『冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』疑問の数々02
【02 景初2年か3年か】
【レジュメ】
『魏志』に卑弥呼の遣使は景初二年とあるが、冨谷氏は、これは三年の間違いとされている。その原因は「伝写の誤り」とされている。それは、当時、史書を写本するのに草書体が正字とされていたため、書写されるときに間違いが生じやすかった、とされている。
しかし、「二」と「三」が草書体で似通っているから間違えやすい、ということと、その間違い易い「草書体」が公文書の「正字」になったということには、論理的に矛盾している。
冨谷氏も無理押しと思ったのか、内藤湖南他の主張する、遼東の戦火が収まった後、という説に収めている。冨谷氏は別の論考“京大人文研漢籍セミナーシリーズ『漢籍は面白い』「錯誤と漢籍」冨谷至”では「臺」と「壹」についても同様な講釈をされている。
【本論】【02 景初2年か3年か】
(注)文章の朱字部分は冨谷先生の叙述部分です。
◆伝写の過程での誤りとの主張
冨谷先生は、史書間の漢字が違う問題について、「伝写の過程で生じたあやまり」とされます。その「伝写の過程での誤り」は、当時の史書が「草書体」で筆写されていたからではないか、と驚くべき仮説を述べられます。その傍証として「三」と「二」の草書体の「三」と「二」を並べて見せて、このように間違い易い字でしょう、と次のように言われます。
【おそらく写本を何度か伝写して版本に至るまでに、草書で書かれていた「三」を「二」と誤って判読したことに起因するのであろう】と。(p52)
このように、冨谷先生は『魏志』の倭人伝にある景初二年は三年の誤りではないか、という問題や、『日本書紀』に、魏に使いした使者の名前が、倭人伝には「難升米」とあるのが「難斗米」になっていることを上げられています。(p53)また、『宋書』の倭王珎が『梁書』には倭王弥とあるのも伝書の過程での誤りとされます。(p67)
その「草書で書かれた二と三」のコピーを示しますが、「二」と「三」ではそれほど間違いやすいとは思われないのですが、冨谷先生は間違えやすい字だとされます。
この冨谷説の根幹にある「唐朝では正字体は草書であった」という主張を理解しないととても受け入れられないかと思います。
冨谷先生はこの本とは別の論考でも、『魏志』で「臺」が「壹」と記載されていることに対して「伝写の誤り」とされているのです。脇道に入りますが、このところを理解してもらわないと、この冨谷先生の主張が理解できないと思いますので。(理解していただけるとも思わないのですけれども)以下、“京大人文研漢籍セミナーシリーズ「漢籍は面白い」冨谷至” より引用します。
【唐朝の場合、秘書省に百名近くの写書生などを抱えていた。特に太宗は能筆家として知られ、王義之に私淑しその能筆振りは際立っていた。正式な書体「楷書」の意味は正字体、つまり美麗な草書体が採用されたのである。これによって、「臺」と「壹」が写し間違えられたのである】と述べられますが、同時に、その時代の唐朝での文書管理についても詳しく次の様に述べられているのです。
【中国では歴代、国家の転籍を管理し、また補修、訂正、書写するための機関としては、秘書監、秘書省といった官署があった。後漢の桓帝の時に秘書監がおかれ、宮中の図書・秘記を所轄することを職務とし、以後、魏晋南北朝にも引き継がれ、図書の増加と共に、機関の規模も大きくなった。
唐代になると、秘書省には、秘書監、秘書少監、秘書丞、秘書郎といった官があった。そして秘書郎の属官として、校書郎八人、正字四人、楷書手八十人などが配置され、特に楷書手は筆写を職務としたのであり、他の役人の数とは、一桁違う人数もそれなりに理解できよう。そして、こういった伝写、書写事業は、各王朝で引き継いで行われてきた。一説には、漢代には、七度、魏晋には六度、南北朝には十数回、唐代には四度、書物の校定が記録の上から確認されるという】と書物の筆者校訂作業が厳しかったことも述べられたうえで、それでも伝写の回数が増えるごとに誤写が起きた、と次の様に主張されています。
【『後漢書』『三国志』とも編纂されて版本に至るまで六,七百年間の写本の時代があり、その間幾度となく伝写されていて、その間に誤りが起きなかったと何故言えるのか?
