。

 この「船越」については、久留米地名研究会の古川清久氏がネットで詳しく論じています。興味ある方は次のURLをクリックしてみてください。
http://chimei.sakura.ne.jp/f-12makado.htm

 この二日市水道の仮説に相応する地名は、宮崎康平さんも調べておられますが、「築」からみの地名が存在することは述べておられますが、船を峠越えさせる設備などに関するものは存在しないようです。

 南に水行20日で投馬国(吉野ヶ里)に行く、と無理やり「二日市水道」という仮説(仮設備?)に頼らなくても、投馬国(吉野ヶ里)に行くには、末盧国から松浦川を遡って多久方面から吉野ヶ里に行くのがずっと楽に、早く到着できるのです。

 このような無理をしないと寅七の故郷熊本に邪馬台国を持ってくることは難しいのだなあ、という思いだけが残ります。



その他の問題点その3

 邪馬台国は熊本県北部の山鹿市の「方保田東原遺跡」の可能性が高い、と熊本県の主要遺跡図を付けられています。また、まだ調査済は遺跡全域の1割ほどだ、と今後の調査によっての出土品の発見に期待されているような口振りです。

 数年前寅七も現地に行ってみたのですが、辺り一帯はなだらかな畑地で、調査は環濠部分を中心に行われたようでした。よほどのことがない限り、調査がこれ以上進んでも残念ながら、成果が上がるとは思えませんでした。

しかし、このことは「将来の可能性」ということで邪馬台国比定地としての資格がなくなる、ということはしばらくはないということで、安心して邪馬台国方保田遺跡説を堂々と述べることができる、ということにはなりますが。

 ただ、熊本市城南区に全国でも最大規模の遺跡、塚原遺跡があります。500基にも及ぶ古墳集団です。近くには、これに相応する弥生~古墳期の居住地が存在したことは疑えません。

 倭人伝の記す「里」は、一里70メートルで著者は論じてきています。もし70mが80mになると、方保田より南になる、塚原あたりになる、という問題も含んだ伊藤雅文説です。まあ、方保田東原遺跡に絞っているわけではない、「熊本にあった!」と言っている、とおっしゃるかもしれませんが。


 また、21国の旁国についても著者の考えを披露されています。気になったのが「嘉麻・穂波」地域には特に該当する時期の遺跡に乏しいから、と比定地の候補地域から外されています。立岩遺跡はじめ多数の遺跡があるのですが、みな四世紀以降の遺跡とされているのでしょうか。


おわりに

 いろいろと邪馬台国熊本説について、仮説が多いこと、その仮説に根拠があるのかどうか、見て来ました。ほとんど著者の独断で、仮説の条件を設定し、仮設ともいえぬところに、別の仮説を上乗せしての『邪馬台国は熊本にあった!』という本は出来上がっていました。

 一番の問題は、裴松之という後世の校定者が、「なぜこの部分に注釈をつけなかったのか」という点に着目して、投馬国、及び邪馬台国への日程記事を「道里」に合わない、原文は里数で書いてあった、というところから始まっています。

 ところが、裴松之が注釈をつけていない所があるのを、著者は意識的にとしか思えないのですが、外しています。それは「邪馬壹国」です。裴松之は全く注釈をつけていませんし、伊藤雅文氏が存在を主張する後世の改ざん者も「邪馬壹国」を改ざんしていないのです。

 ところが、『邪馬台国は熊本平野にあった!』に付けられている倭人伝原文には、注釈もなく「邪馬台国」となっています。つまり後世の改ざん者とは伊藤氏だった、ということかなあ。この改ざん者による邪馬台国熊本説には、熊本人棟上寅七は、全く同調できない結果となりました。

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