槍玉その11 『マンガ日本の歴史がわかる本』 監修 小和田哲男 画 小杉あきら 批評文責 棟上寅七
これまで、歴史教科書を批評する前に、小説家や、所謂歴史学者さんの著作を取り上げて来ました。
ここらで、教科書的なものを、と思い、マンガの歴史書なら組みし易し、と思って表題のマンガ本を取り上げてみることにしました。
この本は、小和田哲男さんという大学教授が、ご自分の歴史観で通史的に纏められた、『日本の歴史が分かる本』(全3巻)と本格本が元本です。
著者の略歴をご紹介します。
小和田哲男 1944年静岡市生まれ 1972年早稲田大文学研究科博士課程終了 静岡大学教育学部教授 文学博士 著書は『秀吉のすべてがわかる本』『日本の歴史がわかる本(全3巻)』『日本の歴史 とっておきの話』など多数。
この『マンガ日本の歴史がわかる本』はマンガ本ですから、書物に比べるとストーリー量が、ぐっと限られてきます。
このマンガ本の中身で、当研究会の対象とする古代史で、取り上げられている目玉ストーリーは、以下のような話です。
①縄文から弥生時代を「徐福伝説」で。
②弥生時代を「邪馬台国 卑弥呼の時代」という形で。
③古墳時代を「三輪王朝による大和王権確立」 ~「磐井との内戦勝利による日本統一」で。
この3時代区分の内、②の邪馬台国は、今まで何度となく取り上げてきましたし、後述する理由から、今回は、作画の鑑賞批判だけに止め、①「徐福伝説」と③「三輪王朝」の2点について検討していきたいと思います。
ところで、このマンガの本からだけで、小和田先生の歴史観を見ることは難しかったので、このマンガ本の原作本を手に入れる必要がありました。
その本の中で小和田さんは、邪馬台国論争について、古田武彦さんの著書は読んだが自分は同意できない、奴国(なこく)は博多に間違いなし、と理由を示さずに断定されています。
これは、改めて、マンガ本でない小和田さんの著書を、槍玉に上げる必要があるなあと思いまして、今回は割愛することにします。
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しかし、あくまでも、批評の対象はマンガ本です。文章だけでなく、作画も批判の対象にしなければならないのかもしれません。これは、棟上寅七の能力では、対処できない分野です。
しかし、幸いなことに、同じ時代を題材にした、古田武彦さん監修のマンガがありました。
槍玉その9 松本清張『古代史疑』の検証・批判の中でご紹介しました「真実の歴史学 なかった」という雑誌に「太陽の娘ヒミカ」というマンガの連載が始まることが告げられ、主人公の人物画を載せられています。
卑弥呼姉弟と登場人物は同じです。二つの主役人物を並べて紹介しましょう。
作画に相違点は、卑弥呼の首飾り、と弟の髪形でしょう。
首飾りは、岩戸山古墳や慶州天馬塚での出土品に見るような、勾玉いりの首飾りは右図です。管玉を多用しているのが左図です。
髪形は、『日本書紀』(岩波文庫版(二)p85)の崇峻即位前紀分注に「古俗、年少児年、十五六間、束髪於額」とありとしています。右図の感じとは異なるようです。しかし、左図の成人男子は皆、側頭部にたぶさを集めています。たぶさの位置なども地位によって異なっていたのではないか、は想像の域を出ませんが、少なくとも画一的な感じがします。
ノリキオ画伯は、「左は面白みが無い、教科書的。右は想像が飛んでいる。目は右が良い、右の作画の方が読者には好かれるのでは」、との意見。
閑話休題(昔の講談本の振り仮名は、それはさておき、とありました)本論に戻りましょう。
①縄文時代から弥生時代へと文明の進化を「徐福伝説」で説明しています。
つまり、この本では、縄文時代の日本列島に徐福一行が渡来して、稲・鉄などの文明を伝えた、としています。
一応、何度かの、沢山の渡来人が来た。徐福はつまり一人ではない、例示として、徐福を取り上げる、という弁明は述べられています。
その本の中で述べられていることをご紹介しましょう。
『縄文時代には、竪穴住居がいくつか集まってむらを形作っていた。このムラは厳密に言えば共同体とは言えず、まだムラを引っ張って行く首長が誕生していなかったからである。
しかし、農業共同体の時代になると、リーダーが必要になる。また、米は貯蔵が出来るため、多く貯蔵する者とそうでない者との差が生まれてくるようになった。
こうして私有財産の観念が生まれた。また、鉄器を所有する人間が他より上に立つようになったのである。
つまり、縄文時代には存在しなかった権力者が誕生したのだ。
ここから、権力者による支配の歴史がはじまるのだが、そのもとになったのが、稲作と鉄器であった。
縄文時代晩期に、大陸から渡ってきた徐福。だが徐福は一人ではない。この時期、大陸から日本各地に多数の徐福が渡ってその地にとけこみ。稲作や鉄器といった文化を伝えたことだろう。
こうして時代は縄文時代から弥生時代へと移る。
