終章 国破れて
鎌足どのが一年ぶりに山城の屋敷にご帰還になられました。お願いして、どんなことになっているのか、お話をお聞きしました。
・「新羅との戦に大負けしたこと。
・新羅兵たちも唐軍の応援を得て、それまでにない戦術で来た。
・州柔(注1001)城は、一日も保たなかった。
・車で動きまわる大きな弩を、次から次へと打ちこまれ、火をかけられ、為すすべもなし。
・野戦になったら、今までにないほどの騎馬武者が出てきた。そうと知っていれば、野に出ず山に籠って戦うべきだったのであろうが。
この野戦で、幸山大君も毛野大王も共に失った。わが軍は指揮官がなく、海岸には日本水軍が来ている筈なので海岸に向かって転進(注1002)したのじゃが・・」
一息入れられて、「その、白村江の海戦でも結果は同じだった。四百艘のわれらの軍船も、唐の軍船十艘にかかってやられてしまった。
唐の軍船は大きさも倍以上、船べりには、あかがね(注1003)を貼り、機械仕掛けの弩の火矢で、われらの矢が届く前に皆やられてしまった。本当に、歯も矢も立たずということだ。一貴皇子がご健在であったら、先方の機械仕掛けの弩への対も出来たことであろうが。勇気だけで勝てる、という信念だけでは戦は勝てぬ、ということよ」と、珍しくやや自嘲的におっしゃいました。
「鏡の殿さまが御存命だったら、何と仰るやら、この敗戦はとっくに見こされていたのであろう。しかし、繰り言を言ってもどうにもならぬ。次の手を打たなければ、唐と新羅がやってくる。またしばらく忙しくなる。史人を頼む。唐や新羅と対等にこの国を造るには、新しい人が必要だ。古いしきたりは、筑紫とともに滅びるのは止むを得まい。冷たいと世人は言うかもしれぬが」
私は何にも言えませんでした。ただ「兄の玉島王は無事に筑紫に帰りつけた」、というのを聞いたことがただ一つの救いでした。
もう一人の兄久利王と、一緒に渡海した宮姫は新羅軍に捕まった、ということまでは聞こえてきたそうです。恐らくは、と、後の二人の運命の推測をあえて喋ろうという者はいなかったそうです。
私たちは何を悪いことをしたのではないのに、百済の多くの官女たちと同じ運命をたどるのでしょうか。
もう額田女房どのも、そしておそらく、ぬか姫も、その先触れであの世に行ってしまって。
あの堂々として、「心配するな、吾は神なり、神は不敗なり」、と仰った幸山大君。義に殉じるのは満矛大君さまのご遺訓じゃ、と高らかに宣言された幸山大君。
一貴様、毛野様、久利王、宮姫、コットイ、アバケ、久慈良、などなど、沢々山々の屍を、海や野にばらまいてしまう結果となりました。
もし、幸山大君が、お帰りになられることがあったら、地の神さま、先祖の神々に、どのように報告されるのでしょうか。
定恵が遣唐使船で出て行き、干支も一回りして顔も思い出しにくくなったころ、このたびのモロコシとの戦の、後始末の軍使の通詞も兼ねて、帰国してきました。びっくりして喜んだのも束の間(注1004)、定恵の驚くべき話で私の頭は半狂乱になりました。
定恵が絶対に他言してくださいますな、と念を押しての話でした。このお話だけで一夜過ぎてしまうかもしれません。
次のが、定恵が語ってくれた話です。
唐の都から離れた静安寺(注1005)というところに、日本僧たちが修業の一環として訪れた時のことです。
そこに一人の日本人が居るということでした。しかもその日本人は僧でなく、奴隷だ、とのことです。その日本人が私たち日本僧が来ることを知り、近年、腎の臓が悪くなり、どうも長くは保たないだろう、今生(注1006)の願いで、是非彼らに会って故郷の話を聞きたい、と寺の和尚に願ったそうです。
奴隷とはいえ真面目に勤めているので、逃げる算段(注1007)をせぬようよく言い聞かせ、自分の身の上話は絶対にせぬ、と誓って、その上で唐僧と一緒ならば、それも一夜のみであれれば、とお許しがあったそうです。
庫裡(注1008)の囲炉裏を囲み、その奴隷から問われるままに、吉備国人、摂津国人、讃岐国人などが故郷の話をして、定恵が飛鳥の話をしたら、一段とその奴隷の目が光を増したようでした。
