槍玉その26 騎馬民族征服王朝説  江上波夫著   中公新書 1967年刊 文責 棟上寅七

著者について Wikipedia百科事典で引いてみました。(2008・5・10
江上波夫(えがみなみお、1906116-20021111日)は考古学者。山口県出身。江上波夫騎馬民族国家騎馬民族征服王朝説などを発表。1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで発表された。その要旨は、「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって、四世紀末ないし五世紀前半ごろに達成されたと推論している」(騎馬民族国家 中公新書)とあります。
お亡くなりになった方のご本をあらためて批評するなど、死者に鞭打つつもりはありません。ただ、江上先生の説に寄りかかって、あだ花を咲かせる元について、検討をしておかないと、自称他称を問わず亜流を展開されるお弟子さん達を批評することが出来ない、と気付いたからで、お許しを願いたいと思います。
この『騎馬民族国家』を理解するために、何冊かの本を読んでみました。そのひとつに、江上波夫さんと佐原真さんの対談『騎馬民族は来た?来なかった?』があります。
江上波夫経歴その本の中で、江上さんが、どうして騎馬民族国家説を唱えるようになったか、について、そのあたりの事情が述べられています。昭和5年東京帝国大学東洋史学科を卒業後、東方文化学院研究所員として中国大陸に渡り、東北部・モンゴル地域を調査し、日本人との類似が多いことに気付いたのが原点だそうです。敗戦後、歴史に菊のご紋タブーがなくなり、昭和28年(1948年)に騎馬民族征服王朝説を公にされたそうです。
そのいわば思いつき的な説が時流に乗って、黒岩重吾・邦光史郎・高木彬光・松本清張・豊田有恒などの古代史関係作家などにとどまらず、奥野正雄・安本美典・白石太一郎など古代史研究家の多くに、大きな影響を与えているわけです。ご本人は、“征服王朝”と自分で言ったことは無い、騎馬民族が朝鮮半島から九州に渡り、農耕民族を馴化しながら東上し、最終的に近畿に武力を用いずに王朝を建てた、と説かれますが、颯爽さと一種の痛快さとがあり、一般にも受け入れられたものと思われます。
騎馬民族とは
馬民族説」とは何ぞや、ということの説明をしておきたいと思います。
この江上先生の騎馬民族国家説について、佐原真三との対談集『騎馬民族は来た?来なかった?』で手際よくまとめられていましたので、そちらをご紹介します

騎馬民族説
東北アジア系騎馬民族が朝鮮半島南部の加羅から北部九州へ渡り、そしてついに五世紀のころ畿内へ侵攻して王朝を樹立したとする説(江上1984)
江上によると、弥生時代から古墳時代前半(四世紀後半の中ごろ)までの日本文化は、農耕民的であった、呪術的・祭祀的・平和的・東南アジア的である。
ところが、古墳時代の中ごろ、「急転的・突発的」に様相が変わり、現実的・王侯貴族的・北方アジア的な騎馬民族的性格がいちじるしくなって、七世紀中ごろまで続き、以後、日本文化は再び「農耕民」的になるという。
弥生時代に北部九州で鏡・剣・玉を死者にそえて埋めていた伝統を受けついで、古墳時代前半の古墳には鏡・剣・玉が副葬される。弥生時代の貝製腕輪を起源とする碧玉製の腕飾り類も引き継がれる。これらは、呪術・宗教的色彩が濃く、“その担い手の社会は、『魏志』倭人伝に見る倭地の状態からそう遠くないことが想像される”。
ところが、古墳時代後半、古墳は規模壮大となり、大陸系とみられる石棺・木棺が出現し、大陸系の横穴式石室が登場し、石室の壁が絵で飾られることもある。副葬品には現実的・戦闘的な武器と馬具とが目立ってくる。これらは、三~五世紀に中国北部・東北部、モンゴルで活躍したズボン、小さな鉄板をつらねた挂甲、帯や冠などである。

