槍玉その25 『騎馬民族国家』 江上波夫著   中公新書 1967年刊 文責 棟上寅七

著者について  Wikipedia百科事典で引いてみました。(2008・5・10)江上波夫(えがみなみお 1906年ー2002年)は考古学者山口県出身。騎馬民族征服王朝説などを発表。1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで発表された。その要旨は、「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの扶余系騎馬民族の辰王朝によって、四世紀ないし五世紀前半ごろに達成されたと推論している」(『騎馬民族国家』中公新書)とあります。
お亡くなりになった方のご本をあらためて批評するなど、死者に鞭打つつもりはありません。ただ、江上先生の説に寄りかかって、あだ花を咲かせる元について、検討をしておかないと、自称他称を問わず亜流を展開されるお弟子さんたちを批評できないと気付いたからで、お許しを願いたいと思います。

この『騎馬民族国家』を理解するために、何冊かの本を読んでみました。そのひとつに、江上波夫さんと佐原真さんの対談『騎馬民族は来た?来なかった?』があります。
その本の中で、江上さんが、どうして騎馬民族国家説を唱えるようになったか、について、そのあたりの事情が述べられています。

昭和5年、東京大学東洋史学科を卒業後、東方文化学院研究所員として中国大陸に渡り、東北部・モンゴル地域を調査し、日本人との類似が多いことに気付いたのが原点だそうです。敗戦後、歴史に菊のタブーがなくなり、昭和28年(1948年)に騎馬民族征服王朝説を公にされたそうです。

その、いわば思い付き的な説が時流に乗って、黒岩重吾・邦光史郎・高木彬光・松本清張・豊田有恒などの古代史関係作家などに留まらず、奥野正雄・安本美典・白石太一郎などの古代史研究家の多くに、大きな影響を与えているわけです。ご本人は、”征服王朝”と自分で言った事はない。騎馬民族が、朝鮮半島から九州に渡り、農耕民族を馴化しながら東上し、最終的に近畿に武力を用いずに王朝を建てた、と説かれますが、颯爽さと一種の痛快さとがあり、一般にも受け入れられたものと思われます。

騎馬民族とは 

騎馬民族とは何ぞや、ということの説明をしておきたいと思います。
この江上先生の騎馬民族国家説について、佐原先生との対談集『騎馬民族は来た?来なかった?』で手際よくまとめられていますので、そちらを紹介します。

【騎馬民族説:東北アジア系騎馬民族が朝鮮半島南部の加羅から北部九州へ渡り、そしてついに五世紀のころ畿内へ侵攻して王朝を樹立したとする説。(江上1984)
江上によると、弥生時代から古墳時代前半(四世紀後半の中ごろ)までの日本文化は、農耕民族的であった。呪術的・祭祀的・平和的・東南アジア的である。

ところが、フン時代の中ごろ、「急転的・突発的」に様相が変わり、現実的・王侯貴族的・北方アジア的な騎馬民族的性格がいちじるしくなって、七世紀中ごろまで続き、以後、日本文化は再び「農耕民」的になるという。

弥生時代に北部九州で鏡・剣・玉を死者にそなえて埋めていた伝統を受けついで、古墳時代前半の古墳には鏡・剣・玉が副葬される。弥生時代の貝製腕輪を起源とする碧玉製の腕飾り類も引き継がれる。これらは、呪術・宗教的色彩が濃く、”その担い手の社会は、『魏志』倭人伝に見る倭地の状態からそう遠くないことが想像される”。

ところが、古墳時代後半、古墳は規模壮大となり、大陸系とみられる石棺・木棺が出現し、大陸系の横穴式石室が登場し、石室の壁が絵で飾られることもある。副葬品には現実的・戦闘的な武器と馬具とが目立ってくる。これらは、三~五世紀に中国北部・東北部、モンゴルで活躍したズボン、小さな鉄板を連ねた挂甲、帯や冠などである】

本の内容

この『騎馬民族国家』本の内容は大きく二つに分かれています。
1・騎馬民族とは何か。
まず、騎馬民族の活躍の舞台について述べられます。ついで、騎馬民族の各民族、「スキタイ」「匈奴」「鮮卑」「烏桓」について述べられます。

