『冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』疑問の数々11(付:おわりにあたって)
【11 冨谷先生の国号日本の起源の意見について】
【レジュメ】
冨谷氏は、国号が日本となっても和音呼称はヤマトであったとする。ヤマトの漢字表記は倭、大倭、日本とも表記された。
701年大宝律令で国号日本が定めら、702年に遣唐使粟田真人が唐に説明したが、国内的にはいつからそうなったのか不明とする。
百済彌軍墓碑銘に「日本」が出ている。冨谷氏は、この銘文を検討してみたが、この墓誌の「日本」は、倭の国号はもとより、倭に代わる名称とみなすことはできない。冨谷氏の強引な百済禰軍墓誌解読、特に扶桑の考証のずさんさにも驚く。この墓誌は、670年代には日本と言う国号が未成立という資料である。御宇日本国天皇の名称は689年の飛鳥浄御原令できまった、と述べる。
しかし、天皇の称号の検討と同様国内史料に現われる朝鮮諸国の史料からの引用にある「日本」の記事については無視している。特に『三国史記』新羅本記にある「文武十年(670)倭国が国号を日本と改めた」の記事を無視してよいのか。
670年というと郭務悰等が筑紫に来ていた時代である。(669年と671年に郭務悰ら二千人の到来)この時期に天智が国号変更していれば『日本書紀』に特筆大書されていてもおかしくない。九州を本拠とする「大委国」の存在を無視しては解けない「日本国号の起源」の謎なのであるまいか。
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【本論】【11 冨谷先生の国号日本の起源の意見について】
(注)文章の朱字部分は冨谷先生の叙述部分です。
◆冨谷先生の日本国号の説明は
『漢倭奴国王から日本国天皇へ』の最終章第九章 国号日本の成立 までやってきました。しかし、先生の文章を何度読んでも先生の論述の道筋がハッキリとしないのです。そこで、先生の論述を、順を追って箇条書きにしてみます。
①第一節「倭国改めて日本国と曰〈い〉う」で中国の史書から日本の国号についての四つの記事の紹介。
『史記』五帝本紀 張守節「正義」“武后、倭国を改め日本国と為す。”
『史記』夏本紀 張守節「正義」“倭国、改めて日本国と曰う。”
『旧唐書』東夷伝 “日本国は、倭国の別種なり。其の国の日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或いは曰く。倭国、自ら其の名の雅ならざるを悪みて、改めて日本と為す。或いは云う。日本もと小国なり。倭国の地を併せるなり。其の人、入朝せしもの、多く自ら矜大にして、實を以て対えず。故に中国はこれを疑う。”
『新唐書』東夷伝日本 “咸亨元年(670)、使いを遣わして高麗を平らぐを賀す。のちようやく夏音を習い、倭の名を悪み、あらためて日本と号す。
使者、自ら言う。国は日の出る所に近くして、以て名を為す。日本は乃ち小国にして、倭の併せる処と為る。故に、其の号を冒〈いつわ〉る。使者、情を以てせず。故にこれを疑う。
不思議なことに、三番目の『旧唐書』には「東夷伝」とだけ記していますが、「東夷伝」には「倭国」と「日本国」を書き分けられているのです。 冨谷先生が引用する文章は、「東夷伝」の内の「日本国」の条なのです。別に「倭国伝」があり、“倭国は古の「倭奴国」なり”という文章で始まっているのですが、日本列島に「倭国」「日本国」の二国へ併存が説明不可能なので、二国併存を隠そうと努められているように思えます。
②第八回遣唐使によって国号の変更が唐に伝えられたと『続日本紀』の記事を紹介。
「何れの処の使人なるや、日本国の使いなり」、「国号、何に縁てか改称せん」「海東に大倭国あり」、問答の背景には、唐側は「倭」という従来の国号をそのまま使い、日本国側の国号変更を知らない、もしくは理解できなかったことがある。栗田真人は、「では、貴国も大唐から大周に国号を改称しているではないか」と、国号の解消に関して切り返し、また新しい国号「日本国」を誇示したとみたい。
③冨谷先生の感想【「倭」は、中国側が一方的につけた名称であり、日本側にとっては決して好ましい名称ではなかった】
④遣唐使の随員でもあった山上憶良の和歌「早日本辺大伴乃」、高市黒人の和歌「倭部早白菅乃」を紹介し、漢字表記が変わってもヤマトという和音呼称は変わっていない、と説く。