本の内容
この『騎馬民族国家』の本は、大きく二つに分かれています。
1・騎馬民族とはなにか
まず、騎馬民族の活躍の舞台について述べられます。ついで、騎馬民族の各民族について、「スキタイ」「匈奴」「突厥」「鮮卑」「烏桓」について述べられます。
2・日本における征服王朝 
「日本国家の起源と征服王朝」「日本統一国家と大陸騎馬民族」「日本民族の形成」と論を進められます。
以上のことを説明しつつ検討結果を述べるのは大変な作業です。特に、その1のアジアの騎馬各民族の紹介は、これだけまとめてある本は少ないでしょうから、それだけでも価値あるものと思います。問題は第2部の「日本における征服王朝」ですので、そちらを取り上げていきたいと思います。
文献については、ご自分の説に合うところのみ取られていて、考古学的遺物の騎馬民族との関連が少しでもあるところは積極的に取り入れていらっしゃいます。うまく繋がらないところは、ミッシングリンクということにし、そのうち見つかる、ということで成り立たせています。
この本が受け入れられた理由
『魏志』倭人伝には、卑弥呼の国には牛馬がいなかった、と記されています。その後、7世紀以降、馬具その他の馬匹文化の存在を占める考古学的遺物が九州から近畿東北から多く出土します。この馬匹文化の流入がありますから、江上教授が政治権力も伴った流入と主張されますと、“そうかなあ”と思わせる地盤は確かに日本人の中にはあると思います。
しかし何故、荒唐無稽とも見えるこの説が一時期、日本古代史を風靡したのでしょうか。そのときの「時流」を分析しないと理解できないようです。確かに今のモンゴルの人たちと、日本人は良く似ています。すぐ頭に来る朝☆龍関のタイプは私たちの周りにも結構いますしね。
その理由について、佐原真さんと古田武彦さんの見方をご紹介しておきたい、と思います。お二方はそれぞれ古代史の見方は異なっていますが、江上さんが何故世の中に迎え入れられたかについては、ほぼ一致しているようです。
佐原真さんの意見(『騎馬民族は来なかった』より抜粋)
【騎馬民族説は、江上さんが創り出した昭和の伝説なのです。日本の歴史が1945年、神話の呪縛から開放された直後、提案された江上波夫さんの仮説は、学会からまともに批判されながら、一方では一般市民の間に広く受け入れられていきました。
なぜでしょうか。戦時中には、日本神話が史実として扱われ、神武以来の万世一系の歴史が徹底的に教えこまれました。江上説には、それを打ちこわす痛快さ、斬新さがあり、解放感をまねく力がありました。また、人びとの心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国などに対して近い過去に行ってきたことへの償いの役割を、あるいは果たしたのかもしれません。

(中略)こうして騎馬民族は50年たって「伝説」として定着したのです。(中略)いくら人気があり、面白い仮説であっても、誤ったものであれば、それを否定し根絶することこそ現代に生きる研究者の社会的責任だと思います】
古田武彦さんの意見(『日本列島の大王たち』より抜粋)

