道草その26 神武と卑弥呼と福岡 2013年2月14日 K会での講演会 棟上寅七
●自己紹介(略)
●神武天皇とは
皆さんがどれくらいこの初代天皇とされる方についてご存知か知りません。 私は、若干ながら戦前の教育を受けていまして、紀元二千六百年の歌などを歌った記憶があります。
紀元二千六百年とは、神武天皇が橿原宮で即位したときから数えて2600年目ということで、昭和十五年が其の年でした。東京オリンピックもそれに合わせて招致されていました。中華事変の拡大で返上されまぼろしの東京オリンピックとなったのですが。
この神武天皇が即位した年というのは、日本書紀の干支の記事から設定されたもので、西暦に直すと紀元前660年ということになります。
紀元前7世紀ということですと、近畿地方は考古学の示すところではまだ弥生時代に入っていず、縄文時代晩期ということになります。しかし神武は金属製の武器で戦っていますから、紀元前7世紀では時代がずれています。弥生時代の人なのです。
太平洋戦争後、この神話に基づいた記録は歴史とは言えない、ということで教科書などでは抹殺されています。ただ、3日前が建国記念日で国民の休日でしたが、このような形でだけは復活している、と言えましょう。
では神武が活躍したのは実際は何時なのか、ということについては、後でくわしくその推測の根拠を述べますが、結果的には縄文晩期ではなく弥生時代ということになります。
●卑弥呼とは
もう一人の古代の有名人は卑弥呼です。こちらは中国の史書「三国志」その中の「魏志」のなかの東夷伝という東方の蛮族の国の一つとして「倭人の国」について述べています。この部分を便宜的に「魏志倭人伝」といっています。
そこに卑弥呼のことも書かれています。『三国志』は殆んどの皆さんご存知と思いますが、漢王朝のあと、 魏と蜀と 呉の三国が覇権を争い、結果的に魏の曹操が三国を統一に導き、その息子たちが 晋王朝を建てますが、この三国時代の記録を蜀の文官であった陳寿という人がまとめ、その歿後認められて中国の正史となりました。 つまりこの『三国志』は同時代史料であり、信憑性が高いものです。
そこには、中国の遼東地方の公孫淵という、いわば地方軍閥を魏が攻めて、中国東北部の版図を確実にした時に、卑弥呼が使者に貢物を持たせて派遣した、とあります。その年は景初2年西暦だと238年のことだと書いてあります。
そこで魏の皇帝、明帝は喜んで、「>親魏倭王」という称号をくれ、沢山の贈り物を持たせて卑弥呼の国、いわゆる「邪馬台国」に持たせたのです。その時の旅程、行程がその『倭人伝』に載っているのです。
ここで、邪馬台国がどこにあったのか、九州か大和かという論争についてお話するのは面倒なだけですが、簡単に云いますと、その「倭人伝」の記事に 「その国は気候温暖で、人々ははだしで生活し、一年中野菜を生で食べている」とあります。行路も朝鮮半島から対馬~壱岐~松浦~伊都と進んできています。瀬戸内海の話は全く出てきません。 これだけの事からも、奈良県ではなく九州であることは間違いないのです。
では、なぜこの女王「卑弥呼」が日本の正史「日本書紀」にも、また「古事記」にも出てこないのか、という大きな謎があります。 ともかく、卑弥呼は倭国の女王であり西暦200年代中頃活躍し、九州に本拠を置いていた、という、仮説で話を進めさせていただきます。
●この二人の接点は
先ほど神武は「日本書紀」では紀元前660年に橿原で即位、ということですが、卑弥呼は「倭人伝」によりますと、2世紀中頃であり、900年も離れています。
卑弥呼の方の記録は、ほぼ間違いがいないのですが、神武天皇の方は実際はどうだったか、それを調べる手立てがないか調べてみました。
資料Aをご覧ください。そこにこの問題に関係する「倭人伝」の記事の2箇所をコピーしています。
この記事の中に、神武の活躍する時代を推定できる大きなヒントがあるのです。ひとつは、小さい字で二段がきで書きこまれている記事です。資料に赤い線を引いているところです。