⑤ヤマトには奈良のヤマトと国名のヤマトの二通りが存在していた。そして、ヤマトは、日本・倭・大倭とも漢字表記されていた。
⑥701年段階では「日本」が国号として定められたが、国内ではいつ頃から「倭」に代わる国号として採用されるのか、の疑問の呈示。
⑦それについての新たな史料が発見された、と第二節「百済禰軍墓碑銘」に移る。
⑧その墓碑銘文を検討の結果は“墓誌に見られる「日本」は、倭の国号はもとより、倭に代わる名称と見なすことはできない。670年代には「日本」という国号が未成立ということを実証している資料であった”。
⑨次いで第三節「白村江の戦いの分析に入り、「倭と唐の全面戦争」という理解は誤り、であり、百済遺臣の復興戦への少しばかりの倭から義勇兵参戦、とする。
⑩その「倭国側の自意識過剰」が、この敗戦が672年の壬申の乱への水流となる。天武が目指したのは、これまでの中国との関係を清算した新しい統一国家である。「御宇日本国天皇」の名称は飛鳥浄御原令(689年制定)で規定されたのである。(と断定している)
⑪第四節 国号「日本」の成立にはいる。養老公式令〈くしきりょう〉に「天皇」「日本」がみえ、『古記』に引用されている。(棟上寅七注;養老律令は757年成立。「天皇」は見えるが「日本」は見えないといわれているのだが)
⑫「日本」という国名は「日出る処」「東方」という普通名詞として中国で使用されていた。「倭」という中国から命名された蔑称・卑辞を忌避したものであり、その制度的確立は天皇号とおなじく飛鳥浄御原令におくことができよう。
⑬「天皇」も「日本」も対中国外交の上に成立する対外的漢字表記としてのものであり、国内の呼称は、スメラミコト(オオキミ)・ヤマトであった。 以上のような流れで説明されています。
⑭しかし天皇の称号でも日本国号の始まりについても、それとセットとしてあるべき「年号」についての議論が見えない、これが最大の問題ともいえましょう。
◆冨谷先生の日本国国号の成立についての説明への疑問(その1)
まず、⑭に述べた「年号」の問題です。何といっても、「天皇という称号」、「日本という国号」に続いて、「年号」というキーワードが何故出てこないのか、が、この冨谷先生の日本古代史についての問題点の捉え方に基本的な欠陥があると思われるのです。『日本書紀』には大化・白雉・朱鳥などの年号が切れ切れに記載されていて、大宝の年号になって初めて年号が制定される「建元」の詔勅がだされ、以後の年号は「改元」されながら現在の令和にまで続いているのです。
『日本書紀』の編集時に、倭奴国の末裔大委国の年号「九州年号」のいくつかが、大和朝廷の歴史の装飾のために嵌め込まれたという仮説があります。15世紀の李氏朝鮮で編纂された『海東諸国記』に記載されている倭国の年号や『二中暦』他の国内史料により、「九州年号」が実在したのは確実と思われるのですが、そこに足を踏み込むことを冨谷氏は賢明にも?避けたのでしょう。東京学派組も「九州年号」を無視しているので、京都学派も無視しても文句は言われない」と思ってのことでしょう。
次に①に述べた冨谷先生が引用される『史書』の選択に関する疑問です。この「倭から日本」問題について、冨谷先生は『史記正義』から二つ、それに『旧唐書』からおなじみの東夷伝の記事と『新唐書』東夷伝の記事を紹介しています。
しかし、国内史料『日本書紀』に見える百済系史料からの引用文に多くの「日本国天皇」関係の記事があるのです。その史料が『日本書紀』のみに残っている秩文という理由から史料として使うにはためらいがあったのか、津田左右吉博士の「書紀編集者による書き変え」説によるものかわからないのですが、「天皇の称号の始まり」では、多くの百済系史料を引用されているのに、この「日本国号の始まり」では引用されないのは解せません。これらについて「何故引用できないのか」という冨谷見解を入れることは、読者に対してなされてしかるべきかと思われるのですが。
しかも、冨谷先生が引用されている『新唐書』の記事ですが、そこでは咸享元年(670)年に倭国から使者が来たこと、”のち”に「倭」という名を悪み「日本」に代えたとありますが、その変えた”のち”の年次までは特定できていません。
史書『冊府元亀』にも同様の記事があるのですが、そこには“日本国は倭国の別種なり”と断じていて、日本列島に二つの政治勢力があることを明記しているので、引用を避けたと思われるのですが当方の僻みでしょうか。
