道草その9 記紀に見る古代の皇位争奪
槍玉に亀田先生の”壬申の乱”を取り上げようと思って、本の内容を拝見しました。
壬申の乱は、古代最大の内乱というように亀田先生は位置づけられています。
本当にそうだろうか、確かに記事量は大きいけれど???
ということで、寅七は改めて古事記と日本書紀を読み直してみました。
次の表に見られるように壬申の乱以外に、古事記に見える皇位争奪の争いは12件ありました。
その他内乱としては、継体天皇の即位にまつわる日本書紀には現われていない争闘?、と、筑紫君磐井の乱もあります。
この表の中で、壬申の乱に匹敵すると思われるのは、沙本毘古王の反逆(戦争の期間が長い)、忍熊王の反逆(九州から近江への遠征)などがあります。
寅七の推量を述べさせていただければ、最大の内乱は継体天皇の即位(磐井の乱もこの一環と見られる)時であったのではないか、ということですが、これはもう小説の世界になりますネ。
亀田先生が、日本書紀の記事量が多いことで、最大の内乱と位置づけられるのは如何なものかなあ、と思った次第です。
これを槍玉その18 壬申の乱に載せようと思ったのですが、評だけでしたらともかく、注書が入りますと分量が多く、全体を読み難くすると思われましたので、道草その9として独立の項目を立てました。
壬申の乱の発生した原因についても、いろいろ大化の改新以後の施策に求められているようですが、下表の前例からからみれば、「理屈なし、勝った者が勝ち」という極めて、現代のアウトローの世界と共通しているように、寅七には思われました。
天皇名 |
排除した相手 |
相手の続柄 |
内容(古事記による) |
名前について(日本書紀の場合) |
綏靖 |
タギシミミノ命 |
異母兄 |
当芸志美美命の反逆(注1) |
手研耳命 |
崇神 |
タケハヤコヤス王 |
庶兄 |
建波邇安王の反逆(注2) |
武埴安彦 |
垂仁 |
サホヒコ王 |
后の兄 |
沙本毘古王の反逆(注3) |
狭穂彦王 |
景行 |
大碓命・ |
長男 |
大碓命を弟、小碓命に殺させる(注4)、小碓命を遠国に討伐に何度も行かせ死なせる。(注5) |
大碓皇子・小碓尊 |
応神 |
忍熊王 |
異母兄 |
忍熊王の反逆(注6) |
同じ |
仁徳 |
大山守命、 |
異母兄弟 |
大山守命の反逆(注7)・ |
大山守皇子・ |
履中 |
墨江中王 |
同腹の弟 |
墨江中王の反逆(注9) |
住吉仲皇子 |
安康 |
軽太子・ |
同腹の兄・ |
軽太子のタハケ(注10) |
木梨軽皇子 |
雄略 |
目弱王・ |
叔父の子・ |
目弱王の乱(注11)・ |
眉輪王・ |
継体 |
(倭彦王) |
遠縁 |
応神天皇の5世の孫 |
20年間大和に入ることができず |
天智 |
有間皇子・ |
異母兄弟 |
ーーーー |
有間の謀反・乙巳の変 |
天武 |
大津皇子 |
甥(兄の子) |
ーーーー |
壬申の乱 |
古事記と日本書紀では、細部で異なる(たとえば、目弱王は古事記では、刺殺、日本書紀では、焼殺)が、簡明なのは古事記なので以下の説明は古事記に依る。
(注1)
当芸志美美命は、神武天皇の長男です。神武天皇の死後、その后の伊須気余理比賣を娶りました。
伊須気余理比賣には3人の王子がいました。
当芸志美美はその3人を殺そうとしたので、伊須気余理比賣がそのことをわが子の3王子に教えました。
3人沼河耳が、すぐ上の兄、八井耳に武器を持って当芸志美美を殺したらよい、といいました。
八井耳は、当芸志美美を殺そうと思ったのですが、いざとなると、手足が震えてどうも出沼河耳がそれを見て、兄の武器を取り上げ、自分で当芸志美美を殺しました。
兄たちは弟沼河耳を天皇にし、自分たちは臣下として弟を助けることにしました。
建沼河耳命が綏靖天皇です。
(注2)
崇神天皇は、大叔父大毘古から、遠征先で少女が{天皇が危ない}というような歌を歌っていた、という報告を聞きました。
それは、山城の国にいる庶兄建波邇安が反乱をおこす兆しということで、大毘古に国夫玖命をつけて征伐させました。
(注3)
異母兄妹の沙本毘古と沙本毘賣と垂仁天皇との話です。
天皇は沙本毘賣と結婚しました。
沙本毘古が、兄の自分と天皇とどちらが好きかと聞きます。
兄が、と答えた沙本毘賣に、沙本毘古は小刀を渡し、これで天皇を殺せ、自分と二人で天下を治めよう、といいました。
沙本毘賣は実行できず、天皇は沙本毘古を攻めます。
妊娠中の沙本毘賣も兄と一緒に稲藁の城に立て籠もります。
3年かかりで攻め、稲藁に火をつけ兄妹を焼き殺しますが、子供だけは助かります。
注4)
景行天皇は、兄、大根の子、兄比賣と弟比賣の姉妹が眉目麗しいと聞き、后にしようと、わが子、大碓命を使者に立て貰いに行かせました。