2・日本における征服王朝
「日本国家の起源と征服王朝」「日本統一国家と大陸騎馬民族」「日本民族の形成」と論を進められます。

以上のことを説明しつつ検討結果を述べるのは大変な作業です。特に、その1のアジアの騎馬民族の紹介は、これだけまとめられている本は少ないでしょうから、それだけでも価値あるものと思われます。問題は第二部の「日本における征服王朝」ですので、そちらを取り上げていきたいと思います。

文献については、ご自分の説に合う所のみ取られていて、考古学的遺物に騎馬民族との関連が少しでもあるものについては積極的に取り入れていらっしゃいます。うまく繋がらないところは、ミッシングリンクということにし、そのうち見つかる、ということで成り立たせています。

この本が受け入れられた理由

『魏志』倭人伝には、卑弥呼の国には牛馬がいなかった、と記されています。その後、7世紀以降、馬具その他の馬匹文化の存在を示す考古学的遺物が、九州から近畿・東北ちほうから多く出土します。この馬匹文化の流入がありますから、江上教授が政治権力を伴った流入と主張されますと、”そうかなあ”と思わせる地盤が確かに日本人の中にはあると思います。

しかし何故、荒唐無稽とも見えるこの説が一時期、日本古代史学界を風靡したのでしょうか。その当時の「時流」を分析しないと理解できないようです。確かに今のモンゴルの人たちと日本人はよく似ています。すぐ頭にくる朝☆龍関のタイプは私たちの周りにも結構いますしね。

その理由について、佐原真さんと古田武彦さんの見方を紹介しておきたいと思います。お二方は、それぞれ古代史の見方は異なっていますが、江上さんが何故世の中に迎え入れられたのかについては、ほぼ一致しているようです。

佐原誠さんの意見(『騎馬民族は来なかった』より)
【騎馬民族説は、江上さんが創り出した昭和の伝説なのです。日本の歴史が1945年、神話の呪縛から解放された直後提案された江上さんの仮説は、学界からまともに批判されながら、一方では一般市民にの間には広く受け入れられていきました。
何故でしょうか。戦時中には、神話が史実として扱われ、神武以来の万世一系の歴史が徹底的に教え込まれました。江上説には、それを打ち壊す痛快さ、斬新さがあり、開放感を招く力がありました。また、人々の心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国に対して近い過去に行ってきたことへの償いの役割を、あるいは果たしたのかもしれません。(中略)

こうして騎馬民族は50年経って「伝説」として定着したのです。(中略)いくら人気があり、面白い仮説であっても、誤ったものであれば、それを否定し根絶することこそ現在に生きる研究者の社会的責任だと思います】

古田武彦さんの意見(『日本列島の大王たち』より抜粋)
【戦後史学の中の、最も華やかな申し子ともいうべきこの騎馬民族征服王朝説は、いわば皇国史観のアンチテーゼとして、朝野の人々の賛同を受けた。同時に、戦後史学の許容する近畿天皇家起源論として、颯爽としており、戦後の研究者の耳目を魅したのである。

それらの人々にとって、その説は失いかたき珠玉の説のように見えているかもしれぬ。わたしも、その啓蒙的意義の大きかったこと、それを認めるにやぶさかではない】

騎馬民族の問題点その1 ー古墳期の中間に副葬品の断裂があるかー

江上先生は、【農耕民族の歴史的類型は、弥生時代から古墳時代前期の日本には極めてよく対応するが、古墳時代後期には本質的に合致しない。一方後者は、騎馬民族の歴史的類型―特に征服王朝のそれにすこぶるよく照応する】と仰います。その古墳副葬品の変化は、4世紀に突発的断裂的に起きた、と説かれます。

この江上先生の主張に対する反論を探しましたら、佐原真さんが『騎馬民族は来なかった』の中で、副葬品の変化についておおむね次の様に述べておられます。

【江上先生は日本の古墳時代の研究について門外漢であるにもかかわらず、4世紀後半の中ごろを境とする古墳の「急転的・斗発的」編かがある、とされた。それについて多くの考古学者がその誤りを指摘した。小林行雄・白石太一郎・柳沢清一・田中琢・千賀久さん達の反論を紹介紹介】(詳細は省きます)