つまり著者の誤りでなく、写字生の誤写ということ。誤りは機会が増えるごとに起る確率が高いということならば、むしろ何度か行われた伝写が原因だ、とみる方が自然なのではないだろうか】と。
このような説明を受けて、なぜ草書という間違えやすい書体が「正字」となったのか、と言うことについて、唐の太宗が能書家であったことに原因がある、と詳しく述べられます。
小生は、この冨谷至先生の論『漢籍と錯誤』に多くの疑問があることについて、「新しい歴史教科書(古代史)研究会」のホームページに詳しく紹介し、問題点について批評していますのでそちらを参照ください。
ともかく、「二」と「三」が草書体で似通っていて間違いやすい、ということと、その間違い易い「草書体」が公文書の「正字」となった、と言うところには論理の飛躍がありすぎます。
ちょっと考えてみても、そんな馬鹿な、国の文書管理の基準書体が「草書」など誰しも予想も想像もできない、ということになるでしょう。おまえには加増三百戸、と草書で書かれた詔書をいただいて喜んだら二百戸だったと、がっかりしたとか、借用書の二百文が三百文と誤読され、トラブルになるなど、すぐ思いつくトラブルの数々です。ありえな~い仮説ではないでしょうか。
やはり間違えにくい書体、後世「楷書体」として残されている書体に近い書体が「正字」として選ばれていた、というのが理性的判断でしょう。
冨谷先生が主張するように、唐の太宗の最盛期にそのような無理が通る時期があったとしたら、何らかの形で後世にその痕跡が、寓話や伝説、歴史遺物の木簡や佚文に残っていてもおかしくないと思います。しかし、冨谷先生は何も具体的証拠は示すことができていません。
結局は、それでの無理押しは無理と思われたのか、この景初二年か三年かの件は、内藤湖南はじめ通説の元になっている、公孫淵の死後、遼東の戦火が収まった景初三年に卑弥呼が遣使した、ということに、次のように落着させています。
【景初二年に公孫氏はほろんだ。翌三年にかけて魏は襄平に東夷校尉をおき、楽浪、帯方など朝鮮半島の北半分からから遼東一帯が完全に魏の支配下に帰した。魏の侵攻に対して危機感を抱いた倭の女王卑弥呼は、魏への朝貢の使節を派遣した。公孫淵滅亡の一年後、景初三年六月のことであった。以上の経緯がもっとも自然ではないのだろうか】と。(p53)
◆卑弥呼の情報収集が何故時宜を得ていたのか、という冨谷先生の疑問
冨谷先生は、景初二年にせよ三年にせよ、それにしても早い、どうしてそのように早く正確な情報を取り入れることができたのか、それが不思議だ、という方向に話を向けます。
【それにしても、私が気になるのは、邪馬台国はどのようにして中国大陸の政情にかんする情報をえていたのか、ということである。その行動は、行き当たりばったりはなく、魏の勢力について正確に分析した結果の行動であったと思える。それは何処から、また誰から情報を得ていたのか。朝鮮半島の居住者、集団からと考えることは容易であるが、推測を検証する術〈すべ〉は見つからない】と。(p53)
これは冨谷先生の根本的な歴史観に基づいたらその答えを見つけることが難しいと思われます。冨谷先生は、『魏志』倭人伝の記事をそのまま受け取らず、何かフィルターを掛けて読まれているからそのような疑問が生じるのでしょう。
この本にはなぜか倭人国の一つとして書かれている「狗邪韓国」について一言も触れていないのです。まるで存在していない国を陳寿が書き込んだ、と言いたいような扱いぶりです。
これは「任那」についても同様です。『宋書』によれば、歴代の倭の五王が宋朝に対し朝鮮半島諸国など六国の軍事支配権を要求しているのですが、そこに「任那」が入っていることを当然知りながら、任那と日本との関係も含め全くと言ってよいほど無視されているのです。
そのような視点から、邪馬壹国がどのように大陸の情報を得ていたか、冨谷先生が分からないのは当然でしょう。公孫氏が勝利すれば、馬韓を挟んでですが、公孫氏と近距離で相対することになるのですから、情報収集に必死になっていたのは、倭人の国「狗邪韓国」であったことは間違いないことでしょう。単純なことです。
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