道草その16

新しい歴史教科書(古代史)研究会の立場から見た「もうひとつの福岡の古代」       棟上寅七


はじめに

私のような 歴史のアマチュアが このようなお歴々の前で 偉そうに喋るのかについてお話をすると 長くなります。
ここに 「70歳からの自分史 わたしの棟上寅七」 という本があります。出来立てほやほやの本です。私が古代史に入り込んだ いきさつなどを書いています。

この本の宣伝文を、この会の会長の高山さん(仮名)が 書いてくれました。彼とは高校は同じですが 新聞部の彼と テニスに夢中だった私とでは それほど接点はなく、大学に入り、この近くの六本松の九大教養部の寮に 入寮してから現在まで 付き合いが続いています。文系志望と 理系志望と違ってはいたのですが。

自分史ですから 私の身の回りに配ればと 500部もあれば充分か、と思ったのですが、余れば 近い将来の 香典返しにでも使えればよいか、と 1000部刷りました。

高山さんの 宣伝文のお陰で、既に900部以上捌け、完売状況になっています。私の香典返しのためには もう一冊 本を書かなければならないかな、と 思っているところです。

高山さんの 宣伝文のコピーを ここに持参しましたので ご覧になってください。その裏側には、今日の私の話の中に出てくる、聞いただけでは分からない漢字などをプリントしています。

ところで、福岡の古代を語ろうにも どこから入っていいものやら、と悩みました。

福岡の町は 所謂支店経済の町とも言われます。中央官庁の いわゆるキャリアーさんや、大手企業の支店長さんなどの 幹部の皆さんが来福されます。福岡の大抵の書店には 「福岡県の歴史」 というような本が並べてあり そのような購買層に助けられてか、結構版を重ねているようです。

その地方の歴史は、この本の帯に書かれている様に、地域の祖先たちや先人の事績を記録し、優れた事跡は 現在の人々にこの地域を より良くしようという モチベーションを高めるためにと、又、失敗の事績は反省の糧にと編集されるべきものと思います。

しかし、そこに描かれている古代の福岡は どうも納得がいかないのです。

私、福岡県人ではありませんが、半生以上を福岡で過ごしている いわば準福岡人です。

その私が、福岡の歴史上、特に古代について、アトランダムに思い浮かぶキーワードは、金印・太宰府・沖ノ島・卑弥呼・三種の神器の出土・最大の鏡の出土・神話の舞台・邪馬台国・装飾古墳・磐井の反乱などです。

古代史に少しはかじったことのある方には、それに加えて 沢山の大型漢式鏡や黄金鏡 物凄い量の鉄のやじりの出土・ 他所にはどこにも無い、絹の出土・ 高良山などの社伝に残る 朱雀、白鳳などの年号なども興味あるキーワードでありましょう。

考古学者の中では 北部九州と近畿地方との 考古学的出土品を検討すると、二つの地域が 同時に弥生時代を発展して来たとは思われない、と半ば公然と語られています。

つまり発展に時差があるのです。まあ、金属器や稲作の到来が中国大陸や朝鮮半島を経由してきたということは略間違いないでしょうから、当然といえば当然のことです。

しかし、この福岡の先進性、つまり、土器や青銅器など発掘された地層からみて、100年以上の差がある、つまり北部九州の方が近畿地方より発展が早い、先進性が歴然としていた、ということはなぜか語られていません。

こういうことを申し上げていいかどうかわかりませんが、他との比較で郷土の優位性を誇る、という考えは間違っている、という考えで現在の古代は語られているようです。

それなので、読んで見て一向に帯に書かれているような 「ロマンに満ちた郷土」 を感じさせてくれません。

以上の沢山のキーワードの中で 金印・太宰府・沖ノ島・磐井の反乱 が教科書と同じ程度に取り上げられているだけです。

少なくとも、福岡の人が興味を持っている 古代のキーワード的な事柄についての、編集者の解釈を示すことが必要ではないでしょうか。邪馬台国九州説についても全く語られていません。無視は、福岡県民に対しての侮辱以外のなにものでもない、と思います。