そして田中琢さんの【二百年近い長い期間に起こって現象をひとまとめにする粗っぽさ】という表現でまとめています。勿論、騎馬民族説に同意する学者(奥野正男氏など)がいるとも書かれています。
最後に千賀久さんの【百済清州新鳳洞古墳で轡と鐙が集中的に副葬されているのが確認され、騎馬集団の基地と考えてもおかしくないが、同じ時期の日本の例ではそのようなことはなく、古墳群内の1基のみに馬具が副葬されている程度であり、当時、武装した重装備の騎馬集団は、日本では存在していなかったと考えるのが妥当である】という意見で締めくくっています。

当研究会も、この佐原真さんがまとめられた意見は、真っ当な意見だと思います。

騎馬民族の問題点その2 ―古代の文献資料との整合性はどうか―

江上先生はいろんな文献から、騎馬民族説の正当さを説かれます。
☆① 『三国志魏志』東夷伝辰韓の条
☆② 『記・紀』の天孫降臨説話
☆③ 『記・紀』の神武東征説話
☆④ 『記・紀』の二人のハツクニシラス問題
☆⑤ 『旧唐書』の「日本国号」の記事、などです。以下、詳しくみていきます。

☆① 騎馬集団が辰韓から北部九州に上陸し、近畿に歩を進めた。その証拠の一つとして東夷伝の辰韓の条の記事を上げられます。

確かに「辰韓は、牛馬に乗駕す」と書かれていますし、「その王は他国からのいわば流れ者的であり、辰韓人ではない」とか、「王には馬韓人を以ってあてる」というような記事もあります。その点では「騎馬国家」としての資格があるように見えます。

しかし、唐遺伝に書かれているのはそれだけではありません。辰韓は、「土地は肥えていて五穀豊穣の地であり、男女とも倭人にそっくりで、文身し、歌舞・飲酒を喜ぶ」とあります。「戦は歩兵戦にすぐれている」ともあり、騎馬民族国家というよりも、むしろ倭人の条にいう倭人の国によく似た国と言えると思います。

辰韓の条だけ四でも、騎馬民族が辰韓から日本列島に征服王朝を作った、というのは無理筋と思えますが、馬韓の条には次のような記事があります。
「馬韓人は、牛馬に乗ることを知らず、牛馬は死人を送るに用う」と書かれているのです。

辰韓の王に乗馬を知らない馬韓人がなるのです。そのような辰韓国が、とても騎馬民族国家とは思われません。太古より朝鮮半島南部と北部九州に住んでいた民族は、お互いに文化の交流(戦争的な交流も?)あって、それぞれに影響しあった仲であったとするのが理性的推論ではないかと思われます。

ついでに言いますと、4世紀の応神天皇の時期が騎馬民族王朝建立の時、と江上先生は言われます。しかし、このころ百済から馬ひとつがいが贈られてきた、という記憶が『記・紀』に書かれています。『記・紀』の記事を百%否定しないと成り立たない「騎馬民族国家説」のようです。 (『古事記』応神記 「百済国主昭古王、以牡馬壹疋、牝馬壹疋、付阿知吉以貢上」)

4世紀のころ、高句麗との戦闘で騎馬の威力を知って、倭人も騎馬文化の吸収に努めたことは容易に想像できます。4世紀以降の考古学的遺物に馬具などの出土が増えてくることからも窺えます。

☆② 『記・紀』の天孫降臨説話と騎馬民族国家説

『記・紀』の天孫降臨説話の舞台は北部九州である。朝鮮半島から飲酒津して来たのである、とされます。しかし、スサノヲ命が韓国に天下った、という説話との整合性が取れないところは頬被りです。

☆③ 『記・紀』の神武東征説話と騎馬民族国家説

神武東征については、征討軍に水先案内が付くところなど、扶余の神話に酷似(p180)しているから、ここは創作とされます。崇神天皇が日本の創建者とするために、神武天皇は存在してはならないようです。