「魏略にいわく、その俗、正歳四節をしらず。但し、春耕秋収をもって年紀としている」という記事です。
もう一つは、資料Aの中央の赤線部分です。「その人の寿命はある人は百、またある人は八~九十」という記事です。 資料に見えます、その次の記事、その国の大人(たいじん)は皆4,5人の夫人を持っている、女性はみだらでなく嫉妬心もない、など面白い記事もありますが、今回はそこは無視して進めさせていただきます。
最初の記事から、倭人は春と秋を年の区切りとしている、ということで太陽暦に比べると倭人は年に2回歳をとる、ということになります。 二番目の記事は、倭人は非常に長寿である、という記事です。
しかしこれは、考古学による人骨調査の結果とは全く合いません。考古学では、日本の古代人は、縄文時代は平均寿命35歳内外、弥生時代で45歳内外だそうです。それなのに倭人は、80とか90いや100歳生きるといっているのは明らかにおかしいのです。
この二つの記事から分かることは、当時の倭人は一年に二歳年をとる、という暦で生活していた、となるのではないか。こう考えますと全て矛盾がなくなるのです。
●神武の活躍期は
この「倭人伝」にある倭人の暦、これを神武の活躍期の推定に使ってみたらどうでしょうか。 もう一つ、日本の記録からこの二倍年暦が見つからないでしょうか、調べてみました。
幸い「古事記」には、古代の天皇の亡くなった時の年齢の記事が、沢山残っています。資料Bをご覧ください。 これが古事記に記されている古代天皇の亡くなった年齢の一覧表です。何も細工していません。
この記録が残っている23人の天皇方の平均死亡時年齢は、その資料Bに計算結果を書きこんでいますように、90.69歳、約90歳です。驚くほど「倭人伝」の記事に合っています。
そこで、日本の古代はいわば、二倍年歴の世界だった、として神武の活躍期を推定してみてみましょう。 方法としては二つの方法で試算してみました。
まず、一つの方法は、「日本書紀」の年代の記事からの推測です。 日本書紀の天皇の記事に拠りますと、継体天皇の歿年齢は、百済の記録、「百済本記」の記事と若干合わない、とされますが、次の安閑天皇の即位年は531年であるのは、中国との暦の照合も出来ていて、大体間違いないようです。
この安閑天皇の即位531年と神武即位、紀元前660年との差は1191年です。これを一倍年暦に、つまり半分にしますと、596年です。つまり、神武天皇即位は紀元前64年となります。 きほどいいました、神武と卑弥呼の活躍期の差は900年でしたが、600年ほど近づき300年ほどの差になります。
ところが「日本書紀」をよく読みますと、神功皇后を卑弥呼に当てているのです。そのために「日本書紀」の編集者がそのところで干支を操作して、活躍期を合わせていると思われるのです。日本書紀の編集者もいろいろ考えているようです。 「日本書紀」に二倍年歴を適応したからといって、結果をそのまま使ってよいかはどうも疑問のようです。
それでもう一つの方法を試みてみました。 「日本書紀」と「古事記」とは、天皇の系列というか系図についてはほぼ同じです。ですから、天皇の系図をその世代を数えて、そこから、神武の活躍期を推定出来ないか、ということです。 で、親子関係というか親子代数を見ていき、それに平均的に後継者(嗣子しし)を得る年数を掛けてだしたらどうなるか、と試みました。
神武を初代として 安閑天皇は第27代天皇です。この間 兄弟間や 叔父甥間 などの継承もあるので、世代間の継承を見直してみますと、実質世代として 23世代となります。
次に 1世代を何年とみるか という計算です。ややこしい話は抜いて、一世代を古代は早熟でしたから、15で元服という江戸時代の例もあるし、と、18歳~22歳とすると、22代掛ける18年で396年、22とすると、484年となり、安閑天皇の即位時が531年、ですから、神武の即位は、西暦47年から135年頃という計算になりなりました。