その奴隷は、身なりは奴ですが、身綺麗で、言葉は、母と同じ筑紫訛りがあるようです。
横の吉備人が、「この若僧は、中大兄皇子のお声掛かりで特に参加した」、などと云いますと、「母御はさぞ心配されているだろう、名は何と仰るのかな」、と何気ない調子で聞くともなく言いますので、「安児といいますが」、と答えると、一呼吸置いて、「ここのお寺は行路安全にご利益がある。今宵の出会いを縁として、今後の皆様の行路安全をお祈りすることにしよう。ところでお若い方はおいくつになられるのかな」。
答えますと、「ふーむ、その若さで大変だろうが修業なされよ」と言います。
このような話を、会話の間中、一語一語唐語に直して唐僧が肯いてから、次の話へと、まだるっこしい時間のかかる会談でした。
唐僧はどうも日本語も分かるらしいのですが、日本語だけの話にはしてくれません。
しかし、その日本人奴隷が去る時に一つのお守りを出して、定恵に、
「この守り札は故郷を出るときに、無事と戦勝を祈願して頂いたのだけれど、武運つたなく・・・。しかし、半分の願いは聞いていただいたわけだ。国に帰った時に、もしこの社に寄れることがあったら、お礼にこのお守り札をお宮に納めて頂きたい」
「しかし、お名前を伺わなければ・・」と言いかけると、付き添ってきた日本語がわからぬ筈の唐僧が、「もうそれまで」と引き立てようとします。
「お願いだ。讃岐の此世去」の社へ、とお願いいたすだけだ」と、その日本奴隷が唐僧に申し入れました。
「なんだ、その讃岐の此世去の社というのは?」
「小さな鎮守の祠です。讃岐の此世去とこの様に書きます」
その唐人が、そのお守り札を、試し、眺めて、検査して、不審なものではない、と見てお札を投げ渡すと、「これまで!」、と引き立てていきました。
帰りの航路は海が荒れました。一生懸命お守りを握って天地神仏へお願いをしましたら、やっと収まりました。汗や波で、預かったお守りもすっかり痛んでしまいました。
お守りの紐が、湿ったためか緩んでいます。紐と見えたのは、堅く捩じった紙縒りを編んで作ってあったのが分かりました。
ふと、日本奴隷が「讃岐の此世去の社へ」という不思議な社の名を言ったのが心の片隅に残っていました。
コヨリが現れて、はっと気付きました。
サ抜きのコヨサリ、つまり、コヨリと云っていたのではないか、ドキドキしてきました。
人目を避けて、少しずつコヨリの紐を解いていきました。赤黒い色をした、「武運長久安児」の六文字が見えてきました。思いもかけない母親の名を見つけ、動転してしまいました。人には言ってはいけないことだ、とは本能的に分かりました。
一貴皇太子が十年以上前に、カラで戦死した話は聞いていましたが、まさか、と結びつけることが出来ず、帰国して早速、山城の母のところに訪ねて行きました。
以上が、定恵が母上だけに伝えたい、といって話してくれたものです。
最初は、こちらの気も動転(注1009)しましたが、頭の鋭い定恵の追及に、本当の父親をこの子も知るべきか、と思ったのが後で思うと、取り返しのつかない、一生の不覚(注1010)でした。父上が存命でしたら、別の解決の策もあったことでしょうが。
定恵は何も言わず、黙り込み、都へと帰っていきました。
中大兄皇子のところで、劉徳高(注1011)という唐国の代表が談判をすることになり、帰朝報告と通詞(注1012)を兼ねて、定恵は御所に出かけて行きました。
このたびの戦争の結果について、筑紫ですでに、大海人皇子と鎌足との間でほぼ決まっていたのですが、近江で最終の詰めの話だったそうです。
・筑紫の天一統の国は潰す。しかし
・それでは無用の混乱が起きる。
・混乱を静めるために、形としては日本を大和に禅譲(注1013)させる。そのために、
・幸山大君をいったん帰国させる。
・後は、中大兄皇子が指揮をとる。
・これらのことがうまく運ぶように、唐軍も筑紫の吉野の海域(注1014)に拠点を設け監視する。 ということでした。
公式の話が終わって、中大兄皇子が「ご苦労だった、褒美をとらせよう、何か望みのものはあるかな?」