文字伝来について

一つの例として、文字初伝についてですが、福岡の先進性について、このようには考えられないのでしょうか。

西暦57年に中国から金印を貰った、ということは既に委奴(いど)国では文字を認識していた、ということです。字を知らないところに字が彫られたハンコを下賜するとは思われません。既に、委奴(いど)国では漢字を使用し始めていたと考えるべきでしょう。

この金印を貰った倭人の後輩の、つまりわれわれが、敗戦後、多くのフルブライト留学生を送り、アメリカナイズを 短時日で進めましたが、当然私たちの祖先は、真似る能力といいますか、新文化を取り込む能力のDNAを持っていたことと思います。

金印から200年後、卑弥呼も魏の王朝に表、つまり文書を奉った、と中国の史書に書かれています。つまり卑弥呼の政庁は文字を解する状態にあった、のは当然といえると思います。

しかし、いやいや、これらは渡来人や お抱え中国人に書かせた、などと 真顔で述べる 古代史学者さんが 沢山います。教科書には、文字伝来は5世紀に百済から王仁博士がもたらした論語と千字文による、と卑弥呼の時代より200年も後とされています。


黄金について

そのほか、たとえば、二丈町の前方後円墳の ()貴山(きさん)古墳から黄金鏡が出土しています。中国から渡来した鏡、と簡単に片付けられています。

銅鏡と同様に、既にわが国では、銅鐸などの精巧な銅の鋳造技術や、鉄の鍛造技術を持っていた、と最近の考古学的出土品は教えてくれます。

われわれの祖先が、卑弥呼の時代よりず~と昔から、既に中国では普遍であった金銅メッキ技術を知っていた、とするほうが理性的判断と思います。

卑弥呼が魏朝から貰った沢山の品物のリストの中に、金8両があります。今の重量で約150グラムほどです。これも、金の利用方法を知っていると思ったから下賜したのでしょう。

ひょっとしたら、卑弥呼は鏡に金メッキをしたのかも知れません。なぜなら、中国では黄金鏡は1枚も発見されていないのです。九州では3枚発見されています。

発掘を担当した京都大学の小林行雄先生(1989年歿77歳)が考古学教室に持ち帰りそのままになっています。福岡県の教育委員会あたりが 里帰り運動などに動いてしかるべき、ではないかと思います。

前方後円墳が近畿に始まり、石塚山古墳・銚子塚古墳など福岡県の前方後円墳は近畿の流れ、つまり大和政権が初期筑紫政権を統合した証拠としています。これらの古墳も先ほどの、「時差のある年代設定」で見直されなければならないのではないでしょうか。

ところで 本日お話ししようとする古代の姿は、古代の文献が示すわが国の姿を 常識的理性的に判断していく、という軸での論です。わたしの判断が 果たして常識的理性的なのか、お聞きいただいて 判断して頂ければと思います。


神武天皇について

神武天皇 というところから 話を進めたいと思います。

実在したのか どうかもわからない、架空物語とも言われる、古事記の東征記事のお話しなど、今云った 常識的理性的ではないじゃないか、福岡の古代と何の関係があるのか、と思われると思いますが、後でご感想をお聞きしたいと 思います。

さて、いつ頃の人か

橿原宮で即位し 127歳まで生きたと 古事記は云います。太平洋戦争以前は、西暦でなく、日本書紀に記された 神武天皇の橿原宮での即位を 紀元元年とする、皇紀というものが 使われていたことは 年配の方はご存知でしょう。皇紀2600年を記念して、昭和15年には(1940年ですが)、東京オリンピックが 招致されたりもしました。

ともあれ、日本書紀の云う通りとすると、神武天皇即位は 紀元前660年、BC7世紀となります。縄文時代晩期と なります。神武の持つ 武器などの描写からして 彼は弥生期の人と思われるのです、年代が合わないのです。

どこで狂っているのか と考えますと、どうも古代の人は 年齢の数え方が、違っているようなのです。殆どの天皇が 100歳以上生きているのです。

古代の年齢の数え方についての研究の話も面白いのですが、時間がかかりますので今日は飛ばします。

一応、年齢の記述は置いておいて、系譜からの推定は 出来ないものでしょうか。

古事記日本書紀 共に その伝える神武以降の系図は 同じです。ジンムースイゼイーアンネイーイトクーコウショウーコウアンーコウレイーコウゲンーカイカースイジン 私の兄たちがお経のように 読み上げながら 暗記していた姿を 思い出します。

