参考資料3

百済禰軍墓誌の「日本」についての解釈 冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』より

 原文(日本にかんする部分)

去顕慶五年、官軍平本蕃日、見機識変、杖剣知帰、似由余之出、如金テイ(石扁に旁は單)之入漢、聖上嘉嘆、擢以栄班、授右武衛滻川府折衝都尉、于時日本余噍、拠扶桑以逋誅、風谷遺甿、負盤桃而阻固、万騎亘野、与盖馬以驚塵、千艘横波、援原虵而縦沴 

読み下し文(冨谷至氏による)

去る顕慶五年(660)、官軍の本蕃を平らぐる日、機を見、変を識〈し〉り、剣を杖つきて帰せんことを知る。由余〈ゆうよ〉の出に似て、金テイ〈きんてい〉(石扁に旁は單)の入漢の如し。聖上は嘉〈よろこ〉び嘆じ、擢〈えら〉ぶに栄班を以し、右武衛滻川〈さんせん〉府折衝都尉を授く。時に日本の余噍〈よしょう〉、扶桑に拠りて以て誅を逋〈のが〉れ、風谷の遺甿〈いぼう〉は、盤桃〈ばんとう〉を負いて阻固〈そこ〉す。万騎、野に()〈め〉ぐり、盖馬〈がいば〉と以て塵を驚かし、千艘、波を横〈わた〉りて、原虵〈げんだ〉に援〈たよ〉りて沴〈わざわい〉を縦〈ほしいまま〉にす。 

「日本の余噍」の「日本」が倭国の新たな国号をさしているとの解釈がなされ、それに異を唱える説もだされ、今日まで続いている。確かに、墓誌には「日本」と明記されている。しかし、私は、以下の諸点から禰軍墓誌のこの「日本」を倭国の新しい国名とみることには同意できない。

 ①この部分の行文、用語は、典拠をともなう語句を対におく行文となっている。

 問題の「日本」と「風谷」は、また「日」と「風」の対語を含むのだが、「風谷」が国名はもとより地域名称とは考えられない以上、対になる「日本」を国名とみることは無理である。ただ、「風谷」は、高句麗を意識した五であり、それは高句麗が「山谷」に囲まれた地であるというのが当時の一般通念となっていたからとみてよい。

 一方の「日本」、これは、いうまでもなく「日出処」つまり東方をさしていることは明らかであろう。唯その場合、当方の倭国を意味しているかといえば、そうではない。「日本の余噍が扶桑に拠って誅をのがれる」という文脈において、「扶桑」は、中国から東の海の向こうの地域、ここでは日本列島をイメージしていると言ってよい。とすれば、「日本の残党が誅殺を逃れようとして扶桑にいく」と書かれていることから「日本」は「扶桑」ではなく、中国から観た同じ東方、つまり滅ぼされた「百済」を指していると考えるのが自然であろう。なお「扶桑」と対になる「盤桃」は東海にあるとされる桃の大木、転じて東方を指すが、ここで「盤桃」との二字が出てきたのは、ひとつには、「桑」の対語に「桃」をあてたこと、また「盤桃」という語が、隋煬帝の高句麗遠征の詔にも当方の絶域を意味する語として登場し、当方高句麗に縁〈ゆかり〉をもつ語だからではないだろうか。 

「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅、風谷遺甿、負盤桃而阻固」、それは「おりしも、日出の東方(日本)の残党(東方朝鮮半島の亡国百済の残党)は、海の向こう扶桑の地に逃れ、山谷後の遺民は、東北の盤桃の大木のもと、頑なに抵抗している」と私は解釈する。

②続く「万騎亘野、与盖馬以驚塵、千艘横波、援原虵而縦沴」も対語、対句であるが、野・騎馬 と海・舟が対置され、前者は東北高句麗の山野、後者は倭国を含む東の海、①の高句麗の遺甿と日本(百済)の余噍の抵抗を述べた内容である。「原虵〈げんだ〉に援〈たよ〉りて」の「原虵」こそ、倭国を指していると考えられる。我々は、かの「漢委奴国王」が蛇紐出会ったことを覚えている。

「原虵〈げんだ〉に援〈たよ〉りて沴〈わざわい〉を縦〈ほしいまま〉にす」の守護が「日本の余噍」であれば、この「日本」が「百済」を指すことは明らかである。

③「于時日本余噍」は、「去顕慶五年、官軍平本蕃日」、つまり百済の滅亡を受けて展開された文章である。「余噍」とは亡国の残党という意味であり、「日本余噍」は、そこから百済の残党であり、この個所で白村江で敗北した倭国の残党が唐突に記載されるのは、理解できない。(以下、「余噍」と『旧唐書』などに見える「百済余燼」の語と「日本余噍」との類似表現についての意見をのべているが略す)

④留意しておかなければならないことは、墓誌は中国に於て作成された、いわば中国側の史料ということである。墓誌作成が678年の禰軍の死亡前後、遅くとも702年より前であるとすれば、そして、ここにみえる「日本」が国名、否、正式国名でなくても倭を示す語であれば、「倭」に代わる「日本」という名称が中国側に定着していたことになる。とすれば、702年の遣唐使の国名変更の提言はどう考えるべきか、また『唐書』の倭と日本にかんする必ずしも明瞭でない「日本」の語は、八世紀になっても唐側の認識不足を巧くまずして表している。これらの事柄は、「日本」という国号が、遣唐使によりはじめて唐に伝えられ、その後、唐で定着するまでに時間を要したということを示唆していると考えられる。

 以上の諸点から、禰軍墓誌にみられる「日本」は倭の国号はもとより、倭に代わる名称と見なすことはできない。つまり、670年代には、まだ「日本」という国号が成立していなかったことを実証する資料ということになる。(同書192~198頁より)