ところで、隣国の史書『三国史記』「新羅本記」には「日本国」についての次の記事があるのは、古代史の世界では知られていることです。
*文武王十年(670)12月 倭国が国号を日本と改めた。
*考昭王七年(698)3月 日本国から使者が来た。崇礼殿で引見した。
冨谷先生が『新唐書』の咸享元年(670)の記事を挙げているのは、一種の不在証明アリバイ工作かな、とも思われるのです。つまり、この記事は、「670年に高麗を平らげたことを賀す使者の到来」の記事であり、それに続く「のち、稍く夏音を習い、・・・更らためて日本と号す」とあるのです。
つまり、咸享元年の「何年かあと」に国号変更があったことを示している、ということを言いたいための『三国史記』の記事の無視、『新唐書』の記事の引用、ではないかという疑いです。
『冊府元亀』は1013年完成の中国の史書、『三国史記』は朝鮮の史書で1145年の完成です。後者は倭国からの国号変更を伝えてきたことを記していて、中国史書の記事とは独立した記事であり、事実が記されているとみてよいでしょう。
これを誤記誤伝として退けるわけにもいかず、これらの史料は、自説、国号変更天武期説に不利なので隠したのでしょうか。それとも、『冊府元亀』や『三国史記』の史料批判の結果、史料として使えないという結論に至ったのでしょうか。後者であれば、堂々とその所論を述べればよいのにと思います。
●冨谷先生の日本国国号の成立についての説明への疑問(その2)
この本の最終章「日本の国号」の成立の時期、について検討の結果、日本と言う国号に代わったのは養老公式令が発布された757年の頃というのはほぼ間違いない、という冨谷先生の結論になりました。
そうなると、大きな問題が浮上するのです。670年に新羅に国号変更を告げた国はどこの国なのか、ということです。
670年というのは、天智天皇が称制をやめて2年後、という時期になるのです。その時期には唐軍代表として郭務悰もわが国に来ていて、筑紫に滞在していますが、天智天皇に会ったという記録はありません。
この時期に隣国に使者を送れた国は何処なのか、という問題が新たに生じるのです。もし天智天皇が送れたのであれば、『日本書紀』に堂々と掲載されてしかるべき事柄でしょう。
冨谷先生が国号「日本」の始まりについての章の始めに上げている『旧唐書』の国名変更についての記事には、「日本は旧と小国なり。倭国の地を併せるなり」とあります。そもそも『旧唐書』には東夷伝には、「倭国」と「日本」の二つの国が並置されているのですが、冨谷先生はその事実を認めたくないのか、隠しているようにも思われるのです。
これは白村江以前の政治状況を記す『隋書』について、冨谷先生は「当時の日本列島の情勢を正しく記録していない」として、殆ど史料としての検討を避けられました。しかし、その『隋書』の記事をそのまま受け取りますと、「俀国」とは別に「倭国」と記述されている国が日本列島に存在していたようにとれるのです。
『隋書』にある、「多利思北孤王」の「俀国」と、それまで中国の史書に時に記載されている日本列島の東に在った「倭種の国」、『隋書』本紀(大業六年 610)に「朝貢があった」と出ている「倭国」が『旧唐書』が伝える八世紀当時の中国の認識の「倭国」と「日本」であるというのが論理的に判断できるのです。
その『隋書』の記述を引き継いでいると思われる『旧唐書』の記事についても、冨谷先生は不信感を持っておられるようです。この『旧唐書』東夷伝について、この冨谷さんの本に見えるのは、「百済禰軍墓誌にみえる「日本余噍」の件で『旧唐書』についての見解の中の次の文章です。
【ここにみえる「日本」が国名、否、正式国名でなくても倭を示す語であれば、「倭」に代わる「日本」という名称が中国側に定着していたことになる。とすれば、702年の遣唐使の国名変更の提言はどう考えるべきか、また『唐書』の倭と日本にかんする必ずしも明瞭でない「日本」の語は、八世紀になっても唐側の認識不足を巧くまずして表している。これらの事柄は、「日本」という国号が、遣唐使によりはじめて唐に伝えられ、その後、唐で定着するまでに時間を要したということを示唆していると考えられる】
ここには『唐書』とあり、「新・旧」ともになのか、どちらかを指すのか不明ですが、この本に先立って公にされた論文「漢籍と錯誤」の中では『旧唐書』について次のように言及されています。