☆④ 『記・紀』の二人のハツクニシラスの問題と騎馬民族国家説

前項と同じように、神武天皇創作説の補強として、神武・崇神のおくり名が「ハツクニシラス」と同じ名である。崇神が真の創建者である、とされます。

この「二人のハツクニシラス」問題は、槍玉その5永井路子さんの『異議あり日本史』批評で取り上げました。この「二人のハツクニシラス」問題について、古田武彦さんが、『ここに古代王朝ありき―邪馬一国の考古学』で分かりやすく説明されていますので、この巻末に掲載しています。参照ください。

☆⑤ 『旧唐書』の「日本国号」の記事と騎馬民族国家説

10世紀に編纂された『旧唐書』の「日本の国号」記事にみえる、「倭国」と「日本国」を3世紀の状況に引用されていますが、これは強引すぎるでしょう。何でも自説に使えそうなものは取り込んでいる感じです。

騎馬民族説の問題点その3 ―この『騎馬民族国家』に引用の無い古代史資料

重要と思われる古代史資料で、江上先生が引用されないところ、すまりご自分の説に都合の悪いところを見てみます。もしも、江上先生の説が正しいのであれば、いろんな史料事実も、その仮説を矛盾なくできる筈なのです。

★①『三国志魏志』東夷伝の引用が少ない。

僅かに辰韓の条の辰王のことを取り上げていることは前に述べました。そうであれば、卑弥呼の国と狗奴国との長期間の戦闘の記事などどう解釈すればよいのでしょうか。江上先生は、卑弥呼時代の以前は農耕民族の平和な国と言われますが矛盾しています。

★② 辰韓が根城で北部九州に進出について、金石文を含めて文献がゼロ

江上先生は、辰韓の王が流れ者的に書かれていることだけを取り上げています。そのような騎馬民族系の王が、任那を根城にして北部九州へ勢力を移した、とされます。卑弥呼の国は主力が近畿へ東遷し、その空いたところに入り込み、4世紀に近畿迄平和的に進出し農耕民族を馴致した、とされます。この仮説についての文献的な史料は全く存在していません。

★③ 日韓の史書の人的交流について

朝鮮半島諸国や日本列島内部でも、人質のやりとり、婚姻政策などの人的交流が行われていたことは、日韓の史書にも見えています。遺伝子の研究からも、日韓ではかなり近い民族ということがハッキリしています。

★④-1 高句麗の好太王碑文の記事の引用が見えない

高句麗の好太王碑文に、倭人との戦いの記事がいくつもあります。これは江上説のように、4世紀に日本が騎馬民族国家になっていた、とすれば、騎馬民族同士の戦い、ということになり、それなりに解釈が欲しいところです。または、倭が農耕民族であったとすれば、農耕民族が海外で騎馬民族と対等の戦いをしているのです。『騎馬民族国家』p167~168で、平和的な倭国と書かれていることと完全に矛盾していますが、江上先生は黙殺されています。

★④-2 倭が騎馬民族の一派であれば

もし、倭国が騎馬民族の一派であったとすれば、好太王の一代前位に、朝鮮半島から倭に進出し、騎馬民族王朝を建てたことになります。高句麗の好太王碑文に何か書かれていてもおかしくないと思うのですが・・・。ともかく、江上先生は4世紀の貴重な金石文『好太王碑文』は自説に利がないから取り上げたくないのでしょう。

★⑤『宋書』の記事との整合性は

『宋書』にある倭王武の「海北95ヵ国を平らげ云々」の上奏文も、「騎馬民族国家説」に不利な史料なのでしょう、江上先生は黙殺されます。『宋書』の記事にみられるように、倭国が宋の支配体制に組み込まれていた、ということは、都督府などの記録や墓・冠などの制度などからその可能性が高いのですが。

★⑥『隋書』の記事とは?