これにはかなり幅がありますが、前の方法よりも合理的ではないか、と思います。 つまり弥生中期西暦1世紀中ごろが神武の活躍期だったと推定されます。これは奇しくも後漢書にある委奴国が金印を貰ったり国王スイショウが漢王朝に朝貢したころになります。 大体 神武の持つ武器などの描写からして 弥生中期、つまり金属器時代で、中国の文献に出て来る卑弥呼の時代より 1~2世紀前の人 としてもそれほど狂っていないでしょう。
つまり、吉野ヶ里や甘木の平塚川添遺跡 などに見られます 環濠集落都市や、三雲(BC1世紀)・平原(AD1世紀)・須玖岡本遺跡(AD2世紀)などからの出土品にみられる 鏡・剣・勾玉の 三種の神器の時代なのです。
近畿地方は弥生時代に、銅鐸が祭器として用いられていたようです。しかし、銅鐸は突然消えていきます。その時期は考古学によれば、紀元〇年から紀元一世紀あたりではないか、と推定されています。
資料C-1に見られるように、弥生時代が九州と近畿では、かなりのずれがあり、近畿は九州よりかなり遅れて、100~200年くらい遅れて発達したことを示しています。
このことは、最近奈良の纏向遺跡が卑弥呼の宮殿ではなかったか、と盛んに報道されていますが、纏向遺跡からは殆んど金属器の出土品が見られないことからも明らかなことなのです。マキムク遺跡の出土品と、先ほどの北部九州の絢爛豪華な金属器の出土とはとても比べものにならないのです。
資料C-2の年代表を見て下さい。これは、国立民俗歴史博物館が作成した、縄文・弥生の文化の進歩を図化したものです。 これには九州北部となぜか、関西でなく関東地方との差しか出ていません。従来の弥生の始まりが800年早まる、という事の説明を主眼に造られた為でしょうが、それからも、九州と関西とはその半分くらい400年位弥生時代、水田文化が始まる時点の差があるとしてもそれほど不当ではないと、思います。
ともかく、卑弥呼の活躍期の3世紀中ごろと、神武の活躍期とは正確には言えませんが、ほぼ2世紀つまり200年くらいは離れていて、直接的な両者の繋がりは見いだせないようです。
●神武の系列をみると傍流
ではこの両者は全く関係がないのでしょうか?もう少し神武の活躍の内容を見ていきたいと思います。
日本書紀や古事記では、神武天皇は、天照大神の直系であり万世一系のように思わせるように書かれています。 ここで、「古事記」に書かれている神武関係の系図を見てみます。 資料Dです。
この系図を見ておかしいと思われませんか。神武の系列を遡ると全て長兄でなく末弟の系列なのです。 アマテラスとスサノオがウケヒで作った子供、アマノオシホノ命の子に二人いて、兄がアメノホアカリノ命で、弟がニニギノ命です。
この天照大神のアマの国では、弟の方のニニギを天孫降臨と称していますが、新しい国へ行かせたわけです。アマの国にはアメノホアカリの命が残って統治していたと思って間違いないのではないでしょうか。
次に、ニニギノ命は無事に大役を果たします。その子供達は長男、ホテリノ命(海サチヒコ)、次がホスセリノ命、末がホオリノ命(山幸ヒコ)です。
ここでも兄二人をさしおいて、ホオリの命ヤマサチヒコが古事記では主人公として扱われています。海幸との喧嘩でヤマサチが勝つわけですが、もう一人兄のホスセリノ命もいるのです。
ところで、このヤマサチが竜宮で会った豊玉姫との間に出来た子供が神武の父親です。 このヤマサチが故郷、つまり豊葦原瑞穂の国に帰ってきたら、一緒に豊葦原瑞穂の国へ来た豊玉姫は子を産んで自分の国、この国が対馬なのか韓国なのか分かりませんが、国へ帰ってしまいます。
おそらくその後、ヤマサチは別の夫人を何人か娶ったし、子供も出来た事だろうと思われますが、古事記には書かれていません。あくまでも古事記は神武天皇を中心に述べているのです。
神武天皇の父、つまり豊玉姫との間の子共ですがその名前は、そこにありますように、アマツ、ヒタカヒコ、ナギサタケル、ウガヤフキアエズ、の命です。 後半のウガヤフキアエズとは生まれる時に、産気づくのがあまり急だったので産室の鵜の羽の屋根がまだ葺き終わっていない時に生れた、といういわば綽名みたいなものです。