小和田先生の説明では、縄文時代は狩猟・採集で無智ながらも平和に過ごしていたとされています。それが、稲作によって食物生産力が増大し、貯蔵食料~私有財産~権力の発生、という流れだそうです。
生産性の飛躍的変化が、社会の変化を生む、という100年前に唱えられた唯物史観の教条的解釈のような感じがします。まず第一に、この点、稲作の到来によって時代が変わったという点、が果たしてそうだろうか、と私達の常識が違和感を覚えます。
貝塚で示されるように、日本列島の周囲の豊かな海の幸、多量に採集され天日に干された魚介類、等々が、貯蔵食料・交換物資に充分なり得た、と思います。
縄文時代の石器生産・木材の切り出し加工・ヒスイなどの石の精密加工・どれをとっても、統率の取れた集団社会と余剰労働力の存在が欠かせないと思います。
中国大陸でも、匈奴と呼ばれ、その後、金王国・元帝国を建てた人たちは、穀物生産とは無関係に権力的社会構造を作り上げたのではありませんか?すでに、日本列島でも、縄文時代から権力構造が社会に根付いてた、と思う方が理性的なはんだんではないでしょうか。それをブーストする役割を”稲作”が担った、ということであれば、まだ納得できます。小和田先生によりますと、歴史は文字で書かれて初めて言えるそうです。
このマンガ本の序説に小和田先生は 【考古学の所謂遺物からだけでは私達の先祖がどのような生活をしていたのか見えてこない。やはり、文字史料がないことには、わからないことが多いのだ。ちなみに、歴史の歴は経歴とか履歴の歴で、過ぎ去った出来事をいい、史は記録の意味である。つまり、記録された文字史料があって歴史になるというわけだ】と。
従って、いくら立派な火焔土器を作り、いかに精巧に銅鐸を鋳造し、いくら壮大な出雲大社みたいな高楼を建てても、又、出土品や伝承物語があっても、文字記録が無ければ歴史とは云えない、そうです。
そうなると歴史観の問題、と一言で批判も終わってしまいますが、やはりなんとか具体的に小和田史観を検討したいと思います。しかし、文字記録を強調される小和田先生は、徐福が文字を何故日本にもたらさなかったのか、について何も述べられていません。
文字大国中国の、3000人の集団では、文字による意志の上意下達がなされていて当然だったと思われるのですが。
次に問題にしたいのは、稲の歴史です。
インターネットで稲の歴史のキーワードで検索してみました。沢山ヒットしました。その中の、米どころ秋田県の公式ホームページで、農業科学館の伊東先生が、Q&Aの形で次のように答えられていました。
【稲は、BC700年ごろ北九州に中国・朝鮮半島から渡来し、BC500年ごろには東北地方でも稲作がされるようになった】
これは、福岡市教育委員会が1978年に行った調査で、板付遺跡の縄文時代の地層に稲作の跡が確認された、という発表にも裏付けされる意見です。
ところで、”徐福伝説”ですが、簡単に述べてみます。
さすが、文字文化大国中国です。秦の司馬遷が表した『史記』に記録に残っています。
『史記』には、秦の始皇帝の命で”徐市”という人物が不老不死の薬草を求めて3000人の団体で東海の島を目指して船出し、其の地で王となり帰らなかったと記されています。
徐市という人物はBC219年に船出したとしています。その徐市という人が、発音の類似から日本に伝えられている徐福という人とされています。
徐福渡来伝説の地は10箇所以上の日本各地に存在するようです。その内有名なのは、佐賀県金立町、和歌山県新宮市、京都府伊根町、山梨県富士吉田市などです。
近年1997年に中国の徐阜村というところが徐市の故郷ではないか、という研究結果が発表され、その実在性が確かになったとされます。
BC3世紀の終わりという頃は、日本では、丁度縄文土器から弥生土器に変化している頃です。しかし、既に北部九州に稲作が始まって400年以上も後のことなのです。徐福と稲作文化の到来とを、直接結びつけることは無理があります。
マンガ本なので、その時代のトッピクスを取り上げる手法は、止むを得ない面はあるでしょう。しかし、”弥生文化”を先進文明集団のご指導によって、吾らの祖先、原始的縄文人が文明化された、という歴史の捉え方は、如何なものかと思います。
縄文~弥生の移行期、つまり、金属器の文明が入ってきて根付く時期に、それを受け入れる土壌が、知的真似能力に富む倭人と呼ばれる人々、土器や石器の精密加工技術に優れた特質を持つ人々、が存在していたから、弥生時代が花開くことが出来た、と捉えるほうが自然だとおもいます。
また、その後の「倭国」の朝鮮半島での、高句麗王碑に見られるような暴れぶりに見られるような、戦闘体質を持つ倭種の人々が、金属製武器を手にしたことは、不幸にも、殺傷能力を持った集団同士の戦闘規模も大きくさせたことでしょう。
棟上寅七は私見ですが、3000人もの大集団が数十隻の大型船で、例えば、有明海沿岸に到着したとして、当時の倭人はどう対応したでしょうか。
倭人は小和田先生の思われるような平和的な縄文人だったのでしょうか?それともイワレヒコの伝説に見られるような好戦的だったのでしょうか?