【戦後史学の中の、もっとも華やかな申し子ともいうべきこの騎馬民族征服王朝説は、いわば皇国史観のアンチ・テーゼとして、朝野の人々の賛同を受けた。同時に、戦後史学の許容する近畿天皇家起源論として、颯爽としており、戦後の研究者の耳目を魅したのである。
それらの人々にとって、その説は失いかたき珠玉の説のように見えているかもしれぬ。わたしも、その啓蒙的意義の大きかったこと、それを認めるにやぶさかではない】
騎馬民族説の問題点その1―古墳期の中間に副葬品の断裂があるか
江上先生は、“農耕民族の歴史的類型は、弥生時代から古墳時代前期の日本にはきわめてよく即応するが、古墳時代後期には、本質的に合致しない。一方後者は、騎馬民族の歴史的類型―とくに征服王朝のそれにすこぶるよく照応する”と仰います。その古墳副葬品の変化は4世紀に突発的断裂的に起きた、と説かれます。
この江上先生の主張に対する反論を探しましたら、佐原真さんが『騎馬民族は来なかった』という本を出されていました。そのなかで、副葬品の変化についておおむね次のように述べられます。
【江上先生は日本の古墳時代の研究について門外漢であるにもかかわらず、4世紀後半の中ごろを境とする古墳の「急転的・突発的」変化がある、とされた。これについて多くの考古学者がその誤りを指摘した。小林行雄・白石太一郎・柳沢・田中琢・千賀久さんの反対論を紹介(詳細は省く)】
そして、田中琢さんの【200年近い長い期間に起こった現象を一まとめにするあらっぽさ】という表現でまとめています。勿論、騎馬民族説に同意する学者がいる(奥野正男氏など)がいることもかかれています。
最後に千賀久さんの【百済清州新鳳洞古墳で轡と鐙が集中的に副葬されているのが確認され、騎馬集団の墓地と考えてもおかしくないが、同じ時期の日本の例ではそのようなことはなく、古墳群内の1基のみに馬具が副葬されている程度であり、当時、武装した重装備の騎馬軍団は日本では存在していなかったと考えるのが妥当である】という意見で締めくくっています。
当研究会もこの佐原真さんの意見は真っ当な意見だと思います。

騎馬民族説の問題点その2―古代の文献史料との整合性はどうか?
江上先生はいろんな文献から、騎馬民族説の正当さを説かれます。
☆① 三国志魏志東夷伝辰韓の条 
☆② 記紀の天孫降臨説話 
☆③ 記紀の神武東征の説話 
☆④ 記紀の二人のハツクニシラス問題 
☆⑤ 唐書の「日本国号」の記事、などです。

☆① 江上波夫先生は、辰韓の地から北部九州に騎馬集団が上陸し、その後近畿に歩を進めた、と説かれます。その証拠の一つとして、『三国志魏志』東夷伝辰韓の条の記事を上げられます。
確かに「辰韓は、牛馬に乗駕す」、と書かれていますし、「その王は他国からのいわば流れ者的であり、辰韓人ではない」、というような記事もあります。その点では「騎馬国家」としての資格があるように見えます。
しかし、東夷伝に書かれているのはそれだけではありません。辰韓は、「土地は肥えていて五穀豊穣の地であり、男女倭人とそっくりで、文身し、歌舞・飲酒を喜ぶ」、とあります。「戦は歩兵戦に優れている」、ともあり、騎馬民族国家というより、むしろ倭人伝にいう倭人の国によく似た国と云えると思います。
騎馬民族国家が征服王朝を近畿に造った、というのは無理筋ではないかと、辰韓の条から見ただけでも言えるのではないでしょうか。そして、「王は、馬韓人を以ってあてる」、というように書かれています。ところが、馬韓の条では、「馬韓人は、牛馬に乗るを知らず、牛馬は死を送るに用う」と書かれているのです。
太古より、朝鮮半島南部と北部九州に住んでいた民族は、お互いに文化の交流(戦争的な交流も?)があって、それぞれに影響しあった仲であった、とするのが常識的な推論かなあ、と思われます。
ついでに言いますと、4世紀の応神天皇の時期が騎馬民族王朝建立の時、とされます。確かにこのころ、百済から馬一番(つがい)が百済から贈られてきた、という記憶があるようです、が。このころの『古事記』や『日本書紀』の記事を100%否定しないと成り立たない「騎馬民族国家説」のようです。
『古事記』 応神記 「百済国主照古王、以牡馬壱疋、牡馬壱疋、付阿知吉以貢上」)
4世紀のころ、高句麗との戦闘で騎馬の威力を知って、倭人も騎馬文化の吸収に努めたことは容易に想像できます。4世紀以降の考古学的遺物に馬具などの出土が増えてくることからも窺えます。
☆② 記紀の天孫降臨説話
『記・紀』の天孫降臨説話の舞台は北部九州である、朝鮮半島から進出してきたのである、とされます。しかし、スサノオ命が韓国に天下った、という話との整合性がとれないところは頬被りです。