『隋書』書かれている、俀〈たい〉国の兄弟執政と見える異様な統治スタイルについても、騎馬民族国家とは合わないのでしょうか、江上先生は『隋書』を黙殺しています。

★⑦ 銅鐸と騎馬民族

弥生末期に言えた銅鐸、について江上先生は全く触れていません。銅鐸の消滅が騎馬民族国家創建以前に行われていた、ということで無関係とされるのでしょうが、では誰が銅鐸を消滅させたのか、騎馬民族国家説からみた日本の古代観が必要と思うのですが、江上先生は興味を示されません。

◆佐原真さんの批判

このように、ご自分の都合の良いところだけを取り上げる江上先生の態度について、佐原真さんも『騎馬民族は来なかった』で、次のように述べています。
【”共通点しかあげない不公平” 江上波夫さんが騎馬民族と古代日本との共通点だけを取り上げているのは不思議です。AとBとを比べるとき、共通性だけを取り上げても比較としては半分にすぎません。AとBの共通性と同時に、違いを取り上げるこれではじめて両者を公平に比較できる、と思うのです。

似ているところだけを取り上げるのならば、どの二つの文化間にだって共通性は指摘できるでしょう。古代のエジプトには、和鋏と共通する鋏があり、日本と共通する世界的に珍しい手前に引く鋸があります。江上さんが自説に不利な点をあげることなく、有利な点だけをかかげるのは、結論を導くための正しい手続きとはいえません。(後略)】(同書207)

常識的理性的な人ならだれでも同意できることだと思います。


このような「騎馬民族国家説の問題点の起源は?

結局、問題は江上先生の思い付き的な仮説にあると思われます。この「仮説」について、このように述べられます。(『騎馬民族国家』の「まえがき」より抜粋)
【歴史の復原が難事業であることはいうまでもない。そこでは仮説的復元作業が各方面から繰り返しなされ、それらのすべてが矛盾なく、一つの統一体に綜合されて、はじめて真の歴史の復原が成就されたといえるのである。(中略)
私は土器の復元の経験から、ある特定の土器の復元という具体的な作業のためには、土器の構造的な理論や、その発展形式の原則よりも、関係ある地域・時代の土器の、仮説的全体像ともいうべき土器の集成図(コルプス)が、より多く役立つことを知ったのである。(中略)
これがあると、例えば弥生土器の集成図があれば、縄文式時代の遺跡から出土した一群の土器を、その集成図の土器に引き合わせてみても、類似したものが一つもなく、両者の無関係なことは一見明瞭である。(中略)
それで歴史の復元の場合にも、集成図的な仮説全体像があれば便利であろうと思うが、現実の問題として、土器の集成図のように、具体的な事実が一目瞭然という図表的なものは容易にはできない。しかし、集成図的な仮説全体像を歴史の復元に役立てるという構想そのものは可能でありまた必要であろう。
そのように考えて、わたしはユーラシアにおける農耕民族の歴史的類型と騎馬民族の歴史的諸類型とを集成し、ユーラシアの農耕民族と騎馬民族の歴史の仮説的全体像の作成を試みてきたものである】

このように江上先生はおっしゃいます。先生の「騎馬民族国家」という集成図に合わない断片は捨てて顧みなかった、ということなのでしょう。

それに、もう一つの問題があります。「ミッシングリンク」についての発言です。
【(騎馬民族が侵入したと思われる)古墳期前期に、騎馬民族の日本列島侵入の事実禹を反映するような、考古学的事象が認められるであろうか。これを積極的に実証するようなものはあだ見いだされていないようである。しかし、それは、ミッシングリンク(系列上欠けている要素)に違いなく、将来かならず見いだされると、私は考えている】(同書p172)

このように”あるかもしれない”と主張されることを”ない”と証明することは難しいことです。そのようないわば屁理屈に乗って構築されている「騎馬民族征服王朝説」ではないのかなあ、と東大教授で文化勲章受章者に向かって申し上げるのは不遜かもしれませんが、不安を感じる本でした。


●むすびに代えて

東京大学教授という立場で、騎馬民族征服国家説を掲げ、古代の『記・紀』の説話は全くの創造であり、4世紀に騎馬民族の侵入があったかは、国内外にもそれを否定する史料は無い、などおっしゃったわけです。そして文化功労者として350萬円の年金を受ける栄誉と、その後、文化勲章まで受勲されました。いわば、外から見れば、江上説は勲章に値する、と国が認めたことになったわけです。

