(九) 鏡王の死と日本(ひのもと)の敗戦
禍福はあざなえる縄のごとし(注901)、と言いますが、なぜか私には「禍」が巡って来るのが早いようです。
一年の誕生祝も待たずに、あの愛くるしい明日香姫は、高熱を出す流行病に冒されて一晩経った夜明けに物言わぬ人形になりました。母上から、お亡くなりなる前に授かった秘儀を、伝える当もなくなりました。そのことは、むしろ肩の荷が下りた、という面もありましたけれど。
しかし、それにもましての悲しみがやってきました。とうとうお父上との別れの日がやってきたのです。もう何年も前から、病み衰えが目立っていましたので覚悟はできていたつもりでしたが、いざとなると心が潰れる思いでした。
与射女房どのからお使いの知らせがあり、取るものもとりあえず、お屋敷に伺いました。鎌足どのはじめ、あの宇佐岐もおとむらいの準備に忙しく立ち働いていました。
お父上は取りあえずの白木の棺に納められていました。お顔を見るなり涙がこみ上げて、棺に取りすがって崩れてしまいました。
この数日お書き物に専念されていて、お体に障ると心配していましたら、それが現実になってしまった、との与射どのの話でした。ご遺言では、是非共に火葬ではなく、かねて宇佐岐が準備してくれた室屋(注902)に納めていただきたい。これは、寶女王にも以前からお願いしていて了解いただいている、とも書かれていました。
鎌足どのが、「そなた宛てのもの」と、仰って、布で包んだ細長い包みを渡して下さいました。包みには白木の板に、ただ一つの和歌が書かれているだけでした。
な泣きそ あが墓なれど 吾はおらず
千の風となり 吹き渡りおり (注903)
宇佐岐も、今では仏師として名が知られるようになり、立派な名も中大兄皇子から頂いているようですが、私にはあの昔の、貝に絵を描いてくれた、私をみる時には、今でも眩しそうに目を細くするあのウサギです。
私があまりにも悲しんでいるので、宇佐岐が心配したのでしょう、お墓の造作用の加耶山の木で仏像を一つ彫ってくれました。お父上にあまりにも生き写しなので、またまた泣き崩れてしまいましたが、それから毎朝毎夕手を合わせるのが日課となりました。
しかし、泣いてばかりもいられません。その間に世の中は、父上が生きていらしたらどのように言われるか、想像もできない世の中に変わっていました。
その中で鎌足どのは、亡き父上の話の通りに中大兄皇子と一緒に、この日本の将来のことに動いていらっしゃいます。そんなにお忙しいのに、と言いますと、忙しいからそなたといる時間が貴いものに思える、と仰って、鎌足どのは以前にもまして、優しくして下さいます。
ただ以前とはちがって、鎌足どのも筑紫など遠国にご自身で出かけられることは少なくなりました。私のことをご心配なのでしょう、中大兄皇子から勧められましても、室にお人を入れられることなく、過ごしていらっしゃいます。
もう授からないと諦めていましたのに、恥ずかしながら三十五にもなって鎌足どのとの間の新しい命が授かり、三度この子のために、という生活が始まってもいました。名前は生前の父上が、次の子供には、と名前をつけて遺してくださっていた「史人」(注905)になりました。
都雀の戯れ言、「今固いもの、糸魚(注906)の翡翠か鎌足殿か」 などが今流行っているとか、めっきり歳をとった多賀が教えてくれました。その多賀も、やはり故里の鏡のお山を見たい、故里の言葉を聞きたい、と暇をとりたいと申し出がありました。明日香の骨壷も、母上のお墓に入れていただくようお願いし、久慈良が、ご用で筑紫に上られるのに同行して別れとなりました。
ある日、鎌足どのが、「しばらく家に帰らぬ、留守を頼む」
「三月ほどもかかるのでしょうか?」「おそらくそれでは済むまい」
「半年ほども?」「それで片付けばよいが」、と出かけられました。
何故なのかその時には分かりませんでしたが、宇佐岐もお連れになられました。以前でしたら、多賀が都雀の噂話を集めてきてくれたのでしょうが、今ではほとんど噂話も届いて来ません。それでも下女が、寶女王様がお亡くなりになったということを聴きこんできました。
彼女の言うことはあやふやでしたが、花子が、ちゃんと多賀の穴埋めをしてくれました。渡来人は、彼らなりの連絡網があるようです。それによりますと、おおよそ次のような、びっくりするようなことばかりでした。
寶女王さまは、その昔の息長姫御子の新羅征伐に自分をなぞらえて、幸山大君様と一緒にいざ出陣、というところでの食中りでの急死だった。