☆③ 記紀の神武東征の説話
神武東征については、征討軍に水先案内がつくところなど、扶余の神話に酷似(p180)しているから、ここは創作とされます。崇神天皇が日本の創建者とするために、神武天皇は存在してはならないようです。
☆④ 記紀の二人のハツクニシラス問題
前項と同じように、神武天皇創作説の補強として、神武・崇神の送り名が「ハツクニシラス」と同じ名である、崇神が真の創建者である、とされます。
この二人のハツクニシラス問題は、槍玉その5永井路子さんの『異議あり日本史』批判で取り上げました。この二人のハツクニシラス問題について、古田武彦さんが、『ここに古代王朝ありき―邪馬一国の考古学』で判りやすくまとめられていましたので、この巻末に掲載しました、ご参照ください。
☆⑤ 唐書の「日本国号」の記事
9世紀の唐書の「日本の国号」記事を3世紀の状況に引用されています。ちょっと強引すぎな。何でも自説に使えそうなものは取り込んでいる感じです。
騎馬民族説の問題点その3―この「騎馬民族国家」に引用のない古代史資料
重要と思われる、古代史資料で、江上先生が引用されないところ、つまりご自分の説に都合の悪いところを見てみます。もしも、江上先生の仮説が正しいのであれば、いろんな史料事実もその仮説の矛盾なく説明できる筈なのです。
①-1 『三国志魏志』東夷伝の引用が少ない
僅かに辰韓の条の辰王のことを取り上げていることは前述しました。そうしたら『魏志』倭人伝の狗奴国との長期間の戦闘の記事などどう解釈すればよいのでしょうか。江上先生は、卑弥呼の時代以前は農耕民族の平和な国、といわれますが、矛盾します。
★①-2 辰韓について、辰王が流れ者的に書かれていることだけを取り上げ、そのような騎馬民族系の王が任那を根城にして北部九州へ勢力を移した、とされます。卑弥呼の国は主力が近畿に東遷し、その空いた所に入りこみ、4世紀に近畿まで平和的に進出し農耕民族を馴致した、とされます。
①-3
 朝鮮半島諸国や日本列島内部でも、人質のやり取り、婚姻政策などの人的交流が行われていたことは、日韓の史書にも見えています。遺伝子などの研究結果からも日韓ではかなり近い民族ということがハッキリしています。
②-1 高句麗の好太王碑文に、倭人との戦いが何度も出てきます。これは江上説のように4世紀に日本が騎馬民族国家になっていた、とすれば、騎馬民族同士の戦い、ということになり、それなりに解釈が欲しいところです。または、倭が農耕民族国家であったとすれば、農耕民族が海外で騎馬民族と対等の戦いをしているのです。(p167~168で、平和的な倭国と書かれていることと完全に矛盾しています)が、江上先生は黙殺されています。
②-2 倭が騎馬民族の一派、それも好太王の数十年前に倭に王朝を立てた、のであれば、何らかの形で碑文に特筆されていておかしくないでしょう。このことも、江上先生が碑文を取り上げたくない理由なのでしょう。
 『宋書』にある倭王武の「海北95ヶ国を平らげ云々」の上奏文も②と同様です。このところも江上先生は黙殺されます。特に、『宋書』の倭の五王の記事に見られるように、倭国が宋の政治支配形態の中に組み入れられていた、という事実と、墓制・冠などの整合性について全く考慮を払われていないのは理解に苦しみます。