吉野ヶ里遺跡の首無しで甕棺に納められている出土遺骨を見ると、後者と思う方が妥当のような気がしますけれど。
また、縄文から弥生時代への文明の進歩の大きな要素、金属器の製造技術、の倭国への取り入れ方も果たして平和裏に行われたのでしょうか?
先進地の技術集団を丸ごと強制的に連れてきた、遥か後世の、陶磁器製造技術を秀吉の配下の武将が、どのようにして日本に移植したか、から演繹的に考えれば、平和的でなかった可能性の方が大と思われます。
この『マンガ日本の歴史がわかる本』は、社会・国家の発展について、誤った歴史観、つまり、文明先進国は慈悲深くあらせられ、自身の持つ文明を野蛮国の人々に与え・教え・導いてくださった、と青少年に誤解させるのではないかと懸念します。
次に③の三輪王朝説を見ていきたいと思います。
三輪王朝説とは何ぞや?と思われる方もいらっしゃると思いますので、この本の”地の文章”に記してあることをご紹介します。
【三世紀当時日本には、吉備国、出雲国など邪馬台国と同規模の国々が存在しており、ここ奈良盆地 三輪山の付近にも強大な国ができつつあった。
この大和盆地に興り、畿内を代表する勢力となったのが、大和王朝の前身である原大和国家である。原大和国家は、崇神天皇の時代になってようやく姿をはっきりさせて来た】とあります。
三輪王朝が大和朝廷と発展し日本全土を統一した、と、この本は述べています。
これだけでは「三輪王朝」のイメージがはっきりしませんので、インターネットで検索しました。
三輪王朝についての説明は、三輪山の地元、桜井市の公式ホームページの説明が要を得ているようですのでご紹介します。
【初期大和政権成立の舞台とされる、三輪山山麓地域にいとなまれた宮に、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮、第11代垂仁天皇の纏向珠城宮、第12代景行天皇の纏向日代宮があります。
このように記紀の伝承によると、宮居を三輪山麓につくり、陵墓もその近くに造営したとされる崇神・垂仁・景行の三代を三輪王朝とか、崇神・垂仁天皇の和風諡号からイリ王朝とも云っています】(崇神天皇の本名、ミマキイリヒコイニエ。 垂仁天皇の本名、イクメイリヒコイサチ)
このマンガ本には、3世紀当時、日本にはそれぞれの国々があった、という前提で書かれていますが、三輪王朝の前の時代が全く語られていません。
いわゆる、通説では、槍玉その7宮脇俊三さんの『古代史紀行』に述べられていますように、【神武天皇から九代の天皇は架空で、崇神天皇が九州から東征してきた】とされているのを検証しその間違いを指摘しました。
しかし、小和田先生は、自然発生的に、原大和国家が出来た、とされます。
しかしながら、奈良盆地での銅鐸の突然の消滅 が全く語られず、大和王朝の三種の神器と北部九州の古墳出土品との同一性も無視されています。
少なくともこの2点のことを無視して、原大和国家なる概念を創出するのは、歴史本として常軌を逸しているのではないかと思われます。
『史記』からの徐福を持ち出すのなら、同様に、『後漢書』の記事、”東鯷国”を出して、三輪王朝との関係でも示唆してもよかろうに、とも思います。(『後漢書』に出てくる東鯷国につきましても、槍玉その7、宮脇俊三さんの『古代史紀行』の中で”ナガスネヒコの国”を紹介していますのでご参照ください)
北部九州からの何らかの政治勢力の進出があった、と考えなければ、上記の謎の解明は出来ないでしょう。
結論
この『マンガ日本の歴史がわかる本』は、小和田哲男さんの歴史観をデフォルメして、描写しているために、非常にゆがめられた日本歴史になっているといえましょう。
マンガ本としたのは、対象を若い層に絞って購買層としたのでしょうが、この本を読むことによって、間違った歴史観を植えつけられ、かつ、教科書とも異なっており、お受験にも有害な本と思われます。
先述しましたように、小和田哲男さんには、マンガでない著書で再度登場していただこうと思っています。
(この項おわり)
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