一応 記紀の伝える系図を、親子間の世代交代を中心に見て 神武の生きた時期を 推定してみます。

年代がずーっと下って、第26代の継体天皇くらいになりますと、隣国百済などの史書との関連で 亡くなった年が ほぼ推定できるようになります。

継体天皇の歿年齢は、日本書紀では西暦531年 若しくは534年、古事記では527年です。この場合3,4年の違いは 大したことではありませんから、とりあえず、530年ごろとして話しを進めます。

神武を初代として 継体は26代天皇です。この間 兄弟間や 叔父甥間 などの継承もあるので、世代間の継承を実質1世代としてを見直してみますと、実質世代として 22世代と見てよいでしょう。

次に 1世代を何年とみるか の計算です。

弥生時代の昔はどうだったか、昔の平均寿命について いろいろ研究されているようです。当時は乳幼児の死亡率が高いので 平均寿命としては 縄文時代は15歳前後で、弥生時代は若干高くなったそうです。平均寿命15歳でもちゃんと世代交代ができているのは、出生率が現在よりはるかに高かったからです。

ところで、発掘された弥生時代の人骨の調査から、成年した人の死亡時平均年齢は45歳前後とされています。

まあ、男性が17~22才くらいで子を作り、何人かの子供の内に 生き残る、世継ぎを得るのは 20~25歳くらいかな そして45歳くらいで死んでという推定は そう不当なものではないでしょう。

そうしますと 1世代は45-(20~25)=25~20年 となります。世代交代が どのような年数であったか、後年の例を見てみます。

近年になりますと、成人男性の死亡時年齢が高くなってきます。織田信長が人間50年、下天の内に比ぶれば、と 敦盛を好んで歌ったそうですが、豊臣秀吉が 朝鮮に出兵して 部下の部将たちが それぞれ陶工を連れて帰り 領地で窯を築かせました。

1592~1598年 文禄・慶長の役です。 それから 今、窯元は 有田でも鹿児島でもどこでも 大体14世を名乗っています。

一子相伝的な 家系継承ですが、酒井田柿右衛門の場合 途中に兄弟間の継承があり、世代としては 13世代となります。 約400年間で13世代で 家系を継承していますので、概算で1世代 30年となります。

薩摩焼の沈寿官さんも 司馬遼太郎の 故郷忘れがたく候 で有名ですが、14世です。今は15世の時代かと思います。この場合400÷14=28.6です。弥生時代、神武の時代20~25年として それほど不当な設定ではないでしょう。

22代とすると 22X22.5年/代=495年となります。継体の没年から逆算すると 530-495=35 西暦でキリストとほぼ同世代 誤差は±50年くらいはあるでしょう。まあ1世紀のころの人、弥生後期の人ということになります。

大体 神武の持つ武器などの描写からして 弥生中期以降で、中国の文献に出て来る 卑弥呼の時代より 1~2世紀前の人 としてもそれほど狂っていないでしょう。

つまり、吉野ヶ里、や甘木の平塚川添遺跡 などに見られます 環濠集落都市や、平原・三雲・須玖岡本遺跡などにみられる 鏡・剣・勾玉の 三種の神器の時代なのです。板付遺跡はちょっと古く、縄文晩期になるようです。

さて この1世紀の頃には、この時代の人について、どんな人が記録に残っているでしょうか 日本史の教科書にも 載っていますように、

中国の後漢書によりますと、漢の安帝の時に 倭国王帥升という人が朝貢した、と記録されています。時期は西暦107年です。有名な金印が委奴国王に授与されたのは、それより50年前の西暦57年です。

この時期 1世紀~2世紀の倭国は中国と交流できた、ということは当然近くの朝鮮半島とはもっと密接な交流があっていた、といえるでしょう。

卑弥呼が活躍する時代は 三国志の赤壁セキヘキの戦いこれが208年です。卑弥呼が使いを魏に出すのが西暦238年ごろ、3世紀半ばで、神武の時代より少し時代が下がります。

神武が この国に閉塞感を抱いて新天地を求めて東へと向かった と古事記や日本書紀は 記しているのは、卑弥呼より1~2世紀前の帥升が王様として君臨していた時期あたりで 安定した時期だったようです。