 『隋書』にかかれています、俀国〈たいこく〉の異様な統治形態、多利思北孤の兄弟執政についても、騎馬民族国家のものとは合わないのでしょう、江上先生は黙殺されます。
 銅鐸 この古墳期に消えた銅鐸、このことについて全く触れられていません。
おそらくご自信の説にプラスにならないからだと思いますが。
このように、ご自分の都合のよいところだけを取り上げる江が上先生の態度について、佐原真さんも『騎馬民族は来なかった』で、次のように述べています。
共通点しかあげない不公平と小見出しをつけて、次のように述べられています。
【江上波夫さんが騎馬民族と古代日本との共通性だけを取り上げているのは不思議です。AとBとを比べるとき、共通性だけを取りあげても、比較としては半分にすぎません。AとBの共通性と同時に、違いを取りあげる。これではじめて両者を公平に比較できる、と思うのです。
似ているところだけをとりあげるのならば、どの二つの文化間にだって共通性は指摘できるでしょう。古代のエジプトには、和鋏と共通する鋏があり、日本と共通する世界的に珍しい手前に引く鋸があります。
江上さんが自説に不利な点をあげることなく、有利な点だけをかかげるのは、結論を導くための正しい手続きとはいえません。(後略)】(同書p207)と。
常識的理性的な人なら誰でも感じることだと思います。

このような「騎馬民族説」の問題点の根源は
結局、問題は江上先生の思い付き的な仮説にあると思われます。この「仮説」について、このようにのべられます。(「騎馬民族国家」まえがきより抜粋
【歴史の復原が難事業であることはいうまでもない。そこでは仮説的復原作業が各方面から繰り返しなされ、それらのすべてが矛盾なく、一つの統一体に綜合されて、始めて真の歴史の復原が成就されたといえるのである。
(中略)私は土器の復元の経験から、ある特定の土器の復原という具体的な作業のためには、土器の構造的な理論や、その発展形式の原則よりも、関係ある地域・時代の土器の、仮説的全体像ともいうべき土器の集成図(コルプス)がとり多く役立つことを知ったのである。(中略)
これがあると、例えば弥生土器の集成図があれば、縄文式』時代の遺跡から出土した一群の土器を、その集成図の土器に引き合わせてみても、類似したものが一つもなく、両者の無関係なことは一見明瞭である。(中略)
それで歴史の復元の場合にも、集成図的な仮説全体像があれば、便利であろうと思うが、現実の問題として、土器の集成図のように、具体的な事実が一目瞭然という図表的なものは容易にできない。しかし集成図的な仮説全体像を歴史の復元に役立てるという構想そのものは可能であり、また必要であろう。

そのように考えて、わたしはユーラシアにおける農耕民族の歴史的諸類型と騎馬民族の歴史的諸類型とを集成し、ユーラシアの農耕民族と騎馬民族の歴史の仮説的全体像の作成を試みてきたものである】
そして、その「騎馬民族国家」という集成図に合わない断片は捨てて顧みられなかった、ということなのでしょう。
それともうひとつ、【(騎馬民族が侵入したと思われる)古墳期前期に、騎馬民族の日本列島侵入の事実を反映するような、考古学的事象が認められるであろうか。これを積極的に実証するようなものはまだ見いだされていないようである。しかしそれは、ミッシングリンク(系列上欠けている要素)にちがいなく、将来かならず見いだされると、私は考えている】(同書p172)
“あるかもしれない”と主張されることを、“ないという証明をすること”は難しいことです。そのような、屁理屈に乗って構築されている「騎馬民族征服王朝説」ではないのかなあ、東大教授をされた方に向かって云うのは不遜かもしれませんが、と読みながら不安を感じます。