そこで定恵が申し出たのは、還俗(注1015)でした。「理由は?」、と問われても無言だったそうです。とりあえず三日後にくるように、と帰されたそうです。その後、蘇我太夫を呼ばれたそうですが、定恵とかかわりがあったかどうかは確かではありません。
出かけるところで不吉な予感がして、日をあらためたら、と言いました。しかし、新しい門出だ、捨てる過去が不吉なのでしょう、と出て行きました。結局物言えぬ姿で帰ってきました。
コッジャが話を集めたのでは、宇治川の畔で、人出がかなり多かったのに、旅姿の二人組が「百済のうらみ」といっていきなり切りかかってきたそうです。
二人は、死を確かめ、懐中物をみな持って素早く逃げたそうです。警固番所から来て調べても、なぜ斬りかかったのか、なぜ百済の恨みと言ったのか、百済人とは見えない風体(注1016)だった、ということでした。
筑紫に知らせを中大兄皇子が出してくれましたが、急を聞いても、すぐには鎌足どのも帰って来られず、ひと月ほど後に戻って、早速、中大兄皇子のところにお出かけになりました。
「警固が行き届かず、申し訳なかった」と、頭を下げることのお嫌いな中大兄皇子が頭を下げられたそうです。また、この償いはきっとする、と仰って、早速まだ年端もいかぬ史人に、位階と名を賜ったそうです。名は他に比べるものなし、不比等と名付けて下さった、ということです。
もう私の涙は涸れ果ててしまいました。母上の形見の鏡は父上のもとで眠っています。宇佐岐に頼んで持ってきてもらいました。本当のことを知りたくて、母上に教わった易占の法を行い、次いで、正邪の法を一心に行いました。
おぼろげながら、定恵が因果応報(注1017)といいながら慰めてくれているようで、眠りこんでしまい、不比等が心配して見にきて起こしてくれました。
宇佐岐は、仕事の合間に一貴さまと定恵の二人一体の像を彫ってくれています。その像は、それと分からないように仏像の顔にしているとか。中大兄皇子は宇佐岐の作事場にお見えになった時に、いずれ私のも頼む、と笑って仰られたそうです。
それにしても、和歌の世界とは随分かけ違った世の中になりました。私たちが和歌を詠む世界ではないようです。
おまけになんと鎌足どのも、あの世に召されてしまうのです。中大兄皇子が正式に天皇位に就くことを唐が認めてくれ、天智天皇(注1018)の即位式もありました。官位などもその折に改めて定められました。
不比等様は中大兄皇子のお言葉がなくても、当然大臣になった、と宇佐岐はいいますが、十代で大臣にお取立てになりました。 それを見て安心されたかのように、鎌足どのが筑紫の出先でお亡くなりになりました。モガリ(注1019)も火葬も済ませて骨壷に入ってのご帰還でした。不比等に天智天皇から、「母安児どのに伝えるように」と、次のようなお話があったそうです。
鎌足殿は、筑紫の地で病を得られて、天智天皇がお見舞いに行ったときには、まだシッカリとされていたそうです。その時に、次のような思いがけない話をされたそうです。
幸山大君が出征される前に、中大兄皇子を呼ばれたそうです。後の政事の手配りのことでお話があり、鎌足どののことにも及んだそうです。
幸山大君は、「鎌足のことじゃが、蹴鞠の褒美になんなりと望みの物を申せ、と言って、その答えが気に食わなくて、あのような、大和に追いやる仕儀になった。
「しかし、あれは己が間違っていた。
「ただ、一度出てしまった言葉はもう戻せない。
「その後の動きをみても、鎌足の言うことには理があった。
「しかし、それを認めるわけにはいかない、こちらには太古からの百済との義があった。
「以前、世の中がまだこれほどがさついていない折に定めた、冠位があったな。あれから鏡王に随分と苦労かけ、大和と筑紫を取り持ってくれた。鏡王に、大織冠(注1020)をせめて渡そうと思ったが、鏡王は断りおった。実のところは、この働きは鎌こそが褒められるべき、とな。それで、わしが海を渡る前に、この冠位を、おぬし中大兄どのに預ける。もし、己に何かあれば、己の代わりに鎌足に授けてやって欲しい」 ということでした。
鎌足どのは、その話を聞かれて、「鏡王どのこそ頂くべきでしたのに。このことは、是非、妻、安児に伝えてくだされよ」と、仰られて、にっこり笑われて往生(注1021)されたそうです。