記紀では 若干経由地や詳細が違いますが、九州から瀬戸内で力を蓄えて 近畿に向かった、ということでは 一致しています。

さて、神武はどこの人か・どこから出発したのか ということについて述べます。

古事記日本書紀共に 日向(ひゅうが)から出発した、と書きます。注意していただきたいのは「日」と「向」と書いてあり、読み仮名がふってあるわけではないのです。一応ヒムカとしておきましょう。

その日向(ひむか)から東へ向かう、筑紫へ行き宇佐に到った と書きます。本居宣長はじめ 今までの学者さんたちは 日向(ひむか)の国=宮崎県と 思い込んでしまっています。

考えてみれば、これは不思議な記事です。宮崎県から船で 東へ進めばどこへ向かうか、ハワイの方向です。近畿にせよ宇佐にせよ、それを目指すには 北へ向かわなければなりません。

また、宮崎から東へ筑紫(ちくし)へと、つまり福岡に向かった。そして豊後の宇佐に到った、と書いてあります。これもおかしな記事です。順序がおかしいのです。

「東へ」の原点は どこでしょうか。記紀には 先ほど言いましたように。日向(ヒムカ) と書いてありますが、読みが ヒュウガなのかヒムカなのか、はたまた ヒナタなのかわかりません。九州にはたくさんの ヒュウガやヒナタという地名が あります。

福岡県にも いくつかのヒュウガ、ヒナタがあります。福岡市と前原市の間に 日向(ひなた)峠があり 日向(ひなた)川も流れています。このヒナタの地域は沢山の弥生遺跡が存在している地域であることも有名です。

このヒナタから東に向かえば 筑紫の中心、今の筑紫野市筑紫を通って、豊前国です。これなら古事記の記述と矛盾しません。

これがいわば状況証拠の第一です。

また、古事記は 沢山の歌を伝えています。その歌詞について 今まで なかなかすんなりと 理解出来ませんでした。


たとえば、古事記によりますと、神武たちが奈良の宇陀に来たときに、「宇陀でシギナワを掛けたら シギでなくクジラがとれた。これをどう分配しようか」 など神武の兵士、久米部隊が歌うのです。奈良の山奥で歌うには あまりにも違和感があります。


ところが、神武の兵士の出身を 筑紫のヒナタに置き換えると、臨地性が ぐっと増してくるのです。ここはどこだ、何?ウダ? われらのふるさとのウダの歌でも歌おうかい! となるわけです。今宿のウダで 鳥の網を張ったら ゴンドウクジラかイルカかわわかりませんが それが取れた、と 大漁のお祝いの歌となるのです。


これら神武紀に出てくる歌謡群は 久米歌ともいわれます。今宿の瑞梅寺川の近くに宇田(川原)という地名も残っていますし、糸島半島に 久米という地名も 残っています。

九州に 久米という地名は 他に豊前と 球磨地方にもあるそうです。その意味からは だから 神武は糸島あたりの出身に間違いない とする証拠としては不充分かもしれませんが、状況証拠の一つには なるでしょう。これが第二の状況証拠です。

では、もう一つ第三の状況証拠を上げてみましょう。神武の名前は何というのでしょうか。そちらから出身がわからないものでしょうか。

『古事記』では、若いときには若ミケヌの命、後に、神倭伊波礼琵古命(かんやまといわれひこのみこと)と称されています。

神のような、倭国の、イワレの王子 イワレという地方の出身か、支配者ということを示しているのでしょう。つまり名前の中に地名が入っています。

イワレという地名については 定かではありませんが 奈良県の桜井市付近の地名とされます。まあこれはそこに神武が根付いてからの名前でしょうから、ワカミケヌの命のケヌという地名がわかればよいのですが、このケヌは、今までのところ はっきりしていません。

それで お父さんの名前を見てみます。その父の名は何と云ったかといいますと、古事記では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつ ひたかひこ なぎさたける うがやふきあえず の みこと)と表記しています。(書紀もほぼ同じです)

山幸彦 海幸彦の説話で有名な、山幸彦と豊玉姫の間に出来た子で、生まれる時に 産屋(うぶや)の鵜の羽の屋根が 出来上がらないうちに生まれたので ウガヤフキアエズ という名が付いた とされています。