むすびに代えて
東京大学教授という立場で、騎馬民族征服国家説を掲げ、古代の記紀の説話は全くの創造であり4世紀には国外にも史料は無い、などと仰ったわけです。オマケに文化功労者として350万円の年金を受ける栄誉と、その後文化勲章まで受勲されました。いわば、外から見れば、江上説は勲章に値する、と国が認めたことになったわけです。騎馬民族王朝征服説信奉隊御一行謎の4世紀、『記・紀』は創作されたもの、任那からの日本進出など、というその説は、小説家の創作意欲を嫌が上にも掻き立てたことでしょう。
黒岩重吾・松本清張・高木彬光・安本美典・豊田有恒など、それを錦の御旗と掲げて亜流説の発表が相次いだのです。
佐原真さんはじめ考古学者の大方が疑問の声を上げていらっしゃったのは事実でしょうが、決定打に欠けていました。
古田武彦さんが冷徹な目で批判をされなければ、安本美典さんや豊田有恒さんたちの後をついて行く後継者を絶つことが出来なかったことでしょう。
基本的には「記録魔的な歴史文書の中国の史書に全くその片鱗も見えない。近畿王朝の祖先が騎馬民族国家であり、朝鮮半島から九州に渡来し、そして近畿に来た、という偉大な歴史があるのなら、それにまつらう説話が『記・紀』に全く影も見せないのはなぜか」ということだろうと思います。
寅七がだけが言うのでは信用ならないかもしれませんので、巻末に古田武彦さんの発言を載せておきます。
古田武彦さんが『邪馬一国の証明』および『日本列島の大王たち』で述べられました、騎馬民族渡来説についての批判を紹介してまとめとします。(朱書は棟上)

『邪馬一国の証明』 角川文庫1980年刊(p135~152)
「謎の四世紀」の史料批判それは謎の四世紀と呼ばれる”不明の世紀”だ。その一世紀の暗闇に乗じて、戦後多くの仮説が続々と生産された。例えば「
騎馬民族説」、例えば「応神東征説」等々。しかし、この世紀の真相は本当に謎なのだろうか。果たして不明なのだろうか。
(中略)何故、「謎の四世紀」などと、従来言われてきたのだろうか。その理由は、ほかでもない。何といっても”史料がない”とされたことだ。三世紀には『三国志』があり、その仲の魏志倭人伝に邪馬壱国の女王卑弥呼のことが書かれている。
一世紀飛んで、五世紀になると、『宋書』がある。その中の倭国伝には倭の五王のことが書かれている。(中略)こう言うと、すぐ問い返す人々がいるかもしれぬ。”そんな外国史料のことなど、言わなくてもいい。わが国には『古事記』『日本書紀』があるではないか?”と。
しかし、『記・紀』は八世紀成立の後代史料だ。だから、史料批判なしに、その記事をそのまま「史実」として採用することはできぬ。とすると、問題はやはり、中国史料だ。倭国に隣接した、この稀代の記録文明圏。その中国の中には、本当に”四世紀の倭国についての記録”は存在しないのだろうか?たしかに従来の古代史家は、”それはない”と言ってきた。
しかし、わたしはこれに対し、ハッキリと”否!”と答えたい。―”四世紀の中国史料は厳然と存在する”のである。
その第一は『南斉書』倭国伝だ。(中略)。(その南斉書に)”この倭王武の王朝は、『三国志』の魏志倭人伝に記せられた女王たちの後継王朝である―”そのようにハッキリと記述しているのである(以下これを南斉書の証言と呼ぶ)。
この証言のもつ、史料としての信憑性はきわめて高い。だから、いわゆる「騎馬民族説」であれ、いわゆる「応神東征説」であれ、”三世紀の倭国と五世紀の倭国との間には、王朝の系列において大きな断絶があった”、このような見地に立つ、従来のすべての仮説は、”南斉書の証言”をあまりにも安易に無視していたのである。
このことは、邪馬台国=近畿説なら、矛盾しない。四世紀段階に近畿へ外部から大規模な侵入があった、は成立しない。邪馬台国=九州説、倭の五王近畿説は成立しない。
つまり、南斉書が記すことは、卑弥呼の国=九州説は「倭の五王=九州」説に帰着する。
そのほか、四世紀の史料として、『翰苑』の注記に引用されている『広志』にも倭国についての記載があり、基本的に魏志倭人伝に記載されていることと食い違いはなく、傍国についてはより詳しくなっている。
結論として、中国の正史たる『南斉書』の証言するところによれば、斉から授号された倭王武は、三世紀卑弥呼の後継王朝であり、両者間にさしたる王朝断絶の存在した形跡はない。
次に四世紀前後の晋代の書『広志』によると、その頃の倭国の首都圏は、筑紫(博多湾岸と筑後川流域)であり、「八女」付近は、その圏内南辺の中枢地となっていた。従って右の二史料のしめす所、倭国は三~五世紀を通じて筑紫の中枢部に都を有する王朝下にあった。
私がかって『失われた九州王朝』の中で提起した、九州王朝がこれだ。四世紀の倭国は「謎」ではなかったのである。