謎の4世紀、『記・紀』は創作されたもの、任那からの日本進出、などの江上説は、小説家の創作意欲をいやがうえにの書きたてたことでしょう。黒岩重吾・松本清張・高木彬光・安本美典・豊田有恒さんたちなど、江上説を錦の御旗と掲げて亜流説の発表が相次いだのです。佐原真さんはじめ多くの考古学者が疑問の声を上げていらっしゃったのは事実でしょうが、決定打に欠けていました。

古田武彦さんが、冷徹な目で批判しなければ、明日元美典さんや豊田有恒さんたちの後を附いて行く後継者たちを絶つことができなかったことでしょう。

古田さんの意見は、基本的には記録魔的な歴史文書の国、中国の史書に、まったくその片鱗もみえない。また、近畿王朝の祖先が騎馬民族国家であり、朝鮮半島から九州に渡来し、そして近畿に来た、という偉大な歴史があるのなら、それにまつらう説話が『記・紀』に全く影も見せないのははなぜか、ということでした。

棟上寅七が言うのでは信用いただけないかもしれません。巻末に古田竹非ksんの発言を載せておきます。『邪馬一国の証明』および『日本列島の大王たち』で述べていらっしゃいます、騎馬民族寅異説についての批判を紹介してまとめとします。


騎馬民族王朝征服説信奉隊御一行『邪馬一国の証明』 角川文庫1980年刊(p135~152)
「謎の四世紀」の史料批判それは謎の四世紀と呼ばれる”不明の世紀”だ。その一世紀の暗闇に乗じて、戦後多くの仮説が続々と生産された。例えば「騎馬民族説」
、例えば「応神東征説」等々。しかし、この世紀の真相は本当に謎なのだろうか。果たして不明なのだろうか。
(中略)何故、「謎の四世紀」などと、従来言われてきたのだろうか。その理由は、ほかでもない。何といっても”史料がない”とされたことだ。三世紀には『三国志』があり、その仲の魏志倭人伝に邪馬壱国の女王卑弥呼のことが書かれている。
一世紀飛んで、五世紀になると、『宋書』がある。その中の倭国伝には倭の五王のことが書かれている。(中略)こう言うと、すぐ問い返す人々がいるかもしれぬ。”そんな外国史料のことなど、言わなくてもいい。わが国には『古事記』『日本書紀』があるではないか?”と。
しかし、『記・紀』は八世紀成立の後代史料だ。だから、史料批判なしに、その記事をそのまま「史実」として採用することはできぬ。とすると、問題はやはり、中国史料だ。倭国に隣接した、この稀代の記録文明圏。その中国の中には、本当に”四世紀の倭国についての記録”は存在しないのだろうか?たしかに従来の古代史家は、”それはない”と言ってきた。
しかし、わたしはこれに対し、ハッキリと”否!”と答えたい。―”四世紀の中国史料は厳然と存在する”のである。
その第一は『南斉書』倭国伝だ。(中略)。(その南斉書に)”この倭王武の王朝は、『三国志』の魏志倭人伝に記せられた女王たちの後継王朝である―”そのようにハッキリと記述しているのである(以下これを『南斉書』の証言と呼ぶ)。
この証言のもつ、史料としての信憑性はきわめて高い。だから、いわゆる「騎馬民族説」であれ、いわゆる「応神東征説」であれ、”三世紀の倭国と五世紀の倭国との間には、王朝の系列において大きな断絶があった”、このような見地に立つ、従来のすべての仮説は、”『南斉書』の証言”をあまりにも安易に無視していたのである。
このことは、「邪馬台国=近畿説なら、矛盾しない。四世紀段階に近畿へ外部から大規模な侵入があった、は成立しない。邪馬台国=九州説、倭の五王近畿説は成立しない。
つまり、『南斉書』が記すことは、卑弥呼の国=九州説、「倭の五王=九州」説に帰着する。
そのほか、四世紀の史料として、『翰苑』の注記に引用されている『広志』にも倭国についての記載があり、基本的に『魏志』倭人伝に記載されていることと食い違いはなく、傍国についてはより詳しくなっている。
結論として、中国の正史たる『南斉書』の証言するところによれば、斉から授号された倭王武は、三世紀卑弥呼の後継王朝であり、両者間にさしたる王朝断絶の存在した形跡はない。
次に四世紀前後の晋代の書『広志』によると、その頃の倭国の首都圏は、筑紫(博多湾岸と筑後川流域)であり、「八女」付近は、その圏内南辺の中枢地となっていた。従って右の二史料のしめす所、倭国は三~五世紀を通じて筑紫の中枢部に都を有する王朝下にあった。
私がかって『失われた九州王朝』の中で提起した、九州王朝がこれだ。四世紀の倭国は「謎」ではなかったのである。