しかし、その前に付いている名前、天津日高日子 は これも土地名を表わしている といってよいと思います。天(アマ)の国の津(みなと)、ヒダカのヒコ(王子)です。ナギサタケル つまり 海岸線を支配する長官 とも名乗っているのです。

ヒダカという地名がどこにあるかといいますと、九州にあるのです。皆さんも云われるとああそうか、と思われることでしょう。昔は、今もそうでしょうが、港のことを「ツ」といいました。

ヒダカツといえばお判りでしょう。漢字にしないと判りにくいかもしれませんが、比田勝という地名が対馬にあります。韓国~壱岐との海上交通の要衝です。ここの王子だといっているのです。そうすると海幸・山幸・竜宮城などの説話の舞台が現実味を帯びてきます。

いままで述べた、いわば状況証拠を積み重ねてみます。日向という地名・久米部の兵士・父の名前からなどから、神武は、つまり、対馬の地方のボスの息子殿で糸島の人ということの可能性が高いということになります。

以上を考えると、対馬から来て糸島に根城を構えた兄弟が、糸島の久米部隊を引き連れて新天地を求めて動いた、ということは自然な理解ではないかと思います。倭国王帥升の流れの王国は崩れそうになく、発展を望めば動くしかなかったのではないでしょうか。

そして、神武が動いて古事記の舞台は近畿へと移るのです。

しかし、神武が出て行ったからといって、九州が空っぽになったわけではありません。倭国の本隊は残っていたのは当然の話しです。

ここから先、日本の歴史書は 舞台が近畿に移され、残った本隊の話はなくなります。まあこれは 当然の話しでしょう、近畿に移った部隊のその後の話が古事記であり日本書紀なのですから。

なぜ、今までくどくど 神武の話をしたか、といいますと、日本の歴史は日本書紀に書いてあることが全て、という考えがおかしいのではないか、ということを言いたかったからです。

福岡の本流部隊は勿論、神武に滅ぼされた近畿の銅鐸を祭祀とする、ナガスネヒコの一団の歴史も日本の歴史であることに変りはないのですから。

今の歴史が、神武の流れ中心の話しを述べているに過ぎず、神武が福岡出身であり、神武が出て行った後も歴史はちゃんとあるのだ、銅鐸を宝器として祭った一団も日本民族の祖先なのですが、ただ 日本書紀に記されていない、ということだけなのだということを 知っていただきたかったからです。


神武がいなくなったあとの福岡

その後、倭国はどうなったのか。その後を知らせてくれるのが 三国志です。魏志東夷伝倭人の条に 詳しく出てきます。

漢の時代には 100国くらいに別れていたが、今では30国ぐらいにまとまり、卑弥呼で纏まっている。卑弥呼は邪馬壱国にいる女王である。ただ()()国とは不倶戴天の中で戦争をしている。などとあります。

この邪馬壱国いわゆるヤマダイ国探しが 一時ブームとなりました。しかし、最近では、少なくとも歴史学会でまともに論議されることはないようです。


それは、古田武彦氏が九州王朝説を出し、1970年台 盛んに古代史学会で論争を行いました。その結果、古田説を言い負かせず、彼は歴史学会の外の人間だからほっとけ、となったのか、問題にしない、という態度で歴史学会は きているのです。彼は、東北帝大日本思想史学科卒、親鸞の研究から古代史研究へと進んだ。元高校教師~昭和薬科大学教授です。

古田説は かいつまんで言いますと、金印の王朝、帥升の王朝、卑弥呼の王朝 に続いて 倭の五王の王朝があった。それは、隋書に出てくる タリシホコの王朝につながり、筑紫を主体とするいわば九州王朝がたった、という説です。今日の私の話も、古田武彦さんのいわば受け売りです。

その九州の王朝が、新羅に滅ぼされた百済を再興させるために 朝鮮半島の白村江(ハクスキノエ)で戦い、新羅+唐の連合軍に破れ、大王サチヤマが唐軍の捕虜となり、結果的に滅びた、という説です。