大碓命はその姉妹が美人だったので自分の嫁にし、代わりの女性を見つけてきて、景行天皇をだまします。
ある日、小碓命に、兄の大碓命は最近食事の席に出てこない、出てくるよう伝えているのか、といいます。
小碓命は、ちゃんと伝え、今朝、便所で手足をもぎ取りコモに包んで投げ捨てました、と報告しました。
(注5)
景行天皇は、播磨の伊那毘の子の大碓命、小碓命の兄弟より、八坂の入比賣の子若帯命(後の成務天皇)に皇位を譲りたかったと見えます。
まず大碓命を小碓命に殺させ、小碓命は西の熊襲建クマソタケルや出雲建イヅモタケルや東国の蝦夷征伐に行かせます。
結局旅先で死んでしまいました。(小碓命はヤマトタケルと名付けられたことでも有名です)
(注6)
仲哀天皇は、筑紫で、后の神功皇后と共に熊襲と戦います。
仲哀天皇が亡なり、神功皇后はその子、品陀和気命を連れて都に帰ります。
大津宮の仲哀天皇の皇子忍熊王と戦い、負けそうになりましたが、神功皇后は既に死んだ、戦う理由がなくなった、と嘘を言って、弓弦を切って安心させ、隠し持った弓弦を使って、逆転勝利を収め、忍熊王を殺しました。
(注7)
応神天皇が亡くなり、遺命で(宮主矢河枝比賣との間の子)宇遅能和紀郎子が即位ということになりましたが、(入日賣イリヒメとの間の子)大山守命オオヤマモリノミコトはひそかに兵を集めました。
大雀命は異母弟の宇遅能和紀郎子に知らせ、異母兄大山守命を宇治川の渡しで伏兵を用いて殺しました。
大雀命と宇遅能和紀郎子がお互いに皇位を譲りあっていましたが、宇遅能和紀郎子が病で死に、大雀命オオササギノモコトが即位し仁徳天皇になりました。
(注8)
仁徳天皇は、応神天皇と中日賣の間に出来た子です。
父の応神天皇と宮主矢河枝比賣との間に出来た子供に八田若郎女と女鳥王がいます。
また、糸井比賣との間に出来た子に速総別王がいます。
仁徳天皇は、速総別王を使者に立てて、女鳥王を娶ろうとします。
女鳥王は、自分の姉の八田若郎女が既に后となっているし、本妻の石之日賣命は嫉妬深いので、仁徳天皇の所に行きたくない、むしろ、速総別王あなたのといころに嫁ぎたい、といいます。
仁徳はそれを知り、軍を興してこの二人を奈良の宇陀に追い詰め殺しました。
(注9)
履中天皇が酔って寝ているところを、弟の墨江中王が宮殿に火を付け焼き殺そうとしました。
その時、阿知直というものが履中天皇を助け出しました。
履中天皇は、もう一人の弟、水歯別命に墨江中王を殺すよう命じます。
水歯別命は、墨江中王の部下の隼人を恩賞で釣って墨江中王を裏切らせ、殺させました。
そして水歯別命は、隼人に恩賞を与える、といって大盃で酒をのませ、盃で顔が隠れている時に剣を抜いて刺し殺しました。
履中天皇の次の天皇が、この水歯別命、反正天皇です。
(注10)
允恭天皇が亡くなった時のことです。
長男の木梨軽王がまだ正式に即位していない時、に、実妹の衣通郎女と出来てしまい、世の中の人心が木梨軽王から離れ、弟の穴穂命に付いてしまいました。
そこで、軽太子は穴穂命に対抗すべく、大前宿禰宅で兵器を準備していましたが、穴穂命の軍に囲まれ、致し方なく大前宿禰が軽太子を縄をかけ突き出しました。
軽太子は伊予に流され、その後、衣通郎女も後を追い、両人とも自殺しました。
穴穂命が即位して安康天皇となりました。
(注11)
安康天皇が弟の大長谷王子(後の雄略天皇)の嫁に、叔父の大日下王の妹、若日下王を貰いたい、と申し入れました。
同族の下風につかない、と断られたと使者が讒言しました。安康天皇は大日下王を殺して、その妻、長田大郎女(自分の異母妹)を取って、自分の皇后にしました。
その皇后の連れ子、目弱王が将来自分が父の仇と知ったら反逆するのでは、としゃべったのを目弱王が聞いて、刀を取り、寝ていた安康天皇の首を切って殺しました。そして都夫良大臣の家に逃げ込みました。
大長谷王子は少年でしたが、兄の、黒日子王に父の仇をとろうといっても動かないので、殺しました。
次の兄の白日子王も同様だったので、これも殺し、都夫良大臣の家を囲みました。
都夫良大臣がもう逃れられぬと、目弱王を刺し自分も自殺しました。
(注12)
雄略天皇は、叔父の履中天皇の子、(雄略天皇の従兄弟にあたる)市辺の忍歯王と一緒に狩に出かけました。
早朝、忍歯王が、「まだ寝ているのか、先に行っているよ」と声をかけ、先に馬に乗って出かけます。
雄略天皇の部下が「あの方は何を考えているか分からない、注意するように」といいます。
雄略天皇は衣の下に鎧を着込み、弓矢を持って、馬を出し、両者が並んだ時、忍歯を弓で射殺し切り刻んで埋めました。
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