その間に、幸山大王が唐軍と一緒に帰国された、という話が伝わってきました。そのせいで、荒れていた筑紫の地にも平穏が戻ってきて、さすが天のご一統のご威光はたいしたものだ、という世評だそうです。
最近は、大伴様が仰るように、柿本人麻呂様みたいな心のしっかりした方でないと、今の世には和歌を詠むのは無理の様です。三十一文字の道を人に教えたことなど、今になって考えると、おこがましく、恥ずかしくさえ感じます。しかも、私の心のなかにはもう和歌を詠もうという気持ちは、これっぽっちも湧いてまいりません。
今の世の中は、歌詠みが出来る世の中でしょうか。それでしたら、結構な世の中だと思いますが。
今は、すべて不比等が取り仕切り、私は仏間で宇佐岐が彫ってくれた、父上と鎌足どのと定恵の三体の木像を拝みながらの毎日になりました。
世の人は、鏡王女も気が狂われた、と言っているそうです。そうでないことを知っているのは、コッジャとわが子不比等の二人です。木像の前で香を焚き一心に祈っていると、知らない人は思うでしょうが、木像の前に置かれた白龍の鏡のことを知っているのは不比等だけです。
これからの日本をどうするのか、大海人と中大兄とのはざまにいて、不比等が悩む相談に私が乗っていた、など正気の沙汰(注1022)の話とは思われないことでしょうね。でも、年端もいかぬ不比等が、よく日本の舵取りができたことよ、と後の世の人は不思議に思われたことだろうとは思いますが。
「随分と長々お話をしてきたとお思いでしょうが、ご心配されなくても結構ですよ。邯鄲の枕(注1023)のお話はご存じ?ご存知ならば、お教えしますが、あの術も息長の秘術なのですよ。この母上の方術のお陰で、命日にこのような所縁の地をあちこちと巡らせてもらえています。
この鎮懐石のお社であなた様をお見かけしたのも何かのご縁でしょう。幼いころの思い出話につい耽ってしまって、どうやら時が過ぎてしまったようです。思いもよらず長生きをしてしまい、世の中の辛い話ばかりを背負ってしまったような気がします。まだ沢山お話したいことも残っています。又お会いできお話を聞いていただけたら嬉しゅうございます。
ああ、あなたさまのお連れがお見えになったようです、ちゃんとお聞き下さって ありがとう。歌を忘れた金糸鳥でしたが、お話したお陰で、少しは気持ちも晴れました。
もうすっかり、耄碌というのでしょうか、気持ちも子供に帰ってしまっています。昔と同じように、指を折って数えるような歌になってしまいましたが、最後に一首・・」
志しを果たさで いかに帰れなむ
ものみな清き あの故里へ (注1024)
会社を定年退職し、わが奥様の求めに応じて運転手役を務める傍ら、古代史の謎ときに時間を潰す日々を送っています。
今回のお話は、初夏のある穏やかな日の出来事を纏めたものです。わが奥様と一緒に、福岡の糸島半島方面の産地直売店に野菜や魚を求めに行き、わが奥様がお店で買い物をしている間に、近くの小さなお社で、ついまどろんだ時の、夢うつつのなかで現れた上品な老女が話してくれた、お話の記憶を思い出して綴ったものです。
ほんの十分間くらいの時間の中でよくもこんなに沢山の話を聞けたものだ、と我ながら不思議に思います。その社は、神功皇后ゆかりの鎮懐石神社(左の写真)と案内板ありました。
家内が「なにをぶつぶつ言ってらっしゃるの? 良い夢でも見れましたか? もう日が落ちますよ、帰りましょう」と、揺り起こしたりしてくれなければ、後のお話も聞けたでしょうに、と残念でした。
折角聞いた珍しいお話ですので、孫たちに話して聞かせました。画学生の孫が、「絵物語にして皆さんにご披露したらどう、習作として挿絵を協力するよ」と、言ってくれます。ご披露出来る機会があれば、今生一番の喜びとなることでしょう。
ひょっとしたら、続きの話を聞けるかもしれないと、鏡王女の来年の命日には、是非鎮懐石神社にお参りに行ってみたいと思っています。
(写真 鎮懐石神社 筆者写す)
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