神武の流れを汲む いわば分家の近畿王朝は、この戦に協力的であった斉明天皇が丁度亡くなったので、喪に服すということで軍を引き上げました。

そのために近畿王朝は大過なく済み、その後唐王朝から日本の代表王朝と認められ 本家の倭国を吸収した、というのが古田説です。

歴史学会の説、つまり わが国の教科書が伝えるように、近畿の王朝が全国を古代から統治してきた、という説では 説明できないところが 沢山あるのです。


例えば、倭の五王という問題もその一つです。5世紀に、倭王武は宋から「都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」という長ったらしい立派な称号をもらっています。長いのでメモにしました。

又、倭武が宋に出した文書には 高句麗との戦いに明け暮れていること、兄や父を一時になくしたことなどが細かく書かれています。

ところが、教科書では、この時代の天皇は雄略天皇であるから、倭王武は雄略天皇だと決めつけ、中国史書の記述がおかしい、とします。中国から「六国諸軍事安東大将軍倭王」というような 大それた称号を貰ったら書かない筈がない と疑問に思うのが普通の考えと思うのですが。 呉の国からガチョウを貰った話は日本書紀に載っているのですから。

もう一つの例を挙げてみます。7世紀初めに?(タイ)国王、タリシホコが「日出づるところの天子云々・・」の国書を出し、隋の煬帝を怒らせたことは教科書にも載っていて有名ですが、その後 煬帝が、その?(タイ)国の調査に斐世清という人が使者としてやってきて国王と面会しています。

帰って報告したのが、タリシホコにはキミと呼ばれる妻がいて、リカミタフリという名の息子がいる。後宮には600人もの女がかしずいている、とかかれています。

これも、歴史学界の通説として、中国史書の書き間違いとし、当時の天皇は推古天皇なのに 向こうが男と女を見誤った、 息子の聖徳太子が応対したのだ、とかなんとか 言いつくろえないか、と苦労していますが、結局説明不能なのです。

今、わが国と韓国や中国との間で、歴史認識を共有すべき などという声もあるようですが、それはあくまでも現代史の分野でしょう。もし古代史で中国の史書はいい加減などと、中国の歴史学者に言ったら どのような反応が返ってくるか 空恐ろしい感じがします。


ミヤコはどこに

ところで、話しを戻しまして、このように、神武が出て行ったあとの筑紫の国は 後日争いが生じ、卑弥呼でまとまり、その後も 争いはあったものの 壱与が引継ぎ、国は治まったと三国志には書かれています。

魏の王朝が滅び、晋の時代になっても 晋国へ壱與が 立派な貢物をささげてきた、と中国の史書は伝えています。そうです、依然として志賀島の金印以来の王権が福岡の地にあったのです。

この卑弥呼~壱與の時のミヤコはどこにあったのか。これがヤマタイコク国論争なのです。

3世紀の魏志倭人伝の記録の解釈問題です。倭人伝には、卑弥呼の国に至る経路が書かれています。陳寿という人が書いて時の皇帝に献じたのですから、当時の人にはよく判る行路記事だったはずです。

中国文は句読点がありませんし、その意味ではかなりルーズな書き言葉といえるでしょう。

古田武彦さんの「邪馬台国」はなかった、という本を読んでいただければと思いますので、詳しい説明は省きますが、

古田さんがこの行路記事は、卑弥呼の国邪馬壱国は 魏の郡役所がある帯方(今のソウル)からどれくらいで行ける、ということが主目的に書かれた。

距離として12000余里と書いてあるが、距離だけでなく 日程としても南水行10日陸行1月と書いてあるのだ。

不弥国から南水行10日陸行1月と読むのは間違い、不弥国はヤマタイコク国の入り口である。つまり、卑弥呼の国は博多湾岸から福岡平野の範囲に広がった国であろう、とされます。

本居宣長も卑弥呼のことを、九州の女酋と表現していますが 基本的には同じヤマタイコク九州説です。

私の推測では、卑弥呼の時代のミヤコは、地名から言うと、御笠郡筑紫村大字筑紫小字筑紫 出土品などからは春日町の須玖岡本遺跡のあたり のいずれも御笠川流域でしょう。


その後の倭国はどうなったか

隣の国々が伝える、このわが国は特に変ったこともなかったようで、200年ぐらいたって 5世紀の宋の時代に 倭の五王と呼ばれる時代が 宋書に記録されています。

この宋書が伝える王達の本拠地も 福岡であったとしか思われません。彼らは宋から先ほど言いましたように、「都督」という称号を貰っています。

倭国の王は代々と都督と授号し そのミヤコは都督府と呼ばれました。日本書紀にもその名は出てきています。筑紫都督府、そうです今の太宰府です。都府楼という地名も残っています。