前半はアマの国のヒタカという湊の渚一帯のタケル、つまりボス的な人物であったと云うことのようです。 ヒタカという地名が対馬にある、ヒタカツつまりヒタカの港、今の名前で「比田勝」という港町があると仰るかたもいます。その可能性はあるでしょう。
少なくとも神武の父ウガヤフキアエズは、アマテラス一統の中で直系の王という地位にいなかった、と系図およびその名前からは言えると思います。 だからなんだ、とおっしゃる方もいるかもしれません。このあと神武が近畿地方に進出していく、その話の動機に関係してくるのです。
●神武東征の古事記の記事
古事記は高千穂の宮で兄と一緒に会議に出席して、「東へ行こう」と宮崎県から出発した、とされます。
そこのところの記事について 資料Eをご覧ください。その文章をそのまま読みますと、「ここで会議をしたが、ここにいてもどうにもなりそうにない、もっと東へ行こうと筑紫に向かい、宇佐に寄り遠賀の岡田宮に寄り、安芸、吉備と寄って大阪湾に突入し戦が始まるのです。 そこで兄五瀬命は戦死し、その後は神武が大将で、熊野まわりで大和に入るのです。
ところで、古事記が書くところでは、神武は四人兄弟なのです。長兄と神武以外の二人の兄はこの東征に参加していません。故国に残ったのです。 古事記は、二番目はイナヒのミコトといい海の国を支配し、三番目のミケヌマのミコトは波穂を跳んで常世の国に残った、とあります。いずれにしても、神武と長兄が出て行った後の、自分の縄張りの 守(も) をしたのでしょう。
ところで、神武達の所謂東征のルートが不思議なのです。 資料F見て下さい。
今までの通説によりますと、宮崎から東へ行こうと筑紫へ向かう、というのですが、このことだけでもおかしいのです。宮崎から東に行けば太平洋そしてその先はハワイです。 古事記の記事を見てみますと、ヒュウガから筑紫~宇佐~遠賀~広島へと非常に奇妙なのです。ですから、古事記よりあとに出来た日本書紀では、宮崎から宇佐に直接行くように書き換えているようです。
●神武東征とは・出発地の日向は福岡
どうしてこのようなことになったのか。 それは、出発点が間違っていたのです。 日に向かうという字を、ヒュウガと読んでしまった間違いなのです。天孫降臨の地を、後の国の名、日向の高千穂山と解釈した間違いなのです。
国作りや国譲りの神話の舞台は全て北部九州と出雲地方であり、南部九州は全く出てきません。それがヒュウガという語に惑わされたのです。宮崎県あたりが日向(ヒムカ/ヒュウガ)と呼ばれるようになるのは神話時代ではなく、もっとあとになります。
神話の国作りのところで、筑紫島は四つの国からなっていて、筑紫・豊・火・熊曾とあるのです。日向(ヒュウガ)は出てきていないのです。 では、この日に向う、とある土地は何処にあったのでしょうか。 古事記には筑紫の日向とはっきり書いてあるのです。神話の古里福岡県です。
皆さんご存知と思いますが、福岡市西区から前原に抜ける道にヒナタ(日向)峠があります。この峠の北側の連山からヒナタ(日向)川が流れ出し、室見川に合流しています。 この区域一帯がヒナタ(日向)と呼ばれていたことは間違いないと思います。 神武達はこのヒナタ(日向)から出発したのです。その地の見晴らしの良い高千穂宮で会議し、この地にいてもうだつが上がらない、全て本家一統がおさえているから、新天地を探そう、本家の意向が届いていない東へ行こう、ということになったのでしょう。
先ほど言いましたように、神武が宮崎から東へ行くと云うことは、太平洋に向かうことになりますが、福岡から東へ行くとなれば、近畿地方へと方向は合うのです。 そうなると全て辻褄があうのです。中学校で幾何の問題を解くときに、いくら考えても分からない問題が、補助線一本で正しい答えを見いだせます。
この日に向かうという字句は、「ひゅうが」ではない「ひなた」だということが神武東征のなぞを解く補助線なのです。 >そうしますと、この資料の地図のように日向から筑紫(今の筑紫野市あたり)へ行き、本家の了解を得て、宇佐その他の協力者を回ったのでしょう。