『日本列島の大王たち』 朝日文庫1988年刊(p77~83)
「騎馬民族渡来説」の検討
(二人のハツクニシラスが成り立たないことを立証されたあとで)従来の「二人のハツクニシラス」の論証は、神武架空論、八代架空論に対する屈強の立証と考えられていた。その立証が虚妄であったとすれば、当然この点からも、神武実在、八代実在の命題が復権してこざるをえないのである。

この復権の意義は、重かつ大である。なぜなら、たとえば、
騎馬民族説。戦後史学の中の、もっとも華やかな申し子ともいうべきこの説は、いわば皇国史観のアンチ・テーゼとして、朝野の人々の賛同を受けた。
同時に、戦後史学の許容する近畿天皇家起源論として、颯爽としており、戦後の研究者の耳目を魅したのである。それらの人々にとって、その説は失いかたき珠玉の説のように見えているかもしれぬ。わたしも、その啓蒙的意義の大きかったこと、それを認めるにやぶさかではない。しかし、より重大なものがある。真実だ。(中略)

そのような目で率直に見れば、江上波夫氏の
騎馬民族説は、津田史学の双肩の上に立脚している。なぜなら、それが近畿天皇家の起源論である限り、記紀自身の語る起源論、九州日向の発進論、しかも弥生期の発進論を否定したのちに、その存在意識を保証される、そういった基本性格をもっているからである。
さらに、津田史学の根本たる「記紀説話造作説」、これも「
騎馬民族説」にとって、不可欠の大前提だ。なぜなら、一見すれば明瞭なように、記紀説話には、一切、騎馬民族の渡海来日譚など語られていないからである。
逆にいえば、もし本当に騎馬民族の大陸から日本列島への侵入があったとすれば、これほど絵になる光景はまたとないであろう。説話は、この血沸き肉躍る光景を華やかに語らずして、何の説話であろう、何の伝承の名に値いしよう。
(中略)文献史家、井上貞光氏は、応神(第十五代)が九州に生まれ、母(神功皇后)と共に東上して近畿に入ったことをもって、「
騎馬民族の長」応神の「大陸→九州→近畿」の三段跳びの侵入の徴候と見なそうと欲せられた。
けれども、記紀説話を先入観なしに読む人の誰人が、仲哀紀や神功紀の中に「
騎馬民族の大陸からの渡来」などを読みうるであろうか。これは、「津田史学の亜流との名を喜んで受ける」と称された井上氏にして、はじめて可能なことだ。
なぜなら、記紀説話などどうせ架空、そういう大前提に立ってこそ、はじめて右のような読み替えを敢行しえたもの、後代の研究者は必ずやそのように評するであろうから。すなわち「
騎馬民族説」という先入観に立って、文献 の事実を読み変える、そのように大胆な史料無視の許容された、戦後三十数年の流行―そのような時代の雰囲気を理解せずには、後代の研究者はこれを解するに苦しむことであろう。なぜなら、これは決して小説の世界に非ず、学問の世界のことなのであるから。
(中略)わたしは津田氏と江上氏が戦後史学に果たしてきた輝ける役割に深い敬意を表しつつも、すでに時代は新たな扉の前に立っている、そのことをここに明記しておきたいと思う。
       (この項終わり)

  付記 
今回は「騎馬民族国家」説の批判に、佐原真さんの「騎馬民族国家は来なかった」を大いに参照させていただきました。この点では感謝しますが、佐原さんの陰に籠ったような古田武彦批判をなさっていることは頂けませんでした。
古田さんが『邪馬一国の考古学』の中で”一定の文化特徴をもった出土物が一定の領域に分布しているとき、それは一個の政治的・文化的な文明圏がその領域に成立していたことをしめす”と古田武彦さんが「公理」として述べられていることについて、1911年にドイツの考古学者コッシナがゲルマン民族の優秀性を示すために唱えたものと同じ、というようないわば言いがかりをつけています。同書p216
  参考図書