『日本列島の大王たち』 朝日文庫1988年刊(p77~83)
「騎馬民族渡来説」の検討
(二人のハツクニシラスが成り立たないことを立証されたあとで)従来の「二人のハツクニシラス」の論証は、神武架空論、八代架空論に対する屈強の立証と考えられていた。その立証が虚妄であったとすれば、当然この点からも、神武実在、八代実在の命題が復権してこざるをえないのである。

この復権の意義は、重かつ大である。なぜなら、たとえば
騎馬民族説。戦後史学の中の、もっとも華やかな申し子ともいうべきこの説は、いわば皇国史観のアンチ・テーゼとして、朝野の人々の賛同を受けた。
同時に、戦後史学の許容する近畿天皇家起源論として、颯爽としており、戦後の研究者の耳目を魅したのである。それらの人々にとって、その説は失いかたき珠玉の説のように見えているかもしれぬ。わたしも、その啓蒙的意義の大きかったこと、それを認めるにやぶさかではない。しかし、より重大なものがある。真実だ。(中略)

そのような目で率直に見れば、江上波夫氏
騎馬民族説は、津田史学の双肩の上に立脚している。なぜなら、それが近畿天皇家の起源論である限り、記紀自身の語る起源論、九州日向の発進論、しかも弥生期の発進論を否定したのちに、その存在意識を保証される、そういった基本性格をもっているからである。
さらに、津田史学の根本たる「記紀説話造作説」、これも
「騎馬民族説」にとって、不可欠の大前提だ。なぜなら、一見すれば明瞭なように、記紀説話には、一切、騎馬民族の渡海来日譚など語られていないからである。
逆にいえば、もし本当に
騎馬民族の大陸から日本列島への侵があったとすれば、これほど絵になる光景はまたとないであろう。説話は、この血沸き肉躍る光景を華やかに語らずして、何の説話であろう、何の伝承の名に値いしよう。
(中略)文献史家、井上貞光氏は、応神(第十五代)が九州に生まれ、母(神功皇后)と共に東上して近畿に入ったことをもって
騎馬民族の長」応神の「大陸→九州→近畿」の三段跳びの侵入の徴候と見なそうと欲せられた。
けれども、記紀説話を先入観なしに読む人の誰人が、仲哀紀や神功紀の中に「
騎馬民族の大陸からの渡来」などを読みうるであろうか。これは、「津田史学の亜流との名を喜んで受ける」と称された井上氏にして、はじめて可能なことだ。
なぜなら、記紀説話などどうせ架空、そういう大前提に立ってこそ、はじめて右のような読み替えを敢行しえたもの、後代の研究者は必ずやそのように評するであろうから。すなわち「
騎馬民族説」という先入観に立って、文献 の事実を読み変える、そのように大胆な史料無視の許容された、戦後三十数年の流行―そのような時代の雰囲気を理解せずには、後代の研究者はこれを解するに苦しむことであろう。なぜなら、これは決して小説の世界に非ず、学問の世界のことなのであるから。
(中略)わたしは津田氏と江上氏が戦後史学に果たしてきた輝ける役割に深い敬意を表しつつも、すでに時代は新たな扉の前に立っている、そのことをここに明記しておきたいと思う。
       (この項終わり)