●糸島~姪の浜~宗像が神話の舞台
神話の古里は福岡と出雲といいました。しかし、神話の古里は宮崎、天孫降臨も高千穂(宮崎)か霧島と思われている方が殆んどでしょう。今週初めの建国記念日に、宮崎の高千穂町では大掛かりな建国祭をやっている様子がテレビで流されていました。
資料Gに古事記の神話に地名が出てくる記事を掲げてみました。
①のイザナギが禊をする場所は、皆さんご存知の、姪の浜の小戸ですし、③のヒナタ(日向)を発し筑紫に向かう、という問題については先ほど述べました。
②の天孫降臨した場所はヒナタ(日向)糸島~室見の地域です。天孫降臨した土地の二ニギの表現に、「この地は韓国に向かい、笠沙の御前からまっすぐに見通す良い場所」とあります。 この言葉も高千穂を宮崎としたらとても説明出来ません。糸島~室見あたりとしますと、韓国とカササの地を結ぶ線状にある場所となります。 ところで、カササの地とは最後のサを接尾語とすると「笠」の地です。ミカサ川が流れている地域が古くは「カサ」であったと思われます。
④に書いています様に、日本書紀には二ニギの命が天孫降臨後、 ムナ(空)国に向かう途中、カササノミサキでコノハナサクヤ媛と出会います。このカササの岬も御笠川流域でしょう。 ところで、日本書紀には、二ニギが天孫降臨の後に、「膂肉(ソジシ)の空国」を目指して行くくだりがあります。資料Gの④にある通りです。
ソジシとは背中の肉という意味です。 戦前、東京帝大の津田左右吉教授、この方は早稲田の教授から東大の教授になられた方ですが、神代史の研究で著書が不敬罪に当るとして逮捕され、著書の発禁処分や、執行猶予つきですが禁固刑となった方です。 戦後、神話つまり皇国史観を否定する「津田史観」が歴史学の主流となりました。
津田博士は、神武が出発した日向の地の日本書紀の描写について、「このようなやせっぽちの土地が、わが国の発祥の土地である筈も無い、この神話は後年創作されたという証拠のようなものだ」と決めつけました。
しかし、ムナクニ(空国)とは天孫降臨以前から古事記にも出ているムナカタでしょう。二ニギの天孫降臨以前に宗像に天下り、三人の姫がいた、と古事記にもある宗像でしょう。 宗像大社のあるあたりの地形図を見ますと、釣川を背骨に見立てると両側に丘陵地帯が4kmほどまるで人の背中の筋肉のように配置されています。古代の人の表現力には驚かされます。
このように古事記も日本書紀も神話時代の説話は北部九州と出雲とが舞台なのです。
●神武は倭国でどのような立場であったか
では、神武は大和で即位後全国に号令掛ける立場に建てたのでしょうか。 日本の記録では「治天下」、(アメノシタシロシメシタ)と全国を統一出来たかのように書いています。
しかし、このあたりの時代の中国の記録には神武の国は、その影すら全く見えないようです。何かヒントでも見つからないかと探してみました。
卑弥呼のところで紹介した、「倭人伝」に卑弥呼の国の管理組織が書かれていますが、そのなかに「大倭」という職名が出てきます。 資料Hを見て下さい。各地の市場などの統括管理責任者という立場と説明されています。
資料Iに神武から九代の天皇の名前を一覧にしていますが、そこに4名「大倭」が入っています。神武は大倭ではなく、後に尊称を付けたのでしょう神倭となっています。
つまり、北部九州の本国にすれば、神武を東に行かせたがあくまでも、植民地の采配を振るう「大倭」の立場であった、ということか、と思われます。
これは考古学的にも、この八代の天皇方の墓地(ぼち)は見る影も無いものですので、多くの歴史家は、この八代の天皇は架空の天皇だ、というような誤った判断に走っているようです。
●卑弥呼以前の倭国は
それでは、卑弥呼の側から神武の時代に合わせてみましょう。 前に言いましたように卑弥呼の活躍期は3世紀中頃です。神武は1世紀あたりでしょう。卑弥呼と神武とは200年程離れていて、同時代の人ではないのは明らかです。