【『旧唐書』に、倭国と日本とが別国として記され、『日本書紀』の第一回の遣唐使は倭国伝に、第七回の遣唐使は日本伝に記載されている。『旧唐書』の編纂者には倭と日本が同じ国という確たる認識がなかったのだ】と。冨谷先生は『旧唐書』の認識が間違っている、とされます。その先生の、日本は一つの国であったという確固たる信念が、中国史書の記事の評価の基準になっている、そのことがよくうかがえる文章です。
しかしながら、中国の史書『隋書』『旧唐書』『新唐書』をそのまま読んでいけば、『隋書』が記す俀国(大委国)が百済義勇軍の主体であったと思われます。その大委国が、唐の代表郭務悰の了解の元に「日本」と国名を改めた。その後、大海人皇子という人物が、唐の代表郭務悰の了解も得たものとおもわれるのですが、壬申の乱を経て、「倭種の国(大和)」の大王となり、「日本」を併合し、「新日本」の初代の天皇になった、というストーリーに行きつくのですが。
●冨谷先生の日本国国号の成立についての説明への疑問(その3)
冨谷先生は百済禰軍墓碑銘に「日本の余噍が扶桑に逃れた」とあることについて。つぎのように述べます。
【扶桑は日本列島をイメージしているといってよいとすれば、「日本の残党が誅殺を逃れようとして扶桑にいく」という文脈において、「扶桑」は、中国から東の海の向こうの地域、ここでは日本列島をイメージしているといってよい。とすれば、「日本の残党が誅殺を逃れようとして扶桑にいく」とかかれていることから「日本」は「扶桑」ではなく、中国から観た同じ東方、つまり滅ぼされた「百済」を指していると考えるのが自然であろう】(「日本」と「扶桑」が同じところを意味して、文脈に奇妙さが生じる)(p194)
そのような解釈から、次の様に結論されます。【以上の諸点から、禰軍墓誌に見られる「日本」は倭の国号はもとより、倭に代わる名称とみなすことはできない。つまり、670年代には、まだ「日本」という国号が成立していなかったということを実証する資料と言うことになろう】と。(p198)
冨谷先生は禰軍墓誌の文章の中の対語と思われるところを拾い出すのに集中し、「日本余噍」を百済の残党というように持っています。これは、東野治之氏が岩波書店の月間『図書』にて、禰軍墓誌の「日本余噍」について、墓誌の文章の「対句」を検討し、扶桑は百済など半島内部の地域とされている説と同様に見えます。
しかし、それまでの中国史書には見えない、「扶桑」についての情報が記載されている、『梁書』は禰軍の生存時、つまり同時代の史書です。そこに記載されている「扶桑」を意識しない、墓誌作成者とは思われないのです
(注:この冨谷先生の「百済禰軍墓誌」についての見解は、切れ切れに引用していますが、興味ある方もいらっしゃるかとおもいますので、全文を参考資料として巻末に上げておきます。)
。
この「扶桑」についての冨谷氏の結論には、当時の中国人の「扶桑」の認識について基本的な誤りがあると指摘しなければならないでしょう。正史『梁書』は、姚思廉が父姚察の遺志をついで、629年に完成しています。中国の歴史書で「扶桑」について詳しく述べているのはこの『梁書』以外にはないと言ってよいのです。
当時の中国人の「扶桑」についての知識は『梁書』にある「扶桑」の記事から得たものと言っても過言ではないのです。百済弥軍が死亡したのは678年です。同時代に正史とされた史料なのです。墓誌作成者も当然「扶桑」のイメージは正史『梁書』から得たと思って間違いないでしょう。
「扶桑」は『梁書』がいうところの、倭国よりもっと東の倭種の住む地域で、仏教が伝わっていた地域、であれば、それはのちの『旧唐書』が伝を建てている「近畿地方」と見るのが論理的帰結でしょう。
『梁書』によれば、扶桑国は“大漢国の東、二万余里、中国の東方にある“(扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東)とあります。
『魏志』によれば、中國の版図の東端の帯方郡から邪馬壹国まで一万二千余里ですから、魏志の里(一里=80米弱)が扶桑国でも用いられていたのであれば、扶桑国は邪馬壹国から八千里(約640キロ弱)となります。博多~新大阪間の新幹線の距離程では622kmですから。扶桑国の位置は関西地方に一致するのですが?