銀杏の実の食べ過ぎ、と言われているが、元来、寶女王様は、イテフの実が好物でよくお食べになっていた。今回、特に食べ過ぎ、ということでの食中りとは解せぬ、という向きもおられるとか。
それに輪をかけたような、モロコシのチン毒(注907)をイテフに塗って食べさせた、毒見役は逃散(注908)した、などという噂もある。中大兄皇子が、丁度筑紫に滞在中であったので、その後の処も幸山大君とすんなりまとまったとのこと。
その後の処置というのは、「うがや一統の大王が亡くなったので、配下が喪に服す諒闇(注909)の間は兵を動かせない。取りあえず、兵を摂津に引き、喪が明け次第参戦したい」と中大兄が申し入れ、幸山大君も、「それまでは何としても持ちこたえる。陸だけでなくこのたびは、松浦・河野・雑賀(注910)の水軍の軍船四百艘も参戦する。なあに、手柄は全てこちらで頂ける、というので、毛野王・松浦王・日隈王などかえって喜んでいるありさまゆえ、孝を尽くされよ」と、いうことだったそうです。
鎌足どのは、戦いで捕らえ、筑紫に送って寄越された敵方の将兵から、先方の事情などの聴き取りでお忙しい、ということも伝わってきました。
海の向こうにお出かけになっていらっしゃらない、ということをお聞きしてホッとしました。つい、一貴様のことを思い出し、おまけにモロコシにいる定恵の顔を、思い出の中に探している自分に気付き、鎌足どのに申し訳なく思いました。
宇佐岐も筑紫へ出かけているし、コジャも私たちのところに来てもらい、史人の面倒を見てもらうことにしました。史人がコジャになつき、コジャの姿が見えないと、コジャコジャと探すので妬ましくさえ思えます。
コジャが言うには、「フヒト様はジョエ様同様に賢くて、私の故郷のことや、故郷の言葉を聞きたがります。それに覚えも早いのには驚きます」とのことです。私がいくら三十一文字を教え込んでも、右の耳から左へと抜けていくのですから不思議なことです。
そういえば、私もお母様が教えて下さろうとされた、易占のことを教わるのが、嫌でたまらなかったことがあったなあ、と思い出し、この相性というものには逆らえないものということを知らされました。
しかし、考えて見ますと、私自身が和歌の道の儚さに、自分の子とはいえ、他人に教える気持ちが薄れていってしまっている、ということにも原因があったのでしょう。
父上の次に、私に和歌の道を導いてくださった、額田女房どのの無残(注911)な末路の話も、それに輪をかけたのです。
これも、コッジャが噂を集めてきました。
百済の義慈王様の熊津(注912)城が新羅兵に破られたときに、沢山の百済の官女が、新羅兵に凌辱(注913)されるよりもと、城裏の錦江(注914)へ跳んだそうです。
この話は前に少しお話ししましたね。その先頭には額田女房ではないか、と思われる日本人の女が立って
「義慈王様万歳」と叫んで跳んだそうです。
新羅の軍兵は、官女たちが自分たちのものにならなかったのに腹をたて、老若男女を問わず、殺戮(注915)の限りを尽くしたそうです。
その官女達が身を投げた岩頭を、新羅兵たちは、「落花岩(注916)」と名付けたそうです。
おそらく、新羅への恨みは、根深く国土の血となって、百済の人々には、癒されることは後世までないのではないでしょうか。花子の知り合いも随分と亡くなったそうです。話を伝えながら、目を真っ赤にしていました。
そういう噂は額田王のところにも届いたようです。彼女は、それから物言わぬ女と化したそうです。大海人皇子も筑紫に行きっきりで、向こうに屋敷を構えられているとか。今では、話相手もない様子です。
しかし、私が使いをやっても、使いに返事もくれなくなりました。大海人皇子の留守屋形を守る執事の話では、部屋の片隅に一日中こもりっきりの過ごし方になったそうです。それから十日ほど経って、執事が勧める粥もすすられず、丸で幽鬼のようになられ皆が心配していましたが、夜、誰も知らぬままに消え失せられた、とのことです。
あとに和歌が一首残されていたそうです。あの飛鳥で一番の和歌詠み人が、どなたにも判読できない歌を残されました。可愛い私の妹の心が、その和歌のように、もう読み取ることが出来なくなっていること、別の世界に跳んでいることを知らされました。その和歌は、
莫囂圓隣之 大相七兄爪湯気 吾瀬子之
射立為兼 五可新何本 (注917)
というものでした。
誇りも自尊心(注918)も高かった、ぬか姫でした。彼女が、今の世の中には判ってもらえない歌を残したこと自体が、彼女の気持なのでしょう。
(終章へつづく) (トップページに戻る)