先ほどちょっと触れましたが、神武が活躍した頃の1世紀あたりの倭国について、中国の史書「後漢書」には次の有名な記事があります。 教科書にも出ていますから、皆さんご存知でしょう、志賀島の金印の記事です。西暦57年の事です。神武の活躍した頃と同時代と思われるころの出来ごとです。
当時の倭国は、残念ながら、当時の中華帝国に支配権を保証される立場にあった、と言えるでしょう。 その後も2世紀に入って107年に倭国王帥升(スイショウ)が朝貢したという記事があり、依然として勢力を保っていた、と思われます。
これらの記事と神武の活躍期を重ねますと、倭国王の治世は安定していて、神武達兄弟の発展の見通しがついていない状況、東征せざるを得ない状況であった、と符合することになります。
●魏志倭人伝にみえる神武の国
では、全く中国にこの神武の国は出ていないのか、というと、私は一つのヒントが「倭人伝」にあるように思います。 卑弥呼の国に着いて倭人伝には30の国が書かれています。
その内の9ヶ国については、戸数や官職などいろいろ書かれていますが、後の21ヶ国については国名だけが書かれているに過ぎません。 ところが、その一番最後に書かれている「奴ヌ国」が謎なのです。二度出てくるのです。
この奴隷の奴という字で表現されている国が何処にあった国なのか、此れも問題なのですが、万葉仮名では奴隷の奴はヌと読みますので、ヌ国としておきましょう。ナ国と読んでナの津博多というのは大間違いです。
「倭人伝」によりますと、魏使一行は伊都国に来て、その東南100里にそのヌ国がある、戸数は2万と書かれているのです。 末盧は今の松浦(唐津)でしょうし、そこから伊都まで500里と書かれています。唐津と前原あたりの伊都国までは40km弱ですから、伊都と奴(ヌ)国は唐津までの距離の5分の1、7~8kmとなります。これはどうやら室見川流域の国のようです。
この奴(ヌ)国は、同じ国の名前が「倭人伝」に2度出てくる、というので古来喧々諤々とその解釈に花を咲かせています。 これも今まで見て来たように神武の出発地が糸島~室見あたりとしたら、同じ国が二つあるのも理解できます。本国に残った神武の兄達は自分たちが奴国の本国で神武の国も奴国、つまりわれわれの(分国)と魏使に説明したのでしょう。
●卑弥呼の国のその後
卑弥呼の国のその後は、「三國志」の次の史書、三國を統一した魏を継いだ晋王朝の晋書に、少しだけ書かれています。 「倭人伝」に卑弥呼の死後、壱与という卑弥呼の養女が女王となります。
卑弥呼の国が狗奴(コウヌ)国と戦い、魏の張政という軍人が応援に来ていたのですが、その張政を中国に送り届けて来た、とその晋書に書いてあります。 その後、晋は北方民族の侵略により滅亡し、各地の群雄割拠の状態になり、史書として記録を残した王朝の出現は五世紀の宋王朝です。
そこには、倭国との交流が詳しく書かれています。倭国の歴代の王が、高句麗と戦い、シラギやミマナなどの軍事支配権を認めさせ、都督の称号を宋朝から得ています。 これらの王は五人記録されています。歴史学では倭の五王の謎とされている問題です。
中国でこのように華々しい活躍をした倭国の王達が古事記にも日本書紀にもまったく顔をみせない大きな謎があるのです。 この謎については、勘の鋭い皆さんにはもうお分かりの事と思います。 そうです、アマテラスの正統な一族、金印を貰った倭国王の系列の王朝なのです。神武の本家筋なのです。
この本家筋の倭の五王に繋がるアメのタリシホコ王、それに繋がる王朝が、百済の滅亡時にその復興の戦を唐と戦い敗戦し滅亡した、ということになります。 神武の後継者、天智天皇はうまく立ち回り、本家を合併吸収することに成功したのです。 天智の後の天武天皇が、自分達の歴史を作る時、自分達が唯一のアマテラスの後継者と主張したのが古事記であり、日本書紀というわけです。
一応、時間の都合もありますのでここでひと区切りとします。ご静聴有難うございました。