  付記 
今回は「騎馬民族国家」説の批判に、佐原真さんの『騎馬民族国家は来なかった』を大いに参照させていただきました。この点では感謝しますが、佐原さんの陰に籠ったような古田武彦批判をなさっていることは頂けませんでした。
古田さんが『邪馬一国の考古学』の中で”一定の文化特徴をもった出土物が一定の領域に分布しているとき、それは一個の政治的・文化的な文明圏がその領域に成立していたことをしめす”と古田武彦さんが「公理」として述べられていることについて、1911年にドイツの考古学者コッシナがゲルマン民族の優秀性を示すために唱えたものと同じ、というようないわば言いがかりをつけています。同書p216
  参考図書

『騎馬民族は来た!?来なかった!?』 江上波夫・佐原真 小学館 1990年刊
『騎馬民族は来なかった』 佐原真 NHKブックス 1993年刊
『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』 古田武彦 朝日新聞社 1979年刊
『邪馬壱国の証明』 古田武彦 角川文庫 1980年刊
『日本列島の大王たち』 古田武彦 朝日文庫 1983年刊

 付録
二人のハツクニシラス論 『ここに古代王朝ありき 邪馬台国の考古学』p226~228より
【まず、この説を要約しよう。”『記・紀』の伝えるところ、「ハツクニシラス」つまり建国第一代の天皇とせられている者が二人いる。一人は、神武天皇、他は崇神天皇である。しかし二人も建国第一代がいるはずはない。当然、真の建国者は崇神だ。これに対し、のちに神武という架空の第一代の天皇、さらに第二~九代の天皇が造作されて、天皇の歴代系譜の上に架上されたのである”というものだ。
魅力的な説だ。天皇系譜を架上してうえに伸ばす。これはなかなかありそうな話だからである。しかし、本当にそうだったか。わたしは、『記』『紀』の両書の原史料(現存古写本)について念のため検証してみた。
たしかに崇神の方はよかった。所知初国天皇(古事記) 御肇国天皇(日本書紀)とある。『古事記』はずばり「ハツクニシラスだ。『書紀』の方も、ほぼその意味だ。ところが、神武の方。『古事記』には、全くこの称号がないのである。つまり、『古事記』については、まず、二人のハツキニシラス」説は成立できないのだ。
これに対し、『日本書紀』、始馭天下之天皇。これは、ちょっと「ハツクニシラス」とは読みにくい。そこで古写本をしらべてみた。
奈良・平安・鎌倉と下がってきても、ハツクニシラスという振仮名はみつけられない。十六世紀室町時代(北野本・卜部兼右本)に至って、はじめてあらわれる。すなわち、これは室町期の学者の認識をあらわす読みだ。これを『書紀』原本のものと速断できない。それに肝心なこと、『書紀』は本来漢文で書かれており、振仮名は後世のものだ。だから”いきなり振仮名で勝負する”のは、史料批判上、危険なのだ。
『書紀』の本文(始馭天下)は、「ハジメテアメノシタニシロシメス」とは読めても、「ハツクニシラス」とは読めない。崇神については和訓に近い表記があった『古事記』のも、ここでは全くその痕跡がない。すなわち二書とも神武については、「ハツクニシラス」の称号がある、とは言えないのである。これはどうしたことだろう。
この問題の回答は、「ハツクニ」の語義にある。「初国」に対する反対語は「本国」だ(仁徳記・顕宗記等)。後者は”本来の故国”の意。前者は”新たに統治した国”の義だ。いわば、新占領地である(用例は『盗まれた神話』参照)。
とすると、崇神については明白に「ハツクニシラス」と書いてあったのももっともだ。崇神ははじめて銅鐸圏の大和包囲網を突破し、新占領地を東方に、北方に、さらに山城・河内へとひろげ、はじめて大和を「孤立の地」ではなく、「近畿の中枢地」とした、そういう拡大圏の支配地としては、まさに”初代”だったからである。
以上のように、津田左右吉によって示唆され、肥後和男によって明確化され(のち、肥後は撤回)、井上光貞・直木孝次郎等によって「定説」化された。この「二人のハツクニシラス論」の、よって立つ史料批判的基礎は、あまりにも薄弱だったのである。】
この論調で、引き続き、この古田さんの説に反論を試みた方々への再批判も述べられていますが、煩瑣になりますので、同書を直接ご参照ください。

        
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