『騎馬民族は来た!?来なかった!?』 江上波夫・佐原真 小学館 1990年刊
『騎馬民族は来なかった』 佐原真 NHKブックス 1993年刊
『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』 古田武彦 朝日新聞社 1979年刊
『邪馬壱国の証明』 古田武彦 角川文庫 1980年刊
『日本列島の大王たち』 古田武彦 朝日文庫 1983年刊

 付録
二人のハツクニシラス論 『ここに古代王朝ありき 邪馬台国の考古学』p226~228より
【まず、この説を要約しよう。”『記』『紀』の伝えるところ、「ハツクニシラス」つまり建国第一代の天皇とせられている者が二人いる。一人は、神武天皇、他は崇神天皇である。しかし二人も建国第一代がいるはずはない。当然、真の建国者は崇神だ。これに対し、のちに神武という架空の第一代の天皇、さらに第二~九代の天皇が造作されて、天皇の歴代系譜の上に架上されたのである”というものだ。
魅力的な説だ。天皇系譜を架上してうえに伸ばす。これはなかなかありそうな話だからである。しかし、本当にそうだったか。わたしは、『記』『紀』の両書の原史料(現存古写本)について念のため検証してみた。
たしかに崇神の方はよかった。所知初国天皇(古事記) 御肇国天皇(日本書紀)とある。『古事記』はずばり「ハツクニシラスだ。『書紀』の方も、ほぼその意味だ。ところが、神武の方。『古事記』には、全くこの称号がないのである。つまり、『古事記』については、まず、二人のハツキニシラス」説は成立できないのだ。
これに対し、『日本書紀』、始馭天下之天皇。これは、ちょっと「ハツクニシラス」とは読みにくい。そこで古写本をしらべてみた。
奈良・平安・鎌倉と下がってきても、ハツクニシラスという振仮名はみつけられない。十六世紀室町時代(北野本・卜部兼右本)に至って、はじめてあらわれる。すなわち、これは室町期の学者の認識をあらわす読みだ。これを『書紀』原本のものと速断できない。それに肝心なこと、『書紀』は本来漢文で書かれており、振仮名は後世のものだ。だから”いきなり振仮名で勝負する”のは、史料批判上、危険なのだ。
『書紀』の本文(始馭天下)は、「ハジメテアメノシタニシロシメス」とは読めても、「ハツクニシラス」とは読めない。崇神については和訓に近い表記があった『古事記』のも、ここでは全くその痕跡がない。すなわち二書とも神武については、「ハツクニシラス」の称号がある、とは言えないのである。これはどうしたことだろう。
この問題の回答は、「ハツクニ」の語義にある。「初国」に対する反対語は「本国」だ(仁徳記・顕宗記等)。後者は”本来の故国”の意。前者は”新たに統治した国”の義だ。いわば、新占領地である(用例は『盗まれた神話』参照)。
とすると、崇神については明白に「ハツクニシラス」と書いてあったのももっともだ。崇神ははじめて銅鐸圏の大和包囲網を突破し、新占領地を東方に、北方に、さらに山城・河内へとひろげ、はじめて大和を「孤立の地」ではなく、「近畿の中枢地」とした、そういう拡大圏の支配地としては、まさに”初代”だったからである。
以上のように、津田左右吉によって示唆され、肥後和男によって明確化され(のち、肥後は撤回)、井上光貞・直木孝次郎等によって「定説」化された。この「二人のハツクニシラス論」の、よって立つ史料批判的基礎は、あまりにも薄弱だったのである。】
この論調で、引き続き、この古田さんの説に反論を試みた方々への再批判も述べられていますが、煩瑣になりますので、同書を直接ご参照ください。

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