太宰府の歴史について詳しく喋るとキリがないのですが、発掘された遺跡は日本書紀が記す太宰府の歴史より ズーット古いという事実があります。第一 太宰府を設置した、という記述も全く日本の記録にありません。

卑弥呼の時代以降も 太宰府を中心とする筑前、甘木・朝倉の筑後を含め、福岡を中心とする北部九州が 大倭(だいわ)国の中心であったということは 紛れのないことだと思います。

ところが、3世紀のわが国は魏志倭人伝に書いてある。5世紀のわが国のことは宋書に書いてある。4世紀のわが国の記録は中国にはない。この4世紀にわが国には大きな動乱があったのだ。といろんな説が出てきます。

有名なのは騎馬民族征服王朝説の江上波夫さんです。

朝鮮半島の騎馬民族が北九州から近畿に進出し王朝を立てた、とされます。4世紀といいますと、大体、神功皇后とかその息子さんの崇神天皇の時代に合います。

崇神天皇の東征説話が神武天皇東征説話になったのだ、その証拠にこの二人の天皇の贈り名は同じ「ハツクニシラス」だということに発展します。

これらの説を唱えた方々は、黒岩重吾・邦光史郎・高木彬光・松本清張・豊田有恒の小説家や、奥野正雄・安本美典・白石太一郎さんなどの学者・研究者など数多くいらっしゃいます。

江上さんの騎馬民族征服国家説には沢山の問題点があります。


一番の証拠は、中国の吉林省にたっている、高句麗の好太王碑でしょう。これは、4世紀に建てられたことがハッキリしています。碑文に、倭人との戦いが何度も出てきます。

これは江上説のように4世紀に日本が騎馬民族国家に変りつつあった、とすれば、騎馬民族同士の戦い、ということになり、任那が日本を攻めたというより、むしろわが国が高句麗に攻めて行っている、ということが書かれていることになり説明できないのです。説明できないことをどうしているか、というと頬かぶりで済ませています。

このような非常識極まる江上説がまかり通る日本の古代史学会は、常識・理性とかいう判断基準が非常に乏しい、と私に云われても仕方ないと思います。



ところで、卑弥呼のその後のミヤコはどこにあったのでしょうか、


5世紀の宋書が伝えることからは、筑紫都督府=太宰府でほぼ決まりと思われます。

6~7世紀になると、曲水の宴の施設や正倉院とも思われる遺跡が出ている 甘木三井朝倉エリアも候補地でしょう。

伝承や地名などからは、都としての候補地は、、太宰府・久留米・朝倉・八女・京都郡、それに山口県の豊浦などが上げられます。古代5~7世紀の王宮の移動は、政権交替だけでなく、大火・伝染病などの原因で何度か行われたであろうことは、その後の近畿の王宮の移動を考えても、かなりの確実性があることと思われます。

決め手というものは現在のところないようですが、今後の調査研究の課題でしょう。

どうも喋るのが下手で、時間となりました。尻切れトンボで申し訳ありません。

最後に、何故福岡の古代史を語る必要があるのか、と一言言っておきたいと思います。


何故歴史を正す必要があるか

 過去の歴史での過ちを正しく認識し、次の国家の進むべき道の参考とする、これが歴史の勉強の役割だと思います。

7世紀まで 福岡にあった日本を代表する政権が、軍事力を背景として 朝鮮半島を含む覇者の道を歩み、結局は中国という大国を相手にすることになり、破綻してしまった といえるでしょう。

 この事実を正しく認識していれば、神国不敗などの神話が 昭和の時代に幅を利かせることもなく、国を進む道を誤ることも なかったのではないだろうか、と思うからです。

このような話をするのは初めてでお聞き苦しいところばかりだったと思います。

ご清聴有難うございました。

【2009年3月19日 福岡ススの会(仮名)例会における卓話】