冨谷氏はこの本の中で『梁書』の記事をいくつも引用・参照していますが、この「扶桑」に限って引用するのを避けているのは解せないのです。禰軍墓誌の文章の中の対語と思われるところを拾い出すのに集中し、日本の余噍を百済の残党というように持っていくなど、論語読みの論語知らず、を地で行っているような感じです。
◆おわりにあたって
冨谷先生は、「終わりにあたって」という文章で、この著書について振り返り、「倭国」という中国側の名付けた国名を「ヤマト」と和訓してきたことや、「大王」という中華帝国に従属する称号を嫌って「天皇」という称号にした、ということについて、いろいろとご自分の考えを述べられています。
しかし、「倭国=委国」でありその発音は「ゐ/い国」であった筈、という説については徹頭徹尾読者には知らせていず、邪馬台国の壹に「たい」と振り仮名して、「壹は臺の間違い」ということを言外に告げている、古田武彦批判の本なのです。
東京学派?の定説「奴国=な国」説を廃して「ど国」読みを呈示できたことが唯一の「京都学派」としての戦果かもしれません。しかし、その説の底の浅さも、素人中国学学徒?の反論、“和音の「ド/ト」に「奴」を使ってしまうと、和音の「ヌ」に当てる漢字がなくなる”という中学生にでもわかる筈の道理に再反論できるのでしょうか?
この本が、京都大学の「京都学派」の中国学が到達できた最高のレベルのもの、とは思いたくない、というのがこの5か月取り組んできた、素人中国学学徒の、ワークを終えての感想です。
今回のテーマ「天皇の称号と国号日本の起源」について、冨谷氏の大和王朝一元史観では真実にたどり着くことができないことがよく分かる本ではあります。今回の冨谷先生の論述には「古田武彦」は全く顔を見せていませんし、「邪馬壹国」は変なお面をかぶせられて描かれています。
「天皇の称号」「国号日本」の誕生を論じるのに、冨谷先生のように、三世紀の昔からヤマトが日本列島を一元的に支配していた、と信じるシナノロジストには解明不能であることが良くわかる本でした。「九州にも王朝が7世紀末まで存在した」というのは、冨谷先生にはとても信じたくない驚天動地の説でしょう。しかし、この『漢倭奴国王から日本国天皇』の論述を、故古田武彦氏の論述を参考にしつつ、常識と理性で丁寧に追ってきた結果、「九州王朝」の存在を前提にしないと解けない「漢倭奴国王から日本国天皇へ」の歴史だったのです。
古来日本国を一元的に統治していたのはヤマト朝廷であった、という信念によるこのような論述が、世の中に「京都学派」としての古代史叙述として、教科書の正しからざるところをただす、という形で出てきています。しかし、今回このセミナーで、小生がいくらわめきたてても冨谷先生は何の痛痒も感じないでしょう。
わたしたち、古田武彦先生が世の中に衝撃を与えた「臺でなく壹なのだ」が忘れ去られないように、世の中に、それこそ正しい我が国の歴史を広めるために、何らかの行動が必要と思われるのです。 現在でも、たくさんの古田先生がまいた種が全国に根付いています。
この種を立ち枯れさせないように、全国の志を同じくする人々が小異は置いて 大同するための中核組織が必要ではないか、と切に思われます。自説に固執することなく、邪馬壹国歴史学の確立を目指す組織が今こそ
望まれていると思います。このような似非正学による歪な歴史叙述に対して我々の意見を出版物やネットで広める力を付けなければならないと思います。
槍玉その66 冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』の批評 おわり トップに戻る